唯一無二の神自身 7

神の権威、神の義なる性質、および神の聖さの概論

祈りを捧げ終わったとき、あなたがたは神の前で心の静寂を感じますか。(感じます。)心を静められるとき、人は神の言葉を聞いて理解し、真理を聞いて理解することができます。心を静められず、心が絶えずさまよっていたり、いつも他のことを考えていたりすれば、集会に出て神の言葉を聞く際、あなたに影響を与えます。私たちが話し合ってきた物事の中で、その核心にあるものは何ですか。主要な点をみんなで少し振り返りましょう。唯一無二の神自身を知ることについて、最初に議論したのは神の権威でした。二回目に議論したのは神の義なる性質、そして三回目は神の聖さについて議論しました。それぞれの回で議論した具体的な内容は、あなたがたに印象を残しましたか。初回の「神の権威」では、何がもっとも印象に残りましたか。どの部分からもっとも強い影響を受けましたか。(神はまず、自身の御言葉の権威と力をお伝えになりました。神は言行一致していらっしゃり、神の御言葉は実現されます。それが神に固有の本質です。)(神はサタンに、ヨブを試みてもよいが命は奪ってはならないと命じられました。このことから神の御言葉の権威が見て取れます。)それ以外に付け加えることはありますか。(神は御言葉を用いて天地を造り、その中に万物を造り、御言葉を語って人間との契約を立て、人間に祝福を与えられました。それらはすべて神の御言葉がもつ権威の実例です。それに、主イエスがラザロに墓から出るよう命じられたこともわかりました。それは、生と死が神の支配下にあること、サタンには生死を支配する力がないこと、そして神の働きが肉においてなされようと、霊においてなされようと、神の権威は神特有のものであることを示しています。)これが、あなたがたがこの交わりを聞いて得た認識なのですね。神の権威について言えば、あなたがたは「権威」という語をどのように理解していますか。神の権威の範囲内で、人は神の業、神があらわす事柄の何がわかりますか。(神の全能性と知恵がわかります。)(神の権威が常に存在し、それが実在するものであることがわかります。巨視的には神が万物を支配なさることの中に、微視的には神が各人の人生を司っていらっしゃることの中に、神の権威が見て取れます。神は人生の6つの節目を実際に計画し、支配なさっています。さらに、神の権威は唯一無二の神自身をあらわし、被造物やそれ以外の存在にはそれがないことがわかります。神の権威は、神の身分の象徴です。)「神の地位と身分の象徴」というあなたがたの理解は、いささか教条的なように思えます。あなたがたは神の権威について本質的な理解をしていますか。(私たちが幼いころから、神は私たちを見守っておられます。そのことから神の権威がわかります。私たちは自分を待ち受ける危険に気づいていませんでしたが、神はその背後でいつも私たちを守ってくださいました。これも神の権威です。)素晴らしい。よく言ってくれました。

神の権威について話すとき、話の中心、話の要点は何ですか。なぜそれを話し合う必要がありますか。これを話し合う第一の目的は、神の造物主としての身分と、万物における神の地位とを、人々の心に打ち立てることです。それは、人間が最初に知り、理解し、感じるようになれるものです。あなたが理解し、感じる物事は、神の業、神の言葉、そして万物に対する神の支配に由来します。では、神の権威を通じて見る物事、学ぶ物事、知る物事から、人間は何を真に理解しますか。第一の目的についてはすでに議論しました。第二の目的は、神がその権威によって行なった業、述べた言葉、支配した事柄のすべてを通じ、神の力と権威を人々に知らしめることです。神が万物を支配する中でいかに力強く賢明かを、あなたがたが理解できるようにするためです。これは、神特有の権威に関する以前の議論において、その中心、その要点ではなかったでしょうか。その議論からそれほど時間は経っていませんが、あなたがたの中にはすでにこのことを忘れた人がいます。そのことは、あなたがたが神の権威について深く理解していないことを証明しています。人間はいまだ神の権威を目の当たりにしたことがないとさえ言えるでしょう。いま、あなたがたは多少なりとも理解しましたか。神が権威を振るうのを目の当たりにして、あなたは何を実感しますか。あなたは神の力を実感したことがありますか。(あります。)神が万物をどう創造したかに関する言葉を読んだとき、あなたは神の力と全能を感じます。人間の運命に対する神の支配を見て、あなたは何を感じますか。神の力と知恵を感じますか。神にこの力や知恵がなかったとしたら、万物と人間の運命を支配する資格があるでしょうか。神には力と知恵があるので、権威があります。これは神特有のものです。すべての被造物の中で、神のような力をもつ人や生物を見たことはありますか。天地と万物を造り、それらを支配し、統治する力をもつ人間や物は存在しますか。全人類を統治し、導き、かついつでもどこでも存在できる人間や物は存在しますか。(存在しません。)これで、神特有の権威にまつわる真の意味を理解しましたか。あなたがたはいま、それについていくらか理解しましたか。(しました。)これで、神特有の権威という主題の振り返りを終わります。

第二の部分で神の義なる性質を議論しました。その主題についてはさほど多くの議論を行ないませんでしたが、それはこの段階において、神の働きがおもに裁きと刑罰から成っているからです。神の国の時代、神の義なる性質は明瞭かつ極めて詳細にあらわされています。神は創造以来語らなかった言葉を語り、その言葉を読んで経験したすべての人が、その中に神の義なる性質があらわれたのを目の当たりにしてきました。それでは、神の義なる性質に関する議論の中で、その主要な点は何ですか。あなたがたはそれを深く理解していますか。経験から理解していますか。(神がソドムを焼き尽くされたのは、当時の人々が深く堕落し、神の怒りを招いたからです。そのことから、神の義なる性質がわかります。)まずは次の点を検討しましょう。仮に神がソドムを破壊しなかったら、あなたは神の義なる性質を知ることができるでしょうか。それでも知ることができたはずです。そうですね。神の国の時代に神があらわしてきた言葉と、神が人類に向けてきた裁き、刑罰、呪いの中に、それを見ることができます。神がニネベを滅ぼさなかったことから、あなたは神の義なる性質を理解できますか。(理解できます。)いまの時代において、人は神の慈悲、愛、寛容さをいくらか見ることができ、また人間が悔い改めたことを受けて神の心が変わったことの中にも、それを見ることができます。この二つの例を挙げて神の義なる性質の議論に組み入れたことで、神の義なる性質が明示されてきたことが極めて明確にわかります。しかし実際には、神の義なる性質の本質は、聖書に記されたこれら二つの挿話で明かされているものだけとは限りません。これまでに学んで理解したこと、および神の言葉と働きの中で経験したことから、あなたがたは神の義なる性質が何だと理解していますか。あなたがた自身の経験から話してください。(神が人のために造られた環境においては、人が真理を求め、神の御旨にしたがって行動できるとき、神は人を導き、啓き、人が心の明るさを感じられるようにしてくださいます。人が神に背き、神を拒み、神の御旨にしたがって行動しなければ、あたかも神に見捨てられたかのように、その人の中には大きな闇があります。たとえ祈っているときも、神に何を言うべきかを知りません。しかし自分の観念と想像を脇に捨て、進んで神に協力し、自分を改善しようと努めるようになるとき、その人は神の笑顔を徐々に見ることができるようになります。そのことから、私たちは神の義なる性質の聖さを経験します。神は聖なる国に出現なさいますが、不浄の地にお隠れになるのです。)(神による人の扱い方の中に、神の義なる性質を見ることができます。私たち兄弟姉妹はそれぞれ霊的背丈や素質が異なり、神が各人にお求めになる物事も違います。私たちはみな、それぞれ異なる度合いで神の啓きを受けられますが、その中に神の義を見ることができます。なぜなら、私たち人間がこのように人を扱うことはできず、神にはおできになるからです。)さて、あなたがたはみな、自分ではっきり表現できる実践的認識をいくらか身につけました。

あなたがたは、神の義なる性質を理解するうえで鍵となる認識は何か知っていますか。この主題について、経験から語れることはたくさんありますが、まず、あなたがたに伝えなければならない要点がいくつかあります。神の義なる性質を理解するには、最初に神の感情を理解する必要があります。すなわち、神が何を嫌うか、何を憎むか、何を愛するか、誰に寛容で慈悲深いか、どのような人間にその慈しみを授けるかを理解しなければいけません。これが要点のひとつです。さらに、神がいかに愛情深くても、どれほど多くの慈悲と愛を人に対して抱くとしても、神は自身の地位や身分、および尊厳に背く者を決して容赦しないことも理解しなければいけません。神は人を愛していますが、好きなようにさせることはありません。神は人に愛と慈しみを与え、寛容を示しますが、人を甘やかすことは一切ありません。神には神の原則と限界があります。あなたがどれほど神の愛を感じてきたとしても、その愛がどれほど深かったとしても、他の人間と接するように神と接してはいけません。確かに、神は人をこのうえない親しさをもって扱いますが、人が神を単なる別の人として、あるいは友人や崇拝の対象といった、他の被造物であるかのようにみなした場合、神はそうした人間の前から姿を消し、彼らを見捨てます。これが神の性質であり、人はこの件を軽率に扱ってはいけません。そのため、自身の性質について神がこのように語っている言葉を、私たちはしばしば目にします。あなたがどれほど多くの道を歩み、どれほど働き、どれほど堪え忍んできたとしても、いったん神の性質に背けば、神はあなたがたひとりひとりに対し、自分がしたことに応じて報いを与えます。このことは、神がこのうえない親しさをもって人を扱うとしても、人は神を友達や親戚のように扱ってはいけないことを意味します。神を「友達」と呼んではいけません。あなたがいかに多くの愛を神から受けてきたとしても、いかに多くの寛容さを示されてきたとしても、決して神を友達のように扱ってはいけません。これが神の義なる性質です。わかりましたか。これについてさらに述べる必要はありますか。この事柄について、あなたがたは事前に理解していましたか。一般的に言えば、教義を理解しているかどうか、この件をじっくり考えたことがないかどうかにかかわらず、これは人がもっとも犯しがちな過ちです。人が神に背くとき、それは一つの出来事、あるいは一つの発言が原因だとは限らず、むしろその人の態度や状態が原因です。これは極めて恐るべきことです。自分は神を理解し、神についていくらか知り、神を満足させられるとさえ信じる人がいます。このような人は、自分は神と同等である、あるいはうまく立ち回って神と友達になったなどと感じるようになります。こうした感覚は大きな誤りです。あなたがこれについて深く理解せず、明瞭に認識していなければ、神や神の義なる性質にいともたやすく背いてしまいます。これについてはわかりましたね。神の義なる性質は唯一無二のものではありませんか。それが人間の性格や品性と同等であることがあり得ますか。あり得ません。ゆえに、神が人をどう扱おうと、人のことをどう考えようと、神の地位、権威、身分は決して変わらないということを忘れてはいけません。人類にとって、神は常に万物の主であり、創造主なのです。

神の聖さについて、あなたがたは何を学びましたか。「神の聖さ」に関する部分で、サタンの邪悪さを引き立て役として使うという事実以外に、神の聖さにまつわる議論の要点は何でしたか。それは神が所有するものと神そのものではないですか。神が所有するものと神そのものは、神特有のものですか。(そうです。)それは被造物にはないものであり、神の聖さが唯一無二だと言うのはそのためです。あなたがたはそのことを理解できたはずです。神の聖さという主題について、私たちはこれまで三回にわたって集会を開きました。神の聖さとは何か、あなたがたは自分の言葉と認識でもって、自分の考えを説明できますか。(前回神が私たちと交わってくださった際、私たちは神の御前でひざまずいて頭を垂れました。ひれ伏して頭を垂れ、神を礼拝することに関する真理を、神は私たちに伝えてくださいました。自分が神の要求を満たさないままひざまずいて頭を垂れ、神を礼拝するのは、神の御旨に反することだとわかりました。またそのことから、神の聖さがわかりました。)まさにその通りです。その他にありますか。(人間に対する神の御言葉において、神は簡潔かつ明瞭に、また率直に要点を述べられていることがわかります。サタンは遠回しな語り口で話し、嘘でいっぱいです。前回、私たちが神の御前でひれ伏したときの出来事から、神の御言葉と御業が常に原則に基づくものであることを理解しました。私たちがどのように振る舞うべきか、何を守るべきか、どのように実践すべきかを述べるとき、神は常に明瞭かつ簡潔でいらっしゃいます。しかし、人間はそうではありません。サタンによって堕落させられてからというもの、人間は自分の個人的な動機や目的、心の中の願望をもって振る舞ったり語ったりしてきました。神が人間をどのように見守り、気遣って保護してくださるかということから、神の御業がどれも肯定的であり、明瞭であることがわかります。私たちはその中に、神の聖さの本質があらわれたのを見るのです。)素晴らしい回答です。誰か、他に付け加えることはありますか。(神がサタンの邪悪な本質を暴かれることで、私たちは神の聖さを目の当たりにし、サタンの邪悪さをよりよく知るようになり、人類の苦悶の根源を見ます。それまで、私たちはサタンの支配下にいる人の苦悶に気づいていませんでした。神がそれを明らかにしてくださって初めて、名声と富の追求に起因する苦悶がすべてサタンの働きだということを知ったのです。そうしてようやく、神の聖さは人類の真の救いであると感じました。)それ以外に付け加えることはありますか。(堕落した人類には、神に関する真の認識も、神への愛もありません。私たちは神の聖さの本質を理解しておらず、また神の御前でひれ伏し、頭を垂れて礼拝するとき、不純な考えや隠れた動機と意図をもってそうするので、神は機嫌を損ねていらっしゃいます。そこから、神とサタンはまったく違うことがわかります。サタンは人に慕われ、媚びられ、人がひれ伏して頭を垂れ、自分を礼拝することを望みます。サタンには原則がありません。そのことからも、神の聖さに気づけます。)素晴らしい。神の聖さについて交わってきたいま、あなたがたは神の完璧さを理解しましたか。(理解しました。)神が肯定的な物事すべての源であることを理解しましたか。神が真理と正義の権化であることを理解できましたか。神が愛の源であることを理解しましたか。神が行なう業、神があらわす物事、神が明らかにする物事が、どれも完璧であることを理解しましたか。(理解しました。)これらは、わたしが述べてきた神の聖さの要点です。現在、これらの言葉はあなたがたにとって教義に過ぎないと思われるかもしれませんが、いつの日か、神の言葉と働きから真の神自身を体験し、目の当たりにするとき、あなたは、神は聖く、人間とは異なり、神の心、性質、本質はすべて聖いと、心の底から言うでしょう。この聖さにより、人間は神の完璧さや、神の聖さの本質が完璧であることを理解できるのです。神が唯一無二の神自身であることは、神の聖さの本質により決定され、同時に神が唯一無二の神自身であることを、人間が理解して証明できるようにします。これが要点ではありませんか。(その通りです。)

本日は、過去の交わりにおけるいくつかの主題について、その概要を説明してきました。今日の概説はここで終わることにします。あなたがた全員が、一つひとつの事項や主題の要点を、心に留めることを望みます。それらを単なる教義と考えず、時間があるときに熟読し、じっくり考えてください。それらを心に留めて現実に生かせば、神の性質と、神が所有するものと神そのものを神があらわすことについて、わたしが述べてきた現実のすべてを本当に経験できます。しかし、簡単にメモを取るだけで、それを読むことも検討することもなければ、それらを自分のものにすることは決してできません。いま、あなたがたは理解していますね。これら3つの主題を伝えられ、神の身分、本質、性質について、全体的な認識、さらには具体的な認識も得るようになると、神に関するその人の認識は完全になりますか。(なりません。)それでは、神に関するあなたがた自身の認識の中で、より深く理解しなければならないと感じる分野が他にありますか。つまり、神の権威、神の義なる性質、神の聖さに関する認識を得たいま、神特有の地位や身分があなたの心の中で確立されたかもしれませんが、あなたは依然として自分自身の経験を通じ、神の業、力、本質を目の当たりにし、理解し、それらに関する認識を深める必要があります。これらの交わりを聞いたいま、信仰に関する事柄が多かれ少なかれ心の中で確立されています。すなわち、神が実在し、万物を支配しているのは事実だということです。誰も神の義なる性質に背くことはできません。また神の聖さは、誰にも疑問視する余地のない、確かなものです。それらは事実です。これらの交わりにより、神の地位や身分が人の心の中で基礎をもつことができます。いったんこの基礎が確立されれば、人々はより理解しようと努めなければなりません。

神は万物のいのちの源である(1)

本日は、新たな主題についてあなたがたと交わります。その主題とは何でしょうか。題名は「神は万物のいのちの源である」です。この主題はいささか大ごとに聞こえますか。少し手の届かないものに感じますか。「神は万物のいのちの源である」という主題は、人々にとっていささか遠く感じられるかもしれませんが、神に従う全員が理解しなければいけない事柄です。なぜならそれは、神に関する各人の認識、およびその人が神を満足させ、畏れを抱けることと密接に関係しているからです。わたしがこの主題について交わろうとしているのはそれが理由です。人々はこの主題に関する基本的な理解がきっと以前からあるでしょう。あるいは、ある程度それを認識しているかもしれません。一部の人々の心の中では、この認識ないし意識に、単純な理解や浅い理解が伴っているかもしれません。また、心の中に特別な経験があり、この主題と個人的に深く関わった人もいるかもしれません。しかし、深いか表面的かを問わず、こうした事前の認識は一方的であり、また十分具体的なものではありません。ゆえに、わたしがこの主題を交わりの対象としたのは、あなたがたがより深く具体的な理解に至れるよう、それを助けるのが目的です。この主題についてあなたがたと交わるにあたり、わたしは特別な方法を用います。この方法はそれまで用いたことがないものであり、いささか違和感を覚えたり、多少不快に感じたりするものかもしれません。あとになれば、わたしのいわんとすることがわかります。あなたがたは物語が好きですか。(好きです。)では、物語を話すことを選んだのはよかったようです。あなたがたは全員、それが大好きだからです。さて、始めましょう。メモする必要はありません。静かに落ち着いていてください。周囲の環境や人に気が散るのであれば、目を閉じても構いません。あなたがたに聞かせる素晴らしい物語があります。それは種、大地、木、日光、鳥、そして人間の物語です。主要な登場人物は誰ですか。(種、大地、木、日光、鳥、人間です。)神は登場人物の一人ですか。(違います。)そうだとしても、いったんこの物語を聞くと、必ずや新鮮な気分になって満足します。では、静かに耳を傾けてください。

第1の物語:種、大地、木、日光、鳥、そして人間

一粒の種が大地に落ちました。大雨が降ったあと、種は柔らかい芽を出し、地中にゆっくり根を下ろしていきました。やがて、激しい雨風に負けず、季節の移り変わりを目にしながら、月の満ち欠けとともに、その芽は伸びていきます。夏には、芽が厳しい暑さに耐えられるよう、大地が水を贈りました。大地のおかげで暑さにやられずに済み、やがて夏の酷暑は過ぎていきました。冬になると、大地は芽を暖かく包み込み、大地と芽はしっかり抱き合いました。大地が芽を温めたおかげで、芽は厳しい冬の寒さを生き延び、寒風と吹雪の中でも無事でした。大地に守られながら、芽は立派に、かつ嬉しげに伸びてゆき、大地が与えた無私の育みによって元気に力強く成長しました。雨の中で歌い、風の吹くまま踊りながら、幸せに伸びていったのです。芽と大地は互いに頼り合っていました……

年月が過ぎ、芽は大樹へと育ちました。その木は大地に力強く立ち、太い枝をつけ、その先端には無数の葉が茂っていました。根は以前と同じく大地を掘り続け、いまや地中に深く根ざしています。小さな芽を守っていた大地は、いまではそびえ立つ木の基礎となっていました。

日光が木に降り注ぎ、木は幹を揺らして枝を広げ、日光に照らされた空気を深く吸い込みます。地面がその木と息を合わせて呼吸し、大地は若返ったように感じていました。そのとき、新鮮な風が枝の間に吹き込み、木は喜びに震え、元気よくカサカサと音を立てました。こうして、木と日光は互いに頼り合っていたのです……

人々は涼しい木陰に座り、さわやかでかぐわしい空気を浴びています。その空気は人々の心臓や肺、血液を清めました。こうして人々の身体はもう無気力でも、束縛されてもいませんでした。人々と木は互いに頼り合っていたのです……

さえずり鳴く小鳥の群れが木の枝に留まりました。おそらく捕食者を避けるため、雛を産んで育てるため、あるいはしばらく休憩するために、そこに留まったのでしょう。鳥と木は互いに頼り合っていたのです……

木の根は曲がりくねって絡み合い、大地の中に深く根ざしていました。木はその幹でもって大地を風雨から守り、大枝を伸ばして足元の地面を保護していました。なぜなら、大地はその木の母だからです。木と大地は互いに強め合い、頼り合い、決して離れることはありませんでした……

これで物語は終わりです。わたしが語ったのは、種、大地、木、日光、鳥、そして人間の物語でした。2、3の光景しかありません。この物語はあなたがたにどのような印象を与えましたか。このように話をして、わたしの言うことを理解しましたか。(理解しました。)どうかあなたがたの感想を聞かせてください。この物語を聞いてどのように感じましたか。最初に言っておきますが、物語の登場人物はみな見たり触れたりできるものです。それらは実際の物事であって、比喩ではありません。わたしが述べたことを考えてみてください。わたしの物語に難解な箇所はありません。そしてこの物語の要点は作中の2、3の文章であらわすことができます。(この物語の描写は美しい。種が芽生え、成長する過程で春夏秋冬の四季を経験します。大地は芽吹いた種を母親のように育てます。冬になると、芽が寒さの中で生き延びられるよう、大地が温もりを与えます。芽が木へと成長したあとは、日光がその枝に触れ、木に大いなる喜びを与えます。多数にのぼる神の創造物の中で、大地もまた生きており、大地と木が互いに頼り合っていることがわかります。また、日光が木に大きな温もりを与え、普通の生物に過ぎない鳥が、木や人間と完全に調和して共生していることがわかります。これらが、この物語を聞いて心に抱いた感情です。これらのものがすべて本当に生きていることがわかりました。)素晴らしい発言です。他に付け加えることはありますか。(種が芽吹いて大樹に育つこの物語の中で、神の創造の素晴らしさがわかります。神は万物が互いに強め合い、頼り合い、つながり合い、奉仕し合うようになさったことがわかるのです。神の知恵、神の驚異を見てとることができ、神が万物のいのちの源でいらっしゃることがわかります。)

わたしがいま述べたことはどれも、あなたがたが以前に見たことのあるものです。種を例にとると、それは成長して木になりますが、たとえその過程を一つひとつ細かく見ることはできないとしても、種が木になることはわかりますね。また、あなたは大地と日光についても知っています。鳥が木に留まっている光景は、誰しも見たことがあるはずです。それに木陰で涼む人々の姿も、あなたがたは見たことがあるでしょう。そうですね。(はい。)では、これらがすべてひとつの光景に含まれている場合、その光景はどのような感情をもたらしますか。(調和の感情です。)このような光景に含まれている一つひとつのものは、神に由来するものですか。(そうです。)それらは神に由来するものなので、神は地球上に存在するこれら様々なものの価値と重要性を知っています。神が万物を造り、それぞれのものを計画して創造したとき、神には意図がありました。そして神がそれらのものを創った際、それぞれにいのちが吹き込まれたのです。人類の存在のために神が創った環境は、いまの物語で描かれていたとおり、種と大地が互いに頼り合う環境、大地が種を育み、種が大地と結びつく環境です。この関係は、創造の最初において神によって決められたものです。木、日光、鳥、そして人間が登場する光景は、神が人間のために造った生活環境を描いたものです。まず、木は大地から離れることができず、日光なしで生きることもできません。では、神が木を造った目的は何ですか。それはひとえに大地のためだと言えるでしょうか。ひとえに鳥のためだと言えるでしょうか。ひとえに人のためだと言えるでしょうか。(言えません。)それら同士の関係はどのようなものですか。それら同士の関係は、相互に強め合う関係、相互依存と不可分性の関係です。つまり、大地、木、日光、鳥、そして人間は、相互に頼り合って存在し、互いに育み合っています。木は大地を守り、大地は木を育み、日光は木に降り注ぎ、木は日光から新鮮な空気を得る一方で、大地に降り注ぐ太陽の焼けつくような熱さを軽くしています。そこから最後に恩恵を受けるのは誰ですか。それは人間ですね。これは、神が造って人間が暮らす環境の背景にある原則のひとつであり、神が最初からそれをどのように意図していたかを示しています。この光景は単純なものではありますが、その中に神の知恵と意図を見出すことができます。人類は大地や木、鳥、日光なくしては生きられません。違いますか。これは物語に過ぎませんが、描いているのは神による天地と万物の創造、および人間が生きられる環境を神が贈ったことの縮図なのです。

神は人間のために天地と万物を造り、生存環境も造りました。まず、この物語で述べたことの要点は、万物が相互に強め合っていること、相互に依存し合っていること、そして共存していることです。この原則のもと、人類の生存環境は守られており、存在と持続が可能になっています。そのおかげで人類は繁栄し、子孫を残すことができるのです。私たちが見たのは木、大地、日光、鳥、そして人間がともにある光景でした。この光景に神はいましたか。そこで神を目にすることはありませんでしたね。しかし、その光景に登場するもの同士の強め合いと相互依存の法則は目にしました。人はこの法則の中に、神の存在と主権を見ることができます。神はこうした原則と法則を用いることで、万物のいのちと存在を維持しているのです。神はこのようにして万物と人類に施します。この物語は私たちの主題と関連していますか。表面的には関連していないように見えますが、実際には、神が万物を造った法則と神による万物の支配は、神が万物のいのちの源であることと密接に関係しています。これらの事実は不可分なのです。さあ、何かを理解し始めましたね。

神は万物の活動を律する法則を指揮します。そして万物の生存を律する規則を指揮し、万物を支配し、それらが互いに強め合い、依存し合うように定めます。それにより、神はそれらが滅びたり消滅したりしないようにするのです。そうして初めて人類は生きることができ、このような環境の中、神の導きによって暮らすことができます。神はそれら活動法則の主であり、人類はそれに干渉することも、それを変えることもできません。神自身だけがこれらの法則を知り、それを管理するのです。木々がいつ芽吹くか、雨がいつ降るか、大地が植物にどの程度の水と栄養を与えるか、葉がどの季節に落ちるか、木々がどの季節に実を結ぶか、日光が木々にどの程度の栄養を与えるか、日光から栄養を得た木々が何を排出するかといった事柄はすべて、誰にも破られない法則として、神が万物を造ったときに予定したことなのです。生物であろうと、人間の目には生物であると見えないものであろうと、神が造った物事は神の掌中にあり、神はその中でそれらを操り支配しています。これらの法則を変えたり破ったりできる人はいません。つまり、神は万物を造ったとき、木は大地がなければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することもできず、木々がなければ大地は渇き、また木々は鳥の住みかとなり、風から身を守る場所になるよう定めたのです。日光なくして木は生きられますか。(生きられません。)大地だけがあっても木は生きられないでしょう。これらはどれも、人間と人間の生存のためのものです。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守っている大地の上で暮らしています。人間は日光や他の様々な生物がなければ生きられません。これらの関係は複雑ですが、万物が互いに強め合い、依存し合って共存できるよう、神が万物を律する法則を定めたことを、あなたは忘れてはいけません。言い換えれば、神が造った一つひとつのものにはそれぞれ価値と意味があるのです。意味のないものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるでしょう。これは、神が万物に施す際に使う方法のひとつです。この物語のなかで「施す」という単語は何を指していますか。神が毎日木に水をやることですか。木が呼吸するのに神の助けは必要ですか。(必要ありません。)ここで「施す」とは、創造された万物を神が管理していることを指します。それらを律する法則が確立されれば、あとは神がそれらを管理するだけで十分なのです。いったん種が大地に植えられれば、木は独力で成長します。木が成長する条件は、すべて神によって造られました。神は日光、水、土、空気、周囲の環境、風、霜、雪、雨、四季を造りました。これらは木が成長するために必要な条件であり、神が用意したものです。それならば、こうした生存環境の源は神ですか。(神です。)神は毎日木々の葉の数を数えなければなりませんか。そんなことはありません。また、木が呼吸するのを助けたり、「木を照らす時間だ」と言って毎日日光を目覚めさせたりする必要もありません。神はそのようなことをする必要がないのです。日光は法則に従い、照らす時間が来ればひとりでに照らします。日光があらわれて木を照らすと、その木は必要とあれば日光を吸収し、必要なければそのまま法則の中で暮らします。あなたがたはこの現象を明確に説明できないかもしれませんが、にもかかわらず、それは誰もが見て認めることのできる事実です。あなたは、万物の存在を律する法則が神に由来していること、神が万物の成長と存続を司っていることを認識するだけでよいのです。

さて、この物語には、人々が言うところの「比喩」が含まれていますか。この物語は擬人化されていますか。(擬人化されていません。)わたしは実話を語りました。あらゆる生物、すべてのいのちあるものは、神に支配されています。それぞれの生物は創造されたときに神からいのちを吹き込まれました。あらゆる生物のいのちは神に由来するものであり、それを導く軌道と法則に従います。人間がそれを変える必要はなく、人間による助けも必要としません。それは、神が万物に施す方法の一つです。わかりますね。人はこのことを認識する必要があると、あなたがたは思いますか。(思います。)それでは、この物語には生物学が関係していますか。何らかの形で知識や学問の分野と関係していますか。私たちは生物学を議論しているのでもなければ、ましてや生物学的な研究を行っているのでもありません。私たちの議論の要点は何ですか。(神が万物のいのちの源であるということです。)あなたがたは創造物の中で何を見ましたか。木々を見ましたか。大地を見ましたか。(見ました。)日光を見たことはありますね。木にとまっている鳥を見たことはありますか。(あります。)このような環境で生活している人間は幸福ですか。(幸福です。)つまり、人間の住まいや生活環境を維持して守るために、神は万物、つまり自分が造ったものを用いるのです。そのようにして、神は人間と万物に施すのです。

わたしがこのような形で話し、あなたがたと交わることについて、あなたがたはどう感じていますか。(分かりやすく、実生活の実例が数多くあります。)わたしが話しているのは空虚な言葉ではありませんね。神が万物のいのちの源であることを理解するのに、人はこの物語を必要としますか。(必要です。)それでは、次の物語へと進みましょう。次の物語は内容が多少異なり、要点も少しばかり違います。物語に登場する物事は、神の創造物のうち、人がその目で見られるものばかりです。さて、次の話を始めましょう。静かに耳を傾け、わたしの言わんとすることを理解できるかどうか確かめてください。物語のあと、あなたがたに質問して、あなたがたがどの程度学んだかを確認します。この物語の登場人物は大きな山、小川、強風、そして巨大な波です。

第2の物語:大きな山、小川、強風、そして巨大な波

曲がりくねった小川があり、その小川は大きな山の麓へと流れ込んでいました。この山は小川の流れを遮っていたので、小川は「私を通してください。あなたが立ちふさがっているので、先へ進むことができません」と、か弱い小声で山に頼みました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。小川は「自分の故郷を探しています」と答えました。山は「わかった。私を超えて流れてゆくがいい」と言いましたが、小川は弱く、幼かったので、そのような大きな山を越えて流れることなどできません。そうしたわけで、小川は引き続き大きな山の麓に流れ込むことしかできませんでした。

強風が吹き込み、砂や瓦礫を山がそびえる場所へと運んできました。強風は大声で「私を通せ」と怒鳴りました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。強風が「山の向こう側へ行きたいのだ」と怒鳴り返したところ、山は「わかった。私の胴体を割って通れるのであれば、通ってよろしい」と答えました。強風はあちこちから吹き込みましたが、どれほど強く吹き込んでも山の胴体を割ることはできませんでした。そのうちに疲れてしまい、吹くのを止めて休んだのですが、山の反対側でそよかぜが吹き始め、そこにいる人たちを喜ばせました。それは人々に対する山からの挨拶だったのです……

海辺では、小波が岩だらけの岸に優しく打ち寄せていました。すると突然、大波が現れ、山の方へと押し寄せていきました。大波が「そこをどけ」と叫んだところ、山は「どこへ行くのか」と尋ねました。大波は止まることができず、「領地を拡大しているところだ。両腕を伸ばしたいんだ」と答えました。山は「わかった。私の頂を越えて通れるのであれば、道を譲ろう」と言いました。すると大波は少し下がってから、再び山へ向かって押し寄せました。しかしどれほど頑張っても、山の頂を越えることができません。大波は徐々に海へと退くことしかできませんでした……

小川は何千年にもわたって山の麓を優しく流れ続けました。山が指し示す方向をたどり、故郷に戻って大河と合流し、やがて海へと流れ込んだのです。小川は山の慈しみを受け、決して迷うことがありませんでした。小川と山は互いに頼り合い、強め合い、交流し合い、共存していました。

強風は数千年経っても相変わらず山に吹きつけていました。そして大きな渦を巻く砂を巻き込みながら、しばしば山を「訪れ」ました。山を脅かしたものの、その胴体を割ることはできませんでした。風と大きな山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

大波もまた数千年にわたって休むことなく、激しい勢いで押し寄せ、絶えず領地を広げていました。何度も山へと押し寄せたものの、山はまったく不動のままでした。山は海を見守り、そのために海中の生物は増加し、繁栄しました。波と山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

さて、物語はこれで終わりです。まず、この物語は何に関するものでしたか。最初に大きな山があり、小川、強風、そして巨大な波が登場しました。最初の部分では、小川と大きな山の間で何がありましたか。わたしが小川と大きな山について話すことを選んだのはなぜですか。(大きな山による慈しみのもと、小川は道に迷うことがありませんでした。互いに頼り合っていたのです。)山は小川を守っていたと言えますか、それとも妨害していたと言えますか。(守っていました。)しかし、小川を妨害してはいませんでしたか。山と小川は互いに見守り合っていました。山は小川を守りながら、同時に妨げてもいたのです。山が小川を守っていたので、小川は大河へと流れ込むことができましたが、同時に山は小川の流れを遮り、それによって洪水を引き起こして人々に災害をもたらすのを防いだのです。これが、この一節が言わんとしていたことではありませんか。小川を保護し、同時にその流れを妨げることで、山は人々の家を守ったのです。やがて小川は山の麓で大河と合流し、海へと流れ込みました。それは小川の存在を律する法則ではありませんか。小川が大河へと流れ込み、そして海へと流れ込めたのは何のおかげですか。それは山のおかげではなかったですか。小川は山の保護と障壁に頼っていました。では、それが要点ではないのですか。その中に、山の小川に対する重要性を見て取れますか。大きかろうと小さかろうと、すべての山を造ったことについて、神には計画があったでしょうか。(ありました。)これは短い一節に過ぎず、小川と大きな山に過ぎませんが、そこから私たちは、神がこれら二つのものを造ったことの価値と意義を理解することができます。また、それらを支配することにおける、神の知恵と目的も示しています。そうではありませんか。

この物語の次の部分は何に関するものでしたか。(強風と大きな山です。)風はよいものですか。(よいものです。)そうとは限りません。風が強すぎて災害を引き起こすことがあります。強風の中に立たせられたらどう感じますか。それはその強さ次第ですね。風力3、4程度であれば我慢できるでしょう。せいぜい目を開け続けるのが難しくなるだけです。しかし、風が強くなって暴風になったら、あなたは耐えられますか。耐えられないでしょう。したがって、風は常によいものである、あるいは常に悪いものである、と人々が言うのは間違っています。なぜなら、それは風の強さによるからです。さて、ここで大きな山はどのように機能していますか。風防として機能しているのではないですか。山は強風をどの程度まで弱めていますか。(そよ風にしています。)では、人間が暮らす環境の中で、大半の人が晒されているのは強風ですか、それともそよ風ですか。(そよ風です。)それは、神が山を造った目的の一つ、意図の一つではありませんか。風に吹かれた砂が激しく舞い上がり、それを防ぐものも、妨げるものもない環境の中で人間が生活したとすると、それはどのような生活ですか。砂や石が飛び交う土地など、人間には住めないのではありませんか。石が人に当たり、砂が人の目を見えなくするでしょう。人間が足元をすくわれたり、空中に飛ばされたりすることもあるでしょう。家は破壊され、様々な災害が起こるに違いありません。それでもなお、強風の存在に価値はありますか。わたしが、風は悪いと言ったので、人はそれに何の価値もないと感じるかもしれませんが、果たしてそうですか。そよ風に変われば価値があるのではないですか。湿度が高くむせかえるような天気のとき、人が一番必要とするのは何ですか。そよ風が優しく吹いて気分を爽快にし、頭をすっきりさせ、思考を研ぎ澄まし、精神状態を直して改善することが必要です。たとえば、あなたがたはいま、多くの人がいる風通しの悪い部屋に座っていますが、あなたがたに一番必要なものは何ですか。(そよ風です。)空気がよどんで汚れている場所に入ると、人間の思考は遅くなり、血行は悪くなり、頭脳の明晰度も落ちます。しかしながら、少しばかり空気を動かして循環させれば、空気が新鮮になって人の気分も変わります。小川や強風は災害を起こす可能性もありますが、山がそこにある限り、その危険を人間にとって有益な力に変えるはずです。そうではありませんか。

この物語の3番目の部分はどのような内容でしたか。(大きな山と大波の話でした。)そのとおり、大きな山と大波の話です。この一節の舞台は山の麓の海岸です。山、波しぶき、そして大波が登場します。この一節の中で、大きな山は大波にとってどのような存在ですか。(保護するものであり、障壁でもあります。)山は保護するものであり、かつ障壁です。大波を保護することで、海が消え去るのを防ぎ、その中の生物が増殖して繁栄できるようにします。障壁としての山は、海水が溢れて災害を引き起こし、人々の家を破損したり破壊したりするのを防いでいます。したがって、この大きな山は保護するものであり、障壁でもあると言えます。

このことは大きな山と小川、大きな山と強風、そして大きな山と大波の相互関係の意義を示しています。それらが互いに強め合い、妨げ合い、共存していることの意義です。神が造ったこれらのものは、規則と法則によってその存在を律せられています。では、あなたがたはこの物語の中で、神のどのような業を目の当たりにしましたか。神は万物を造って以来、それらを無視してきましたか。神は法則を設け、万物がどのように機能するかを計画したにもかかわらず、そのあとはそれらを無視しましたか。そのようなことがありましたか。(ありません。)それでは、どのようなことがあったのですか。神はいまだに支配しています。水、風、波を支配しているのです。神は、そうした物事が荒れ狂うことも、人々が暮らす家を破損したり破壊したりすることも許しません。そのおかげで、人は地上で生活し、増殖して繁栄することができるのです。つまり、神は万物を造ったとき、すでにそれらの生存法則を計画していました。神は一つひとつの物事を造ったとき、それが人間に資することを確認し、またそれを支配することで、人間を悩ませたり、災害をもたらしたりすることがないようにしたのです。神による管理がなかったとしたら、水は何の制限も受けずに流れるのではないでしょうか。風も制限を受けずに吹くのではないでしょうか。水と風は法則に従いますか。神がそれらを管理せず、それらを律する法則もなければ、風は吹き荒れ、水は何の制限も受けずに洪水を引き起こすでしょう。波が山より高かったとしたら、海は存在できるでしょうか。できないはずです。大きな山が波ほど高くなければ、海は存在しないでしょうし、大きな山はその価値と意義を失うに違いありません。

これら二つの物語の中に、あなたがたは神の知恵を見て取れますか。神は存在する一切のものを造り、それを支配しています。神はそのすべてを管理し、それらに施しを与え、また万物のあらゆる言動を見て吟味しています。それゆえ、神は人間生活のあらゆる部分をも見て吟味しているのです。したがって、神は一つひとつの物事の機能、本質、およびその生存法則から、そのいのちの意義、そして生存の価値に至るまで、自ら造ったあらゆる物事を、掌を指すかのように詳しく知っており、それはどれも完全に神の知るところとなっています。神は万物を造りましたが、それらを律する法則について研究する必要が神にはあると思いますか。神は人間の知識や科学を研究し、それらについて学んで理解する必要がありますか。(必要ありません。)人間のうち、神のように万物を理解できるほど、知識と学識を備えた人はいるでしょうか。いませんね。万物が生きて成長するか、その法則を真に理解している天文学者や生物学者がいるでしょうか。そのような人たちに、一つひとつの物事の存在価値を真に理解することができますか。(できません。)それは、万物が神によって造られたからであり、人間がどれほど多く、どれほど深くこの知識を研究したとしても、あるいはどれほど時間をかけてそれを知ろうと努力したとしても、神による万物創造の奥義や目的を推測することは決してできません。違いますか。さて、ここまでの議論から、あなたがたは「神は万物のいのちの源である」という言葉の真意を部分的に理解したと感じていますか。(感じています。)「神は万物のいのちの源である」というこの主題について述べると、多くの人は「神は真理であり、言葉を使って私たちに施す」という別の言葉をすぐに思い浮かべ、この主題の意味についてそれ以上は何も考えないでしょう。中には、神が人間の生活に施し、日々の食べ物や飲み物、そして日常のあらゆる必需品を与えていることは、神が人間に施しているとはみなされないとすら感じる人もいるでしょう。一部の人はこのように感じているのではないですか。しかし、神の創造の意図は明らかではないですか。つまり、人が正常に存在して生きられるようにすることではないのですか。神は人が暮らす環境を維持し、人間が生き延びるのに必要なものを残らず与えます。さらに、神は万物を管理し、支配しています。こうしたことにより、人間は正常に生活し、繁栄して増殖することができるのです。神はこのようにして、すべての被造物と人間に施します。人間は、こうした物事を認識して理解する必要があるのではないでしょうか。「この主題は、真の神自身に関する私たちの認識からあまりにかけ離れているし、私たちはパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのだから、こうしたことなど知りたくもない」と言う人もいるかもしれません。そうした認識は正しいですか。(正しくありません。)なぜ正しくないのですか。神が言ったことに関する認識があるだけで、神を完全に理解することができますか。神の働き、裁き、そして刑罰を受け入れるだけで、神を完全に理解することができますか。神の性質や権威のごく一部を知っているだけで、神を理解するには十分だと考えられますか。(考えられません。)神の業は万物の創造に始まり、現在も続いています。神の業が不明瞭だったことは一瞬たりともありません。神が人々の一団を選んで彼らに働きを行ない、彼らを救ったというだけで、神は存在していると信じ、他の何も神とは関係なく、神の権威、身分、あるいは業とも関係ないと信じるなら、その人は神を真に知っていると見なせますか。このいわゆる「神に関する認識」をもつ人は、一方的な理解しかしておらず、それによって神の業を人の一団に限定します。それは、神に関する真の認識ですか。このような認識を持つ人々は、神による万物の創造と支配を否定しているのではないですか。中にはこの点に関わろうとせず、「万物に対する神の支配を、私は見たことがない。その考えはあまりに自分とかけ離れていて、わざわざ理解しようとは思わない。神は望むことを何でも行なうが、それは私に無関係である。私は、自分が神によって救われ、完全にしてもらえるよう、神の導きと御言葉を受け入れるだけだ。他の何も私には関係ない。神が万物を造ったときに定めた規則や、万物と人間に施すために行なうことは、私と何の関係もない」などと思い込む人がいます。何という話でしょうか。これは反抗ではないですか。あなたがたの中に、このように認識している人はいますか。たとえそう言わなくとも、ここにいるあなたがたの大半がこのように考えていることを、わたしは知っています。このような型通りの人間は、自分の「霊的」観点からすべてを見ます。彼らは、神が語った言葉によって神を聖書に限定し、文字どおりの言葉の意味に限定しようとするばかりです。この種の人は神をさらに知ることを望まず、神が他の業を行なうことに注意を割くのを望みません。こうした考え方は子供じみたもので、同時に極めて宗教的です。こうした見方をする人は神を知ることができますか。こうした人が神を知るのはとてつもなく難しいでしょう。今日、わたしは二つの物語を話したわけですが、それぞれが異なる側面に触れています。それらを耳にしただけでは、いずれも難解だったり、多少抽象的だったりして、理解するのが難しいと感じているかもしれません。それを神の業や神自身と関連づけるのは難しいでしょう。しかし、神の業、そして神が万物や人間の中で行なったことはどれも、すべての人、神を知ろうとするすべての人が、明瞭かつ正確に知らなければならないものです。この認識は、神の真の存在に対する信仰を確固たるものにします。また、神の知恵と力、そして神が万物に施す方法についても、正確な認識をあなたにもたらします。さらにこの認識は、あなたが神の真の存在をはっきり知覚し、神の存在が架空のものでも伝説でもなく、漠然としたものでもなく、学説でもなく、ましてや一種の精神的な慰めでもなく、現実の存在であることを理解できるようにします。そのうえ、神が常にすべての被造物と人間に施してきたことを、人々に知らしめます。神は自身の方法で、神自身の律動にしたがってこれを行ないます。ゆえに、神の予定のもと、万物が自分に割り当てられた任務を行ない、自分の責任を果たし、自分の役割を果たせるのは、神が万物を造り、それらに法則を与えたからなのです。神の予定のもと、一つひとつの物事は人間のため、人間が暮らす空間と環境のため、それぞれの役割を果たします。仮に神がそのようにせず、人間がこのような生活環境をもっていなければ、人間が神を信じたり神に従ったりすることは不可能でしょう。それは単なる無駄話にしかならないはずです。違いますか。

先に述べた大きな山と小川の物語に再び目を向けましょう。この山の役目は何ですか。山には生物が繁殖しているので、その存在には固有の価値があり、同時に小川を妨げて自由に流れるのを防ぎ、人々に災害をもたらさないようにしています。そうではありませんか。山は独自の形で存在し、そこに住む無数の生物、つまり木々や草やその他の動植物が繁栄できるようにしています。山はまた小川が流れる方向を導き、水を集めて山の麓を自然に流れさせ、そこで小川は大河へと流れ込み、最終的に海へと到達できます。これらの法則は自然に生じるものではなく、創造の際、神が特に定めたものです。大きな山と強風の部分について言えば、山は強風も必要としています。山は、そこに棲む生物に風が心地よく吹きつけることを必要とする一方で、風が無闇に吹かないよう、強風の力を押さえつけています。ある点において、この法則は大きな山の義務を体現しています。それでは、山の義務に関するこの法則は、自然と生じたものでしょうか。(違います。)それは神によって定められたものです。この大きな山には義務があり、強風にも義務があります。今度は大きな山と巨大な波に目を向けましょう。山の存在がなかったとしたら、大波は自分で流れる方向を探し当てていたでしょうか。(そのようなことはありません。)水は洪水になるでしょう。山には山としての存在価値があり、海には海としての存在価値があります。しかし、両者が正常に共存でき、相互に干渉しない状況において、両者は相互に制限もします。大きな山は、海が洪水を起こさないように制限し、それによって人々の家を守ります。また、海を制限することで、海中に棲む生物を養うことができます。この光景は自然に生まれたものでしょうか。(違います。)これもまた神によって造られたものです。この光景から、神は万物を造ったとき、山がそびえる場所、小川が流れる場所、強風が吹き出す方角と吹き込む方角、巨大な波の高さを予め決めていたことがわかります。これらのすべてに神の意図と計画が込められており、それは神の業なのです。さて、万物に神の業が存在することを理解できましたか。(理解できました。)

これらの事柄を議論する目的は何ですか。神が万物をつくった法則を人に研究させるためですか。天文学や地理学への興味をかき立てるためですか。(違います。)それでは何ですか。その目的は、人々に神の業を理解させることです。人は神の業の中に、神が万物のいのちの源であることを確かめられます。これを理解できれば、自分の心の中に神の居場所があり、神が神自身であり、唯一の存在であり、天地と万物の創造主であることを、真に確信することができます。では、万物の法則と神の業を知ることは、あなたが神を理解するうえで有益ですか。(有益です。)どの程度有益ですか。まず何より、神の業を理解したとき、あなたは依然として天文学や地理学に関心がありますか。依然として猜疑心をもち、神が万物の創造主であることを疑いますか。依然として研究者の心をもち、神が万物の創造主であることを疑いますか。(疑いません。)神が万物の創造主であることを確信し、神の創造の法則を一部でも理解したとき、神が万物に施すことを、あなたは心の中で本当に信じますか。(信じます。)ここでいう「施す」には特定の意味がありますか、それとも具体的な状況を指すのに使われますか。「神が万物に施す」という言葉には、極めて広い意味と範囲があります。神は人々に、食べ物や飲み物を日々施すだけでなく、人間が必要とするあらゆるものを施しますが、その中には人に見える一切のものだけでなく、人に見えないものも含まれています。神は、人間に必要不可欠なこの生活環境を維持し、管理し、支配します。つまり、それぞれの季節で人間がどのような環境を必要としようとも、神はそれを用意してきたのです。神はまた、人間の生存に適したものになるよう、大気の状態や気温も管理しています。これらの物事を律する法則は、自然に生じたものでも不規則に生じたものでもありません。それらは神の支配と業の結果なのです。これらの法則の源、万物のいのちの源は神自身です。あなたが信じるかどうか、見えるかどうか、理解できるかどうかにかかわらず、これは立証された議論の余地のない事実なのです。

大部分の人々は聖書に含まれている神の言葉と働きしか信じていないことをわたしは知っています。神は少数の人々のために自身の業をあらわし、人々が神の存在価値を理解できるようにしました。また、神は人々に神の地位をいくらか認識させるとともに、神の存在の事実を確信させてきました。しかし、それよりさらに多い人間にとっては、神が万物を造り、万物を管理し、万物に施すという事実は、漠然としているか曖昧なように思えます。このような人は懐疑的な態度さえとります。彼らはこの態度のせいで、自然界の法則は自発的に形成されたものであるとか、自然の変化、移り変わり、現象、そして自然を律する法則は自然それ自体から発生したものであると、しつこく信じるようになります。人々は、神がどのようにして万物を創造し、支配しているかを心の中で知覚できず、また神が万物をどのように管理し、万物に施しているかを理解できません。人はこの前提に制限を受け、神が万物を創造し、支配し、万物に施していることを信じられません。信じる人でさえ、自分の信仰においては律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代に制限されます。つまり、神の業、および人間に対する神の施しは、ひとえに神の選民のためだと信じるのです。わたしはそれを見るのがとてつもなく嫌で、胸が強く痛みます。なぜなら、人間はたとえ神から与えられた物事を残らず享受していても、神の業や神から与えられた物事をすべて否定するからです。人間は、天地と万物はそれ自体の自然の法則に律せられ、それ自体の自然の法則によって生存し、それらを管理する支配者も、施しを与えてそれらを守る統治者もいないと信じるだけです。あなたが神を信じていたとしても、これらのすべてが神の業だと信じない可能性もあります。事実、神の信者、神の言葉を受け入れる人、そして神に付き従う人の全員によって、しばしば無視されることの一つがこれなのです。そうしたわけで、わたしが聖書と無関係な何か、いわゆる霊的な用語と無関係な何かを話しだすやいなや、うんざりしたり、あきあきしたり、不快にすらなったりする人がいます。わたしの言葉が霊的な人々や霊的な物事からかけ離れているように見えるのです。これは恐ろしいことです。神の業を認識することについて言えば、天文学に触れなかったり、地理学や生物学を研究しなかったりしたとしても、私たちは神の万物に対する支配を理解し、神が万物に施していること、神が万物の源であることを知らなければなりません。これは必要不可欠な教訓であり、学ぶ必要があります。みなさん、わたしの言葉がわかったと思います。

先ほど述べた二つの物語は、いささか独特な内容で、表現方法も変わっており、そのうえ語り口もいささか特殊だったかもしれません。しかしそれは、より難解な事柄をあなたがたが把握して受け入れることができるよう、明解な言葉と簡潔な方法を使うわたしの試みだったのです。それがわたしの唯一の目的です。これらの短い物語とそこで描かれた光景から、神があらゆる被造物の支配者であることをあなたがたが理解し、信じるようになってほしかったのです。これらの物語を話したことの目的は、物語の制限の中で、あなたがたが神の無限の業を理解し、わかるようにすることです。あなたがたがその成果をいつ自分の中で完全に実現し、達成できるかは、あなたがた自身の経験と追求次第です。あなたが真理を追い求め、神を知ることを求める人であれば、こうした事柄はさらに強力な助言として役立つでしょう。それらはあなたに深い認識と明瞭な理解をもたらし、神の実際の業と徐々に近づき、まったく距離も誤りもない程度まで密接するようにします。しかし、あなたが神を知ることを求める人でなくても、これらの物語があなたがたに危害を加えることはあり得ません。これらは真の物語だと考えればそれでいいのです。

これら二つの物語から、あなたがたは何かを認識しましたか。まず、これら二つの物語は、人間に対する神の懸念という以前の議論と無関係なものですか。固有のつながりがありますか。これら二つの物語から、神の業と、神が人間のために計画しているあらゆることの中に、神が払っている周到な配慮を見て取れるというのは本当ですか。神の業と考えがすべて人間の存在のためにある、というのは本当ですか。(本当です。)人間に対する神の細心の考えと配慮は、極めて明瞭ではありませんか。人間は何もする必要がありません。神は人間のために空気を用意しました。人間はそれを呼吸すればいいのです。人間が食べる野菜や果物はすぐに用意されます。東西南北の各地域には、それぞれ独自の自然資源があります。また様々な穀類、果物、野菜が神によってすべて用意されています。より大きな環境において、神は万物が相互に強め合い、依存し合い、妨げ合い、共存するようにしました。これが、万物の生存と存在を維持する神の方法と法則なのです。そのようにして、人間はその生活環境の中で安全かつ静かに育ち、現在に至るまで世代ごとに増加を続けてきました。つまり、神は自然環境に調和をもたらすのです。神の統治と支配がなかったとしたら、依然として神によって環境が造られたとしても、それを維持して調和させる能力は誰にもないでしょう。空気が存在しない場所もあり、人間はそのようなところで生活できません。そして、神は人間がその場所へ行くことを許しません。したがって、境界を越えてはいけません。それは人間を守るためであり、そこには神秘があるのです。こうした環境の各側面、地球の長さと幅、ないし生死を問わず地球上のすべての生物は、いずれも神が前もって知覚し、用意したものです。それぞれのものはなぜ必要であったり、不要であったりするのですか。ものをここに置いたりあそこにもっていったりする目的は何ですか。こうした疑問について神はすでに考え抜いており、人が考える必要はありません。山を動かすことを常に考えている愚かな人々もいますが、山を動かさず、その代わり野原へ移動すればいいでしょう。山が好きではないのであれば、なぜ山の近くに住むのですか。それは馬鹿げていませんか。山を動かしたら何が起こるでしょうか。台風や巨大な波がやって来て、人間の家は破壊されるでしょう。それは愚かな行動ではないでしょうか。人間には破壊することしかできません。唯一の生きる場所すら維持できず、それでいて万物に施すことを望んでいます。それは不可能です。

人間が万物を管理し、その主となることを神は許していますが、人間はよい仕事をしていますか。人間は破壊できるものを何でも破壊しています。神が人間のために造ったあらゆるものを、人間は最初の状態に維持することができず、逆のことをして神の創造物を破壊します。人間は山を動かし、海を埋めて陸に変え、野原を誰も住めない砂漠に変えてきました。それでもなお、人間は砂漠に産業を興し、原子力発電所を建てるなどして、あらゆる場所に破壊をもたらしています。もはや川は川でなくなり、海は海でなくなったのです……人間が自然環境の調和と法則を破壊すると、災難と死が間近に迫ります。それは避けられません。災害が発生すると、神が自分に造ってくれたものがどれほど貴重か、それが人間にとっていかに重要かを、人は知ります。人間にとって、適切なときに風雨がやって来る環境で暮らすことは、楽園で暮らすことに似ています。人間はそれが祝福だとは気づいていませんが、それをすっかり失った瞬間、それがどれほど稀少で貴重かを知るのです。いったんなくなったら、それを取り戻すにはどうすればいいですか。神が再び創造するのを望まなかったとしたら、人間には何ができるでしょうか。あなたがたにできることはありますか。(いいえ、何もありません。)実は、あなたがたにできることがあります。それは極めて単純であり、それが何かを言えば、実行可能であることはすぐわかります。人間の存在が現在のような状態に置かれたのはどうしてですか。それは人間の貪欲さと破壊のためですか。人間が破壊を止めたら、生活環境は自然と徐々に修復されるのではないですか。神が業を一切行わず、人間のために業を行うことを望まなくなったとしたら、つまり神がこの件に介入しなかったら、破壊を一切止め、生活環境が自然の状態に戻るようにするのが人類の最善の解決策でしょう。そうした破壊をすべて止めるというのは、神が造った物事を略奪したり、荒らしたりするのを止めるという意味です。そうすることで、人間が生活する環境は次第に回復しますが、それを怠った場合、生活環境はいっそう不快なものになり、時間とともに破壊が進むでしょう。わたしの解決策は単純ですか。それは単純であり、実行可能です。違いますか。単純であることに間違いはなく、また一部の人にとっては実行可能なものです。しかし地球上の大部分の人々にとって、これは実行可能ですか。(実行可能ではありません。)少なくともあなたがたにとって、これは実行可能ですか。(実行可能です。)あなたがたが「実行可能です」と言うのはなぜですか。それは、神の業の認識という基礎から生じるものだと言えるでしょうか。その条件は神の支配と計画に従うことだと言えるでしょうか。(言えます。)物事を変える方法はありますが、いま話し合っている主題ではありません。神は人間のいのちの一つひとつについて、その最後の時まで責任を負います。神はあなたに施し、サタンに破壊されたこの環境の中、たとえあなたが病を患ったり、汚染されたり、害を受けたりしても、そうしたことは関係ありません。神はあなたを施し、あなたを引き続き生かします。あなたはこのことを信じますか。(信じます。)神は人が死ぬのを軽々しく許したりはしません。

あなたがたはいま、神を万物のいのちの源として認めることの重要性について、何かを感じるようになりましたか。(なりました。)何を感じていますか。教えてください。(それまでは、山、海、それに湖を、神の御業と関連づけようとは考えませんでした。今日、神の交わりを聞いて初めて、これらのものの中に神の御業と知恵があることがわかりました。神は万物を造り始めたときでさえ、一つひとつのものの中に運命と神の善意をすでに吹き込まれていたことがわかります。万物は相互に強め合い、頼り合っており、人間は最終的な受益者です。本日の話は新鮮かつ斬新に感じるものであり、神の御業がどれほど現実的かが感じられます。現実の世界、私たちの日常生活、そして万物との遭遇において、そのとおりであることがわかります。)あなたは本当にわかったのですね。神は確固たる根拠をもたずに、人間に施すことはありません。神の施しは2、3の短い言葉ではないのです。神は数多くのことを行ない、たとえあなたの目に見えなくても、それはすべてあなたに資するものなのです。人間は、神が人間のために造った万物の中、人と万物が相互に依存する環境において暮らしています。たとえば、植物は空気を清める気体を吐き、人は清められた空気を呼吸してそこから益を得ます。一方、一部の植物は人間にとって有害ですが、別の植物がそうした有毒な植物を妨げます。これは神の創造の奇跡です。しかしその主題は後に回しましょう。今日、私たちの議論はおもに人間とその他の被造物との共存についてであり、それら被造物がなければ人間は生きられません。神による万物創造の重要性は何ですか。人間はその他の被造物がなければ生きられませんが、それは生きるのに空気を必要とするのと同じことです。真空状態に置かれれば、あなたはすぐに死んでしまいます。これは、人間がその他の被造物から離れて生きられないことを示す、極めて単純な原則です。では、人間は万物に対してどのような姿勢をとるべきでしょうか。それらを大事にし、守り、有効に使い、破壊せず、無駄遣いせず、気まぐれに変えないという姿勢をとるべきです。万物は神から生じて人間に施されたものであり、人間はそれらを良心的に取り扱わなければならないからです。本日は、これら二つの主題について議論しました。これらの内容を入念に考え、じっくり考慮してください。次回は一部の内容についてさらに詳しく議論します。本日の集会はこれで終わりです。ごきげんよう。(ごきげんよう。)

2014年1月18日

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