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「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋

1.恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を成就しただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊が鳩のようにイエスの上に降りてきた。」それから、イエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても―おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが―それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思や逸脱があったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すものに間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が意のままに神の代わりをすることを聖霊は赦さない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを赦さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼にされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これは聖霊によって支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はそれを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めるに違いない。ヨハネの働きがどれほど偉大であったかにせよ、聖霊に支えられていたとしても、その働きは境界線を超えることがなかった。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを赦された働きは、それよりはるかに重要である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

2.悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後には彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは悪者を代表しているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。あなたが自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、わたしは神である、わたしは神のひとり子である、と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人が神に地位や敬称を与える必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

3.聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、彼の働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なうすべての働きは、神の経営(救いの)計画の中で行なわれる働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供する。彼はそれ以前の人たちが歩いた道から新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導く。この人たちが提供するものは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちの役目を果たし、生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられているだけである。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)の中で一つのことを続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては創造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。……よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止しようとも、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や創造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代のもののようではない。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続あるいはさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、それは熟考と勉学によってなされるか、あるいはそれは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は慣習を保持し「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

4.ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きは徹底したものではなく、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、イエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きをした。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさんあり、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の心の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観からは分からない。特にヨハネは極めて偉大な働きをしており、その上、彼は聖霊の約束で生まれ、彼の働きは聖霊によって支えられていた。そのように、彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観はその人の本質を語るわけではないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらそれぞれの段階はイエスによって実行されたが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。これはヨハネと同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が実践すべきことに関する言葉と、人が恵みの時代に従うべき道がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。そのような働きはヨハネによっては実行されることは決してできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

5.もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに対して現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々がいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることはすべて限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百ページ以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。……これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスは誕生してから聖書に書かれていることだけしか行なわなかったとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上の働きはあり得ないと信じているかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

6.肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは神は聖なる存在なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書は人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまでイエスは普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人としてのイエスの生涯で、神としての働きの段階ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊はすぐに働きを始めず、職分を始めるべき日までイエスは普通の人としての生活をしていただけである。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前に、イエスは顕示を受けないままで、しるしも不思議も行わなかった時期があった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりは恵みの時代の始まりでもあった。この理由で、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。……イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なものは少しも持っていなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように、人は神の受肉した肉体は普通の人ではなく、受肉した神には人間性は全くないと誤って信じてきた。確かに、人が地上で見る神の働きと神に関する全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことである、というのは神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされた。それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちていたが、それらはすべて超自然ではなかったであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらはイエスの普通の人間性において達成されたということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

7.肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体に原理がある。イエスは普通の人間性を持っていたということを基準に、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、教師に聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。イエスはその働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うはずの働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それからは重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行したならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

8.受肉した神の働きには多くの原則がある。人にはどうしても分からないことがたくさんあるが、それでも人は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量り、神に過度の要求をする。そして今日でさえ、自分の知識が自分の観念以上のものではないということに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働くために肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、人となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが人となることを申し分なく証明することができる。肉は平凡で普通の人を意味する。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

9.なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となったことをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々の間で働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人の間に来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。神によって導かれたすべての時代で、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンに握られてしまうことになる。人が神によって案内された時代に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得するだろう。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたに何も求められていない、とわたしは言う。それこそ自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たしているという意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きを妨げないこと、これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人の間では働かない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神で、それ以上に、働きを成就するのは神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)に関連する全てのことは神の手で行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、神の計画すべてが成就するよう全時代を終わらせるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

10.イエスはユダヤで働いたとき、公然と働いたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働き語る。不信者たちはこれに全く気付いていない。あなたがたのあいだでのわたしの働きは他の働きとは切り離されている。これらの言葉、刑罰や裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。不信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。この人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何も知らない。この働きはあまりにも隠されているからである。彼らにとって受肉した神は隠されたことだが、この流れにある人たちにとっては、神は明らかにされたと見做すことができる。神においてはすべてが公然とし、すべてが明らかで、すべてが解放されているが、これは神を信じている人たちにとってだけそうなのであり、不信者には何も知らされていない。今ここで行なわれている働きは彼らが知ることがないよう厳しく隔離されている。もし彼らが気付いたならば、罪の宣告と迫害だけが待っている。彼らは信じない。最も進歩の遅れた場所である赤い大きな竜の国で働くのは簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きはこの場所で進めることはどうしてもできない。もしこのような働きが公然と行なわれたなら、彼らがどうして黙認することができるだろうか。それはもっと大きな危険を伴うのではないだろうか。もしこの働きが隠されず、イエスが見事に病人を癒し悪霊を追い出したときのように続けられたなら、とうの昔に悪魔に「捕まえられ」ていたのではないだろうか。悪魔は神の存在に我慢することができるだろうか。もし今わたしが人に説教をし、教えるために会堂に入って行こうとしたなら、とっくに粉々に砕かれていたのではないだろうか。それではどうやってわたしの働きを続けることができるのだろうか。しるしや不思議が公然と行われない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは不信者によって見られることも、知られることも、発見されることもない。もしこの段階の働きが恵みの時代のイエスの働きのように行なわれたなら、それはあまり安定したものではなかったであろう。だから、働きがこのように隠されているのは、あなたがたにとっても、すべての働きにとっても有益である。地上での神の働きが終わると、すなわち、秘密にされているこの働きが終わると、この段階の働きは広く公にされる。すべての人たちは中国に勝利者のグループがいることを知るだろう。肉となった神が中国にいて、神の働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始めるのである。なぜ中国はまだ衰退や崩壊を見せていないのか。神が中国でその働きを自ら実行し、あるグループの人々を完全にして勝利者としたということが分かるのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より

11.人となった神は、その働きを遂行しつつ従ってくる人たちだけに自身を現わすのであり、すべての造られた者たちに顕すのではない。神は人に神の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は地上から去る。神はこれから来る働きの邪魔にならないように、人間のあいだでは長い間留まっていることはできない。神が大勢の人たちに顕すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度人となったときの肉体の姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、神が人として働くときに従って行く人たちだけに示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。それはイエスが働きを行なっていたときにユダヤ人にだけ自分自身を示し、決して公然と他の国々には示さなかったのと同じである。したがって、ひとたび神が働きを完成すると、人々からすばやく離れ留まらなかった。それ以降、神はその姿を人には顕さなかった。その代わり、働きは聖霊によって直接遂行されたのである。人となった神の働きが完全に終わると、神は人間の世界を離れ、肉となったときと同じ働きは二度としない。次に続く働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は神の肉の姿を見ることはほとんどできない。神は自身を人に全く見せず、永遠に隠れたままである。人となった神の働きのための時間は限られており、それは特定の時代、時、国、そして特定の人々のあいだで行なわれなければならない。そのような働きは神が人となった期間中の働きだけを表しており、その時代に特定されたものであり、ある特定の時代の神の霊の働きを表しており、神の働きの全体を代表しているわけではない。よって、人となった神の姿はすべての人々には見せられないであろう。大勢の人たちに見せられるのは、神が二度人となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神がすべき働きが完成すると、人となった神は絶対に地上から離れなければならない。というのは、神はしなければならない働きのためだけに来るのであり、姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度人となったことですでに果たされているが、かつて神を一度も見たことのない国の人々には神は公に自身の姿を見せることはない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より

12.人となった神の働きは、時代を開くことであることをあなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神はその霊のすべての働きを達成することはできない。これはユダヤ人としてのイエスの姿が、ユダヤで働いたときの神の姿だけを現しており、そのときの神は十字架の働きだけをすることができたのと同じである。イエスが肉体をもっていた間、イエスは時代を終わらせ、人類を破滅させる働きはできなかった。よって、イエスが十字架にかけられ働きを終えてると、イエスは高く昇り、自身を人間から永遠に隠した。それ以降、異邦人の国々の忠実な信者たちは主イエスの顕示ではなく、壁に貼られたイエスの絵しか見ることかできなかった。この絵は人によって描かれたものであり、神自身が人に見せた姿ではない。神は二度人となったときの姿を大勢の人たちに公けには見せることはない。人類のあいだでなされる神の働きは、神の性質を人々に理解させることである。これは様々な時代の働きを通して人に見せることで全て達成される。イエスの顕示を通してというよりは、神が知らせた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉の姿を通して知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知られ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より

13.神が二度人となったときの働きがひとたび終わると、異邦人の国々に神はその義である性質を現し始め、大勢の人たちがその姿を見ることを許される。神は自身の性質を顕すことを願い、これを通して、あらゆる種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉体における神の働きは広範囲に及ぶものではない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしはあなたがたのあいだだけで働いている)。なぜなら、肉体における神の働きには境界線があり限界があるからである。神は受肉した肉体を通して永遠の働きをしたり、異邦人の国々のすべての人たちに現れる働きをするのではなく、ただ平凡な普通の肉の姿で短い期間の働きをするだけである。肉でのこの働きは範囲が限られたものでなくてはならず(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)、その後この限界内でなされた働きを通して拡張されなくてはならない。もちろん、そのような拡張の働きは聖霊によって直接行なわれ、神の受肉した肉体の働きではない。肉体の働きには限界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからである。肉の働きでは、それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行なう。だから、肉でなされた働きは限界内における始まりのひとつである。神の霊はその後この働きを続け、拡張する。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より

14.神は時代を先導する働きをし、新時代を開き、古い時代を終わらせるためだけに地上に来る。神は地上での人間の生涯を過ごし、人間のように実際に人生の喜びや悲しみを体験し、自身の手で誰かを完全にし、成熟するのを見守るために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新時代を開き、古い時代を終わらせることである。つまり、ある時代を開き、もう一つの時代を終わらせ、自身の働きを直接することでサタンを打ち負かすことである。神が直接働きをする時はいつも、戦場に足を踏み入れるようなものである。肉において神はまず世界を打ち負かし、そしてサタンに勝利する。神は地上のあらゆる人々が従う正しい道、平和で喜びのあるいのちを与え、すべての栄光を獲得し、二千年の働きの幕をあげる。しかし、神は地上で長い間人間と住むことはできない。なぜなら、神は神で、結局人間とは違うからである。神は普通の人の一生を生きることはできない。すなわち、神は全く普通の人として地上に住むことはできない。というのは、神はそのような人生を営むための平凡な人の普通の人間性をほんの少ししか持っていないからである。つまり、神がどのようにして地上で家族をもって子どもを育てられるというのか。これは不名誉なことではないだろうか。神は普通の方法で働きをするという目的のためだけに、普通の人間性をもつのであって、普通の人のように家族を持つためではない。神の普通の理知、普通の心、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族を持つ必要はない。全く不必要である。神が地上に来ること、それは言葉が肉となったということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで服従すること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行なうすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。よって、神は並はずれた人間性を持っていながらも、あえて布告をすることもなく自身がするべき働きに集中しているのである。あなたがたは、なぜ神が人となりながらも神の普通の人間性を自慢したり証したりせず、行ないたい働きをただ実行しているのか知らなければならない。これこそあなたがたが人となった神の中に神性だけを見る理由であり、それは神の人間性を人が見習うようにと神がその人間性を主張することはないからである。人が人を導く場合にのみ、人はその人間性を語る。そうすることで、他の人たちを感銘させたり確信させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(すなわち人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人を感銘させたり、すべての人類に神を崇拝させたりはしないが、ただ神への畏敬の念を人に植え付け、神の人間には図りがたい深遠さを人に気づかせたりするだけである。神は人を感銘させる必要はない。神がすることは、あなたがひとたび神の性質に触れたならば、神を畏れるようになることだけである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より

15.受肉した神の働きは、聖霊によって用いられる者の働きとは異なる。神が地上で働くとき、神はその職分をまっとうすることしか関心がない。神の職分に関連していない他のあらゆることに関しては、見て見ぬふりをするほど何の関与もしない。神はただ行なうべき働きを実行し、人がするべき働きには全く関心を持たない。まるで他のあらゆることは全く神の責任ではないかのように、神の行なう働きは自身が存在する時代とまっとうしなければならない職分に関連していることだけである。神は人として生きる上でのもっと基本的な知識を備えることはせず、社交術や、人が理解できる他のことは何も学ばない。神は人が持ち合わせていなければならないあらゆることには全く関心を示さず、ただその本分である働きをするだけである。そして、人が見ると、受肉した神はあまりにも欠陥があり、人が持つべきものも無視するほどで、これらのことは理解していないように思われる。人生の一般的知識のような事柄や、行動の原則や他人との付き合いなどは神にとってなんら重要性はないようである。いずれにせよ、あなたがたは受肉した神から異常な行動などは少しも感ずることはできないであろう。すなわち、神の人間性は、その頭脳による普通の論理的思考を備えた普通の人としての自身の生活を維持するだけであり、善と悪を見分けることを可能にする。しかし、神には他の何も備わってはおらず、それらはすべて人(被造物)のためだけにある。神が肉となるのはその職分をまっとうするためだけである。神の働きは時代全体に向けられており、特別な人あるいは特別な場所に向けられているのではない。神の働きは全宇宙に向けられている。これが神の働きの方向性であり、神が働く原理である。これは誰によっても変えることはできず、人は何ら関与することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

16.神はその働きを完成させるために地上に来たのであり、地上での神の働きは束の間である。神は霊がその肉体を教会の並はずれた指導者に養育することを目的として地上に来るのではない。神が地上に来るとき、それはことばが人となることである。しかし、人は神の働きを知らないので、そのような意図を神に押し付ける。しかし、あなたがたはみな、神は人となったことばであり、神の代役を一時的に果たすために霊により養われた肉ではないことを認識しなければならない。神自身は養われたものではなく、肉となったことばであり、今日、神はあなたがたすべてのあいだでその働きを正式に行なう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

17.神が肉となるのは、時代を導き新しい働きを軌道に乗せるためだけである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割とは大きく異なり、このふたつを同じ次元で話すことはできない。人が働きのために用いられるようになるまでには、長期にわたる教育と完全にされることが必要で、特別に偉大な人間性が必要とされている。人間は普通の人間としての理知を維持しなければならないだけでなく、他人の前での行動の原則や規則を多く理解でき、その上、人の知恵や道徳の多くを学ばなければならない。これが人が備えていなければならないものである。しかし、受肉した神に関してはそうではない。というのは、神の働きは人を表すのでもなければ、人の働きでもないからだ。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神が行なわなければならない働きの直接的遂行である。(当然、神の働きは行なわれるべき時に行なわれ、無作為に行なわれるのではない。むしろ、神の働きはその職分をまっとうするべき時に始まる)。神は人の人生や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、これは神の働きに影響しない)。神はその職分をまっとうするべき時に、するだけである。神の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きは影響されない。これはちょうどイエスがその働きをしたときのようである。誰もイエスが誰であるか知らなかったが、イエスはただ自身の働きを進めた。だがそれはイエスがしなければならない働きを行なう上で、何の影響も与えなかった。よって、イエスは最初自身の身分を告白することも、宣言することもなく、ただ人を従わせた。当然、これは神のへりくだりだけではなかった。それは神が肉体で働く方法であった。神はこの方法でのみ働くことができた。というのは、人は裸眼で神を認識できなかったからである。たとえ認識できたとしても、人は神の働きを助けることはできないであろう。さらに、神は人が神の肉体を知るために人となったのではなかった。それは働きを行い、職分を成就するためであった。この理由で、神は自身の身分を知らせることに重点を置かなかった。神がしなければならないすべての働きを完成させたとき、神の身分と地位はすべて自然に人に理解された。受肉した神はただ沈黙を守り、決して何も宣言しない。神は人のことや、人が神に従うことにどのように対処しているかなどに気を留めない。そしてただ職分の成就とすべき働きを進めていくだけである。誰も神の働きに立ちはだかることはできない。神の働きを終える時が来ると、それを終結し、終わらせることが必須である。だれもそれに反する指示を出すことはできない。神の働きが完成し、神が人から離れてはじめて、まだ完全には明確ではないにしても、神が行なう働きを人は理解するのである。そして、神が最初に働きを行なったときの神の意図を人が完全に理解するには長い間がかかるであろう。すなわち、神が肉となる時代の働きは二部に分かれる。一部は肉となった神の働きと言葉を通してである。ひとたび神の肉体の職分が完全に成就されると、働きの別の部分は聖霊によって用いられる人によって実行される。それが人が自分の役目を果たす時である。というのは、神はすでに道を開いており、今こそ人がそこを歩まなければならないからである。すなわち、神はその働きの一部を行なうために肉となり、働きは聖霊や聖霊によって用いられる人たちによって引き継がれるのである。それゆえ、この働きの段階で受肉する神によってなされる主要な働きを人は知らねばならない。人に求められていることを神に求めようとしないで、神が肉となる意義や神がなすべき働きを人は正確に理解しなければならない。神に求めることは人の過ちであり、観念であり、それ以上に不従順である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

18.神は人に神の肉体を知らしめたり、人に受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉したのではない。神は人の識別能力を鍛えるために受肉するのではない。ましてや受肉した神を人が礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受ける意図を持って受肉するのでもない。これらのどれも神が肉となる本来の心ではない。また、神は人を咎めるためや、意図的に人の本性を現すために、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。これらのうちどれも神の本来の心ではない。神が肉となるときはいつも、それは不可避の働きなのである。それは神が行なうさらに偉大な働きと、さらに偉大な経営(救い)のためであり、人が想像するような理由のためではない。神はその働きに必要なときだけ地上に来るのであり、必ず必要なときである。神はさまようことを意図に地上に来るのではなく、神がすべき働きを実行するために来る。そうでなければどうして神がこの働きを行なうというそのような重荷を背負い、大きな危険を冒すのだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に特別な意義をもって肉となる。もしそれが人に神を見させ、彼らの目を開かせるためだけであったなら、神は絶対にそのように軽々しく人のもとには来ないであろう。神が地上に来るのは、その経営と偉大な働きのためであり、神がもっと人を得るためである。神は時代を代表し、サタンを打ち負かすために来るのであり、神がサタンを敗北させるのは肉においてなされる。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらのことはすべて神の経営に関係することで、全宇宙に関する働きである。もし神が人に神の肉体を知らしめ、目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神はすべての国々を旅しないのであろうか。そんなことはいともたやすいことではないであろうか。しかし神はそうしなかった。その代り、住みつき神のすべき働きを開始するのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。神はひとつの時代全体を代表し、ひとつの時代全体の働きを行なう。前の時代を終わらせ、新しい時代に導く。これらの事すべては、神の経営に関する重要な事柄で、地上に来た神によって実行される働きの一段階の意義である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

19.あらゆる時代の働きは神自身によって開始されるが、神の働きが何であれ、神はあなたがたのために運動を起こしたり、特別な会議を催したり、ある種の組織を設立するために来るのではないことを知るべきである。神は神がすべき働きを行なうめにだけ来るのである。神の働きは誰によっても制限されることはない。神は望むとおりにその働きを行い、人が何を思っても、どんなことを知っていても、神はその働きを実行することだけに集中する。世界の創造以来、すでに三段階の働きがあった。ヤーウェからイエスまで、律法の時代から恵みの時代まで、神は決して人のために特別会議を召集したり、神の働きを拡張するために特別な世界規模の作業会議などを全人類のために召集したりすることもない。神は適切な時に適切な場所で、ひとつの時代全体の最初の働きを行なうだけで、それを通して人間を生活において導くために時代を切り開く。特別会議は人の集会である。休日を祝うために人々を召集することは人の働きである。神は休日を祝うことはなく、それ以上に、休日を嫌う。神は特別会議を召集しないし、それ以上に特別会議を忌み嫌う。肉となった神の働きは何であるか今や正確に理解すべきである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

20.神の性質のすべては六千年の経営(救いの)計画を通して表わされた。それは恵みの時代もしくは律法の時代だけに現れたのではなく、もちろん終わりの日のこの時期だけに現れるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表す。終りの日になされる働きは、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、三段階は互いに繋がって一つの実体となり、それはひとつの神の働きのすべてである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分けられている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりであり、恵みの時代になされた働きは贖いである。この六千年の経営(救いの)計画全体の働きのビジョンに関しては、誰も識見を得ることも、理解することもできない。そのようなビジョンは神秘的なままである。終わりの日に、言葉の働きだけが、神の国の時代へと導くためになされるが、それはすべての時代を現してはいない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもなく、恵みの時代や、律法の時代を現してはいない。ただ、終わりの日には六千年の経営(救いの)計画のすべての働きがあなたがたに現されるのである。これは奥義の覆いを取り除くことである。このような奥義の覆いは、人が取り除くことはできない。人が聖書についてどんなに深く理解していても、人は聖書の本質を理解していないので、理解は言葉以上の何物でもない。人が聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、言葉の幾つかを説明したり、有名な聖句や章を綿密に調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。というのは、人が見ているのは死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人はそのような働きの奥義を解明することはできないからである。よって、六千年の経営(救いの)計画の奥義はもっとも大きな奥義であり、最も深遠に隠されていて、人には全く理解できないものである。神自身が説明し、明かすのでないなら、誰も神の心を直接理解することはできない。そしてそれらは永遠に人間には謎のままで、封印をされた奥義のままであり続けるであろう。宗教関係者たちのことは言うまでもなく、もし今日あなたがたに伝えなかったなら、あなたがたも理解することはできなかったであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

21.終わりの日の働きは三段階のうち最後の段階である。それは新しい時代の働きで、経営(救い)の働きの全体を表していない。六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神はただ人間に律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことを言うのは誤りであろう。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と定義して、そこに閉じ込めてしまうだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を人間のために犠牲にし十字架にかけられることが出来ることしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの時代は神の性質の一部だけを現すのである。神の性質のどの側面が律法の時代に、また恵みの時代に、また今の時代に表わされているかに関しては、これら三時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表すことができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に理解することができる。この三段階の一つも排除することはできない。あなたはこれら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神がただ律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架だけが神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。現在の段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされなければならない。人が奥義をその深みまで知り尽くし、心の中で完全にはっきりと理解できるようにである。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わっているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

22.六千年の経営(救いの)計画を通して行われたすべての働きは、今になってやっと終わりを迎える。これら全ての働きが人に明らかにされ、人のただ中で実行されて初めて、人は神の性質、神の所有しているもの、神であるもののすべてを知るだろう。この段階の働きが完全に終わると、人に理解されていなかったすべての奥義は明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理がはっきりし、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそこの段階でなされるべきすべての働きである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

23.今日人に求められるのは、過去に求められたものとは異なり、律法の時代に人に求められたものとはさらに異なる。さて、神が働きをイスラエルで行なっていたとき、律法の下で人に求められたものは何だったろうか。それは彼らが安息日とヤーウェの律法を守ること以上には何もなかった。安息日には誰も働くことは許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日に人は働き、集まり、いつものように祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けねばならなかった。それだけではなく、断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭に被り物をかぶり、他人の足を洗うことを求められていた。今や、そのような規律は廃止され、人はもっと大きなことを要求されている。というのは、神の働きは深まり続け、人のいのちへの入りはさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、全てのことが伝えられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで結果を出すことができる。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、癒すためであった。当時はそのようにして聖霊が働いたが、今はそうではない。現在、聖霊は働きにおいて言葉を使い結果を出す。神の言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の心で、神が行なうことを欲する働きである。言葉を通して、神の心と神があなたに達成して欲しいものを理解できる。あなたは按手を受ける必要もなくただ神の言葉を直接実行に移すだけである。「わたしの上に手を置いてください。神様の祝福を受け取り、神様を共有できるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるであろう。しかし時代は変わり、これらは現在はすたれた時代遅れの過去の慣習である。聖霊は時代と共に働くのであり、ただ思いのままや、一定の規律に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに新しい働きをもたらさねばならない。これは働きのどの段階においても言えることで、だから神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりといった働きを多く行なった。しかし、現在ではそのようなことをするのは無意味であろう。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人が享受するのに十分の恵みがあった。人はいかなる代価を支払うことを要求されることもなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるように働きを行なわなければならなかった。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉による打ち砕かれ、そして言葉による懲戒と暴露を通して、人の中の不義を明らかにするためであり、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が楽しむのに十分であった。すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、精練されて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。それぞれの段階の働きは人類全体の進歩と時代に一致してなされる。すべての働きは意味があり、最終的な救いのためになされる。人類が将来良い終着点にたどり着くためであり、そして人類が最終的に種類に応じて区分されるためである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

24.終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

25.神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

26.最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。よって、三段階の働きの中で、神は二度のみ人の間で働きを実行するために肉となった。それは働きの三段階のうち一段階だけが、人を生活において導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神が肉となる場合のみ、神は人と共に生き、世の中の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。このようにしてのみ、神はその被造物である人に必要な実践的言葉を与えることができる。人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が捧げる祈りへの回答として天から直接に受けるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づくことなどできないからである。人が接触することができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はこの手段を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。第二の受肉は人の罪を取り除き、人を清めるには十分である。よって、第二の受肉は肉体での神の働きのすべてに終止符を打ち、神の受肉の意義を完成する。その後は、神の肉体での働きは完全に終わりとなる。第二の受肉の後、神はその働きのために三度目に肉となることはない。神の経営(救い)全体が終わっているからである。終わりの日に、神の受肉は神の選ばれた民を全て自身のものとし、終わりの日の人たちはすべて、それぞれの種類に応じて区分されている。神はもはや救いの働きをすることも、どのような働きを行なうためにも肉に戻ることはない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

27.終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精練し、裁き、明らかにする言葉のもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の罪を覚えず、罪に応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

28.人が今まで成し遂げてきたこと、つまり今日の人の身丈、認識、愛、忠誠、従順、識見は言葉による裁きによって得られた結果である。忠誠心を持ち今日まで立ち続けていられることは言葉を通して得られたものである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを人は今では理解でき、そこには人には達成できないことがたくさんある。それらは奥義と不思議である。だから、多くの人たちは服従して来た。誕生してから一度も誰にも従ったことのない人たちも、今日、神の言葉に触れると、彼らはそうと気付かないまま完全に従うのである。彼らはあえて綿密に調べることも、何か他のことを言うこともない。人類は言葉の下に倒れ、言葉による裁きの下に平伏している。もし神の霊が直接人に話しかけたら、人はみなその声に服従し、啓示の言葉がなくても倒れ、ちょうどパウロがダマスコへの途上で光の中で地にひれ伏したようになる。もし神がこのように働き続けたなら、人は言葉による裁きを通して自分の堕落を知り、救いを得ることもできないであろう。肉になることによって初めて、神は言葉を直接すべての人の耳元に届け、その結果聞く耳のある人はすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けることができる。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるというようなものではない。このような実践的でしかも並はずれた働きを通してのみ、長い間奥深く潜んだ人の古い性質を完全に明らかにし、人がそれを認め、性質を変えることができる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいては、神は実践的に語り裁くことで、言葉によって人に裁きの結果を達成する。これは受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉の神の権威を知らせ、言葉の働きが達成した結果を知らせ、霊が肉となったことを知らせるためになされ、また言葉による人間への裁きを通して神の権威を実証するためになされる。神の肉体は平凡で普通の人間の外形であるが、神が権威に満ちており、その「人」が神自身であり、その言葉は神自身の表現であることを人に示すのは言葉が成し遂げる結果である。これはすべての人間にこの「人」は神であり、肉となった神自身であり、誰も犯すことはできないことを示している。誰も言葉による神の裁きを超えることはできず、暗闇のどんな勢力も神の権威に打ち勝つことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

29.肉となったのは、肉は権威を持つこともでき、人に見え実体のある実践的な方法で、人の間で働きをなすことができるからである。そのような働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりも現実的で、その結果も明らかである。これは受肉した神の肉体は実践的な方法で語り、働くことができるからである。肉体の外形は権威を持たず、人が近づくことができる。一方、彼の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。彼が話し働くとき、人は彼の権威の存在を感じることはできない。これは彼の実際の働きにとっても好都合である。そして、そのような実際の働きはすべて成果を上げることができる。たとえ誰も彼の権威を持つことに気付かず、誰にも犯されることがないことや神の怒りを知らなくても、彼の覆われた権威と隠れた怒り、そして公に語られた言葉を通して、彼はその言葉により意図した成果を達成する。すなわち、口調や断固とした話し方、そして言葉の知恵のすべてを通して、人は完全に確信する。この様にして、人は一見何の権威も持っていないような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を達成するのである。これは受肉のもう一つの意義である。つまり、より現実的に語り、彼の言葉の現実性が人に働き、その結果、人は神の言葉の力の証人となる。だから、もし受肉によらないなら、この働きは少しも成果を得られず、完全に罪人たちを救うことはできないであろう。もし神が肉とならないなら、神は人の目に見えず、触れることの出来ない霊のままである。人は肉の被造物で、人と神は二つの違った世界に属し、性質も異なっている。神の霊は肉からなる人とは相いれず、それらの間には何の関係も作ることはできない。さらに、人は霊になることはできない。それだから、神の霊は被造物の一つになって、神の本来の働きをしなければならない。神は最高の場所に昇ることもできれば、へりくだって、被造物である人になって人々のもとで働き、生きることもできる。しかし人は高みに昇り、霊になることもできなければ、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。よって、神はその働きを実行するために人とならなければならない。最初の受肉のときのように、受肉した神の肉体のみが十字架にかけられることによって人を贖うことができたが、神の霊が人のために罪のためのいけにえとして十字架にかけられることはできなかったであろう。神は人のための罪のためのいけにえとして直接人となることができたが、人は神が人のために用意した罪のためのいけにえを受け取るために直接天に昇ることはできなかった。そういうわけで、この救いを受け取るために人を天に昇らせるのではなく、神に天と地のあいだを数回行ったり来たりすることをたのむことだけが可能なことなのである。というのは、人は堕落したので天に上ることはできず、ましてや罪のためのいけにえを手にすることはできないからである。よって、イエスは人のもとに来て、人がどうしても達成することができない働きを自ら行なう必要があった。神が肉となるときは必ず、どうしてもそうする必要があるからである。もしいずれかの段階が神の霊が直接行なうことができたなら、神は受肉という屈辱に耐えることはなかったであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

30.この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。言葉を通して、人は多くの奥義や過去の世代にわたる神の働きを理解するようになる。言葉を通して、人は聖霊の啓きを受け、言葉を通して、人はかつての世代に決して解明されなかった奥義や、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則などを理解するようになる。言葉によって、人は神の性質を知るようになると同時に、人の不従順さや反抗心を理解し、自分の本質を知るようになる。このような働きの段階と、語られた全ての言葉を通して、人は霊の働き、受肉した神の働きを知り、さらに彼の性質の全体を知るようになる。神の六千年以上にわたる経営(救いの)に働きについてのあなたの認識も言葉によって得られた。あなたが以前もっていた観念を知ったのも、それをわきに置くことができたことも、言葉を通して成されたのではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議を行なったが、この段階ではしるしや不思議は行われない。なぜ神がしるしや不思議をしないのかという理解も言葉を通して得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえもこのような成果を上げることはできなかった。預言者たちは将来何が起こるかという預言を語っただけで、当時神がしようとする働きについては語っていない。彼らは人を生活において導くためや、人に真理をもたらすためや、奥義を顕すために語ったのではなく、ましてやいのちを与えるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるが、それらはおもに人にいのちを授けるためである。現在の言葉は預言者たちの預言とは異なる。これは預言を語るためではなく、人のいのちのための、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階は人が地上で神を崇拝するように道を整えるためのヤーウェの働きであった。それは地上での働きの源となる場所を見つけるための始まりの働きであった。当時、ヤーウェはイスラエルの人たちに安息日を守り、両親を敬い、他の人々と平和に暮らすよう教えた。当時の人たちは人間とは何であるかも、地上でどのように生きていくべきかも理解していなかったので、最初の働きの段階で、神は彼らの生活を導かなければならなかった。ヤーウェが彼らに語ったことはすべて、人類はそれ以前は知らず、所有していなかった。当時多くの預言者たちが起こされて預言を語ったが、すべてがヤーウェの指導の下になされた。これは単に働きの一部であった。最初の段階では神は肉となることはなく、よって神は預言者たちを通してあらゆる部族や国々を諭した。イエスがその働きを行なったとき、イエスは今日のように多くは語られなかった。終わりの日のこの言葉の働きの段階はかつての時代や世代には行なわれたことがない。イザヤやダニエル、ヨハネは多くの預言を語ったが、そのような預言は今語られている言葉とは全く違った。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉はそうではない。もしわたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解することができるだろうか。わたしが将来のことについて、わたしが行ってしまってからのことを語ったならば、あなたはそれをどうやって理解できるであろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にもなされなかった。おそらく「ヤーウェもその働きの時代に言葉を語りませんでしたか。イエスも病気を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議をするのに加えて、当時言葉を語りませんでしたか」と言う人がいるかもしれない。言葉がどのように語られるかには違いがある。ヤーウェによって語られた言葉の本質は何であったであろうか。ヤーウェは地上での人々の生活を導いていただけで、それはいのちの霊的なこととは関係がなかった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々を諭すためであったと言われているのはなぜであろうか。「諭す」という言葉は、明白に語り直接的に指示することを意味する。彼は人にいのちを与えたのではない。むしろ、人の手を取って、どのように彼を崇拝するかを教えたのである。たとえ話はあまりなかった。イスラエルでのヤーウェの働きは、人を取り扱ったり、鍛練したりすることでも、裁きや刑罰を与えることでもなかった。それは導くことであった。ヤーウェはモーセに神の民に荒野でマナを集めるように命じた。毎朝日の出の前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保管することはできなかった。翌日にはカビが生えたからである。ヤーウェは人を説教したり、人間の本性について暴露せず、人の考えや観念を暴露することもしなかった。ヤーウェは人を変えることはなく、生活において人を導いた。当時、人は子どものようで何も理解せず、基本的な機械的な動きしかできなかった。よって、ヤーウェは人々を導くため律法を制定した。もし真の心で求める全ての人たちが現在なされている働きの認識を得て、完全に確信することができるように福音を広めることを願うなら、あなたはそれぞれの段階における働きの内情、本質、意義をはっきりと理解しなければならない。あなたの話を聞くことで、人々がヤーウェの働きとイエスの働きを理解することができ、さらに今日なされているすべての働きや三段階の働きの関係や違いなども理解できるようにしなさい。人々が話しを聞いた後、三段階のどれも他の段階を妨害しないが、それら全ては同じ霊による働きであり、彼らは異なる時代に働きがなされ、その内容も異なり、語られる言葉も異なるが、働きの原則はひとつで同じものであることを理解できるようにしなさい。これらは人が理解すべき最も大きなビジョンである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

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