「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋

1. 人々がいのちの正しい道を歩み始めて以来、不明瞭なままになっている事柄が多くある。人々は神の働きについて、また自分たちがなすべき多くの働きに関して依然として完全な混乱状態にある。それは、一方では人々の経験における逸脱と理解力の限界に起因し、他方では、神の働きがまだ人間をその段階に至らせていないからである。したがって、誰もが霊的な問題の大部分について曖昧なままである。あなたがたは自分が何に入るべきかについて不明瞭であるだけでなく、神の働きに関してはそれ以上に無知である。これは単にあなたがたの欠点の問題ではなく、宗教界の人間すべてに伴う大きな欠点である。ここに人間が神を知らない理由の鍵があり、したがってこの欠点は神を求める人全員に共通する欠点である。神を知るにいたった者や神の素顔を見た者は、今まで一人もいない。神の働きが山を動かしたり、海を干上がらせたりするのと同じくらいに困難になったのはこのためである。これまでに、神の働きのために自らの命を犠牲にした者は何人いるであろうか。神の働きのために世に捨てられた者は何人いるだろうか。神の働きのために死ぬまで苦しんだ者は何人いるだろうか。神への愛のために目に涙を溜めて、不当に非難されたまま死んだ者は何人いるだろうか。残酷で無慈悲な迫害を受けた者は何人いるだろうか……そのような悲劇が発生するのは、すべて神に関する認識が人間に欠如していることに起因するのではなかろうか。神を知らない者に、どうして神の前に来る面目があろうか。神を信じつつ、神を迫害する者に、どうして神の前に来る面目があろうか。こうした事柄は、宗教界に属する者だけの不備ではなく、むしろあなたがたと宗教界に属する者の共通点である。人々は神を知らないまま神を信じる。それだけが理由で、人々は心の中では神を崇めることがなく、心の中では神を畏れない。この流れの中でも、自らが想像する働きを仰々しく行い、自らの要求や途方もない欲望に従って神の働きを行う者さえいる。多くの者が大胆に行動し、全く神を尊ばずに自らの意志に従っている。そうした状況は、人々の自分勝手な心の完壁な具現化ではなかろうか。そうした状況は、人々が有する過多なごまかしの要素を表しているのではなかろうか。確かに、人間は最も聡明であるかも知れないが、その才能が神の働きに取って代わることがどうしてありえようか。人々は神の重荷に配慮するかも知れないが、人間は過度に身勝手に行動してはならない。人々の行動は、本当に神聖なものであろうか。はっきりと確信できる者が存在し得るであろうか。神の証しをし、神の栄光を受け継ぐことは、神が例外を設けて人々を持ち上げているのである。人々にそんな価値があるであろうか。神の働きは開始されたばかりであり、神の言葉は述べられ始めたばかりである。現時点において、人々は自らについて自信をもっているが、それは単に、自ら恥辱を招いていることになるのではなかろうか。人間の知識は遥かに少ない。最も才能ある理論家でさえ、最も雄弁な演説者でさえも、神の豊かさを全て説明することは出来ないのであるから、あなたがたが説明出来るのは、それと比べてどの程度少ないであろうか。あなたがたは、自らの価値を天よりも高くせず、むしろ理性に優れ、神を愛することを求める人々よりも低い者とみなすべきである。これがあなたがたが入るべき道である。すなわち、自らを他の誰にも遥かに及ばないとみなすこと。あなたがたが自らをそれほど高い存在であるとみなすのはなぜだろうか。あなたがたが自らをそれほど高く評価するのはなぜだろうか。人生の長い道中において、あなたがたはまだ最初の数歩を進んだにすぎない。あなたがたに見えるのは、神の腕のみであり、神の全てではない。神の働きをさらに見て、自らが入るべきものをさらに発見することは、あなたがたの義務である。なぜなら、あなたがたは殆ど変化していないからである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より

2. 人間に対して働きを行い[1]、人間の性質を変化させる上で、神の働きは決して止まらない。なぜなら、人間には不足する部分が多すぎるからであり、神が定めた基準に遥かに及ばないからである。したがって、神から見れば、あなたがたは永遠に生まれたての赤子であり、神を満足させる要素を殆ど備えていない。なぜなら、あなたがたは神の手による創造物に過ぎないからである。誰かが自己満足したならば、その者は神により忌み嫌われるのではなかろうか。あなたがたが現在神を満足させることが出来ると言うのは、あなたがたの肉の体の限られた観点から話すことであり、もしあなたがたがほんとうに神と闘ったならば、永遠に闘技場で倒されるであろう。人間の肉は、いまだかつて勝利を味わったことがない。人間が短所を補う長所を得るには、聖霊の働きによるほかない。事実、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない堕落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。人々が神の働きに留意する気がないのであれば、その経験は永遠に断片的かつ不完全のままであるしかなく、人々の入ることは永遠に空虚である。神が世に来てから数千年の間、高尚な理想を抱く人間が何人も、そして何年もの間、神がその働きを行うために神により用いられてきた。しかし、神の働きを知る者は極めて少なく、ほぼ皆無である。そのため、無数の人間が神に反抗する役割を担うと同時に、神の働きを担っている。なぜなら、人間は神に与えられた地位において、神の働きよりもむしろ人間の働きを行っているからである。これが働きと言えるであろうか。どうして人々はいのちに入ることができるのか。人間は、神の恵みを受け取り葬り去った。そのため、何世代にもわたり、神の働きを行う者は入っていかない。彼らは神の働きを知る事について全く語らない。なぜなら、神の知恵についてほとんど何も理解していないからである。神に仕える者は多数いるが、そうした者は、神が如何に高みにあるかを知ることが出来ない。このため、彼らは自らを神と仕立て、他人に礼拝させるようにしたのである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より

3. 働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。多くの兄弟姉妹は、長年の経験を経た後になっても、神のために働くことについて考えたことがない。なぜなら、人間が考える働きとは、神が求める働きと矛盾するからである。したがって、働きの問題について人間は一切関心を持たない。そしてそれがまさに、人間がいのちに入ることが極めて偏っていることの理由でもある。あなたがたは皆、働きの全ての面をよりよく経験出来るように、神のために働くことによりいのちに入ることを目指すべきである。これが、あなたがたが入るべきことである。働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。長年にわたり神に仕え、人間を牧してきた者は、単に働きや説教をいのちに入ることとみなしてきた。また、誰も自らの霊的経験を重要ないのちの入りと考えてこなかった。むしろ、彼らは聖霊の働きによる啓きを利用して他の者に説教をする。説教をするとき、大きな負担を負い、聖霊の働きを授かり、それによって聖霊の声を伝える。この時、働きを行う者は、あたかも聖霊の働きが自らの霊的経験であるかのように悦に入り自己満足する。彼らはその時自分が述べた言葉が、自分そのものであると感じ、また自分の経験が自分が述べたほど明瞭でないかのように感じる。さらに、彼らは話をする前には何を話すべきか全くわかっていないが、そうした者の中で聖霊が働くと、彼らは尽きることなく連続して言葉を発する。このようにして説教を行った後、あなたは自分の実際の霊的背丈が自分が考えているほど小さくないと感じる。こうして聖霊があなたの中で何度か働いた後、あなたは自分には既に背丈があると判断し、聖霊の働きを自分自身がいのちに入ったこと、自分そのものであると誤って考えてしまう。あなたが絶えずこの経験をすると、自らがいのちに入ることについて不注意になる。そして気付かぬうちに怠惰になり、いのちに入ることを全く重視しなくなる。それゆえ、他人を牧する時は、自分の背丈と聖霊の働きを明確に区別する必要がある。そうすることで、あなたがいのちに入りやすくなり、あなたの経験にさらに役立つであろう。聖霊の働きを自らの経験であるとみなしている人間は、堕落しつつある。したがって、あなたがたが尽くす本分が何であるかを問わず、自分のいのちの入りを重要な学びと考えるべきである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より

4. 働くのは、神の心を満たし、神の心にかなう人々を神の前に来させ、人間を神の許へ導き、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものとするためである。そのため、働きの本質を把握することは必須である。神に用いられる者として、人間はすべて神のために働く価値がある。すなわち、人間にはすべて聖霊に用いられる機会がある。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、人間が神の働きを行う時、人間には神に用いられる機会があるが、人間が言うことや知っていることは、必ずしも全て人間の霊的背丈ではない、ということである。あなたがたは、自らの働きにおいてのみ自分の欠点を知り、聖霊から一層多くの啓きを授かり、それによって自らの働きへより良く入ることが出来る。神の導きを人間が自分自身で入っていることであり、人間が生来備えていることであるとみなすならば、人間の背丈が成長する可能性はない。聖霊は、正常な状態にある人間を啓く。そうした時に、人間は自らが授かる啓きを、自らの実際の背丈であると勘違いすることが往々にしてある。なぜなら、聖霊は至って普通の方法により、すなわち人間が生来備えていることを活用して啓くからである。人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。そうなって初めて人間は自らの背丈がそれほど大きくないことを知り、身勝手さや個人的な考え、人間の強欲さなどが全て現れる。こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、物事がどう生じるかとか、それらがどこに向かうかを説明することはない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。…したがって、あなたがたが聖霊の働きを授かる時は、神により一層完全にされて、聖霊の働きの本質があなたがたの中で作用するように、同時に自らのいのちへの入りにさらに専心し、聖霊の働きとは何か、いのちに入ることとは何かを正確に理解し、聖霊の働きを自分のいのちへの入りに採り入れる必要がある。聖霊の働きを経験する過程において、あなたがたは聖霊と自分自身を知るようになり、数多くの極度の苦難の中で、あなたがたは神との正常な関係を育み、あなたがたと神との関係は日々親しくなってゆく。無数の刈り込みと精錬を経た後、あなたがたには神への真の愛が生まれる。その困難や咎め、苦難は自分の気力をくじくものではないことを知る必要があるのは、このためである。恐れるべき事は、聖霊の働きを授かるのみで、いのちに入ることがないことである。神の働きが終わる日が来た時、あなたがたの取り組みは徒労となるであろう。あなたがたは神の働きを経験したにもかかわらず、聖霊を知ることも、自らがいのちに入ることもないであろう。人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を敬愛する心を育むためのものである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より

5. 神は人間に多くを託し、人間がいのちに入ることについて数え切れないほどの方法で取り上げてきた。しかし、人間の器量が極めて乏しいため、神の言葉の多くが根付かなかった。人間の器量の乏しさの理由は様々である。たとえば、人間の考えや道徳の堕落や適切な養育の欠如、封建的迷信が人間の心を強く支配していること、堕落し、退廃した生活様式が人間の心の最も深い所に多くの不徳を宿らせていること、また文化的教養の習得が表面的なことなどである。国民のほぼ98パーセントが文化的教養が欠如しており、さらに高度の文化的教養を受ける者が寡少である。それゆえ人々は基本的に神や霊が何を意味するのかを全く知らず、封建的迷信から得た漠然とした曖昧な神のイメージしかもたない。また、数千年におよぶ「民族主義の高尚な精神」が人間の心の奥に残した有害な影響、そして、自由も大志も根気も向上意欲も全くなく、消極的で衰退的なまま、奴隷的精神状態にとらわれるなどといった人々が束縛されている封建的な考え方もある――こうした客観的要素により、人類の観念的態度や理想、倫理、性質に消えることのない不浄で醜悪な色調が加えられてきた。人間は暗黒のテロリストの世界で生活しているように思われるが、それを超越することを求める者や、理想の世界に移ろうと考える者はいない。人間はむしろ自分の境遇に満足し、子供を産み育て、日常生活の諸事に奔走して励み、汗をかき、快適で幸せな家庭や、夫婦の愛情、親孝行な子供達、平和な人生を送って晩年を迎える喜びを夢見ている。現在まで数十年、数千年、数万年にわたり、人間はそのようにして時間を浪費し、誰も完全な生活を創造することなく、全員がこの暗黒の世界で互いに殺し合うこと、名声や富をめぐって競い合い、互いに謀をすることにのみ没頭している。今まで、誰が神の心を求めたであろうか。今まで、神の働きに注意した者がいるであろうか。人間のあらゆる部分が闇の影響により占められている状態が、人間の本性となって久しい。そのため、神の働きを行うのは極めて困難であり、現在、神が人間に託したことに人々はさらに配慮しなくなっている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

6. 人間がいのちに入ろうとする過程においては、人生は常に退屈であり、祈祷や神の言葉の食べ飲み、集会を開くことなど、霊的生活の単調な要素に満たされているため、人々は神への信仰が何も楽しみをもたらさないと常に感じる。そうした霊的活動は常に人間元来の性質に基づいて行われるが、その性質はサタンにより堕落させられている。人間は聖霊の啓きを時折授かることが出来るものの、人間元来の考えや性質、生活様式、慣習は依然として内部に根付いているので、人間の本性は変わらないままである。人間が行う迷信的な行為は、神が最も忌み嫌うものであるが、そうした行為が神により定められたものであると考え、それを捨て去ることが出来ない人が多く、そうした行為は現在も完全には捨て去られていない。若者が手配する婚礼や嫁入り道具、祝儀、披露宴や、それと同様に祝われる慶事、継承されてきた古代の風習、死者のために行われる無意味な迷信的行為や葬式などは、それにも増して神が忌み嫌うものである。礼拝日(宗教界が守っている安息日を含む)でさえ、神にとって忌み嫌うべきものである。それにも増して、神は人間同士の社交関係や世俗的付き合いを嫌悪し拒絶する。皆が知っている春節やクリスマスは、神が定めたものではなく、ましてこうした祝祭日の玩具や飾り付け(二行連、新年の菓子類、爆竹、灯籠、クリスマス・プレゼント、パーティー、聖餐式)は神が定めたものなどでは全くない。これらは、人間の心にある偶像ではなかろうか。安息日にパンを分け合うことやぶどう酒、亜麻布の衣服などは、それにも増して偶像である。龍擡頭、龍舟節、中秋節、臘八節、新年など中国で一般的な伝統的祭日、そして復活祭、洗礼日、クリスマスなどの宗教的祭日は、どれも正当化しようのない祭日であり、昔に制定されてから多くの人々により現在まで受け継がれてきているが、神が造った人類と全く相容れないものである。これらの祭日は、人間の豊かな想像力と巧妙な観念により、現在まで受け継がれることが可能となったものである。そうした祭日は全く欠点が無いように思われるが、実際にはサタンの人間に向けた謀である。その地にサタンが多ければ多いほど、またその地が廃れて時代遅れであればあるほど、そこには封建的風習が一層深く根ざしている。そうした物事は人間を堅く拘束し、そのために全く身動きをとる余裕がない。宗教界の祭祀の多くが、高い独創性を示し、神の働きへの架け橋を築いているように思われるが、実はそうした祭祀はサタンが人間を拘束し、神を知ることを阻む目に見えない紐であり、それらは全てサタンの狡猾な策謀である。事実、神の働きのある段階が完了すると、神は既にその時代の手段や方法を跡形もなく破壊し終えている。しかし「敬虔な信者」は、そうした有形の物体を崇拝し続ける。その一方で、彼らは神のもつものを心の奥へしまい込み、それ以上学ばず、神への愛で満ち溢れているかのような素振りであるが、実際は神を遥か以前に追い出し、祭壇にサタンを据えている。人々はイエスの肖像、十字架、マリア、イエスの洗礼、最後の晩餐などを、天の主として尊びつつ、「父なる神よ」と繰り返し呼び続ける。これは全て冗談ではなかろうか。現在まで人類が受け継いで来た同様の文言や実践は、神にとって憎むべきものである。そうした物事は神の前途を阻み、さらに人間がいのちに入るのに大きな障害となる。サタンが人間を堕落させた範囲を除いても、人々の内面はウイットネス・リー(李常受)の掟やローレンスの経験、ウオッチマン・ニー(倪柝聲)の調査、そしてパウロの働きのような物事で満たされている。神が人間に対して働きを行うすべが全くない。なぜなら人々の内面には個人主義や掟、規則、規制、制度などが多過ぎるからである。人々の封建的迷信の傾向に加え、そうした物事は人間を捉えてむさぼって来た。それはあたかも人々の考えが想像上の生き物が雲に乗って旅をする寓話を極彩色で物語る興味深い映画のようであり、極めて独創的であるために人々は驚き、茫然として言葉を失う。実のところ、神が来て今日行う働きは、主として人間の迷信的態度を取り扱い、払拭して、その精神的姿勢を完全に変化させることである。神の働きは何世代も受け継がれて今日まで人間により保存されてきたものではなく、霊的な偉人の遺産を継承する必要も、他の時代に神が行った代表的な業を継承することもなく、神自らが開始し、完了させるものである。人間はそうした物事に一切関与する必要がない。現在の神は、それらとは別の方法で語り、働きを行う。それならば、なぜ人間が自ら苦労する必要があるのであろうか。人間が自分達の「祖先」の遺産を継承し続けながら、この流れの中で今日の道を歩んだ場合、終着点にたどり着くことはないであろう。神は、特にこの人間行動形態を、人間界の年月や日々と憎悪するのと同様に、大いに忌み嫌っている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

7. 人間の性質を変化させる最善策は、人々の心の最も奥深い所にあり、酷く毒された部分を覆し、人々が考え方や倫理の変革を開始出来るようにすることである。まず人々はそうした宗教的儀礼や活動や年月、祭祀を神が憎んでいるということを明瞭に知る必要がある。人々はそうした封建的思考の束縛から解放され、自らに深く根ざした迷信的傾向を全て排除する必要がある。これらのことはすべて、人がいのちに入ることに含まれている。あなたがたは神が俗世から人間を導き出すのはなぜか、そして規則や規制から遠ざけるのはなぜかを理解する必要がある。これが、あなたがたが入る門である。それはあなたがたの霊的経験とは無関係でありながら、あなたがたがいのちに入り、神を知ることを阻む最大の障害である。そうした物事は、人間を捉える網になる。多くの者が聖書を読み過ぎており、聖句を数多く暗唱することさえ出来る。今日いのちに入るために、人々は無意識のうちに、あたかも神の働きの現段階の基礎が聖書であり、その根源が聖書であるかのように、聖書を用いて神の働きを判断しようとする。神の働きが聖書に則したものである場合、人々はその働きを強く支持し、神を従前にも増して尊ぶ。神が行う働きが聖書に則していない場合、人々は不安になって、必死で働きの根拠を聖書から探し出そうとする。神の働きについて聖書に記載がない場合、人々は神を無視する。現在における神の働きに関しては、殆どの者が極めて慎重に受け容れ、選択的に服従し、知ることに無関心であると言える。従来の物事については、その半分を固持し、もう半分を捨てる。これがいのちに入ることと言えるであろうか。他人の書物を宝とし、神の国への門の黄金の鍵として扱いながら、人々は現在において神が要求していることには全く無関心である。その上、多数の「見識ある専門家」が、神の言葉を左手に、他人の「名著」を右手に取り、それはまるで神の言葉の正しさを完全に証明するために、その根拠を名著に見出そうとしているかのようである。彼らはまた、仕事中のように、神の言葉を名著と統合させて聖句を他人に解説する。実のところ、現在における最先端の前例のない科学的業績(すなわち神の働き、神の言葉、いのちに入る道)のことを高く評価したことが一切ない「科学研究者」が人類には多数存在する。それで人々は皆「独立独歩」し、自らの雄弁さに頼って至るところで「説教」をして、「神の名声」を誇示している。その一方で、彼らがいのちに入る可能性は危うくなり、創世から現在までがかけ離れているのと同様、神の要求からかけ離れた所にいる。神の働きを行うのは、なんと容易なことであろうか。人々はすでに自らの半分を過去に残し、残りの半分を現在に置くこと、半分をサタンに託し、現在に置かれている半分を神に託すこと決意したようであるが、それはあたかも、そうすることが人間の良心を癒やし、ある種の快適さを感じる術であるかのようである。人々の内面世界は極めて狡猾であり、明日を失うことだけでなく、昨日を失うことも恐れており、サタンと、存在するようであるがしないようにも考えられる現在の神の両方から怒りを買うことを強く恐れている。人々は自分自身の思考と倫理を適切に発達させることに失敗したので、特に分別がなく、現在の働きが神のものであるかどうかを全く見極めることが出来ない。それはおそらく人々の封建的で迷信的な思想が極めて深く、そのために迷信と真理、そして神と偶像を長い間同類として扱い、区別しようともしなかったことが原因であり、どれほど頭を悩ませても明確に区別出来ないようである。人間が道を歩むのを止め、前進しなくなったのはこのためである。こうした問題は、すべて人々に正しい観念教育が欠如していることに起因しており、これは人間がいのちに入るのに大きな困難となる。その結果、人々は真の神の働きに全く関心を示さない一方、人間(たとえば人間が偉人とみなす者など)の業には、あたかもそれに烙印を押されたかのように、固執する[2]。これらは人間が取り組むべき最新の問題ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

8. 神は、香港や台湾の同胞が内地と呼ぶ中国本土で人の姿となって現れている。神が天から地上に来た時、天でも地上でも誰もそのことを知らなかった。これが、隠れた形で神は戻るという本当の意味だからである。神は人の姿となって長い間働き、生活してきたが、誰もそのことを知らなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。多分、これは永久になぞのままだろう。神が今回肉となったことは、誰もが気づけることではない。聖霊の働きがどんなに大規模で強力であっても、神はいつも冷静で、決して内心をさらけださない。あたかもこの段階の神の働きは天国で行われているかのようだと言うことができる。すべての人にとって完全に明らかであるにもかかわらず、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、すべての人は長い夢から覚め、過去の態度を逆転させるだろう[3]。わたしはかつて神が、「今回人の姿となったことは虎の穴に落ちるようなものだ」と言ったことを覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きでは神が人の姿となり、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回神の地上への到来は非常な危険を伴っているということだ。神が直面するのはナイフと銃とこん棒である。神が直面するのは誘惑である。神が直面するのは殺意のある顔つきをした群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は確かに怒りをもって来た。しかし、神は人間を全きものとする働きをするために来た、つまり、贖いの働きの後に続く神の働きの第二部を行うために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、誘惑の攻撃を避けるために考えつく限りのあらゆる手段を用いており、謙虚に身を潜め、決して正体を誇示しない。人間を磔から救うことに関しては、イエスはただ贖いの働きを完成していただけで、人間を全きものとする働きはしていなかった。従って神の働きの半分しか行われておらず、贖いの働きを終えることは神の計画全体の半分でしかなかった。まもなく新時代が始まり、古い時代は遠ざかろうとしていたので、父なる神は働きの第二部を検討し始め、そのための準備を開始した。これまで、この終わりの日の受肉は予言されなかったかもしれず、従って今回神が肉となったことについて隠匿性が増す土台となった。夜明けに、誰にも知られずに神は地上に来て、人の姿で生活を始めた。人々はこの瞬間に気づかなかった。彼らはみなぐっすり眠っていたかもしれない。注意深く目を覚ましていた多くの人は待っていたかもしれない。多くの人は静かに天の神に向かって祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人たちすべての中で、一人として神が地上にすでに到着していることを知らなかった。神はもっと円滑に働きを実行し、よりよい結果を達成するためにこのように働いたのであり、それはさらなる誘惑を避けるためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっているだろう。地上を歩き回り逗留する生活を終え、神は旅立つ。神の働きには神が自ら行動し、語ることが必要なので、また、人が手を貸すことなどできないので、神は地上に来て、自分で働きを行うために非常な苦しみに耐えた。人が神の働きの代役をつとめることはできない。従って、神は恵みの時代の危険より数千倍も大きな危険を冒し、自分の働きを行うために赤い大きな竜が住むところに降りてきて、この貧困に陥った人々の一団を救い出すために、この山のような汚物にまみれた人々を救い出すために、神の思考と気遣いのすべてを注ぎ込む。たとえ誰も神の存在について知らなくても、神が悩まないのは、知らないほうが働きのためになるからである。あらゆる人は残忍なほど邪悪なので、どうして神の存在を容認することができようか。そういうわけで神は地上ではいつも沈黙している。人がどんなにひどく残酷であっても、神はそれを苦にすることはなく、なすべき働きを行い続け、天の父に与えられたもっと大きな任務を履行する。あなたたちの誰が神の愛らしさに気づいているだろう。誰が父なる神の重荷に対して神の子以上の思いやりを示すだろう。誰が父なる神の心を理解することができるだろう。天の父なる神の霊はしばしば悩まされ、地上の神の子は心がずたずたになるほど心配して、父なる神の心のためにたびたび祈りを捧げる。父なる神のその子に対する愛を知っている者がいるだろうか。最愛の子が父なる神をどんなに恋しく思っているか知っている者がいるだろうか。天と地の間に引き裂かれて、二人は絶えず遠くからお互いの姿を注視し、霊において一緒にいる。ああ、人類よ。あなたたちはいつ神の心を思いやるのだろう。あなたたちはいつ神の心を理解するのだろう。父と子はつねに互いを頼りにしてきた。ではなぜ彼らは別れていて、一人は天に、一人は地上にいるのだろう。子が父を愛するように、父は子を愛している。ではなぜ父はそのように切望して待ち、そのように心配しながら切望しなければならないのだろう。彼らは長い間離れていたわけではなかったが、父がすでに何昼夜も不安げに切望し、愛しい子が早く戻ってくることを楽しみに待ち続けていることを誰か知っているだろうか。神は観察し、黙って座り、待つ。すべては愛しい子が早く戻ってくるためである。いつになったら彼は地上でさまよっている子と再び一緒になるのだろう。かつては一緒にいて、永遠に一緒にいるであろうにもかかわらず、どうして父と子は何千昼夜ものあいだ、一人は天に、一人は地上と別れていることに耐えることができるのだろう。何十年も地上にいることは何千年も天にいるようなものだ。父なる神はどうして心配しないでいられるのだろう。神が地上に来れば、人と同様に人間世界の多くの苦難を経験する。神自身は罪がないのに、なぜ神に人と同じ痛みで苦しませるのか。父なる神が子を熱心に切望するのは驚くに当たらない。神の心を誰が理解することができようか。神は人に多くを与えすぎる。どうしたら人は神の心に適切に報いることができるだろう。しかし人が神に与えるものは少なすぎる。したがって神はどうして心配しないでいられようか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(4)」より

9. 人々のうちほとんど一人も神の差し迫った心を理解していない。なぜなら人々の力量はあまりにも低く、彼らの霊的感受性は非常に鈍く、彼らはみな神が何をしているか気づかないし、注意を払ってもいないからである。そこで神はあたかも人の野蛮な性質が今にも突出しないかと人について心配し続ける。これはさらに、神が地上に来ることは大きな誘惑を伴っていることを示している。しかし、一団の人々を完成させるために、神は栄光に満ちて、人に何も隠さず、すべての意図を告げた。神はこの集団を完成しようと堅く決心していた。従って、困難や誘惑が来ようと、神は目をそらしてそのすべてを無視する。神は、いつか神が栄光を得た時、人は神を知ると堅く信じて、また、人が神によって完成されたとき、完全に神の心を理解するだろうと信じて、静かに自分の働きを行なう。現時点では神を誘惑したり、誤解したり、責めたりする人々がいるだろう。神はそうしたものを何も気にしない。神が栄光の中に降りていくと、人々は皆、神がすることはすべて人類の幸福のためであることを理解し、人々は皆、神がすることはすべて人類のよりよい生き残りのためであることを理解するだろう。神の到来には誘惑がつきものであり、神は威厳と怒りも伴って来る。人のもとを去るときまでには神はすでに栄光を獲得し、栄光と戻る喜びをたっぷり担って去っていくだろう。地上で働く神は人々がどんなに神を拒絶しても物事を重く受け止めない。神はただ自分の働きを行なっている。神の天地創造は何千年も前にさかのぼり、神は計り知れないほどの量の働きを行うために地上に来て、人間世界の拒絶や中傷を十分経験した。誰も神の到着を歓迎しない。すべての人は神を冷たい視線を投げやるだけである。この数千年に値する苦難の過程で、人の行動はかなり前から神の心を打ち砕いていた。神はもはや人々の反逆には注意を払わず、その代わりに人を変革し、浄化する別の計画を立てている。愚弄、中傷、迫害、苦難、磔刑の苦しみ、人による排斥など、神が肉体で経験したこと――神はこれらを十分に味わった。肉体の神は人間世界の苦難に徹底的に苦しんだ。天の父なる神の霊はずっと以前にこのような光景は耐えがたいと思い、首を反らし、目を閉じ、愛する子が戻って来るのを待った。神が望むのは、すべての人々が耳を傾け、従い、人となった神の前で大いに恥を感じ、神に逆らわないようになることだけである。神が望むのはすべての人々が神の存在を信じることだけである。大きすぎる代償を支払ってきたので、神はかなり前から人に多大の要求をすることをやめたが、人は呑気に構えており[4]、神の働きを全く心にとどめていない。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(4)」より

10. 現在あなたがたは皆、人がそれぞれ自由な世界で生きていけるように、神が人間を人生の正しい道へと導いていること、新たな時代への次の一歩を踏み出すよう人間を導いていること、この暗い古い時代を超えるように人間を肉の外へ、闇の勢力の抑圧とサタンの影響から離れるように人間を導いていることを知っている。美しい明日のため、また明日人間が闊歩できるように、神の霊は人間のために全てを計画している。また、人間がさらなる喜びを得られるように、神は自らの肉における努力のすべてを人間の前にある道を準備することに費やし、人間が待ち望む日の訪れを早めようとしている。あなたがたが皆この美しい瞬間を大切にすることを。神と共にあるのは容易なことではない。あなたがたは神を知らないが、既に長いこと神と共にある。皆がこの美しく束の間の日々を永遠に覚えていられ、その日々を地上における大切な財産とすることが出来ることを願う。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(5)」より

11. 数千年にわたり、中国人は奴隷生活を送ってきたため、考え方や観念、生活、言語、態度、行動が大いに制限され、少しも自由がなかった。数千年にわたる歴史により、霊を備えていた活気のある人々は、疲弊して霊のない屍のような状態になった。多くの人々がサタンの肉切り包丁の下に置かれ、獣の巣のような家に住み、牛や馬の餌同様の物を食べ、「冥界」で感覚を失い、混乱した状態で横たわっている。人々は外観上、原始人と変わらず、彼らの安らぐ場所は地獄のようであり、様々な汚れた悪魔や悪霊に囲まれている。外側からは、人間は高等「動物」のように見えるが、実際には汚れた悪魔と共生している。そうした人間を世話する者は居らず、サタンが常に待ち伏せする中で暮らし、その網にかかり、そこから逃げ出すことは出来ない。そうした者は、居心地のよい家で愛する者と共に幸福で満たされた生活を送っていると言うよりも、陰府に住み、悪魔と取引し、悪霊と付き合っていると言うべきであろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(5)」より

12. 働きと入ることとは、根本的に実際的であり、神の働きと人がいのちに入ることを指している。人は神の本当の顔と神の働きをまったく理解していないので、いのちに入ることに非常な困難が生じた。今日まで、多くの人々は、神が終わりの日に完成する働きのことをまだ知らない。あるいは、なぜ神が人の姿となり、禍福を共にするために極度の屈辱に耐えるのかを知らない。人は神の働きの目標について何も知らないし、終わりの日のための神の計画の目的も知らない。さまざまな理由から、人々は神が人に対していのちに入るように要求することに関していつもなまぬるく曖昧[5]であり、そのため、肉となった神の働きには多大の困難がもたらされた。人々は皆障害物になったようで、今日まで彼らはまだ明確に理解していない。従って、わたしは、あなたたちがみな神の忠実なしもべとなり、ヨブにならって、神を拒絶するくらいならむしろ死を選び、あらゆる恥辱に耐え、ペテロのように存在のすべてを神に捧げ、終わりの日に神が得る神の親しい友になるように、神が人に行う働きと神の緊急の意図について話そう。兄弟姉妹たちが皆できる限りのすべてを行い、全存在を神の天の旨に捧げ、神の家で聖なるしもべになり、神によって与えられる無限の約束を享受するように。そうすれば、父なる神の心はすぐに安息を享受できるだろう。「父なる神の旨を成就する」は、神を愛するすべての者のモットーとなるべきである。これらの言葉は人がいのちに入るための指針、人の行動を指図する羅針盤として役立つべきである。これは人が持つべき決意である。地上で神の働きを余すところなく終わらせ、受肉した神の働きに協力すること、――これこそが人間の本分である。いつの日か、神の働きが完了する時、人は受肉した神に天の父のもとに早く戻るよう別れを告げるだろう。これは人が果たすべき責任ではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

13. 恵みの時代、神が第三の天に戻った時、全人類の罪を贖うという神の働きは実質的にすでに最終章に移っていた。地上に唯一残っていたのは、イエスが運んだ十字架、イエスを包んでいた上質の亜麻布、いばらの冠、イエスが着ていた緋色のローブがすべてであった(これらはユダヤ人がイエスを嘲笑するために使ったものである)。すなわち、イエスの十字架の業はしばらくの間、大騒動を引き起こしてから落ち着いた。その時からイエスの使徒たちはイエスの働きを進め、至る所の教会で人々を羊飼いのように導き、水をやり育てた。彼らの働きの内容は、すべての人々に悔い改めさせ、自分の罪を認めさせ、洗礼を受けさせることであった。使徒は皆イエスの十字架の内情と実際に起こったことを広め、誰もがイエスの前に平伏して自分たちの罪を認めざるを得なかった。さらに、使徒は至る所でイエスの話した言葉やイエスが定めた律法や戒めを広めた。その時から恵みの時代の教会建設が始まった。その時代にイエスが語ったことは人間の生活や天の父の意志にも重点を置いていた。それらの語られたことや実践の多くが今日のものとかなり違っているのは、時代の違いのためだけである。しかし、双方の本質は同じである。どちらも肉となった神の霊の働きにほかならない。その種の働きや言葉は今日まで続いており、そのため、今日の宗教教会で今もなお共有されているのはその類のことであり、まったく変わっていない。イエスの働きが終了した時、イエス・キリストの正しい軌道は地上に根付いていたが、神は働きの別の段階、すなわち終わりの日の受肉という事の計画を始めた。人にとって、神の十字架は神の受肉の働きを終結させ、全人類を贖い、彼がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。彼は人類を贖っただけで、人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さ変えてはいない。そのため神は「受肉したわたしの肉は死の苦しみを経験したが、それはわたしの受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架に釘で打ち付けられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は肉となるという危険を再び冒す準備をした。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

14. 多くの場所で神は、秦の地で勝利者の一団を得ると預言した。勝利者が得られるのは世界の東方なので、神の二回目の受肉が見られる場所は間違いなく秦の地で、それはまさに赤い大きな竜がとぐろを巻いているところである。その地で神は赤い大きな竜の子孫たちを自分のものにするので、竜は完全に敗れ、辱められる。神はこれらの深く苦しんでいる人々を目覚めさせたがっている。彼らを完全に目覚めさせ、霧の外へ歩き出させ、彼らに赤い大きな竜を見捨てさせることを望んでいる。神は彼らを夢から目覚めさせ、赤い大きな竜の本質を知らしめ、神に完全に心を捧げ、闇の勢力の圧制から奮起し、世界の東方で立ち上がり、彼らが神の勝利の証しになることを望んでいる。そうなってようやく神は栄光を得るだろう。まさにこの理由のため、神はイスラエルで終わった働きを赤い大きな竜がとぐろを巻いている地にもたらし、地上を去ってからほぼ二千年後、恵みの時代の働きを続行するために再び肉となって来た。人間の肉眼では、神は肉として新しい働きを開始しているように見える。しかし、神にとっては恵みの時代の働きの続行であり、ただ数千年時が離れただけで、働きの場所と計画が変化しただけである。今日の働きにおいて神が取った肉の姿はイエスとはまったく異なる人であるが、両者は同じ本質と根源を共有しており、同じ源から来ている。おそらく両者の外見には異なった点が多くあるだろうが、彼らの働きの内なる真実は完全に同一である。結局、時代の違いは昼と夜のようなものである。どうして神の働きが変化しないままでいられるのだろうか。あるいは、どうして働きがお互いを妨害できるのだろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

15. イエスはユダヤ人の形を取り、ユダヤ人に即した衣服を身に着け、ユダヤの食べ物を食べて育った。これはイエスの普通の人間的側面である。しかし、今日受肉した体はアジア人の形をとり、赤い大きな竜の国の食べ物で育つ。これらのことは神の受肉の目標と矛盾しない。むしろ、両者はお互いを補い、神の受肉の真の意義をより完全に表す。受肉の体は「人の子」あるいは「キリスト」と呼ばれるので、今日のキリストの外見はイエス・キリストと一致しない。結局、その肉は「人の子」と呼ばれ、肉の姿である。神の働きの各段階にはかなり深い意味が含まれている。イエスが聖霊によって受胎された理由は、イエスが罪を贖うことになっていたからである。イエスは罪があってはならなかった。しかし、最終的に罪深い肉と同じ姿にさせられ、罪人の罪を引き受けた時はじめて、イエスは神が人々を罰するために使った呪われた十字架から罪人を救った。(十字架は神が人々を呪い、罰するための道具である。呪と罰への言及は、特に罪人を呪い罰することに関する。)その目標はすべての罪人に悔い改めさせて、彼らに罪を認めさせるために十字架を使うことであった。すなわち、全人類を贖うために、神は聖霊によって受胎された人として受肉し、全人類の罪を引き受けた。これを説明する一般的方法は、すべての罪人と引き替えに聖なる肉が捧げられたことであり、イエスが、罪の捧げ者としてサタンの前に置かれ、いわばそれはサタンが踏みにじった罪のない全人類を神のもとに返すようサタンに「懇願」するのと同様である。従って、この段階の贖いの働きを完成するためには、聖霊による受胎が必要とされた。これは一つの必要条件、父なる神とサタンの闘いのあいだの「協定」であった。そういうわけで、イエスがサタンに与えられ、そうしてようやくこの段階の働きは終了する。しかし、今日の神の贖いの働きはすでに空前絶後のことであり、サタンには要求をする理由はまったくないので、神の受肉には聖霊による受胎が必要とされない。神は本質的に聖であり、罪が無いからである。そこで、今回受肉した神はもはや恵みの時代のイエスではない。しかし、彼はまだ父なる神の意志のため、父なる神の願望を成就するために存在する。どうしてこれを不合理な発言と考えることができるだろうか。神の受肉は一連の規則に従わなければならないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

16. 人間は、自らに欠落している物事が霊的いのちの供与と神を知る経験だけでなく、それ以上に重要な事として、自らの性質の変化であることを、現在になってようやく認識した。歴史や古代における人間の文化に関する人間の完全な無知さ故に、人間は神の業に関して少しも認識が無い。人間は、心の奥深くにおいて、人間が神を慕うことが可能であることを願っているが、人間の肉が過度に堕落していることや、無感覚や愚鈍さが原因となって、人間は神に関する認識が皆無な状態まで低下している。今、神は人間の思想や霊、そして人間の心の中に数千年にわたり存在する神の印象を変化させるために人間の元へ来る。神はこの機会を利用して、人間を完全にする。つまり、神は、神に関する人間の認識を白紙の状態に戻し、そこから再び始めて、そうすることにより人間の心が一新され、変化されるようにするため、人間の認識により、人間が神を知る方法と、神に対する人間の姿勢を変化させる。取り扱いと鍛錬は手段であり、目的は征服と革新である。神の意向は永遠に、漠然とした神に関して人間が抱いている迷信的思想を払拭することであり、それは最近になって神の喫緊の課題となった。全ての人間がこの問題について一層深く考えることを願う。こうした神の喫緊の趣意が早急に行われ、地における業の最終段階が実りある結末を迎えるようにするため、人間がそれぞれ経験する方法を変えなさい。自分が示すべき忠義を示し、最後にもう一度神の心を安らげるようにしなさい。この責任を回避したり、その身振りだけをしたりする兄弟姉妹が誰もいないことを願う。今回、神が受肉して来るのは、招かれてのことであり、人間の状態に鑑みてのことである。つまり、神は人間に必要とされる物事を人間に授けるために来る。神は、器量や育ちを問わず、神の言葉を理解すること、神の言葉から神の存在と顕現を理解すること、神による人間の完全化を受け容れることを、全ての人間にとって可能なものとするであろう。神の言葉は、神の素顔が人間の心に深く根付くよう、人間の思想と観念を変化させるであろう。神の地における望みは、これだけである。人間の本性がどの程度偉大であるか、人間の本質がどの程度劣っているか、過去にどのように振る舞ったかを問わず、神はそうした物事を考慮しない。神は、人間が自らの心に抱く神の印象を一新し、人間の本質を知り、よって人間の観念的なものの見方を変化させることのみを願っている。神は、人間が神を心から待ち望み、神に対する永遠の愛慕の念を抱くことを願っている。神の人間に対する要求は、それが全てである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

17. 数千年に及ぶ古代文化や歴史に関する知識により、人間の思考や観念、精神的観念は極めて固く閉ざされ、浸透不可能かつ分解不可能なものとなっている[6]。人間は、あたかも神により地下牢に追放されて二度と光を見ることが無いかのように、十八層地獄で生活している。封建的思想が人間を迫害し続け、人間は辛うじて呼吸するほどまで息が詰まっている。人間には反抗する力が全く無く、ひたすら黙して耐え続けている。義と公平のために敢えて戦い、立ち上がる者は今まで一人もいなかった。人間は毎日領主の虐待と暴挙の下で動物同然に生活して年を重ねてゆくだけである。人間は神を求めて地の幸福を享受しようと考えたことが無い。それは、ひからびて色がくすんだ枯れ葉のように人間が打ち倒されたかのようである。人間は遙か昔に記憶を失い、人間の世界という陰府で絶望的に暮らし、自分が陰府もろとも滅びるよう、最後の日の到来を待っており、人間が待っている最後の日は、あたかも安らかな平和が人間に授けられる日であるかのようである。封建的倫理は、人間の生活を「ハデス」へと陥れており、人間が反抗する能力は一層少なくなっている。様々な虐待により、人間は徐々にハデスの深い所、神から一層遠い所へと強制的に陥れられた。現在、神は人間にとって全く知らない存在であり、人間は依然として神と会うと神を急いで避けようとする。人間は神を心に留めず、あたかもそれまで人間が神を知る事も神に会うことも無かったかのように、神を孤立させる。神は人生の長い旅路を通して待ち続けているが、神の抑え難い怒りを人間に向けることは、決して無かった。神は人間が悔い改めて再出発するのを、ひたすら黙して待ち続けている。神は、遠い昔に人間の世界へ来て人間と同じ苦難を受けた。神は長年にわたり人間と共に生活したが、彼の存在を見出した者はいなかった。神は人間の世界の惨事に黙して耐えつつ、自身が負う業を行っている。父なる神の心と、人間の必要性のため、神は人間が嘗て経験したことの無い苦痛を受け、それに耐えている。神は、父なる神の心と、人間の必要性のために、人間の前で黙して人間のために尽くし、自らを慎んだ。古代文化の知識は、神の前から何も言わずに人間をさらって魔王とその末裔に引き渡した。四書五経は、人間の思想と観念を新時代の反逆へと導き、人間が四書五経を記した者達を一層崇拝するようにして、人間が抱く神の観念を助長した。魔王は冷酷に、そして人間が気付かぬうちに、人間の心から神を排除しつつ、面白がって人間の心を奪った。その時以来、人間は魔王の顔をした醜く邪悪な霊に取り付かれている。神への憎しみが人間の胸を満たし、魔王の凶悪さが日々人間の中に広がってゆき、ついに人間は完全に滅ぼされた。人間は自由を失い、魔王の呪縛から逃れる事が出来なくなった。ゆえに、人間は1か所に留まり、囚われることを余儀なくされ、魔王に降伏し、服従した。魔王は人間の若い心に無神論の腫れ物の種を植え付け、「科学技術を学び、四つの近代化を実現せよ。この世に神はいない。」など、人間に偽りを諭した。それだけでなく、魔王は「私達の勤勉な労働により素晴らしい国を建てよう。」と繰り返し宣言し、全ての者に対して、幼少時代から自国のために仕える訓練をするよう要求した。人間は無意識のうちに魔王の前へと導かれ、魔王は(あらゆる人間を掌握している神を名乗り)躊躇無く人間を我がものとした。魔王は、一度も恥じらうことは無く、恥辱を覚えることは一切無かった。さらに、魔王は厚かましくも神の選民を自分の家の中に捕らえ、ねずみのように机上に飛び乗り、人間に自分を神として崇拝させた。魔王は、何という無法者であろうか。魔王は「この世に神はいない。風は自然の法則が原因である。雨は凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥である。これらは自然現象である。そのうちどれが神の業だというのか。」などという衝撃的な中傷を唱える。その上魔王は、「人間は古代の類人猿から進化したもので、現在の世界は、約10億年前の原始社会から進化したものである。ある国家の栄枯盛衰は、その国家の国民の手により決まる。」などという恥知らずな事を呼びかける[a]。後ろの方では、人間に魔王を上下逆にして壁に掛けさせ、机上に鎮座させて崇拝させる。魔王は「神はいない。」と唱えるが、魔王は自らを神とみなし、真の神を執拗に地の果ての外へと追いやろうとする。魔王は神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方も無く馬鹿げたことであろうか。魔王は、有害な憎悪により人間に滅びをもたらす。神は魔王の宿敵であり、神は魔王と折り合いを付けることが不可能であると思われる。魔王は神の駆逐を謀り、罰を受けることも捕らわれることも無いまま[7]の、まさしく魔王である。どうして私たちが魔王の存在を容赦できようか。魔王は、神の業を阻止し、打ち砕いて台無しにする[8]まで休むことが無く、それはあたかも最後に魚が死ぬか網が破けるかするまで、魔王は神に反抗し続けたいかのようである。魔王は、故意に神に反抗し、常に神に近付く。魔王の忌まわしい顔は、完全に仮面を剥がされて久しく、打ちのめされてあざが出来[9]、窮状にあるが、それでも神への憎悪が衰えることは無く、それはあたかも魔王が神を一口に呑み込んで自分の心の憎しみを癒やすことを望んでいるかのようである。こうした憎むべき神の敵を、どうして人間は容赦出来ようか。人間の生涯の望みを叶えるには、魔王の根絶と完全な駆除によるほか無いであろう。どうして魔王を意のままにさせるのを許しておけるであろうか。魔王は、人間が天日を知らず、行き詰まって愚鈍になるまで人間を腐敗させた。人間は正常な人間の理知を失った。私達の全てを捧げて魔王を打ち焼き払い、未だに残る危険性に対する恐れを解消し、神の業が早急に嘗て無い輝きに達することが出来るようにしようではないか。この悪党どもは人間の中に来て、徹底した騒動と混乱を引き起こした。そうした悪党どもは全ての人間を断崖の縁へと追い詰め、粉砕してその屍をむさぼることを密かに企んでいる。そうした悪党どもは、愚かしくも大博打を打って[10]神の計画を阻止し、神と争うことを望んでいる。それは決して容易ではない。最も憎むべき罪に咎められるべき魔王のために、遂に十字架が用意された。その十字架は、もはや神が架けられるものではなく、神は既にそれを悪魔が架けられるものとして、譲り渡している。はるか以前に、神は勝利し、人間の罪に対する悲しみを感じなくなっている。神は、全人類に対して救いを授ける。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

18. 上から下まで、そして最初から最後まで、魔王は神の業を阻害し、神に協調しない行動を取り続けてきた。古代文化遺産や貴重な古代文化の知恵、道教や儒教の教え、儒教の五経と封建時代の礼に関する話が、人間を陰府に陥れた。現代の先進科学技術も、発展した農工業、そして商業も、全く見当たらない。むしろ魔王は、故意に神の業を阻害し、それに反対し、それを破壊するために、古代の「類人猿」により広められた、封建時代の礼をひたすら強調する。魔王は現在に至るまで人間を苦しめてきたが、それだけでなく人間を完全に食い物にする[11]ことを望んでいる。そうした封建時代の倫理規定に関する教え、古代文化の知恵の継承が、人間を長年にわたって蝕み、大小の悪魔へと変貌させて来た。神を快く受け容れ、神の降臨を歓迎するであろう者は、ごく僅かである。人間の表情は殺気に満ち、至る所で死の気配が感じられる。そうした者は、神をこの地から排除することを求め、神を抹消するために、刀剣を持って陣を組んでいる。悪魔の地全体において、偶像が広まり、人間は、神はいないと教えられ続けている。この地の上には、吐き気を催すような紙と香の焼ける臭いが強く漂っており、窒息するほどである。それはへびがとぐろを巻く時に放つ汚泥の臭いのようであり、人間は嘔吐ずにはいられないほどである。それに加えて、悪魔達の読経が、かすかに聞き取れる。その声色は陰府の遠い所から聞こえるようであり、人間は背筋が凍るのを感じずにはいられない。虹色の偶像がこの地全体に散在し、それがこの地を幻惑の世界へと変え、魔王は自分の邪悪な謀りが成就したかのように、常に薄笑いを浮かべている。その一方、人間はそれに全く気付かず、自分の理性が無くなり、自分が打ち倒されるほどまでに悪魔が自分を腐敗させたことに気付かない。悪魔は神の全てを一撃打破し、再び神を侮辱し、暗殺することを望み、神の業を打ち壊し、阻害しようとする。どうして悪魔は神が同等の地位にあることを甘受出来ようか。どうして悪魔は、人間の中で行う業を神が「邪魔する」のを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の醜悪な顔を暴くのを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の業を阻止するのを許すことが出来ようか。そう酷く怒っている悪魔が、どうして神が地における権力の宮を治めるのを甘受するであろうか。どうして悪魔が敗北を認めることを望むであろうか。悪魔の醜悪な表情は悪魔の在り方を示しており、それゆえ人間は自分が笑うべきか泣くべきか分からなくなり、悪魔について語ることは極めて困難である。それが悪魔の本質ではなかろうか。悪魔は、醜悪な霊で、自分が驚異的に美しいと信じている。全くけしからぬ共犯者集団である[12]。悪魔は人間の中に来て享楽にふけり、混乱を助長する。悪魔の阻害行為により、世界的な日和見主義的風潮が興り、人間の心を狼狽させる。また、悪魔が人間を歪めたため、人間は見るに堪えない醜悪な獣のようであり、元来の聖い人間の姿は皆無である。悪魔は、地における暴君としての権力を掌握することさえ望む。悪魔は神の業を妨害しており、それにより神の業は辛うじて前進し、銅と鋼の壁のように、人間を封じ込めることが出来る。極めて多くの罪を犯し、極めて多くの問題を引き起こしてきた悪魔には、どうして罰を待つ以外に何か期待出来ることが有るだろうか。悪魔と悪霊は、地上を暴れ回り、神の心と丹精を込めた努力を封じ込めて、それらを浸透不可能なものとしている。何という大罪であろうか。どうして神が不安にならずにいられようか。どうして神が怒らずにいられようか。悪魔は、神の業に対して重篤な妨害や反対を引き起こしている。まったく反逆的過ぎる。そうした大小の悪魔は、自分よりも強力な悪魔に対してでさえも、横柄な態度を取って波乱を引き起こす。悪魔は真理を明瞭に理解しているにもかかわらず、故意に真理に逆らう。まさに反逆の子である。それは、地獄にいる悪魔達の王が玉座に就いたので、自惚れて他人を全て侮辱しているかのようである。真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、糞の中のはえがたかった、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く[13]獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラ[14]のように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。人間が神を愛するためには、人間は神の心、神の喜びと悲しみ、そして神が嫌悪する物事を理解しなくてはならない。そうすることにより、人間の霊的成長が促進される。人間の霊的成長が早ければ早いほど、神の心は、一層満足される。人間が悪魔の王を明瞭に識別すればするほど、人間は神へと近付くので、神の望みを満たすことが出来るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

19. 終わりの日における神の働きは、これまでわたしが何度も述べてきたように、人間の深く傷ついた心が一新されるように各人の霊を変化させ、魂を変化させるようにし、よって邪悪により極めて深い傷を負っている人間の霊を救うため、人間の魂を目覚めさせ、凍えた心を温め、回復出来るようにするためのものである。これが神の偉大な心である。人間の人生と経験がどれほど高尚か、深淵かといった話はさておき、人間の心が目覚め、夢から醒めて、赤い大きな竜が与えた傷を十分に理解した時、神の務めの業は完了する。神の業が完了する日は、神への正しい信仰を人間が正式に開始する日でもある。その時、神の務めは終わりを迎える。肉にある神の業は完了し、人間は正式に尽くすべき本分にとりかかり、自分の務めを行うであろう。これが神の業の各段階である。ゆえに、あなたがたは、そうした物事に関して知ることを基礎として自分が成長する道を模索する必要がある。こうした物事は、すべてあなたがたが理解すべきものである。人間の成長は、人間の心の深部で変化があった時に限って促進される。なぜなら、神の業は、贖われた人間、未だ闇の力の下で暮らしている人間、そして一度も目覚めなかった人間を、悪魔の集まる場所から完全に救うことだからである。神の業は、人間が数千年の罪から逃れて神に愛され、赤い大きな竜を完全に打ち倒して神の国を建て、一層早く神の心を安らげるためのものである。また神の業は、あなたがたの胸に溜まっている憎しみを、例外無く払拭し、そうしたかびのような菌を根絶し、あなたがたが牛や馬同然の生活から脱出できるようにし、奴隷状態から解放され、赤い大きな竜により意のままに踏みつけられたり支配されたりすることから解放されるためのものである。あなたがたは、この行き詰まった国の国民ではなくなり、凶悪な赤い大きな竜のものでは無くなり、赤い大きな竜に奴隷とされることは無くなるであろう。そうした悪魔の巣窟は神により粉砕されることは確実であり、あなたがたは神の傍らに立つであろう。あなたがたは神のものであり、奴隷の帝国に帰属しない。神は久しくこの暗黒社会を骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待する事の無いよう、そのへびを必死で踏みつけようとしている。神はそのへびの従前の行いを許さず、そのへびの人間に対する偽りを容赦せず、そのへびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復するであろう。神がその諸悪の首謀者[15]に対して寛容となることは僅かばかりも無く、そのへびを完全に粉砕するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

20. この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊がはびこり、欺し偽り、根拠の無い告発を行い[16]、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている[17]。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。こうした幽霊の街に住む人間が神を見たなどということが、どうして有り得るだろうか。そうした者は神の優しさや愛しさを享受したことが、嘗てあったであろうか。人間の世界の物事について、そうした者はどのように認識しているであろうか。そうした者のうち、誰が神の切なる望みを理解できるであろうか。肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、親切さのかけらもなく、純真な者を無分別な物事へと誘惑する。遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。誰が神の業を受け容れたというのか。誰が神の働きのために命を捧げ、血を流したというのか。親から子へ、何世代にもわたって、奴隷とされた人間は不作法に神を奴隷としてきた。そうした物事がどうして怒りを買わずに居られるであろうか。数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。苦痛と苦難の中に生きる人間が理解しないのは、何故か。あなたがたのために、神は大いなる苦痛を受け、大いなる苦しみをもって神の愛する子、そしてその肉と血をあなたがたに与えた。それならば、あなたがたが依然として盲目を向けるのは、何故か。皆が見守る中、あなたがたは神の到来を拒絶し、神の友好を拒否する。あなたがたがそれほどまで非良心的なのは、何故か。そのような暗黒社会の不当さを、あなたがたは進んで受けるのだろうか。自分の腹を数千年におよぶ敵意で満たす代わりに、魔王の「糞」で満たすのは、何故か。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

21. 神の働きに対する障害は、どれほど大きいであろうか。その大きさを知る者が果たして居るだろうか。人々は深く根ざした迷信的偏見に囚われているならば、誰が神の素顔を知ることが出来ようか。時代遅れで極めて浅薄かつ不合理な文化的知識で、神が述べた言葉をどうして完全に理解できようか。そうした人々が直接顔を合わせて口移しにそうした言葉を語られたとしても、そうした人々がどうして理解できようか。時として、あたかも神の言葉に全く耳を貸さないかのようなこともある。人々は少しも反応せず、首を横に振って全く理解しない。こうした状況が、どうして懸念されないことが有り得ようか。こうした「かけ離れた[18]古代の文化の歴史と知識」により、そうした無価値な人々の集団が形成されてきた。この古代文化、貴重な遺産は、屑の山である。それは遠い昔に、筆舌に尽くせぬ永遠の汚点となった。そうした物事により、人々は神に反抗する手口や技術を覚え、国内教育の「系統的かつ懇切な指導」[19]により、人々はそれにも増して神に反抗的になった。神の業の各部分は極めて困難であり、地における神の業の各段階は神にとって苦悩の多いものであった。地における神の業は、実に困難なものである。地における神の業の各段階には、大きな困難が伴う。人間の弱さ、欠点、幼稚さ、無知さなど、人間の全てが、それぞれ神により細心の注意で計画され、入念に検討される。人間は、誰も敢えて餌をやったり挑発したりしない張り子の虎のようであり、少しでも触れると噛み付くか、あるいは倒れて道を失う。またそれはまるで、少しでも注意力を失うと逆戻りし、あるいは神を無視したり、豚の父や犬の母の元へ逃げ戻り、身体の不浄な物事に耽溺したりするようである。何と大きな障害であろうか。事実上、神の業の各段階において、神は試練に見舞われ、ほぼ全ての段階において大きな危険が及ぼされる。神の言葉は誠実かつ正直であり、悪意が無いが、誰がそれを進んで受け容れるであろうか。誰が完全に従おうとするであろうか。そのことが神の心を傷つける。神は、人間のために日夜精力的に努力し、人間のいのちに関する懸念に苛まれ、人間の弱さに同情している。神は、神の業の各段階において、また神が述べる言葉のそれぞれについて、数多くの紆余曲折に見舞われてきた。また神は常に苦境の中にあり、人間の弱さ、不従順さ、幼稚さ、弱さを常に幾度となく考えている。誰がそのことを知っているだろうか。神は誰に秘密を打ち明けることが出来るだろうか。誰が理解できるであろうか。神は人間の罪や、人間の気骨のなさ、意気地のなさを常に忌み嫌い、人間の脆弱さを常に懸念し、人間の前途を熟考している。神は、人間の言動を常に監督している時、常に慈悲と怒りで満たされ、そうした物事を見ると、常に神の心は痛む。無邪気な子は結局成長して冷淡になる。どうして神は常に人間に困難を与える必要があろうか。意志の弱い人間は忍耐力が完全に欠如している。神は何故、人間に対する衰えることの無い怒りを常に抱いている必要があるのだろうか。弱く無力な人間は全く活力が無くなる。神は何故、そうした者の不従順さを常に叱る必要があるだろうか。誰が天の神の脅威に耐えられるであろうか。結局、人間は脆く、絶望的苦境にあり、神は、人間がゆっくりと反省するよう、自らの怒りを心の奥深くへと押し込む。しかし、人間は由々しき問題に見舞われており、神の心を少しも理解しない。人間は年老いた魔王に踏みつけられるが、それに全く気付かずに、常に神に反抗するか、神に対して熱くなることも冷めることも無い。神は無数の言葉を述べたが、誰がそれを真剣に受け止めたであろうか。人間は神の言葉を理解しないが、それでも狼狽することなく、また切望すること無く、年老いた悪魔の実体を真に知ることは無かった。人間は陰府、地獄で生活しているが、海底の宮で生活していると考えている。人間は赤い大きな竜により迫害されているが、自分が竜の国から「恩恵を受けている」[20]と考えている。そうした者は悪魔に嘲笑されているが、自分が肉の至高の芸術を享受していると考えている。そうした者達は、何と汚れた卑しい恥知らずであることか。人間は不幸に遭遇しているが、人間はそれに気付かず、この暗黒社会において、人間は次々と災難に見舞われる[21]が、そうした人間はそれによって目覚めることが無い。そうした者が自分に対するいたわりと奴隷的実体を自ら捨て去るのは、何時であろうか。そうしたものが神の心に対してそれほどまで冷淡なのは何故だろうか。そうした者は、黙ってその弾圧と苦難を容認するであろうか。そうした者は、闇を光に変えることができる日を望まないだろうか。そうした者は、この義と真理に対する不当性を再度解消することを望まないだろうか。そうした者は、人々が真理を捨て、事実を歪めるのを見ても何もしないことを望んでいるであろうか。そうした者は、そうした不当な処遇を受け続けることに満足しているであろうか。そうした者は奴隷になることを望むであろうか。そうした者は、亡国の民とともに、神の手により進んで滅ぼされようとするであろうか。あなたの決意は、どこにあるだろうか。あなたの野望は、どこにあるだろうか。あなたの尊厳は、どこにあるだろうか。あなたの人格は、どこにあるだろうか。あなたの自由は、どこにあるだろうか。あなたは、自分の人生全てを[22]、魔王である赤い大きな竜のために進んで捨てるであろうか。あなたは、赤い大きな竜に自分を折檻させて死に至らせることに満足であろうか。海原の水面は混沌として暗く、庶民はそうした苦悩のため天に向かって呼びかけ、地に苦痛を訴えている。人間が堂々として居られるようになるのは、何時だろうか。人間は、やせ細り、衰えているので、どうしてそうした残忍な暴君のような悪魔に対抗出来ようか。そうした者が出来るだけ早く自らの命を神に捧げないのは、何故だろうか。何故未だに躊躇しているのだろうか。いつになったら神の働きを完了できるのだろうか。何の目的もなく、そのようにいじめや迫害を受けると、その者の人生は結局無駄となるであろう。そうした者が、それほどまで急いでやって来て、急いで去ろうとするのは何故だろうか。そうした者が何か貴重な物を残しておいて神に捧げることが無いのは、何故だろうか。その者は、数千年におよぶ憎しみを忘れたのであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

22. 深く根付いた民族的伝統と精神的姿勢が、人間の純粋な子供のような心に影を落として久しい。あたかも感情や自我の意識が全く欠如しているかのように、人間性のかけらもなく人の魂を攻撃してきた。これら悪魔のそんなやり方は極めて残忍であり、それはあたかも「教育」と「育成」が、魔王が人間を殺す伝統的方法になったかのようである。魔王は自らの「深遠な教え」を用いて、その醜悪な魂を隠し、羊の皮を被って人間の信頼を得てから、人間が寝ている隙を利用して、人間を完全にむさぼり食う。人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。このように腐敗した国民は、神を知ることなど到底出来ない。神にとって、受肉してそんな人々の中に来て救いのすべての働きを行うのは、容易であろうか。既に陰府に陥った人間が、どうして神の要求を満たすことが出来ようか。人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どうして神は地獄で生活できたのであろうか。しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来て神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが「地獄」と「陰府」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。どうして神について再度不平を述べる理由が人間にあろうか。どうして人間は厚かましくも神を再び見上げられるであろうか。天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[23]や抑圧を黙って受けた。彼は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。彼は単に、教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、暴くことなど、人間が必要とする全ての働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の前途や運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差し、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、蔑みといった報いを受け、また嘲笑、蹂躙と拒否、誤解と愚痴、疎外と忌避、欺瞞と攻撃、そして苦しみばかりで報いられている。温かい言葉には、敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、おとなしく従う牛のように人々に仕えるしか無い。[24]神はいくつの陽と月、いく度星を見上げたことであろうか。彼は何度日の出と共に発ち日の入りと共に戻って、父の元を去った時の苦痛の千倍におよぶ苦悩と、人間の攻撃と打撃、取り扱いと刈り込みを堪え忍び、悶々として眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見[25]、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は良心の呵責無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の態度は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され侮蔑された神は、幾万もの人間の足で踏みつぶされている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握[26]を望むかのようであり、陰で宮廷を操り、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の主事にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由も無い操り人形[27]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいであろうか。人間の良心はどこにあるのか。人間は遥か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、それが少しの温厚さしか伴わなくても、人間が神に優しく接することを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心はいっこうに人間によっては慰められず、神が受けてきたのは、激化を続ける[28]攻撃と苦悩のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることを知らず、常に問題を起こし、無鉄砲であり、神に対して言論の自由や権利を決して与えず、神は、恥辱に屈服し、人間によって好きなように操られることを余儀無くされている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

23. 創造時から現在に至るまで、神は極めて大きな痛みを耐え忍び、無数の攻撃を受けて来た。しかし、現在も人間の神に対する要求は衰えることなく、神を吟味し、神に対して容赦せず、神に対して勧告し、批判し、咎めるだけで、それはあたかも神が誤った道を歩み、地上にある神が残忍で不合理であったり、奔放に振る舞ったり、結局無意味になったりするのを深く恐れているかのようである。人間は、神に対して常にこうした姿勢であった。それが神を悲しませないことが、どうしてあろうか。神は、受肉することにより甚大な苦痛と恥辱を受けたが、その上に、神に人間の教えを受け容れさせることは、どれほど酷いことであろうか。神は、人間の元へ来たことが原因で、全ての自由を奪われたが、それはあたかも神が陰府に捕らわれ、人間による分析を全く抵抗せずに受け容れたかのようである。それは恥辱ではないだろうか。常人の家庭に来たことで、イエスは最大の不義を受けた。それにも増して恥辱的なこととして、イエスはこの汚れた世に来て、深みの底までへりくだり、至って普通の肉を受けた。至高の神は、劣った人間となるにあたり、苦難を受けるのではなかろうか。そしてそれは、全て人間のためではなかろうか。神が自らのことを考えたことがあっただろうか。彼はユダヤ人に拒否されて殺され、人々に愚弄され、嘲笑されても、天に不平を言ったり地に反抗したりすることは無かった。現在、こうした数千年前の悲劇が、ユダヤ人のような人々の間で再発している。そうした者は、かつてと同じ罪を犯しているのではなかろうか。神の約束を人間が授かる資格が、どうしてあろうか。人間は神に反抗して、その後に神の恵みを授かるのではなかろうか。人間が正義と向き合い、真理を探し求める事が決して無いのは、何故だろうか。人間は何故、神のすることに関心を抱かないのだろうか。人間の義はどこにあるのか。人間の公正さはどこにあるのか。人間は厚かましくも神を代表するつもりなのか。人間の正義感はどこにあるのか。人間が愛するもののうち、どの程度が神に愛されているであろうか。人間はチョークとチーズを見分けることが出来ず[29]、常に白黒を混同し[30]、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を追い払い、闇の中ではしゃぎ回る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く掲げる。人間は盗賊[31]同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に付けて拍手喝采し歓声を上げ、その熱狂的な叫びは止むことがない。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の王国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて濁った雰囲気が充満し、騒々しく活気があり、また盲目的に他人に追従する者たちが絶えず現われては、自分たちの皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遥か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して注意を払ったことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の百匹の犬も吠えさせる吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の働きがどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる場所があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れなどにはおかまいなしに、人間は仰々しい謳い文句で神の働きを現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を集めて自分のものとし、神には屑と残飯[32]しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。人間は神に対して何も思いやることが無く、神の全てを密かにむさぼった後、神を自分の後ろに放り投げ、神の存在にそれ以上留意することは無い。人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方、口では神に感謝し、神を賛美する。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「崇め」神の顔を見上げるが、同時に厚かましく恥知らずに神の玉座に座り、神の「不義」を裁く。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を眺めるが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を抑圧しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神のものを手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも神をむさぼり尽くすことを望んでいるかのように冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言うことにこだわる。人間は正義を見るが、それを強制的に自己犠牲に変える。人間は人間の行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は人間に与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間は神を見る時、神に人間のレッテルを貼ることを主張し、サタンと共謀する被造物の座に納めようと懸命になる。人間は、それらが神の言葉であることを十分承知しているが、それは人間の書き記したもの以外の何物でもないと言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔であると言う。神が謙り隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが辱められられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。人間の勢力と人間による包囲は、神の解放の日を持ち堪えることが出来るだろうか。人間は故意に神に反抗したあと、まったく気にもしないで、神が自らを現す隙さえ与えずに、神を死に追いやるほどである。義はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。人間は神の傍らに座りつつ、跪いて赦しを請うよう神に強要し、人間の采配に全て従い、人間の策略に黙って従うよう迫り、神のすること全てにおいて人間の指示に従わせており、そうならなかったならば人間は激昂して[33]怒り狂う。黒を白へとねじ曲げるような闇の影響下にあって、どうして神が悲しみにうちひしがれないでいられようか。どうして神が懸念せずにいられようか。神が最新の働きを始めた時、それは新時代の夜明けのようであると言われるのは何故だろうか。人間の行いは極めて「豊潤」であり、「枯れることのない生ける水の泉」が人間の心の畑地を間断なく「潤す」一方、人間の「生ける水の泉」はぬけぬけと神と競い合う。[34]両者は折り合いが付かず、その泉は何のおとがめもなく神に代わって人間に施す一方、人間はそれに伴う危険に対して何の懸念することなく、その泉に加担する。それにはどのような効果があるのであろうか。人間は、神が人間の注意を引くことをひどく恐れ、また神の生ける水の泉が人間を引き寄せ、獲得することを深く懸念して、神を冷淡に隅へ追いやり、人間が神を全く気に留めない所まで遠ざける。こうして、この世の懸念を長年にわたり経験した後、人間は神に対して謀略を企て、さらには神を批判の対象とする。それはあたかも神が人間の目の中の丸太となったかのようであり、人間は神を掴んで火にくべて精錬し、清めようと必死になっているかのようである。神の苦難を見て、人間は腹を抱えて笑い、喜んで踊り、神も精錬するに至ったと言い、またあたかもそれのみが天の公平かつ公正なやり方であるかのように、人間は神の穢れた不純物をすっかり焼き尽くして清めると言う。人間のこうした暴力的行為は、意図的かつ無意識のようである。人間は自らの醜い顔を現し、また忌まわしく汚れた魂と哀れな乞食の姿を現す。人間は、遍く猛り狂った後、哀れを極めたパグのように惨めな様相で天の赦しを乞う。人間は常に予想外の行動を執り、「虎の威を借りて他人を脅し」[b]、いつも役を演じ、神の心に少しも配慮せず、自らの地位と比較することも無い。人間はただ黙って神に反抗し、それはあたかも神が人間を虐待しており、神は人間をそのように扱うべきではないかのようであり、また天が目を持たず、故意に人間にとって物事が困難となるようにしているかのようである。したがって、人間は悪徳な謀りを企て、神に対する要求を僅かでも譲ることが無く、どう猛な眼差しで神の一挙一動を睨み、決して自らが神の敵であるとは考えず、神が霧を晴らして物事を明瞭にし、「虎の口」から人間を救い、人間のために報復する日が来ることを願っている。現在に至っても、人々は、時代を通して多くの者たちによって演じられてきた神に敵対するという役割を自らが演じているとは依然として考えていない。人間は、自分が為す全てのことにおいて久しく邪道を行き、かつて理解したことは海に飲み込まれていることを、どうして知ることが出来ようか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

24. 人類がここまで発展してきたことは、前例のない状況である。神の働きと人がいのちに入ることは肩を並べて進むのであるから、神の働きもまた比類の無い程の大いなる好機である。現在まで人間がいのちに入ることは、人間がかつて想像し得なかった不思議である。神の働きは絶頂を迎え、それに続いて人間の「入ること」[35]もまた絶頂を迎えた。神は自らを可能な限り卑しくし、人間その他あらゆる宇宙の万物に一度も反抗したことが無い。一方、人間は神の頭の上に立ち、神を最大限まで抑圧している。万事が絶頂を迎え、義が現れる時が来ている。闇に地を覆わせ、闇に人々を包ませるままにしておくのは何故だろうか。神は数千年、ことによると数万年にわたり、それを見てきて、神の寛容さが限界に達して久しい。神は人間のあらゆる挙動を見続け、人間の不義がどの程度の期間はびこるかを観察し続けてきたが、人間は随分前から鈍感になっているので、何も感じない。一体誰が神の業を見て来たというのか。一体誰が目を上げて彼方を見据えたというのか。一体誰が注意して聴いたというのか。一体誰が全能者の掌中にいたことがあるというのか。人間は皆、架空の恐怖に苛まれている。[36]草や藁の山が何の役に立つというのか。人間は生きて肉にある神を虐待し死に至らしめることしか出来ない。人間は草や藁の山でしか無いが、人間が「最も得意とする」[37]事がある。それは、神を虐待して生きながら死に至らしめ、それが「人間の心に喜びを与える」と叫ぶことである。何とも役立たずの雑魚どもである。特に、止むことのない人の流れの中で、神に注目し、神を堅く破ることの出来ない障壁で包囲する。人間は熱狂してゆく一方であり[38]、人間は神を大群となって取り囲み、神は少しも身動きが取れない。人間は、ありとあらゆる武器を手に、あたかも敵を睨むかのように、怒りに満ちた眼差しで神を見上げる。人間は「神を木っ端微塵に引き裂く」願望を抑えられない様子である。何とも当惑する事であるが、人間と神が、なぜそのような与(くみ)することの出来ない敵同士となったのであろうか。最も愛しい神と人間の間に、何か遺恨があるのだろうか。神の業は人間にとって全く無益なのだろうか。神の業は人間に有害であろうか。神が人間の包囲を破り、第三の天に戻り、人間を再び地下牢に放り込むことを深く怖れつつ、人間は神を睨み続ける。人間は神を警戒してやきもきし、人間のもとにいる神に対して「機関銃」の銃口を向けて、ほふくしている。それはあたかも、神が少しでも身動きすると、人間は神の身体や着衣など、全てを残らず一掃するかのようである。神と人間の関係は、もはや修復不可能である。神は人間にとって理解不可能である一方、人間は故意に目を閉ざしてふざけまわり、わたしの存在を見ることを全く望まず、わたしの裁きに対して一切容赦しない。ゆえに、人間が予期していないときに、わたしは静かに漂うように去り、もはや誰が上で誰が下かということを人間と比較しなくなるであろう。人間はあらゆる「動物」のうち最も卑しく、わたしは人間に気をかけることを、もはや望まない。わたしが自分の恵み全体を、平穏に住む所へと全て取り戻して久しい。人間は極めて不従順であるのだから、何を理由として、わたしの貴い恵みをそれ以上享受するというのか。わたしに敵対する勢力に対してわたしの恵みを無駄に与えることを望まない。わたしは、熱心でわたしの再来を熱烈に歓迎するカナンの農民に対してならば、わたしの貴い果実を与えるであろう。わたしはひたすら天が永遠であることを願い、またそれ以上に、人間が年老いないこと、天と人間に永遠の安息があること、そして理想の時代をともに迎えるにあたり、常緑の「松と糸杉」が永遠に神とともに、天とともにあることを願う。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

25. 神の働きは潤沢かつ豊富だが、人間の入りは極めて乏しい。人間と神の合同による「企て」のほぼ全てが神の働きであり、人間の入りの程度については、ほぼ見るべきところが無い。人間は極めて貧しく盲目であり、「古代の武器」を手にとって今日の神に対する自らの力を測るほどである。こうした「古代の猿人ども」は、辛うじて直立歩行できるが、自分の「裸」のからだを全く恥じない。そうした者に神の働きを評価する資格が、どうしてあろうか。そうした四肢のある多くの猿人たちの眼は怒りに満ち、石で作った武器を手に、神と争い、この世がまだ見たことの無い猿人の競技、すなわち終わりの日における猿人と神の格闘を始めようとしており、それは全土に知られるであろう。こうした半ば直立歩行している古代の猿人の多くが、さらには、自己満足であふれている。そうした者は顔を覆う毛はもつれ、殺意に満ちて前肢を挙げる。彼らは完全には現代の人類まで進化していないので、直立するときと、這うときがあり、額は汗のしずくで覆われ、露のようであり、やる気がありありと見て取れる。自分たちの仲間である原始の古代猿人が太くのろまな四肢の全てを用いて立ち、辛うじて攻撃をかわせるが反撃する力は無いのを見て、彼らは自己抑制するのが精一杯である。瞬く間に、何が起きたか悟る間もなく、リング上の「英雄」が四肢を空に向けて仰向けに地に倒れる。長年にわたり間違いでありながらも地面に立っていた四肢は、突然逆さまに投げ出され、猿人はもはや反抗する意欲をもたない。それ以後、最古の猿人は地上から一掃される。それは極めて「悲惨」である。この古代の猿人は、そうして突然の終焉を迎えた。なぜ素晴らしい人間の世界からそんなに急いで去る必要があったのであろうか。なぜ仲間と次の段階の戦略を話し合わなかったのであろうか。神との力比べの秘訣をあとに遺すことなくこの世に別れを告げるとは、何と哀れなことだろうか。それほどまで年老いた猿人が「古代文化と芸術」を子孫に伝えることなく、一言ささやくこともなく死んでこの世を去るとは、何と迂闊なことであろうか。近親者を傍に呼び集めて自らの愛を伝える暇も無く、石版に言葉を残さず、天日を見分けず、筆舌に尽くしがたい自らの苦難をひと言も述べることも無かった。息を引き取るにあたり、瀕死の自らの身体の近くに子孫を呼び寄せて、空に向かって永遠に伸びる木の枝のように硬くなった四肢を上向きに伸ばして目を閉じる前に「リングに上がって神に挑んではならない」と告げなかった。これは悲劇の臨終を迎えたように見えるであろう……突然、リングの下からうなるような笑い声がして、半分だけ直立している猿人のひとりの気が変になっている。その者は、古い猿人より進化している鹿などの野性の動物を狩るための「石の棍棒」を手に、周到な計画を胸に秘め[39]、怒りに満ちてリングに飛び乗る。その者は何か手柄を立てたかのようである。石の棍棒の「威力」を用い、「三分間」何とか直立する。この第三の「脚」の「威力」は、何と強いことであろうか。その大柄で愚鈍で不器用な半直立猿人は、棍棒に支えられて三分間直立した。その尊敬すべき[40]老いた猿人が至って傲慢なのももっともである。確かに、その古代の石器は「評判どおり」である。柄も刃も鋒もあるが、刃に艶が無いことが唯一の欠点である。なんと嘆かわしいことか。その古代の「小さな英雄」を見ると、リングの上に立って、リングの下にいる者どもが無能で劣等な者であり、自分は勇敢な英雄であるかのように侮蔑するような目つきで見ている。その英雄は、リングの前に居る者どもを、心の中で密かに忌み嫌っている。「この国は問題に苛まれているのは私達各人のせいである。あなたがたは何故、逃げ出そうとするのか。この国が崩壊に瀕していると知りつつ、血みどろの戦いには参加しないというのか。この国は崩壊に瀕している。あなたがたが、自分の楽しみは後回しにして、まず最初に憂慮しないのは何故か。あなたがたは、よくもこの国が崩壊し、国民が退廃してゆくのを傍観していることが出来るものだ。あなたがたは、国が征服されるという恥辱を受けることを望んでいるのか。あなたがたは全くの役立たずだ。」その者がこう考えると、リングの前で暴動が起こり、その者の眼は一層激昂し、今にも火を放ちそう[41]である。その者は、戦いの前に神が失敗するのを待ち兼ねており、神を死に追いやって大いに人々の心を喜ばせたくてたまらない。その者は、石器が名声を得るに値するかもしれないが、神に対抗することは決して出来ないことを知らない。その者が自分を防御し、倒れて再び立ち上がる間も無く、その者は両眼の視力を失って前後によろめく。その者は、自分の祖先の上に倒れて二度と立ち上がらない。その者は古代の猿人にしがみつき、叫ばなくなり、反抗する意志を全て失って自らが劣っていることを認める。これら二匹の哀れな猿人は、どちらもリングの前で死ぬ。人類の祖先は、今まで生き長らえたのに、義の太陽が昇る日に何も知らずに死んだというのは、何と不幸なことであろうか。それほど大いなる恵みを逃すとは、猿人たちは数千年にわたり待ち続けてきたのに、祝福を受けた日にそれを陰府へ持ち込み魔王とともに「享受する」ことになるとは、何と愚かであろうか。その祝福は生きている者の世界に残し、自分の息子や娘と共に享受するために取っておいてはどうであろうか。まさに自業自得である。多少の地位や名声、そして虚栄のために、殺されるという不幸を受け、慌てて地獄の門を真っ先に開き、その息子となろうとするとは、なんという無駄であろうか。そうした代償は全くの無駄である。それほど「国民的精神に満ち」ている年老いた祖先が、そこまで「自分に厳しく、他人に寛容」となって、自らを地獄に閉じ込め、無能で劣った者を地獄の外に閉め出すとは、何と哀れな事だろうか。このような「民衆の代表者」がどこにいるであろうか。「子孫の幸福」と「未来世代の平和な生活」のため、神の介入を許さず、それゆえ自らの命に全く配慮しない。無制限に自らを「国の大義」に捧げ、黙って陰府へ入る。そのような愛国心が何処にあるというのか。神と戦い、死も流血も怖れず、ましてや明日を憂うことなど無い。そうした者は戦地へ向かうのみである。彼らが自らの「献身の精神」と引き換えに得るのは、永遠の後悔と、地獄で永遠に燃え続ける炎に焼き尽くされることだけであるというのは、何と哀れなことであろうか。

何と不思議なことだろうか。神の受肉が人間により常に拒否され、中傷されるのは何故だろうか。人間が神の受肉を全く理解しないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうなるのは、人間の「署名」なしに神が独自に行動したためであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。事実の記録には、神は事前に通達したとある。神は受肉したことで何の問題も起こしていないが、神は人間の同意を得る必要があるというのか。さらに、神は人間に随分以前に思い起こさせていたが、人間は忘れていたのであろう。人間を責めることは出来ない。なぜなら、人間は長いことサタンにより大いに堕落させられ、天下の出来事を何も理解できず、霊的世界の出来事に至っては言うまでもないからである。人間の祖先である猿人がリングで死んだ事は、何とも恥辱的であるが、驚くには及ばない。というのも、天と地が相容れることは決してなかったのであるから、石でできた心をもつ猿人が、どうして神が再び受肉し得ることを理解できようか。そうした「60歳」の老人が、神の出現の日に死に、そうした大いなる祝福の出現する日に祝福されずに他界したというのは何と悲しいことであろうか。それはまさに驚異ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

26. 神の受肉は、あらゆる宗教や宗派に衝撃波を送り、宗教界の元来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望む者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者はいるであろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神はかつて喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再会し、過ぎ去った日々の話を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、今日神と既に再会し、再び神が人間と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを呼び起こさないことが有り得ようか。今から二千年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と同じ食卓で食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを愛し、主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのかを全く知らなかった。ユダヤ人はイエスが自分達と同様であり、違うと考える者はいなかった。人々がこんな平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、彼を当時のユダヤ人の息子のひとりと考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかった。そして人々は彼に対して、豊かで溢れるばかりの恵みと平和と喜びを授けて欲しいなど、やみくもに要求するだけであった。そうした者は、億万長者のようにイエスには人が望むものの全てあることしか知らなかった。しかし、人間は彼を愛されている存在として扱ったことは無かった。当時の人々は彼を愛さず、彼に反抗し、不合理な要求を彼に突き付けるだけであった。そして彼は決して抵抗せず、人間が彼を知らなかったにもかかわらず、人間に対して恵みを与え続けた。彼は黙々と人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の束縛から導き出したのであった。人間は彼を愛さず、ただ彼を羨み、彼の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救い主イエスが人間のもとに来た時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。彼の苦痛を考えた者も、父なる神に対する彼の愛を知る者も、彼の孤独を知り得る者もいなかった。マリアが彼の産みの母親であったが、憐み深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリアが知り得たであろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、彼に要求を突き付けた後、冷酷にも彼を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえに彼は来る日も来る日も、毎年毎年、往来を長い年月彷徨いながら、苦難のうちに三十三年を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。彼を必要とする時、人々は笑顔で彼を自宅に招き、彼に要求しようとした。そして彼が施しをした後、彼らは直ちに彼を家から追い出した。人々は彼の口から授けられた物を食べ、彼の血を飲み、彼が授けた恵みを享受する一方で、彼に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は彼を十字架に付けたが、それでも彼は黙していた。現在も彼は黙したままである。人々は彼の肉を食べ、彼が人々のために作る食べ物を食べ、彼が人々のために拓いた道を歩み、彼の血を飲んでいる。しかし人間は依然として彼を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、こうして、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったのであろうか。あなたがたは知っているであろうか。彼は、自分に最も親しく、かつ彼を食べ、彼を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが取るに足りない教師に過ぎなかったことではなかろうか。仮に、イエスが非凡であり、天に由来する者であることを人々が本当に理解していたとすれば、どうして人々は彼の身体に息がなくなるまで、二十四時間にわたり十字架に付けることが出来たのであろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を享受するのみで、未だに神を知らない。人々は一寸を与えられて一里を奪い、イエスを自分の指令、命令に完全服従させる。これまでに誰が、枕する所も無いこの人の子に対して憐れみといえるものを示したというのか。これまでに誰が、彼と力を合わせて父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。かつて誰が彼のことを少しでも考えたというのか。かつて誰が、彼の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は彼を押しのけたり引っぱったりする。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び十字架に付けようかと密かに企てるだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがそんなにイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも多くを行い、多くを語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。彼は自らのいのちを何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。彼は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に今なお彼を生きたまま食べたいというのか。彼は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の祝福を享受すること無く、あなたがたに与えた。人間は彼に対して極めてさもしく、彼は決して地上の富を享受せず、彼はその誠実で熱意ある心の全てを人間に捧げた。彼は自身の全てを人類に捧げた。それで、彼に対して温もりを与えた者がいるだろうか。誰が彼に慰めを与えたというのか。人間は彼にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を押し付け、あらゆる不義を彼のせいにし、そして彼はそれを無言で受け容れてきた。かつて彼が誰かに反抗したであろうか。かつて彼が誰かから少しの返報を求めたことがあるだろうか。彼に同情を示した者がこれまでいるであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、ロマンに満ちた幼年期を過ごさなかった者がいるであろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるであろうか。愛する者の温もりを知らない者はいるであろうか。誰が親類や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が腹心の友をもつ慰めを知らないというのか。しかるに、そうした事のうちのどれかを神は享受したであろうか。誰が彼に少しでも温もりを与えたというのか。誰が彼に少しでも慰めを与えたというのか。誰が彼に少しでも人間の倫理を示したというのか。かつて誰が、彼に対して寛容であったというのか。かつて誰が、困難な時に彼と共にあったというのか。かつて誰が、彼と共に困難な生活を過ごしたというのか。人間は、彼に対する要求を少しも和らげたことがない。人間は何の良心の呵責も無く、彼に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、彼が人間の世界に来たのだから人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して彼を許さず、彼に対して寛容になる事は無く、彼を神と呼ばず、決して彼を高く評価することはないであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を苦しめて殺すことに躍起になっているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を緩め、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間に自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。真理は人間たちの間のどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光がこの世の闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これら全ては人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る公正な道では無いのか。そして、神の働きは人間がいのちに入ることを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の働きを人間がいのちに入ることと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を能力が及ぶ限り尽くすことを、わたしは望む。このようにして、神が栄光を受けることを結びとして、神の働きは完了するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

脚注

1.「人間に対して働きを行い」は「人間を救い」の意味である。

2.「固執する」は嘲笑する意味で用いられている。この語は、人が頑固で手に負えず、時代遅れの物事にしがみついていることを指している。

3.「過去の態度を逆転させる」は、いったん神を知ると神についての人々の観念や考えがどのように変化するかに言及している。

4.「呑気に構えており」は、人々が神の働きに無関心で、重要と考えていないことを示している。

5.「曖昧」は、人々が神の働きについて明確な識見を持っていないことを示す。

6.「分解不可能」とは、ここでは皮肉であり、人々が自分の知識、文化、霊的観点に凝り固まっていることを意味する。

7.「罰を受けることも捕らわれることも無いまま」とは、悪魔が凶暴になり、暴れ回ることを指す。

8.「台無しにする」とは、悪魔の凶暴な行動を見るのがいかに耐えがたいことであるかを指す。

9.「打ちのめされてあざが出来」は魔王の醜い顔について述べたものである。

10.「大博打を打って」は、悪魔の陰険で邪悪な謀りの喩えである。この喩えは嘲笑的に用いられている。

11.「食い物にする」とは、人間の全てを奪い尽くす魔王の凶暴な行動を指す。

12.「共犯者集団」は「ごろつきの群れ」の同義語である。

13.「混乱を招く」とは、悪魔的性質の者が暴動を起こし、神の業を阻害し、神の業に反対することを指す。

14.「ハクジラ」は嘲笑的に用いられている。ハエが極めて小さく、ハエにとって、ぶたや犬はクジラのように大きく見えることの比喩表現。

15.「諸悪の首謀者」とは、年老いた悪魔を指す。強烈な嫌悪を現す句。

16.「根拠の無い告発を行い」とは、悪魔が人間を害する方法を指す。

17.「堅く警護されている」とは、悪魔が人間を害する方法が特に残忍であり、人間を強く支配するので、人間には動き回る余地がないことを指す。

18.「かけ離れた」は嘲笑的に用いられている。

19.「系統的かつ懇切な指導」は嘲笑的に用いられている。

20.「恩恵を受けている」は、無表情で自己認識が無い者を嘲笑するために用いられている。

21.「次々と災難に見舞われる」とは、人々が赤い大きな竜の地に生まれ、頭を高く揚げていられないことを指す。

22.「あなたは、自分の人生全てを~捨てる」は軽蔑的な意味である。

23.「略奪」は人間の不従順さを露わにするために用いられている。

24.「「敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、おとなしく従う牛のように人々に仕えるしか無い」は原文では一文であるが、意味をより明確にするために、ここでは二文に分けてある。最初の文は人間の行為を指し、次の文は神が受けた苦難と、神が謙り隠れていることを示している。

25.「偏見」は人間の不従順なふるまいを指す。

26.「絶対的な権力の掌握」は人間の不従順な行動を指す。人間は自らを高くし、他の者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦難を受けるようにさせる。そうした者が神に敵対する勢力である。

27.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。

28.「激化を続ける」は、人間の卑しい行動を強調するために用いられている。

29.「チョークとチーズを見分けることが出来ない」は人間が神の旨を歪めてサタンのようなものにする場合のこと、広義には神を拒む人々の行動を指す。

30.「黒と白を混同する」は、真理を妄想と、また義を悪と混同することを指す。

31.「盗賊」は人間が非常識で識見に欠けていることを示すために用いられている。

32.「屑と残飯」は、人間が神を弾圧する行動を示すために用いられている。

33.「激昂して」は、激怒し、憤慨した醜悪な人間の顔を指す。

34.「ぬけぬけと」とは、人間が無謀になって神に対する畏敬の念が一切無くなった状態を指す。

35.「人間の『入ること』」とは、ここでは人間の不従順なふるまいを指す。人間が真にいのちに入ること(これは良いことである)を指すのではなく、人間の悪いふるまいと行動を指す。この語句は包括的に、神に反抗する人間の行動を指す。

36.「架空の恐怖に苛まれている」は、人間の見当違いな人間としての生活を揶揄するために用いられている。悪魔と共生している醜悪な人間の生活を指す。

37.「最も得意とする」は揶揄的に言われている。

38.「熱狂していく一方であり」とは、人間の醜悪な状態を揶揄的に指す。

39.「周到な計画を胸に秘め」は揶揄的に言われており、人間がどれほど自分を知らないか、自分の本当の霊的背丈に無知であるかを意味している。

40.「尊敬すべき」は揶揄的に言われている。

41.「放ちそう」とは、神に打ち負かされて怒りで湯気が立っている醜悪な人間の状態を指す。神に対する人間の反抗の度合いを示す。

a.原文では「~と呼びかける者もいる」となっている。

b.中国語の慣用句。

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