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18.にせ指導者またはにせ羊飼いとは何か。

神の言葉

聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に見合うことをすることはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は神自身の心に従う奉仕を望む。神は観念と肉の奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は中断し混乱する。その奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に反対しており、神と調和できない。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

あなたがたの知識は、一定期間しか人々の役に立たない。時間が経過するにつれ、あなたがたが同じ話を繰り返し続けた場合、あなたがたは表面的すぎて深みが無さすぎると言う者が居るであろう。あなたがたは、教義を話して人々を騙そうとするしか無く、常にこうした状態のまま続けたならば、あなたがたの目下の者は、あなたがたの神への信仰の方法や規範に従い、そうした言葉や教義を実践し、最終的には、あなたがたがそのような話し方をしたので、そうした者は、あなたがたのそのような話し方を模範とするであろう。あなたがたは教義を語るよう人々を指導し、目下の者はあなたがたから教義を学び、事態が進行すると、あなたがたは誤った道へと進むであろう。目下の者は自分に従うので、あなたがたは「私は力を身に付けた。多くの者が私の話を聞き、世界は私の意のままに従っている。」と感じる。あなたがたは、この人間の内なる裏切りにより、無意識のうちに神を単なる名目上の頭首に変え、自らが、ある教派、分派を形成する。教派、分派は、どのようにして興るか、というと、このようにして興る。各教派、各分派の指導者を見ると、そうした指導者は全て傲慢で独善的であり、聖書を前後関係を無視して、自分の想像に従って解釈している。そうした指導者は、全員が才能と学識に依存して業を行う。そうした指導者が何も説教出来ないのであれば、人々はその指導者に従うであろうか。結局のところ、そうした指導者は、教義をある程度習得し、教義について多少の話をすることが出来るか、あるいは他人を説得する方法、策略の利用法を知っており、それによって人々を自分のところに集めて騙したのである。こうして集まった人々は、名目上は神を信じているが、実際にはその指導者に付き従っている。そうした人々が真の道を説教する者に出会うと、「私達の神への信仰について、指導者と相談する必要がある」と言う者も居る。このように、こうした人々には、神を信じるために誰かの同意が必要であるのが分かると思うが、それは問題ではなかろうか。それならば、そうした人々の指導者は、どのような存在ということになるであろうか。そうした指導者はパリサイ人や偽の羊飼い、反キリスト教主義者のような存在であり、人々が真の道を受け容れるのを阻害する存在となっているのではなかろうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

あなたがたは、砂浜の砂ほど大量の知識を語ることが出来るが、そのうち実際の道が含まれている知識は皆無である。その点において、あなたがたは人々を欺しているのではなかろうか。あなたがたは有言不実行ではなかろうか。このような行動は人々に有害である。理論が高尚であればあるほど、現実性が一層欠如し、人々を現実性に導くことが一層不可能となり、またあなたがたはそのために一層神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱ってはならない。それは悪質であり、一切無益である。最も高尚な理論を語ることが出来る者も居るであろうが、そうした理論には現実性が一切含まれて居ない。なぜなら、そうした者は自分でそれを経験しておらず、したがって実践の道を一切知らないからである。そうした者は人間を正しい道に導くことが出来ず、人々を惑わせるだけであろう。それは人々にとって有害ではなかろうか。最低限度として、あなたがたには現在の問題を解決し、人々が真摯な取り組みを実現出来るようにする能力を備えている必要がある。そうした状態のみが献身として認められ、そうして初めて、あなたがたは神のために業を行う資格を得るであろう。常に崇高で非現実的な言葉ばかりを語ったり、不適切な実践を数多く用い、人々を拘束して自分に従わせたりしてはならない。そのような行動は全く効果が無く、益々人々を困惑させることしか出来ない。そのようにして人々を導くことにより、数多くの規則が生み出され、そうした規則が原因で人々はあなたがたを嫌悪するであろう。それは人間の欠点であり、極めて癪に障るものである。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

一部の者は、勤めと説教をして、表面上は神の御言葉に関する交わりを行っているように思われるが、その者の話は全て御言葉の文字通りの意味でしか無く、御言葉の真髄について一切触れられていない。そうした者の説教は語学の教科書の教えのようなものであり、項目や事項別にまとめられており、説教が終わると皆「この説教は極めて実践的だ。この人たちは説教は実に上手くて詳しい。」と言って賞讃する。説教が終わると、説教された事柄をまとめて他人に話し、皆に伝える。こうすることにより、こうした者は他人を欺いており、こうした者が説いている事は全て詭弁である。表面上は、その話は神の御言葉のみを説教しているように思われ、その者の言葉は真理に従っているように思われる。しかしあなたがたが一層注意深く判断すると、そうした者の話は、すべて教義の話であり、あやまった理知であることが分かる。そうした者の話には、想像や観念、神を描写する言葉も含まれて居る。こうした説教は神の御業を妨害するのではなかろうか。この勤めのやり方は神を欺くものである。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

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