「受肉の奥義」に関する神の言葉四節からの抜粋

1. 恵みの時代、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネに神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけである。ヨハネは主の先駆者だったが、神を表わすことはできなかった。聖霊に用いられる人に過ぎなかったのである。イエスがバプテスマを受けたあと聖霊が鳩の如くイエスの上に降り立った。それからイエスは自分の働きを始めた。つまり、キリストの職分を始めたのである。それが、イエスが神の身分をとった理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようなものであったとしても――時には弱く、時には強かっただろうが――それはすべてイエスが職分を始める前に過ごした、普通の人の生活に属するものだった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、神の力と栄光がただちに備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行なうことができ、力と権威を備えていた。神自身の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは霊に代わって霊の働きを行ない、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身だった。そのことに反論の余地はない。ヨハネは聖霊に用いられた人間である。彼に神を表わすことはできず、また神を表わすことは彼にとって不可能だった。たとえそうしたいと望んでも、聖霊はそれを許さなかっただろう。と言うのも、神自身が成し遂げようとした働きを、ヨハネが行なうことはできなかったからである。おそらく、彼には人間としての意思、あるいは逸脱したものが数多くあったのだろう。どのような状況下においても、ヨハネは神を直接表わすことができなかった。彼の過ちや間違いは自分自身だけを表わしていたが、彼の働きは聖霊を象徴するものだった。それでもなお、彼のすべてが神を表わしていたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表わしていただろうか。人を表わす中で間違いを犯すのは普通のことだが、神を表わしながら逸脱しているなら、それは神の名誉を汚すことではないだろうか。聖霊に対する冒涜ではないだろうか。たとえ他人に称揚されても、人が神に取って代わることを聖霊は軽々しく許さない。神でない人が最後に固く立つことはできないだろう。人が気の向くままに神を表わすことを、聖霊は許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しをし、彼がイエスのために道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きは実に均衡のとれたものだった。ヨハネに求められたのはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけだった。つまり、聖霊は道を整える彼の働きだけを支え、そのような働きをすることだけを彼に許した。他の働きをすることは許されなかったのである。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表わしていた。そのことにおいて聖霊はヨハネを支えた。彼の働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えたのである。しかし、もしヨハネが、自分は神だと主張し、贖いの働きを完成させるために来たのだと言ったなら、聖霊は彼を懲らしめる必要があっただろう。ヨハネの働きがどれほど偉大でも、またそれが聖霊に支えられていたとしても、その働きに境界がなかったわけではない。確かに、聖霊はヨハネの働きを支えていたが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。その他の働きを行なうことはまったくできなかったのである。と言うのも、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネに過ぎなかったからである。よって、聖霊の証しが鍵になるのだが、聖霊が人に許す働きはそれにも増して重要である。当時、ヨハネは鳴り響くような証しを受け取っていたのではないか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。しかし、ヨハネの働きがイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間に過ぎず、直接神を表わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネが行なった働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、聖霊はもはや彼の証しを支えず、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

2. 悪霊に取りつかれ、「私が神だ!」と声高に叫ぶ人がいる。しかし最後に、彼らは暴かれる。と言うのも、自分が表わすものについて、彼らは間違っているからである。彼らはサタンを表わし、聖霊は彼らに何の注意も払わない。どれほど高く自分を称揚しても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、神の愛するひとり子である」と叫ばない。しかし、わたしが行なう働きは神の働きである。わたしに叫ぶ必要があるだろうか。称揚の必要はない。神は自身の働きを自ら行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表わすのである。バプテスマに先立ち、イエスは神自身ではなかったのか。受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証しをされて初めて神のひとり子になった、などと言うことは到底できない。その働きを始めるずっと以前、イエスという名の人間がすでにいたのではないか。あなたは新しい道を生み出すことも、霊を表わすこともできない。霊の働きや、霊が語る言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを行なうこともできない。神の知恵、不思議、計り難さ、そして人間を罰する神の性質全体を表現することは、どれもあなたの能力を超えている。ゆえに、自分は神だと主張しようとしても無駄である。あなたには名前があるだけで、実質がまったくないのである。神自身はすでに来た。しかし、誰も神を認識せず、それでいて神は働きを続け、霊を代表して働く。あなたが彼を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかし、彼が行なう働きは霊の働きで、神自身の働きを表わしている。人にどのような名前で呼ばれるか、彼には関心がない。その名前が彼の働きを決定できるのか。あなたが彼を何と呼ぼうと、神に関する限り、彼は神の霊の受肉した肉体である。彼は霊を表わし、霊によって承認されている。あなたが新しい時代への道を切り開けないなら、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをしたりすることができないのであれば、あなたが神と呼ばれることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

3. 聖霊に用いられる人でさえ、神自身を表わすことはできない。そのような人は神を表わすことができないというだけでなく、その人が行なう働きも直接神を表わせないのである。言い換えると、人の経験が神の経営(救い)の内部に直接置かれることはできないし、神の経営を表わすこともできない。神自身が行なう働きはひとえに、神の経営計画の中で神が行なおうとする働きであり、それは偉大な経営に関係している。人によってなされる働きは、その人の個人的経験を提供することから成っている。以前の人たちが歩いた道を超える新しい経験の道を見つけ、聖霊の指導の下、兄弟姉妹を導くことから成っているのである。この人たちが提供するのは、自分個人の経験や、霊的な人たちの霊的書物である。このような人たちは聖霊によって用いられているが、彼らが行なう働きは、六千年にわたる計画の中の偉大な経営の働きとは無関係である。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって生み出されてきた人たちに過ぎない。彼らが行なう働きは、神のために適切な道を整えるか、あるいは地上における神自身の経営の、ある特定の側面を続けていくことだけである。そのような人たちは基本的に、神の経営のより偉大な働きをすることができず、新しい道を切り開くこともできず、ましてや前の時代から続く神の働きをすべて終わらせることなどできない。よって、彼らが行なう働きは、被造物が己の役目を果たすことを表わしているだけで、神自身が己の職分を果たすことは表わせない。これは、彼らの行なう働きが神自身の行なう働きと違うからである。新しい時代を導入する働きは、人が神の代わりに行なえるものではない。他ならぬ神自身にしかできないことなのである。人によって行なわれるすべての働きは、被造物としての本分を尽くすことから成っており、その人が聖霊によって動かされたり、啓かれたりしたときに行なわれる。そのような人たちがもたらす指導はひとえに、日常生活における実践の道を人に示すこと、神の旨と一致する形で行動するにはどうすればよいかを示すことから成っている。人の働きは神の経営に関わることも、霊の働きを表わすこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することだった。その道が新しかろうと古かろうと、その働きの前提は、聖書の中に留まるという原則の上に築かれていた。地方教会の再建であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことに関係していた。彼らが行なった働きは、イエスと弟子たちが恵みの時代にやり残した働き、あるいはそれ以上に展開しなかった働きを引き継ぐものだった。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分の後に来る世代の人々に求めたことを復活させることだった。彼らの働きは聖書を固く守り、聖書の中に道を求めることだったと言うことができるだろう。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、人は彼らの働きの中に、聖書内における新しい道の発見と、以前よりはましで現実的な実践しか見ることができない。しかし彼らの働きの中に、神の現在の旨を見出すことはできず、ましてや神が終わりの日に行なおうと計画している新しい働きを見つけることなどできない。これは、彼らの歩んだ道が依然古い道であり、刷新や進歩がなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改めて罪を告白させるという実践や、最後まで耐える者が救われるとか、男は女の頭であるとか、妻は夫に従えなどといった言い回し、そしてさらに、女性信者は説教できず、従うことしかできないという伝統的な観念を遵守し続けた。もしもこのような形の指導が遵守され続けていたら、聖霊が新しい働きを行ない、人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかっただろう。そういうわけで、時代を変えるこの段階の働きは、神自身によって行なわれ、語られなければならないのである。そうしなければ、神の代わりにそれを行なえる人はいないからである。これまでのところ、この流れの外側における聖霊の働きはすべて行き詰まり、聖霊に用いられる人々は方向を失った。よって、聖霊に用いられる人々の働きは神自身による働きと同じではないので、彼らの身分、および彼らが誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは、聖霊の行なおうとする働きが異なるからであり、そのため同じように働きを行なうすべての人に異なる身分や地位が与えられる。聖霊に用いられる人たちもまた新しい働きをするかもしれないし、以前の時代になされた働きを消去するかもしれないが、彼らが行なうことは新しい時代における神の性質や旨を表現できない。彼らが働きを行なうのは、以前の時代の働きを取り除くためだけであり、神自身の性質を直接表わす目的で新しい働きを行なうためではない。このように、彼らが時代遅れの実践をいかに多く廃止しようとも、あるいはどれほど多くの新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人と被造物を代表しているのである。しかし、神自身は働きを行なうとき、古い時代の実践の撤廃を公然と宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言したりすることはない。神はその働きにおいて直接的かつ率直である。神は行なおうと意図する働きを実行する上で率直である。つまり、神は自身がもたらしてきた働きを直接表現し、自身の働きを本来意図したように直接行ない、神そのものと神の性質を表現する。人の見るところ、神の性質、そして神の働きもまた、かつての時代と異なっている。しかし、神自身の見地からすれば、これは神の働きの継続であり、さらなる展開に過ぎない。神は働きを行なうとき、自身の言葉を表現し、新しい働きを直接もたらす。それとは対照的に、人が働きを行なうとき、それは熟慮と研究によってなされるか、または他人の働きの上に築かれた認識の発展、および実践の体系化なのである。すなわち、人によってなされる働きの本質は、確立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。このことは、聖霊に用いられる人が歩く道でさえ、神自身によって始められたものに基づいているということを意味している。ゆえに、つまるところ、人は依然として人であり、神はやはり神なのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

4. イサクがアブラハムのもとに生まれたように、ヨハネは約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを行なったが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者の一人だった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えて初めて、イエスは正式に自分の働きを始めた。実質的に、ヨハネは単にイエスのために骨を折っただけであり、ヨハネが行なった働きはイエスの働きに奉仕するものだった。ヨハネが道を整え終わった後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より詳細にわたる働きだった。ヨハネが行なったのはその働きの最初の一部だけであり、新たな働きのより大部分は、イエスによって行なわれたのである。ヨハネも新たな働きを行なったが、新たな時代を始める人ではなかった。ヨハネは約束によって生まれ、その名前は天使から与えられた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母が口を開いてこう言った。「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」。これはすべて聖霊によって命じられたことである。イエスもまた聖霊の命令で名付けられ、聖霊から生まれ、聖霊からの約束を受けた。イエスは神であり、キリストであり、人の子だった。しかし、ヨハネの働きも偉大だったのに、なぜ彼は神と呼ばれなかったのか。イエスによってなされた働きと、ヨハネによってなされた働きの違いはいったい何だったのか。ヨハネはイエスのために道を整える人だったというのが唯一の理由なのか。あるいは、神によってあらかじめ定められたからなのか。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きがさらに展開されることはなく、始まりを構成したに過ぎなかった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を始めて古い時代を終わらせたが、旧約聖書の律法を成就させることもした。イエスが行なった働きはヨハネの働きより偉大であり、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであって、その段階の働きを達成したのである。ヨハネのほうはただ道を整えたに過ぎない。彼の働きは偉大で、数多くの言葉を語り、彼に従う弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新たな始まりをもたらしたに過ぎないのである。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受け取っておらず、彼を通して神の旨を理解することもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新たな土台を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)だった。つまり、恵みの時代の先駆者だったのである。そのような事柄は、彼らがもつ普通の人間の外見だけでは見分けられない。特にヨハネは、極めて多くの働きを行ない、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので、それがますます当てはまる。そうであれば、人のそれぞれの身分は、その人が行なう働きを通じてのみ区別することができる。と言うのも、人の外見からその人の本質を知る術はなく、聖霊の証しとは何かを人が確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きは異なっており、違う性質を有している。そのことから、ヨハネが神かどうかを決めることができる。イエスの働きとは、始めること、続けること、終わらせること、そして結実させることだった。これらの各段階をイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりをもたらす以上のものではなかった。イエスは最初に福音を広め、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後に人類を罪から贖い、その時代全体の働きを完成させた。イエスはあらゆる場所に赴いて人々に説教し、天国の福音を宣べ伝えた。この点においてイエスとヨハネは似通っていたが、イエスは新しい時代を始め、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきこと、および従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして最後に、イエスは贖いの働きを終えた。ヨハネがその働きを実行できたはずはない。ゆえに、神自身の働きを行なったのはイエスであり、イエスが神自身であり、神を直接表わすのもイエスなのである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者はみな神である。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも全員神である、ということになる……。これはよくできた冗談ではないか。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

5. 肉となった神は絶対に普通の人と同じように生活しないと人々は信じている。彼らは、その人は聖なる人なので、歯を磨いたり顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これらは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書にはイエスの人間生活に関する記録がなく、イエスの働きについての記録しかないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で正式に働きを始めたが、それ以前に彼が送った人としての生活全体を打ち消すことはできない。聖書はただその時期のことを記録から省略しているだけである。それは普通の人としての生活であり、神性の働きの時期ではなかったので、書き記す必要がなかったのである。イエスのバプテスマに先立ち、聖霊が直接働きを行なうことはなく、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としての生活に留めただけのことである。イエスは受肉した神だったが、普通の人として成長する過程を経た。この成長過程は聖書から省かれている。と言うのも、人のいのちの成長にとって大きな助けにならないからである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行なわなかった。イエスはバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、そして憐れみに満ち溢れた人類の贖いの働きのすべてを始めたのである。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。それが理由で書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきたのである。それは、恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを結実させるためだった。それは人が書いた記録に由来するものだが、すべて事実であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。たとえそうでも、これらの記録を誤りとすることはできない。記録された出来事はすべて事実であり、人が書き留める中で間違いを犯しただけである。中には、イエスが普通で平凡な人間性をもつ者だったなら、しるしや不思議を行なえたのはどういうことか、と言う人もいるだろう。イエスが経験した四十日間の試みは奇跡のしるしであり、普通の人には達成できないものである。試みを受けたイエスの四十日間は、聖霊の働きの本質だった。そうであれば、イエスの中に超自然的なものがまったくなかったとどうして言えるのか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明にはならない。それは単に、聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こしてよりいっそう偉大な働きを行なえた、というだけのことである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前、イエスは普通の人に過ぎず、超自然的なところは少しもなかった。聖霊がイエスに降臨したとき、つまりイエスが自身の職分を果たし始めたとき、イエスは超自然的なもので満たされた。人はそのようにして、神の受肉した肉体には普通の人間性がないと信じるようになる。そのうえ、受肉した神には神性だけがあり、人間性はないと誤解する。確かに、神が地上に来て働きを行なうとき、人が見るのはどれも超自然的な出来事である。人が自分の目で見るもの、耳で聞くことはすべて超自然的である。なぜなら、神の働きと言葉は人にとって理解できず、達成不可能なことだからである。天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天国の奥義が地上にもたらされるとき、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりに不思議で知恵に満ちているが、それらはすべて超自然的ではないのか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、すべては神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した肉体には人間性が吹き込まれている。そうでなければ、それは神の受肉した肉体ではないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

6. 肉体における神の霊の働きもまたそれ自体の原理に支配されている。普通の人間性を備えて初めて、イエスは父なる神の働きを手がけ、その義務を引き受けることができたのであり、そうして初めて自身の働きを始めることができたのである。幼年時代、イエスは古代に起こった大半のことをまったく理解できず、会堂の教師に訊いて初めて理解することができた。もしも言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどどうしてあり得ようか。ゆえに、イエスは働きを行なえるようになって初めて働きを始めたのであり、働きを手がけることが完全に可能になるまでいかなる働きも行なわなかったのである。イエスは二十九歳ですでにかなり成熟しており、その人間性はこれから行なう働きを手がけるのに十分だった。神の霊がイエスにおいて正式に働きを始めたのはその時が最初である。当時ヨハネはイエスのために道を切り開くべく七年間準備していた。そして自身の仕事を終えると、ヨハネは投獄された。こうして重荷はすべてイエスにのしかかった。人間性がいまだ足りず、青年になったばかりの二十一、二歳でイエスがこの働きを手がけ、依然として多くのことを理解していなければ、イエスは掌握することができなかっただろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネが働きを実行してからすでにかなりの時が経っていた。その年齢であれば、イエスの普通の人間性はなすべき働きを手がけるのに十分だった。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

7. 受肉した神が肉において働きを行なう際、そこには多くの原則があり、人間にはどうしても理解できない多数の事柄がある。人間は絶えず自分の観念を用いて神を推し量ったり、神に過度の要求をしたりする。それでいながら今日に至るまで、自分の認識が自分の観念だけで成り立っていることにまったく気づいていない人たちが多数いる。神がどの時代にどこで受肉しようと、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することができず、ましてや肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことは不可能である。そうでなければ、神の受肉の意義は消えてなくなり、肉となったことばもまったく無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使いさえもそれを知らない。このように、神の肉における働きはますます普通のことであり、ことばがまさに肉となったことを申し分なく証明することができる。そして肉とは、平凡で普通の人を意味する。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

8. 「なぜ時代の到来は神自身によって告げられなければならないのか。被造物が神の代わりになることはできないのか」と不思議に思う人がいるかもしれない。新しい時代の到来を告げるという明白な目的のために神が肉となることを、あなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代の到来を告げるとき、同時に前の時代を終わらせることもあなたがたは知っている。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身なのだから、前の時代を終わらせるのも神自身でなければならない。それは、神がサタンを打ち負かし、世界を征服する証拠である。神自身が人々のもとで働くたび、それは新しい戦いの始まりとなる。新しい働きの始まりがなければ、当然古い働きの終わりもない。そして古い働きの終わりがなければ、サタンとの戦いがまだ終結していないことを証明している。神自身が来て人のあいだで新しい働きを実行して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しい生活、新しい始まりを得ることができる。そうでなければ、人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。それぞれの時代が神によって導かれることで、人間の一部は自由になり、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きとともに前進する。神の勝利とは、神に従うすべての人の勝利である。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からだろうと、サタンの視点からだろうと、それは神に反抗する行ない、あるいは神を裏切る行ないに過ぎず、神に対する従順さの行ないではないのであって、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうだろう。神自身によって始められた時代の中、人が神に服従し、付き従うのでなければ、サタンを完全に納得させることはできない。それが被造物の本分だからである。ゆえに言っておくが、あなたがたに必要なのは付き従って服従することだけで、それ以上のことは求められていない。これが、各自が自分の本分を守り、それぞれの役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神に代わってそうすることを必要としておらず、被造物の働きに神が参加することもない。人は自分自身の本分を尽くするのであり、神の働きに参加することはない。これだけが本当の服従であり、サタンが敗北した証拠である。新しい時代の到来を告げたあと、神自身が自ら人類のあいだで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を尽くし、被造物としての使命を果たすべく、新しい時代へと正式に足を踏み入れるのである。これが、神が働きを行なう原則であって、誰も背くことはできない。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身によってなされる。神の働きを始動させるのは神であり、それを終わらせるのも神である。働きを計画し、経営するのも神であり、それ以上に、働きを結実させるのも神である。聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営の働きに関連することはすべて神自身によって行なわれる。神は六千年にわたる経営計画の支配者で、誰も神の代わりにその働きを行なうことはできず、神の働きを終わらせられる者もいない。なぜなら、すべてをその手に掌握しているのは神だからである。世界を創造した神は、全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより自身の計画をすべて成就させるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

9. ユダヤで働きを行なっていた当時、イエスは公然とそうしたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働きを行ない、そして語る。未信者はまったくこれに気づいていない。あなたがたのあいだにおけるわたしの働きは、部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰、そして裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。未信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何一つ知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らに対し、受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが明らかで、何もかもが明かされており、すべてが解放されているが、これは神を信じる人にだけ当てはまり、その他の者、未信者に関する限り、何も知らされていない。現在、あなたがたのあいだで、中国において行なわれている働きは、彼らが知ることのないよう厳しく封じられている。その働きに気づくようなことがあっても、彼らはそれを断罪し、迫害の対象とするだけで、信じることはないだろう。最も進歩の遅れたこの場所、すなわち赤い大きな竜の国で働くのは決して簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きをこの場所で実行するなどとうていできない。もしこの働きが公然と実行されたなら、どうして前進することが許されるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険に晒すことにならないだろうか。この働きが隠されておらず、イエスが見事に病人を癒やし、悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔の「虜にされて」いたのではないだろうか。悪魔は神の存在を我慢できるだろうか。今、わたしが人に説教をし、教えるために会堂へ入って行こうとしたら、とっくの昔に粉々に砕かれていたのではないだろうか。だとしたら、わたしの働きをどうして続けられようか。しるしや不思議が公然と明かされない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは未信者に見られることも、知られることも、発見されることもない。この段階の働きが恵みの時代におけるイエスの働きと同じように行なわれたなら、それは今ほど安定したものではなかっただろう。だから、このようにして密かに働きを行なうのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益なのである。地上における神の働きが終わるとき、つまりこの密かな働きが終わるとき、この段階の働きは一気に公にされる。中国に勝利者の集団がいることを、すべての人が知るだろう。肉となった神が中国にいて、その働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始める。なぜ中国はいまだ衰退や崩壊の兆しを見せていないのか。実のところ、神が中国でその働きを自ら実行し、人々の集団を完全にして勝利者にしたのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より引用

10. 肉となった神は、その働きを自ら実行する間、自分に付き従う人にだけ自身を示すのであり、すべての被造物に示すのではない。神は働きの一段階を完成させるためにだけ肉となったのであり、人に自身の姿を見せるためではない。しかし、神の働きは神自身によって実行されなければならず、よって神が肉においてそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。来たるべき働きの妨げにならないよう、人類のあいだに長期間留まることはできないのである。神が大衆に示すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、二度肉となったときの姿ではない。なぜなら、神の姿は神の性質を通じてのみ示すことができ、受肉した肉体の姿がそれに取って代わることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、つまり神が肉において働く際、神に付き従う人たちにだけ示される。これこそ今、働きが秘かに行なわれている理由である。また同じように、イエスは働きを行なっていたとき、ユダヤ人にだけ自分自身を示し、他の民族に公然と自身を示すことは決してなかったのである。したがって、ひとたび働きを完成させると、イエスはすぐさま人間の世界から離れ、そこに留まらなかった。それ以降、人間に自らを見せたのは、この人の姿をしたイエスではなく、働きを直接行なう聖霊だった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じような働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿をほとんど見ることができない。彼は自身を人にまったく見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きの時間は限られており、それは特定の時代、期間、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。その働きは、神が受肉した期間中に行なわれる働きだけを表わしており、その時代に特有のものであり、ある特定の時代における神の霊の働きを表わすものであって、神の働き全体を表わすわけではない。よって、肉となった神の姿がすべての人に示されることはない。大衆に示されるのは、神が二度肉になった際の姿ではなく、むしろ神の義と神の性質全体である。人に示されるのはただ一つの姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神の行なうべき働きが完成されたあと、神の受肉した肉体がすぐに地上から離れることが必須なのである。と言うのも、肉となった神はすべき働きをするためだけに来るのであり、自身の姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、それでもなお、かつて神を一度も見たことのない民族に対して公然と自身を示すことはない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より引用

11. 二度にわたる神の受肉の働きがひとたび終わると、神は異邦の民族のあいだに義なる性質を示し始め、大衆が神の姿を見えるようにする。神は自身の性質を示し、これを通して、様々な種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉における神の働きが広範囲に及ぶものでない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしがあなたがたのあいだだけで働いているように)のは、肉における神の働きには範囲と限界があるからである。神は普通の平凡な肉の姿で短期間の働きを行なうだけで、受肉した肉体を用いて永遠の働きをしたり、異邦の民の前に現われる働きをしたりするわけではない。肉における働きは範囲が限られている(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)だけであり、その後、それらの境界内でなされた働きを通して範囲を拡大することができる。もちろん、拡大の働きは霊によって直接行なわれ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉における働きには境界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからであって、それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行なう。したがって、肉においてなされた働きは、ある特定の境界の中で行なわれる始まりの働きなのである。その後、神の霊はこの働きを、さらに拡張された範囲で続ける。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より引用

12. 神がこの地上に来て行なう働きは、時代を導き、新たな時代を切り開き、古い時代を終わらせるためだけのものである。神は地上における人間の人生を生き、人の世の喜びと悲しみを自ら体験するため、もしくは自身の手である特定の人を完全にしたり、ある特定の人が成熟するのを自ら見守ったりするために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新たな時代を始め、古い時代を終わらせることである。つまり、神が一つの時代を自ら始め、別の時代を自ら終わらせ、自身の働きを自ら行なうことでサタンを打ち負かすのである。神が自ら働きを行なうたび、それは戦場に足を踏み入れるようなものである。まず、神は肉において世界を征服し、そしてサタンに勝利する。地上のあらゆる人々が自分たちの歩むべき正しい道をもち、平和と喜びに満ちた人生を送れるよう、神はすべての栄光を獲得し、二千年の働き全体の幕を開ける。しかし、神は長きにわたって地上で人間と暮らすことはできない。なぜなら、神は神であり、結局人間とは違うからである。神は普通の人の生涯を送ることができない。つまり、平凡そのものの人として地上に住むことはできないのである。と言うのも、自身の人間生活を維持するにあたり、神は普通の人の普通の人間性を最小限しかもっていないからである。言い換えれば、神がどのようにして地上で家族をもち、職業を得て、子どもを育てられるというのか。これは神にとって不名誉なことではないだろうか。神が普通の人間性を授けられているのは、普通の方法で働きを行なうという目的のためだけであって、普通の人のように家族や職業をもてるようにするためではない。神の普通の理知、普通の知性、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族や職業をもつ必要はない。まったく不必要である。神が地上に来るというのは、言葉が肉となるということである。神はただ、人が神の言葉を理解し、それを見ること、つまり、肉によってなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神の意図は、人々が神の肉体をある特定の方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から発せられるすべての言葉に従い、神が行なうすべての働きに服従することだけである。神は肉において働きを行なっているに過ぎず、神の肉の偉大さと聖さを人が称揚するよう意図的に求めているのではない。むしろ、神の働きの知恵と、神が行使するすべての権威を示しているのである。よって、神は並外れた人間性を有しながら、一切の宣言を行なわず、自分がなすべき働きだけに集中しているのである。神が肉となりながら、自身の普通の人間性を公表することも証しすることもせず、その代わりに行なおうと望む働きをただ実行するのはなぜなのか、あなたがたは知らなければならない。したがって、受肉した神からあなたがたが目にできるのは、神の神性とは何かということだけである。それは、人が真似るべき神の人間性とは何かを、神が宣言することはないからである。人間が人々を導く場合にのみ、その人は自分の人間性を語る。そうすることで、他の人たちをよりよく感銘させたり服従させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(つまり、人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人の尊敬を集めたり、人に自身を崇拝させたりはしない。神が行なうことはすべて、神に対する畏敬の念や、神の深遠さの感覚を人に植え付けることである。神は人を感銘させる必要がない。神に必要なのは、ひとたび神の性質を目の当たりにしたあなたが、神を畏れるようになることだけである。神が行なう働きは神のものである。人間が神に代わって行なえるものではなく、人間が達成できるものでもない。神自身だけがその働きを行ない、新しい時代を始めて、人間を新しい生活へと導けるのである。神が行なう働きは、人間が新しい生活を自分のものにし、新しい時代に入れるようにすることである。それ以外の働きは、正常な人間性をもち、他者から尊敬される人々に委ねられる。ゆえに、恵みの時代、神は受肉していた三十三年間のうち、わずか三年半で二千年分の働きを完了させたのである。自身の働きを行なうために地上へ来るとき、神は常に二千年分の働き、あるいは一つの時代全体の働きをわずか数年間で完了させる。神は遅れることも立ち止まることもない。長年にわたる働きをひたすら凝縮し、わずか数年で完了できるようにする。神が自ら行なう働きは、ひとえに新しい道を開き、新しい時代を導くことだからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より引用

13. 受肉した神の働きは、聖霊によって用いられる人々の働きとは異なる。地上に来て働きを行なうとき、神は自身の職分を全うすることにしか関心がない。自身の職分に関連していない他のあらゆることに関しては、見て見ぬふりをするほど何の関与もしないのである。神はただ行なうべき働きを実行し、人がすべき働きにはまったく関心をもたない。神の行なう働きは自身が存在する時代と、全うしなければならない職分に関するものだけであり、他のあらゆることは自分の視野にないかのようである。神は人類の一人として生きる上での、より基本的な知識を自身に備えることはせず、社交術を学んだり、人が理解できる他の物事を習得したりすることもない。人が自分のものにすべき物事にはまったく関心を示さず、ただ自身の本分である働きを行なうだけである。だからこそ、人が見るところ、受肉した神にはあまりに多くの点で不足があり、人がもつべき多くのものを無視するほどで、そうした事柄を一切理解していないように思われる。生活に関する一般的知識といった事柄、および自身の行動や他人との付き合いを律する原則などは、神と関係ないように見えるのである。しかし、受肉した神からほんの少しでも異常さを感じ取ることはとうていできない。つまり神の人間性は、正常な人としての生活と、自身の頭脳による正常な論理的思考を維持しつつ、善悪の識別力を与えているだけなのである。しかし、神には他の何も備わっておらず、それらはすべて人(被造物)だけがもつべきものである。神が肉となるのは自身の職分を全うするためだけである。神の働きは時代全体に向けられており、特定の人や場所に向けられているのではなく、全宇宙に向けられている。これが神の働きの方向性であり、神が働きを行なう原則である。誰もこれを変えることはできず、人がそれに関わる術もない。神は肉となるたび、その時代の働きを伴うのであって、人間がよりよく神を理解するために、あるいは神についての洞察を得られるようにするために、二十年、三十年、四十年、さらには七十年、八十年にわたり、人間のそばで暮らそうという意図をもっているのではない。そのような必要はないのである。そのようなことをしても、神の本来の性質について人間がもつ認識を深めることにはまったくならない。かえって人間の観念が増えるだけで、その観念や思想を旧弊なものにしてしまう。したがって、あなたがた全員が理解しなければならないのは、受肉した神の働きとはいったい何かである。「わたしが来たのは、正常な人間の生活を経験するためではない」というわたしの言葉を、あなたがたは理解しているはずではないか。「神が地上に来るのは、正常な人間の生活を送るためではない」という言葉を忘れてしまったのか。あなたがたは神が肉となることの目的を理解せず、「被造物の生活を経験する目的で神が地上に来るなど、どうしてあり得ようか」という言葉の意味を知らないのではないか。神は自身の働きを完成させるためだけに地上へ来るのであり、ゆえに地上での働きは束の間のものである。神が地上に来る目的は、自身の霊がその肉体を養育し、教会を導く優秀な人間にすることではない。神が地上に来るとき、それはことばが肉になるということである。とは言え、人は神の働きを知らないので、さまざまなことを神に押しつける。しかし、あなたがたはみな、神は「肉となったことば」であって、一時的に神の役割を果たすよう、自身の霊に養育された肉体ではないことを認識しなければならない。神自身は養育された産物ではなく、肉となったことばであり、今日、神はあなたがた全員のあいだで正式に自身の働きを行なっている。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より引用

14. 神が肉となるのは、ひとえに時代を導き、新しい働きを始動させるためである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割と大きく異なり、この二つを同じように語ることはできない。人は長期にわたって養育され、完全にされる必要があり、それからようやく働きを行なうために用いられることができる。そして必要とされる人間性は、ひときわ高次のものである。人間は普通の人間性の理知を維持できなければならないだけでなく、他人との関係における行動を司る数多くの原則や規則をさらに理解し、その上、人の知恵や道徳についてさらに多くを学ばなければならない。これが、人が備えるべきものである。しかし、受肉した神にそれは当てはまらない。と言うのも、神の働きは人を表わさず、人の働きでもないからである。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神がなすべき働きを直接的に遂行することである(当然、神の働きはしかるべき時に行なわれ、気軽に、あるいは無作為に行なわれるのではなく、神の職分を全うするべき時に始められる)。神は人の生活や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、それが神の働きに影響することはない)。神はそうすべき時に自身の職分を全うするだけである。自身の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きはまったく影響されない。例えば、イエスが働きを行なったとき、彼が何者かを知る人はおらず、イエスはただ自身の働きを進めるだけだった。それはどれも、イエスがなすべき働きを行なう際に彼を妨げなかった。よって、当初イエスは自身の身分を告白することも、宣言することもなく、ただ人を従わせた。当然、これは神の謙虚さだけではなく、神が肉において働く方法でもあった。神はこの方法でしか働きを行なうことができなかった。と言うのも、人には裸眼で神を認識する術がなかったからである。また、たとえ神を認識していたとしても、人には神の働きを助けることなどできなかっただろう。さらに、神が肉になったのは、人が神の肉体を知るようになるためではなかった。それは働きを行ない、職分を全うするためである。この理由で、神は自身の身分を公にすることに重点を置かなかったのである。神がなすべき働きをすべて完成させたとき、神の身分と地位はどれも自然と人に対して明らかになった。受肉した神は沈黙を守り、決して何も宣言しない。神は人のことや、人が神に従う中でどのように対処しているかなどは気にも留めず、ひたすら前進して自分の職分を果たし、なすべき働きを実行するだけである。誰も神の働きに立ちはだかることはできない。神が働きを終える時になると、それは必ずや終結し、終わりになる。それに反する指示を出せる者はいない。神の働きが完成されてすぐ、神が人のもとを去ってはじめて、まだ完全に明確ではないにしても、神が行なう働きを人は理解するのである。そして、神が最初に働きを行なった際の意図を人が完全に理解するには、長い時間がかかる。言い換えると、受肉した神の時代の働きは二つの部分に分けられる。一つは受肉した神自身の肉体が行なう働きと、受肉した神自身の肉体が語る言葉から成っている。ひとたび神の肉体の職分が完全に成就されると、働きの別の部分は、聖霊に用いられる人によって実行されるのを待つ。それが、人が自分の役目を果たすべき時である。なぜなら、神はすでに道を開いており、人間自身がそれを歩まなければならないからである。つまり、肉となった神は働きの一部を行ない、次いで聖霊と、聖霊によって用いられる人たちがその働きを引き継ぐのである。ゆえに人は、肉となった神がこの段階でおもに行なう働きについて、それに必要なことを知らねばならない。また、肉となった神の意義とは何か、神がなすべき働きは何かを理解しなければならず、人への要求に合わせて神に要求してはならない。ここに人の過ち、観念、またそれ以上に不従順があるのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より引用

15. 神は人に神の肉体を知らしめたり、受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉するのではない。また、人の識別力を鍛えるために受肉するのでもなければ、ましてや人が受肉した神の肉体を礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受けるようにする目的で受肉するのでもない。それらはどれも、神が肉となる本来の意図ではない。また、神は人を断罪するため、意図的に人を暴くため、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。それらはどれも神の本来の意図ではない。神が肉となるたび、それは避けることのできない働きの形なのである。神がそのように振る舞うのは、さらに偉大な神の働きと経営のためであり、人が想像するような理由のためではない。神は自身の働きが求める時だけ、必要な時だけ地上に来る。神はただ見回す目的で地上に来るのではなく、自身がすべき働きを実行するために来る。そうでなければ、どうしてこの働きを行なうほどの重荷を背負い、それほど大きな危険を冒すだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に独自の意義をもって肉となる。もしそれが人々に神を見させ、彼らの視野を広げるためだけだったなら、神は絶対にそれほど軽々しく人々の間には来ないだろう。神が地上に来るのは、自身の経営とより偉大な働きのためであり、さらに多くの人類を得るためである。神は時代を表わし、サタンを打ち負かすために来るのであり、サタンを敗北させるために肉をまとう。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらはすべて神の経営に関係しており、全宇宙の働きにも関係している。もし神が、人に神の肉体を知らしめ、人々の目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神は各国を旅しないのだろうか。それは極めてたやすいことではないだろうか。しかし、神はそのようなことをせず代わりに自分が暮らし、すべき働きを始めるのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。それは一時代の全体を表わし、同時に一時代全体の働きを行なう。それは前の時代を終わらせ、新しい時代を始める。これらはすべて神の経営に関する重要な事柄であり、神が地上に来て実行する働きの一段階の意義である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より引用

16. 神の性質のすべては六千年にわたる経営計画を通じて表わされてきた。それは恵みの時代、もしくは律法の時代においてのみ表わされたのではなく、ましてや終わりの日のこの時期にだけ表わされるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表わす。終わりの日になされる働きが、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、これら三段階は互いに繋がって一つの実体を成し、いずれも一つの神の働きである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分割されている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりの働きであり、恵みの時代になされた働きは贖いの働きだった。この六千年にわたる経営計画全体の働きのビジョンについては、誰も識見や理解を得ることはできない。それらのビジョンは神秘的なままである。終わりの日においては、神の国の時代を始めるべく言葉の働きだけがなされるものの、それはすべての時代を表わすものではない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもない。また恵みの時代や律法の時代を表わすものでもない。終わりの日には六千年にわたる経営計画のすべての働きがあなたがたに表わされる、というだけのことである。それは奥義のヴェールを取り除くことである。このような奥義について、人がそのヴェールを取り除くことはできない。人が聖書についていかに深く理解していても、その理解が言葉以上のものになることはない。人は聖書の本質を理解していないからである。人は聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、いくつかの言葉を説明したり、有名な聖句や章を細かく調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。なぜなら、人が見ているのはどれも死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人にはそのような働きの奥義を解明する術がないからである。よって、六千年にわたる経営計画の奥義は最も偉大な奥義であり、最も深く隠されていて、人にはまったく理解できないものである。神自身が人に説明して明かさない限り、誰も神の旨を直接把握することはできない。さもなければ、それらは永遠に人間にとって謎のままで、封印された奥義であり続けるだろう。宗教界の人たちはさておき、あなたがたも今日まだ伝えられていなかったなら、把握することはできなかっただろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

17. 終わりの日における働きは三段階のうち最後の段階である。それはもう一つの新しい時代の働きであり、経営の働き全体を表わすものではない。六千年にわたる経営計画は三段階の働きに分けられる。どの一段階も、それだけで三つの時代の働きを表わすことはできず、全体の一部しか表わせない。ヤーウェの名が神の性質全体を表わすことはできないのである。ヤーウェが律法の時代に働きを行なったという事実は、神が律法の下でしか神でいられないことを証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を築くように求めた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表わす。ヤーウェが行なったこの働きは、神は人間に律法を守るよう求める神でしかないとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だなどと証明するものではない。そのように言うのは誤りだろう。律法の下でなされた働きは一つの時代しか表わせない。よって、もしも神が律法の時代の働きだけを行なったのであれば、人は神を次の定義の中に閉じ込めるだろう。つまり、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣をまとって神殿に入らなければならない」という定義である。恵みの時代の働きが実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神が慈悲と愛にも溢れていたことを人間は知らなかっただろう。律法の時代の働きが行なわれず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことしかできないのだと、すべての人が認識しただろう。神は聖く汚れのない存在であり、人間のために自分を犠牲にし、十字架にかけられることができるとしか、人間は認識しなかったはずである。人はそれらのことしか知らず、他の何も理解しなかっただろう。したがって、それぞれの時代は神の性質の一部だけを表わすのである。律法の時代、恵みの時代、そして今の時代のそれぞれにおいて、神の性質のどの側面が表わされているかに関して言えば、これら三つの時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表わすことができる。これら三段階をすべて知って初めて、人はそれを完全に理解することができるのである。この三段階のどれも省略することはできない。これら三段階の働きを知るようになると、神の性質全体を見ることができる。神が律法の時代における働きを完成させた事実は、神が律法の下の神でしかないことを証明するものではなく、また神が贖いの働きを完成させた事実は、神が永遠に人類を贖うことを意味するものではない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代はすでに終わりを迎えたが、神は十字架のものでしかなく、十字架だけが神の救いを表わすと言うことはできない。そのように言うのであれば、神を定義していることになる。現在の段階において、神はおもに言葉の働きを行なっているが、神は人に対して憐れみ深かったことなどなく、神がもたらしたのは刑罰と裁きだけだなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェの働きとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを示し、人類のあいだにおける救いの働きを残らず終わらせるためである。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてを終わらせる。人に理解されていなかったすべての奥義が解明され、人がその奥義を徹底的に解き明かし、心の中で完全にはっきり理解できるようにしなければならない。その時初めて、人類を種類に応じて分類することができるのである。六千年にわたる経営計画が完成されて初めて、人は神の性質全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営はその時すでに終わっているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

18. 今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「私の上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、私の上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

19. 終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

20. 神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

21. 最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。律法の時代が終わりを迎えて恵みの時代に入った際、神は救いの働きを始めた。それは、神が人間の不従順を裁いて罰し、人類を完全に清める終わりの日まで続く。その時初めて、神は救いの働きを完結させ、安息に入る。よって、三段階の働きのうち、神が受肉して自ら人のあいだで働きを行なったのは二回だけである。それは、働きの三段階のうち一段階だけが人の生活を導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない。第二の受肉は人の罪を一掃し、人を完全に清めるのに十分である。よって、第二の受肉とともに、肉における神の働き全体が終わりを迎え、神の受肉の意義が完成される。その後、肉における神の働きは完全に終了する。第二の受肉の後、神は自身の働きのために三度肉となることはない。神の経営全体がすでに終わっているからである。終わりの日の受肉は、神の選ばれた人を完全に自身のものとし、終わりの日の人類は残らず種類に応じて分類されている。神はもはや救いの働きを行なわず、またいかなる働きであっても、それを実行すべく肉に戻ることもない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

22. 終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神が私たちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分本来の堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたが私をいかなる場所に置かれようと、私はあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「私がなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうか私を試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

23. 人が今まで成し遂げてきたこと、つまり現在の人の霊的身丈、認識、愛、忠誠、従順、そして識見は、言葉の裁きによって得られた成果である。あなたが忠誠心をもち、今日まで立ち続けていられるのは、言葉によって成し遂げられたことである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを、人は今や理解しており、そしてそこには、人には達成できず、奥義や不思議であることがたくさんある。ゆえに、多くの人が服従してきたのである。生まれてこのかた誰にも従ったことがない人たちも、今日、神の言葉を目にすると、そうと気づかないまま完全に従い、あえて吟味しようとも、他に何か言おうともしない。人類は言葉の下で倒れ、言葉の裁きの下にひれ伏している。もしも神の霊が直接人に話しかけたら、ダマスコへ向かうパウロが光の中で地にひれ伏したように、人類はみなその声に服従し、暴きの言葉がなくても倒れるだろう。神がこのように働きを続けたなら、人は言葉の裁きを通じて自分の堕落を知ることができず、ゆえに救いも得られないはずだ。神は肉となることでのみ、自身の言葉を自らすべての人の耳元に届けることができ、それによって聞く耳のある人がすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けられるようにする。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるのではない。この実践的でありながら並はずれた働きを通じてのみ、長きにわたって奥深くに潜んでいた人の古い性質が完全に暴かれ、人はそれを認識して変えられるようになる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいて、彼は実践的に語り、裁きを下すことで、言葉による人への裁きという成果を挙げる。これが受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉した神の権威と、言葉の働きが挙げた成果を知らしめるため、また霊が肉において降臨し、言葉による人間の裁きを通じてその権威を実証することを知らしめるためになされる。受肉した神の肉体は平凡かつ普通の人間性の外形だが、受肉した神が権威に満ちており、神自身であり、その言葉が神自身の表現であることを人に示すのは、彼の言葉が挙げる成果である。この手段により、受肉した神が神自身であること、肉となった神自身であること、誰にも犯されないこと、そして誰も言葉による彼の裁きを超えることはできず、いかなる闇の勢力も彼の権威に打ち勝てないことが、全人類に示される。人間が受肉した神に完全に服従するのは、ひとえに彼が肉となったことばであるため、彼の権威のため、そして言葉による彼の裁きのためである。受肉した神の肉体がもたらす働きは、彼のもつ権威である。神が肉になるのは、肉もまた権威をもつことができ、また受肉した神が現実的な方法で、つまり人が見たり触れたりできるような方法で、人類の間で働きを行なうことができるからである。その働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりもはるかに現実的で、その成果も明らかである。これは、受肉した神の肉体が実践的な方法で語り、働きを行なえるからである。受肉した神の肉の外形は権威をもたず、人が近づけるものである。一方、受肉した神の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。受肉した神が語り、働きを行なうとき、人は彼の権威の存在を感じ取れない。それにより、受肉した神は実際的な性質をもつ働きを容易に行なえる。その実際的な働きはすべて成果を挙げることができる。受肉した神が権威をもつことに誰も気づかなかったとしても、あるいは彼が誰にも犯されないことや、彼の怒りを誰一人知らなかったとしても、ヴェールに包まれた自身の権威、隠された怒り、そして自身が公然と語る言葉を通じ、彼は意図していた自身の言葉の成果を挙げる。言い換えると、受肉した神の口調、言葉の厳しさ、そして彼の言葉のあらゆる知恵を通じて、人は完全に納得するのである。このようにして、人は一見何の権威もないかのような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を成就させるのである。これが受肉の意義のもう一つの側面である。つまり、より現実的に語り、自身の言葉の現実が人に効果を発揮するようにして、その結果、人は神の言葉の力を目の当たりにできる。したがって、この働きが受肉によってなされなければ、それはほんの少しも成果を挙げることができず、罪人たちを完全に救うことができない。もしも肉にならなければ、神は人には見ることも触れることもできない霊のままだろう。人は肉の被造物であり、人と神は二つの異なる世界に属し、違う性質を有している。神の霊は肉でできた人と相容れることができず、両者の間に関係を築く術はなく、また言うまでもなく、人が霊になることはできない。そうであれば、自身本来の働きを行なうべく、神の霊は被造物の一つにならなければならない。神は最も高い場所に昇ることもできれば、へりくだって人間という被造物になり、人類のあいだで働きを行ない、その中で暮らすこともできる。しかし、人は高みに昇って霊になることができず、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。神が肉となって自身の働きを実行しなければならないのは、それが理由である。同じように、最初の受肉の際、受肉した神の肉体だけが磔刑を通じて人類を贖えたのであり、その一方、神の霊が人のための捧げ物として十字架にかけられることは不可能だったに違いない。神は直接肉になり、人のための捧げ物となることができたが、人が直接天に昇り、神が人のために用意した罪の捧げ物を受け取ることはできなかった。そういうわけで、可能なのは天地を何度か行き来するよう神に求めることだけで、人間を天に昇らせ、その救いを受け取らせるのは不可能だろう。と言うのも、人はすでに転落しており、またそれ以上に、人が天に昇ることは到底できず、まして罪の捧げ物を得るなど不可能だからである。よって、イエスが人類のあいだに来て、人には到底成し遂げられない働きを自ら行なうことが必要だった。神が肉となるたび、絶対にそうする必要がある。もしもいずれかの段階が神の霊によって直接行なわれることができたなら、神が受肉という屈辱に耐えることはなかっただろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

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