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IX 堕落した人の悪魔的性質とその本性と本質を明らかにする神についての言葉

人が神に反対し、反抗するのはサタンが人を堕落させているからである。人はサタンによって堕落させられたので、良心が麻痺してしまい、不道徳になり、その考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。……正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

人間の考えや道徳の堕落や適切な養育の欠如、封建的迷信が人間の心を強く支配していること、堕落し、退廃した生活様式が人間の心の最も深い所に多くの不徳を宿らせていること、また文化的教養の習得が表面的なことなどである。国民のほぼ98パーセントが文化的教養が欠如しており、さらに高度の文化的教養を受ける者が寡少であるため、人々は基本的に神や霊が何を意味するのかを全く知らず、封建的迷信から得た漠然とした曖昧な神の像しかもたない。また、数千年におよぶ「民族主義の高尚な精神」が人間の心の奥に残した悪影響、そして、自由も大志も根気も向上意欲も全くなく、消極的で衰退的なまま、奴隷的精神状態にとらわれた人々が束縛されている封建的な考え方もある。こうした客観的要素により、人類の観念的態度や理想、倫理、性質に消えることのない不浄で醜悪な色調が加えられてきた。人間は暗黒のテロリストの世界で生活しているように思われるが、それを超越することを求める者や、理想の世界に移ろうと考える者はいない。人間はむしろ自分の境遇に満足し[1]、子供を産み育て、日常生活の諸事に奔走して励み、汗をかき、快適で幸せな家庭や、夫婦の愛情、親孝行な子供達、平和な人生を送って晩年を迎える喜びを夢見ている。現在まで数十年、数千年、数万年にわたり、人間はそのようにして時間を浪費し、誰も完全な生活を創造することなく、全員がこの暗黒の世界で互いに殺し合うこと、名声や富をめぐって競い合い、互いに謀をすることにのみ没頭している。今まで、誰が神の心を求めたであろうか。今まで、神の働きに注意した者がいるであろうか。人間のあらゆる部分が闇の影響により占められている状態が、人間の本性となって久しい。そのため、神の働きを行うのは極めて困難であり、現在、神が人間に託したことに人々はさらに配慮しなくなっている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

事実、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない堕落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。……

……神にとって、人間の能力や動機、考え方は極めて忌み嫌うべきものである。人間は、理解力が乏しくなり、無感覚となり、劣化し、退化し、極度に卑屈で、弱く、意志の力が無いので、牛や馬が導かれるのと同様に導かれる必要がある。霊に入っていくこと、あるいは神の働きに入っていくことについては、人間は全く留意することなく、真理のために苦難を受ける一抹の決意も無い。こうした人間が神により完全にされることは、極めて困難である。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より

人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えてくださったことに対して神に憤慨さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神に憤慨する。肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、人が神に与えたものの何十倍も神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこのすべてを当たり前のことと思い、自分は神のために十分費やしたのに、神はあまりにも少ししか与えてくれないと信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分の金貨に等しいものを要求したり、わたしに一夜の部屋を与えたのに、宿泊費として何倍もの額を要求したりする人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。……ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。彼は相手が神なのか、人なのかは気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを追求する。わたしのために料理するとき、あなたがたは料理人の料金を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に与えるときは療養費を要求し、話をするときは演説者の料金を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料金を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は自分の名前が損なわれたことに対して補償を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は食肉処理者の料金を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する、等々。これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図されたことである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神に対する人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに充分な説明ができなくなってしまっている──サタンによって大いに堕落させられ、惑わされてしまったので、どこで向きを変えたらよいかわからなくなっているのだ。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、見ることができないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知は最初の機能を失い、人の良心も最初の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり……

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

あなたがたは、自分の追求において、個人的な観念や希望や未来が多すぎる。現在の御業は、あなたがたの地位に対する欲望と、とりとめも無い欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[j]、そして観念は、典型的なサタンの性情の表れである。そうした物事が人々の心に存在する理由は、サタンの毒が常に人間の考えを腐敗させ、そうしたサタンの誘惑を人間が拒めないことにある。そうした者は罪の中で生活しているが、それを罪と考えず、「私達は神を信じているので、神は私達に祝福を与え、万事適切な采配を行うに違い無い。私達は神を信じているので、他人よりも優れて居るに違い無い。また、私達は他の誰よりも地位と将来性が高いはずである。私達は神を信じているので、神は私達に無限の祝福を与えるであろう。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないであろう。」と考える。人間の心は、長年にわたり人間が生存のために依存してきた思想により腐敗させられ、その結果人間は不誠実で臆病で卑劣なものとなった。人間には意志の力や決意が欠落している上に、貪欲で傲慢で強情な者となった。人間には、克己的決意が完全に欠乏している上、そうした闇の影響による呪縛から逃れる勇気も無い。人間の考えと生活は腐敗し、神への信仰に対する人間の考え方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人間が自分の神への信仰に対する考え方について語る時、それは聞くに堪えないほどである。人間は皆、臆病で無能で卑劣で傷付きやすい。人間は、闇の軍勢に対して嫌悪感を覚えず、光と真理に対する愛を感じずに、光と真理を排除しようとして出来るだけの努力をする。

『言葉は肉において現れる』の「何故、引き立て役になることを望まないのか」より

多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもない。つまり、ほとんどの人は、その責任を果たしたり義務を完了したりするために神を信じているのではないのである。実際、意味ある人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうすることがごく当然で正しいことであり、またそれが人の天職である」と信じる人もめったにない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏に在る動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々は崇拝の対象が大体同じなのである。過去数千年に渡り、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで甦った。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、いや数千人の単位でさえ足りないが、そのような人々のほとんどは、個人の繁栄や未来の輝かしい希望のために神を求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。実際、熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、成功を収めた者の数はさらにほんのわずかである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

人々は恵みの獲得と平和の享受を神への信仰の象徴と見なし、神に彼らへ適切な終着点を与えさせ、この世で彼らにすべての恵みを与え、神を彼らの召使にし、神に彼らとの平和で友好的な関係を維持させ、彼らの間に決して対立がないことを求める。すなわち、まさに聖書に「私はあなたたちの祈りのすべてを聞くだろう」と記されているように、彼らの神への信仰は、神に、彼らの要求すべてを満たすこと、彼らが祈り求める何でも彼らに与えることを約束するよう要求する。彼らは神に誰も裁かないように、誰も取り扱わないよう要求する。神はいつも親切な救い主イエスであり、常に、どこでも人々と良い関係を保つからである。彼らの信じ方はは次のようである。彼らはいつも臆面もなく神にものを求め、彼らが反抗的であろうと、従順であろうと、神はなんでも盲目的に彼らに与える。人々は絶えず神からの「支払い」を要求し、神はまったく抵抗せずに支払わなければならず、神が彼らから何かを手に入れようと入れまいと、神は2倍払わねばならない。神はただ彼らのなすがままである。神は勝手に人々を指揮することはできないし、ましてや彼らの許可なしに、望むままに神の古くからの隠された英知や義である性質を彼らに明らかにすることはできない。彼らはただ己が罪を神に告白し、神はうんざりすることもできずに、ただ罪を赦すしかなく、これが永久に続く。彼らはただ神をこき使い、神はただ従う。聖書の次のように記されているからである。「神の到来は人を神に仕えさせるためではなく、神が人に仕えるためである。神は人に仕えるためにやって来た。」あなたたちはいつもこのように信じていたではないか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より

大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を畏れるのは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから崇めている―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

あなたは、神に対する自分の信仰が、問題や苦難、些細な問題の原因とならないことを望む。あなたは、常に無価値な物事を追求し、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたは極めて無価値である。あなたは豚のように生きている。あなたと、豚と犬には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者は、皆獣ではなかろうか。霊の無い死んだ者は、皆生ける屍ではなかろうか。あなたがたに対して語られた言葉は、いくつあるであろうか。あなたがたに対して行われた業は、ほんの少しであろうか。わたしは、あなたがたに対して、どの程度与えたであろうか。それでは、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべき物事は、何があるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎることではなかろうか。また、その原因はあなたが愚か過ぎることではなかろうか。あなたは、自分がこれらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことについて、神を責められるであろうか。あなたが求めていることは、神を信じた後に平和を得ることが出来るようになることである。つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が好ましい職に就くこと、自分の息子が良い妻と出会うこと、自分の娘が人並みの夫を見つけること、自分の牛や馬が十分に土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。あなたは、そうした物事を求める。あなたの追求は、単に快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、快適な住処で生活することを求めている。常に肉の欲を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは、何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは求めない。あなたは、神を信じる者のひとりであろうか。わたしは、真の人生をあなたに与えるが、あなたは求めない。あなたは豚や犬とは違わないのではないか。豚は、人生や、清められることを追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは、手ぶらである。あなたは、人生において、そうした豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。そうした人々が生きていることの意味は、何であろうか。あなたの生活は、恥辱的であり、下劣であり、あなたは不浄と放蕩の中で暮らし、何も目指す目標が無い。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は無いのではなかろうか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求により決まる。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

家族の中で避けられない出来事(子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の虐待等)については、あなたがたは、日常生活で発生するこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。こうした出来事が発生した場合、あなたがたは当惑してどうして良いか分からなくなり、殆どの場合、神に対して苦情を述べる。神の御言葉に騙された、神の御業により困らされていると、不平を言う。あなたがたは、そのように考えるであろうか。そうした物事が自分に起こるのは希であると思うだろうか。あなたがたは、こうした出来事の中で暮らしている。神への信仰を成功させることや、神の御旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の器量は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。自分の夫の事業で損失が出ると神に不平を言い、神の守りが無い環境に遭遇すると、やはり神に不平を言い、ひよこが一羽真だ時や、高齢の牛が病を煩った時でさえ、神に不平を言い、自分の息子が家族を設ける時が来たが、十分な資金が無い場合にも、神に不平を言い、教会の従業員が自分の家で2度ほど食事したが、教会から払戻が無い場合や、誰も自分に野菜を送って来ない時も、不平を言う。あなたがたは、胃が不平で満たされ、それが原因で時折集会に出席しなかったり、神の御言葉を食べ飲みしなかったりし、多くの場合、長期間にわたって否定的になる。自分に今日起こった出来事は自分の先行きや運命と無関係である。こうした物事は、あなたがたが神を信じていなかったとしても起こるが、今日はそうした物事の責任を神に負わせ、神が自分を排除したと主張する。神への信仰はどうなったのであろうか。あなたがたは真に自らのいのちを全て神に捧げたのではなかったか。仮に、あなたがたがヨブと同様の試練を受けたとしたら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく耐えることが出来る者は居らず、全員倒れるであろう。また単純に、あなたがたとペテロの間には、果てしない相違がある。現在、あなたがたの資産のうち半分が差し押さえられたならば、あなたがたは神の存在を否定するであろう。もし自分の息子や娘が自分から奪い去られたならば、抗議しながら街路を後進するであろう。自分の人生が行き詰まったならば、「神」にその旨を告げ、私が最初にあなたがたに対して多くの話をして脅したのは何故かと尋ねようとするであろう。こうした場合、あなたがたは差し控える事無く何でもするであろう。

『言葉は肉において現れる』の「実践(3)」より

神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで発見していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。雇い人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

人間の神に対する信仰の最も悲しい点は、神が働きをしている最中に自分なりの経営をしていて、神の経営そのものには無関心なことだ。人間の最大の欠点は、神に服従することを求め礼拝していると同時に、自分なりの理想の終着点を建て上げ、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき存在で、憎しみ、哀れなものか理解したとしても、自分なりの理想や希望を速やかに捨て去ることのできる人が、どれだけいるだろう。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろう。神は、自分と密接な協力をして、その働きを成就する者を必要としている。神は、自身に服従するために自身の経営の働きに身も心も捧げられる人を必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は欲していない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。神は、わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を嫌う。神は、自身の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話すような心無い人々を憎む。神は、自身の救いの仕事を通じて利を得ようとする人々をそれにも増して嫌う。それは、そうした人は、神が経営のその働きで成し遂げよう、得ようとしていることにはまったく無関心だからだ。そういう人々は、神の働きを利用して祝福を受けることだけを考えている。そういう人々は、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけを考えている。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神は私に何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。私はずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神は私の良い行いを覚えているだろうか。私の最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか。」誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、1与えられればその次は10与えられるように神に強要する。神と取り引きすると同時に神に異議を唱え、試練が来ると自分達の身の危険を感じ、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の主観的な追求の実体を考えたならば、そこには神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を崇拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を崇拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実でずる賢く、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に崇拝されたことなどない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

終着点に関する話になると、あなたがたはその話を特に真剣に受け止める。あなたがたは全員この話題について特に敏感である。好ましい終着点に辿り着くために、神にひれ伏すのを切望する者も居る。あなたがたが切望するのは十分理解可能であり、それを言い表すことは不要である。あなたがたは、自分の肉が災いに陥ることは絶対に避けたいと考え、それにも増して、将来は長年続く罰を受けることを避けたいと考えている。あなたがたは、一層自由で快適に暮らすことを望むのみである。ゆえに、終着点の話になると、あなたがたは殊更心配になり、十分注意しないと神の怒りを買い、然るべき報いを受けるかもしれない、と大いに恐れる。あなたがたは、自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうち、嘗て不従順で軽薄であった多くの者が、突然極めて優しく素直になり、その素直さは寒気がする程である。いずれにせよ、あなたがたは皆素直な心を備えており、終始私に対し、非難であれ、虚偽であれ、信心であれ、隠しだて無く心を開いている。総合的に、あなたがたは私に対し、そうした心の奥にある重要な物事を極めて腹蔵なく「告白」して来た。無論、私もそうした物事を回避したことは無い。なぜなら、そうした物事は私にとって普通の事となったからである。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたがたは、心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。私はあなたがたに対して独善的すぎるということではなく、あなたがたの信心は、特に私の行うあらゆる業に直面するに足りないということである。あなたがたは私の言う事を理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが欲しているのは、真理といのちでは無く、自分の行動原理でも無く、いわんや私が骨折って行う業では無い。あなたがたが欲しているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて自分が肉にあって持っている物事である。あなたがたは私の言葉や業を完全に軽視しているので、あなたがたの信仰をひとことで概括すれば、それは「半信半疑」と言える。あなたがたは、自分が完全に専心している物事を得るためなら何も厭うことは無い。しかし、あなたがたの神への信仰に関する事のために、全てを無視することが無いことを、私は知った。むしろ、あなたがたは単に比較的忠誠かつ真剣なだけである。最大限に真剣な心の無い者は、神への信仰に欠陥のある者である。あなたがたのうち、欠陥のある者が多数居るかどうかを、注意深く考える必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

この広大な世界で、誰がわたしから直接調べられたろう。誰が、わたしの霊の言葉を直接聞いただろう。まことに多くの人々が、闇の中で手探りし、まことに多くの人々が逆境にあって祈り、まことに多くが飢え、凍えながら、希望をもって見守り、まことに多くの人々がサタンに縛られている。しかし、まことに多くの人々が頼りとするものを持たずにいる。まことに多くの人々が、幸福の中でわたしを裏切り、まことに多くの人々が恩を知らず、まことに多くの人々がサタンの欺きに満ちた策略に忠実でいる。あなたがたの中の誰がヨブなのか。誰がペテロなのか。なぜわたしは繰り返しヨブについて触れているのか。そして、なぜわたしはペテロについて何度も触れているのか。あなたがたは、わたしがあなたがたに望んでいることを理解したことがあるだろうか。あなたがたは、そうしたことについて、もっと時間をかけて考えなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「八番目の言葉」より

人間は苦痛の中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを欺くのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人を貫く。しかし、人間のあらゆる行動の真相が人々を貫き、わたしに対する欺きが貫く。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の本質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンのしわざに無感覚になり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。

『言葉は肉において現れる』の「二十一番目の言葉」より

神の国では、わたしは王だ──しかし、人間は、わたしを王として扱う代わりに、わたしを天から降りてきた救い主として扱う。そのため、人間はわたしから施しをもらうことを期待し、わたしを知ることを追求しない。まことに大勢が、わたしの前で乞食のように叫んだ。まことに大勢が「袋」を開いて、生きるための食物をくれるよう願った。まことに大勢が、飢えた狼のように、わたしを食べ尽くし、腹を膨らませようと、貪欲な目で見つめた。まことに大勢が、自分たちの罪のために恥じて、黙って頭を垂れ、寛容を祈り、あるいはわたしの刑罰を受けようとした。わたしが話すと、さまざまな人間の愚行が不合理に思われる。そして、人間の真の姿が光の中に明かされると、輝く光の中で人間は自分を「許す」ことができない。そこで、急いでわたしの前に来てひれ伏し、罪を告白する。人間の「正直さ」のため、わたしはもう一度救いの車に載せる。人間はわたしに感謝し、わたしを愛情のこもった目で見る。しかし、それでも人間は、まだほんとうにわたしの内に逃げ込むつもりはなく、完全にわたしに心を捧げてはいない。人間はただわたしのことを誇るが、ほんとうにわたしを愛しているのではない。心をわたしに向けていないからだ。その人の体はわたしの前にあるが、その心はわたしの後ろにある。

『言葉は肉において現れる』の「二十二番目の言葉」より

人間は、わたしをあらゆる願いをかなえる全能の神であると思っている。だから、たいていは、わたしを知りたいという欲求からではなく、神の助けを求めてわたしの前に来る。病の苦しみにあるとき、人間はわたしにあわてて助けを求める。困難な状態にあるとき、人間は、自分たちの難儀を除くことをひたすらに願って、自分たちの苦しみについて打ち明ける。しかし、安楽な時にわたしを愛することのできた者は一人もいない。自分たちが安らかで幸福な時に、喜びを分かち合おうと、わたしに手を伸べた者は一人もいない。家族が幸福で安らかな時には、人間はいつもわたしを押しのけ、あるいは戸口から締め出し、入れないようにする。そして、家庭の幸福を楽しむ。人間の心はあまりに狭く、神をわたしのように愛情深く、慈悲深く、触れることのできるものであるとは考えない。楽しい笑いの場で、何度、わたしは人間に拒絶されたことか。人間が倒れたとき、何度、彼らはわたしを支えにしようと、寄りかかってきたか。何度、病に苦しむ人間に、医者の役目を強いられたか。人間とは何と残酷なのだ。まったく理不尽で不道徳だ。人間に備わっているはずの感情さえ、彼らの内に見いだせない。彼らには人間味がほとんどない。

『言葉は肉において現れる』の「十四番目の言葉」より

人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

今、人々は肉をもつものを手放すことができない。彼らは、肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人はいい加減に追求している。実は、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中には神を持たないので、神が行うすべてを知覚することができず、なおさら、彼の口から出た言葉を信じることができない。このような人々はあまりにも肉中心である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が受肉できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち見える神の働きと言葉を信じない人、見える神を信じないで天の見えない神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に背き逆らう人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性、理性を欠いている。このような人たちにとっては、見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの気分を晴れ晴れとさせるのである。彼らが求めるのは現実的な真理ではなく、人生の真諦でもなく、まして神の意図でもない。彼らはむしろ、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めようとするものである。彼らが神を信じるのはただ自分の欲望を満たすためであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはとても自信があり、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神が彼らを生き残らせてくれ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠」を尽くしたからである。もし彼らが見える神を追い求めるつもりなら、彼らの欲望が満たされそうになくなると、彼らは直ちに神に反撃するか、或いはすぐ足を踏みならし烈火のごとく怒るはずである。この人たちはみな自分の欲望を満たす小人である。彼らは、真理を追い求める誠実な人々ではない。このような人々は、キリストを模倣するいわゆる不道徳者である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人間は汚れているため、わたしの栄光を目の当たりにするには相応しくないため、わたしは数千年もの間、けっして姿を現さず、隠れていた。そのため、わたしの栄光がかつて人類の前に示されることはなかった。そして、人間は常に罪の深い淵に沈んでいた。わたしは人類の不正を赦してきたが、人間は自己を守る方法を知らない。そして、いつでも罪を犯したがり、罪のために自らを損なってきたのだ。これは人間には自尊心や自己愛が欠けているということではないか。人間たちの中に、真に愛することのできる者がいるだろうか。人間の忠誠心はどれほどささやかなものなのか。粗悪品がいわゆる本物の中に混じっているのではないか。人間の忠誠心は、まったくの玉石混交のごたまぜではないのか。わたしが求めるのは、人間の全き愛である。人間はわたしを知らず、わたしを知ろうとしても、ほんとうに真心をささげはしない。

『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より

人がわたしを「愛する」のは、彼らの愛が持って生まれたものだからではなく、懲罰を恐れているからである。人々の中で生まれつきわたしを愛する者がいただろうか。わたしを自分の心のように取り扱う者がいるだろうか。そこでわたしは人間世界に関してこのことを最大限次のように要約する。人々の中でわたしを愛する者は誰もいない。

『言葉は肉において現れる』の「三十八番目の言葉」より

人間は単に肉におけるわたしを知らないだけではなく、さらに悪いことに、肉の体をもつ自分というものを理解することができずにいる。何年が過ぎたろう。また、その間ずっと、人間はわたしを欺き、わたしをよそから来た客人として扱ってきた。何度、人々はわたしを彼らの家の戸口で締め出したろう。何度、わたしの前に立って、わたしを無視しただろう。何度、他の人々の間でわたしを拒んだだろう。何度、悪魔の前でわたしを否定しただろう。そして、何度、口論する口でわたしを攻撃したろう。しかし、わたしは人間の弱点を記録していないし、また、わたしに逆らったからといって、「歯には歯で」という対応はしない。わたしがしたのは、人間がついにわたしを知るように、不治の病を癒やすために人間の病に薬を用い、そうして健康にすることだ。

『言葉は肉において現れる』の「十二番目の言葉」より

今日、人はわたしを全く尊重せず、彼らの心にわたしの居場所はない。苦しみが来る日、彼らはわたしに対する真の愛を見せることができるのか。人の義は形なきままで、見ることも触れることもできない。わたしが望むのは人の心である。人の体の中で最も貴重なものは心だからだ。わたしの行いは、人の心で報われるに値しないのか。人がわたしに心を渡さないのはなぜか。なぜいつも心を自分の胸の内に抱き込んで、それを解き放とうとしないのか。人の心は、人の人生全体を通じて平安と幸福を確保できるのか。わたしが人に何かを求めるとき、地の埃を手に一杯つかんでそれをわたしに投げつけるのはなぜなのか。これは人のずる賢い企みなのか。

『言葉は肉において現れる』の「三十六番目の言葉」より

わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしが突き刺しでもしたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そこで、わたしを締め出すので、わたしは、冷たい、固く閉ざされた「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。

『言葉は肉において現れる』の「二十番目の言葉」より

わたしは日々、宇宙の上に立ち、観察し、人間の生活を経験するために、わたしのすみかに謙虚に身を隠し、人間の行いすべてをよく観察する。誰一人、本当に自身をわたしに捧げたことがない。誰一人、真理を追求した者はない。誰一人、わたしに良心的であった者はない。誰一人、わたしの前で誓いを立て、本分を果たした者はない。誰一人、わたしをその内に宿らせた者はいない。誰一人、自分の命と同じくらいにわたしを大事にした者はいない。誰一人、神であるわたしのすべてを実際に目にした者はいない。誰一人、実践の神自身とやりとりをしようとしない。

『言葉は肉において現れる』の「十四番目の言葉」より

わたしは数えきれないほどの言葉を語り、さらに数えきれないほどの量の働きを行ってきた。毎日、わたしは一人ひとりが、その従来の本性およびそれがどのように進化するかに応じて、すべき全てのことを自然に遂行している様子を見ている。知らないうちに、多くの人たちはすでに「正しい軌道」に乗っていた。この正しい軌道は、わたしによってあらゆる種類の人たちが明らかにされるために定められたのだ。わたしはすでにそれぞれの人を違った環境に置いており、その場所で、一人一人は生まれ持った特性を表現し続けている。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者も誰もいない。彼らはすべてにおいて自由であり、彼らが表現するものは自然に出てくる。彼らを自由にさせないたったひとつのものがある。それは、わたしの言葉である。だから多くの人たちは不承不承にわたしの言葉を読むが、彼らの最後が死では終わらないようにそうしているだけであり、決してわたしの言葉を実践しているわけではない。その一方で、一部の人たちは彼らを導き彼らに施すわたしの言葉がなくては日々耐え難いことに気づき、自然にわたしの言葉をいつも手放さないでいる。時が経つにつれてやっと、彼らは人生の秘密、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。人類はわたしの言葉の前でこのような有様でしかない。わたしはただすべてのことを自然の成り行きに任せているだけである。わたしは、人がわたしの言葉をその存在の基盤とし、それによって生きるよう強制するようなことは一切しない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

人間はわたしを知らない。そして、そのため、自分のいのちをわたしに捧げるのではなく、わたしの前でがらくたを手に、意気揚々と歩き回り、それでわたしを満足させようとするだけなのだ。しかし、わたしは、そうしたものに満足せず、人々に要求し続ける。わたしは人間からの捧げ物を愛するが、ゆすりは憎む。人間はみな貪欲さに満ちた心をもっている。人間の心は悪魔の奴隷になっているようなもので、自由になって心をわたしに捧げることができない。わたしが話すとき、人間は一心にその声に耳を傾ける。しかし、話すのをやめると、また自分なりの「事業」にとりかかり、わたしの言葉に従うことをすっかりやめてしまう。まるで、わたしの言葉が自身の「事業」の従属物ででもあるかのように。わたしは、けっして人間をいい加減に扱うことをしなかった。また、人間に対して長い間忍耐し、寛大であった。そこで、わたしが寛大であったために、人間はみな傲慢になり、自己を知ること、自らを省みることができないで、わたしの忍耐を利して、わたしを欺こうとする。そうした者たちの一人も心からわたしを思わず、誰一人、わたしを大切に心に抱きはしなかった。たまたま暇な時にだけ、おざなりに、わたしについて考える。

『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より

人の目に、神の言葉は毎日使う食器のように映り、全く大切にしない。このため、人は神の言葉を実践することができない。人は、真理を知ってはいるがそれを実践しない惨めで不幸な存在となってしまった。この人の過ちだけでも、しばらくの間神に嫌悪感を起こさせるに十分であるため、神は人が神の言葉に注意を払わないと何度も言われるのである。それでも、人は思考の中で次のように考える。「わたしたちは毎日神の言葉を研究し、分析しているのに、なぜ神の言葉を気にも留めないと言われるのか。不公平ではないか。」少し細かく分析しよう。人は赤面するであろう。人が神の言葉を読むとき、彼らはその主人の言葉をよだれで汚すパグのように頷き、うやうやしくおじぎをする。そのとき、人は不相応さを感じ、涙がほおを伝わる。悔い改めて新たにスタートしようと望んでいるかのように見えるが、そのときが過ぎると、従順さはすぐに消え失せ、貪欲な態度が取って代わる。人は神の言葉を脇にどけ、いつも私事が優先され、神の事柄は最後に来ると信じる。このような行為のため、人は決して神の言葉を実践することができない。事実が分かると、彼らは親しい者をないがしろにして他人を助ける。これは彼ら自身の人を裏切ることになる。神が「生活のためにわたしに頼りながら『逆方向に向かって走る』」と言われるのも不思議ではない。これによってのみ、神の言葉には偽りが微塵もなく、完全な真理であり、誇張も全くないことがわかる。それにも関わらず、神の言葉はいささか軽視されてきたようである。人の背丈は低すぎて、それらを受け入れる能力がないからである。

『言葉は肉において現れる』の「三十六番目の言葉の解釈」より

緊急事態時、あるいは自分の問題を解決するのでなく、無私に他人を助ける時に限定して、一部の真理で武装する者も居るが、ここでは、そうした者を「無私な人々」という。無私な人々は、他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身を真理の主とみなして、真理を押し通し、受動的になるのを回避するために他人に説教する一方で、自分自身は土俵の外に居る傍観者である。こうした無私な人々は、いったいどのような人々であろうか。他人に説諭する真理の言葉の一部で武装しているが、自分が破滅を迎えるのを防ぐためには何もしないというのは、何とお粗末な事であろうか。無私な人々の言葉が他人を救えるのであれば、無私な人々は、なぜ自分自身を救えないのであろうか。こうした人々は、現実性が欠如した偽善者と呼ぶべきである。こうした人々は他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう指示するが、自分自身では実践する努力を一切しないが、こうした人々は忌み嫌うべき者ではないだろうか。こうした人々は、自分自身は明らかに真理を実践出来ないにもかかわらず、他人にそれを強要するのであるが、それは何と残忍なやり方であろうか。こうした人々は、現実性によらず他人を救おうとし、母性愛の精神で他人に与えようとしているのでなく、人々を欺いて腐敗させているだけである…

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より

神の言葉を日々読み、場合によっては代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く覚えようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉という手段で他者に備えを与え、援助することさえする人々が大勢居る。この種の人々は、こうした行動が神や神の言葉に対して証しすることであり、神の道に従うものであると考えている。さらにこの種の人々は、こうした行動が神の言葉に従って生きることである、神の言葉を実生活に活かすことである、こうした行動により、神の称賛を得て、救われ、全き者とされると考えているのだ。しかるに、この種の人々は神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、あるいは神の言葉により示されているものに従うように努めることも、一切ない。この種の人々は、むしろ策略により他人からの敬愛と信頼を得て、自らの経営の中に入り、神の栄光をかすめ取るために神の言葉を用いている。この種の人々は、神の言葉を広めることにより得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ることを、むやみに願っている。……この種の人々は、神の言葉に関する表面的理解に耽溺し、信仰が深まり、苦難に耐える不屈の精神が強まり、神に関する認識が深まっているかのように見えるかもしれない。この種の人々は、神の言葉を実際に体験するまでは、自分たちの神に関する認識や、神に関する考えは、すべて自分たち自身の願う想像と推測から生まれたものであることに、殆ど気付かない。この種の人々の信仰は、いかなる神の試練にも耐えず、この種の人々のいう霊性と背丈は、神の試練にも検分にも耐えることは無い。この種の人々の決意は、砂上の楼閣以外の何物でもなく、この種の人々の神に関する認識もまた、自分自身の空想による虚構にすぎない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「序文」より

事実、この種のいわば神の言葉に対して多くの努力をした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは真の神に対する認識とは何かを理解することが全くない。この種の人々は、理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、人類の道徳的価値観さえ採り上げ、それらを神への信仰や神を求めるための「投資資産」や「武器」に改変し、そしてついには神への信仰や神を求めるための基盤へと改変する。同時に、この種の人々はこうした資産と武器を取り上げ、神を知ること、また神による検分、試練、刑罰、裁きなどへの対策となる、魔法の護符へと作り替える。最終的に、この種の人々が蓄えたものは、信仰や忠義の迷信が深く染みわたり、空想的で怪奇で謎めいた事柄で満ちた、神に関する結論でしかなく、この種の人々が神に関して知り、神を定義する方法は、蒼天や、天の神のみを信じる人々と同じ型に嵌まったものである。一方で、神の実際、本質、性質、神であるすべてと神の持っているものすべてなど、真の神自身に関する事柄すべては、この種の人々の認識で把握出来ないことであり、全く無関係な、正反対の事柄となっている。こうして、この種の人々は、神の言葉による施しや育みにより生活しているにもかかわらず、神を畏れ、悪を避ける道を、本当にはたどることが出来ない。こうしたことは、この種の人々が神を全く知らず、また神と真に接する、あるいは交わったことがなく、したがってこの種の人々にとって、神との相互理解を達成することが不可能であるか、あるいは神を真に信仰し、神を求め、礼拝することを、自ら目覚めることができないことが、その真因である。彼らはこのように神の言葉を見なし、神をこのように見なす―そうした見方や態度により、この種の人々は努力の末に何も手に入れることが出来ず、また神を畏れ、悪を避ける道へと進むことが永遠に出来ずに絶望させられているのである。この種の人々が目指す目標と進んでいる方向性により、この種の人々は永遠に神の敵であること、永遠に救いを得られないことが示されている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「序文」より

そして、良心や自分たちの存在の価値観を持ったことのない人たちは、静かに事の成り行きを観察し、大胆にわたしの言葉を投げ捨て、自分たちの好きなようにする。彼らは真理や、わたしから出るすべてのものに嫌になる。さらに彼らはわたしの家にいることにもうんざりする。このような人たちはたとえお仕えをしていても、彼らの終着点のため、そしてわたしの懲罰を逃れるために、わたしの家に一時的に滞在する。しかし、彼らの意図は決して変わることはないし、行動も変わることはない。このことは彼らの、祝福に対する願いを助長し、ただ一度で神の国に入り、そこに永久に留まることができ、さらに永久の天国に入る欲求までも助長した。わたしの日が来るのを彼らが待ち焦がれれば焦がれるほど、ますます彼らは、真理が彼らの道の障害物となり、躓きの石となっていると感じる。彼らは、天国の祝福を永久に楽しむために、神の国に入るのを待ちきれない、それも、真理を追求する必要もなく、裁きも刑罰も受ける必要はなく、とりわけ、わたしの家に従属的に留まり、わたしの命令に従うことなどなく。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営の下でともに働くためでもない。彼らは単に次の時代に滅ぼされない人たちの仲間に入りたいだけである。よって、彼らの心は、真理とは何か、あるいは真理をどのように受け入れるかなどを全く知るにいたっていない。これが、そのような人たちが真理を実践したことがなく、自らがどれだけ堕落しているかを理解したことがないにもかかわらず、最後まで「しもべ」としてわたしの家に泊まった理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの方法で翻弄されても疲れを知らない。彼らがどんなに努力しても、彼らがどんな代価を支払っても、誰も彼らが真理のために苦しみ、わたしのために犠牲を払ったことを見ないだろう。彼らの心の中では、わたしが古い時代を終わらせる日を見るのを待ちきれず、さらに、彼らはわたしの力と権威がいかに偉大であるか、切に知りたいと願っている。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは、自らを変え真理を追求することである。彼らはわたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものに彼らはうんざりしている。彼らはわたしが忌み嫌うものを慕い、と同時にわたしが忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きているが、それを憎んだことはなく、この世がわたしに滅ぼされるのを心底恐れている。彼らが持っている目的は矛盾している。彼らはわたしが憎むこの世を楽しんでいるが、と同時にわたしがこの世をまもなく滅ぼすよう待ち望んでいる。こうすることで、彼らが真理の道から外れてしまう前に破滅の災難を免れ、次の時代の主人へと変えられるからだ。これは彼らが真理を愛さず、わたしから出る全てのものにうんざりしているからである。おそらく、彼らは祝福を失わないように、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの祝福切望症や滅びと燃える火の池に入ることへの恐怖が覆い隠されることは決してないだろう。わたしの日が近づくにつれ、彼らの欲望は着実に強くなってくる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせるにはどうしたらよいか、彼らが長い間待ち望んできた祝福を失うのを避けるためには何をどうしたらよいかが分からなくなり、彼らはますます無力になる。一旦わたしの手がその働きを始めると、このような人たちは前衛として仕えるために熱心に行動する。彼らはわたしが彼らに気づかないことを深く恐れ、軍隊の第一線に押し寄せることだけを考える。彼らは自分たちの行為や行動が全く真理に沿っておらず、わたしの計画をただ単に破壊し、妨害させるだけであるということを知らないで、自分が正しいと思うことを言ったり行ったりする。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐える意思や意図は真実かもしれないが、彼らがすることすべてがわたしとは関係がないものばかりだ。彼らの行いが良い心がけから出ているのを一度も見たことはないし、ましてや彼らがわたしの祭壇に何か置くのを見たことは決してなかったからだ。これが、彼らが長年わたしに見せてきた行いである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

あなたがたが長年にわたってわたしに見せてきた行動から、これまで受け取ったことのない答えが出た。そして、このような答えに対する質問は、「真理と真の神の前における人の態度とは、どのようなものだろうか」である。わたしが人に注いできた努力は、人を愛することがわたしの本質であることを証明してきた。そして、わたしに見せる人の行動や行為は、真理を憎みわたしに反抗する人の本質を証明した。わたしは常にわたしに従ってきたすべての人たちを気にかけているが、わたしに従う人たちはわたしの言葉を決して受け入れられない。彼らはわたしから出る提案でさえ、ひとつとして受け取ることができない。これがわたしをもっとも悲しませる。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰もわたしを理解できないし、その上、誰もわたしを受け入れることはできない。人々はみな、わたしにまかされた仕事を、自分の本来の意図に従って進めている。彼らはわたしの考えを求めることもなく、ましてやわたしの要望など尋ねることもない。みなわたしに逆らっているのに、彼らは依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、彼らに受け入れられない真理あるいは彼らが実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちにとって、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるようなものになっている。それと同時に、わたしは言葉の上だけで神として人に認められるようになり、真理でも、道でも、いのちでもない部外者とみなされるようになった。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は知性と観念のみであり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないか。今日なお、あなたがたはありとあらゆる真理の言葉に対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。あなたがたはキリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どうすれば聖霊の働きに入ることができるのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の策略の間の区別の仕方を知らない。あなたがたはただ、あなたがたの思いに沿わない、神が表明した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、必ず滅ぼされる部類に属する。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の跡継ぎであり、天使長の子孫であり、永遠の破滅を逃れることのできない輩である。……真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽のキリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を差し出すイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に対処するしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、あまりに傲慢だ。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ反応することも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規定を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンに打ち勝つこともないだろう。よって、神の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない新しい働きと言葉を受け入れることができようか。人はいつも新しく古いことが一切ない神を嫌悪する。人が好むのは、白髪で不動のアンティーク化した古い神のみだ。つまり、神と人はそれぞれ「好み」が異なるため、人は神の敵となった。このような不一致は、神が新しい働きをして六千年近く経った今日も多く存在する。もう救済策もないのだ。それは人の頑なさが原因かもしれないし、人間にとっての神の行政の不可侵さ故かもしれない。だが神自身はまた完成されていない経営の働きを隣に誰もいないかのように進める中、これらの宗教家たちは未だに、古くさい本や書物にすがっている。これらの不一致により、神と人とが敵対し、和解不可能にさえなっているが、神はそのような不一致は存在しないかのように、目を留めることはない。しかし、人は自分の信仰や観念にしがみつき、それらを手放すことはない。それでもひとつはっきりとしていることは、人が自分自身の姿勢を変えることがなくても、神の足はいつも動いており、神はいつも状況によって自分の姿勢を変え、最終的に戦わずして打ち負かされるのは人間である。一方、神は敗北した全ての敵にとっての最大の敵であり、打ち負かされた人々およびまだ打ち負かされていない人々の勝者でもある。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より

神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。……あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。……

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。……事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

人間が神を信じていても、その心には神がいないままであり、神をどう愛するかも分からず、神を愛したいとも思わない。人間の心は神に近付いたことがなく、常に神を避けているからである。その結果、人間の心は神から遠く離れてしまっている。では人間の心はどこにあるのか。実際には、人間の心はどこかに行ってしまったわけではない。人間は自分の心を神に明け渡したり、神に見て頂こうと神の前に明らかにする代わりに、自分の中に閉じ込めてしまった。「ああ神様、私の心を見てください。あなたは私の考えることを全てご存知です」などとしばしば祈る人もあり、中には自分の心を神の前に明らかにすると誓い、誓いを守らなければ罰を受けることすら厭わないとまで言うが、事実はその逆なのである。たとえ人間が、神に自分の心を見せたとしても、それは人間が神の導きと采配に従えるという意味でもなく、自分の運命や将来を手放し、全てを神の支配に委ねるという意味でもない。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたの神への態度に関わらず、あなたの心は神の目には閉ざされたままなのである。神に自分の心を見せはしても、それを支配することは許可していないのだから。別の言い方をすれば、あなたは神に自分の心を捧げてなどおらず、神に対して聞こえのいい言葉を並べているに過ぎないのである。一方で、あなたはいくつもの悪賢い考えや企て、陰謀、計画を神には見られないようにし、自分の将来と運命を神に取り上げられるのではないかと深く恐れて手放そうとしない。 このように、人間の神に対する誠実さというものを、神は見ることがない。神は人間の心の奥深くを見ており、人間の考えや願い、人間が心にしまい込んであるものを見ることができるが、それでも人間の心は神に属しておらず、人間はその心を神に明け渡してもいない。つまり、神に人間の心を見る権利があっても、それを支配する権利はないのである。主観的な認識に囚われて、人間は自分を神の憐れみに委ねたいとも、委ねようとも思わない。神から自らを閉ざし、それだけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考えようとさえする。聞こえのよい言葉とお世辞を並べてその印象を偽り、そうすることで神の信頼を得、本当の姿を神の目から隠そうとするのである。人間が神にその心を見せたがらないのは、人間が自分の本当の姿を神に知られたくないからである。彼らは神に心を明け渡したいとは思わず、手放さずにいたいと思っている。人間は自分がすること、欲することは全て自分で計画済みで計算済みで、自分で決定済みだということなのである。神に自分の計画に参加してもらう必要も、仲介してもらう必要もなく、ましてや神の指揮や采配など無用なのである。したがって、神の命令、神が与える任務、あるいは神が人間に要求することに関わらず、人間は自分の考えや利益に基づいて判断し、その時の状態や状況に沿って判断するのである。人間は常に自分が馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使ってゆくべき道を判断し選択し、神が仲介し制御することを許さない。これが神から見た人間の心である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからだ。これほど愚かで頑固で無知な彼らが、神の祝福を得られるだろうか。彼らがメシアに会うことなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きのめざすものを知らなかったためにイエスに敵対した。イエスの語った真理の道を知らなかったために、イエスに敵対し、さらにはメシアを理解できなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従うことはなかった。彼らが神を信じる原則は、「どれほどあなたの説教が奥深く、どれほどあなたに権威があろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしいものではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせているのだろうか。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

あなたが長年に渡り神を信じていたとしても、神に決して従わず、神の言葉のすべてを受け入れず、代わりに、神に自分に従うように頼み、自分の考えに沿うようにさせるとしたら、あなたは数ある信者の中でもっとも反抗的であり、不信心者である。このようなものが、人の考えに準じない神の働きと言葉にどのようにして従うことができようか。最も従順でない者は、意図的に神に刃向かい、抵抗する者だ。彼は神の敵であり、反キリスト者だ。そのような者は常に神の新しい働きに敵意を保持して、従順になる意図は示さず、自ら喜んで従うことは決してなく、謙虚になることはなかった。彼は他の人の前で自画自賛し、決して他の人に従属しない者である。神の前で、彼は、自分自身が説教する能力が最も高く、他の人に働きを及ぼす技能が最も高いと思っている。彼は、彼がすでに所有する宝を決して破棄せず、それらを崇拝されるべき、他の人に説教すべき、そして彼を称賛するような愚か者へ講義するのに用いられるべき、家宝とみなしている。実際、教会にもそのような者がいる。彼らは「不屈の英雄」であり、何世代にも渡って神の家にとどまっている、と言われている。彼らは、かの言葉(教義)を説教することが、彼らの最高の義務だと思っている。何年にも亘り、何代にも亘って、彼らは彼らの聖なる、神聖な義務を果たす。誰も敢えて彼らに触れようとせず、誰も敢えて公に彼らをとがめようとしない。彼らは、神の家で「王」となり、時代を経て独裁者のように振る舞った。これら悪魔たちは、手を取り、わたしの働きを壊そうとする。わたしの前でこのような生きた悪魔が存在することがどうして許せようか。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなければ、人の行いがどんなによくても無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人にとって測り知れないものだからである。そこで、神と神の働きを「見抜いた」人々は無力で、皆傲慢で無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には人は蟻よりも小さいのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」といつも言っている人々――彼らは皆高慢ではないだろうか。わたしたちは皆、肉体を持つすべての人々はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するのは彼らの本性であり、彼らは神と同等ではなく、ましてや神の働きに助言することなどできない。神が人をいかに導くかは神自身の働きである。人は服従するべきであり、これこれしかじかの意見を持つべきではない。人はちり芥にすぎないのだから。わたしたちは神を見つけようとしているのであり、神が考慮するべき神の働きの上に自分たちの観念を重ね合わせるべきではないし、神の働きに故意に反対するために自分たちの堕落した性質を用いることなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。どうしてそのような人々が神を信じているなどと言えるだろう。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動に何の益があるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より

人間の最大の問題は、見ることも触れることもできないもの、途方もなく神秘的で驚異的なもの、人間の想像を超えた、普通の人間には手の届かないものだけを愛する点だ。それが非現実的であればあるほど、人間はそれを分析し、他のものには目もくれずそれを追い求め、自分はそれを手にすることができるという幻想を抱く。それらが非現実的であればあるほど、ますます綿密に調べ、分析し、それらについて、自分なりのこと細かな考えを紡ぎだす。それに対して、物事が現実的であればあるほど、人間はそれらを素っ気なく扱う。ただそれらを見下し、蔑みさえする。これはまさに、あなた方がわたしのしている現実的な働きに対してとっている態度ではないのか。物事が現実的であればあるほど、あなた方は、ますます偏見を持つ。あなた方は、そういうものを調べる手間もかけず、ただ無視する。そうした現実的なありのままの条件を見下して、最も現実的である神について数多くの観念をもち、神の現実性と正常を受け入れることができない。そのようにして漠然としたものの中で信じているのではないか。あなた方は、過去の漠然とした神については揺るぎない信念を持っているが、今日の真の神には何の興味も示さない。それは、過去の神と現在の神とが二つの別の時代に属するからではないのか。それはまた、過去の神が天の崇高なる神であるのに対して、現在の神は地上のちっぽけな人間であるからではないのか。そのうえ、人間の崇める神は人間が頭で作り出した神であるのに対して、今日の神は地上で生まれた現実の肉だからではないか。結局のところ、人間が神を探求しないのは、今日の神は余りにも現実的であるからではないのか。何故なら、今日の神が人間に求めているのは、まさに、人間が最もしたくないこと、最も恥と思うことだからである。これは、人間にとって困難なことではないか。これは、人間の古傷をさらすことではないのか。このように、現実を追い求めない者は、受肉した神の敵、反キリストとなる。これが明白な事実ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

たとえば、あなたがたの内面に傲慢さと自惚れがある場合、神を裏切らずに居ることは出来ず、神を裏切らされるであろう。あなたがたは意図的にではなく、自分の傲慢で自惚れた本性の支配下でそうしたことを行うであろう。あなたがたは、自分の傲慢さや自惚れのため神を見下すようになり、神を無関係なものと認識するようになり、自分を賞揚するようになり、常に自分を誇示するようになり、最終的に自分を神の立場に置いて自分自身の証しに立つようになるであろう。最終的に、自分自身の概念や思考、論理を真理として崇拝するであろう。自分の傲慢で自惚れた本性の支配下にある人々が行った邪悪な行動がいかに多いかを理解する必要があるのだ。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。正義が邪悪に挑む場合、人間は正義を守るために怒りを爆発させることは無い。それとは逆に、正義の力が危機にあるとき、迫害されたとき、攻撃されたとき、人間の態度は、無視、回避、畏縮といった類いのものである。しかし、邪悪の力に対峙した時、人間の態度は、迎合する、ぺこぺこ頭を下げるといった類いのものである。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な力にとって逃げ道であり、肉欲に満ちた人間の、猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

あなたがキリストと共にあるのであれば、あなたはキリストに毎日3回の食事を振る舞い、おそらくお茶も振る舞い、生活に必要な物事を手配し、外見上キリストを神として扱うだろう。何か起きると、人間の観点は、常に神の観点と相反するものになる。人間は神の観点を理解できず、受け入れられない。人間は表面上では神と折り合いが付くかも知れないが、それは神と一致することを意味するものではない。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認される。この敵対心は神が人間に敵対しているのでも、神が人間に敵対することを望んでいるのでも、神が人間を敵対する立場に置き、敵対するものとして扱っているのでもない。むしろ、それは人間の主体的意志と無意識の精神に潜む、神に敵対する本性の問題である。人間は神に由来するもの全てを研究対象とみなすので、神に由来する物事や神が関与する物事に対する人間の反応は、何よりも推測し、疑念を抱き、すぐに神と矛盾し神に反する姿勢を取ることである。その後、人間はそうした受動的な精神状態となり、神と対立し、神と争い、そうした神は人間が従うに値するかどうか疑念を抱くことさえある。人間の理性は、今後はそのようにあるべきでは無いと言うものの、人間はそうすることを選び、何も躊躇せずに、最期まで一貫してそのまま続行する。……このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神に会いたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がいるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ。キリストは天に上ることができないだけではなく、地上を自由に移動することもできないのだ。それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い、キリストに気軽に言葉をかけるが、それでも「真のキリスト」の到来を待望しているのだ。あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変わったと考えるかもしれないし、あなたは自分がキリストの忠実な信奉者だと信じるかもしれないし、あなたは自分こそ最もキリストの祝福を受けるに値すると考えるかもしれない。あなたは多くの道を通り、多くの働きをし、多くの実を結んできたのだから、あなたは最後に栄冠を手にする者のはずだと。しかし、あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

あなたが本当にキリストと共に生きている時、あなたの独りよがりとうぬぼれがあなたの言葉と行動によってゆっくりと明らかになっていき、あなたの行き過ぎた欲望や反抗、不満が自然と露わになるのだ。そして、ついに、あなたの傲慢さはより一層激しさを増していき、あなたがまるで水と火の関係のようにキリストに味方しなくなると、あなたの本性が完全に露わになるのだ。そうなると、あなたの観念を隠しとおすことはできなくなる。あなたの不満も自然と明らかになり、あなたのいやしい人間性が完全に露わになるのだ。しかし、あなたはそれでも自らの反抗心を否定し続ける。そして、あなたは、このようなキリストは受け入れ難く、キリストは人間にあまりにも厳し過ぎて、もっと優しいキリストになれば完全に服従する、と考えるのだ。あなたがたは、自らの反抗には理由があり、キリストがある段階まであなたがたを駆り立てた時にのみキリストに反抗する、と考えるのだ。あなたがたはキリストを神とみなしてはいないことに全く気づいておらず、またキリストに従うつもりもないのだ。むしろ、あなたがたはあなたがたの考えに従ってキリストが働きを行うように断固として主張し、そのようなやり方で行われなかったいかなる働きについても、あなたは、キリストは神ではなく、人間だと考えるのだ。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある者は多くいないだろうか。あなたがたが信じるのは誰なのか。また、あなたがたはどのように追い求めているのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

あなたは本当に毎日、一日中、キリストを神として見ることができるだろうか。あなたは本当に神に従うことができるだろうか。あなたがたは心の中で非常に大きくて立派な神をヤーウェとして崇めるが、目に見えるキリストは人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに低劣で、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを永遠に神とみなすことはできない。あなたがたはただ好きな時にキリストを呼び、神として礼拝するのだ。それゆえ、あなたがたは神を信じる者ではなく、キリストと戦う者たちの共犯者だ、とわたしは言うのだ。他者に対して親切心を示す者でさえ報われるが、あなたがたの中でそのような働きをするキリストは、人に愛されることも報われることもなく、人間からの従順を受けることもない。これは最も悲しいことではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

信仰に関して言えば、信仰を持っているので神に付き従うのであり、もしそうでなければ、そのような苦しみに耐えることはないと多くの者は考えるかもしれない。それではわたしは尋ねる、あなたは神の存在を信じているのに、決して神をあがめないのはなぜなのかと。もしあなたが神の存在を信じているなら、それではなぜ、心に神に対する恐れをいだかないのだろうか。キリストは肉となった神であるということを受け入れるなら、それではなぜ、あなたはそのように彼を侮り、それほど不敬な態度で臨むのだろうか。なぜあなたはあからさまに彼を批判するのだろうか。なぜあなたは、いつも彼の動静をうかがうのだろうか。なぜあなたは彼の采配に従わないのだろうか。なぜあなたは、彼の言葉に従って行動しないのだろうか。なぜあなたは彼からゆすり取り、捧げ物を奪いとろうとするのだろうか。なぜあなたはキリストに成り代わって話すのだろうか。なぜあなたは、神の働きと言葉が正しいかどうかについて評価するのだろうか。なぜあなたは、彼のいないところで彼を冒涜できるのだろうか。このようなことがあなたの信仰を作っているのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

あなたがたの話すことと行いのあらゆる部分が、あなたがたがあなたがたのうちに携えるキリストへの不信仰の要素を露呈する。あなたがたの行いの動機と目的には、不信仰が浸み込んでおり、あなたがたのまなざしや、あなたがたが吐き出す息は、そのような要素で汚されている。つまり、あなたがた一人ひとりが、一日の一瞬一瞬、不信仰の要素を携えているのである。そうであれば、あなたがたの体の中を巡る血には、この肉となった神に対する不信仰が浸み込んでおり、あなたがたはどの瞬間にもキリストを裏切る危険性があるということである。したがって、あなたがたが神への信心の道に残す足跡は実のあるものではないとわたしは言おう。あなたがたの神への信仰の行路はしっかりとしたものではなく、あなたがたはただふりをしているに過ぎないのである。あなたがたはいつもキリストの言葉に対して懐疑的で、すぐに実行に移せないのである。これが、あなたがたがキリストへの信仰を持たない理由であり、いつもキリストについて固定観念を持っていることが、あなたがたがキリストを信じないもうひとつの理由である。キリストの働きに対していつも懐疑心を持つこと、キリストの言葉に耳を傾けようとしないこと、キリストが行なった働きにいつも意見を持ち、それを適切に理解できないこと、たとえ説明を受けても、固定観念を手放すことに苦労することなど、これらはすべて、あなたがたの心の中にある不信仰の要素なのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

一見、あなた方はこの地上のキリストに非常に従順であるように見えるが、実質的には彼を信じておらず、愛してもいない。つまり、あなた方が本当に信じているのは、あなた方の感情の中の曖昧な神であり、あなた方が本当に愛しているのはあなた方が一日中慕っているが、直接会ったことのない神である。このキリストに関しては、あなた方の信仰はほんのわずかに過ぎず、彼に対してあなた方は愛など持っていない。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

今、あなたがたの信仰はあなたがたの心の30パーセントでしかなく、70パーセントは疑いに支配されている。キリストによってなされたいかなる行いも、話されたいかなる言葉も、あなたがたにキリストについての固定観念や意見を形づくらせる。このような固定観念や意見は、キリストに対するあなたがたの完全な不信仰から生じるのである。あなたがたは天にいるまだ会っていない神だけを敬慕し惧れ、地上の生けるキリストを全く重んじないのである。これもあなたがたの不信仰ではないだろうか。あなたがたは、過去に働いた神だけを慕い、今日のキリストを直視しようとしない。これらが、今日のキリストを信じないあなたがたの心の中に混在する日常の「信仰」なのである。わたしはあなたがたを過小評価しない。あなたがたの内にはあまりにも多くの不信仰があり、あなたがたには、不純で、詳細に吟味されねばならないところが多すぎるから。このような不純物は、あなたがたが全く信仰を持たないことを示している。このような不純物はあなたがキリストを放棄したことを示し、あなたがたにキリストの裏切り者の汚名を着せる。このような不純物は、キリストに対するあなたがたの認識を覆い隠すベールであり、あなたがたがキリストのものとされることに対する障壁であり、あなたがたとキリストとの一致を妨げるものであり、そしてキリストがあなたがたを承認しないという証拠なのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと手入れを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの普通の人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

あなたがたの心は悪と裏切りと欺きで満ちている。そうであれば、あなたがたの愛にはどれだけ不純物が含まれるだろうか。あなたがたはわたしのためにもう十分断念して来たと思っている。あなたがたのわたしに対する愛はもう十分だと考えている。だがそれならなぜ、あなたがたの言葉や行動はいつも反抗と欺きを伴っているのか。あなたがたはわたしに従っているが、それでもわたしの言葉を認めていない。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに従っているが、わたしをわきに寄せている。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに従っているが、わたしを信頼していない。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに従っているが、それでもわたしの存在を受け入れることができない。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに従っているが、それでもわたしをわたしとして取り扱わず、あらゆる節目で、わたしが多くの事で困るようにしている。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに従っているが、それでも、あらゆる事に関してわたしをごまかそうとし、わたしを欺こうとしている。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはわたしに仕えているが、わたしを畏れていない。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたはすべての点で、またすべてのことにおいてわたしに反対している。これは愛と考えられるだろうか。あなたがたが多くを犠牲にしたことは本当だが、わたしがあなたがたに求めたことを全く実践して来なかった。これを愛と考えることはできるだろうか。注意深く計算してみると、あなたがたの中には少しもわたしに対する愛が暗示されていないことがわかる。わたしが提供してきた長年の働きと多くの言葉から、実際あなたがたはどれだけを得てきただろうか。これは振り返る価値があるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

あなたがたの口は欺きと卑猥な言葉、裏切りと傲慢な言葉で満ちている。あなたがたはわたしの言葉を経験しても、一つとして誠実な言葉も、聖い言葉も、服従の言葉も語ったことがない。あなた方の信仰は最終的にどのようなものになるだろうか。あなたがたの心は欲求と富で満ちており、あなたがたの頭の中は物質的なもので満ちている。あなたがたは日々、わたしから何かを得ようと計算しており、獲得した富と物質がどれくらいあるかを計算している。毎日、あなたがたはもっと祝福が施されるよう待っている。その結果もっと大きな、もっと良いものを楽しめるかもしれないからである。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

あなたたちの欺き、あなたたちの傲慢、あなたたちの貪欲、あなたたちの途方もない欲求、あなたたちの裏切り、あなたたちの不服従──このどれにわたしが気づかずにいるのか。あなたたちはわたしをごまかし、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを欺き、わたしに要求し、わたしに犠牲を強要する──そうした悪行がどうしてわたしの罰を免れることができようか。あなたたちの邪悪な行為は、わたしへの敵意の証拠、あなたたちがわたしと融和しない証拠である。あなたたちの一人一人が、自分はわたしの心にかなうと信じているが、もしそうなら、誰にその反論できない証拠が適用されるのか。あなたたちは、自分はわたしにこのうえなく誠実で忠実だと信じている。あなたたちは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたたちは、自分はわたしに十分奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに引き比べてみたことがあるだろうか。わたしに言わせれば、あなたたちはひどく傲慢で、ひどく貪欲でひどくいい加減だ。あなたたちがわたしをばかにする手口は、とても狡猾で、愚かな意図や愚かしい手段をいろいろもっている。あなたたちの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたたちの誠意はあまりに薄く、あなたたちの良心は、さらに乏しい。あなたたちの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もその悪意から免れられない。わたしでさえ。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。あなたがたは神をもてなすことで富や贈り物、称賛を得ようとする。あなたがたは硬貨を一枚か二枚与えると、心が痛む。あなたがたは硬貨を十枚与えると、恩恵を欲しがり、他者と区別されたいと思う。あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。本分を尽くす者とそうでない者、導く者と従う者、神をもてなす者とそうでない者、与える者とそうでない者、伝道する者と言葉を受け取る者など、このような者たちは皆、自分を褒める。これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

長年のわたしの働きで、人は多くを受け取り、多くを捨ててきたが、やはりわたしは、人がわたしを忠実に信じていないと言う。なぜなら、人はわたしが神であることを単に口先で認めるだけで、わたしが話す真理には同意せず、ましてやわたしが彼らに求める真理を実践することは尚更ない。つまり、人は神の存在を認めるだけで、真理の存在は認めない。人は神の存在を認めるだけで、いのちの存在は認めない。人は神の名を認めるだけで、神の本質は認めないのである。人は熱心であるがゆえに、わたしには忌まわしい存在となってしまった。人はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を用いているだけで、だれもわたしを心から礼拝しない。あなたがたの言葉には蛇の誘惑がある。更には、あなたがたの言葉は極端に傲慢で、大天使による正真正銘の声明である。さらに、あなたがたの行いはズタズタで恥ずかしいほどちぎれており、あなたがたの度を過ぎた願望や強欲なもくろみは聞くに不快である。あなたがたはすべてわたしの家で蛾になり、嫌われて捨てられる対象となった。あなたがたの誰も真理を愛する者たちではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇るのを欲し、キリストが地上で権力を振るう荘厳な姿を見たいと欲する人でしかない。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

各教派、各分派の指導者を見ると、そうした指導者は全て傲慢で独善的であり、聖書を前後関係を無視して、自分の想像に従って解釈している。そうした指導者は、全員が才能と学識に依存して業を行う。そうした指導者が何も説教出来ないのであれば、人々はその指導者に従うであろうか。結局のところ、そうした指導者は、教義をある程度習得し、教義について多少の話をすることが出来るか、あるいは他人を説得する方法、策略の利用法を知っており、それによって人々を自分のところに集めて騙したのである。こうして集まった人々は、名目上は神を信じているが、実際にはその指導者に付き従っている。そうした人々が真の道を説教する者に出会うと、「私達の神への信仰について、指導者と相談する必要がある」と言う者も居る。このように、こうした人々には、神を信じるために誰かの同意が必要であるのが分かると思うが、それは問題ではなかろうか。それならば、そうした人々の指導者は、どのような存在ということになるであろうか。そうした指導者はパリサイ人や偽の羊飼い、反キリスト教主義者のような存在であり、人々が真の道を受け容れるのを阻害する存在となっているのではなかろうか。こうした人々はパウロと同種に属する。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

あなたが非常に偽りに満ちているならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。このため、あなたのわたしに対する信仰は疑念の基礎に基づいている。わたしはそのような信仰は決して認めていない。本当の信仰がなければ、あなたは本当の愛からはほど遠い。そして意のままに神を疑い、推測するようであれば、間違いなくあなたは最も偽りに満ちた人である。あなたは、神が人のようであり得るかどうかを推測する―許し難く罪深いか、器が小さいか、公平性と合理性に欠けるか、正義の感覚に欠けるか、悪意があるか、陰険か、狡猾さに満ちているか、悪と闇を喜んで受け入れるか、等々。そのような考えを持つのは、神に関する認識を少しも持っていないからではないか。そのような信仰は罪に他ならない。さらに、わたしに取り入る者やこびへつらう者だけをわたしが喜び、そうすることを知らない者たちは歓迎されず、神の家では居場所がなくなると信じている者さえいる。これが長年にかけてあなた方が得た認識というものか。これがあなた方が得たものか。このような誤解だけなどではない。神の霊への冒とくや天に対する悪口、それらがあなた方のわたしに対する見識だ。だからわたしは、あなた方の信仰はあなた方をわたしから遠ざけ、わたしに強く反発させるだけだと言うのだ。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

あなた方の心の中にあるものはすべて不義であるため、誰でもみな狡猾でねじ曲がった者だと思い込んでいる。受肉した神でさえ、優しさや慈悲深い愛などない、普通の人間のようだと信じてさえいる。それだけではなく、高貴な人格と慈悲深く慈愛に富んだ本性は天国の神だけが持つと信じている。そして、あなた方はそのような聖者は存在せず、暗闇と悪によってのみこの世は統治されており、神は単に人が喜ばしく素晴らしいものへの希望をおいているものでしかなく、人工的に作り上げられた伝説的な存在でしかないと信じている。あなた方の心の中では、天の神は非常に公正で義であり、偉大で、人間が礼拝し崇拝するにふさわしい存在であるが、地上の神は、単に天の神の代役であり、天の神の道具に過ぎない。あなた方はこの神は天の神とは比べ物にならず、天の神と同等に語られるような方ではないと信じている。神の偉大さと誉れとなると、天の神の栄光に属し、人の本性と堕落となると、この地上の神に属するものとする。天の神は永遠に高尚であるが、地上の神は永遠に重要ではなく、弱く、無能となっている。天の神は感情に左右されず常に正しいが、地上の神はただ自分勝手な動機しか持たず、公平性や合理性を欠いていることになっている。天の神にはひとつも歪みがなく永遠に忠実であるが、地上の神は常に不正直な面を持つとなっている。天の神は人を深く愛するが、地上の神は人への配慮が不十分で完全に無視してさえいるとなっている。この誤った認識は、長い間あなた方の心の中にあり、これからも続くだろう。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

あなた方はキリストのすべての行いを不義の立場から見、キリストの全ての働きと地位と本質を邪悪な者の視点から判断しているのである。あなた方は重大な過ちを犯し、祖先が決して行わなかったことを行っているのである。つまり、あなた方は頭の上に王冠を付けている崇高な天の神のみに仕え、目に見えないほど取るに足らないと考えている神には見向きもしない。これはあなた方の罪ではないのか。これは神の性質に対する典型的な敵対ではないか。あなた方は天の神を大いに礼拝する。あなた方は崇高な人物を心から崇拝し、雄弁な人を尊敬する。あなた方は一握りの富を与える神には喜んで仕え、すべての欲望を満たす神を思い焦がれる。あなたが崇拝しない唯一の神は、高尚ではないこの神である。あなたの唯一の憎悪の対象は、誰も評価しないこの神に関わり合いを持つことである。あなたが唯一やりたくないこととは、一銭もくれないこの神に仕えることであり、この魅力のない神だけは、あなたに憧れを抱かせることができない。そのような神によっては、あなたの視野が広がって宝を発見したと感じるようなことはなく、ましてや望みを叶えることもない。ではなぜ彼に従うのか。この質問を考えたことはあるか。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

あなたがしていることは、このキリストを怒らせるだけでなく、もっと重要なことに、天の神を怒らせることになる。これが神への信仰の目的ではないだろう。あなた方は神に喜ばれることを大いに望んでいながら、神から非常にかけ離れている。何が問題なのか。あなた方は彼の言葉だけを受け入れているが、彼による取り扱い、刈り込みは受け入れず、ましてや彼による一つ一つの采配を受け入れることも、彼を完全に信じることも尚更できない。では何が問題なのか。結局のところ、あなた方の信仰は、ひよこを生むことのない空の卵である。というのは、あなた方の信仰は真理やいのちをもたらすものではなく、代わりに架空の支えと希望という感覚をもたらした。あなた方の神に対する信仰の目的は、真理といのちのためではなく、この希望と支援の感覚のためである。それゆえ、神に対するあなた方の信仰とは、追従と恥知らずの心によって神に取り入る以外の何ものでもなく、決して真の信仰とはみなされないのである。このような信仰からどのようにひよこが生まれるであろうか。言い換えれば、そのような信仰からどんな実がみのるというのか。あなた方の神への信仰の目的は、神を利用して自分の目的を果たすことである。それも神の性質に敵対していることの現れではないのか。あなた方は天の神の存在を信じるが、地上の神の存在を否定している。しかし、わたしはそのような見方を認めない。わたしは足を地に着けて地上の神に仕えるものだけを賞賛し、地上のキリストを認識しないものは絶対に認めないのである。そのような人たちが天にいる神にどれほど忠実であっても、結局、邪悪な者を罰するわたしの手を逃れることはないのである。そのような人は邪悪な者である。彼らは神に逆らい、喜んでキリストに服従したことのない邪悪な者である。もちろん、これにはキリストを知らないもの、およびキリストを認めないものも含まれる。

『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか」より

言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。当然ながら、不正直な人々のために別の処遇が用意されている。もちろん、あなたがたが正直な人間であるために直面する大きな困難は、わたしも分かっている。あなたがたはとても賢く、自分の観点から他人を裁くのに巧みだ。……神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

自分の行動を問わず、教会の旗を揚げる者も居るが、本当のところ、それは自分達自身の利益のためである。こうした者には、正しい動機が無い。そうした者は歪んで不正直であり、そうした者の行動は、殆ど自分の個人的利益を求めるためのものである。そうした者は神を愛することを追求しない。そうした者の心は依然としてサタンのものであり、神へと向かうことが出来ない。神がそのような者を得られることは、決して無い。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の心を実行していると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の心に仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、のらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのだ。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物としての尊厳に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った、堕落した存在ではないのか。…もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきだ。自らの弱さ、無用さ、反抗心、腐敗、を恥じ、神のために自らのいのちと血を犠牲にするべきではないのか。そうしてはじめて、真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格があるのだ。では、あなたたち大多数はどうなのだろう。あなたたちの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしているのか。あなたたちは、するように命じられたすべてのことを命がけで為し遂げたことがあるのか。あなたたちは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたたちは区別ができないのか。あなたたちは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたたちは、どれほどわたしに仕えたというのか。また、わたしがあなたたちに授け、あなたたちのためにしたことは、みな、どうなったのか。あなたたちは、その大きさを測ったことがあるのか。それをあなたたちのささやかな良心に照らして判断したのだろうか。あなたたちの言動をいったい誰に正当化するつもりなのか。そんなにもちっぽけなあなたたちの犠牲は、わたしがあなたたちに授けたものすべてにふさわしいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたたちに献身してきたが、あなたたちはわたしについて邪悪な疑念をもち、いい加減な気持ちでいる。あなたたちのいう本分とはこの程度で、それがあなたたちの唯一の役割だ。そうではないのか。あなたたちは被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたたちが被造物とみなされるのか。あなたたちは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのか、はっきりわかっているのだろうか。あなたたちは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得えることを求めている。このような恵みはあなたたちのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたたちのような人々、凡庸な、取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたたちの将来につきまとうだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

神は人からあまり多くは求めない。神が人に求めるものはすべて容易に、愉快に達成されるよう意図されている。つまり、人が困難に苦しむことを嫌がっているだけなのだ。子供のように、彼らはわずかなお金を工面して質素に暮らし、両親に尊敬の念を持ち、果たすべき義務を果たすことだってできたかもしれない。しかし、彼らは十分食べられないこと、着るものが質素すぎることを恐れているので、どういうわけか、彼らは両親の愛と配慮を受け取ると、それを遥か彼方の雲へ投げてしまう。まるで大金を稼いでから神との協力を始めようとでもいうようだ。しかし、このことから人が両親を愛する親孝行の気持ちを持っていないことがわかる――彼らは親不孝な子供たちである。

『言葉は肉において現れる』の「三十八番目の言葉の解釈」より

それ以前において、人間は何に基づいて生きていただろうか。人間は全員、自分のために生きる。人間は自分自身のことしか考えず、落伍者を気にかけることは無い、というのが、およそ人間の本性である。神への信仰も自分自身のためであり、それにも増して祝福を得ることも自分自身のためである。神のために物事を捨て去り、自らを費やし、神に忠誠を尽くすといった事は、全て自分自身のためである。要するに、全ては自分自身のために祝福を得ることが目的である。世の中では、全てが個人的利益を目的としている。神を信じることは祝福を得るためであり、全てを捨て去るのも祝福を得るためであり、祝福を得るためであれば、人間は多くの苦難に耐えることができる。これらは全て、人間の腐敗した本性の実例的証拠である。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性情の変化の相違」より

あなたたちは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にする代わりに、あなたたちは自分の家族、子供、地位、将来、自分の欲求充足を気にかけている。あなたたちは、話し行動しながらわたしのことを考えたことがいつあったであろうか。寒いとき、あなたたちは自分の子供、夫、妻、あるいは親のことを思う。暑いときもまた、わたしはあなたたちの思いの内に入っていない。務めを果たしている時、あなたは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたがわたしのために何をしたことがあるというのか。あなたは、いつ、わたしのことを考えたのか。あなたは、わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったであろうか。あなたがわたしの味方である証拠はどこにあるのか。あなたのわたしへの忠誠はどこに実在しているのか。あなたのわたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

あなたがたの信心と真剣さは一時的なものでしかないことに気付いている。あなたがたの志と、あなたがたが支払う代償は、今のためだけであり、過去のためではないのではないか。あなたがたは、美しい終着点を確保するために、一度だけの決定的な取り組みを行いたいと思っている。あなたがたの目的は、取り引きをすることのみであり、真理に対する負債を抱えることを避けることであり、とりわけ私が支払った代償を償還しないようにすることである。つまり、あなたがたは自分の聡明さだけを用いることを好むが、そのために戦うことを好まない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、またそれ以上に、自分の終着点のために、食事や睡眠が出来なくなるほど頭脳を苦しめてはならない。いずれにせよ、結局あなたがたの終着点は既に定められている、というのは本当だろうか。

『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より

あなたがたは長い間わたしに付き従ってきたが、わたしに忠誠心のかけらも捧げてくれなかった。むしろ、あなたがたは自分たちが愛している人々や、自分たちを楽しませてくれる物事のまわりを回っているだけで、それらはあなたがたの心に留まっており、決していつも、どこでも見放されることはない。あなたがたが愛する何かに熱心であったり、情熱を持っている時は、いつもわたしに付き従っている時か、わたしの言葉を聞いている時でさえある。だから、わたしは言う、わたしが求めている忠誠心を、代わりにあなたがたの愛する者に忠実であるためにそしてそれらを大切にするために用いている、と。あなたがたはわたしのために何か一つか二つ犠牲にするかもしれないけれど、それはあなたがたすべてを現わしているのではなく、本当に忠実なのはわたしだということを示しているわけでもない。あなたがたは情熱を持っていることに夢中になる。娘や息子たちに忠実な人たちもいれば、夫、妻、富、仕事、目上の人たち、地位、あるいは女性に忠実な人たちもいる。自分たちが忠実なことに対しては、あなたがたは決してうんざりしたリ、悩まされることはなかった。むしろ、あなたがたは自分たちが忠実であったものをもっとたくさん、またもっといいものを所有することを増々切望し、そして決してあきらめることはなかった。わたし自身とわたしの言葉は常に、あなたがたが情熱を持っているものという点で、まさに最後の位置に押しやられている。そしてそれらを最後に持ってくるより他に選択肢がない。一部の人たちは未だ発見されていない今後忠実の対象になる何かのために、最後の場所を開けておくことさえする。彼らは心の中でわたしを気にかけたことがなかった。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

おそらくあなたがたはわたしが要求しすぎるか、不当に非難していると思っているのだろうが、あなたがたが家族と楽しい時を過ごしている時、わたしには決して忠実ではなかった事実を少しでも思いめぐらしたことがあっただろうか。あなたがたはこのような時に、痛みを感じないだろうか。あなたがたは働きの報酬を受け取って、心が喜びで満たされるとき、あなたがたには真理がまだ十分備わっていないことで落胆しないだろうか。あなたがたがわたしの承認を受けられずに泣いたことがあったのはいつだったろうか。あなたがたは知恵を絞ってあなたがたの息子や娘のために苦心するが、それでもあきたらず、あなたがたは彼らのための働きが充分でなく努力が足りないと信じている。しかし、わたしにとって、あなたがたはいつも、怠慢で不注意であった、そしてあなたがたは、わたしを記憶の中だけにとどめ、あなたがたの心の中ではわたしのことを認めなかった。わたしの献身と努力を永遠に感じることはなく、理解しようともしなかった。あなたがたはただ少し反省をし、それで十分だと信じている。このような「忠誠」は長い間わたしが切望してきたものではなく、長い間嫌悪してきたものだ。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

もしわたしが今あなたがたの前に富を置いて、わたしがあなたがたを非難しないことを前提に自由に選ぶように言うなら、ほとんどの人は富を選び、真理を捨てるだろう。あなたがたの中でより良い人たちは、富をあきらめ、不承不承に真理を選び、中間の人たちは富を片手に、真理を片手に掴むだろう。このように、あなたがたの真の姿は自明ではないだろうか。真理かあなたがたが忠実であるものかどちらかを選ぶとき、あなたがたすべてがそのような決断を下し、あなたがたの態度は変わらないだろう。そうではないだろうか。あなたがたの間に、正と悪の間を行ったり来たりした者が大勢いるのではないだろうか。正と負、黒と白を争うとき、あなたがたは確かに、家族と神、子どもたちと神、平和と破壊、富と貧困、高い地位と凡俗、支持されていることと捨てられること、などの間であなたがたが行った選択に気づいているのである。平和な家族と崩壊した家族の間では、あなたがたは何の躊躇いもなく前者を選び、富と本分の間では、岸辺に戻る意思すら欠いて、あなたがたは前者を選ぶ。贅沢と貧困の間では、あなたがたは前者を選び、息子、娘、妻、夫とわたしの間では、あなたがたは前者を選び、観念と真理の間では、あなたがたは同じように前者を選ぶ。あなたがたがありとあらゆる悪行に直面して、わたしはあなたがたへの信頼を全く失ったと言うしかない。わたしはあなたがたの心が柔和になることを拒んでいることに全く驚いている。長年の献身と努力は、あなたがたのわたしへの諦めと絶望しかもたらさなかったのは明らかだ。しかし、あなたがたに対するわたしの望みは日ごとに大きくなっていく。というのは、わたしの日はすべての人の前で完全に展開されているからだ。しかし、あなたがたは暗闇や悪に属することばかり求め、あなたがたが持っているものを手離すことを拒絶する。そうなら、あなたがたはどんな結果に出会うだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは誰に忠実か」より

私の業の期間において、あなたがたは常に私に反対する行動を取り、決して私の言葉に従わなかった。私は自分の業を行い、あなたがたは、あなたがたの業を行い、あなたがたは自分の小さな王国を建てる。あなたがたは、きつねと犬の群れのようであり、あなたがたの行動は、全て私に反対するものである。あなたがたは常に、自分のことだけを愛するものを抱こうとする。あなたがたの敬愛は何処にあるのか。あなたがたの行動は、すべて偽りである。あなたがたには、服従や敬愛が一切無い。あなたがたの行動は、全て偽りであり、冒涜である。そうした人々が救われ得るであろうか。性的倫理が欠如し、好色な男性は、常に妖艶な売春婦を惹き付けて「享楽」に耽溺することを望む。私はそうした性的倫理が欠如した悪魔を救わず、そうした不浄な悪魔を忌み嫌う。その好色さ、妖艶さにより、あなたがたは陰府に落とされた。あなたがたは、自分に対して何を述べるであろうか。あなたがたのように不浄な悪魔や悪霊のような者は、極めて凶悪である。あなたがたは汚らわしい。どうしてそうしたくずのような人々が救われるであろうか。罪から抜け出せずにいる人々は、それでも救われるであろうか。これらの真理、この道、そしてこのいのちは、あなたにとって何の魅力も無い。あなたがたは罪深さ、金銭、地位や名声、利益、肉の享楽、男性の端正さ、女性の色っぽさに惹かれる。あなたがたには、どのような資格があって、私の王国に入るというのか。あなたがたの像は、神よりも尊大であり、あなたがたの地位は神よりも高く、人々の中でのあなたがたの名声は言うまでも無い。あなたがたは、他人に崇拝される偶像となっている。あなたがたは、大天使となったのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

人間は自身を大切にしないので、価値のない不幸な人たちと言える。もし彼らが自分自身さえ愛せず、踏みにじるならば、彼らは価値がないことになるではないか。人類は自分をもてあそび、肉体を他人に与えようとする不道徳な女性のようである。しかし、たとえそうであっても、人類はまだ自分がどんなに卑しいかわからない。彼らは他人のために働くことや、自分を他人の支配下に置いて話すことに喜びを見出す。これは実に人類の汚さではないだろうか。……人類は自分自身を知らないので、その最大の欠点は、醜い顔つきを見せびらかしながら自分たちの魅力を他人に見せびらかすのを厭わないことであり、これは神がもっとも嫌うことである。人々の間の関係は異常であり、正常な人間関係は存在しないので、ましてや神との関係は正常[d]ではない

『言葉は肉において現れる』の「十四番目の言葉の解釈」より

あなたたちは神によって泥から切り離され、いずれにせよ不潔で嫌われる汚物の中から選び出された。あなたたちはサタンに属していて、かつてはサタンによって踏みにじられ、傷つけられていた。だから、あなたたちは泥から切り離されたと言われているし、あなたたちは神聖ではなく、それどころかサタンは、あなたたちを人ではなく物体として長い間ばかにしていたのだ。これがあなたたちに対するもっとも適切な表現である。あなたたちは、魚や海老のように望ましい捕獲物とは対照的に、自分がよどんだ水や泥の中で見つけられた不潔なものであることを理解しなければならない。あなたたちからは何の喜びも引き出されないからである。単刀直入に言えば、あなたたちは最低の社会層に属し、豚や犬よりも悪い動物である。率直に言えば、そのような表現であなたたちを呼ぶのは誇張表現ではなく、問題を単純化する方法である。あなたたちをそのような表現で呼ぶのは、実のところ、あなたたちに敬意を表する方法である。あなたたちの洞察力、話し方、「人」としての行動、人生におけるあらゆることは――泥の中におけるあなたたちの立場も含め――あなたたちの固有性が「並外れている」ことを証明するのに十分である。

『言葉は肉において現れる』の「人に本来備わっている固有性およびその価値とは何か」より

わたしがするすべてのことはあなたがたのためではないのか。それなのにあなたがたはいつもわたしヤーウェをこのように扱ってきた。わたしの捧げ物を盗み、わたしの祭壇のいけにえを家に持って帰り、オオカミの巣にいる子や孫を養った。「人々」は互いに戦い、怒りに満ちたまなざしで、剣と槍を持って向かい合い、全能者であるわたしの言葉を便所に投げ込み、排泄物のようにけがれたものにしてしまった。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたの人間性は獣性になってしまった。あなたがたの「心」はずっと前に石になってしまっている。あなたがたは、わたしの怒りの日が来るときこそ、今日あなたがたが全能者であるわたしに対して行う悪をわたしが裁くときであることを知らないのか。このようにわたしをだまし、わたしの言葉を沼地に投げ込んで耳を傾けず、わたしの背後でこのようにふるまって、わたしの怒りの目を逃れられると思うのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗み、わたしの物を欲しがったとき、あなたがたはわたしヤーウェの目に既に見られていたことを知らないのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗んだとき、それはいけにえが捧げられた祭壇の前であったことを知らないのか。このようにわたしをだませるほど自分たちが賢いなどとなぜ思うのか。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

人間の生涯は苦しみに満ち、走り回り、むなしさに楽しみを加え、全生涯に何の発明も創造もない。誰一人、このむなしい人生から自由になることができず、誰一人、意味ある人生を見出せず、誰一人、真の人生を経験していない。

『言葉は肉において現れる』の「二十五番目の言葉」より

わたしはすべてを創った。わたしは人間を創り、今日、人間たちの間に降り立った。しかしながら、人間はわたしに殴り返し、仕返しをする。わたしが人間にしている働きは、人間のためになっていないのだろうか。わたしは、人間を満足させることができないのだろうか。なぜ人間はわたしを拒むのか。なぜ人間は、わたしに対してあれほど冷たく無関心なのか。なぜ地上は死体に覆われているのか。これは、わたしが人間のために創った世界の状態なのか。なぜ、わたしは人間に比類のない富を与えたのに、人間はお返しに空っぽの手を差し出すのか。なぜ人間はほんとうにわたしを愛さないのか。なぜ人間はけっしてわたしの前に来ないのか。わたしの言葉はみな、ほんとうに無駄だったのか。わたしの言葉は水の熱のように消えたのか。なぜ人間は、わたしに協力したがらないのか。わたしの日の到来は、本当は人間の死の瞬間なのか。わたしはほんとうに、わたしの国が建てられるとき、人間を全滅することになるのか。なぜ、わたしの経営(救いの)計画の全体を通して、誰一人、わたしの意図を把握していないのか。なぜ、人間は、わたしの口から出た言葉を大事にするのではなく、嫌い、拒むのか。わたしは誰をも罪に定めない。ただ、すべての人を穏やかにさせ、自省の働きをさせるだけだ。

『言葉は肉において現れる』の「二十五番目の言葉」より

私達が生まれた国は、不浄な霊が集う場所であるため、不浄な霊が蔓延し、この地を支配しようとする。そのため、この国に生まれた者は恥辱を受けている。この国の人々の習慣、風習、思想、観念は遅れた古風なものであるため、皆神に関して様々な観念を思い描いており、現下そうした行動から離れることが出来ないままである。特に、人々は神の御前では特定の行動を取り、神の背後ではそれとは別の行動を取る。またサタンを奉ることと神に仕えることを勘違いしている。これは最も遅れていることを示すものである。

『言葉は肉において現れる』の「道(2)」より

数千年にわたってサタンに拘束されていた人々は、引き続きサタンの影響下で生活しサタンと訣別できずにいる。そうした人々は暗中模索と苦戦を続けてきた。そうした人々は、従前サタンのために香を焚き、礼をし、サタンを奉ってきた。またそうした人々は家族や俗世のしがらみ、人間関係に固く拘束されていた。そうした人々は、そうした拘束を払拭できなかった。このような泥沼の争いの社会で、誰がどこで有意義な生活を見出すことが出来ようか。

『言葉は肉において現れる』の「道(2)」より

人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎだとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある、非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

あなたが今日見ているものは、単にわたしの口の剣である。あなたは、わたしの手の杖あるいは人を燃やす炎をまだ見ていない、だからこそ、わたしのいるところで、あなたは未だに傲慢で乱暴なのだ。だから未だにわたしの言ったことに反論し、私の家にいながら私と争うのだ。人はわたしを恐れない。今日までわたしに敵意を抱き、人は未だにわたしを全く恐れていない。あなたの口には、不義の舌と歯がある。あなたの言葉と行いは、エバを罪へ誘った蛇のようだ。あなたがたは、お互いに、目には目を、歯には歯をと要求し、地位、名声、利益をわたしのいるところで、競い合っている。だが、わたしがあなたの言葉と行為を、密かに観察していることを知らないでいる。わたしのいるところにあなたが来る前ですら、わたしは、あなたの心を何もかも知っていた。人は、わたしの手から放れ、わたしの目の監視から避けることを常に願うが、わたしは、けっして彼の言葉と行いを避けてこなかった。それどころか、わたしは、わざと、彼らが、わたしの目に届くようにして、わたしが、その不義に懲らしめを加え、反抗を裁くことができるようにしている。したがって、人の隠れた言葉と行いは常にわたしの裁きの席の前に現れ、それは人から離れることはなかった。なぜなら、彼の反抗が強すぎるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」より

『言葉は肉において現れる』の「人間の本質と身分」より

人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。このように、神は数えきれないほど何度も力ずくで死の宣告を受け、数えきれないほど野蛮な裁判が神に有罪判決を下し、もう一度神を十字架に釘づけにした。神のために真に働いたので、義人と呼ばれる人たちが何人いるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より

神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差しと、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、酷評、嘲笑、無視と拒否、誤解と愚痴、拒絶と拒否、裏切りと攻撃、そして敵意で応じられている。暖かい言葉に対し、無数の者がそれに冷徹な表情で反対している。神は、それを忍んで頭を下げ、未熟な者どもの牛となるしか無い。[2]神はいくつの陽と月、いくつの星を見上げたことであろうか。神は何度日の出と共に去り、父の元を去った時の苦しみの数千倍におよぶ苦難と、人間の攻撃と破壊、取り扱いと剪定に堪え忍び、日の入りと共に戻って眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は遺恨無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の姿勢は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され、侮蔑された神は、無数の人間の足で踏みつぶされ、その下で平らになっている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握を望むかのようであり、銀幕に登場して人気を博し、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の監督にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じる、何の自由も無い操り人形[5]となる必要がある。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間自身の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の恵みを授かる資格があろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得る資格があろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得る資格があろうか。人間の良心は、どこにあるのか。人間は遙か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

人間はチョークとチーズを見分けることが出来ない[7]ようであり、常に白黒を混同し、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を退け、闇の中で踊る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く昇らせる。人間は盗賊[8]同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に架けて喝采し、奇声を上げ続ける。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて仰々しい雰囲気が充満し、騒々しく活気がある。また他人を慕う者が絶えず、そうした者は皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遙か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して配慮したことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の犬も吠えさせる、吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の業がどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる余地があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れを無視して、仰々しい謳い文句で神の業を現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日以降のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を自分のものとし、神には屑と残飯[9]しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方で神に感謝し、神を称える。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「讃え」て神の顔を見上げるが、それと同時に厚かましく恥知らずに神の王座に座り、神の「不義」を非難する。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を読むが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を迫害しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神の物事を手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも人間が神をむさぼり尽くすことを望むかのように神を冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言う。人間は義を見るが、それを強制的に節制させる。人間は自らの行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は自らに与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間が神を見る時、人間は神を人間であると決めつけ、サタンと共謀する創造物であると決めつけようとする。人間は、神が述べた事を十分承知しているが、それが単に人間の書き記したものであると言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔[10]であると言う。神は慎ましく隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが恥辱を与えられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より

裏切りとは、ある者が約束を破り、道徳の原則に違反し、あるいは人間の倫理に反する行為形態であり、それは人間性の喪失を証明するものである。自分が何かしら他人を裏切る行動を取ったことがあるかを覚えているかどうか、既に何度も他人を裏切ってきたかを問わず、あなたがたは人間として、一般にこの世に生を受けると、真理を裏切る何かしらの行動を取ったことがある。あなたがたが両親や友人を裏切ることが出来るのであれば、あなたがたは他人を裏切ることが出来る。さらに、あなたがたは私を裏切り、私が忌み嫌う物事を行うことが出来る。換言すると、裏切りとは、表面的に不道徳な行為形態であるのみならず、真理と矛盾する事柄である。まさにこの種の物事が、人間の私に対する反発と反抗の根源である。そうしたわけで、私はこの件について、次のように概括した。裏切りは人間の本性である。この本性は私の味方の者各人の天敵である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(1)」より

自分の言葉や行動により自分の素顔を示すことは、誰にでも出来る。この素顔は、その者の本性である。あなたがたが、冗長な話し方をする者であるならば、あなたがたには、ひねくれた本性がある。あなたがたの本性が狡猾であるならば、あなたがたの手口は極めて巧妙で陰険であり、他の者を自分にとって極めて欺されやすくする。あなたがたの本性が極めて腹黒いのであれば、あなたがたの言葉は聞いていて心地良いが、行動では自分の腹黒いやり方を隠すことが出来ない。あなたがたの本性が非常に怠惰である場合、あなたがたの言う事は、すべて自分のぞんざいさや怠惰さに対する非難や責任を逃れることを目的とし、あなたがたの行動は極めて遅く、中途半端であり、真理を隠すことに極めて優れている。あなたがたの本性が非常に同情的である場合、あなたがたの言葉は合理的であり、行動もまた真理に非常に良く則しているであろう。あなたがたの性情が非常に忠実である場合、あなたがたの言葉は実直であり、行動のしかたは堅実であり、自分の主人に疑われるようなことは多くないであろう。あなたがたの本性が極めて好色あるいは金銭に貪欲であれば、自分の心はそうした物事に囚われることが多く、無意識のうちに常軌を逸した非道徳的な行動を取り、そのために他人は自分の事を容認し難く、その上自分を忌み嫌うであろう。先述した通り、あなたがたに裏切る本性がある場合、あなたがたがその本性から脱することは、ほぼ不可能であろう。自分が誰も騙したことが無いからといって、自分に裏切る本性が無い可能性を信じてはならない。あなたがたがそのように考えるのであれば、過度に不快である。毎回私が述べている話しは、ある個人やある種の者だけでなく万人を対象とする。ある1つの事について、あなたがたが私を裏切ったことが無いからといって、それはあなたがたが万事において私を裏切らないことを証明するものではない。結婚に失敗した時に真理の追求に対する確信を失う者も居る。家族崩壊時に私に対して忠義であることという義務を失う者も居る。一時の喜びや興奮を求めるために、私を見捨てる者も居る。光の中で生き、聖霊の御業の喜びを得るよりも、むしろ暗い谷に落ちた方が良いという者も居る。富に対する欲を満たすために友人の助言を無視し、今でも自分の過ちを認めて戻ることが出来ない者も居る。私の保護を受けるために一時的に私の名のもとで生きる者も居れば、命にしがみつき、死を恐れているために、少しだけしか捧げない者も居る。こうした不道徳であり、それ以上に威厳の無い行動は、まさに人々が心の底で私を裏切り続けてきた行動ではなかろうか。無論、人間の裏切りは事前に計画されていたものでは無く、その者の本性が自然に示されたものであることを、私は知っている。私を裏切りたい者は居らず、それ以上に、私を裏切る事をして、満足する者は居ない。逆に、そうした者は恐怖で震えているであろう。しかるに、あなたがたは、そうした裏切りをどのように贖うか、またどのようにして現状を変えるかを考えているであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(1)」より

人間の本性はわたしの本質と全く異なる。その理由は、人間の腐敗した本性が全てサタンに由来するからであり、また人間の本性はサタンに取り憑かれて腐敗させられていることにある。つまり、人間はサタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つのではなく、光の中で生活してもいない。ゆえに、人間それぞれの本性に真理が生来備わっていることはあり得ず、神を畏れ、神に従う本質を持って生まれることもあり得ない。逆に、人間は神を拒み、神に反抗し、真理を愛すことのない本性を備えている。わたしが話したいのは、この裏切りの本性に関する問題である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

人間の霊は、全てサタンに掌握されている。ゆえに、人間の肉もまたサタンに囚われているのは言うまでも無い。こうした肉と人間が、どうして神に反抗せず、生来神の味方であり得るだろうか。サタンがわたしにより空へと投げ出されたのは、サタンがわたしを裏切ったからであるが、それならば、どうして人間がそうした影響から解放され得るであろうか。これが、人間の本性が裏切りである理由である。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

私に完全に従うことが出来ない行動は、裏切りである。私に忠誠であることが出来ない行動は、裏切りである。私に対して偽り、嘘で私を騙すことは、裏切りである。大量の観念を持ち、それを随所で広めることは、裏切りである。私の証しや利益を護らないことは、裏切りである。心の中で私から去って作り笑いを浮かべるのは、裏切りである。こうした行動は全て、あなたがたが常に出来る物事であり、あなたがたの間で恒例となっている物事でもある。あなたがたのうち、それを問題視する者は居ないかも知れないが、私はそうは考えない。私は、私を裏切ることを些細な事として扱うことは出来ず、また無視することも出来ない。私はあなたがたに業を行っているが、あなたがたは依然としてそのような状態である。あなたがたは、自分を慈しみ、見守る者がいつの日か居なくなったとしたら、あなたがたは皆お山の大将になるのではなかろうか。?その時、あなたがたが大惨事を引き起こした時、誰がその後始末をするであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(1)」より

サタンにより腐敗させられた霊は、すべてサタンの支配する領域にある。ただし、キリストを信じる者は分離され、サタンの軍勢から救われ、今日の神の国へと導かれている。こうした人々は、もはやサタンの影響下では生活していない。それでもなお、人間の本性は依然として人間の肉に根ざしている。つまり、あなたがたの霊は救われているにもかかわらず、あなたがたの本性は依然として昔のままの姿であり、あなたがたがわたしを裏切る可能性は依然として100パーセントである。わたしの業が極めて長期に及ぶのはそのためである。なぜなら、あなたがたの本性は極めて揺るぎないからである。現在、あなたがたは皆、自分の本分を尽くす上で可能な限りの苦難を受けているが、否定出来ない事実として、あなたがた各人にわたしを裏切り、サタンの領域、サタンの軍勢に戻り、従来の生活へと戻る可能性がある。この時、あなたがたが現在のように人間性や人間としての姿を僅かでも持つことは不可能であろう。深刻な場合、あなたがたは滅ぼされ、さらに永遠に罪に定められ、生まれ変わることは二度となく、厳罰に処されるであろう。これが、あなたがたを待ち受けている問題である

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より

全人類の上にかかる空は、暗く陰鬱であり、澄み渡った明るさなど微塵もない。人間の世界は漆黒の闇であり、そこで生きるとき、人は伸ばした自身の手を見ることができないし、顔を上げても太陽を見ることはできない。足の下の道路は、ぬかるみ、くぼみだらけであり、さらに曲がりくねっている。全土に死骸が散乱している。暗がりの隅は遺骸で溢れている。冷たく暗い、奥まった場所は、居を定めている大勢の悪魔たちが群がっている。人類がいる至る所に、悪魔の群れもまた行ったり来たりしている。汚れにまみれた無数のけだものの子孫が残忍な戦いの中で競い合っている。そしてその音が人を震え上がらせる。そのような時代、そのような世界、そしてそのような「地上のパラダイス」において、人は人生の至福を探し出すのにどこへ向かうだろうか。人は、人生の終着点を見出すのにどこへ向かうだろうか。遠い昔にサタンに踏みつけられた人類は、サタンの似姿で行動し続けてきた――それどころかサタンの化身でさえあった。彼ら自身がサタンの明確な証人である証拠だ。そのような人類、そのような人間のくず、あるいは、そのような堕落した人間家族の子孫――彼らがどうして、神の証しに立つことができようか。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

なぜなら、人類はわたしの経営に付属するものであることは確かだが、もっと正確に言うなら、人類はわたしの敵以外の何ものでもない。人類は、わたしに抵抗し従わない邪悪な者である。人類は、わたしによって呪われた邪悪な者の子孫以外の何ものでもない。人類は、わたしを裏切ったかの大天使の末裔以外の何ものでもない。人類はすでに、わたしによって嫌悪され捨てられ、わたしと対立するようになった悪魔の遺産以外の何ものでもない。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より

「天では、サタンがわたしの敵であり、地上では人がわたしの敵である。天と地はつながっているので、彼らは9世代にわたり連座して同罪と見なされるべきである。」サタンは神の敵である。わたしがこのように言うのは、サタンが神の偉大な好意と親切に対して報いるどころか、むしろ「流れに逆らって舟を漕ぐ」からであり、そうすることによって神に対する「親孝行」を果たさないからである。人々もサタンと同じではないだろうか。彼らは「両親」に対して子としての尊敬の念をまったく示さず、「両親」から受けた養育と援助に決して返礼をしない。このことは地上の人々が天のサタンと同類であることを十分に示している。人とサタンは神に対する心と気持ちが同じなので……

『言葉は肉において現れる』の「三十八番目の言葉の解釈」より

あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことを全く知らない。なぜなら輝く光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心や霊は悪い者によって取上げられてしまった。あなたの目は暗闇によって覆われている。あなたは、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声を聞かないし玉座からほとばしる水の音も聞こえない。あなたは、得るはずのすべてのもの、全能者があなたに与えたもの全てを失ってしまった。あなたは、苦しみの終わりのない海へ入ってしまった。救助もなく、生き残る希望もなく、ただもがき騒ぐことしかできず…。その瞬間から、あなたは悪い者によって苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から離れ置かれたままであり、全能者が与えるものに届かないところに置かれたままである。あなたは、後戻りできない道の上に乗り出している。百万回の呼び声もあなたの心や霊をほとんど奮い起こさない。あなたは、悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は、境界も、方向も、道路標識も無い領域へとあなたを誘惑した。ここから、あなたは、本来の純粋さや無邪気さを失い、全能者の注意が届かないようになった。悪い者は、あらゆることにおいてあなたの心を操縦し、あなたのいのちになる。あなたはもはや、彼を恐れない、彼を避けない、彼を疑わない。その代わり、あなたは心の中では、彼を神として扱う。あなたは彼を祀り、崇拝し、彼の影のように一体化するようになる。そしてあなたと彼は、生と死においてお互いに対して頼りにし始める。あなたは、あなたがどこから生じ、なぜ存在し、なぜ死ぬのかについて全くわからない。あなたは、全能者を見知らぬ人として見る。すなわち、神の起源を知らず、言うまでも無いがあなたのために行ったことについて何一つ知らない。神からくるすべての事柄があなたにとって、いまいましいものになってしまった。あなたは、それらを大事にしないし、それらの価値も知らない。全能者からあなたが備えを受け取り始めたのと同じ日から、あなたは悪い者とともに歩く。あなたと悪い者は何千年もの風雨を通って歩いている。悪い者と一緒になって、あなたはあなたのいのちの源であった神に立ち向かう。あなたは悔い改めず、あなたが滅亡の地点まで来てしまったことなど知りもしない。あなたは、悪い者があなたを誘惑し苦しめてきたことを忘れ、あなたの起源を忘れている。丁度そんな具合に、悪い者はあなたに着実に害を与えてきた――今にいたるまで。あなたの心や霊は感度を失い、萎えてしまった。あなたはもはや、世界の苦悩について不満を言うこともなく、不公平であることを強く思うこともない。全能者の存在を気にかけることすらしない。このようになったのは、あなたが、悪い者を真の父と思ってきたからである。あなたはもはや、彼から離れることはできない。これが、あなたの心の中の「秘密」である。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

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