苦しみと困難の中、目覚める

17歳のクリスチャンによる迫害の実体験

私は全能神教会のクリスチャンです。8歳のとき、両親に倣って終わりの日の全能神の働きを受け入れたおかげで、他の同い年の子供と比べて幸運に恵まれました。当時はまだ幼かったのですが、とても嬉々として神を信じ、御言葉を読みました。御言葉を読み、教会の年長の信者と交わり続けることで、数年後には真理がある程度わかるようになりました。特に、兄弟姉妹がみな真理を追い求め、正直者を目指し、誰もが互いに仲良くしているのを見たとき、私はこれほど幸せで楽しいときはないと感じました。後に、ある説教で、「中国本土では、神を信じ、真理を追い求め、神に従えば、命が本当に危うくなります。これは決して誇張ではありません」と聞きました(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)

そのときはどういうことかわかりませんでしたが、兄弟姉妹の交わりを通して、神の信者が警察に捕らえられることと、中国は無神論の国なので信仰の自由がないことを知りました。しかし、そのときはこうした話を信じず、自分は子供だから警察に逮捕されても何もされないだろうと思いました。自分が警察の手による逮捕と残虐行為を経験した日、その考えが変わりました。おじのように尊敬していた警察が実際には残忍な悪魔の群れであることがやっとはっきりわかったのです。

2009年3月5日の夕方、私は17歳のとき、年長の兄弟と福音を宣教して自宅に帰る途中、いきなりパトカーに道をふさがれました。5人の警官がすぐに車から飛び出し、警告すら与えず、盗賊のように私たちの電動スクーターを掴んで私たちを地面に押し倒し、無理やり手錠をかけました。私は事の突然さに呆然としました。神の信者が逮捕された話は兄弟姉妹からよく聞いていましたが、その日まさか自分の身に降りかかるとは想像すらなかったのです。パニックに襲われ、心臓が胸から飛び出そうになるほど激しく鼓動しました。

私は心の中でずっと神に呼びかけました。「全能神様!私は警察に捕らわれ、とても怖いです。自分が何をすべきかも、警察が私に何をするつもりなのかもわからないので、私の心を守ってくださるようにお願いします」

祈ると心がかなり落ち着きました。自分のような子供は警察に何もされないと思っていたので、あまり緊張もしていませんでした。しかし状況は思ったほど単純ではありませんでした。神への信仰についての本を私たちから見つけた警察は、それらを証拠に警察署へと連行したのです。

そのころ、中国北部は早春を迎えていましたが、気候はまだ非常に寒く、夜は零下3、4度に下がりました。警察署長は私たちからコートや靴、さらにはベルトまで奪い取り、後ろ手にしてしっかり手錠をかけました。それはとても苦痛でした。署長に指示された数人の警官に私たちは床に押さえつけられ、顔と頭を革ひもでひどく打たれました。私はたちまち頭が割れて爆発しそうに感じるほど痛くなり、思わず涙がこぼれました。

私はそのとき憤慨しました。「捜査においては文明人であれ」というスローガンが壁にはっきりと書かれていたのに、彼らは私たちを野蛮な追いはぎや殺人犯のように扱っていたからです。全く文明人のやり方ではありません。怒りながら、私は「僕たちが何の罪を犯した?どうして逮捕して殴ったりするんだ?」と問い詰めました。

すると警察の1人が私を打ち続けながら残忍に言いました。

「小僧、そんな口の利き方はするな。俺たちは全能神の信者をつかまえるためにいるんだ!若くて何でもできるお前がなぜそれだ?指導者は誰ですか?この本はどこで手に入れた?答えろ!答えないとぶっ殺すぞ」

そのとき、兄弟が歯を食いしばって一言も話そうとしていないことに気づいたいた私は、こう誓いを立てました。

「僕もユダにはならない!たとえ殴り殺されてもしゃべるもんか!僕の命は神様の御手の中にあるんだから、サタンも悪魔も僕に対して何の力もないんだ」

私たちが二2人とも口をつぐんでいるのを見て署長は激怒し、私たちを指差して怒鳴りました。

「いいだろう。強がるのか?しゃべらないか?いたぶってやれ!強がるとどうなるか思い知らせてやるんだ!」

すると悪しき警官どもがたちまち私たちに襲いかかり、あごをつかんで顔を思いっきり殴りました。私はそれで目から火が出て、顔が燃える痛むほどです。私は幼いころから両親に甘やかされて大事に育てられており、このような暴力を受けたことは一度もありませんでした。屈辱のあまり涙をこらえられず、思いました。

「この警察は本当に残酷で、理性がない!学校の先生は、困ったことがあったら警察に相談することっていつも言っていた。警察が『人民に仕え』、『善良な市民を暴力から守る英雄』だと言っていたけど、今僕たちはただ全能神を信じて人生の正しい道を歩んでいるという理由で、警察に意味もなくつかまって、容赦なく殴られている。これのどこが『人民の警察』なんだ?ただの悪魔の群れじゃないか!説教でこういう話があるわけだ。

『赤い大きな竜は悪霊だと言う人もいれば、悪人の集団だと言う人もいますが、赤い大きな竜の本性と本質は何ですか。悪魔の本性と本質。彼らは神に抵抗し、攻撃する悪魔の群れです!サタンの物理的な現れ、肉となったサタン、悪魔の化身です。これらの人々はサタンと悪魔に他なりません』(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「救いを受ける上で、赤い大きな竜を捨てることの真の意義」)。

今までは警察が一般市民のために働く『善人』だと信じて、警察の嘘に惑わされ、それが誤った通念だとは気づかなかったけど、いまようやく、警察が本当は神に抵抗する悪魔の群れだとわかったんだ!」

私は彼らを心底憎まずにいられませんでした。私たちがまだ話していことを知った署長が「もっといたぶってやれ!」と叫び、その手下が2人が飛びかかってきました。彼らに私たちは足を伸ばした状態で床に座らせられると、革靴で両脚をひどく蹴られ、思い切り踏みつけられました。脚が折れるかと思うほど痛み、絶叫せずにはいられません。しかし叫べば叫ぶほど暴行は激しくなりました。やむなく痛みに耐えながら、心の中で全能神に呼びかけました。

「神様、この悪魔たちはあまりに残酷です!とても耐えられません。あなたを裏切らないよう、どうか私に信仰を与え、お守りください。」

そのとき、神の御言葉の次の一節が私の心に思い浮かんだのです。

あなたの周りの環境にあるすべてのものは、わたしの許しによってそこにあり、わたしがそのすべてを定めることを、あなたは知るべきである。わたしがあなたに与えた環境の中で、明確に見極め、わたしの心を満足させなさい。恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。神はあなたのしんがりとなり、神はあなたの盾である。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十六章」より)

御言葉は私にとって大きな信仰と強さの源でした。いま経験している事態が神の御座からの了承を得て起こっていること、いまこそしっかり立ち、神を証しすることが求められている時であることがわかりました。若いとはいえ、神を強い支えとしていたので何も怖くはありません。しっかり立って神を証しし、絶対に怯えず、サタンに屈しないと決意しました。神の御言葉による手引きと導きを通して、苦しみに耐えてしっかり立ち、神を証しする自信と決意を抱いたのです。

その夜の午後7時過ぎ、署長は再び私に尋問しに来ました。私を凍えさせようという意図で、非常に冷たいコンクリートの床に座るように指示しました。私があまりの寒さで両足がしびれ、全身が震え上がっていたところで、署長は手下に私を持ち上げて壁に寄りかからせるように命じてから、容赦なく私の手とあごを電気棒で感電させました。私は電気ショックのせいで手が水疱だらけになり、歯がすべて痛みでしびれました(いまでも物を噛むと歯が痛みます)。

しかしそれでもこの悪魔は怒りが収まらず、次は私の股間に電動棒を当てました。この責め苦に私は言い知れぬ痛みを受けましたが、署長は頭を後ろにそらして笑いました。その時点で、私は人間性が完全に欠けているこの悪魔を骨の髄まで憎みました。しかし、この悪しき警察にどのような尋問や拷問を受けても歯を食いしばり、一言たりとも話しませんでした。それは朝の2時か3時まで続き、その頃には全身が麻痺しており、どこにも感覚がありませんでした。最終的に、彼らは私を傷めつけて疲れると、私を小さな部屋に引きずり戻し、ともに逮捕された兄弟と手錠でつなぎました。私たちは凍った床に座るように命じられ、眠らないように2人の警官に見張られました。一人でも目を閉じると、2人とも殴られ、蹴られました。

その夜の遅い時間に、私は用を足そうとしましたが、この悪しき警察に怒鳴られました。

「このクソガキ、こっちが知りたいことを言うまで、どこにも行くんじゃないぞ!小便はそのまましな!」

結局我慢ができなくなり、ズボンのまま放尿する羽目になりました。凍てつくような天候の中で、パッドを入れたズボンに尿が染み込んだため、震えが止まらないほどの寒さでした。

この悪魔たちによるそのような残酷な拷問を受けた末、私は全身が耐え難く痛み、「明日はどんな拷問をしてくるつもりなんだ?耐えられるのか?」とどうしようもなく弱く否定的な気持ちになりました。しかしそのとき兄弟が、私が否定的になって苦しみに耐えられなくなることを心配し、ささやいてくれました。

「涛(タオ)、今日この悪魔たちにこうして拷問されてどう感じている?全能神を信じて本分を尽くしたことを後悔しているのか?」

私は言いました。

「していません。ただ、この悪魔たちに殴られたのがくやしいんです。自分はまだ子供だから何もされないと思ってました。まさか本当に殺そうとするなんて」

すると兄弟は真摯に交わってくれました。「僕たちは神様への信仰の道を歩み、神様のお導きのおかげで人生の正しい道を歩んでいるが、サタンは僕たちが神様に従って完全に救われることを望まない。信仰では何があってもしっかり立つんだ。絶対サタンに屈してはいけない。神様の心を傷つけたらだめだ」

兄弟のこの言葉はとても励みになりました。私は慰めを感じ、次の御言葉を思い起こさずにはいられませんでした。

勝利者とは何か。キリストの良き兵士たちならば、勇敢であってわたしを信頼し、霊的に強くなければならない。戦士になるために戦い、決死の覚悟でサタンと戦わなければならない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)

その瞬間、私は神の御心がわかり、心の中で強さがみなぎりました。もはや屈辱も惨めさも感じず、勇敢にこの試練と向き合おうと思いました。

「悪魔サタンにどう拷問されても、神に頼ってサタンに打ち勝とう。全能神の信者がみな神の精鋭兵士であり、最後まで壊れない戦士であることをサタンに見せてやるんだ。」

翌朝、悪しき警察は私を尋問室に連れ戻ました。そしてあの悪魔署長が再び私に自白を強要しようと、私の鼻をまっすぐ指しながら机の上を叩き、こう罵りました。

「夕べのうちに考え直してみたか、小僧?全能神をいつから信じていた?何人に布教した?質問に答えろ!さもないともっと痛い目に遭うぞ!」

私は「もうサタンを恐れてはいけない。大人になって勇気を出さないと!」と思いました。そのため「何も知らない!」と毅然と言ったのです。悪しき局長は烈火のごとく怒り、「小僧、死にたいのか?しまいにぶっ殺すからな!それでも意地を張ってろ!」と叫びました。そう叫びながら飛び掛ってきた署長に、私は残忍に髪をつかまれ、頭を壁に打ちつけられました。すぐに耳鳴りがし、そのあまりの激痛に泣き叫ばずにはいられず、涙が止まりません。挙句の果てに、その悪魔たちは何の収穫もなさそうだと気づくと、やむなく私を小部屋に送り返しました。その後、兄弟を尋問に連れ出しました。まもなくして、私は兄弟が痛みで悲鳴を上げるのを聞き、彼らに酷いことをされたことを知りました。

私は凶暴なオオカミに囲まれた小羊のように小部屋でちぢこまり、悲嘆と無力感にさいなまれ、顔に涙を流しながら神に祈り、兄弟を拷問で自白させようとするこの悪魔たちから兄弟を守ってくださるようにお願いしました。私たちは三日三晩このように尋問され、一口の食べ物も一滴の水も与えられませんでした。私は寒くて空腹で目がくらみ、頭が腫れてものすごく痛みました。彼らは私たちを殺してしまうことを恐れ、結局は拷問を止めざるをえませんでした。

中共政府の残忍で非人道的な拷問の末、私は説教で聞いたことを本当に体験したのです。「赤い大きな竜の監獄では、あなたが男であろうと女であろうと、彼らは思うがままにあなたをいたぶりかねません。彼らは悪党と獣です。気まぐれに電気棒で人々をいたぶり、あなたが最も恐れることを何でもします。赤い大きな竜の支配下では、人は人でなくなり、動物以下にさえなります。

「赤い大きな竜はまさにこれほど残酷で非人道的です。獣であり、悪魔であり、完全に理知を欠いています。理知がないため、道理で説得できる相手ではありません」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「救いを受ける上で、赤い大きな竜を捨てることの真の意義」)。

そのとき、私は神の敵としての中共政府の反動的な本質をようやくはっきりと見ました。中共はまさしく、平気で人殺しをする悪魔サタンの現れです。道徳心も良心もなく、未成年である私さえ見逃しません。神を信じて人生の正しい道を歩んでいるというだけで、いっそう私を殺す気でいます。道理も倫理も人間性もない残酷な怪物にすぎません。自分はまだ若いから警察も大目に見てくれるだろうという誤った希望を、私はもはや抱かなくなりました。ただ全能神が私を守り、サタンと悪魔の残酷な拷問に打ち勝てるように導いてくださり、自分がすべての苦しみに耐え、鳴り響くような神の証しを立てることだけを願ったのです。

3月9日の午後、何も聞き出せそうにないと見た悪しき警察は、私たちの手をつかんで偽造された自白書に署名させ、「国法を侵し、社会の治安を乱し、国家権力の転覆を図った」という罪状を着せると、拘置所に送りました。

私たちはそこに着くとすぐに頭を全部剃られ、服も脱がされました。その服はほとんどリボンのように切り刻まれてから返されました。ベルトがなくなったので、ズボンをビニール袋で縛って止める羽目になりました。凍てつくような気候にもかかわらず、警察は他の囚人に、私たちの頭に洗面器一杯の冷水を何度もかけて洗うように命じました。私はあまりの冷たさに頭からつま先まで震え、血が静脈の中で固まったように感じ、その後は立つこともできませんでした。その刑務所の囚人たちは強姦犯、泥棒、強盗、殺人犯ばかりで、誰もが見るからに悪意をかもし出しています。私はこんな人たちと一緒にこの地獄のような所に閉じ込められるのかと思うとゾッとしました。夜には、固いコンクリートの台の上で30人以上が就寝し、毛布の悪臭がひどくてほとんど眠れませんでした。悪しき警察は私たちの食事として小さな蒸しパンとわずかなトウモロコシの粥しか与えませんでした。とても満腹になる量ではないのに、日中は過酷な肉体労働を山ほどさせられました。その日の作業量をこなせないと、罰として一晩中監房の見張りに立たます。そのときは4時間立っていなければならず、眠時間はわずか2時間でした。疲労のあまり立ったまま眠ったこともあるほどです。また、監房の囚人長は悪しき警察の指示を受けて私を苦しめる方法を考えだし、ノルマを超える量の仕事をさせたり、一晩中見張りをさせたりしました。

私はいまにも崩れ落ちそうに感じました。あの悪魔たちに何度も苦しめられいたぶられたせいで、自分が野良犬よりも自由がないように感じてられ、食事も豚や犬よりひどいものでした。こうしたことを思うと、家と両親がものすごく恋しくなり、拘置所は人が住む場所ではないと感じました。あと一瞬たりともそこにいたくなかったのです。ただこの嫌な場所をすぐに出ることしか望みませんでした。この上ない惨めさと弱さの中、ただ神に真剣に祈ることしかできませんでしたが、このとき全能神の御言葉が私を啓き、導きを与えてくれました。

落胆してはならない。弱ってはならない。わたしはあなたに明らかにする。神の国への道は平坦ではない。何事もそう簡単ではないのだ。あなたはたやすく祝福を得たいのであろうか。今日、だれもが苦しい試練に直面しなければならない。そうでなければ、あなた方のわたしに対する愛の心がさらに強いものとなることはなく、わたしに真実の愛を抱くこともないであろう。…わたしからの苦しみにあずかる者は、必ずわたしの甘美さにもあずかるだろう。これがわたしの約束であり、あなた方に対するわたしからの祝福である。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十一章」より)

神の御言葉は慰めと励ましの大いなる源でした。そのおかげで、自分が受けている苦しみと困難は神からの祝福なのだとわかりました。神はこの困難な状況を用いて、私を精錬し、完全にし、神の約束に相応しいほど神を愛し忠実である者にしてくださっているのです。自分が子供の頃から甘やかされ、苦しみはおろか些細な侮辱にも耐えられなかったことを省みて、私は真理といのちを手に入れたければ、苦しみに耐える決意と強固な信仰が必要であると悟りました。この苦しみを経験しなければ、私の中の堕落が清められることは決してありえません。私の苦しみは確かに神からの祝福であり、それゆえ私は信仰を持ち、神に協力し、神が私の中で真理を働かせてくださるようにすべきなのです。

神の御心がわかると、神への祈りが自然に私の中から湧き出てきました。

「神様!私にはもう弱く否定的な気持ちはありません。しっかり立ち、毅然としてあなたに頼り、最後までサタンと戦い、あなたを愛し、あなたが満足していただけるように努めます。私に信仰と不屈の精神を与えてくださることをお願いします」

拘置所で虐待と屈辱を受けた数日間、全能神への信仰を得てからのどんなときよりも多く神に祈って頼り、神との関係がそれまでで最も近くなりました。その間、私の心は一瞬でも神を離れなかったのです。どんなに苦しんでも、まったく苦しくなく、すべては私に対する神の気遣いと加護であるとはっきり悟りしました。

1ヵ月後のある朝、看守が突然私と兄弟を呼びました。呼び出しを聞いたとき、私は自分たちが解放されて、もうあの地獄で苦しむことはないと思い、胸を躍らせました。現実はまったくの期待外れでした。警察署長は意地悪い笑顔で私たちを迎え、判決状を手にこう言いました。

「お前たち2人は全能神を信じた罪で、1年間の労働再教育に処す。話をしなくても同じ判決を下せるのだよ。この国は共産党の天下だ。訴訟を起こしても無駄だ!」

署長が私たちの不幸を喜んでいるのを見て、私は憤りました。中共政府は法律も倫理も守らず、私のような未成年を残酷に拷問するばかりか、犯罪を犯してもいないのに判決を下していたのです!兄弟と私はその日、省の労働収容所に連行されました。健康診断中、兄弟の体に高血圧や心臓病といった問題があることを、医師は突き止めました。労働収容所の看守たちは施設で死なれて責任を問われることを恐れたため、収容を拒否しました。警察は兄弟を連れ戻すしかなく、そのため私はそこに1人とり残されました。私はそのとき泣きだしました。激しく泣いたのです。家と両親が恋しく、ともに交われる兄弟もいない中で、この先どうして1年も過ごせるのかと思いました。あの悪魔たちに苦しめられ、虐待された先月は、その責め苦に耐えられず否定的で弱い気持ちになると、いつも兄弟に神の御言葉について交わり、励まし、慰めてもらったため、神の御心がわか理、おかげで強さを得られました。また、彼の決意を見て、ともにあの悪魔と戦って打ち勝つ信仰と強さも与えられました。

しかし、労働収容所ではその戦いを1人で戦わなくてはなりません。「本当にしっかり立てるのだろうか……」考えれば考えるほど、惨めに感じ、否定的な気持ちと孤独、つらさと屈辱が心に根づきました。惨めさで絶望の淵に追い込まれた私は、しきりに神に呼びかけました。

「神様!私の背丈は小さすぎます。こんな途方もない試練にどうして耐えられるでしょうか?この1年もの労働再教育をどう切り抜けるべきなのですか?神様!私を導き、助け、信仰と強さを与えてくださることをお願いします……」私は無言で泣き、涙が顔を流れました。

祈っていると、ヨセフが17歳のときに売られてエジプトへ連れて行かれた経験を突然思い出しました。彼はエジプトで1人ぼっちで、屈辱と苦しみを受けましたが、決して真の神を放棄せず、サタンに屈しませんでした。私はそのとき刑務所で悪魔たちに苦しめられていましたが、それは神のお許しで起こっていたのであり、私が真に神に頼り、サタンに屈することを拒む限り、神は私がサタンを打ち負かして悪魔の巣を出るように導いてくださいます。

そのとき、私は再び神の御言葉を思い出しました。

あなたは、若いからといって、自分を過小評価してはならない。あなたはわたしに自身を捧げるべきである。わたしは人々の外見や年齢は気に掛けない。わたしが心に留めるのは、彼らが心からわたしを愛するかどうか、他のすべてを無視して、わたしの道に従い真理を実践するかどうかである。明日がどうなるか、また将来がどのようになるかを心配するな。あなたが日々わたしに依り頼んで生きる限り、わたしは必ずあなたを導く。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十八章」より)

御言葉は夏の太陽のように私の心を温めてくれました。おかげで私は、神が誰もひいきなさらず、自分がたとえ若くても、神に真実の愛の心を抱き、神の御言葉で生きることができる限り、常に神の導きを受けるということがわかりました。逮捕されてからというもの、神がいつもともにいてくださったおかげで、自分があらゆる困難を乗り越えてしっかり立てたことを思い起こしました。神の臨在と導きがなければ、どうしてあの悪魔たちのひどい暴行と残忍な責め苦に耐えられたでしょうか。私は神に頼ることでこのような大きな困難を乗り越えたのです。では、1年の労働再教育を受けることになったいま、なぜ信仰がないのでしょうか。神だけを頼ればいいのではないでしょうか。神がともにおられ、いつも導きを与えてくださるのに、なぜ孤独や恐れを感じたりするのでしょうか。こうした状況は、私が独り立ちして、いのちの成長を実践する機会だったのです。私はもはや自分を子供と見て、神を仰がずに他の人に頼ってばかりいるわけにはいきません。大人になり、神に頼って自分の道を歩むべきであり、自分は神にもたれつつその道を辿ることがきっとできると信じるべきなのです。神に頼って神を愛する決意をもつ人をサタンは絶対に打ち負かせません。いまこそ、私が大人の勇気をもち、自分の行動を通して神に栄光を得ていただくときなのです。神の御心がわかると、自分を支えてくれる強大な力があるように感じ、獄中生活と向き合う決意を心の奥で抱きました。

労働収容所の看守たちは私が全能神を信じていることを知ると、意図的に私を苦しめるようになりました。私は朝の五時から夜の十一時まで、五十キロを超える重包装袋を三階から一階まで運ぶという重い肉体労働を課せられ、ノルマをこなさないと夜遅くまで残業させられました。それまで肉体労働をしたことがなく、拘置所の食事の量が不十分だったためいつも疲れていました。最初は袋をまったく持ち上げられませんでしたが、その後、神に真剣に頼ることで、徐々に持ち上げられるようになりました。重労働により、毎日言語に絶するほど疲れ果て、足腰が痛みました。看守に指示された他の囚人に暴行され、体中に傷やあざができることも少なくありませんでした。私が水汲みから遅れて戻ってきたため、看守が囚人長に私を痛めつけるように指示するということもありました。そのとき、私の鼓膜は穴が開いて破れ、炎症を起こし、耳がほとんど聞こえなくなりました。このようないじめと虐待に憤然と歯を食いしばって耐えましたが、抵抗するすべがありませんでした。惨めでくやしくても、その気持ちのはけ口がなかったのです。ただ神の御前に出て、祈りの中で神に惨めさを打ち明けることしかできませんでした。あの暗い刑務所で、神に近づき、何事においても神に頼り、神を仰ぐことを学んだのです。神に祈って心の奥底の思いを打ち明けることが、人生で最も喜べたことでした。

悲しみと弱さを感じるたびに一番好んで歌った賛美歌は「私は神を愛すると決心する」でした。

「ああ神よ。私はあなたの義と聖の麗しさを見ました。私は真理を追求することを志します。私は意を決してあなたを愛します。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心に触れますように。私は自分の心の全てをあなたの前に曝け出します。そうして私の全存在があなたの前に捧げられますように。また、あなたが私を思いのままに試すことができますように。今私は自分の将来性を考えることも、死に縛られることもありません。私は、あなたを愛する心で、いのちの道を求めることを望みます。あらゆる物事があなたの掌中にあり、また私の運命もあなたの手の中にあります。それどころか、私の一生はあなたの御手によって支配されています。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたがお許しになるかどうかを問わず、また、サタンがいかにして邪魔しようと、私は意を決してあなたを愛します。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は神を愛すると決心する」より)

繰り返し歌うと感動して涙が溢れ、心に大きな慰めと励ましがもたらされました。全能神が何度も私を助け、支えてくださったため、私は自分に対する神の真の愛を実感することができました。憐れみ深い母親のように、神は私のそばに立ち、いつも私を慰め、支え、信仰と強さを与え、あの忘れられない1年間を切り抜けられるように導いてくださいました。

獄中生活の闇を経験して、私はいのちがはるかに成長し、真理の認識も多く得ました。もはや素朴で無知な子供ではありません。全能神の御言葉により、悪しき警察の度重なる拷問と責め苦に打ち勝つように導かれ、何度も弱さと否定的な気持ちから脱し、奮起し、しっかり立つことができたのです。御言葉のおかげで、いかに神の心を思いやってお慰めするか、いかに神に頼ってしっかり立つか、いかに神の愛に報いるべく証しを立てるかがわかりました。また、サタンと悪魔たちの残虐さと悪意、神の敵としての彼らの悪しき反動的な本質をはっきりと目にし、「人民を愛する人民警察」という誤った通念を識別することができました。以来、サタンの嘘に二度と惑わされたことはありません。あのときの迫害と苦しみは、私を潰すに至らなかったばかりか、信仰の道を歩むための土台となりました。私は全能神に感謝いたします。神の導きでこの困難な岩だらけの道を通り抜け、この若さで残酷な責め苦に耐えることを学べたからです。そのおかげで私は神の全能と主権を目にし、それが神の私への特別な救いだとわかりました。悪魔が支配する悪しき世界では、神だけが人を救うことがおできになり、私たちが神を必要とするときはいつでも、神だけが私たちを支え助けてくださり、神だけが人を本当に愛していらっしゃるのだと、私は深く感じました。あのときの迫害と困難は、私にとっていのちを成長させる貴重な宝となり、私が完全な救いを得る上で非常に有益でした。その間ずっと苦しみはしましたが、その苦しみはとてつもなく尊く有意義だったのです。

神の御言葉にこう述べられているとおりです。

もしあなたが、喜んでこの流れの中に留まり、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせない、この祝福のすべてと、この愛を享受したいなら、従順にこの流れの中に留まり、完全になれるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは裁きのために苦痛と鍛錬を体験しているが、この苦痛は価値があり意味あることなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(4)」より)

山東省王(ワン)涛(タオ)

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