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愚かな者は救われない

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われるが、これを実践することはたやすいことなのだろうか。そうではない。最後まで耐え忍ぶことが出来ない人々もいる。そのような人々は、試練、痛みを伴う事柄、誘惑に遇うと躓いてしまい、それ以上進むことが出来ない。日々の中で遭遇する大小様々な出来事が、人の決意を揺るがし、心を支配し、役割を果たす能力を削ぎ、前進を妨げる要因になる。こういった事柄とは真剣に向き合い、真理は何かを注意深く調べる必要がある。なぜならこれはすべて人の経験の中で起こることだからである。ある人々は消極的になってしまうと止めてしまい、後戻りしたまま立ち直ることが出来ない。この人たちは真理を得ることのないまま生涯を過ごす、愚かで凡庸な人たちである。その様な人たちが最後まで従うことができるだろうか。同じ事柄があなたに十回起きたとして、その十回の中で何も学ばず、何も得なかったのであれば、あなたは凡庸であり無益ということになってしまう。鋭敏で霊的な問題を真に理解する素質を持つ人たちとは真理を求める人々のことである。この様な人は十中八九、経験したことから何らかのひらめき、教訓、啓示や向上を得ることができる。一方、凡庸な人々に同じ事柄が十回起きたとしても、最後まで彼らはそこからいのちに有益なことを得ることは一切なく、自分自身を変えることも、自分の本質を理解することもない。彼らは毎回躓き、毎回誰かに助けてもらう必要があり、誰かに機嫌をとってもらわなくてはならない。そして、誰かが彼らの機嫌をとったり、引き上げたり、叩いたり引きずったりしなければ、そこで試合終了となり、彼らは二度と起き上がることはない。そのことが繰り返される度に、彼らは更に躓き、堕落する可能性があるのである。これが彼らの結末ではないのか。彼らには救いの余地はあるだろうか。人が救われるということは、その人の意志や決意の部分、心の中の真理と義を求める部分が救われるということである。決意を持っているということは、彼らが義、善良性、真理を求めているということで、彼らに良心があるということだ。神があなたのこの部分を救われ、そうすることによって、あなたの堕落した性質を変えてくださるのである。よって、あなたに義、善良性、真理を求める心がないならば、あなたに救いの余地はない。義を求め、真理を喜び、悪を捨て去り、苦難を耐え忍ぶ意志がないのであれば、また、良心も真理を受け止める能力も麻痺していて、真理や起こる事柄に鈍感で、物事を見分けることもできず、自分の力で問題に対応し解決策を見出すことが出来ないのであれば、救われる可能性はない。このような人には他の人たちに推薦できるようなものもなければ、共に働く意味もない。良心は麻痺してしまい、思考力も鈍り、心の奥底で真理を喜び、義を求めることもなく、神がどれだけ明確に真理をそのまま語ってくださっても、死人のように何の反応も示さない。そのような人は、もう全て終わっているのではないか。息がまだある人間は人口呼吸器で息を吹き返すことができるが、もし、既に死んでおり、魂が抜けているのであれば、人口呼吸器では成す術がない。何か問題が起これば、あなたは委縮してしまい、証しにならず、決して救われることはなく、それで完全に終わってしまう。様々な出来事の中で、あなたは物事を選択し、正しくアプローチし、落ち着いて真理によって問題を解決しなければならない。真理に対してあなたの普通の理解が何の役に立つだろう。真理とは、満足のためにあるのでもないし、ただ話題にするために、もしくは他人の問題を解決するためにあるわけでもない。真理は、自分自身の困難を解決するためのものであり、自分自身の問題を解決して初めて、他の人たちの問題を解決することができるのである。ペテロは何故実を結んだ者と言われているのか。それは、彼が彼の中に価値あるもの、完成させる価値のあるものを持っていたからだ。彼には真理を求める決意と固い意志があった。理性があり、苦難をいとわず、心の中に持っていた真理を喜び、何か問題が降りかかっても放棄したりしなかった。これらはすべて強みである。あなたにこれらの強みとなるものが一つもないとすれば、この先問題が予見される残念な事態だ。あなたは、何かを経験するということの意味が分からず、経験もなく、自分の後に続く者達のために問題を解決できない。これは、あなたが霊的に成長する意味が分からず、問題が起こると混乱し、動揺し、涙を流し、消極的になり、逃げ出したりして、どうやっても正しく問題にアプローチできないからである。人々に真理を届けるということは、交わりの中で人々に指針を与えるということであり、あなたにそれを感じ取る潜在的感性が備わっているのであれば、真の分かち合いを経験するであろう。しかし、もしあなたの心が麻痺していて真理を拒否するのであれば、あなたに何を示しても無駄であるし、例えを用いて説明をしたところで理解しないだろう。手取り足取り教えてもらったとしても、一人にされた時点でどうしたら良いかわからないだろう。そのような状態では、何かが起きれば、それが深刻であろうとなかろうと、あなたは消極的になってしまい、弱く、証しするどころではない。心に神も真理も宿していないのであれば、すべき事や協力すべき事を何も成し遂げられない。聖霊の働きが人々を動かすことを考慮しなくても、自分の長年の経験、耳にしてきた多くの真理、少しの良心に頼り、行動を慎む意志により、最低レベルの基準に達することは可能である。今のあなたの麻痺し、弱った状態よりその方がまだ良いだろう。こんな状態は信じられない。あなた方はこの二年間、油断して過ごしてきたのではないだろうか。そうでないなら何故ここまで鈍く、怠惰になってしまったのか。あなたは実際、自分を否定し、「私は駄目だ、堕落している。これが事実なのだ。このままで良いのだ。」と言い、自分の殻に閉じこもり、自分の持てる能力を使わず、「これは私自身の困難だから、このまま家に帰してくれたらどうです。」とさえ言ったのではないか。これはまったく愚かなことではないか。単に自分の果たすべき義務を避け、責任から逃れようとしているだけである。もし、あなたに少しでも良心と理性が残っているのであれば、与えられた任務を果たすべきである。義務から逃れることは悪いことであり、神を裏切る行為なのだ。真理を追い求めるには固い意志が必要であり、後ろ向きや弱腰になっていては、何も果たすことが出来ない。そのような状態では最後まで神を信じることは出来ないし、真理を得ることや性質を変えることなど、なおさら望めない。決意を持って真理を求める者のみが、真理を得て神に完全にしていただくことが出来るのである。

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