24.良いしもべと悪いしもべの違いは何か。

関連する神の言葉

資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より引用

神に仕える人は、神の知己でなければならず、神を喜ばせ、神に最大限忠実でなければならない。内密に行動しようと、公然と行動しようと、神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、いつも歩むべき道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう人だけが神の知己である。神の知己が直接神に仕えることができるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、自分自身の将来の展望など一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得られそうにない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じる。だから、このような人は神の知己なのである。神の知己は、神の心を知る人でもある。神の心を知る人だけが、神の絶え間ない憂慮や神の考えを共有することができる。肉体は痛み弱くとも、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人にさらなる重荷を与え、神がしたいと望むことはこのような人の証しの中に示される。従って、このような人は神を喜ばせ、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人だけが神と共に統治することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなうように仕えるには」より引用

あなたがたは一人ひとりが神に仕える者として、自分自身の利益のみを考えるのではなく、そのあらゆる行いにおいて教会の利益を守ることができなければならない。常に互いを暗に批判しながら、一人だけで行動するということは認められない。そのように行動する人々は、神に仕える者としてふさわしくない!そのような人々はひどい性質を持っており、彼らの中にはわずかな人間性も残っていない。彼らは完全にサタンである!彼らは獣である!現在でさえ、いまだにこのようなことがあなたがたの間で起こっている。しまいにあなたがたは、交わりの最中に互いを攻撃し合い、わざと口実を探しては顔を真っ赤にしてつまらないことで言い争い、どちらも自分が引き下がろうとはせず、それぞれが心の内を隠しつつ、一心に相手を警戒して常に身構えている。そのような性質が、神への奉仕にふさわしいと言えるだろうか。そのような仕事が、兄弟姉妹たちに何かを与えることになるだろうか。あなたは人々を正しいいのちの道に導くことができないばかりでなく、実際自分自身の堕落した性質を兄弟姉妹たちに刷り込んでいるのだ。あなたは他者を傷つけていないか。あなたの良心はひどいもので、芯まで腐っている。あなたは現実に入ることもなければ、真実を実践することもない。さらに、自分の極悪な本性を恥もなく他者にさらけ出している。あなたはとにかく恥というものを知らない。こうした兄弟姉妹たちはあなたに託されたものであるのに、あなたは彼らを地獄へと導いている。あなたは良心の腐りきった者ではなかろうか。完全な恥知らずである!

『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より引用

多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなうように仕えるには」より引用

神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行いたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まして悔い改めないならば、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストおよび反キリストとなる。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。人は古いものに固執することを好む。過去の観念、過去からの物事に固執する。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、それらがあなたの全生涯を圧迫するであろう。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦を背負っても、また神への奉仕において殉教したとしても、神は少しもあなたを褒めることはない。それどころか逆であり、神はあなたを邪悪な行いをする者だと言うであろう。

『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」より引用

神の働きの目的を理解していない人は誰であれ、神に反対しているのであり、神の働きの目的を理解するようになっても神を満足させようとはしない人は、なおさら神の反対者とみなされる。荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より引用

説教と交わりの参考箇所

教会の全階級の指導者と同労者は三つの種類に分類することができます。それらを忠実なしもべ、不誠実なしもべ、悪しきしもべと表現する方が適切です。第一の種類は真に神様の働きに服従ことができ、本分を尽くしつつ全力で神様の働きを守り、すべてを捨てて神様のために自分を費やし、神様を高く掲げてその証しをすることができます。この種類の人だけが本当に真理を追い求め、完全にされることを求めており、神様の忠実なしもべに分類されます。第二の種類には真理の現実がまったくなく、本分を尽くしながら神様の働きを守ることができず、働きの采配にしたがって物事を扱わず、自分のしたいことをし、軽率に振る舞い、肉の好みにしたがって行動し、自分の感情を基に人を扱い、真理の原則を守らず、真理を実践するのに難儀し、しばしば神様と取引しようと試みます。彼らは反キリストの道を歩んでおり、不誠実なしもべに分類されます。第三の種類は傲慢でうぬぼれが強く、地位を追い求め、野心があります。彼らは神様の選民を操ることや、他人の上に君臨することを常に望み、自分と意見が合わない人を抑圧し、差別します。彼らは神様の選民を抑えつけ、縛り、罠にかけるとともに、自分の力を使って神様の選民を操り、自身の独立王国を築こうとします。彼らは偽指導者や反キリストと同類の邪な人、つまり悪しきしもべに分類されます……

……よき人間性があり、真理を愛する人の中で聖霊は働きを行ないます。よき人間性や真理への愛のない人には聖霊の働きがありません。不誠実で、邪悪で、狡猾な人間性の持ち主は悪人であり、当然ながら悪しきしもべに分類されます。悪しきしもべは神様の敵であり、神様の呪詛と懲罰の対象です。これら三種類の指導者および同労者を忠実なしもべ(非信者の言う忠臣のようなもの)、不誠実なしもべ(非信者の言う奸臣のようなもの)、悪しきしもべ(非信者の言う国を裏切り敵国に身を投じる人間のくずのようなもの)と分類するのは極めて適切であり、ふさわしいことです。忠実なしもべに分類される人は正直であり、良心と理知を有するとともに、本分を尽くしながら万事において神様の働きを維持します。彼らは神様に従順かつ忠実です。このような指導者や同労者はみな神様による救いと完全の対象です。不誠実なしもべに分類される人は真理を愛さず、進んで真理を追い求めず、神様への真の服従を示しません。彼らは本分を尽くす際に自分の好きなことをします。自分の感情を基に他人を扱い、公平でも理性的でもありません。神様への奉仕においては神様に抵抗し、肉にしたがい、原則なしに物事を行ない、神様と取引しようとすらします。時に真理と神様を裏切り、その上神様の家の利益に反して働き、神様の働きをみじんも守らないことすらあります。このような人は、非信者が言うところの奸臣に似た不誠実なしもべに分類されます……もちろん、すべての不誠実なしもべは偽指導者、あるいは偽同労者に分類されます。しかし、偽指導者や偽同労者の中にはよき人間性を有し、完全に悔い改めて変わることができる人もいます。そのような人は愛情をもって扱われ、訓練する機会をもう一度与えられなければなりません。しかし悪しきしもべはみな、悪魔的な本性を有する偽指導者、反キリストです。当然ながら、悪しきしもべはみな悪人に分類されます。彼らは悪魔の本性と本質を有していますが、これらの悪人がありとあらゆる悪事を行ない、神の選民を残酷に抑圧し、迫害できるのはそれが理由です。彼らは意識がまったくないかのように、神様の働きを混乱させて妨害し、万事において神様に反抗すべく何でもします。彼らの心は頑固で頑なです。これは神様の敵ではないですか。悪しきしもべは救いようがありません。ゆえに、神様の家は悪魔的な本性を持つ偽指導者や反キリストを一掃しなければなりません。そこに和解の余地はまったくありません。

『全能神教会における働きの手引き選集』より引用

奉仕する人が本当に有能なら、その下にいる人は彼と協調して動き、活力に満ちた緊張と調和の全体的な雰囲気が生まれ、教会生活は日を追うごとに活発になります。消極的になることも後退することもありません。義があふれるように広まり教会員はみな心を一つにし、団結して努力するようになります。そして誰もが神様の証しをして神様を高く掲げることができます。これが最良の成果です。教会に生気がないままで大半の人が消極的なら、それはあなたの導きに道がないことを証明しています。教会生活は馬車のようなものであり、指導者はそれを牽く馬に似ています。馬がちゃんと目的を果たせば、馬車は前へと牽引されます。歩くべきときには歩き、駆けるべきときには駆け、それを引き留められるものは何もありません。神様に仕える資格が十分にあるならば、どこへ行こうとすべての困難を解決できます。人々の抱えている問題が何であれ、彼らと語ることで問題を切り抜け、道を指し示すことができるのです。それは人々にとって肩の重荷を下ろしてもらったかのような大きな喜びです。状況がどれほど困難な場所であろうと、真に神様に仕える人がそこに数日間とどまり、人々を集めて幾度か集会を行なえば、彼らの心は明るくなります。いったん真理を理解すれば人々は活力に満ち、消極性は完全に解決されます。肉体的な争いは鎮まり、教会生活は正しい軌道に乗ります。真に神様に仕える人は他の人々の欠陥を見通すことができ、人がそれぞれどのような支えを必要としているか、どこから始めるべきか、いかにして問題を完全に解決すべきかを知っています。新しい信者であろうと以前からの信者であろうと、老人であろうと若者であろうと、指導者であろうと追随者であろうと、あらゆる人に十分な支えを供給することができます。彼らの問題は残らず解決され、その人はあらゆる人と話し合うことができます。真に神様に仕えることができる人にとって、真理についての交わりに規則はありません。決まったやり方で交わるのではなく、あらゆる面、あらゆる角度から語ります。また様々な話の中で物事を説明したり、あらゆる事実をまとめたりすることができます。そしてあらゆる階層の人が理解して、その利益を享受します。真に神様に仕える人のそばにいることを誰もが好み、進んで心を開いて神様に仕える人と語り合い、その人を尊敬し、進んで友人になって心からの交流をします。誰もが怖がり、あなたから姿を隠しているのであれば、あなたは問題を抱えています。行く手を横切る黒猫は不吉な予兆です。心が神様の御心に沿っている人はいつも教会にいて、働きの対象のそばを行き来して、人々に寄り添って生活し、共に食べ、夜を徹して人々に語りかけます。人に働きを託すときは何度も何度も励まし、物事を適切に取り扱わないことを心配し、誰かを冷たくあしらうことはありません。働きの場を離れることは本分の放棄であることを知っています。働きを行なっている相手のもとから去る人は単なるたかり屋です。草の根の指導者や、あなたに協力してくれる同労者に接触することなく実際的な困難を残らず解決できますか。一般大衆の教会生活を深く経験せずに、それができますか。心からの交わりなしに何かを成し遂げることができますか。声が枯れてしまう前に自分の働きから立ち去ることができますか。心に火がなくても、それでも重荷を背負うのですか。体重が減っていないなら、本当に一生懸命働いているのですか。食事や衣服に気を取られている人は自分の働きの成果を本当に気にしていますか。そのような人が神様の御心を心に深く刻むことができますか。自分の心にかなう少数の人とだけ接触し、そうでない人を避けるならば、本当に良い働きを行なうことができますか。そのような人たちは気楽で快適な楽しい生活を求める寄生虫ではないのですか。

真に神様に仕えることができる人は、自分に何が欠けているかを知っており、真理を伝えて他の人々に支えを供給するあいだも、常に自己を向上させ自分に足りないものを補うことができます。さらに、その人は自ら真理に入ることと、自分自身をより深く知ることに集中します。また傲慢になったり独善的になったりすることや、自分自身を誇示することを避けられるだけでなく、進んで自らをさらけ出し、自分の弱さと欠点を他人に見えるようにします。それゆえその人の交わりは誠実にして本物であり、偽りの見せかけがまったくありません。人々はそのような人を信頼し、尊敬するだけでなく、その人が伝える真理に従うことができます。真に神様に仕える人は聖霊の働きを認識しており、自分の経験から生じるものと聖霊の啓きから生じるものを知っています。そのような人は神様を畏れる心を持ち、傲慢でもなければ自分のことを鼻にかけてもいません。自分に聖霊の働きがあるからといって人々を見下すことがないどころか、なおさら人々のことを気にかけ、思いやり、助けることができます。人々が幸せになれるようにむしろ苦しみを受けます。人々が苦しんでいる困難を理解し、真理を持たない人が闇に落ちることがどれほど苦痛に満ちたことであるかも深く理解しています。さらに、真に神様に仕える人は聖霊に啓かれることの喜びを知っており、そうした啓きとそれがもたらす喜びを進んで他の人々と分かち合おうとします。その人は聖霊の働きが自分にあることを、楽しみのための資本とみなすことはありません。聖霊の働きを享受しつつ神様の御心を配慮するのです。神様に満足していただくために進んで人々の困難や苦痛を解決し、聖霊の働きから自らが得る喜びを人々に伝えようとします。積極的に聖霊の働きと協力し、神様の御心にあらゆる配慮を示し、神様に満足していただくために自分の喜びを捨てることができます。地位がもたらす祝福を拒み、特別扱いを求めず、敬虔にうやうやしく神様に仕え、自分の本分を忠実に尽くします。このように神様に仕える人だけが、神様の御心に沿って行動しているのです。

神様の御心に沿って仕えるには、まずいのちの性質の変化を経なければなりません。変化を遂げたあと、正式に仕え始めることができます。数年の経験が必要であり、真理がなければ良い結果は何一つ達成できません。しかし仕えることの真の意味を本当に理解すれば、どのようにして自分の本分を立派に尽くすべきかがわかるようになります。本分を尽くすことは、神様の働きから自らが得た真理と道といのちを他の人々に供給することであり、自分の経験、神様についての認識、聖霊によって啓かれた光を教会に供給することだと深く理解しています。そのため、他の人たちもみなそれを分かち合い、いのちの性質の変化を成し遂げ、神様を知り、神様に従い、神様に忠実になり、神様に得られることができます。それは自分がいかに賢いかを示すために真理の知識を備えたり、字義や教義を教えたりすることではありません。本分を尽くすことは、神様の愛をもって人々を思いやり、手を差し伸べ、配慮し、面倒を見ることであり、自分よりも他人を思いやること、いつも他の人々について考えること、何をするにも教会を念頭に置くこと、大半の人がいのちを得て救われるように苦しむことを選ぶこと、人々が真理を理解し、自分自身を神様のために費やして神様の御心にかなうことができるよう、あらゆる代償を払うことです。それは地位ゆえに自分を誇ることでも、兄弟姉妹がどれほど苦しんでいるかを無視して肉の喜びに執着することでもなければ、兄弟姉妹の益をないがしろにしながら、飲み食いしたり快楽を求めたりする自分の欲望を単に満足させることでもありません。自分の好みや感情に従って働く人すらいます。誰かがそのような人を暖かく迎え入れても、相手が気に入れば説教をしますが、そうでなければ断ります。最も卑劣なのは働き、見返りを求める人です。本分を尽くすというのは神様の御心を自分自身のものとして受け止めること、神様が急を要するものとして扱われているものをそのように扱うこと、神様がお考えのことを考えること、神様のご懸念について心を砕くこと、いかなるときでも神様の家の益を第一に考えることです。それは寝食を忘れるほど一生懸命働くことであり、血のにじむような努力をすることであり、また神様から託された働きを主人の責任感を持って行なうことです。それは小さな働きへの報いを期待することでも、わずかな苦しみのあとの喜びを期待することでも、何らかの成果を挙げたあとでうぬぼれや慢心を膨らませることでも、地位を享受して暴君のように振る舞うことでもありません。本分を尽くすことにおいて忠実な人は神様の采配に従い、忠実かつ献身的で、神様のしもべとして文句を言わず無私無欲で働き、神様の愛をお返しして自分のいのちをもって神様に報いることしか望みません。自分のことを何の誉れもなく、ましてや神様のお恵みにあずかる価値もない一粒の塵に過ぎないと見なし、神様の采配にひたすら服従して不満を漏らしません。また自分のいのちを大事にしたり、祝福を得るつもりでいたり、人の上に立って優越感に浸りたいと切望したりするような卑劣で恥知らずな偽善者ではありません。本分を尽くすというのは神様の御心と重荷を思いやり、兄弟姉妹を自分の父母と見なし、進んでみんなのしもべとなり、兄弟姉妹のいのちを心に抱き、責任を負う勇気をもち、誰にも負担をかけず、自分が得たものを人も得られるようにし、良心をもって神様に仕え、万人の監督を堂々と受け入れることです。耳に心地よいことを言いながら、実際の働きを一切しない人がいます。そうした人は兄弟姉妹のもてなしを享受しますが、それでも彼らを押さえつけ、自分のためにあれこれするよう、また全力を尽くして自分の面倒を見るように求めます。そして事あるごとに兄弟姉妹を訓戒したり、取り扱ったり、自分が病気のときに看病に来て、必要なときは自分に同行するよう求めたりします。人々を自分のしもべにするこうした人は、決して神様に仕えているのではありません。むしろ自分を高く掲げ、自分の証しをし、自分を持ち上げ、人に自分を神として扱わせています。そのような人は評判を落とすことや、人が自分によって説得されないことをとても恐れます。そのような人は、人々が自分に従い自分を崇めるようにするためならば精力的に努力し、苦痛も厭いません。そして神の座について一日中人々に説教するのです。そのような人はみなを見下し、自分にできるあらゆることをして影響範囲を広げ、人が自分を中心に置いて自分の言葉に注意を払い、自分の采配に従い、神様を脇にのけて代わりに自分を崇拝するように、自分の仕事を運営します。そのような人が数年間働いても、その人に率いられる人々は神様についての認識を得ることは一切ありません。それどころか、人々はその指導者だけを恐れ、その人だけに従います。その人自身が神となったのです。そうすることで、その人は人々を自分の前に導いているのではありませんか。このような人は強盗、家族の中にいる盗人であり、反キリストです。

兄弟の交わりより引用

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1. 聖書は律法の時代そして恵みの時代という、神の働きの二段階の記録にすぎず、神の働き全体の記録ではない

聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。

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