外面的な変化と性情の変化の相違

あなたがたは、性情の変化について何を知っているであろうか。性情の変化の本質と態度の変化の本質は異なり、さらに行動の変化もそれらとは異なる。これらの変化は、それぞれ本質が異なる。殆どの者が、特に神への信仰における態度に重点を置き、その結果そうした者の態度に多くの変化が起こる。神を信じるようになった後、そうした者は他者と対立しなくなり、争わなくなり、他者を侮辱しなくなり、喫煙や飲酒を止め、釘1本であれ、1本の樹木であれ、公共の器物を盗まなくなる。またそれにもまして、自分達が損害を被ったり不当な扱いを受けたりしても、訴訟を起こさなくなる。そうした者の態度には何らかの変化が起こることは確実である。それは、神を信じるようになった後、真実の道を受け容れることによりそうした者は特に良い気分になり、また聖霊の御業の恵みを味わったため、そうした者は特に熱意が高まり、そうした者に出来ないことや捨て去れない物事は無いからである。しかし、3年、5年、10年、30年と信じた後、最終的には、そうした者のいのちの性情に変化が無く、従前の状態に戻り、傲慢さや高慢さが高まって、権力や利益のために争うようになり、教会の金銭をむさぼり、自分の利益に資するあらゆることをして、地位や快楽を切望し、神の家のパリサイ人のような存在となる。特に、殆ど指導者が放埒となる。これらの事実により、何が証明されるであろうか。態度のみの変化は継続不可能である。人間のいのちの性情に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるであろう。そうした者の態度の変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の御業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易である。信者以外の者が「善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである」と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ない。人間の態度はいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の態度となり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表す。虚偽の物事は続かない。神が人間を救うために御業を行われる時、それは人間に善行をさせて引き立てるのではない。神の御業は、人間の性情を変化させ、新しい人間として生まれ変わらせるためのものである。したがって、神の人間に対する裁き、罰、試練、精錬は、その者が神に対する完全な服従と忠誠、そして神に対する正常な信仰を実現するため、全てその者の性情を変化させるためのものである。これが神の御業のねらいである。良い態度を取ることは、神に服従することとは異なり、ましてやキリストの味方をすることに等しいということは無い。態度の変化は教義に基づき、情熱に由来する。それは神に関する真の知識に基づくものではなく、ましては聖霊の導きに基づくものではない。人間の行動には聖霊に導かれているものもあるが、それはいのちの表出ではなく、いわんや神を知ることではない。ある者の態度がいかに良好であるかを問わず、それはその者が神に服従していることを証明するものでも、真理を実践していることを証明するものでも無い。態度の変化は一時的な幻影であり、熱意の表出であり、いのちの表出ではない。ゆえに、熱意の中にある時に、神の家のために物事を行い、物事を捨て去ることが出来る者を見たとしても、その者を賞讃してはならない。あなたがたが唯一出来ることは、そうした者を真理の方向すなわちいのちの道へと導くことである。そうした者の熱意を無下にしてはならない。熱意ある人々は、往々にして大いに意欲的で志があり、殆どの者が真実の道を求めており、神が予定し、神により選ばれた人々である。極めて熱意的な人々は神を真剣に信じる者であるが、ある者が新たな信者であっても熱意が無い場合、それは問題となる。正しい道へと比較的容易に導かれるのは熱意のある者である。人間は良い態度を取ることができるが、それは必ずしもその者に真理があるということでは無い。人々の熱意は、そうした人々自身に教義を尊重し、規則に従わせることが出来るのみである。真理の無い人々は実質的な問題を解決することが一切出来ず、教義は真理の代わりにすることは不可能である。自分の性情が変化した者は、これと異なる。そうした者の内には真理があり、あらゆる問題について判断力があり、神の御旨や真理の原則に従って、神にご満足いただけるように行動する方法を知っており、自分が示す腐敗した本性を理解している。自分自身の考えや観念が表された時、そうした者は判断力を発揮し、肉を捨て去ることが出来る。性情の変化は、このようにして表出される。性情の変化の主要事項は、人間に真理と明瞭さの両方があり、物事を実施する際に、相対的な正確さで真理を実践し、その者の腐敗が表出される頻度が低下することである。一般に、性情が変化した者は大いに合理的であり、分別があり、また真理の理解の結果として自分に対して義があり、傲慢さが表出される量が減少する。こうした者は万事明瞭に理解しており、そうした明瞭さを得た後は傲慢でなくなる。こうした者は、人間の立場とは何か、合理的に行動する方法、従順になる方法、言うべき事と言ってはならない事、人々に対して何を言い、何をすべきかに関して慎重に理解することが可能である。こうした人々が比較的合理的であると言われるのは、このためである。自らの性情を変化させた人々は、真の人間像を行動で示し、また真理を備え、他人の影響を受けない。性情に変化があった者は比較的落ち着いており、むら気がなく、自分が置かれた状況を問わず、自分の本分を適切に尽くす方法と、神にご満足いただくよう行動する方法をわきまえている。性情が変化した者は表面的に体裁を取り繕うにはどうすればよいか、といったことに重点を置かず、神にご満足いただくにはどうすればよいかについて、内面的な明瞭さがある。したがって、こうした者は外面的にはそれほど熱意があるようには見えず、また何か偉大なことをしたようにも見えない。しかし、こうした者の行動はすべて有意義であり、貴重であり、実践的な成果がある。性情が変化した者は多くの真理を備えていることを確信しており、それはそうした者のものの見方や行動原理により確認できる。真理の無い者は、絶対的に性情が変化していない。これは、自分の人間性を行使した経験が豊富な者には、必ず性情の変化があると言っているのではない。性情の変化は、その者の神に関する知識と真理の理解が原因となって、人間の本性にある悪魔のような毒の一部が変化した時に、最も起こりやすい。つまり、これらの毒が浄化され、神により表された真理がその者の中に根付き、その者のいのちとなり、存在の基礎となる。この者は、そうしてはじめて新たな人間となり、ゆえにその者の性情が変化する。これは、その者の外面的な性情が従前よりも柔和であるということでも、従前は傲慢だったが現在その者の言葉は合理的であるということでも、従前は一切聞く耳を持たなかったが現在は他人の言うことが聞けるということでも無い。そうした外面的変化は性情の変化であるとは言えない。無論、性情の変化にはそうした状況が含まれるが、最も重要なのは、そうした者の内面的ないのちが変化したことである。神により表された真理がまさにその者のいのちとなり、内面の悪魔のような毒が排除され、その者の観点が完全に変わり、その者の観点には世間の観点と同じものが一切無い。その者は赤い大きな竜の謀略と毒を明瞭に理解し、いのちの真髄を把握している。ゆえにその者の人生の価値が変化する。これが最も根本的な変化であり、性情の変化の本質である。それ以前において、人間は何に基づいて生きていただろうか。人間は全員、自分のために生きる。人間は自分自身のことしか考えず、落伍者を気にかけることは無い、というのが、およそ人間の本性である。神への信仰も自分自身のためであり、それにも増して祝福を得ることも自分自身のためである。神のために物事を捨て去り、自らを費やし、神に忠誠を尽くすといった事は、全て自分自身のためである。要するに、全ては自分自身のために祝福を得ることが目的である。世の中では、全てが個人的利益を目的としている。神を信じることは祝福を得るためであり、全てを捨て去るのも祝福を得るためであり、祝福を得るためであれば、人間は多くの苦難に耐えることができる。これらは全て、人間の腐敗した本性の実例的証拠である。しかし、性情の変化は、これと異なる。有意義に生きるにはどうすべきか、人間と呼ばれるに相応しい者の本分を尽くすにはどうすべきか、どのように神を崇拝すべきか、神に従い、神にご満足いただくにはどうすべきか、といったことが人間としての基礎であり、変えることの出来ない天と地の原則に従う自分の義務であると、その者は考えている。そうでなければ、その者は人間と呼ばれる価値が無く、無意味であり、その者は完全に空虚となるであろう。人間が死ぬ時ですら一抹の後悔が無く、無為に生きることが無いよう、人間は神にご満足いただくため、本分を十分に尽くすため、有意義な人生を送るために生きるべきである。こうした2つの状況を比較することにより、性情の変化があったのは後者であり、その者のいのちの性情が変化したので、人生の見通しが変化したことも確実である。その者は異なる価値観を得て、自分自身のためだけに生きることは二度と無く、その者の神に対する信仰は、自分が祝福を受けることを目的とすることは二度と無いであろう。その者は「神を知ったが、私にとって死とは何であろうか。神を知ることで、有意義な人生を送ることが出来るようになった。私は無為に生きず、後悔しながら死ぬことは無いだろう。私には不満が一切無い。」と言うことができるだろう。これは人生に対する見通しの変化ではなかろうか。したがって、ある者のいのちの性情が変化することの主な原因は、内面に真理を備え、神に関する知識を備えることである。その者の人生の見通しが変化し、価値観は従前と異なる。この変化は内面といのちから始まる。それが外面的変化でないことは確実である。新たな信者には、神を信じるようになった後に、俗世を捨てた者も居る。そうした者が信者以外の者と会うと、そうした者は何も言うことが無く、その者が親戚や友人と会うことも滅多に無く、信者以外の者は「この人は本当に変わった」と言う。それで、その信者は「自分の性情が本当に変わったのだ。信者以外の者が私は変わったと言っている」と考える。実際には、その信者の性情は変わったであろうか、というとそれは違う。それは外面的変化にすぎない。その信者のいのちは何ら変わっておらず、その信者の従前の性情は、そのままその信者に根付いている。人間は、聖霊の御業が原因で熱意に駆られ、ある程度の外面的変化が発生し、多少の良い行いをすることがある。しかし、これは性情の変化に相当するものではない。あなたがたには真理が無く、あなたがたの物の見方は変化しておらず、それは信者以外の物の見方とさえ変わらず、あなたがたの価値観と人生の見通しも変わっていない。あなたがたには、神を畏れる心すら無いが、それは最低限度として身に付けるべき事である。それは明らかに自分の性情の変化では無い。性情の変化を実現する上で最も重要なのは神に関する知識を追求し、神に関する真の知識を身に付けることである。ペトロの事を検討すると、神がペトロをサタンに引き渡す必要があった時、ペトロは「私をサタンに引き渡してください。あなたは神であられ、全能であられます。すべてはあなたの掌中にあります。どうしてあなたの御業を讃美せずに居られましょうか。しかし、私が死ぬ前にあなたを知ることが出来れば、さらに素晴らしいことでしょう。」という旨を述べた。ペトロは、人生において神を知ることが最も重要であり、神を知った後は、どのような死でもよい、神が死をどのように扱われてもよい、と感じた。ペトロは、神を知る事が最重要事項であり、自分が真理を得られないのであれば、決して満足しないが、しかし神に不満を述べることも無い、と感じた。こうしたペトロの霊、こうした神の知識の追求に対する願望により、ペトロの人生における見通しは確実に変化した。この発言から私達が理解できることは、ペトロの性情が変化したこと、ペトロは自分の性情が変化した者であったこと、そしてこの体験後に、ペトロは神を最もよく知る者であり、神を真に愛する者であったと神が述べられたことである。

ある者に真理が無い場合、その者の性情は決して変化することが無い。その者が教会の指導者であったとしても、その者は指導者としての実際の業を行えず、名ばかりの指導者となり、事務作業をするだけであろう。教会に水遣りをして真理といのちを与えることが実際に出来る者のみが、真理を身に付けた者である。現在、あなたがたは訓練期間中であり、入門期にある。自分が本当に真理の現実に対する真摯な取り組みを始める時が来た後になってはじめて、他の者を指導することが出来るであろう。真理を身に付け、いのちの性情が変化した者のみが、その名に恥じぬ指導者である。