終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

V 神の働きの各段階と神の名の関係についての代表的な言葉

それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と働きは時代とともに変わり、それらは全て新しい。律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によって成された。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、イスラエルの人たちを導き、彼らの間で働くために律法を用いることだった。イエスラエルの人々を導くことによって、神は地上で神の働きの基礎を築いた。この基礎から、神は自身の働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、神はイスラエルから始まった自身の働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地と全ての物を創造し、全ての被造物を造ったことを知るようになった。神はイエスラエルの人々を通して自身の働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上において神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きだった。…恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、憐れみ深く、いつくしみ深い神という意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人が神の名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、おびただしい数の非常に大きな恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架を通して、イエスにつき従う全ての人たちは救いを受け入れ、罪が赦された。恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きは主にイエスの名の下で成された。恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きをし、イエスの働きは十字架で終わり、それがイエスの働きの全てだった。よって、律法の時代では、ヤーウェが神の名であり、恵みの時代では、イエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なる者で、その力で人を導き、人を征服し、人を神のものとし、最終的には時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

イエスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスが公生涯を始めた時、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。そしてその代わり、聖霊が主にイエスの名のもとに新しい働きを始めた。イエスを信じる人たちの証はイエス・キリストのためにあり、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、基本的にヤーウェの名の下で行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊が基本的にイエスの名の下で働きを開始することになった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はエマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

イエスが行った働きはイエスの名を現わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによって成された働きはヤーウェを現わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なった時代の一つの霊の働きであった。イエスが行った働きは恵みの時代を代表することができるだけで、ヤーウェが成した働きは旧約聖書の律法の時代を代表することができるだけだった。ヤーウェはイスラエルとエジプトの民とイスラエル以外の全ての国々を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代のイエスの働きは、神がその時代を指導したように、イエスの名による神の働きであった。…それらは二つの違った名前で呼ばれたけれども、両者の段階の働きは一つの霊によってなされ、第二の働きは第一の働きの続きであった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違った。ヤーウェが来た時は、それはヤーウェの時代で、イエスが来た時は、それはイエスの時代だった。それだから、神がやって来る時はいつも、神は一つの名で呼ばれる。神は一つの時代を代表し、新しい道を開き、それぞれの新しい道を歩き、神は新しい名前を持ち、そしてそれは、神は常に新しく、決して古くはないということと、神の働きは常に前進していることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。神の六千年経営計画が終わりに達するためには、前進し続けなければならない。毎日、神は新しい働きをしなければならない。毎年、神は新しい働きをしなければならない。神は新しい道を開き、新しい時代を始め、新しく偉大な働きを始め、そして新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

神の名は変わらないという人たちがいる。ではなぜヤーウェという名前がイエスになったのか。メシアの到来についての預言はあるが、なぜイエスという名の人が来たのか。なぜ神の名は変ったのか。そのような働きはずっと以前に実行されなかったか。神は今日新しい働きをすることはできないのか。昨日の働きは変えることができ、イエスの働きはヤーウェの働きから続いて起こることができる。ではイエスの働きを別の働きが継承することはできないのか。ヤーウェの名前をイエスに変えることができるなら、イエスの名前も変えることはできないのか。これは異常なことではなく、人々がそう考えるのはひとえに彼らが愚かだからである。神はつねに神であり、神の働きや名前が変化しようとも、その性質や知恵は永遠に変わらない。神はイエスという名前でしか呼ぶことはできないと信じているならば、あなたはあまりに無知である。イエスは永遠に神の名前であり、神は永遠に、そしてつねにイエスという名前で知られており、これは決して変わることはないとあえて断言できるだろうか。律法の時代を終わらせたのはイエスの名前であり、最後の時代を終わらせるのもそうであると確信をもって断言できるだろうか。イエスの恵みが最後の時代を終わらせることができると誰が言えるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか」より

それぞれの時代で、神は新しい働きをし、新しい名前で呼ばれる。神はどのように異なった時代に同じ働きをすることができるのか。神は古い物にしがみついていられるだろうか。イエスの名は贖いの働きのために使われ、終わりの日にイエスが再臨する時依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスは依然として贖いの働きをするのだろうか。なぜヤーウェとイエスは一つであるのに、二人は違った時代には異なった名前で呼ばれるのか。それはその時代の彼らの働きが違っているからではないだろうか。一つの名前で神全体を現わすことはできるだろうか。この様に、神は違った時代には異なった名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神自身を完全に現わすことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を現わすだけで、神の働きを現わすためだけに必要である。よって、神は全時代を表すために、どんな名前であれ、神の性質にピッタリの名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代、あるいはイエスの時代のどちらであっても、それぞれの時代は名前によって表されている。恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはもうすでに到来していた。それなのになぜイエスはまだイエスと呼ばれることができるのだろうか。イエスは人々の中で同じ形を取ることなどできるだろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことをあなたは忘れたのだろうか。イエスは人類の贖い主であっただけだということをあなたは忘れたのだろうか。イエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを受け継ぐことなどできるのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。もしあなたが神の働きは常に同じだというなら、神は自身の六千年経営計画を終えることはできるだろうか。あなたは、神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くはないことをあなたは知っているだろうか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を今日にもたらすことができただろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜだろうか。神の働きは常に前進している。だから神の性質が人間に次第に現わされている。そして現わされているのは神の本来の性質である。初めに、神の性質は人には隠されていて、神は決して自身の性質を人に公に現わしたことはなく、人は神について認識がなかった。だから神は自身の性質を徐々に人に現わすために、自身の働きを用いた。しかし、これは神の性質がそれぞれの時代に変化するという意味ではない。神の心が常に変わるので、神の性質が絶えず変わるということではない。むしろ、神の働きが異なった時代で実行されるため、神の本来の性質の全てが徐々に人に現わされ、人は神を知ることができるのである。しかし、これは神がもともと特定の性質は持っておらず、時代と共に変わっていったという証明などではない――そのような考え方は馬鹿げている。神は時代の移り変わりに応じて、人に自身の本来の、特定の性質、そして神であるものを現わしている。一つの時代の働きで神の全体の性質を表現することはできない。そして「神は常に新しく決して古いままではない」という言葉は神の働きに関してであり、「神は不変なり」という言葉は神が本来持っているもの、そして神の存在に関してである。とにかく、あなたは六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するような単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはおられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても自身の働きをするし、それは神の働きがいかに前進しているかという象徴である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威光は決して変わることはない。神の本質、神が持っているものと神であるものは決して変わることはない。神の働きは常に前進しており、常に深くなる。神は常に新しく決して古いままではいられないからだ。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きをし、全ての時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見させる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないなら、彼らは永遠に神を十字架に釘付けにするのではないだろうか。そうすることで神を定義しないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはする働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、神は一つ、二つ、あるいは多くの名前を持っただけだった。どんな名で呼ばれるにしても、神自身によって自由に選ばれないだろうか。神は呼び名を決めるのにあなた被造物を必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は人が理解できる、人の言葉によるものであるが、この名前は人によって要約されることはない。あなたはただ天には神がおり、神と呼ばれ、偉大な力を持った神自身であり、あまりにも知恵があり、あまりにも崇められ、あまりにも素晴らしく、あまりにも神秘的で、あまりにも権威があり、そしてあなたはそれ以上何も言うことはない。それが、あなたが知っていることの全てである。このように、イエスの名だけで神自身を現わすことはできるだろうか。終わりの日が来ると、神の働きは依然として自身によって成されるが、時代が異なるので、神の名は変えられなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

全能神、すなわちその国の王は証しされており、神の統御の範囲は全宇宙にくまなく広がっている。神の現れが中国で証しされているだけでなく、全能神の名もまた各国、そして各地で証しされている。皆がその聖なる名を呼び、あらゆる手を尽くして神との交わりを求め、全能神の旨を把握し、教会にて協調して仕えている。聖霊は、このように奇しく業を行う。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私は完全に真なる神自身であることを、この世の者すべてに知らしめよ。あらゆる者が真剣に確信し、再び敢えて私に反抗したり、私を非難したり中傷したりする者は居ない。さもなければ、そうした者は直ちに呪われ、そうした者には呪いが降りかかるであろう。そうした者は、すすり泣いて歯ぎしりするばかりであり、自ら滅びゆくであろう。

ありとあらゆる者が知るように、宇宙の果てまで全員に知らしめよ。全能神が唯一の真の神であり、あらゆる者が跪いて全能神を礼拝し、言葉を話し始めたばかりの子供でさえも「全能神」と呼ぶであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

三位一体は存在するのか

イエスの受肉という真実が明るみにでて初めて人は、天の父がいるだけではなく、子とさらには霊がいるということに気づいた。これが、天には父と子と聖霊のすべてを一つにした三位一体の神がいるという、人の抱いている従来の観念である。すべての人間が次のような観念を持っている。神は一人だが、三つの部分からなっている。従来の考えに深くはまり込んだ人々は、それが父、子、聖霊と考える。それら三つの部分を一つにしたものだけが神のすべてなのである。聖なる父がいなければ、神は完全ではない。同様に、子、または聖霊がいなければ、やはり神は完全ではない。人々の観念においては、父だけでも、子だけでも神と見なすことはできないと考えられている。父と子と聖霊が合わさって初めて神そのものと見なすことができる。今、すべての宗教信者は、あなたたちの中のありとあらゆる信奉者も含めて、この信念を抱いている。だが、この信念が正しいかどうかに関しては、誰も説明できない。なぜならあなたたちは神そのものに関する事柄についてはいつも意識が曖昧だからである。これらは観念であるが、あなたたちはそれが正しいか、間違っているかわからない。それはあなたたちが宗教的観念にあまりにも強い影響を受けてしまっているからである。あなたたちはこれらの従来からの宗教的観念をあまりにも深く受け入れており、この毒はあなたたちの内部にあまりにも深く浸透している。従って、この件に関してもあなたたちはこの有害な影響に屈している。なぜなら、三位一体は絶対に存在しないからである。すなわち、父と子と聖霊の三位一体など絶対に存在しない。これらはすべて人の従来からの見解、人の誤った信念である。人は何世紀にもわたりずっと、その心の中の観念が生み出し、人によってねつ造され、人がこれまで見たことのない三位一体の存在を信じてきた。長年にわたり、たくさんの霊的偉人たちが三位一体の「真の意味」を説明してきたが、三位一体は三つのはっきり区別できる同本質の位格であるというような説明は曖昧模糊としたもので、誰もが神の「構成」のせいで混乱している。これまで完全な説明ができた偉人は一人もいない。ほとんどの説明は論法の見地からすれば、また理論上では合格レベルに達しているが、その意味を十分明確に理解している人は一人としていない。これは、人が心の中で抱いている偉大な三位一体など存在しないからである。誰も神の本当の風貌を見たことがないし、幸運にも天に昇って神のすみかを訪問し、神がいる場所にどのようなものがあるのか調べたり、「神の家」には何万世代、あるいは何億万世代あるのかを正確に決めたり、あるいは神の本来の構成はいくつの部分から成り立つのかを調査したりした人はいないからである。主に調べる必要があるのは、父と子、ならびに聖霊の年齢、各位格の外見、正確にどういうわけで分かれたのか、どういうわけで一つになるのか、である。残念ながら、これまでの多くの年月のなかで、一人としてこれらの事柄の真実を決定できた人はいない。みな推測しているにすぎない。三位一体に関心のあるすべての熱心で敬虔な宗教信者に事柄の真実について報告するため、天まで昇って見学し、全人類のために「調査報告書」を携えて戻ってきた者は一人としていないからである。もちろん、そのような観念を形成した責めを人に負わせることはできない。それなら、なぜ父なるヤーウェは人類を創造した時、子のイエスを同行させなかったのだろう。最初にすべてがヤーウェの名で通っていたら、もっとよかっただろう。責めを負わせなければならないとしたら、天地創造のときに子や聖霊を呼び寄せず、単独で働きを実行したヤーウェ神の一時的過失のせいにしよう。もし彼らが皆で同時に働いていたら、彼らは一つになっていたのではなかっただろうか。最初から最後までヤーウェの名だけしかなく、恵みの時代からはイエスの名がなかったら、または、イエスがその時もまだヤーウェと呼ばれていたら、神は人類によってこのように分割される苦しみをせずにすんだのではないだろうか。確かに、このすべてに対してヤーウェを遺憾に思うことはできない。責めを負わせなければならないとしたら、聖霊に負わせよう。聖霊は何千年もの間、その働きをヤーウェ、イエス、さらには聖霊の名で続行し、一体誰が神なのかわからなくなってしまうほどに人を当惑させ、混乱させてしまった。聖霊そのものが形や姿なしに、さらにはイエスのような名前なしに働いていたら、そして人が聖霊に触れることも、見ることもできず、ただ雷鳴の音だけを聞いていたら、この種の働きは人類にもっと多くの恩恵をもたらさなかっただろうか。では今何ができるだろう。人の観念は山のように高く、海のように広く蓄積したので、今日の神はもはやそれらに耐えることができず、まったく途方に暮れている。昔、ヤーウェとイエス、その間にいる聖霊だけであった時でも、人はすでにどのように対処すべきか途方にくれていたが、今は全能者が加わり、やはり神の一部だと言われてさえいる。彼がだれであるのか、どのくらいの年月の間、三位一体のどの位格と混じり合っていたのか、あるいはその中に隠れていたのかなど、誰が知っていようか。どうして人がこんなことに耐えられるだろうか。三位一体だけで人が一生かけて説明するのに十分であったが、今では「四位格の一つの神」がいる。これはどう説明ができるであろうか。あなたは説明できるのか。兄弟姉妹よ。どうしてあなたたちは今日までこのような神の存在を信じてきたのか。わたしはあなたたちに脱帽する。三位一体ですら担うのにもう十分であったのに、今あなたたちは四位格からなるこの一つの神に揺るぎない信仰を抱き続けている。あなたたちはこの考えから抜け出すよう促されたのに拒絶している。とてもありえないことだ。あなたたちは本当に素晴らしい。実際四つの神の存在を信じることさえできて、それをなんとも思わない。あなたたちはこれを奇跡だと思わないのだろうか。わたしは、あなたたちがこのような偉大な奇跡を引き起こせるとは知り得なかった。実のところ、三位一体はこの宇宙のどこにも存在しないことを話しておこう。神には父も子もおらず、ましてや父と子が共同で使う道具、つまり聖霊の概念などない。このすべては最大の誤った考えであり、この世には断じて存在しない。だが、そのような誤った考えにさえ発端があり、全く根拠がないわけではない。なぜならあなたたちの心はそれほど単純ではないし、あなたたちの考えには理性がないわけではないからである。むしろ、それらの考えはかなり適切で、独創的であるので、どのサタンに対してでも動じない。残念なのは、これらの考えがすべて誤った考えであり、断じて存在しないことである。あなたたちは本当の真実をまったく見たことがない。あなたたちは単に推測し、観念を作り、次に、欺いて他の人々の信用を得るため、また機知や理性のない極めて愚かな人々を支配するため、そのすべてを物語に作り上げ、人々にあなたたちの偉大で、名高い「専門家の教え」を信じさせようとしている。これは真理だろうか。これは人が受けるべきいのちの道なのだろうか。すべては馬鹿げている。一語も適切ではない。この長い年月を通してずっと、神はこのようにあなたたちによって分けられてきて、各世代とともにますます細かく分けられ、一つの神が公然と三つの神に分けられるまでに至った。そして今、人が神を一つに再結合するのはまったく不可能である。神をあまりにも細かく分けすぎたからである。手遅れにならないうちにわたしの迅速な働きがなければ、あなたたちがどのくらい長く厚かましくもこのようなことを続けるかはわからない。このように神を分け続けるなら、どうして神はあなたたちの神でいられようか。あなたたちはまだ神を認識できるであろうか。あなたたちはまだ神のもとに戻るつもりなのか。もしわたしが少しでも遅く到着していたら、あなたたちは「父と子」、ヤーウェとイエスをイスラエルに送り返し、あなたたち自身が神の一部であると主張していたことだろう。幸いにも、今は終わりの日である。とうとう、わたしが長いこと待っていたこの日が来て、この段階の働きを自分の手で実行してはじめて、あなたたちによる神そのものの分割が停止した。これがなかったら、あなたたちはエスカレートして、あなたたちの中のサタンをすべて祭壇上に載せて崇拝さえしていただろう。これがあなたたちの策略である。あなたたちが神を分ける手段である。あなたたちは今そのようにし続けるつもりなのか。あなたたちに尋ねたい。神は幾つあるのか。どの神があなたたちに救済をもたらすのか。あなたたちがいつも祈る対象は最初の神か、二番目なのか、それとも三番目なのか。そのなかでどの神を常に信じているのか。父だろうか。それとも子だろうか。あるいは霊だろうか。あなたが信じるのはいずれなのか、わたしに教えて欲しい。あなたはあらゆる言葉をもって神を信じていると言うが、あなたたちが実のところ信じているのはあなたたち自身の知力である。あなたたちは断じて心の中に神を持っていない。しかし頭の中にはそのような「三位一体」がいくつかあるのだ。あなたたちはそう思わないだろうか。

三つの段階の働きがこの三位一体の概念に従って評価されるならば、それぞれが行う働きは同じではないので、三つの神がいなければならない。あなたたちの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。これは神を分割し、それぞれが地位と霊を持つ三つの位格に分けてしまう。それではどうして神は一つの霊、一つの神でいられようか。教えて欲しい。天と地、そしてその中のすべてのものは父、子、あるいは聖霊が造ったのだろうか。彼らは一緒になって天地を創造したのだと言う人がいる。それでは誰が人類を救ったのだろうか。聖霊か、子か、それとも父なる神か。人類を救ったのは子であると言う人もいる。それでは実質上、子とは誰か。彼は神の霊の受肉ではないのか。受肉した神は被造物の人という観点から、天の神を父の名で呼ぶ。イエスが聖霊による受胎から生まれたことを知らないのか。彼の中には聖霊がいる。あなたが何と言おうとも、彼はやはり天の神と一つなのである。彼は神の霊の受肉だからである。子というこの考えは断じて真実ではない。すべての働きを実行するのは一つの霊である。神だけが、すなわち、神の霊が働きを実行する。神の霊とは誰か。聖霊ではないのか。イエスの中で働くのは聖霊ではないのか。働きが聖霊(すなわち神の霊)によって実行されなかったのなら、彼の働きが神自身を表すことができただろうか。イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたたちに主の祈りを教えたら、あなたたちは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたたちが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたたちにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。

これでほとんどの人は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……」という創世記の神の言葉を思い起こすであろう。神が「われわれの」形に合わせて……と言うことから考えると、「われわれ」は二人以上を示す。神が「われわれ」と述べたので、神は一つだけではない。このようにして人は理論上はっきりと異なる位格について考え始め、これらの言葉から父、子、聖霊という考えが生じた。では、父とはどういうものか。子とはどういうものか。そして聖霊とはどういうものか。ひょっとして今日の人類は三つを合わせて一つの姿に造られたのだろうか。それでは人の姿は父、子、あるいは聖霊の姿に似ているのだろうか。人は神のどの位格の姿をしているのだろうか。人の抱くこの考えはまったく間違っており、ばかげている。これは一つの神をいくつかの神に分けることしかできない。モーセが創世記を記述した時は、世界の創造に続いて人類が造られた後のことであった。そもそも最初、世界が始まった時、モーセは存在していなかった。モーセが聖書を記述したのはそれからずいぶん後のことだったので、天の神が語ったのは何であったのかをモーセはどうして知ることができただろうか。彼は神がどのように世界を創造したかについて少しも知らなかった。旧約聖書には、父、子、聖霊についての言及はなく、唯一の真の神、ヤーウェがイスラエルで働きを実行することにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なった名前で呼ばれているが、これは名前ごとに異なる神格を指していることを証明できない。もしそうなら、神には無数の位格がいるのではないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始するための神そのものの働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じると従うといった神の働きであった。ヤーウェは自分が働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると予言もしなかった。イエスの時代になった時、神はすべての人類を贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身がする働きも異なるので、神は異なる領域内で働きを実行する必要がある。このようにして神の表す身分も異なる。ヤーウェはイエスの父であると人は信じているが、このことは実はイエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。「わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天の父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人が子を見るとき、天の父を見ているのである。」すべてが語られた時、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格には分けられない。ひとたび人が説明しようとすると、はっきりと異なる位格や、父、子、霊の関係で問題は複雑になる。人が別々の位格について話す時、これは神を物質化することではないだろうか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これらはすべて人の概念にすぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。あなたが誰かに「神は幾つあるのか」と尋ねたら、神は父、子、聖霊の三位一体で、唯一の真の神であると言うだろう。「父とは誰か」と尋ねると、「父は天の神の霊である。父はすべてを司り、天の主である」と言うだろう。「では、ヤーウェは霊なのか」と尋ねれば、「そうだ」と言うだろう。次に「子とは誰なのか」と尋ねたら、もちろんイエスが子であると言うだろう。「ではイエスの経歴はどうなっているのか。どこからイエスは来たのか」と尋ねれば、「イエスは聖霊による受胎を通してマリアの子として生まれた」と言うだろう。「では、イエスの本質も霊ではないのか。イエスの働きも聖霊を表しているのではないのか。ヤーウェは霊でイエスの本質も霊である。終わりの日の今、言うまでもなく、やはり働いているのは霊なのである。どうして彼らが異なる位格でありえようか。神の霊が異なる観点から霊の働きを実行しているだけなのではないか。」それ自体として、位格の間に区別はない。イエスは聖霊によって宿り、間違いなく彼の働きはまさしく聖霊の働きであった。ヤーウェによって実行された第一段階の働きにおいて、神は肉体にならなかったし、人の前に現れもしなかった。そこで、人は彼の姿を決して見なかった。彼がいかに大きくとも、いかに背が高くとも、やはり霊であり、初めて人を造った神自身であった。すなわち、それは神の霊であった。彼が雲の合間から人に話しかけた時、彼は単に霊にすぎなかった。誰も彼の姿を目撃しなかった。神の霊が受肉し、ユダヤで人となった恵みの時代になった時だけ、人は初めてユダヤ人として受肉した姿を見た。ヤーウェの感触は感知できなかった。しかし、彼は聖霊によって、すなわち、ヤーウェ自身の霊によって受胎されたので、イエスはやはり神の霊の具現化として生まれた。人が初めて見たものは、イエスの上に鳩のように降りてくる聖霊であった。それはイエスだけに限定された霊ではなく、むしろ聖霊であった。ではイエスの霊は聖霊と区別することができるのか。イエスが神の子イエスであり、聖霊は聖霊であるなら、どうしてこの二つは一つになることができようか。もしそうなら、働きは実行できなかったであろう。イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ぶことができる。神の霊だけが多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球を洪水にして世界を破壊することもできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神のほかのどの位格が神の代わりに行ったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にいる。天と地の唯一の主人である。天地創造から今に至るまで、この働きは神自身の霊によって実行されてきた。天における働きであろうと、肉体での働きであろうと、すべては神の霊によって実行される。すべての被造物は、天であろうと、地上であろうと、神の全能の手のひらの中にある。このすべては神自身の働きであり、神に代わって誰も行うことはできない。天において、神は霊であるが、神自身でもある。人々のもとでは、神は肉体であるが神のままである。神は何十万もの名前で呼ばれるかもしれないが、それでも神は神であり、すべての働きは神の霊の直接表現である。神の磔刑による全人類の贖いは神の霊の直接的働きであったし、終わりの日の間にすべての民、すべての地に向けた宣言もそうである。いつも神は全能で唯一の真の神、すべてを含む神自身としか呼ぶことはできない。はっきりと異なる位格は存在しないし、ましてや父、子、聖霊というこの考えも存在しない。天にも地にも神はただひとつである。

神の経営(救いの)計画は六千年に及び、働きの違いに基づいて三つの時代に分けられる。第一の時代は旧約の律法の時代である。第二は恵みの時代で、第三は終わりの日に属する時代、神の国の時代である。各時代で異なる身分が表されている。これは単に働きの違い、すなわち、働きの必須要件によるものである。第一段階の働きはイスラエルで実行され、贖いの働きを完結する第二段階はユダヤで実行された。贖いの働きのため、イエスは聖霊による受胎から、ひとり子として生まれた。このすべては働きの必須要件のためであった。終わりの日には、神は働きを異邦人の国々まで広げてそこの人々を征服し、神の名が彼らの間でも偉大になることを望んでいる。神は人を導いて、人間生活のすべての正しい道、ならびにすべての真理といのちの道を理解できるようにすることを望んでいる。この働きはすべて一つの霊によって実行される。神はさまざまな観点から働きを行うかもしれないが、働きの本質と原則は変らない。実行された働きの原則と本質をよく見れば、すべては一つの霊によるものであることがわかるであろう。それでもまだ、父は父であり、子は子であり、聖霊は聖霊であり、そして最後には一つにされるだろう、と言う人もいるであろう。では一体どのようにしてそれらを一つにするべきであろうか。どうして父と聖霊を一つにすることができるのか。もしそれらがもともと二つなら、どのように結合しても、二つのままではないだろうか。それらを一つにすると言うとき、それは単に二つの別々の部分を結合して全体で一つにすることではないだろうか。しかし、それらは一つにされる前は二つの部分ではなかっただろうか。一つの霊はそのはっきりとした本質があり、二つの霊を一つにすることはできない。霊は物質ではなく、物質界のほかの何ものとも異なっている。人々の理解するところでは、父は一つの霊であり、子は別の霊で、聖霊もさらに別の霊であるので、それなら三つの霊はコップ三杯に入っている水のように混ざりあって一つの全体になる。そうすれば三つは一つにまとめられるのではないか。これは間違った説明である。これは神を分割しているのではないだろうか。どうして父、子、聖霊のすべてを一つにできるのだろうか。これらはそれぞれ異なる性質をもつ三つの部分ではないのか。それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。「イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である」と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。「父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある」というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営(救いの)計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から「わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている。」と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。人が理解するところでは、イエスが神自身ならばなぜ祈るのだろうかと疑問に思う。これは、イエスが受肉した神であり、肉体の中に生きる神であり、天の霊でないからである。人が理解するところでは、父、子、聖霊はすべて神である。三つすべてを合わせて一つにしたものだけが唯一の真の神と見なすことができ、このようにして神の力は並外れて大きくなる。このようにしてのみ神は7倍に強化された霊なのだという人々がまだいる。子がこの世に現れた後祈る時、祈りはその霊に向かってなされた。実は、彼は被造物の観点から祈っていた。肉体は完全なものではないからであり、イエスは完全ではなかったし、肉体になったとき、数多くの弱点を持っていた。従って、彼は肉体において働きを実行した時、大いに難儀した。そのため、彼は磔刑になる前に三度父なる神に祈り、それ以前にも何回も祈ったのである。彼は弟子たちの間で祈った。彼は山上で一人で祈った。彼は釣り船の上で祈った。彼はおおぜいの群衆の中で祈った。彼はパンを割きながら祈った。彼は人々を祝福するとき祈った。彼はなぜそうしたのか。彼が祈ったのは霊に向かってであった。彼は肉体の観点から霊に向かって、天の神に向かって祈っていた。したがって、人の見地からは、イエスはその働きの段階で神の子になった。しかし、現在の段階では神は祈らない。これはなぜか。なぜなら神がもたらすものは言葉の働きであり、言葉による裁きと刑罰だからである。祈りの必要はない。神の職分は話すことだからである。十字架にかけられないし、人によって権力者たちに引き渡されない。神はただその働きを実行するだけで、すべては整っている。イエスが当時祈った時、天国が来るようにと、父なる神の旨が行われるようにと、今後の働きのために父なる神に祈っていた。現在の段階では、天国はすでに来たのだが、神はそれでも祈る必要があるだろうか。神の働きは、時代を終らせることであり、新しい時代はこれ以上ないので、次の段階のために祈る必要はあるだろうか。わたしは必要ないと思う。

人の説明にはたくさんの矛盾がある。実際、これらはすべて人のもつ観念である。さらなる精査がなければ、あなたたちは皆、それらは正しいと信じるだろう。あなたたちは、三位一体の神の考えは人の見解にすぎないことを知らないのか。人の認識に十分で完全なものはない。いつも不純物があり、人の考えはあまりにも多すぎる。これは、被造物が神の働きを説明することはどうしてもできないことを立証している。人の心の中にはあまりにも多くのものがあり、すべて論理と思考から来ており、真理と矛盾している。あなたの論理は完全に神の働きを分析できるだろうか。ヤーウェのすべての働きについて識見を得ることができるだろうか。すべてを見通せることができるのは人であるあなたなのか、それともとこしえからとこしえまで見ることができる神自身なのだろうか。とこしえの昔からとこしえの未来まで見ることができるのはあなたなのか、それともそれができるのは神なのだろうか。どう思うか。どうしてあなたが神を説明するのに値するのか。あなたの説明の基礎は何か。あなたは神なのか。天と地、およびその中のすべてのものは神によって造られた。これをしたのはあなたではなかったのだから、なぜあなたは正しくない説明をしているのか。さて、あなたは三位一体の存在を信じ続けるのか。それはあまりにも厄介だとは思わないのだろうか。三つではなく一つの神を信じるほうがよいであろう。軽いのがもっともよい。「主の荷は軽い」からである。

三つの段階の働きがこの三位一体の概念に従って評価されるならば、それぞれが行う働きは同じではないので、三つの神がいなければならない。あなたたちの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。これは神を分割し、それぞれが地位と霊を持つ三つの位格に分けてしまう。それではどうして神は一つの霊、一つの神でいられようか。教えて欲しい。天と地、そしてその中のすべてのものは父、子、あるいは聖霊が造ったのだろうか。彼らは一緒になって天地を創造したのだと言う人がいる。それでは誰が人類を救ったのだろうか。聖霊か、子か、それとも父なる神か。人類を救ったのは子であると言う人もいる。それでは実質上、子とは誰か。彼は神の霊の受肉ではないのか。受肉した神は被造物の人という観点から、天の神を父の名で呼ぶ。イエスが聖霊による受胎から生まれたことを知らないのか。彼の中には聖霊がいる。あなたが何と言おうとも、彼はやはり天の神と一つなのである。彼は神の霊の受肉だからである。子というこの考えは断じて真実ではない。すべての働きを実行するのは一つの霊である。神だけが、すなわち、神の霊が働きを実行する。神の霊とは誰か。聖霊ではないのか。イエスの中で働くのは聖霊ではないのか。働きが聖霊(すなわち神の霊)によって実行されなかったのなら、彼の働きが神自身を表すことができただろうか。イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたたちに主の祈りを教えたら、あなたたちは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたたちが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたたちにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。

これでほとんどの人は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……」という創世記の神の言葉を思い起こすであろう。神が「われわれの」形に合わせて……と言うことから考えると、「われわれ」は二人以上を示す。神が「われわれ」と述べたので、神は一つだけではない。このようにして人は理論上はっきりと異なる位格について考え始め、これらの言葉から父、子、聖霊という考えが生じた。では、父とはどういうものか。子とはどういうものか。そして聖霊とはどういうものか。ひょっとして今日の人類は三つを合わせて一つの姿に造られたのだろうか。それでは人の姿は父、子、あるいは聖霊の姿に似ているのだろうか。人は神のどの位格の姿をしているのだろうか。人の抱くこの考えはまったく間違っており、ばかげている。これは一つの神をいくつかの神に分けることしかできない。モーセが創世記を記述した時は、世界の創造に続いて人類が造られた後のことであった。そもそも最初、世界が始まった時、モーセは存在していなかった。モーセが聖書を記述したのはそれからずいぶん後のことだったので、天の神が語ったのは何であったのかをモーセはどうして知ることができただろうか。彼は神がどのように世界を創造したかについて少しも知らなかった。旧約聖書には、父、子、聖霊についての言及はなく、唯一の真の神、ヤーウェがイスラエルで働きを実行することにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なった名前で呼ばれているが、これは名前ごとに異なる神格を指していることを証明できない。もしそうなら、神には無数の位格がいるのではないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始するための神そのものの働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じると従うといった神の働きであった。ヤーウェは自分が働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると予言もしなかった。イエスの時代になった時、神はすべての人類を贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身がする働きも異なるので、神は異なる領域内で働きを実行する必要がある。このようにして神の表す身分も異なる。ヤーウェはイエスの父であると人は信じているが、このことは実はイエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。「わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天の父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人が子を見るとき、天の父を見ているのである。」すべてが語られた時、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格には分けられない。ひとたび人が説明しようとすると、はっきりと異なる位格や、父、子、霊の関係で問題は複雑になる。人が別々の位格について話す時、これは神を物質化することではないだろうか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これらはすべて人の概念にすぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。あなたが誰かに「神は幾つあるのか」と尋ねたら、神は父、子、聖霊の三位一体で、唯一の真の神であると言うだろう。「父とは誰か」と尋ねると、「父は天の神の霊である。父はすべてを司り、天の主である」と言うだろう。「では、ヤーウェは霊なのか」と尋ねれば、「そうだ」と言うだろう。次に「子とは誰なのか」と尋ねたら、もちろんイエスが子であると言うだろう。「ではイエスの経歴はどうなっているのか。どこからイエスは来たのか」と尋ねれば、「イエスは聖霊による受胎を通してマリアの子として生まれた」と言うだろう。「では、イエスの本質も霊ではないのか。イエスの働きも聖霊を表しているのではないのか。ヤーウェは霊でイエスの本質も霊である。終わりの日の今、言うまでもなく、やはり働いているのは霊なのである。どうして彼らが異なる位格でありえようか。神の霊が異なる観点から霊の働きを実行しているだけなのではないか。」それ自体として、位格の間に区別はない。イエスは聖霊によって宿り、間違いなく彼の働きはまさしく聖霊の働きであった。ヤーウェによって実行された第一段階の働きにおいて、神は肉体にならなかったし、人の前に現れもしなかった。そこで、人は彼の姿を決して見なかった。彼がいかに大きくとも、いかに背が高くとも、やはり霊であり、初めて人を造った神自身であった。すなわち、それは神の霊であった。彼が雲の合間から人に話しかけた時、彼は単に霊にすぎなかった。誰も彼の姿を目撃しなかった。神の霊が受肉し、ユダヤで人となった恵みの時代になった時だけ、人は初めてユダヤ人として受肉した姿を見た。ヤーウェの感触は感知できなかった。しかし、彼は聖霊によって、すなわち、ヤーウェ自身の霊によって受胎されたので、イエスはやはり神の霊の具現化として生まれた。人が初めて見たものは、イエスの上に鳩のように降りてくる聖霊であった。それはイエスだけに限定された霊ではなく、むしろ聖霊であった。ではイエスの霊は聖霊と区別することができるのか。イエスが神の子イエスであり、聖霊は聖霊であるなら、どうしてこの二つは一つになることができようか。もしそうなら、働きは実行できなかったであろう。イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ぶことができる。神の霊だけが多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球を洪水にして世界を破壊することもできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神のほかのどの位格が神の代わりに行ったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にいる。天と地の唯一の主人である。天地創造から今に至るまで、この働きは神自身の霊によって実行されてきた。天における働きであろうと、肉体での働きであろうと、すべては神の霊によって実行される。すべての被造物は、天であろうと、地上であろうと、神の全能の手のひらの中にある。このすべては神自身の働きであり、神に代わって誰も行うことはできない。天において、神は霊であるが、神自身でもある。人々のもとでは、神は肉体であるが神のままである。神は何十万もの名前で呼ばれるかもしれないが、それでも神は神であり、すべての働きは神の霊の直接表現である。神の磔刑による全人類の贖いは神の霊の直接的働きであったし、終わりの日の間にすべての民、すべての地に向けた宣言もそうである。いつも神は全能で唯一の真の神、すべてを含む神自身としか呼ぶことはできない。はっきりと異なる位格は存在しないし、ましてや父、子、聖霊というこの考えも存在しない。天にも地にも神はただひとつである。

神の経営(救いの)計画は六千年に及び、働きの違いに基づいて三つの時代に分けられる。第一の時代は旧約の律法の時代である。第二は恵みの時代で、第三は終わりの日に属する時代、神の国の時代である。各時代で異なる身分が表されている。これは単に働きの違い、すなわち、働きの必須要件によるものである。第一段階の働きはイスラエルで実行され、贖いの働きを完結する第二段階はユダヤで実行された。贖いの働きのため、イエスは聖霊による受胎から、ひとり子として生まれた。このすべては働きの必須要件のためであった。終わりの日には、神は働きを異邦人の国々まで広げてそこの人々を征服し、神の名が彼らの間でも偉大になることを望んでいる。神は人を導いて、人間生活のすべての正しい道、ならびにすべての真理といのちの道を理解できるようにすることを望んでいる。この働きはすべて一つの霊によって実行される。神はさまざまな観点から働きを行うかもしれないが、働きの本質と原則は変らない。実行された働きの原則と本質をよく見れば、すべては一つの霊によるものであることがわかるであろう。それでもまだ、父は父であり、子は子であり、聖霊は聖霊であり、そして最後には一つにされるだろう、と言う人もいるであろう。では一体どのようにしてそれらを一つにするべきであろうか。どうして父と聖霊を一つにすることができるのか。もしそれらがもともと二つなら、どのように結合しても、二つのままではないだろうか。それらを一つにすると言うとき、それは単に二つの別々の部分を結合して全体で一つにすることではないだろうか。しかし、それらは一つにされる前は二つの部分ではなかっただろうか。一つの霊はそのはっきりとした本質があり、二つの霊を一つにすることはできない。霊は物質ではなく、物質界のほかの何ものとも異なっている。人々の理解するところでは、父は一つの霊であり、子は別の霊で、聖霊もさらに別の霊であるので、それなら三つの霊はコップ三杯に入っている水のように混ざりあって一つの全体になる。そうすれば三つは一つにまとめられるのではないか。これは間違った説明である。これは神を分割しているのではないだろうか。どうして父、子、聖霊のすべてを一つにできるのだろうか。これらはそれぞれ異なる性質をもつ三つの部分ではないのか。それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。「イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である」と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。「父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある」というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営(救いの)計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から「わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている。」と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。人が理解するところでは、イエスが神自身ならばなぜ祈るのだろうかと疑問に思う。これは、イエスが受肉した神であり、肉体の中に生きる神であり、天の霊でないからである。人が理解するところでは、父、子、聖霊はすべて神である。三つすべてを合わせて一つにしたものだけが唯一の真の神と見なすことができ、このようにして神の力は並外れて大きくなる。このようにしてのみ神は7倍に強化された霊なのだという人々がまだいる。子がこの世に現れた後祈る時、祈りはその霊に向かってなされた。実は、彼は被造物の観点から祈っていた。肉体は完全なものではないからであり、イエスは完全ではなかったし、肉体になったとき、数多くの弱点を持っていた。従って、彼は肉体において働きを実行した時、大いに難儀した。そのため、彼は磔刑になる前に三度父なる神に祈り、それ以前にも何回も祈ったのである。彼は弟子たちの間で祈った。彼は山上で一人で祈った。彼は釣り船の上で祈った。彼はおおぜいの群衆の中で祈った。彼はパンを割きながら祈った。彼は人々を祝福するとき祈った。彼はなぜそうしたのか。彼が祈ったのは霊に向かってであった。彼は肉体の観点から霊に向かって、天の神に向かって祈っていた。したがって、人の見地からは、イエスはその働きの段階で神の子になった。しかし、現在の段階では神は祈らない。これはなぜか。なぜなら神がもたらすものは言葉の働きであり、言葉による裁きと刑罰だからである。祈りの必要はない。神の職分は話すことだからである。十字架にかけられないし、人によって権力者たちに引き渡されない。神はただその働きを実行するだけで、すべては整っている。イエスが当時祈った時、天国が来るようにと、父なる神の旨が行われるようにと、今後の働きのために父なる神に祈っていた。現在の段階では、天国はすでに来たのだが、神はそれでも祈る必要があるだろうか。神の働きは、時代を終らせることであり、新しい時代はこれ以上ないので、次の段階のために祈る必要はあるだろうか。わたしは必要ないと思う。

人の説明にはたくさんの矛盾がある。実際、これらはすべて人のもつ観念である。さらなる精査がなければ、あなたたちは皆、それらは正しいと信じるだろう。あなたたちは、三位一体の神の考えは人の見解にすぎないことを知らないのか。人の認識に十分で完全なものはない。いつも不純物があり、人の考えはあまりにも多すぎる。これは、被造物が神の働きを説明することはどうしてもできないことを立証している。人の心の中にはあまりにも多くのものがあり、すべて論理と思考から来ており、真理と矛盾している。あなたの論理は完全に神の働きを分析できるだろうか。ヤーウェのすべての働きについて識見を得ることができるだろうか。すべてを見通せることができるのは人であるあなたなのか、それともとこしえからとこしえまで見ることができる神自身なのだろうか。とこしえの昔からとこしえの未来まで見ることができるのはあなたなのか、それともそれができるのは神なのだろうか。どう思うか。どうしてあなたが神を説明するのに値するのか。あなたの説明の基礎は何か。あなたは神なのか。天と地、およびその中のすべてのものは神によって造られた。これをしたのはあなたではなかったのだから、なぜあなたは正しくない説明をしているのか。さて、あなたは三位一体の存在を信じ続けるのか。それはあまりにも厄介だとは思わないのだろうか。三つではなく一つの神を信じるほうがよいであろう。軽いのがもっともよい。「主の荷は軽い」からである。

『言葉は肉において現れる』より