Ⅺ 真理の現実に入ることについての代表的な言葉

647. 性質の変化とは何を意味しますか。真理を愛する人が、神の働きを経験しつつ、神の言葉による裁きと刑罰を受け入れ、様々な苦難や精錬を経験すると、性質の変化は起こります。このような人は、内部にあるサタン的な毒が浄化され、堕落した性質から完全に解放されるため、神の言葉、および神によるあらゆる采配や指揮に従うことができ、二度と神に逆らったり抵抗したりすることがなくなります。これが性質の変化です。……性質の変化とは、ある人が真理を愛し、真理を受け入れることができるので、自分の神に背く反抗的な本性をついに知るようになることです。その人は、人間があまりに深く堕落していることを認識し、人間の愚かさと不正直さ、貧しさと哀れさに気づき、最後に人間の本性と本質を認識するようになります。これらのことを全て認識しているので、完全に自分を否定して捨て去り、神の言葉に従って生活し、万事において真理を実践することができるようになります。これが神を知る人、性質が変化した人です。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

648. 性質の変化とは、おもに人の本性の変化のことを言います。人の本性に関する物事は外面的な振る舞いに見られるものではありません。そのような物事は、その人の生存の意義や価値とじかに関係しています。つまり、それらは人の人生観や価値観、魂の奥底にあるもの、そしてその人の本質と直接かかわります。真理を受け入れられない人は、それらの側面で変化を遂げません。神の働きを経験し、すっかり真理に入り、自分の価値観、および生存と人生についての見方を変え、自分の視点を神の視点と合わせ、完全に神に従い、忠実でいられるようになってのみ、性質が変わったと言えるのです。

『キリストの言葉の記録』の「性質の変化について知るべきこと」より引用

649. 人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて、つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質に本当の変化が達成される。人の堕落した性質は、サタンによって毒を盛られ、踏みにじられていることと、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知に与えたひどい被害を根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しないのである。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えることから始まるべきである。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

650. 堕落を清められ、いのちの性質の変化を受けたいと望むのであれば、真理への愛と真理を受け入れる能力をもたなければなりません。真理を受け入れるとはどのような意味ですか。真理を受け入れるとは、自分にどのような堕落した性質があろうと、あるいは赤い大きな竜のどの害毒が自分の本性の中にあろうと、神の言葉によって暴かれたらそれを認め、それらの言葉に服従するということを指しています。言い訳したり選り好みしたりせず、無条件でそれを受け入れ、神が述べることを基に自分を知るようになるのです。それが神の言葉を受け入れるということです。神が何と言おうと、神の発する言葉がどれほどあなたの心を刺し貫こうと、神がどのような言葉を用いようと、神の言うことが真理である限り、あなたはそれらを受け入れることができ、現実と一致する限りそれらを認めることができるのです。自分がどれほど深く理解しているかにかかわらず、あなたは神の言葉に服従でき、また聖霊によって明かされ、兄弟姉妹によって伝えられる光を受け入れ、それに従います。このような人はある程度まで真理を追求してきたのであり、真理を得て性質の変化を成し遂げることができます。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

651. 神を信仰する中で自らの性質の変化を望むなら、自分を実生活から切り離してはならない。実生活においては、自分を知り、自分を捨て、真理を実践することを知るだけでなく、万事における自己管理の原則、常識、および規則を学ばなければならず、そうして初めて徐々に変化を遂げられるようになる。理論的な認識だけに重点を置き、現実に深く入り込むことも実生活に入ることもなく、宗教的儀式の中だけで生活しているなら、あなたは決して現実に入ることがなく、自分自身や真理や神を知ることもなく、永遠に盲目で無知なままとなるだろう。……現実に入るには、すべてを実生活に向けなければならない。神を信じていても、実生活への入りを通じて自分を知ることができず、実生活で正常な人間性を生きることができなければ、その人は落伍者となるだろう。神に従わない者はみな、実生活に入れない者たちである。そうした者はみな人間性について語りつつ、悪魔の本性を生きる者である。彼らはみな真理について語りつつ、教義を生きる者である。実生活で真理を生きられない者は、神を信じてはいるが、神に嫌悪され拒絶される者である。あなたは実生活で入りを実践し、自分の欠点と反抗心と無知を知り、自分の異常な人間性と弱さを知らねばならない。そうすることで、あなたの認識が自分の実際の状況や困難に組み入れられる。そのような認識だけが本物であり、それによってあなたは自分の状態を真に把握し、性質の変化を成し遂げることができるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と実生活についての議論」より引用

652. 人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである。過去、性質の変化について話すとき、それは主として自分を捨て去れること、肉が苦しむのを甘受すること、自分の肉体を懲らしめること、そして肉の好みを自分から取り除くことを指していた。それが性質の変化の一種だというのである。だが今日、性質の変化の真の現われは、神の現在の言葉に服従し、神の新たな働きを真に認識することだと、誰もが知っている。このようにして、自分の観念に彩られた、神に関する以前の理解は消し去られ、その人は神に対する真の認識と服従を成し遂げることができる。性質の変化については、それ以外に真の現われは存在しない。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」より引用

653. 性質の変化を求めるにあたっては、自身の本性に潜むサタンの毒素を発見できるほどの自己認識の段階に到達しなければなりません。神を拒むとはどういう意味か、神に反抗するとはどういう意味か、万事において真理と一致するにはどのように振る舞うべきかを知らなければなりません。また、神の旨と、人に対する神の要求についてもいくらか理解する必要があります。神の前で良心と理知を有し、自慢げに語ったり神を欺いたり、これ以上神に反抗することをしたりしてはいけません。そうであれば、あなたの性質は変わっています。性質が変化した人は心の中で神を畏れ、神に対する反抗心は徐々に薄まります。さらに、そのような人は本分を尽くすにあたり、他人に心配してもらう必要はもはやなく、聖霊が絶えず鍛錬の働きをする必要もありません。基本的に神に服従でき、ものの見方に真理が存在します。これはすべて、神と相容れるようになったことに相当します。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より引用

654. 性質の変化を経た人は真理を理解しており、あらゆる事柄を識別することができ、神の旨に沿うにはいかに行動するべきか、真理の原則に沿うにはいかに行動するべきか、神を満足させるにはいかに行動するべきかを知っており、自らが露わにする堕落の本質を理解しています。そのような人は自分の考えや観念が露わになると、識別力をもちいて肉を捨て去ることができます。性質の変化はこのように現れます。性質の変化に関して主要な事は、彼らが明確に真理を理解しており、物事を実行するときにはある程度正確に真理を実践し、堕落した性質はさほど頻繁には露わにされないということです。一般的に、性質が変化した人にはとりわけ理知と識別力があるように見え、真理を理解しているために独善性や傲慢をさほど示しません。彼らは露わにされた堕落の大半を見通し識別することができるので、傲慢さを生じさせません。彼らは人間のあるべき立場をわきまえており、いかに理性的に振る舞うべきか、いかに忠実に本分を尽くすべきか、言うべき事とそうでない事、誰に何を言い行なうべきかをわきまえています。そのため、このような人々は比較的理性的だと言われるのです。性質を変える人々は真に人間の姿を生き、真理を自分のものにしています。彼らはいつも真理に従って物事を語ったり見たりすることができ、どんな人や物事にも影響されず、みな自分の見方をもち真理の原則を保つことができます。彼らの性質は比較的安定しており、熱しやすく冷めやすいということはなく、状況がどうであろうと、本分をどうきちんと尽くすか、神に満足していただくためにどう物事を行なうべきかを理解しています。性質が変えられた人々は、表面的に自分を良く見せるために何をするべきかに重点を置いたりしません。彼らは神に満足してもらうためにどうすべきかを心の中で明確に把握しているのです。それ故、外面的には熱心には見えなかったり、偉大なことを成し遂げたようには見えなかったりするかもしれませんが、彼らのすること全ては意味があり、価値があり、現実的な結果をもたらします。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より引用

655. 性質が変えられた人々が真理を多く得ていることは確かです。このことは彼らの物事の見方や行動の原則を通して確認できます。真理を得ていない人々は絶対に性質の変化など経験していません。性質の変化は、成熟した経験豊かな人間性をもつという意味ではありません。それはおもに、神に関する認識と真理に関する理解を得た結果、人の本性の中にあるサタン的な害毒の一部が変化することを指します。つまり、そのようなサタン的な毒素は清められ、神によって表される真理がそれらの人に根付き、いのちとなり、生存の基礎となるということです。そうなって初めて、人は新たにされ、そのようにして性質も変わるのです。性質の変化はその人の外的な性質が以前より柔和になったということでもなければ、傲慢だった人が理性的に語るようになるとか、相手の話しを聞かなかった人が他人の話を聞けるようになったとかいうことではありません。このような外的変化を性質の変化とは言えません。もちろん、性質の変化にはこれらの状態や表れも含まれますが、何よりも重要なのはその人の内なるいのちが変えられたということです。神の表す真理が彼らのいのちそのものとなり、サタン的な毒は取り除かれ、ものの見方が全く変わり、それらのどれも、この世のものとは全く違うものとなります。彼らには赤い大きな竜の策略と毒がはっきり分かります。彼らはいのちの真の本質を得ています。そのようにして彼らのいのちの価値が変わったのです。これが最も基本的な変化であり、性質の変化の本質なのです。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より引用

656. 神に完全にされることを求めるには、まず神に完全にされるということの意味と、完全にされるために満たすべき条件とを知る必要がある。そうしたことを把握できたら、次に実践の道を追求しなければならない。神に完全にされるためには、一定の素質を備えている必要がある。多くの者はそのような崇高な性質を生まれつき備えてはいないため、代償を払って主体的に努力する必要がある。性質が劣っていればいるほど、一層主体的に努力しなければならない。神の言葉に関する認識が多ければ多いほど、そして神の言葉を多く実践すればするほど、完全にされる道に入れる時期が早まる。祈ることにより、祈りの領域で完全にされることができる。また神の言葉を飲み食いし、その本質を把握し、その現実性を行動で示すことによっても、完全にされることができる。神の言葉を日々経験することで、あなたは自分に欠けている物事を知るようになるだけでなく、自分の致命的な欠点や弱点を認識し、神に祈り嘆願するようになるはずだ。そうすることで、あなたは徐々に完全にされる。完全にされる道とは、祈りを捧げること、神の言葉を飲み食いすること、神の言葉の本質を把握すること、神の言葉の経験に入ること、自分に何が欠けているかを知ること、神の働きに従うこと、神の重荷を心に留め神への愛をもって肉を捨てること、そして兄弟姉妹との交わりを頻繁に持つことである。こうした交わりはあなたの経験を豊かにし、それが社会的生活か個人的生活かを問わず、また大規模な集会か小規模な集まりかを問わず、すべて経験を積み訓練を受けるのに役立つため、それによってあなたは神の前で心を静め、神へと還ることができるようになる。これはすべて完全にされる過程の一部である。前述した、神の言葉を経験するということは、実際にその言葉を味わい、それを行動で示せるということを意味する。それによってあなたは神への一層大きな信仰と愛を得るのである。このようにして、あなたは次第にサタンのような堕落した性質を払拭し、不適切な動機から脱却し、正常な人間らしさを行動で示すようになるだろう。神に対するあなたの愛が大きければ大きいほど、つまりあなたの中で神に完全にされた部分が多ければ多いほど、サタンによって堕落させられた部分は少なくなる。あなたは実際の経験によって、徐々に完全にされるための道に足を踏み入れるだろう。それゆえ、完全にされることを願うなら、神の旨に配慮することと、神の言葉を経験することが特に重要である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」より引用

657. 神の言葉を飲み食いし、祈りを実践し、神の重荷を受け容れ、神が自分に委ねる任務を受け容れることはすべて、自分の前途を拓くためである。神の委託による重荷が大きければ大きいほど、神によって完全にされることが容易になる。神に仕える中で、召し出されても他者と協力したがらない者がいるが、そうした者は怠惰で、ただ快楽に溺れることを望んでいる。他者と協力して神に仕えることを求められれば求められるほど、得られる経験が多くなる。そしてより多くの重荷と経験を持つことで、完全にされる機会も増えることになる。そのためあなたが誠意を持って神に仕えることができれば、あなたは神の重荷を心に留めるようになるので、神によって完全にされる機会を一層多く得られるようになる。現在完全にされているのは、まさにこうした人々である。聖霊があなたに触れるほど、あなたは神の重荷を心に留めるために割く時間が増え、より一層神によって完全にされ、より神のものとされて、最終的には神に用いられる者となる。現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある。この事実を明確に理解できないなら、あなたは重荷を担わないだろう。あなたが神の旨に配慮すればするほど、神があなたに託す重荷も大きくなる。自分勝手な者はそうした物事に煩わされたがらず、代償を払いたがらず、その結果として、神に完全にされる機会を失うのだ。これは自らを害する行為ではないだろうか。あなたが神の旨に配慮する者であれば、教会のために真の重荷を抱くようになる。実際、それは教会のために担う重荷というよりも、自分自身のいのちのために担う重荷と呼んだほうがいい。なぜならあなたが教会のために抱くこの重荷は、あなたがその経験によって神に完全にされるためのものだからだ。したがって、教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である。このことを明確に理解しているか。あなたが属する教会が砂のように乱れているにもかかわらず、あなたが憂慮も懸念もせず、兄弟姉妹が神の言葉を普通に飲み食いしていなくても見て見ぬふりさえしているなら、あなたは何の重荷も負っていない。そのような者は神に好まれない。神が好む者は、義に飢え渇き、神の旨に配慮している。だから、あなたがたはたった今神の重荷を心に留めるべきである。神がその義なる性質をすべての人間に表したら、それから神の重荷を心に留めようといって待っていてはならない。そのときにはすでに手遅れではないか。今は神に完全にされる好機である。もしこの機会を逃したなら、あなたは一生後悔するだろう ― カナンの良き地に入れずに一生後悔して、自責のうちに死んだモーセのように。神がその義なる性質をすべての民に表すと、あなたは後悔の念に満たされることになる。神があなたを罰しないとしても、あなたは自責の念で自らを罰するだろう。このことに納得しない者もいるが、信じないなら、ただ見ていればいい。これらの言葉を全うすることだけを目的としている者もいるのだ。あなたは、この言葉のために身を捧げる意志があるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」より引用

658. 今、神は一種の人々の集団、つまり神と協力することに努め、神の働きに従うことができ、神が語る言葉は真実だと信じ、神の要求を実践できる人から成る集団を獲得することを望んでいる。このような人は、心の中に真の認識を有している者たちであり、完全にされることができ、必ずや完全への道を歩める者たちである。完全にされることができない者とは、神の働きをはっきり認識しない人、神の言葉を飲み食いしない人、神の言葉に注意を払わない人、心の中に神への愛がまったくない人である。受肉した神を疑い、受肉した神についていつも確信がなく、その言葉を決して真剣に扱わず、受肉した神を絶えず騙す者は、神に抵抗し、サタンに属する人であり、このような人を完全にする術はない。

『言葉は肉において現れる』の「神は自身の心にかなう者を完全にする」より引用

659. 神は、神の言葉を追い求め、それを貴ぶ者たちの中で働きを行なう。あなたが神の言葉を貴べば貴ぶほど、神の霊はますますあなたの中で働く。人が神の言葉を貴べば貴ぶほど、その人が神によって完全にされる確率も高くなる。神は、真に神を愛する者たち、心が神の前で安らいでいる者たちを完全にする。神のすべての働きを貴び、神の啓示を貴び、神の臨在を貴び、神の気遣いと加護を貴び、神の言葉が自分の現実となり、自分のいのちに糧を施すことを貴ぶのは、いずれも神の心に最もかなうことである。あなたが神の働きを貴ぶなら、つまり、神があなたに対して行なったすべての働きを貴ぶなら、神はあなたを祝福し、あなたが所有するすべてのものを何倍にも増やすだろう。あなたが神の言葉を貴ばないなら、神はあなたの中で働きを行なわず、あなたの信仰に応じてわずかな恵みを与えるか、もしくは、わずかな富であなたを、わずかな安全であなたの家族を祝福するだけだろう。あなたは、神の言葉を自分の現実とし、神を満足させ、神の心にかなうことができるよう努めるべきである。ただ神の恵みを享受するためだけに努力してはならない。信者にとって、神の働きを受けること、完全になること、そして神の旨を行なう者となること以上に重要なことはない。これがあなたの追求すべき目標である。

『言葉は肉において現れる』の「神は自身の心にかなう者を完全にする」より引用

660. 自分の追求に対して高い目標を設定すればするほど、あなたはより完全にされることができる。あなたが真理を追求すればするほど、聖霊は働きを行なう。自分の追求に活力を注げば注ぐほど、あなたはより多くのものを得る。聖霊はその人の内なる状態に応じて人を完全にする。中には、自分は神に用いられることや完全にされることを望まず、自分の肉が安全で、いかなる不幸にも苦しまなければそれでいい、と言う人がいる。また、神の国に入ることを望まず、底なしの穴に降りることを望む人もいる。その場合、神もあなたの望みを叶えるだろう。あなたの追い求めることが何であれ、神はそれを実現させるのだ。では、あなたは現在何を追い求めているのか。それは完全にされることか。あなたの現在の行動や振る舞いは、神によって完全にされ、神に得られるためなのか。あなたは日常生活の中で、絶えず自分をこのように評価しなければならない。ただ一つの目標の追求に自分の心を残らず捧げれば、神は確実にあなたを完全にする。それが聖霊の道である。聖霊が人々を導く道は、その人たちの追求によって獲得される。あなたが神によって完全にされ、神に得られることを渇望すればするほど、聖霊はあなたの中で働きを行なう。求めなければ求めないほど、あなたは否定的になって退歩し、聖霊から働きを行なう機会を奪う。そして時間が経つにつれ、聖霊はあなたを捨てる。あなたは神によって完全にされることを望んでいるのか。神に得られることを望んでいるのか。神に用いられることを望んでいるのか。あなたがたは、神によって完全にされること、神に得られること、そして神に用いられることのために、すべてを行なうことを追い求めるべきである。それによって宇宙の万物は、あなたがたの中に神の業が現われるのを見ることができる。あなたがたは万物の主人であり、存在するすべてのものの中で、神が自分を通じて証しと栄光を享受できるようにする。そのことは、あなたがたがあらゆる時代の人の中で最も祝福されていることを証明している。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」より引用

661. 神による人間の完全化には法則があり、それは、あなたの望ましい部分を用いて神はあなたを啓くということである。これは、あなたが実践の道を得てあらゆる消極的な状態と訣別できるようにするためであり、あなたの霊が解放され、あなたが神をさらに愛すことができるようにである。こうすることにより、あなたはサタンの堕落した性質を払拭できる。あなたは純朴で素直であり、自分を知って真理を実践することを望んでいる。神は必ずやあなたを祝福するので、あなたが弱く消極的な時、神はあなたを二倍啓き、あなたがさらに自分を知り、自分のために悔い改めることをさらに望むようになり、実践すべきことを実践できるようになるように助ける。あなたの心が落ち着き安らかになるには、この方法によるほかない。神を知ること、自らを知ること、自らの実践に普段より注意する人は、神の働き、また神による導きや啓きを頻繁に授かることができる。そのような人は消極的な状態にあっても、良心の働きか、あるいは神の言葉による啓きにより、すぐに状況を好転させることができる。人の性質の変化は、人が自らの実際の状態と神の性質と働きを知ると必ず実現する。自らを知ること、そして自ら心を開くことを望む人は真理を実践できる。そうした人は神に忠実であり、神に忠実な人は、その理解が深かったり浅かったり、少なかったり豊富であったりするが、神を理解している。これが神の義であり、人間が得るものである。これは人間自らにとっての収穫である。神に関する認識のある人は、基盤とビジョンがある。こうした人は神の肉、言葉、働きに関して確信している。神が働きを行う方法や話す方法、そして他人がどのように混乱を引き起こすかに関わらず、その人は自分の立場を強く守り、神の証しに立つことができる。人がこのようであればあるほど、理解した真理をさらに実行できる。常に神の言葉を実践しているので、神をさらに認識し、永遠に神の証しに立つ決意がある。

『言葉は肉において現れる』の「実践に集中する者だけが完全にされることができる」より引用

662. 神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする。中にはそれが理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う人がいる。そのような人は「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうして完全になれるのか」と言う。神の働きを理解しない人はこのように言うのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より引用

663. 聖霊は各人において歩むべき道をもち、各人に完全にされる機会を与える。あなたは自らの消極性をとおして自らの堕落を知らしめられ、その後消極性から脱け出すことにより実践の道を見いだす。それはどれもあなたが完全にされる方法である。さらに、あなたの中にある肯定的なものの幾つかに継続的に導き照らされて、あなたは積極的に自らの役割を果たし、識見を増やして識別力を身に付ける。状態が良好な時、あなたは神の言葉を読むことや神に祈ることを殊更に望み、聞く説教を自らの状態と関連づけることができる。このような時、神は内側からあなたを啓き照らし、あなたに肯定的側面の幾つかについて理解させる。あなたはこのように肯定的側面において完全にされる。消極的な状態において、あなたは弱く消極的である。自分の心には神がいないと感じるが、神はあなたを照らし、あなたが実践の道を見いだすのを助ける。ここから出ることが、消極的側面における完全化の達成である。神は肯定的側面と消極的側面の両面で人間を完全にすることができる。それはあなたが経験することができるか、神に完全にされることを追求するか否かにより異なる。神に完全にされることを真に求めるならば、消極的側面は損失ではなく、現実的なものをもたらす。また、自分に欠如しているものを知ること、自分の真の状態をさらに把握すること、人間は何も持っておらず何でもないことを知ることがさらにできるようになる。試練を経験しないならば、知らないままであり、常に自分が他人よりも上で、優れていると感じる。これらすべてをとおして、あなたはこれまで遭遇したことは全て神が行ったことであり、神により保護されていたことを知る。試練に入ることにより、愛も信仰もなく、祈りが欠如し、讃美歌を歌うことができない状態に陥る。そして気付かぬうちに、この真最中に自分自身を知る。神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある「奥義」を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることができるように、神は暴露、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段を通して人間を完全にする。

『言葉は肉において現れる』の「実践に集中する者だけが完全にされることができる」より引用

664. 現在、あなたがたが主として追求すべきことは、すべての事柄において神によって完全にされることであり、そしてあなたがたが向かい合っているすべての人、事柄、物事を通して、神によって完全にされることである。そうすることによって、神という存在のより多くのものがあなたがたの中へ取り込まれる。あなたがたは神から、より多くより大きな祝福を受け継ぐ資格を得る前に、まず地上で、神からの嗣業を受け取らねばならない。今述べたことのすべてが、あなたがたが追求すべきことであり、最初に理解すべきことである。あなたが、すべての事柄において神によって完全にされることを追求すればするほど、あなたは、すべての事柄において神の手を見ることができ、そこから様々な観点を通じ、また様々な事柄において、神の言葉の存在と現実に入ることを積極的に求めるようになる。あなたは、単に罪を犯さない、あるいは観念を持たない、処世哲学を全く持たない、人間としての意思を持たないといった、消極的な状態に甘んじてはいけない。神は、いろいろなやり方で人を完全にする。結果的にあなたがあらゆる事柄において完全にされることは可能である。あなたは、肯定的なことから完全にされることが可能であるだけでなく、否定的なことからも完全にされることができ、結果的にあなたが得るものを豊かにする。毎日、神によって完全にされる好機そして神のものとされる時がある。そのような経験をすると、あなたは大きく変わる。するとあなたは自然に、以前には理解できなかった多くの事柄に対し洞察力を獲得することができるだろう。すなわち、誰かがあなたに教える必要もなく、無意識のうちに、あなたは神によって啓かれ、あらゆる事柄において啓示を受け、細部に至るまで経験するようになる。神は、あなたを、どちらの側にも曲がって進まないように導くだろう。そしてあなたは、神によって完全にされる道を進むだろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より引用

665. もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学び、直面するいかなる事柄においても、神の啓きを与えられなくてはならない。何かに向き合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の観点から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における逸脱である)。もしあなたの経験の仕方がこのようであれば、あなたの心はいのちの重荷で一杯になるだろう。あなたは常に神の顔の光の下で生き、経験において容易に逸脱することはないだろう。そのような人は、大きな展望を持つ。人が神に完全にしてもらえる機会は多く存在する。すべてが、あなたがたが神を真に愛する人々であるか、そして神によって完全にされ、神のものとされ、さらに神の祝福や神からの嗣業を受け取る決意を持っているかどうかにかかっている。決意を持つだけでは不十分である。あなたがたは多くの認識を持たなければならない。さもなければ、実践においていつも逸脱してしまうだろう。神は、あなたがた一人ひとりを完全にしたいと思っている。現在、多くの人たちが長きにわたって、神の働きをすでに受け入れてきた。しかしながら、彼らは単に神の恵みに浴することだけにとどまり、肉の慰めを受け取ることだけに熱心であるのが、現状である。彼らはより多くの、より高度な啓示を受け取ることに熱心でなく、人の心は依然として、いつも外側の世界に属していることを示している。人の働き、奉仕、そして神への愛の心は、以前ほど不純でないにしても、人の内なる本質や無知な考え方に関する限り、人は依然として、平安と肉の喜びを絶えず求めるだけで、神によって完全にしてもらう為の条件や、神が人を完全にする目的が何であるかには関心を持たない。したがって、大部分の人たちの生活は、依然として、いささかの変化もなく、俗悪で退廃的である。彼らは全く、神への信仰を重要問題と見なさない。むしろ、他人のために信仰を持っているかのように、真剣さあるいは熱心さを欠いており、目的もなくふらつきながら、最小限の労力でなんとかやっているような状況である。あらゆる事柄において神の言葉へ入ることを求め、より豊かな物事を獲得し、そして今日、神の家のより大きな富となり、さらに多くの神の祝福を受ける人はほとんどいない。もしあなたが、あらゆる事柄において神によって完全にされ、地上で神の約束を受け継ぐことを求めるなら、もしあなたが、あらゆる事柄において神に啓かれ、年月が怠惰に過ぎ去るままにしないなら、これは、積極的に入っていくべき理想の道である。このようなやり方によってのみ、あなたは神によって完全にしてもらう価値と資格のある人間になることができる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より引用

666. 聖霊が働くのは神に用いられる特定の人々だけではなく、教会においてそれ以上に働く。聖霊は誰においても働くことができる。今はあなたの中で働いているかもしれないが、やがてあなたはその働きを経験する。そうなると、次は別の人の中で働くかもしれない。その場合、あなたは急いでついて来なければならない。今の光にしっかりついて来るなら、あなたのいのちは更に成長できる。どのような人間であれ、聖霊がその人の中で働いているなら、必ず従いなさい。その人の経験を自分の経験と重ねてそこから学びなさい。そうすれば、あなたは更に高尚なものを受けるであろう。そうすることで、あなたの進歩は更に速まる。これが人間が完全にされる道であり、いのちが成長する道である。完全にされる道には、聖霊の働きに従うことで到達する。あなたは、神がどのような人を通してあなたを完全にする働きをするかを知らず、どのような人、どのような出来事や物事を通してあなたを獲得し、あなたが識見を得るようにするかを知らない。あなたがこの正しい道を進むことができるのであれば、それはあなたには神によって完全にされる望みが大いにあるということを示している。もしあなたが正しい道を進むことができないのであれば、あなたの将来は暗く、光りがないということである。あなたが正しい道に入れば、全ての事において啓示が与えられる。聖霊が他の人たちに何を啓示するかを問わず、その人達の認識を基盤にして前進し、自らも経験するのであれば、それはあなたのいのちの一部となり、その経験を通して他の人たちに施すことができる。ただ言葉を真似て他の人たちに施す者は何の経験もない者である。まず他の人が受けた啓示や照らしを通して実践の方法を見つけ出し、それから自分の実際の経験や認識を語るようにしなさい。これはあなた自身のいのちに大いに益となる。あなたは、神から出る全ての事に従い、このように経験しなさい。万事において神の旨を求め、全てのことを教訓とし、あなたのいのちが成長するようにしなさい。このように実践するならば、極めて速い進歩が得られる。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より引用

667. あなたは完全にされることを本当に願っているか。あなたが神により完全にされたいと本当に願っているのであれば、自分の肉を捨てる勇気をもち、消極的になることも弱ることもなく神の言葉を実行できる。神から出る全てのことに従うことができ、公の場であれ私的な場であれ、あなたの全ての行いは神の前に見せることができるものとなる。あなたが誠実な人間であれば、そして全てのことにおいて真理を実践するのであれば、あなたは全き者とされる。人前でする事と陰ですることが違うような偽りに満ちた者は、進んで完全にされようとはしていない。それは地獄と破滅の子であり、神ではなくサタンに属する者である。神に選ばれる種類の人間ではない。もしあなたの行動や振る舞いが神の前に見せられないものであったり、神の霊に見てもらえるものでない場合、あなたの何かが間違っていることの証拠である。神の裁きと刑罰を受け入れるのでなければ、そして性質の変化に重点を置くのでなければ、完全にされるための道に入ることはできない。もしあなたが本当に神に完全にされたいと願い、神の旨を行いたいと願っているのであれば、一切不平を言わず、あつかましくも神の働きを評価したり判定したりせず、神の全ての働きに従うべきである。これらが神に完全にされるための最低限の要求である。神によって全き者とされることを欲する者に必要なことはこれである。すなわち、全てのことを、神を愛する心で行うこと。「神を愛する心で行う」とはどういう意味であろうか。それは、あなたの行動や振る舞いが全て、神に見せる事ができるものであるという事である。あなたの意図は正しいので、あなたの行いが正しいかどうかに関係なく、神の前に、そして兄弟姉妹の前に、行動や振る舞いを見せることをあなたは恐れない。あなたは自分のあらゆる意図、考え、思いを神の前に示し、神の吟味を受けなければならない。あなたがこのように実践して入っていくならば、あなたのいのちの進歩は速いであろう。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より引用

668. もしも神によって用いられ、完全にされたいと望むのであれば、次に挙げるものをすべて備えていなければならない。すなわち、苦しむ意志、信仰、忍耐、服従、そして神の働きを経験し、神の旨を把握し、神の悲しみを思いやれる能力などである。一人の人間を完全にするのは容易なことでなく、あなたが経験する一つひとつの精錬において、あなたの信仰と愛が必要とされる。神によって完全にされたいのであれば、ただ道へと駆け出したり、神のために自分を費やしたりするだけでは十分でない。神によって完全にされる者となり得るには、多くのものを備えていなければならない。苦難に直面したときは肉への不安を脇にのけ、神に不満をぶつけずにいられる必要がある。神があなたから隠れているときは、神に付き従う信仰をもち、以前の愛が揺らいだり、消え去ったりすることがないよう維持できなければならない。神が何を行なおうと、あなたは神の意図に従わなければならず、また神に不満をぶつけるのではなく、自らの肉を呪う覚悟をしなければならない。試練に直面した際は、たとえ苦い涙を流したり、愛するものとの訣別が嫌だったりしても、神を満足させなければならない。それだけが真の愛、真の信仰なのである。あなたの実際の霊的背丈がどの程度であろうと、まずは苦難を受ける意志と真の信仰をともに備え、肉を捨てる意志も備えていなければならない。神の旨を満足させるべく、自ら進んで自分の苦難に耐え、個人の利益を失うことを惜しんではならない。また、自分に後悔することもできなければならない。過去、あなたは神を満足させることができなかったが、今では悔いることができる。これらのどの点においても欠けがあってはならない。神はこれらのことを通じてあなたを完全にするのである。これらの基準を満たせなければ、あなたが完全にされることはない。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬を経なければならない」より引用

669. 人が完全への道に踏み出すと、その古い性質が変わることが可能になる。さらに、いのちは成長を続け、人は徐々に真理の中へ深く入っていく。彼らはこの世と真理を追い求めないすべての人を嫌悪をすることができる。彼らはとりわけ自分自身を嫌悪するが、ただそれだけではなく、明らかに自分自身を知っている。彼らには真理によって生きる意欲があり、真理を追い求めることを目標とする。自分の脳が生み出した考えの中で生きるつもりはなく、人間の独善性、傲慢、うぬぼれに深い嫌悪感を持つ。彼らは品格を強く意識して話し、識別力と知恵でもってものごとに対処し、神に忠実で従順である。もし刑罰と裁きとを経験することがあっても、受動的になったり弱くなったりしないどころか、神による刑罰と裁きに感謝する。彼らは神の刑罰と裁きなしではやっていけず、それらは彼らを守ると信じている。彼らは平和と喜びからなる飢えを満たすためにパンを求めるような信仰を追い求めない。一時的な肉の快楽を追いかけることもない。これが完全にされた人に起こることである。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(4)」より引用

670. 自らの本分を尽くしながら神を満足させることができ、言動において原則をしっかりともち、真理のあらゆる側面の現実に入ることができるなら、その人は神により完全にされる人間です。神の働きと御言葉は、そのような人にとって完全に有効であり、神の御言葉はその人のいのちとなり、その人は真理を得て、神の御言葉に沿って生きることができる、と言うことができます。その後、その人の肉体の本性、つまり、根源的存在の基礎そのものが、震えてばらばらになり崩壊します。神の御言葉を自らのいのちとして有するようになると、人は新しい人となります。神の御言葉が人のいのちとなり、神の働きのビジョン、人類への神の要求、人への神による暴露、神が人に達することを要求する真のいのちのための基準が人のいのちとなり、これらの御言葉と真理に従って生きるならば、人は神の御言葉によって完全にされます。そのような人は生まれ変わり、神の御言葉をとおして新しい人となったのです。これが、ペテロが真理を追求した道です。それは完全にされる道、神の御言葉により完全にされる道、神の御言葉からいのちを得る道です。神によって表された真理がペテロのいのちとなり、そうして初めて彼は真理を手に入れた人となったのです。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

671. わたしが望むのは、完全にされることを求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこれらの言葉を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められる時こそ、あなたがたは真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を実際に生きること、あるいは完全にされた者の姿を実際に生きることができないなら、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理がなく、言ってみれば、あなたにはヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後に証しすることは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、あなたは霊を持った生けるものとはなってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い人のままであり、いまだにサタンに属しており、あなたは清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、このような人々だけが真の人生を得たのである。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

672. 神の性質について真の認識を有し、神の聖さと義を心から讃えることができるなら、その人は真に神を知り、真理を自分のものにしていることを意味します。そのとき初めて、彼らは光の中で暮らします。世界観と人生観が変わって初めて、その人は根本的な変化を経験します。人生の目標があり、真理に従って行動し、神に絶対的に服従して神の言葉によって生き、魂の奥底まで平安と照らしを感じ、心に闇がなく、神の前で完全に自由に、かつ制限されずに生きて初めて、真の人生を送り、真理を有する人になります。それに加え、あなたが有している真理はどれも、神の言葉と神自身から来たものです。全宇宙と万物の支配者たる至高の神があなたを、真の人生を送る真の人間として承認するのです。神の承認以上に有意義なことがあり得ますか。これが真理を有しているという意味なのです。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

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