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終わりの日のキリストの証人

目次

1.神の心に従うものは何か。主のために布教活動をするだけならば神の心に従っているか。

聖書の言葉

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。(マタ7:21-23)

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタ22:37-39)

「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。(ヨハ14:23-24)

「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。……」(ヨハ8:31)

関連する神の言葉

現在において、聖霊が進む道は、神の実際の御言葉である。したがって、人間がその道を進むには、人間は受肉した神の実際の御言葉に従い、それを食べ飲みする必要がある。神は御言葉の御業を行われており、全てが神の御言葉により述べられ、神の実際の御言葉により立証されている。人間は、神の受肉に関して全く疑念が無いか、神を知ろうとしている最中かを問わず、神の御言葉に多くの努力を注ぐ必要がある。さもなければ、人間は何も為し得ず、何も無い状態となるであろう。神の御言葉を食べ飲みする基礎の上で神を知り、神を満足させることによってのみ、人間は漸進的に神との適切な関係を確立できる。御言葉を食べ飲みし、それを実践することは、神に対する最大限の協力であり、神の選民のひとりとして証しに立つ、最も優れた実践である。ある者が神の実際の御言葉の本質を理解し、従うことが出来る時、その者は聖霊により導かれている道の上で生活しており、神が人間を完全にされる適切な手順に真摯な取り組みを行っている。

…………

「あなたがたは、神が自分に託した物事と神の約束、そして聖霊の道を受け容れられるならば、それは神の御旨を行う事である。」

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではない。それは、ある物事に直面した時、まず、それを神の采配によるもの、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた物事であることを認識し、また直面したその物事に対し、それを神の試練であるとすら捉える必要がある、ということである。この問題に直面する時、あなたには一定の基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考える必要がある。自分の責任を果たし、神に忠誠を尽くすために、その問題をどう扱うかを考慮する必要がある。神の怒りを買ったり、神の性質を侵害したりせずにそれを実行する方法を考慮する必要がある。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

継続的に神にご満足いただき、真理を実践し、自分自身を意識的に捨て去り、自分の考えを捨て去り、神の御旨に対して従順となることが出来たならば、すなわちその全てを意識的に出来たならば、それは真理を正確に実践することであり、本当に真理を実践することであり……

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが本来の目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、無感動である。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで解明していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。従業員は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろう。どれほどの人が、こうした関係がいかに絶望的なものになっているかを、ほんとうに理解できるのだろう。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ不幸の度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外に他の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの邪悪な行為の報いである。

『言葉は肉において現れる』の「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より