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終わりの日のキリストの証人

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5.神への真の信仰は正確には何か。神の賞賛を得るために神をどのように信じるべきか。

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神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日、相変わらず文章を通して、つまり空虚な教義を通して神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神への真の信仰の主体をなすのは、救われるために神を信じることではなく、ましてや善人となることではない。また、それは人間像を得るために神を信じることでもない。事実、人間は、神に対する信仰を、単に神が存在し、それ以外のことは無いという考えとして見るべきではない。神に対する信仰は、単に神が真理であり、道であり、いのちであり、それ以外のものでは無いと信じることではない。さらに、神に対する信仰とは、単に神を認めることでもなく、単に神が万物の支配者であられ、神が全能者であられ、神が世界の万物を創られた、神が唯一の存在であられ、至高の存在であられると信じることでも無い。むしろ、それは自分、つまりあなたがたの存在全体と心が神に付き従い、自分が神により使われるようにし、神の勤めにおいて自分が神により使われるようにし、自分が神のためにあらゆる事をするためである。それは、神を信じる者を、神が予め運命付け、選ばれているということではない。事実、人間全員が神を崇拝し、神に留意して従うべきである。なぜなら、人間は神により造られたからである…”

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

神を信じているから、神の言葉を糧とし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは言えない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。使いようもない事柄、表面的な事柄でも、ほんの少しの真理さえも含んでない、些細(ささい)な証言についてただ語ることは神の信仰とはならない。そのようなことは、あなたが神を信じる正しい道を把握してきていなかったと言える。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を糧とすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全になれるものだろうか。神の言葉を実践しない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いを身に着けねばいけないが、最も大事なことは、言葉を得ているということだ。何といっても、決して言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の意志の実現は全て、言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手に留める。それを通して、人々は完全になる。神の言葉は全てに行き渡る。人々は言葉を内に抱き、神の言葉を語り、言葉のままに実践する。彼らの内面でも外面でも神の言葉が染渡り、こうやって人間は完成される。神の意志に満たされ、神の証人になれる者たちは現実として神の言葉を得ている者である。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

あなたがたは神への信仰とは苦難を受けたり神のために多くの事を行うことである、あるいは自分の肉の平穏や、自分の物事を全て成功させることを目的とすると思うかも知れないが、神への信仰において、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。このように考えているのであれば、それは誤った見方であり、あなたがたは完全にされ得ない。神の御業、義なるご性情、知恵、御言葉、そして奇しさ、計り知れなさは、全て人間が理解しようと努めるべき物事である。そうした理解により、個人的な要求や希望、心中の観念を払拭するように。こうした事柄を排除してはじめて、あなたがたは神の要求される条件を満たすことができる。そうしてはじめて、あなたがたはいのちを得て神にご満足いただける。神の信仰は、神にご満足いただき、神が求められている性情を態度で示し、無価値な人々をして神の御業と恵みを表出せしめることを目的とする。これが、神への信仰に対する正しい観点であり、あなたがたが追求すべき目標である。あなたがたは、神への信仰に関する正しい観点を持ち、神の御言葉を得ることを求めなければならない。神の御言葉を食べ飲みし、真理を態度で示し、とりわけ神の実践的な御業、奇しい御業、肉にあって行われた実践的御業を理解できなければならない。あなたがたは、自分の実経験により神が人々に対して御業を行われる方法と、神の人間に対する御旨を理解することができる。こうしたことは、全てあなたがたの腐敗したサタンのような性情を排除することを目的とする。あなたがたの中にある不浄さと不義を払拭し誤った意図を取り除けば、あなたがたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を得てはじめて、あなたがたは神を真に愛することができる。あなたがたは、神への信仰を基礎としてのみ、神を真に愛することができる。神を信じずに、神を愛することができるだろうか。あなたがたは神を信じているので、それについては考えが混乱することはないはずである。神への信仰が自分に恵みをもたらすことが分かるとすぐに活力に満ち、精錬を受けなければならないと知るとすぐにその活力を全て失う者が居る。それは、神への信仰だろうか。結局、神への信仰は神に対する完全な服従である。神を信じていても、神に対する要求、捨てきれない宗教的観念や個人的な利益が多数あったり、神に対して肉の恵み、肉や魂の救いを求めて居る、といった事は、全て誤った観点を持つ人々の示す事柄である。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰しているものの、性情を変えることや、神に関する知識を求めず、自らの肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者には、宗教的信念として分類される信仰がある。それは神に対する真の信仰ではない。神を信じるためには、神のために苦しむ心と、自我を捨てる意志を備える必要がある。あなたがたがこの2つの条件を満たさない限り、その信仰は、神への信仰とはみなされず、あなたがたは性情を変えられないであろう。心から真理を求め、神を知ろうと努め、いのちを求める者のみが、神を真に信仰している者である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

ペテロは、神を信じる中で、自分の行いの全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練―これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物としての資質があるということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従わず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすこともなく、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることを怠けている。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して愛することも従うこともしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神を信じることは神を知ることへの第一歩である。この初めの段階からもっとも深い信仰へと前進する過程は、神を知ることであり、神の働きを経験するという過程である。単に神を信じるという目的だけで信仰を持ち、神を知るために信じるのでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、純粋な信仰とはなり得ない。これは、疑いのないことである。神を経験する過程の中で次第に神を知るようになると、人の性質は次第に変化していき、その信仰が次第に真実のものになっていく。こうして、神への信仰が持てるようになれば、完全に神を得ることになる。神はこのように長い時間をかけて再び肉となり、人が神を知り神を見ることができるように、人への働きを直接行なった。人が神を知ること[a]ができるのは、神の働きの最後の段階である。神を知ることは、神から人間への最終的な要求である。これは、神が自身の最終的な証として行なうもので、人が遂に完全に神に心を向けるために成されるものだ。人は、神を知ることによって、はじめて神を愛することができる。神を愛するためには神を知らなければならない。どのように求めても、何を得ようと求めても、人は神の知識に到達しなければならない。こうして、はじめて人は神の心を満足させることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

前へ:聖書の中に永遠のいのちの道はない。もし人が聖書に従い、崇拝しても永遠のいのちを得ることはできないだろう。

次へ:神の心に合った方法で聖書にどのように正確に取り組み、聖書を使うべきか。聖書の本来の価値は何か。

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