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終わりの日のキリストの代表的な言葉

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XI 神の求め、奨励、警告、慰めについての代表的な言葉

神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるとできないとに関わらず、神は疲れを知らず成就しようとする働きを続ける。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けがすべての人に理解される。おそらく、今日、あなたは、神に与えられた愛もいのちも何も感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を求めようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたの前に現される日は必ず来るだろう。神の経営の働きの目的は、サタンに堕落させられ、神に敵対する人間を見捨てず、サタンの支配下にある人間を取り戻すことなのだから。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

神の救済の神が救済の御働きをされている間、救われる人々はすべて、最大限まで救われ、誰も見捨てられない。神の御働きの目的は人を救うことだからである。神が人を救済している間、性質に変化を達成できないすべての人々、完全に神に従うことのできないすべての人々はみな罰の対象になる。この働きの段階――御言葉の働き――は人が理解しないすべての方法と神秘を人に明らかにし、人が神の御心と人に対する神の要求を理解できるようにし、彼らが神の御言葉を実践する条件を持ち、性質の変化を達成できるようにする。神は御働きを行うためにだけ言葉を使い、人々が少し反抗的でも彼らを罰しない。今は救済の時だからである。反抗的なすべての人が罰せられたら、誰も救われる機会がないだろう。彼らはみな罰せられ黄泉の国に落ちるだろう。人を裁く御言葉の目的は、人々に自分自身を知り、神に従うようにすることである。御言葉の裁きによって彼らを罰することではない。……言葉の征服を受け入れた一人ひとりには救済の機会が豊富にあるだろう。これらの人々それぞれに対する神の救済は彼らに神の最大限の慈悲深さを示す、つまり、彼らには最大限の寛容さが示される。人々が間違った道から後戻りする限り、彼らが悔やむことができる限り、神は彼らに神の御救済を受ける機会を与える。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

現在において、神はあなたがたを完全にすることを真に望んでおり、それは話だけの事では無い。今後あなたがたにどのような試練が降りかかるか、何が起こるか、どのような災いが降りかかるかを問わず、神はあなたがたを完全にすることを望んでいる。これは絶対的であり、疑う余地のない事実である。それは、どのようにして理解できるであろうか。それは、様々な時代と世代の間における神の言葉は、嘗て現在ほどの高水準に達したことが無い、という事実から理解できる。神の言葉は最高領域に入っており、全ての人間に対する聖霊の現下の業もまた前例が無い。従来の世代の者で、こうした状態を経験した者は、まず存在しないであろう。イエスの時代でさえも、現在のような黙示は無かった。あなたがたに対して述べられた言葉や、あなたがたが理解している物事、あなたがたが経験する物事が、極めて高水準に達している。あなたがたは試練や罰の最中に立ち去ることが無いが、そのことは、神の業が嘗て無い輝かしさに到達していることを証明するに十分である。これは人間が為し得る事でも、人間が維持している事でもなく、神自身の業である。したがって、神の業に関する多くの事実から、神が人間を完全にすることを望み、神があなたがたを完全にすることが出来ることは確実であることを理解できる。あなたがたが、このことを知り、この新たな発見を実現することが出来るのであれば、あなたがたはイエスの2度目の降臨を待つことなく、今の時代において神が自分を完全にすることを許すであろう。したがって、あなたがたは、自分が神により完全にされるために、それぞれ出来る限りを尽くし、努力を一切怠らないようにすべきである。

『言葉は肉において現れる』の「皆が自らの役割を果たすことについて」より

現在の流れにおいて、神により完全にされる機会は、神を真に愛する者各人にある。そうした者は、若いか年老いているかを問わず、神に対する従順さと敬愛がその者の心にある限り、神により完全にされることが可能であろう。神は、各人の様々な役割に従って、人間を完全にする。あなたがたは、全力を尽くし、神の業に服従する限りにおいて、神により完全にされることが出来るであろう。現時点において、あなたがたのうち完全な者は一人も居ない。あなたがたは、1種類の役割を果たすことが出来る時と、2種類の役割を果たすことが出来る時がある。あなたがたが神のために全力を尽くし、神のために自らを費やす限りにおいて、最終的にあなたがたは神により完全にされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「皆が自らの役割を果たすことについて」より

私の言葉を読み、それが満たされると信じた者は、祝福されている。なぜなら、私はそうした者を虐げることは無く、そうした者が信じている物事で、そうした者を満たすからである。私の恵みは、このようにしてあなたがたに与えられる。私の言葉は、あらゆる者に隠されている秘密を打つ。全ての者が致命傷を負っているが、私はそれを癒やす優れた医者であるから、私の所へ来るがよい。将来は悲しみや涙が一切無くなるであろう、と私が言ったのは何故だろうか。それは、このためである。私の中では全てが実現されるが、人間の中では全てが堕落しており、無益であり、その全てが人間にとって偽りである。あなたがたは、私の前であらゆる物を受け取り、あなたがたの従来の想像を絶する恵みの全てを見て、受け取るであろう。私の前に来ない者が反逆的な者であり、私を拒む者であることは確実である。私は、そうした者を決して容易には赦さず、厳しく罰するであろう。それを覚えておくように。私の前に一層来る者は、一層多くを得るが、それは恵みでしかないであろう。その後、そうした者は一層大いなる恵みを得るであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私の声を聞いた兄弟姉妹すべてに言っておくが、あなたがたは私の厳格な裁きの声を聞き、極度の苦難を受けてきた。しかし、あなたがたは、私の厳しい言葉の背後には、私の旨が隠されていることを知る必要がある。私は、あなたがたが救われることが出来るように、あなたがたを鍛錬している。私の愛する息子のため、私があなたがたを鍛錬し、剪定して、間も無く完全にするであろうことを、あなたがたは知る必要がある。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

今回は、神が来られて人間を打たれず、むしろ人間を最大限に救われるために来られる。一体誰が一切過ちを犯さないだろうか。皆打たれるならば、どうしてそれを救いと呼べるだろうか。罪には、故意におかされたものと、意図せずおかされたものがある。意図せずにした事は、気付いてから変えることができる。それならば、神は自分が変わる前に自分を打たれるであろうか。」と推測する。神はこのようにして人間を救われるか、というと、決してそうではない。あなたがたが意図せず罪をおかすか、反抗的な本性ゆえに罪をおかすかを問わず、現実に早く目覚めなければならない、ということを覚えておくように。先へ進む努力をするように。状況を問わず、あなたがたは先へ進む努力をする必要がある。神は人間を救うために御業を行われ、神が救いたいと望まれている人間を出鱈目に打たれることは無い。

『キリストの言葉の記録』の「神の御旨は人間を最大限に救うことである」より

否定性の真っ只中に居る者も存在するが、そうした者でさえも、依然として自分の本分における「結末の如何を問わず、神に対して最後まで忠信なる」姿勢を維持することが出来る。私はこれが変化であると述べて居るが、あなたがたは自分自身でそれに気付いていない。事実、自分自身を入念に検討すると、自分の腐敗した性情の一部が既に変化したことが分かるであろう。しかし、自分自身を評価する際に、常に最高の基準を採用している場合、そうした最高基準に到達出来ないのみならず、自分自身の内部で行った変更でさえもまた否定されるであろう。これは人的な過誤である。真に善悪を区別できる者であれば、自分自身の内部における変化を自認しても危害は無く、自らの変化を理解できるだけでなく、それ以上に実践すべき将来の道を見いだすことが出来るであろう。その時、自分が熱心に努力する限り、自分には希望があること、贖われる可能性が皆無ではない事が分かるであろう。ここで言っておくが、自分の問題点を正確に見ることが出来る者には、希望があり、そうした者は否定性から脱却可能である。

『キリストの言葉の記録』の「自分自身を正確に見ること、そして真理を断念しないこと」より

わたしは、あなたがたのなかに、神に無視され、神に見捨てられたように感じる者がいることを望まない。わたしは、あなたがた全員が真理と神の理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望む。あなたがこれまでどのような過ちを犯したとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど神に背いたとしても、そうしたことが神の理解を追求する上で負担や重荷とならないようにすること。先へ進んでゆくことである。それが何時起こるかを問わず、人間の救いである神の心は決して変わらない。それが神の本質のなかで最も尊い部分である。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身6」より

志を失ったり、弱くなったりしてはならない。私はあなたがたに示すであろう。国への道は、それほど平易ではなく、それほど単純な物事は無い。あなたがたは、恵みを容易に授かることを望んでいるであろう。現在、あらゆる者が辛い裁きに直面するであろう。さもなければ、あなたがたが私を愛する心は強くならず、あなたがたは私に対する真の愛を抱かないであろう。それが些細な状況であったとしても、あらゆる者がそれを経験する必要がある。単に、そうした状況には、ある程度の差異がある、ということだけである。そうした状況は私の恵みのひとつである。私の前に跪き、私の恵みを求める者は、何人居るであろうか。愚かな子供達よ。あなたがたは、数件の幸運な言葉を私の恵みであるとみなすが、辛苦を私の恵みのひとつであるとは感じない。私と辛苦を共にする者は、私と快楽を共にすることは確実である。それが私の約束であり、あなたがたに対する私の恵みである。食べ飲みして授かることを躊躇してはならない。闇が去ると、光が来る。夜明け前が最も暗いが、その後次第に明るくなってから太陽が昇る。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」誰でもこの言葉を耳にしたことがあるだろうが、その言葉の真意を理解した者はいない。今日あなたがたは、この言葉の真の意味をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものだ。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害を受けている。ゆえにこれらの言葉は、あなたがた一団の身に実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、すべての神の働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。ゆえに、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。神にとって赤い大きな竜の地で自分の働きを実行することは非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を実行し、自分の知恵と素晴らしい業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一団の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこの汚された地における人々のすべてのサタン的な性質がゆえに、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、その業の証人となる人々を手にするのだ。これが、神がこの一団の人々に行った全ての犠牲に関する完全な意義だ。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

人間がどの側面で苦難を受け、挫折すべきかは、神により運命づけられ、人間自身の要求に基づいていない。これは絶対的に正しい。あらゆる信者は神の御言葉の試練を経験し、神の御言葉の中で苦難を受ける能力がある。そのことは、あなたがたが明瞭に理解できる事柄であろうか。したがって、あなたがたが経験した苦難は、現在の祝福に引き換えられており、神のために苦難を受けていない場合、あなたがたは神の讃美を得られない。あなたがたは、嘗て不平を言ったかも知れないが、いくら不平を言ったとしても、神はあなたがたに関して、そのことを覚えていない。今日という日が来たのであれば、昨日の問題を検討する理由は無い。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

あなたがたが、私の前に自らの心を置くよう最大限に努めたならば、私はあなたがたを癒やし、あなたがたの心の平安と幸福を与える。あなたがたは、人間の許可を求めてはならない。私を満足させることの方が大切かつ重要ではなかろうか。あなたがたは、私を満足させることで、永遠の平安と幸福、したがって一生涯にわたる平安と幸福を一層多く得ることが出来るのではなかろうか。あなたがたの前にある苦難は、あなたがたの将来における恵みがどれほど大いなるものであるかを示して居る。それは筆舌に尽くせないものである。あなたがたは、私がどれほどの恵みをあなたがたに与えるかを知らず、それを夢見ることさえ出来ないであろう。現在、その恵みが、まさに現実となりつつある。それは、それほど遠い将来では無いが、あなたがたにはそれが見えるであろうか。それは、ひとつ残らず私の中にあるのであるから、なんと先行きが明るいことであろうか。あなたがたは、涙をぬぐい去り、痛みや悲しみを感じない。全てが私の掌中にある。私の目標は、あなたがたを近いうちに克服者にすること、そしてあなたがたを私と共に栄光へと導くことである。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私は、私達が神の愛に報いるべき時が来た、と考えている。私達は神への信仰の道を歩んで来たため、多くの嘲笑、罵倒、迫害の対象となっているが、私はそれが有意義なことだと考える。それは栄誉ある事であり、恥ではなく、私達が享受している祝福は甚大である。落胆することは数え切れないほど多いが、そうした時、神の御言葉が安らぎをもたらし、いつの間にか悲しみが喜びに変わっている。何かに事欠くことは数え切れないほど多いが、そうした時、私達は神の御言葉により恵みを授かってきた。病に伏すことは数え切れないほど多いが、そうした時、神の御言葉がいのちをもたらし、私達は危険から安全へと逃れてきた。あなたがたは、気付かぬうちに、こうした極めて多くの物事を既に享受してきた。あなたがたは、そうした物事を覚えていないことがあろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道(2)」より

人が神を得ることができないのは、神が感情を持っているからでも、神が人に得られるのを好まないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が緊急に神を探し求めていないからである。本当に神を探し求める人がどうして神に呪われるだろうか。健全な理知と繊細な良心を持つ人がどうして神に呪われるだろうか。本当に神を礼拝し、仕える人がどうして神の怒りの火によって破壊されるだろうか。喜んで神に従う人がどうして神の家から追放されるだろうか。神をどれほど愛しても愛しきれない人がどうして神の懲罰の中で生きることになろうか。喜んですべてを神のために断念する人がどうして無一文な状態になるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

水が人間をそっくり呑み込むと、わたしは淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人間が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生きる勇気を与え、わたしを存在の基礎とするようにする。人間がわたしに不服従であるとき、わたしはその不服従の中でわたしを知るように仕向ける。人間の古い本質を考慮し、わたしの哀れみにより、人間を殺すよりは、悔い改めて新たに始めさせる。人間が飢饉に苦しむと、一息でも残っていれば、わたしは彼らを死から奪い、サタンの罠に陥らないようにする。何度、人々はわたしの手を見ただろう。何度、人々はわたしの親切な顔、笑顔を見、何度、わたしの威厳、わたしの憤りを見ただろう。人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの欠点につけ込んで無用な厄介事を引き起こしはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情する。人間の不服従、忘恩に対してだけ、わたしは程度に応じて罰を下す。

『言葉は肉において現れる』の「十四番目の言葉」より

全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。全能者が見守ることはきわめて貴重であり、人間の心や霊に対するものである。おそらくこの見守りは無期限であり、そしておそらくそれは終わりの段階にある。しかし、あなたは、あなたの心や霊が今、本当のところ、どこにあるのかを知るべきだ。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

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