第2節 人間に対する神の励ましと慰めについて

691. 神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な鍛錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。

『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

692. 今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。

『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

693. 人間は神の刑罰と裁きにより鍛錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(4)」より引用

694. すべての人々は、神の言葉によって精錬を受けている。神が受肉していなかったなら、人類はそのような苦しみにあずかるという祝福を受けることなどなかっただろう。言い換えれば、神の言葉による試練を受け入れることができる人々は、みな祝福されている。人々はその元来の素質、行動、そして神に対する態度に基づいて考えれば、このような精錬を受けるには値しない。この祝福を享受しているのは、神によって高められたからである。人々はかつて、自分は神の顔を見るに値せず、神の言葉を聞く資格もないと言っていた。現在人々が神の言葉による精錬を授かっているのは、もっぱら神によって高められたことと、神の憐れみのおかげである。これが終わりの日に生まれた者一人一人に与えられる祝福なのだ。あなたがたは自分自身それを体験しただろうか。人間がどの側面で苦難や挫折を体験するかは、神によって予め定められており、人間自身の要求によって決まるものではない。これはまぎれもない事実である。神を信じるものは皆、神の言葉による試練を受け入れ、その言葉の中で苦しむ能力を持っていなければならない。このことをはっきりと理解できるだろうか。だからあなたは、経験した苦難と引き換えに、今日の祝福を得たのである。神のために苦しまなければ、神の称賛を得ることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「神への真の愛は自発的なものである」より引用

695. 神の言葉の裁き、刑罰、打撃、そして精錬を受け入れることができ、またそれ以上に、神が託す任務を受け入れられることは、はるか昔に神が予め定めたことなので、刑罰を受けるときはあまり悲嘆してはならない。あなたがたの中でなされた働き、あなたがたに授けられた祝福、そしてあなたがたに与えられたすべてのものを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に耐えられない。あなたがたには聖書に関する偉大な専門知識がなく、宗教理論もないが、神があなたがたの中で働いたので、過去の時代の誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。そのため、あなたがたは神に対してさらに献身的でなければならず、よりいっそう神に忠実でなければならない。神があなたを引き上げるので、あなたはますます努力せねばならず、霊的背丈を整えて神が託す任務を受け入れなければならない。神から与えられた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを追い求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証しとならねばならない。あなたにその決意があるのか。このような決意があれば、あなたは最後に間違いなく神によって得られ、神への栄光の証しとなるだろう。託されたおもな任務は神によって得られること、そして神への栄光の証しになることだと、あなたは理解しなければならない。それが神の旨である。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より引用

696. わたしの声を聞いたすべての兄弟姉妹たちへ。あなた方はわたしの厳格な裁きの声を聞き、非常な苦しみに耐えてきた。しかし、あなた方は、わたしの厳しい声の後ろにはわたしの意志が隠されていることを知るべきである。わたしがあなた方を鍛錬するのはあなた方を救うためである。わたしの愛する子らのためにわたしがあなた方を訓練、刈り込み、まもなく完全なものにすることをあなた方は知るべきである。わたしの心は非常に切望しているが、あなた方はわたしの心を理解せず、わたしの言葉に従って行動しない。今日のわたしの言葉はあなた方に向けられ、神が愛する神であることをあなた方に本当に認識させる。そして、あなた方はみな神の真摯な愛を経験している。……わたしの考えは、熱心にわたしを欲する人々をわたしは欲するのであり、真心からわたしを求める人々だけがわたしを喜ばせることができるのだ──このような人々に対してわたしは自分の両手を差し出して援助し、彼らはどんな災難にも出会わないことを保証する。本当に神を欲する人々は進んで神の心を思いやり、わたしの意志を行うだろう。そのようにして、まもなくあなた方は現実性に入り、わたしの言葉をあなた方のいのちとして受け入れるはずである──これがわたしの最大の重荷である。もし諸教会と聖者たちがすべて現実性に入り、すべてがわたしと直接交流することができるならば、わたしと向かい合い、真理と義を実行できるならば、そのとき初めて、彼らはわたしの愛する子らとなり、わたしは彼らに十分満足し、あらゆる大きな祝福を与えるだろう。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十三章」より引用

697. あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

698. 人は神を信じることで神を知ることができる。これが最終的な目標であり、人が追求するべき目標である。あなたの実践において神の言葉が実を結ぶように、神の言葉を生きる努力をしなければならない。教義的な認識しかなければ、あなたの神の信仰は無駄になる。あなたが神の言葉を実践し、神の言葉を生きる場合にのみ、信仰は完全で、神の心意に一致するとみなされる。この道では、多くの認識を語ることができる人は多いが、彼らが死ぬ時、その目は涙で溢れ、人生を無駄にし、高齢まで無用に生きたことを恨む。彼らは単に教義を理解しているだけで、真理を実践することも、神に証しをすることもできない。代わりに、あちこちをハチのように忙しく駆け回るだけで、死の寸前でようやく真の証しがないこと、神を全く知らないことを悟る。これでは手遅れではないか。なぜ今を生き、愛する真理を追い求めないのか。なぜ明日まで待つのか。人生において真理を求めて苦しむことも、真理を手に入れようとすることもないなら、今際の際に後悔したいということではないのか。もしそうなら、なぜ神を信じるのか。実際、ほんのわずかな努力をすれば、真理を実践し、それによって神を満足させることができる事柄は多くある。人の心が悪魔に取りつかれているからこそ、神のために行動することはできず、肉のために絶えず駆け回り、最終的に達成するものは何もない。このため、人は常に苦しみや困難に悩まされる。これはサタンによる責め苦ではないのか。これは肉の堕落ではないのか。あなたは調子のよいことを言って神をだまそうとするべきではない。むしろ、具体的な行動を取らなければならない。自分を欺くな。それに何の意味があるのか。自分の肉のために生き、利益と名声を得るために奮闘することで何を得ることができるのか。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じるなら真理のために生きるべきである」より引用

699. あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世へ戻ってそこでの成功を目指せばよいだろう。このようにして時間を無駄にするのはまったく価値のないことである。なぜ自分を苦しめるのか。美しい世界であらゆる物事を享受できないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供など、このような俗世の産物はどれもあなたが享受できる最高のものではないのか。幸せになれる場所を探して、ここをさまようことが何の役に立つというのか。人の子に枕する所がないのであれば、どうしてあなたが安住の地を得られようか。どうして人の子があなたのために美しい安住の地を造れようか。それは可能なのか。わたしの裁きを除けば、あなたは今真理に関する説教を受けることしかできない。あなたはわたしから安楽を得ることも、日夜思い焦がれている安楽の寝床を得ることもできない。わたしはあなたにこの世の富を与えない。あなたが真に追求するならば、わたしは喜んであなたにいのちの道を残らず与え、あなたを水を得た魚のようにする。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれをすべて取り上げる。安楽に貪欲で、豚や犬のような者たちにわたしの口から言葉を与えるつもりはない。

『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より引用

700. 真理を重んじない者はすべて、不信者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得ることはない。あなたのうちにどれほど多くの不信仰があるのか、どれほど多くのキリストへの裏切りがあるのか、あなたは今分かったのか。わたしはあなたに以下のことを熱心に勧める。あなたが真理の道を選んだのだから、誠心誠意献身すべきである。あいまいであったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人々に属することを知るべきである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じる人なのか」より引用

701. 受動的に神に従う者となってはならず、自分の好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを実際に生きることができるように、このような消極性と不活発を取り除き、肯定的なことの追求と自分の弱さを克服することに熟達しなければならない。あなたの弱みについて、恐れることは一切なく、あなたの欠点はあなたの最大の問題ではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなたがたすべての最大の問題は、臆病な精神によりことの現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、あなたがたが真理を追求することにおける最強の敵である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

702. 現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかにだけ満足していてはならず、将来歩んで行く道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思うべきではない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理から遠ざかるからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのは、いのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生活しつつも、光を得ることができないのであれば、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたから去ったからである。あなたが追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生において全く勇気がなく、暗闇の勢力に対抗する霊がないと言う他ない。あなたは弱過ぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。自分が征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払うことになる。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

703. 信仰がなければ、このような刑罰や裁きを受けて苦しまなかったのではないか、と言うかもしれない。しかし、信仰がなければ、こうした刑罰も、全能者からのこのような配慮も受けることができないだけでなく、創造主に会う機会も永遠に失うであろう。人間の起源を知ることは決してないだろうし、人生の意義を知ることも決してないであろう。たとえ体が死んで魂が離れても、あなたはまだ創造主の業のすべてを理解していないであろう。ましてや、創造主が人類を創造した後、このような偉大な働きを地上で行なったことを知りはしないであろう。神が創造したこの人類の一員として、あなたは不可解にも自ら進んでこのように闇の中に落ちて永遠の罰を受けようというのか。もし今日の刑罰と裁きから離れたなら、あなたにはいったい何が起こるであろうか。ひとたび今の裁きから離れてしまえば、この困難な生活から逃れられるとでも思っているのか。もし「この場所」を去ったなら、悲痛な苦悶と悪魔が加える残酷な傷害に遭遇するのではないのか。耐え難い苦しみを日夜受けることになるのではないのか。今日この裁きを逃れたからといって、将来の責め苦を永久に避けられるとでも思っているのか。あなたには何が起こるであろうか。それはほんとうに望みどおりの理想郷であろうか。今しているようにただ現実から逃げることで、その後の永遠の刑罰を逃れられるとでも思っているのか。今日より後、このような機会や祝福を再び見出せるであろうか。災厄が襲ってきた時、それを見出せるであろうか。全人類が安息に入るとき、それを見出すことができるであろうか。あなたの現在の幸福な生活と調和あるささやかな家庭が、永遠の終着点にとって代われるであろうか。もしあなたに真の信仰があるならば、そして信仰ゆえに多くのものを得るのなら、それはすべて、あなたというひとつの被造物が獲得すべきものであり、元来もっていたはずのものである。あなたの信仰といのちにとって、このような征服よりも有益なものは他にない。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より引用

704. わたしの言葉の外で生き、試練の辛さから逃げている人々は、みな世界を漂っているのではないか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉など得ていない。わたしの刑罰や精錬が彼らを追うことはないにせよ、彼らは天国の外の街路をあてもなくさまよう乞食ではないか。世界は本当にあなたの安息の場所だろうか。あなたはわたしの刑罰を避けることで、本当にこの世から満足の微笑みをわずかでも得ることができるのだろうか。つかの間の楽しみで、心の隠し切れない空しさを真に覆うことができるのだろうか。自分の家族なら騙せるかもしれないが、わたしを騙すことは到底できない。あなたは信仰が貧弱すぎるので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができずにいるのだ。わたしはあなたに呼びかける、人生の半分を真心からわたしのために生きるほうが、人生のすべてを肉のため平凡に忙しく過ごし、耐え難い苦しみに耐えていくよりもましなのだと。自分自身をそれほど大事にして、わたしの刑罰から逃げて何になるのか。わたしの一時的な刑罰から隠れて、かわりに永遠の恥と永遠の刑罰を受けて何になるのか。わたしは実際、誰も強制的にわたしの旨に従わせはしない。誰かが真にわたしのすべての計画に従おうとするなら、その人を粗末には扱わない。しかしわたしはすべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたように、わたしを信じることを要求する。あなたがたの信仰がトマスのそれを超えているなら、その信仰はわたしの称賛を得ることになり、あなたがたはその忠誠の中にわたしの至福を見出し、必ずや日々にわたしの栄光を見出すだろう。

『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するのか」より引用

705. 神は刑罰により人を征服することを望まず、人をいつも無理やり導くことを望まない。神は人が秩序正しく神の言葉と働きに従い、それにより神の心意を満たすことを望んでいる。それなのに人は恥を知らず、常に神に反抗している。私たちにとって最善なのは、神を満足させる最も単純な道を見つけること、つまり神の采配に完全に従うことだとわたしは考えている。もしこれを本当に達成できたなら、あなたは完全にされる。これは簡単で喜ばしいことではないのか。進むべき道を選びなさい。他人が言うことは気にせず、考え過ぎてはならない。あなたの未来と運命はあなたの手中にあるのか。あなたは世俗的な道を進みたくて、いつも逃げようとしている。しかし、なぜ逃げられないのか。分かれ道で何年も迷った挙句、結局はまたこの道を選んでしまうのはなぜなのか。何年も横道に逸れた後で、自分でも気づかないうちにまたこの家に戻ってきたのはなぜなのか。これはあなたの判断によるものなのか。この流れの中にいるのに、わたしを信じていないならば、聞きなさい。もしここを去るつもりならば、神がそうさせるか、聖霊があなたをどのように動かすかを見なさい。自分でこれを経験しなさい。率直に言うと、不運に苦しむとしても、この流れの中で苦しまなければならない。もし苦難があるならば、今日ここで苦難しなければならない。あなたは他のどこに行くこともできない。このことをはっきり理解しているのか。一体どこに行こうというのか。これは神の行政命令である。神がこの集団の人たちを選んだことに意味はないと思うのか。今日の働きにおいて、神は簡単に怒ることはないが、人がその計画を邪魔しようとするならば、神の顔は明るい表情から陰鬱な表情に直ちに変わる。だから、腰を落ち着けて神の計画に服し、神があなたを完全にできるようにしなさい。こうする人だけが聡明である。

『言葉は肉において現れる』の「道……(7)」より引用

706. あなたが将来祝福されるか呪われるかは、今日におけるあなたの行動と振る舞いを基に決められる。あなたがたが神によって完全にされるのであれば、それはまさに今、この時代に違いない。将来別の機会が訪れることはないだろう。今、神はあなたがたを完全にしたいと真に望んでいる。そして、これは話だけのことではない。将来あなたがたにどのような試練が降りかかろうとも、何が起きようとも、あるいはどのような災害に見舞われようとも、神はあなたがたを完全にすることを願っている。これは議論の余地がない確かな事実である。どこでそれがわかるのか。それは、各時代や各世代を通じ、神の言葉が今日ほどの高みに登ったことがないという事実からわかる。それは最も高い領域に達し、今日の全人類に対する聖霊の働きは前例のないものである。過去の世代の人のうち、このようなことを経験した者はほとんどいない。イエスの時代にさえも、今日の啓示は存在しなかった。あなたがたに語られた言葉、あなたがたが理解していること、そしてあなたがたの経験はどれも新たな頂点に達したのである。試練と刑罰の中、あなたがた人々は立ち去らないが、それだけでも神の働きが前例のない輝きを得た証拠として十分である。それは人間に行なえることでも、人間が維持していることでもない。むしろ、それは神自身の働きなのである。したがって、神による働きの現実の多くから、神が人間を完全にしたいと望んでいること、そして必ずやあなたがたを完全にできることがわかる。あなたがたがこの識見をもち、この新たな発見をするなら、イエスの第二の到来を待つことはないだろう。その代わり、神が現在の時代においてあなたがたを完全にさせられるようにするはずだ。したがって、あなたがた一人ひとりが全力を尽くし、努力を惜しまず、そうすることで神によって完全にされるようにしなければならないのである。

『言葉は肉において現れる』の「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」より引用

707. 現在の流れにおいては、神を真に愛するすべての人に、神によって完全にされる機会がある。若かろうと年老いていようと、心の中で神への従順を抱き、神を畏れる限り、そのような人は神によって完全にされることが可能である。神は人の様々な役割に応じてその人たちを完全にする。自分の全力を振るい、神の働きに服従する限り、あなたは神によって完全にされることが可能である。今のところ、あなたがたは誰一人として完全になっていない。時には一種類の役割を果たすことができ、また別の時には二種類の役割を果たすことができる。ただ全力を尽くして神のために自分を費やす限り、最後には神によって完全にされる。

『言葉は肉において現れる』の「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」より引用

708. 神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩が遅いとか、素質が乏しいとか、わたしが言おうと、気にすることはない――これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てるつもりであり、あなたがたに望みを失ってしまったという証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その成果を挙げることができ、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの素質が乏しければ、わたしはその乏しい素質に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの素質が優れているなら、わたしはその優れた素質に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたに教養があるという事実に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは事実だが、だがあなたが、自分の追求において向上しようとしない場合は別である。また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

709. 若者は他者への欺瞞や偏見に満ちた目を持つべきではなく、破壊的で忌まわしい行動をとるべきではない。理想や大志、自己を改善したいと望む熱心さに欠けてはならない。前途について落胆したり、生活に希望を失ったり、将来への自信を失ったりすべきではない。人生のすべてをわたしのために費やしたいという願いを実現させるべく、自らが選んだ真理の道を進み続ける忍耐力を持つべきである。真理を持たないでいることなく、偽善や不義を隠し持つことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく、正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきである。若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。逆境の中で諦めるのではなく、赦しの精神をもって兄弟姉妹に対して開放的かつ率直でなくてはならない。もちろんこれは、わたしから皆への助言、また要求である。さらには、これらはすべての若者へのわたしからの慰めの言葉である。わたしの言葉に従って実践せよ。特に、若い人は問題にあたり分別を発揮し、正義と真理とを求める決意がなくてはならない。あなたがたはすべての美しいものと善なるものを追い求めるべきであり、前向きなものの現実性を自分のものにするべきである。自分の人生に責任を持ち、軽んじてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より引用

710. 神による救いの働きが行われている間、救われることが出来る人はすべて、最大限まで救われ、誰ひとりとして見捨てられることはない。神の働きの目的は人を救うことだからである。神による人の救いの期間に、自分たちの性質の変化を達成できない者、また、完全に神に従うことのできない者はみな懲罰の対象となる。この段階の働き、すなわち言葉の働きは、人が理解していないあらゆる道と奥義を人に明らかにし、人が神の心意と神が人に要求することを理解できるようにし、神の言葉を実行に移すための前提条件を人が備えられるようにし、性質の変化を達成できるようにする。神は働を行うためにだけ言葉を使い、人が少し反抗的だからといって罰したりすることはない。今は救いの働きの時だからである。もし反抗的に振舞えば誰でも罰せられるとしたら、誰にも救われる機会がないだろう。誰もが罰せられ黄泉の国に落ちるだろう。人を裁く言葉の目的は、人が自分自身を知り、神に従うようになることである。それはそのような裁きによって人を罰することではない。言葉の働きの期間、多くの人がその反抗性と反逆性を、また受肉の神への不服従を露わにする。しかし、神はこのためにこれらの人をすべて罰したりはしない。そうではなく神は心の芯まで堕落して、救いようのない人を取り除くだけである。神はそのような人の肉をサタンに与え、数は少なくとも場合によっては肉を始末する。残っている者は従い続け、取り扱いと刈り込みを経験する。従っている間もなお取り扱いと刈り込みを受け入れることができず、ますます堕落していくならば、そのような人は救いの機会を失っている。言葉による征服を受け入れた一人ひとりには救いの機会が豊富にある。これら一人ひとりの神による救いは、彼らへの神の最大限の情け深さを示している。つまり、彼らには最大限の寛容さが示されるのである。人が間違った道から引き返し、悔い改めることができる限り、神は人に神の救いを受ける機会を与える。人が初めて神に反抗した時、神には人を殺そうなどという願望はない。それよりは、神は人を救うためにできる限りのことをする。本当に救う余地がない人であれば、神は取り除く。神がある種の人をすぐには罰しないのは、救われることができる人をすべてを救いたいからである。神はただ言葉によって人を裁き、啓き、導くのであって、杖で人を殺さない。人に救いをもたらすために言葉を使うことは、神の働きの最終段階の目的と意義である。

『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

711. わたしは、神に取り残され、無視され、見捨てられたように誰かが感じるのを見たくありません。わたしは、あなたがた全員が真理と神への理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望んでいます。あなたがこれまでどのような悪いことを行なったとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど過ちを犯したとしても、そうしたことを神を知ろうとする追求における負担や重荷としてはなりません。絶えず前進しなさい。人間を救うことは常に神の心にあります。これは決して変わりません。これが神の本質のなかで最も貴い部分です。

『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 6」より引用

712. 初めのときから今日に至るまで、神と対話できるのは人間だけでした。つまり、すべての生き物と神の被造物の中で、人間以外に神と対話できるものはいなかったということです。人間には耳があって聞くことができ、目があって見ることができます。また人間は言葉、自分の考え、そして自由な意志をもっています。神が語るのを聞き、神の旨を理解し、神からの使命を受け入れるにあたり、人間はそのために必要なものをすべて持ち合わせており、それゆえ神は自身の一切の望みを人間に託すとともに、自身と同じ心をもち、ともに歩める仲間にしたいと願っているのです。神は経営を始めて以来、人間が自分の心を神に捧げ、神によって清められてそれを備え、神を満足させて愛されるもの、神を畏れ悪を避けるものにしたいと願っています。神はその実現をずっと心待ちにしています。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より引用

713. 全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。この信念は知覚のない人々においてはまだ実現していない。しかし人々はまだそれを切望している。全能者は深い苦しみの中にあったこのような人々に慈しみを抱く。同時に、全能者は何の知覚もないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならなかったからである。全能者は探したい、あなたの心と霊を探し、あなたに水と食料を施したい、あなたを目覚めさせたいと思っている。それにより、もはやあなたが渇きと飢えを感じないようにである。あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが「父」ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を。全能者は切実な思いで見守り、そして答えのない応答を待っている。全能者の見守りはきわめて貴重であり、それは人間の心と霊のためである。この見守りは無期限かもしれないし、それは終わりの段階にあるのかもしれない。しかし、あなたは自らの心と霊がたった今どこにあるのかを正確に知らなくてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より引用

714. 神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用

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