唯一の神自身 3

神の権威(その2)

本日は、引き続き「唯一の神自身」に関して伝える。この主題については、1回目の神の権威関連、2回目の義なる性質関連と、既に2回にわたって話をした。これら2回の話を聞いて、あなたがたは神の身分、地位、そして本質について新たな理解を得たであろうか。これらの見識は、神の存在の真理に関するより本質的な認識と確実性を得る上で役立っているであろうか。本日は、「神の権威」の事項について、より広範に話をする予定である。

マクロ的観点とミクロ的観点から神の権威を理解すること

神の権威は、唯一無二である。神の権威は、神自身の身分の性質の表出であり、特定の本質である。創造物やそれ以外の物事のうち、そうした性質の表出と特別な本質があるものは存在しない。その種の権威があるのは、創造主のみである。すなわち、創造主つまり唯一の神のみが、そのような形で表出し、唯一の神のみに、そのような本質がある。神の権威の話をするのは何故か。神自身の権威は、人間の考えの中にある権威と、どのように異なるであろうか。神の権威の特殊な点は、何であろうか。ここで話をするほどに、神の権威がとりわけ重要である理由は何であろうか。この問題については、あなたがた各人が注意して検討しなければならない。大部分の人々にとって「神の権威」は曖昧な概念であり、理解が極めて困難な概念であり、神の権威に関する議論は、漠然としたものとなりがちである。したがって、人間が知る事のできる神の権威に関する認識と、神の権威の本質の間には、やむを得ない隔たりが出来る。この隔たりを埋めるためには、人間の手の届く範囲にあり、人間が理解できる、実生活における人々、出来事、物事、現象により、漸進的に神の権威を知る必要がある。「神の権威」という言葉は理解し難いものに感じるかもしれないが、決して抽象的なものではない。神は人間の生活の中で、あらゆる瞬間に人間とともにあり、人間を日々導いている。したがって、各個人の日常生活において、その者は必然的に神の権威の最も具体的な側面を目撃し、経験している。この具体性は、神の権威が実際に存在することの十分な証明であり、この具体性により、神にその権威があるという事実を完全に認識し、理解することが可能である。

神は万物を造り、また造られた万物の主権を持っている。神は、万物の主権を持っているほか、万物を制御する。「万物を制御する」という概念は、何を意味するであろうか。その概念は、どのように説明できるであろうか。その概念は、実生活にどのように適用されるであろうか。「万物を制御する」とい事実を理解することにより、どのように神の権威を知ることが出来るのであろうか。「神が万物を制御する」という言葉により、神が制御する物事は、惑星や創造物の一部ではなく、ましてや人類の一部ではなく、全てのものであることを知るべきである。それは巨大な物から微小な物まで、見えるものも見えないものも、宇宙の惑星も地球上の生き物も、肉眼で見ることのできない微生物や、その他の形態で存在する物まで、全てである。これが、神が「制御」している「万物」の正確な定義であり、神が権威を及ぼす、神による統治と支配の範囲である。

宇宙、すなわち惑星、天の星は、すべて人類が出現する以前に、既に存在していた。マクロレベルでは、こうした天の物体は、神の支配下で、それらが存在している年月を通して、軌道を規則的に回り続けてきた。どの惑星が、何時、何処に移動するか、どの惑星が何時どのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星が何時消滅するか、置換されるかなどといった事柄は、すべて寸分違わず正確に進行している。惑星の位置や惑星同士の間の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで説明可能である。惑星が移動する経路、速度、そして軌道の規則、特定の位置に到達する時刻は、正確に数値で表し、特定の法則により説明できる。数十億年にわたり、惑星は、これらの法則に全く逸脱することなく従ってきた。惑星の軌道や、惑星が従っている規則性を変化させたり中断させたりすることのできる力は存在しない。惑星の運動を律する特定の法則と、それを解明する正確なデータは、創造主の権威により事前に決定されており、惑星は創造主の統治と制御の下で、そうした法則に自然と従う。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして異常で説明出来ない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではない。人類は神が存在することを認めず、創造主が万物を造り、支配しているという事実を受け入れず、さらには創造主の権威の存在を認めないにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより支配され、制御されているという結論に達することが益々多くなってきている。この事実により、人間は、こうした規則性の中に全能者が存在し、全てを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっている。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることが出来る者はいないものの、彼は常に全てを支配し、制御している。彼による統治を超えることが出来る者や力は存在しない。こうした事実に鑑み、人間は万物の存在を支配する法則は人間が制御したり変えたり出来ないものであること、こうした法則は人間が完全に理解できないものであることを認める必要がある。さらに、そうした法則は自然に発生するものではなく、支配者により支配されている。こうした物事は、全て人間がマクロレベルで認識できる神の権威が表出されたものである。

ミクロ段階では、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、植物、動物、微生物、人類を含めた地球上の万物は、全て神の権威の対象であり、神により支配されている。神による統治と支配の下においては、万物は神の旨に従って出現し、消滅し、その生命は全て特定の法則により管理され、その法則に従って生長し、繁殖する。これらの法則を超える人間や物事は存在しない。それは何故であろうか。それは神の権威のためであり、それが唯一の理由である。言い換えると、神の旨と言葉が理由であり、神自身が全てを行っていることが理由である。すなわち、こうした法則を出現させるのは神の権威と心であり、そうした法則は神の旨により移行し、変化し、そうした移行と変化は、神の計画のために発生し、消滅する。例として、疫病を挙げる。疫病は何の前触れもなく流行し、その起源や正確な発生原因を知る者はおらず、疫病がある場所へと拡大すると、その場所で感染した者は、その被害から逃れられない。人間の科学では、疫病が悪性または有害な微生物の拡散により発生することが確認されているが、その感染の速度、範囲、方法は、人間の科学で予測したり制御したり出来ない。人間はあらゆる手段で疫病に対抗するが、疫病が流行した時に、どの人間や動物が被害を受けざるを得ないかを制御することは出来ない。人間が出来ることは、それを予防し、対抗し、研究することのみである。しかし、いずれの疫病についても、その発生と消滅の原因を知る者も、また誰もその発生と消滅を管理できる者もいない。疫病が発生して蔓延した時、人間が行う最初の対策はワクチンの開発であるが、ワクチンが用意される前に疫病が自然と消滅することが多々ある。疫病が消滅するのは何故であろうか。病原菌対策が効果を発揮しているためという者もいれば、季節の移り変わりにより消滅するという者もいる。こうした推測が理に適っているかどうかに関しては、科学により説明することも、正確に回答することもできない。人類が直面するのは、こうした推測だけではなく、疫病に対する知識の欠如や畏怖である。最終的に、疫病の発生や消滅の理由を知る者は誰もいない。人類は科学のみを信じ、科学に全面的に依存しているが、創造主の権威や統治を認めないため、人類は決してその答えを得ることが出来ない。

神による統治下において、万物は神の権威と経営により存在し、消滅する。密かに出現して消滅する物事もあり、人間はそうした物事の発生源やそれらが従う原理を把握できず、ましてやその出現や消滅の理由を知ることなど出来ない。人間は万物のうちに出現する物事すべてを目撃し、聞き、経験することが可能であり、またそうした物事は全て人間と関与しており、さらに人間は様々な現象について無意識のうちに異常や規則性、異様ささえも捉えるものの、人間はその背景にある創造主の旨や心について、何も知らない。そうした物事の背後には様々な経緯と隠された事実がある。人間は創造主から遠く離れてしまい、創造主の権威が万物を支配しているという事実を認めないので、創造主の権威の下で発生する物事を、人間は決して知ることも理解することもできない。神による支配と統治は、大部分が人間の想像、知識、理解の範囲や、人間の科学により到達可能な範囲を超越しており、被造物である人類の能力が対抗できるものではない。「あなた自身が神による統治を見た事が無いにもかかわらず、万物が神の権威の対象であると信じられるのは何故か」と言う者もいる。見ることが、常に信じること、認めること、理解することであるとは限らない。それでは信じることは、何に基づくものであろうか。それについては「信じることは、物事に関する事実とその原因に関する人々の理解と経験の程度と深さに基づくものである」と、確信を持って言える。神が存在すると信じ、しかし万物に対する神の支配と統治を認めることが出来ず、ましてやそれを感じることが出来ない場合、心の中では、神にこの種の権威があり、その権威は唯一無二であることを認めることは決して無いであろう。あなたは、創造主があなたの主であり、神であることを真に受け入れることは、決して無いであろう。

人類の運命と万物の運命は創造主による統治と不可分である

あなたがたは皆、成人である。あなたがたの中には、中年の者もいれば、高齢者もいる。未信者から信者となるまでの間、そして神への信仰を持ち始めてから神の言葉を受け入れ、神の業を体験するまでの間に、あなたがたには神による統治に関する認識がどの程度あったであろうか。人間の運命について、どのような識見を得たであろうか。人間は、生涯のなかで望みを全て叶えられるであろうか。あなたがたは、数十年の生活のなかで、自分の望みをいくつ叶えることが出来たであろうか。叶わなかった望みはいくつあるだろうか。思いもよらなかった喜びはいくつあるだろうか。未だに結実するのを待っていたり、好機を無意識に待っていたり、天の意を待っていたりする事柄はいくつあるだろうか。絶望的で行き詰まったと感じた事柄はいくつあるだろうか。自分の運命には、皆大きな希望を抱き、全てが思い通りになり、衣料や食料が不足せず、財産がめざましく増えることを期待する。貧しく、虐げられ、困難で、災いに苛まれる人生を望む者はいない。しかし人間は、こうした物事を予測することも、操作することも出来ない。一部の人々にとって、過去は様々な経験の無秩序な寄せ集めに過ぎず、そうした人々は天の旨を知る事も、それが何かを考えることも無い。こうした人々は、動物のように、何も考えずに毎日を過ごし、人類の運命や、人類が生きている理由、人間はどのように生きるべきかなど考えることは無い。こうした人々は人類の運命について何も理解することなく年老いてゆき、死ぬときまで人生の意味について何も知ることは無い。そうした人々は死んでおり、魂の無い獣のような生き物である。人間は万物の中で生活し、この世で人々の物質的な需要を満たす様々な方法により快楽を得、この物質世界が継続的に進歩しているのを見ているにもかかわらず、自分自身の経験、すなわち人間の心や霊が感じる事柄は、物質的な事柄と何ら関係が無く、また、物質的な事柄はそうした経験の代替ではない。そうした経験は人間の心で深く認識する物事であって、目に見えないものである。そうした認識は、人生と人間の運命に関して、その者が理解し、それを感じることの中にある。そして多くの場合、そうした認識の結果として、目に見えない支配者が人間のために万物を用意し、指揮していることの理解へと繋がる。こうした物事の中では、人間は運命の定めや指揮を受け入れざるを得ず、また同時に、人間は創造主が計画した将来の道、創造主による個人の運命の統治を受け入れざるを得ない。これは疑いの無い事実である。運命に関して人間がどのような見通しを立て、どのような姿勢であったとしても、その事実を変えられる者はいない。

あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、「創造主の権威は超越不可能である」という知らせを伝えないもの、「創造主の権威は至高のものである」という恒久の真理を伝えないものは存在しない。

人類の運命と万物の運命は、創造主による統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を神の権威から引き離して翻弄することはできない。人間は、万物の法則により創造主の指揮と統治を理解するようになり、生存の法則により創造主の統治を認識し、万物の運命により創造主がその万物に対する統治と支配を行使する方法に関して結論を得る。また人間は、人間と万物のライフサイクルによって、万物やあらゆる生物に対する創造主の指揮と采配を真に経験し、そうした創造主による統治や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や威力よりも優先されるのを目の当たりにする。これに鑑みると、創造主による統治は、いかなる被造物も侵害出来ないものであり、いかなる権力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したり出来ないものであることを、人類は認めざるを得ない。人類や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われる。これは創造主の権威が真に具現化されたものではなかろうか。人間は客観的な法則の中に、あらゆる出来事や万物の創造主による統治と定めを見出すが、創造主による宇宙の統治の原理を把握できる人間は何人いるであろうか。自分自身の創造主による統治と采配を真に知り、認め、受け入れて、それに服従出来る人間は何人いるであろうか。創造主による万物統治という事実を信じて、創造主が人生の運命も支配していることを真に信じ、認めることが出来る者は、誰であろうか。人間の運命は創造主の掌中にあることを真に理解できるのは、誰であろうか。創造主が人類の運命を支配し、管理しているという事実に直面した時、創造主によるその統治に対して人類はどのような態度で向き合うべきかということは、その事実に直面する全ての者が判断すべきことである。

人間の人生における6つの節目

全ての者が、人生の中で一連の重要な節目を経験する。こうした節目は最も基本的かつ重要な段階であり、その者の人生の運命を決定する。次に、こうした人生の中で誰もが経験する重要な節目に関して概説する。

出生:第1の節目

ある者が生まれた時、どのような家庭に生まれるか、性別、容姿、出生時期などが、人間の人生における第1の節目の内容である。

第1の節目のこうした部分に関して選択出来る者はいない。それらの部分は、創造主により遙か以前に定められたものである。こうした部分は外的環境の影響を一切受けず、創造主により予め定められたこれらの事実は、人的要因によって変わることが無い。ある者の出生は、創造主が定めた運命の第1段階を、創造主が既に完了したことを意味する。創造主は遙か以前にこうした詳細を全て定めているので、それらを変える力を持つ者はいない。その者の出生後の運命とは関係なく、その者の出生の条件は予め定められたものであり、定められた通りであり続ける。それらの条件は、その者の人生の運命や、その人生の創造主による統治に影響を与えることは、一切無い。

1.新たないのちは創造主の計画から生まれる

第1の節目の詳細すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が選択出来るものはあるだろうか。ある者の出生は、明らかに受動的な事である。その者は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家庭の一員となり、ある家系を継ぐ者となる。第1の節目において、人間には選択の余地が無く、創造主の計画に従って決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれるが、このことは、その者のその後の人生と密接な繋がりがある。この重要な節目に、人間は何が出来るだろうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間には選択の余地が一切無い。創造主による予定と導きが無ければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、全く無関係で、どこに属する事もなく、自分の家も無いであろう。しかし、創造主の周到な采配のため、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就く。この過程全体を通して、新たないのちの誕生は創造主の計画により決定され、そのいのちが持つあらゆる物事は、創造主によって新たないのちに与えられる。影も形も無い浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の被造物である有形の人間となってゆく。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界での日常活動に参加可能であり、造られた人間が人生で体験する必要のあること全てを体験する。ある者の出生に関する創造主による予定は、生存に必要な物事の全てを、創造主がその者に対し与えることを意味する。同様に、その者が生まれるということは、生存に必要な物事の全てを、創造主からその者が授かること、そしてその時点からは、別の形態で、創造主の備えのもとに、創造主の支配の下で、その者が生きるということを意味する。

2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由

人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、あるいは女性の場合は、白雪姫のような容姿で皆に愛されること、男性の場合は、全世界を意のままにし、何ひとつ不自由のない、白雪姫に登場する王子のようになる、などと想像することが往々にしてある。自分の出生について多々誤解している人は多く、彼らの多くは自分の出生に大いに不満を抱いている。自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも不満なのである。しかし人々は、自分が特定の家族に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを全く理解していない。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その旨は決して変わらないということを知らない。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、全て一時的なものである。こうした事は、神による全人類の管理の各段階における一連のささいなもの、僅かな象徴である。また、ある者の真の終着点と終わりの時は、どの段階においてもその者の出生により決定されていないが、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点における、その者に対する創造主の裁きにより決定される。

あらゆる結果には原因がある、結果に原因が無いことは無い、と言われている。したがって、ある者の出生は、必然的にその者のその時点における人生や前世と結びついている。ある者の死がその人生の終わりであるとすれば、その者の出生は新たな周期の始まりである。従前の周期がその者の前世であるとすれば、新たな周期は必然的にその時点における人生である。ある者の出生は、その者の前世と、その時点における人生と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿その他の要素は、全てそれらに関連している。つまり、その者の出生は、その者の前世に影響されるだけでなく、その時点の人生の宿命によっても決定される。このことにより、人間が生まれる様々な環境が説明される。貧しい家庭に生まれる者もいれば、裕福な家庭に生まれる者もいる。一般的な家庭に生まれる者もいれば、名家に生まれる者もいる。南部地域で生まれる者もいれば、北部地域で生まれる者もいる。砂漠で生まれる者もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる者もいる。喝采、歓喜、祝賀を伴って生まれる者もいれば、悲哀、災難、苦悩を伴って生まれる者もいる。生まれてから宝のように扱われる者もいれば、雑草のように見捨てられる者もいる。端正な容姿で生まれる者もいれば、奇抜な容姿で生まれる者もいる。愛らしい外観で生まれる者もいれば、醜い外観で生まれる者もいる。深夜に生まれる者もいれば、真昼の陽光の中で生まれる者もいる。様々な人間の出生は、すべてその人間のために創造主により準備された運命により決定される。その者の現在における人生の運命、その者が果たす役割、遂行する使命は、その者の出生により決まる。こうした物事は、すべて創造主による統治の対象となり、創造主により予め定められたものである。そうした定められた場所から逃れられる者、[a]その者の出生時の状況を変更出来る者、自分自身の運命を選択出来る者は、存在しない。

成長:第2の節目

人間は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受ける。これにより、ある者が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長[b]は個人の人生における第2の重要な節目となる。この節目においても、人間には選択の余地が無いことは言うまでも無い。この節目もまた、事前に定められた既定のものである。

1.人間の成長時の条件は創造主により決定される。

人間は、自分が成長する際に啓発や影響を受ける人物や要素を選択出来ない。人間は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択出来ない。人間は、誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかに干渉する余地は一切無く、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御出来る範囲外にある。それでは、こうした事柄は誰が決めるのであろうか。こうした事柄を事前に決めるのは誰だろうか。人間には、こうした事柄を選択することも、自分で決めることもできず、また明らかに自然と決まるものでも無いので、こうした事柄の形成は創造主の掌中にあることは言うまでも無い。創造主は、各人の出生する具体的な状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況も予め定めることは言うまでも無い。ある者の出生により、その者の周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、必然的にその者の成長や発達もまた、それらの人々や出来事、物事に影響を与える。たとえば、貧しい家庭に生まれるが、裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれるが、その家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいる。出生が一定の法則により管理されている者はおらず、必然的な一定の状況下で成長する者もいない。こうした物事は人間が想像したり制御したり出来るものでは無く、人間の運命の結果であり、運命により決定されるものである。無論、根本的にそうした物事は、創造主によりその者の運命に予定されている。その者の運命の創造主による統治と計画により決定されている。

2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる。

ある者の出生の状況により、その者が成長する環境や状況の基本的な水準が決定され、その者が成長する状況は、その者の出生の状況の結果でもある。その者は、この期間に言語を学び始め、その者の心は新しい物事に数多く遭遇してそれを吸収するようになり、その過程においてその者は継続的に成長する。その者が聞く事柄、見るもの、心で感じる物事は、その者の内部の世界を次第に豊かにし、活性化させる。その者が遭遇する人々、出来事、物事、その者が学ぶ常識、知識、技能、その者が影響され、植え付けられ、教えられる考え方の全てが、その者の人生の運命に影響を与える。ある者が成長する時に学ぶ言語とその者の考え方は、幼年期を過ごす環境と不可分であり、その環境は両親や兄弟姉妹その他の人々、出来事、その者の周囲にある物事で構成されている。したがって、ある者の発達は、その者の成長時の環境により決まり、また成長時に遭遇する人々、出来事、物事により異なる。その者の成育時の条件は遠い過去に定められているため、その過程における生活環境も必然的に定められている。それは、その者が好みで選んで決めたものではなく、創造主の計画にしたがい、創造主の入念な采配と、創造主によるその者の人生の運命の統治により決定される。したがって、誰であれその者が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の采配と計画に関連している。人間はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することも出来ない。ある者の成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる関連性を用意したり、指揮したりすることが出来る者はいない。創造主を除き、いかなる人間や物事も、様々な人々、出来事、物事の発生、存在、消滅を制御することが出来ず、ある者の発育を創造主により定められた通りに形成し、人の育成環境を形成し、創造主による経営の働きに必要とされる様々な役割を造り出して人間がその使命を完遂するための堅牢な基盤を固めるのは、極めて広大な網の目のような関連性である。

独立:第3の節目

ある者が少年期と思春期を経過し、当然の結果として徐々に成熟した後の段階は、青年期と訣別し、両親を離れ、独立した個人として将来の道へと向かうことである。この時点において[c]、人間は成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして自分の運命の鎖の接合部のひとつひとつと直面する必要がある。これが、人間が経験しなければならない第3の節目である。

1.人間は独立後に創造主による統治を経験するようになる

人間の出生と成長が、人間の運命の基礎を築くための人生の旅路の「準備期間」であるとすると、人間の独立は、その者の人生の運命における幕開けの独白である。ある者の出生と成長がその者の人生の運命のために蓄積された富であるとすると、その者の独立は、その富を消費ないし追加し始める時である。ある者がその両親を離れて独立する時、その者が直面する社会の状況、その者が得る職業や経歴は、共に運命により定められ、その者の両親とは無関係である。大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しの所で逃してしまい、その後の成功運は失われたように思われ、人生の旅路における初心の志が消沈する者もいる。先行きが順調か困難かが分からなくなった時[d]、そこで始めて、人間の終着点は実に様々だと実感し、生活に希望と恐れを抱く。それほど優れた教育を受けていないにもかかわらず、著書を出版し、ある程度の名声を得る者や、ほぼ無学でありつつ事業で生活できるだけの金額を稼ぐ者もいる…。自分が選ぶ職業や、生計を立てる手段などについて、その選択に成功するか失敗するかを、人間は制御できるであろうか。人間が望み、決定した通りになるだろうか。大部分の者は、労働時間を減らし、収入を増やしたい、日照りや雨の中で骨折って労働したくない、身なりを良くしたい、目立ちたい、他人よりも優れた存在になりたい、家の名を上げたいと思う。人間の願望は極めて完璧であるが、人生の旅路の一歩を踏み出した時、人間の宿命がどれほど不完全であるかを認識するようになり、また自分の将来に大胆な計画を立て、大それた夢を抱くことが出来ても、それを叶える能力や力を持つ者や自分の将来を制御する立場にある者はいないという事実を、本当の意味で始めて理解する。自分の夢と直面する現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決して無い。そうした現実に直面するので、人間は決して満足することが無い。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいる。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められた物事は超越出来ない。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。

2.両親を離れ、人生の舞台で真面目に自分の役割を果たすこと

ある者が十分に成長した時、その者は親元を離れて独立することが出来るようになるが、この者が真に自分の役割を担い、人生における使命の曖昧さが無くなり次第に明瞭となるのはこの時である。名目上、この者は両親と密接に繋がっているが、その者の人生における使命と、果たすべき役割はその者の父母には無関係であるので、実際には、この密接な繋がりは、その者が独立してゆくに従って次第に消えてゆく。生物学的な面から見ると、人間は無意識に両親に依存せずにはいられないが、客観的に言うと、成人後、人間は自分の両親とは完全に分離した生活を送り、独自に決めた役割を果たす。子に対する両親の責任は、出生と子育てのほか、単に子に正式な成育環境を与えることである。なぜなら、創造主の予定を除き、人間の運命に関係する物事は無いからである。ある者の将来がどのようになるかを制御出来る者はいない。その者の将来は遙か以前に定められ、その者の両親でさえも変えられない。運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命がある。したがって、ある者の両親がその者の運命を阻むことも、その者が人生で担う役割に何らかの影響を与える事も出来ない。その者が生まれる家庭や、その者の成育環境は、その者の人生における使命を果たすための前提条件でしか無いと言えるであろう。そうした物事は、何らかの形でその者の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中でその者が使命を果たすかを決めたりすることは無い。したがって、ある者の人生における使命遂行を、その者の両親が助けることも、その者の人生で担う役割を、その者の親類が助けることも出来ない。その者の使命遂行方法や、どのような生活環境で役割を遂行するかは、その者の人生の運命のみにより決定される。つまり、創造主により予め定められたその者の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることは無い。人間はみな、自分に特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たし、自然と無意識のうちに人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めと統治のために、被造物として自分の責任を全うする。

結婚:第4の節目

ある者が成長して成熟すると、自分の両親や自分が生まれ育った環境から離れて行き、自分の両親とは異なる、自分の人生の方向性と人生の目標を追究するようになる。この時、その者は両親を必要としないが、一緒に生活出来る者、すなわちその者の運命が密接な関連性を持つ、配偶者を必要とする。このように、その者が独立してから最初に遭遇する主要な出来事は結婚であり、それが、人間が経験する必要のある第4の節目である。

1.人間には結婚に関して選択の余地が無い

誰にとっても結婚は人生における重要な出来事であり、人間が様々な役割を本当の意味で担う時であり、次第に様々な使命を遂行し始める時である。人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。

人間は、人生において多数の人々に出会うが、誰が結婚相手となるかを知っている者はいない。誰もが結婚という問題に対する個人的な概念や意見を持っているものの、結婚に関して、最終的に誰が相手となるかを予測出来る者はいない。また、自分の意向はほぼ問題外である。自分が好きな人物と出会い、その後その人物を追いかけることは出来るが、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められる問題ではない。自分が慕う人物は、必ずしも自分が人生を共に出来る相手ではない。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が不可分に結びついている人物、すなわち配偶者となる。そうしたわけで、世界には数百万の結婚があるが、それぞれの結婚は他の結婚とは異なるものである。不満な結婚、円満な結婚、東西にまたがる結婚、南北にまたがる結婚、完璧な相性の結婚、同じ階級同士の結婚、幸福で調和した結婚、辛く悲しい結婚、羨望される結婚、誤解され、疑問視される結婚、幸福に満ちた結婚、涙に溢れた絶望的な結婚は、それぞれいくつあるだろうか。こうした様々な結婚の中で、人間は結婚生活への忠誠、一生の約束、愛情、慕情、不可分性などを示し、あるいは放棄、理解の欠如、背信、時には憎悪などを示すこともある。結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わる事が無く、したがって皆それを全うする必要がある。また、それぞれの結婚の背景にある運命は変わらない。なぜなら、それは創造主により遙か以前に定められているからである。

2.結婚は2人の配偶者の運命によって誕生である

結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。表面的には、結婚の目的は人類の存続であるが、実際は、結婚はその個人が使命を全うする過程で経験する儀式に他ならない。結婚において人間が果たす役割は、単に次の世代を養育することだけではない。結婚を継続する過程においてその者が担う様々な役割とその者が果たす様々な使命がある。ある者の出生は、人々、出来事、その者の周囲の物事に影響を与えるので、その者の結婚もまた必然的にそうした物事に影響を与え、さらにそうした物事を色々な意味で変化させる。

ある者が独立する時、その者は自分自身の人生の旅路に就くが、その旅路は、その者の結婚に関連する人々、出来事、物事へと、その者を段階的に導いてゆく。それと同時に、その者と結婚する他方配偶者もまた、その者と同じ人々、出来事、物事へと次第に導かれてゆく。創造主による統治下において、関係の無い個人2名が関係する運命を共有し、次第に結婚する方向へ進み、奇跡的に家族、すなわち「1本の縄にいる2匹のいなご」となる。したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。

子孫:第5の節目

結婚後、人間は次の世代の養育を開始する。どのような子どもが何人生まれるかについて、人間は干渉する余地が無く、それもまた、創造主が予め定めた、その者の運命により決定される。これが、人間が経験しなければならない第5の節目である。

一人の人間が子の役割を果たすために生まれた場合、その者は、別の子の親としての役割を果たすため、次の世代を養育する。こうした役割の変化により、その者は人生の様々な段階を、様々な立場で経験する。またこれにより、その者に様々な人生経験が与えられ、そうした様々な経験において、その者はそうした経験に共通する創造主による統治、そして創造主の定めを逸脱したり変更したり出来る者はいないという事実を知るようになる。

1.人間は自分の子孫がどうなるかを制御出来ない

出生、成育、結婚は全て、様々な種類と程度の失望感を人間に与える。家族や容姿に不満がある者もいれば、両親が嫌いな者や、成育環境に対して憤慨したり、沢山不服を持ったりする者もいる。そして大部分の人々にとって、こうした失望感のなかでも、結婚が最も大きな不満となる。出生や成長、結婚にどれほど不服であるかを問わず、そうした節目を既に経験した者は、自分の出生地や出生期日、自分の容姿、自分の両親、自分の配偶者を選ぶことは出来ず、天の意を受け入れるほか無いことを知っている。しかし、人間が次の世代を養育する時になると、人間は自分の半生で叶わなかった願望を子孫に期待し、自分が経験した失望感が、子孫により埋め合わせられることを願う。そうしたわけで、自分の娘は息を呑むような美女に育つ、自分の息子はさっそうとした紳士に育つ、自分の娘は教養が高く才能に溢れている、自分の息子は優等生になり、卓越したスポーツ選手になる、自分の娘は優しくて気立てが良く、感情が豊かになる、自分の息子は聡明で能力が高く、気配りの利く者になるなど、人々は自分の子に関して様々な幻想にふける。人間は、自分の娘であれ息子であれ、年長者を敬い、両親に配慮し、皆に愛され、称賛される者となることを願う。この時点では、人生の新たな希望が膨らみ、心の中で新たな情熱に火が点く。人間は、自分の人生においては自分が無力であり、絶望的であること、何かに卓越する機会や希望は二度と無いこと、自分の運命を受け入れるほか無いことを知っている。そうしたわけで、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想を、次の世代に期待し、自分の子孫が自分の夢を叶え、願望を実現する助けとなること、そして自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望む。つまり、人間は自分の子が幸運に恵まれることを願う。人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、自分の子の運命は自分の掌中には無いということを知らないであろうか。人間は、自分が自分自身の運命の主では無いにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全く無いにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとする。人間は、自己を過信していないだろうか。これは人間の愚かさと無知さではなかろうか。人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。自分にとって子が祝福となっている者もいれば、自分にとって子が呪いとなっている者もいる。自分達は聡明であるが、知能の発達が遅い子を授かる夫婦や、自分達は勤勉で誠実であるが、育てている子が怠惰な両親もいる。自分達は親切で正義感があるが、悪賢く残忍な子を授かる両親もいる。自分達は心身共に健全であるが、障害を持つ子を授かる両親もいる。自分達は平凡で出世できないが、偉業を成し遂げる子を授かる両親もいる。自分達は低い身分であるが、授かった子の身分が高くなる両親もいる。

2.人間は、次の世代を養育した後、運命に関する新たな認識を得る

結婚する者は、大部分が30歳前後で結婚するが、その時点において、そうした者には人間の宿命に関する認識が全く無い。しかし、子育てを始めると、子が育つにつれ、人間は新たな世代がその前の世代と同様に人生を送り、同様の経験をするのを目の当たりにし、そうした状況に自分の過去が反映されているのを見て、自分達の道と同様に、若い世代が進む道も、計画したり選択したりすることが出来ないことに気付く。人間は、そうした事実に直面すると、あらゆる人間の運命はあらかじめ決められていると認めざるを得ない。そして人間は、自分の願望を、それほど意識せずに捨て去り、心に秘めた情熱は冷めてゆく。そうしている間に、人間は人生における重要な節目をほぼ全て通り越し、人生に関する新たな認識を得て、新たな姿勢をとるようになる。その年齢の人間は、将来にどの程度期待し、どのような物事を見込むことが出来るであろうか。王子が現れるのを夢見続けている50歳の女性はいるであろうか。白雪姫を夢見続けている50歳の男性はいるであろうか。醜いアヒルの子から白鳥へと生まれ変わることを願い続けている中年女性はいるであろうか。高齢男性には、若い男性と同じ昇進の道が開かれているであろうか。要するに、男性か女性かを問わず、この年齢に達した者は、結婚、家族、子について比較的合理的かつ実践的な姿勢になる可能性が高い。そうした者には、基本的に選択肢が無く、運命への挑戦へと駆り立てられる事も無い。人間の経験に関しては、人間がこの年齢に達すると、自然と「運命を受け止める必要がある。子どもには独自の運命があり、人間の運命は天により定められたものである」という姿勢になる。真理を理解しない人々の大部分は、この世の栄枯盛衰や挫折、苦難を経験してきた後、人生に関する識見を「それが運命である」というひと言で表現する。このひと言は、人間の運命が世俗的結論と理解で要約されたものであり、また人類の無力さを表現し、当を得ている、正しいと言える。しかしながら、それは創造主による統治に関する認識からは遠くかけ離れたものであり、創造主の権威に関する認識に代わるものでは無い。

3.運命を信じることは、創造主による統治に関する認識に代わるものでは無い

運命に関する認識について、長年にわたり神に付き従って来たあなたがたの認識と俗世人の認識には大きな違いがあるであろうか。あなたがたは、創造主による定めを真に理解し、創造主による統治を真に知ったであろうか。「それが運命である」という言葉について深い思いのこもった認識がある者もいるが、そうした者は神による統治や、人間の運命は神により定められ、指揮されているということを一切信じず、神による統治に服従したがらない。そうした者は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほか無い。しかし、人間の運命は神による統治下にあることをそうした者は気づかない。彼らは人間の自発性への神の統治に気づくことができず、ゆえに、神の権威を認識し、神の采配や計画に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下で生きることが出来ない。換言すると、運命を受け入れることは、創造主による統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神による統治を受け入れ、認め、知ることではなく、単にその事実と外的現象を認めることである。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、神が万物の運命を支配する元であることを認める事、さらには創造主による人間の運命に対する采配と計画に服従する事とは、異なるものである。ある者が運命のみを信じ、それについて深く理解しているが、それにより人間の運命の創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け入れることが出来なければ、その者の人生は悲惨なものとなり、虚無のうちに生きる人生となり、創造主による統治に服従する者となることも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することも出来ない。創造主による統治を本当に知り、経験する者は、受動的でも絶望的でもなく、能動的であるべきだ。その者は、全てが運命であることを認めると同時に、全てのいのちは創造主による統治下にあるという人生と運命の正確な定義を知っている必要がある。ある者が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、その者は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知る。その者が気付かぬうちにその者を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画である。創造主による統治を受け入れ、神の救いを得ることが出来るということは、何と幸運なことであろうか。ある者の自分の運命に対する姿勢が受動的である場合、それは、神がその者のために用意したあらゆる物事をその者が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味する。神による人間の運命統治に対するその者の姿勢が能動的である場合、その者が自分の旅路を回顧し、神による統治を真に把握するようになった時、その者は神が用意した物事の全てに従うことを一層強く望むようになり、その者の運命において神が指揮すること、それ以上神に反抗しないことに、一層強い決断と確信を得るであろう。運命や神による統治を理解せず、霧の中を敢えて手探りでよろめきながらさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かる。したがって、人間の運命の神による統治を人間が認めた時、賢明な者は、それを知り、受け入れて、引き続き運命に逆らい、いわゆる人生の目標を自分のやり方で追究する代わりに、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別する。ある者にとって神が存在せず、神が見えず、神による統治を明確に認められない場合、毎日は無意味であり、無価値であり、悲惨である。その者がいる場所、その者の職業を問わず、その者の生業やその者の目標追求は、その者に終わりなき悲嘆と癒やされることのない苦痛をもたらすだけで、顧みるに耐えがたいものである。その者が創造主による統治を受け入れ、創造主の指揮と采配に従い、真の人間生活を求めた時のみ、その者はそうした悲嘆や苦痛から徐々に解放され、人生のあらゆる空虚感が払拭されるであろう。

4.創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる

人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。しかし、人間は決してそれに成功することは無く、あらゆる行動が妨害される。その者の魂の奥深い所で発生するそうした葛藤は苦痛であり、その苦痛は忘れられないものであり、その者は常に自分の人生を浪費する。こうした痛みの原因は何であろうか。神による統治が原因であろうか、それともその者が生まれた時から不運であったことが原因であろうか。あきらかに、そのいずれも原因ではない。根底にある、人間が進む道、人間が選択する生活方法が原因となっている。こうした物事に気付かない者もいる。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。大部分の人々の状態から判断すると、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるが、客観的には、創造主による人間の運命統治の実際の価値や意義を真に把握出来ず、創造主による統治を認め、それに従う事も出来ず、まして創造主の指揮や采配を求め、受け入れる方法を知ることなど出来ない。そうしたわけで、ある者が、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を真に認められず、創造主による統治に真に服従できない場合、その者にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られたり捕らわれたりすることを避けること、運命や神の権威に対抗する厳しい葛藤による痛みを払拭するのは困難であろう。またその者にとって、真に解放されて自由になり、神を礼拝する者となることも困難であるのは、言うまでもない。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。これは簡単に思えるが、行うのは困難である。苦痛を感じるものと、感じない者がいるであろう。喜んで従うものと、そうでないものがいる。喜んで従わない者は、それを行う事を望む気持ちと決意が不足している。つまり、そうした者は、神による統治を明確に認識し、人間の運命を計画し、采配を行われるのは神であることを完全に知っているが、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねることを許さず、神の統治に従わず、神の指揮と采配に立腹している。そうしたわけで、自分の能力を知りたい者が常に存在する。そうした者は自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神による統治を超えることが出来るかどうかを試すことを望む。人間の悲しみは、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けられずに、自分の過ちを頑固に押し通そうとすることである。人間は、全く悔い改めることなく、泥の中で戦い続け、頑固に創造主による統治に反抗し続け、悲惨な結末を見るまで拒否を続ける方が良いと考え、うちひしがれ、負傷して倒れた時、やっと諦めて戦いを止める。これが、人間の真の悲しみである。そうしたわけで、服従した者は賢者であり、逃れようとしたものは意固地になっていると言える。

死:第6の節目

慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで何の前兆もなく様々な人生の重要な節目を瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入る。過ごした年月は身体全体に刻み込まれている。もはや真っ直ぐ立つことは出来ず、濃色の頭髪は白くなり、明るく澄んだ眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化する。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなる。この時点で、人間は情熱溢れる若年期から完全に離別し、人生の終盤となる晩年期へと入る。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎える。

1.創造主のみが人間の生死に対する力を持つ

ある者の出生がその者の前世により運命づけられているとすれば、その者の死は、その運命の終焉となる。ある者の出生がその者のその人生における使命の始まりであるとすれば、その者の死は、その使命の終了となる。創造主は、ある者の出生の諸条件を定めているので、その者の死についても諸条件を定めていることは言うまでも無い。言い換えると、偶然生まれる者はおらず、予期されない死は無く、出生と死は必然的にその者の前世とその時の人生と関連している。ある者の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらはその者の終着点、運命である。各人の死は、出生について言えるのと同様に、様々な特定の状況下で発生するので、人間の寿命、死亡の経緯や時刻は様々である。強健であるが早死にする者もいれば、虚弱であるが長生きして安らかに永眠する者もいる。不自然な原因で死ぬ者もいれば、自然な原因で死ぬ者もいる。自宅から遠く離れて死ぬ者もいれば、側にいる家族に看取られて死ぬ者もいる。空中で死ぬ者もいれば、地下で死ぬ者もいる。水中に沈む者もいれば、災害の犠牲者となる者もいる。朝死ぬ者もいれば、夜死ぬ者もいる。人間は、皆華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望むが、自分の運命から脱したり、創造主による統治から逃れられたりする者はいない。これが、人間の運命である。人間は将来に向けて様々な計画を立てることができるが、出生と他界の時期や状況は誰にも計画できない。人々は死を回避し、拒否しようと最大限努力するが、死は人知れず静かに近付いて来る。自分の死期やどのように死ぬかを知る者はおらず、ましてや何処で死ぬかを知る者はいない。生死の力を持つのは人類では無く、自然界の生き物では無く、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかである。人間の生死は自然界の法則の結果ではなく、創造主の権威による統治の結果である。

2.創造主による統治を知らない者は、死の恐怖に苛まれる

ある者が老年になると、その者が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生をどのように終えるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかである。表面的には、人間は死に対して少しも気にかけていないように思われるが、その問題を追究せずに済む者はいない。なぜなら、死後に別の世界、人間が感じたり把握したり出来ない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る者はいないからである。そのことが原因となり、人間は死に直面すること、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限努力する。したがって、皆死を恐れ、死という不可避な人生の事実が神秘とされ、人間それぞれの心に消えない影が出来る。

自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人間は曖昧で表現し難い恐怖を覚える。死に対する恐怖により、人間は一層淋しさと絶望感を感じ、この時点で、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、その人生の終わりの時なのだろうか、結局人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問する。そうした具体的な疑問について検討したことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人間の心の奥深くには、生命の謎や未知の事柄を探索したいという欲求があり、またそれに紛れて、この世に対する未練、この世を去ることの不本意さがある。人間が何を恐れているか、何を探索したいか、何に未練があるか、何を去るのが不本意なのかを明解に説明出来る者は、おそらくいないであろう。

人間は死を恐れているので、過剰に懸念する。人間は死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのである。臨終する時、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも懸念すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように懸念する人もいる。またあたかも生きている者たちとの何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う絶望と淋しさから逃れられるかのように思う人もいる。人間の心底には、未確定の恐怖、愛する者と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことの恐怖がある。愛する者と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界に独りで立ち去るのを不本意だと感じる。

3.富と名声を追究した人生は、人間を臨終時に途方に暮れさせる

創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。両親のいる者は両親が全てであると考え、財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなものであり、いずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。人間がこの世を去ろうとする時、人間は、この世の物事は全て流れ去って行き、自分の所有物を保持できなくなるという漸進的な認識に達する。その後、人間は、泣いている幼児と同様に、自分が何も所有していないと実感する。この時点において、人間は人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、その者がこの世に現れた理由を考えさせられる。そしてこの時点において、人間は来世や天国、報いが実在するかを知りたい気持ちが次第に強くなる。人間が死に近ければ近いほど、人間は人生とは何かを知りたい気持ちが強くなる。死に近ければ近いほど、人間の心は益々空虚になり、絶望感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなってゆく。人間が死に近付く時このような思いになる理由は2つある。1つ目の理由は、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてから去ろうとしていることである。2つ目の理由は、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、神秘的な未確認の領域に独りで立ち向かおうとしていることである。この2つの理由のため、人間は死に直面すると、皆不安になり、それまで知らなかった混乱と絶望感を覚える。人間は、この時点になって初めて、この世に現れた時、最初に理解すべきことは、人間がどこから来るのか、何故生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に施され、それを統治するのは誰であるかを知る。こうした物事が人生における真の財産であり、人間の生存に不可欠な基盤であって、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知る事でも、人々よりも卓越した存在となる方法、一層豊かに生活する方法を知る事でもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を覚えることなどでは無い。人間が生涯をかけて覚える生存のための様々な技能により、物質的な快楽を豊富に得ることが出来るものの、そうした技能は人間の精神に真の平和と慰みをもたらすことは決して無く、むしろ継続的に人間に道を踏み誤らせ、人生の意味を知る機会を全て失わせ、適切に死を迎える方法に関し、隠された問題を造り出す。こうして、人々の人生は無駄になる。創造主は、全ての人間を平等に扱い、生涯にわたり創造主による統治を経験し、知る機会を全ての者に与えるが、人間には、死に近づき、自分に死の恐怖が差し迫る時まで光が見えるようにならず、その時は、既に手遅れである。

人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。それを強く感じれば感じるほど、人間は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近づくのを一層恐れる。人間は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御出来るものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は全く干渉できないこと、そうしたことが自分の制御出来る範囲外にあることを、この時点になるまで真に理解しない。

4.創造主による統治を受け、安らかに臨終を迎える

ある者が生まれた時、孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活経験、創造主の権威の経験を始める。その者すなわちその魂にとって、これが創造主による統治に関する認識を得て、創造主の権威を知り、それを自分で経験する格好の機会であることは言うまでも無い。人間は、創造主が人間のために定めた運命の法則に基づいて生する。理知と良心のある者にとって、地上における数十年の間に創造主による統治を受け入れ、創造主の権威を知ることは、それほど困難ではない。したがって、数十年にわたる自分の人生経験の中で、あらゆる人間の運命は予め定められていることを認め、生きることの意味を把握あるいは概括することは、誰にとっても極めて容易なはずである。こうした人生の教訓を受けると同時に、次第に人間は、いのちがどこから来るかを理解し、心が本当に必要とするものは何か、人間を真の人生の道へと導くものは何か、人生の使命や目標であるべきものは何かを把握する。また次第に人間は、人間が創造主を拝まず、創造主による統治の対象とならなかった場合、その者が死に直面した時、すなわちその魂が再び創造主に対面するとき、その者の心は無限の恐怖と不安で満たされるということを認識する。ある者が、この世に数十年存在してきて、それでも人間のいのちがどこから来るかを知らず、人間の運命が誰の掌中にあるかを認めずにいるのであれば、その者は安らかに臨終を迎えられないのは当然である。数十年の人生経験の後に創造主による統治に関する認識を得た者は、人生の意味と価値を正しく理解し、人生の目的に関する深い認識を持ち、創造主による統治の真の経験と理解があり、さらに創造主の権威に服従出来る者である。そうした者は、神による人類創造の意味や、人間は創造主を拝むべきであること、人間の持つものが全て創造主に由来し、近い将来に創造主へと還ることを理解し、また創造主が人間の出生を計画し、人間の死を支配し、生と死の両方が創造主の権威により予め定められていることを理解する。したがって、その者がそうした事柄を真に把握した時、その者は自然と安らかに死を迎えることができ、この世の所有物全てを穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け入れ、またそれに従い、創造主により計画された人生最後の節目を、盲目的に恐れ、避けようともがくのではなく、それを歓迎出来るようになるであろう。ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。そうした者は必然的に創造主に愛されて受け入れられ、また死に対して安らかな姿勢を取る。人生の最後の節目を喜んで歓迎出来るのは、そうした者のみである。ヨブは死に対して明らかにこの姿勢を取っていた。ヨブは人生最後の節目を喜んで受け入れる姿勢を取り、自分の人生の旅路を穏やかに終え、自分の人生における使命を全うして、創造主の許へと還っていった。

5.ヨブの人生における取り組みと進歩により、ヨブは安らかに死を迎えることができた

聖句では、ヨブについて、次のように述べられている。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記42:17)これは、ヨブが死んだ時、彼には何も後悔することがなく、苦しむことも無く、この世から自然と去ったことを意味している。皆知っている通り、ヨブは生きている時分に神を畏れ、悪を避けていた。神はヨブの正しい行いを讃え、人々はそうした行いを覚えている。ヨブの人生は、他の誰よりも価値があり、重要であった。ヨブは神の祝福を享受し、神はヨブを地にあって正しき者と呼び、また、ヨブは神からの試みに会い、サタンに試された。ヨブは神を証し続け、正しき者と呼ばれるに相応しいとされた。ヨブが神の試みに会った後の数十年間、ヨブは従前にも増して価値が高く、有意義で着実で、平和な人生を送った。ヨブの義なる業のため、神はヨブを試し、ヨブの義なる業のため、神はヨブに現れ、直接言葉を伝えた。それゆえに、ヨブは試された後の年月において、人生の価値を一層具体的に理解し、認識し、創造主による統治を一層深く理解し、創造主が祝福を与え、奪うことに関して、一層正確かつ確実な認識を得た。聖書には、ヨブに対してヤーウェがそれ以前よりも大きな祝福を与え、創造主による統治を知り、安らかに死と直面する上で更に有利な立場にヨブを立たしたことが記されている。したがって、ヨブが老いて死を迎えた時、ヨブは自分の財産について懸念しなかったことは確実である。ヨブには心配も後悔も無く、無論死に対する恐れも無かった。なぜなら、ヨブは生涯を通して神を畏れ、悪を避けて生活し、自分の最期を懸念する理由が無かったからである。現在、死に直面した時のヨブのように行動出来る者は何人いるだろうか。こうした簡単な態度を示すことが出来る者がいないのは何故だろうか。その理由は1つしかない。すなわちヨブは、神による統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごしたが、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を過ごし、晩年を過ごし、最期の節目を迎えた。ヨブが経験した事柄によらず、ヨブの人生における取り組みと目標は幸福であり、苦痛ではなかった。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や賞讃のみならず、より重要な理由があった。それは、ヨブの取り組みと人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主による統治に関する漸進的な認識と真の理解、そして更には、創造主による統治対象として、ヨブが人生において個人的に体験した創造主の奇跡の業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かく忘れがたい経験と記憶、創造主の旨を知ることに起因する慰めと幸福、神の偉大さ、驚異、愛すべき存在、忠義を理解した後に生まれる敬意である。ヨブが一切苦痛無しで死を迎えることが出来た理由は、ヨブは死ぬことで創造主の側に還ることを知っていたことである。そして、ヨブの人生における取り組みと進歩が、ヨブが安らかに死を迎えること、創造主がヨブのいのちを取り戻すことに冷静な気持ちで向き合うこと、さらには汚れのないまま、懸念すること無く神の前に立つことを実現させた。現在の人々はヨブが手に入れたような幸福を掴むことが出来るであろうか。あなたがた自身は、そうした幸福を掴む立場にあるであろうか。今日の人間はそうした立場にあるが、それではヨブのように幸福に生きられないのは何故であろうか。今日の人々が死の恐怖の苦悩から抜け出せないのは何故だろうか。死に直面した時、涙を流したり、震えたり、気絶したり、天と人間を非難したり、号泣したり、むせび泣いたりする者もいる。こうした反応は、死が近付いた時に突然現れるものでは決して無い。人間がこうした気恥ずかしい行動を取る主な理由は、心の奥深くで死を恐れていること、神による統治と采配に関する明瞭な知識や認識が無く、ましてそれに心から服従することなど無いこと、そして人間はあらゆる物事を自分で計画して管理し、自分の運命や人生、死を制御することしか望まないことである。したがって、人間は死の恐怖から逃れることが決して出来ないのは当然である。

6.人間は、創造主による統治を受け入れることによってのみ、創造主の側に戻ることが出来る

ある者に、神による統治や采配に関する明瞭な認識や経験が無い場合、その者の運命や死に関する認識は必然的に支離滅裂なものとなる。人々は、こうした事柄が全て神の掌中にあることを明確に見ることが出来ず、神がそうした事柄を支配、統治していることに気付かず、その統治を放棄したり、統治から逃れたりできないことを認めないので、死に直面した時、そうした人々の最期の言葉や懸念、後悔には際限が無い。そうした人々は、過剰な重荷、過剰な抵抗、過剰な混迷を負っており、それが原因で死を恐れる。この世に生を受けた者すべてにとって、自分の出生は必然であり、死は不可避であり、そうした過程を超越することは出来ない。苦痛を感じること無くこの世から去りたい、抵抗や懸念無く人生最後の節目と直面したいと願うのであれば、後悔しないようにすることが唯一の方法である。後悔せずに他界する唯一の方法は、創造主の統治と権威を知り、それらに服従することである。人間は、この方法のみにより、人間同士の不和、邪悪、サタンの拘束から離れることが可能となる。この方法のみにより、ヨブのような創造主に導かれ、祝福される人生、自由で解放された人生、価値と意味のある人生、正直で率直な人生を送ることが可能となる。そしてこの方法のみにより、ヨブのように創造主により試され、奪われるに従い、創造主による指揮と采配に服従することが可能となる。この方法のみにより、ヨブのように生涯を通して創造主を拝み、創造主の賞讃を得て、創造主の声を聞き、創造主が現れるのを目撃することが可能となる。この方法のみにより、ヨブのように苦痛や懸念、後悔無く幸福に生活して幸福に死ぬことが可能となり、この方法のみにより、ヨブのように光の中で生活し、光の中で人生のひとつひとつの節目を過ごし、光の中で穏やかに生涯を閉じ、造られた人間として創造主の統治を経験し、学び、知るという自らの使命を果たし、光の中で死んで、造られた人間として、永遠に創造主の側にあり、創造主の賞讃を受けることが可能となる。

創造主の統治を知る機会を逃してはならない

先述した6つの節目は、普通の人間全員が経験する必要のある、創造主により定められた重要な時期である。これらの節目は全て現実であり、不可避であり、そのすべてに創造主による定めと統治との関連性がある。人間にとって、それらの節目それぞれが重要な関門であり、それをいかにして円滑に通過するかは、現在人間全員が直面する極めて深刻な問題である。

人生を構成する数十年間は短くも長くも無い。出生から成人までの20年余りは一瞬にして過ぎ去り、人生のこの時点で成人とみなされるものの、この年頃の人間は、人生や人間の運命に関して、ほぼ何も知らない。多くの経験を重ねながら、次第に中年期へと移行する。30代と40代の者は人生と運命に関する初期的な経験を得るが、それらの問題に関する認識は依然として極めて曖昧である。40歳以降になって初めて、神が造った人類や宇宙、人生とは何か、運命とは何かについて一部の人が理解し始める。長年にわたり神に付き従って来て現在中年に達している者の中には、神の統治に関する正確な認識や定義を知らず、まして真の服従については知る由も無いという者もいる。祝福を受けることを求める以外気にしない者もおり、そうした者は長年生きてきたにもかかわらず、人間の運命に対する創造主の統治という事実に関する認識や理解が無く、したがって神の指揮や計画に服従することの実践経験が少しも無い。こうした人々は完全に愚鈍であり、人生を無駄に過ごしている。

人間の生涯を、その者の人生経験と人間の運命に関する認識の程度に基づいて区分すると、大まかに3つの段階に分けられる。第1段階は出生から中年あるいは30歳になるまでの青年期である。第2段階は中年から老年あるいは30歳から60歳までの熟年期である。第3段階は、老年期あるいは60代から他界するまでの晩年期である。換言すると、出生から中年に至るまでは、大部分の人々の運命や人生に関する認識は、他人の考えを踏襲するに留まるもので、その考えには現実的、実践的な部分が全く無いに等しい。この時期においては、人生や、世の中で生きていくための方法に関する見通しは、総じて極めて表層的であり、未熟である。これが人間の青年期である。人生の喜びや悲しみを全て味わって初めて、人間は運命を真に理解し、潜在意識で、そして心の奥底において、運命の不可逆性を徐々に認識し、人間の運命に対する創造主による統治が実際に存在することを少しずつ認識する。これが人間の熟成期である。運命に対抗して苦戦するのを止め、争いに巻き込まれるのを厭うようになり、自らの運命を知り、天の意に服従し、自分の人生における功績と失敗を概括し、人生に対する創造主の裁きを待っている場合、それは人間の完熟期である。こうした3段階の期間において人間が得る様々な経験や進歩を考慮すると、通常の状況では、創造主の統治を知る機会はそれほど多くない。ある者が60歳まで生きる場合、その者は神の統治を知るための期間は30年しか無い。その者がそれよりも長い期間を望むのであれば、その者が長生きして100年生きられる場合のみ、それが可能となる。それゆえ、ある者が創造主による統治を知るという問題に初めて直面する時から、その者が創造主による統治という事実を認めることが出来るようになり、その後それに服従出来るまでの過程は、極めて長期的な過程である。しかしながら、人間の存在に関する通常の法則によれば、その年月を数えると、そのように報われる機会があるのは、わずか30年ないし40年程度であると言える。しかるに、人間は、祝福を得るという自らの願望や大望に夢中になり、人生の本質が何処にあるかを見分けることが出来ず、創造主による統治を知ることの重要性を理解しないことが多々ある。そうしたわけで、人間の世界で人間の生活を送って創造主による統治を経験するという貴重な機会を大切にせず、創造主による個人的な導きを享受することが造られた人間にとってどれほど貴重であるかを認識することも無い。したがって、創造主を直ちに直接見て、近いうちに祝福されることが出来るよう、神の業が迅速に終わり、神が人間の終わりの時を出来るだけ早期に計画することを望む者は、最も重い反逆の罪の裁きを受ける究極的に愚かな者であると言える。その一方、限られた時間に、創造主による統治を知る機会を得ることを望む者は、賢く聡明な者であると言える。こうした2種類の願望は、2種類の全く異なる見通しと追求を露見させる。祝福を求める者は自己中心であり、卑劣であり、神の旨に対する配慮を全く示さず、決して神による統治を知ろうとも、それに従おうともせず、単に自分の好きなように生きることを望む。そうした者は浮かれて堕落した者であり、滅ぼされるべき種類である。神を知ることを望む者は、自分の欲望を捨てることが可能であり、神による統治と計画に進んで服従し、神の権威に従う者、神の望まれる事柄を満たす者になろうとする。こうした者は光と神の祝福の中で生活し、確実に神の賞讃を享受する。いかなる場合であっても、人間が選ぶ物事は無益であり、神の業の所要期間について干渉出来ない。人間にとって、自らを神の采配に委ね、神による統治に服従する方が良い。あなたが自らを神の采配に委ねないとしたら、あなたに何が出来るであろうか。神に損害が及ぶであろうか。神の采配に自らを委ねずに、自らが担い手になろうとした場合、あなたの選択は愚かであり、最終的に損害が及ぶのは、あなたである。人間が出来る限り早く神に協力し、急いで神の采配を受け入れ、神の権威を知り、神の人間に対する業のすべてを理解した場合に限り、人間に希望があり、人間は人生を無駄に生きること無く、救いを得るであろう。

神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない

ここまでの話を聞いて、あなたがたの運命に対する考え方は変わったであろうか。神による人間の運命の統治を、あなたがたはどのように理解しているであろうか。簡潔に言うと、神の権威の下では、全ての者が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け入れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど誤った道を進んだとしても、結局は創造主がその者のために定めた運命の範囲内に戻ってしまう。これが創造主の権威の凌駕することが不可能な性質であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法である。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態の制御と支配である。あなたがたは、こうした事柄全てを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解している。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に関する自分の認識により異なる。真理の事実をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の本質と性質をどの程度知っているかは、神による統治と采配に関するあなたがたの理解度を示すものである。神による統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているか如何に依存しているであろうか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するか如何により決まるであろうか。神の権威は、状況を問わず存在する。つまり、あらゆる状況において、神は人間の運命その他あらゆるものを、神の考えと望みに従って支配し、計画する。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変えられることが無い。なぜなら、神の権威は、神の本質そのものだからである。人間が神による統治を知って受け入れられるかどうか、そしてそれに服従出来るかどうかは、神による人間の運命の統治という事実に少しも影響しない。つまり、神による統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実が変わることは無い。たとえ神による統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神による統治を知ることが出来なくても、神の権威は依然として存在する。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることが無い。神の権威は全ての場所にあり、いつでも、どの瞬間も存在する。もし天と地が無くなるとしても、神の権威は決して無くならない。なぜなら、神は神自身であり、神に唯一の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからである。神は常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営(救い)の業を継続する。また神は、これまでと同様、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮する。そうした事柄は、誰も変えられない。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けている。

神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動

神の権威と、神が人間の運命を統治しているという事実を、人間はどのような姿勢で知り、扱うべきであろうか。これはあらゆる者が経験する難題である。実生活の問題に対処する時、神の権威と神による統治をどのように知り、理解すべきであろうか。こうした問題をどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、どのような姿勢で神による統治と計画に従っている自分の意向、願望、そして事実を示すべきであろうか。あなたは、まず待つこと、次に追究すること、その後に従うことを覚える必要がある。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の旨が徐々に明示されてゆくのを待つことである。「追求する」とは、神が計画した人々、出来事、物事により、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事により真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、人間に対して神がどのような結果を実現しようとしているか、人間に対して何を達成しようとしているかを理解することである。当然ながら、「従う」とは、神が計画した人々、出来事、物事を受け入れ、神による統治を受け入れ、それにより創造主が人間の運命をどのように支配しているか、どのようにして神が人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることである。神の采配と統治の下にある全ての物事は自然の法則に従っているので、自らの全てを神の采配と支配に委ねるとあなたが決心したのであれば、あなたは待つこと、追究すること、そして従うことを覚える必要がある。それが神の権威に服従することを望む者全てが取るべき姿勢であり、神による采配と計画を受け入れることを望む者全てに備わっているべき基本的な資質である。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要である。そうした努力をして初めて、あなたがたは本当の現実に入ることが出来る。

自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である

神の権威に関する真理は、全ての者が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべき真理である。なぜなら、こうした真理は全ての者の人生、過去、現在、そして未来と関係があり、また人生において全ての人間が通らなければならない重要な節目、人間の神による統治に関する認識、そして神の権威に対して取るべき姿勢と関係があり、必然的に全ての者の終着点と関係があるからである。したがって、こうした物事を知り、理解するには、一生涯の努力が必要となる。神の権威を深刻に捉え、神による統治を受け入れた時、人間は、神の権威は実在することに次第に気付き、理解する。しかし、神の権威を認めず、神による統治を受け入れなかったならば、何年生きていようとも、神による統治に関する認識は少しも得る事が出来ないであろう。神の権威を真に知り、理解しなかった場合、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において見せるべきものが全く無く、神による人間の運命の統治に関する認識は必然的に皆無となる。それは非常に悲しいことではなかろうか。したがって、人生の道をどの程度進んで来たか、現在何歳であるか、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを深刻に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け入れる必要がある。神による人間の運命の統治に関する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、全ての者にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得る鍵となるものであり、また全ての者が直面する、避けることの出来ない、神を知る上での生活と基本的な経験である。この目標を達成する近道を通りたいと思う者がいるかもしれないので、その者に言っておくが、それは不可能である。あなたがたの中に、神による統治から逃れたい者がいるかも知れないが、それはなおさら不可能である。神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである。神の権威は、人間だけでなく、人間には見えない創造物以外の生き物や、惑星、宇宙の統治も担う。これは異論の余地の無い、実在する事実であり、人間や物が変えられない物事である。もし、物事の現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている者がいたり、人間の力で自分の運命を変えたい、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている者がいたとすれば、その者に言っておくが、その者は自分で物事を困難にし、問題を買って出て、墓穴を掘っているのだ。遅かれ早かれ、その者は自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしていることに気付くであろう。あなたの運命に立ち向かう志と願望、大それた行動は、あなたを取り返しのつかない状態へと続く道へと導き、そのために辛い代償を払うこととなるであろう。今はその結果の重大性が分からないかも知れないが、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、認識するにつれ、わたしが言うこととその真意が徐々に分かるであろう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する者であるかは、神による統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まる。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まる。人生において神による統治と采配を感じたことが無く、ましてや神の権威を認め、受け入れたことなど無いのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢が原因となって、神が嫌い捨てる対象となることは間違い無い。しかし、神の業により、神からの試練と神による統治を受け入れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る者は、神の権威に関する真の認識と神による統治に関する真の理解を得て、真に創造主に従う者となるであろう。真に救われるのは、そのような者だけである。そうした者は、神による統治を知り、それを受け入れたため、そうした者の神による人間の運命の統治の認識と、その統治への服従は真正かつ正確である。そうした者が死に直面した場合、そうした者は、ヨブのように死を恐れない精神を得て、個人的な選択や願望無く神の采配と計画に従うことが出来るであろう。真に創造された人間として、創造主の許へと還ることができるのは、そうした者だけである。

2015年3月26日

脚注:

a. 原文では「~の状況」が省略されている。

b. 原文では「それ」となっている。

c. 原文では「この時点において」が省略されている。

d. 原文では「分からなくなった時」が省略されている。