唯一無二の神自身 9

神は万物のいのちの源である (3)

この期間、神を知ることに関する様々な主題を話してきましたが、最近はそれに関係する極めて重要な主題を話しました。その主題は何ですか。(神は万物のいのちの源である、です。)わたしが語った要点と題目は、みなさんにはっきりした印象を与えたようです。前回は神が人間のために造った生存環境と、神が人類のために用意した、人が生活するうえで必要な様々な必需品について、その二、三の側面に関する話をしました。実際のところ、神の業は、人々の生存環境を用意することや、日常の必需品を用意することに限られません。むしろそれは、人類の生存と生活に必要とされる多種多様な側面や要素に関わる、多数の神秘的かつ必要な業を完成させることから成っています。それはすべて神の業です。これらの神の業は、人間の生存環境や日常的な必需品を用意することに限らず、それよりはるかに広い範囲にわたっています。神はこれら二種類の業のほか、人間が生活するのに必要な多数の生存環境と生存条件を用意します。これが、本日話をする主題です。この主題も神の業と関係しています。そうでなければ、ここで話をしても無意味でしょう。人が神を知ることを望んでいても、「神」という言葉に関する文字どおりの認識、あるいは神が所有するものと神そのものの様々な側面にまつわる文字どおりの認識しかなければ、それは真の認識ではありません。それでは、神の認識に至る道とはどのようなものですか。それは、神の業を通じて神を知るようになり、神のあらゆる側面において神を知るようになることです。そこで私たちは、万物創造時における神の業という主題についてさらに交わりをもたなければなりません。

神が万物を造って以来、万物は整然と、かつ神が定めた法則に基づいて機能し、進化し続けてきました。神による見守りと支配のもと、人は生存し、同時に万物は整然と発展してきました。その法則を変えたり破壊したりすることができるものは何一つありません。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからです。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、転生する、ということです。春になると降り注ぐ雨が新鮮な季節の感覚をもたらし、地を潤します。地では雪解けが始まり、草が土を押し上げて芽吹き始め、木々も次第に緑色へと変わります。これらすべての生き物が、地に新鮮な活力をもたらすのです。これが、あらゆる生き物が現われ繁栄しているときに見られる光景です。ありとあらゆる動物が巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始めます。夏になると、すべての生き物が暑さのなかで日差しを浴び、夏の暖かさを楽しみます。草木や様々な植物が急速に生長し、やがて花を咲かせて実を結びます。夏の間は、人間を含めたすべての生き物が活発になるのです。秋には雨が涼しさをもたらし、あらゆる生き物が刈り入れの時期の到来を感じます。すべての生き物が実を結び、人間は冬に備えて食料を得るべく、これら様々な作物の刈り入れを始めます。冬になると、すべての生き物が静けさの中で落ち着き、寒い冬の訪れの中、人間もまた休息して冬を過ごします。季節から季節へ、春から夏、夏から秋、秋から冬への移り変わりは、すべて神が定めた法則によって生じます。神はこの法則を用いてあらゆる物事と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を作り出し、様々な気温と季節のある生存環境を用意します。ゆえに、こうした規律ある生存環境の中で、人間は規律ある形で生存し、繁殖することが可能なのです。人間はこの法則を変えることができず、どんな人や生き物もこれらの法則を打ち壊すことはできません。無数の変化が生じ、海は野に、野は海になったものの、これらの法則は存続し続けます。それが存在するのは神が存在するからであり、神の支配と経営のゆえなのです。この種の秩序ある、大規模な環境の中、人間の生活はそうした法則と規則の中で進歩します。これらの法則は何世代もの人々を養い、何世代もの人々がこれらの法則のもとで生存してきました。人々はこの秩序ある生存環境に加え、神が造った数多くの物事のすべてを何世代にもわたって享受してきました。たとえ人々が、この種の法則は生来のものだと思い、当然のものとして軽視したとしても、また神がこれらの法則を指揮し、支配していることを感じられなかったとしても、どんな場合であれ、神は絶えずこの不変の働きに従事しています。神がこの不変の働きを行なう目的は人類の生存であり、人類が生きられるようにするためです。

神は全人類を育むために万物の境界を定める

本日は、神が万物にもたらしたこの種の法則が全人類を養うとはどういうことか、という主題について話をします。これはいささか大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたにはっきり説明するため、ひとつずつ話をしていきます。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるでしょう。

では最初の部分から始めましょう。神は万物を創造したとき、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めました。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在します。これらが様々な種類の地形を構成しています。そうですね。神はそれらの間に境界を定めました。境界の設定という場合、それは山には山の、平野には平野の領域があり、砂漠には一定の範囲が、丘には一定の面積があることを意味します。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量があります。つまり、神は万物を造った際、あらゆるものを極めて明確に分割したのです。神は、ある山の半径は何キロメートルであるべきか、その範囲はどのようなものかを、すでに決めてきました。また、ある平野の半径は何キロメートルであるべきか、その範囲はどのようなものかも決めてきました。万物を造ったときも、神は砂漠の境界、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何によって定められるかなどの事柄をすべて決めてきました。それらはすべて神によって決められたのです。神は創造を行なうあいだに、川や湖沼の範囲を決めました。それらはいずれもそれぞれの境界をもちます。では、私たちが「境界」について話すとき、それは何を意味しますか。つい先ほど、神は万物の法則を定めることで万物を支配している、という話をしました。つまり、地球の回転や時間の経過のせいで、山の範囲と境界が広がったり狭まったりすることはないのです。それらは固定されており、変わることはありません。その不変性を決めるのは神です。平野の面積、範囲、境界についても、それは神によって定められました。平野にはそれぞれの境界があり、それゆえ平野の地面から土が勝手に盛り上がることはあり得ません。平野が突然山になることもありません。それは不可能でしょう。これが、私たちが先ほど話し合った法則と境界の意味です。砂漠について言えば、その具体的な役割はここでは触れません。またその他の地形や地理的位置の具体的役割についてもここでは触れず、それらの境界にだけ触れることにします。神の支配下では、砂漠の範囲も拡大することはありません。なぜなら、神が砂漠にその法則と範囲を与えたからです。砂漠の面積、機能、境界、および所在地などは、神によってすでに定められています。砂漠はその範囲を超えることも、移動することもなく、面積が勝手に広がることもありません。河川や湖沼などの水流には秩序があり、途絶えることはないものの、その範囲から出て移動したり、境界を越えたりすることは決してありません。それらはすべて一方向に、流れるべき方向に秩序正しく流れます。ゆえに、神の支配の法則下において、水や湖沼が勝手に干上がったり、地球の回転や時間の経過が原因で勝手に方向を変えたり、流量を変えたりすることはないのです。それはすべて神の支配下にあります。つまり、神によって造られ、この人類の間に存在する万物には、それぞれ固定された場所、面積、そして範囲があるのです。すなわち、神が万物を造った際にそれらの境界が定められたのであって、勝手に変更することも、更新することも、変えることもできません。「勝手に」とは何を意味しますか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることはない、ということです。たとえば、山には特定の高さがあり、その麓には特定の面積があり、また特定の標高、特定の植生があります。それらはどれも神により計画され、計算されたものであり、勝手に変わることはありません。平野について言えば、人類の大部分は平野に住んでおり、気候の変化がその面積や存在価値に影響を及ぼすことはありません。神によって造られたこれら様々な地形や地理的環境に含まれている物事さえも、勝手に変わることはありません。たとえば、砂漠の構成要素、地中にある鉱物資源の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどが、勝手に変わることはありません。それらが勝手に変わらないのはなぜですか。神の支配と管理がその理由です。神が造ったこれら様々な地形や地理的環境の中で、神はあらゆる物事を、計画された秩序ある方法で管理しています。そうしたわけで、これらの地理的環境は、神によって造られてから数千年、さらには数万年が経った後でもいまだ存在し、依然として機能しているのです。火山が噴火したり、地震が発生したり、大規模な地殻変動が起きたりする期間もありますが、神はいかなる種類の地形であっても、それが本来の機能を失うことを許しません。人間が見て享受できるこれらすべてのものが地球上で秩序正しく存在できるのは、ひとえに神がそれを管理し、これらの法則を統治、支配しているからです。では、地球上に存在するこれら様々な地形を、神がこのような形で管理するのはなぜですか。神の目的は、様々な地理的環境の中で生存しているすべての生物が安定した環境を得られるようにすること、それらの生物がその安定した環境の中で生き続け、増殖できるようにすることです。動けるものや動けないもの、鼻孔で呼吸するものやそうしないものなど、これらすべての物事が、人類の生存のために独自の環境を構成しているのです。この種の環境だけが何世代にもわたって人間を養い、人間が何世代にもわたって平和に生存し続けられるようにするのです。

わたしが先ほど話したことはいささか大きな主題なので、おそらくあなたがたの生活からいくぶんかけ離れたことのように思えるでしょう。しかし、みなさん理解はできたはずです。違いますか。つまり、万物の支配における神の法則は、極めて重要だということです。まさに重要なのです。この法則のもと、すべての生物が成長する前提条件は何ですか。それは神による支配です。神による支配のもと、万物がそれぞれの役割を果たすのは、神の支配のゆえなのです。たとえば、山は森を養い、森はそこに棲む様々な鳥や獣を養って守ります。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもあります。平野があるおかげで、人類の大半が平らな地面で生活でき、人々の生活に便宜がもたらされます。また、平野には草原が含まれます。広大な草原です。草原は地表を植物で覆います。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を養います。砂漠もその役割を果たします。砂漠は人間の住む場所ではなく、その役割は多湿な気候を乾燥させることです。河川や湖沼の水流は、人々が簡単に飲み水を得られるようにします。水が流れている所であれば、人はどこでも飲み水を得ることができ、万物の水に対する必要性が簡単に満たされます。これらが、神が様々な地形に対して定めた境界です。

こうした神が定めた境界のため、様々な地形がそれぞれ異なる生存環境を生み出し、それらの生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であって、同時に生存空間も与えてきました。そこから、様々な生物の生存環境の境界が生まれたのです。これが次に話をする第二の部分です。まず、鳥や獣、昆虫はどこに棲息していますか。森や林に棲息していますか。それらが鳥や獣、昆虫の住みかです。つまり、神は様々な地理的環境の境界を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界と法則も定めたのです。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境の存在が原因で、各種の鳥、獣、魚、昆虫、植物にはそれぞれ異なる生存環境があります。鳥、獣、昆虫は様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は大地で育ちます。その大地には、山、平野、丘陵など様々な地帯があります。鳥や獣はいったん住みかを定めると、あちこちさまよい歩くことはありません。鳥獣の住みかは森林と山です。いつか鳥獣の住みかが破壊されるとしたら、その秩序は乱れて混乱に陥るでしょう。秩序が乱れて混乱に陥った場合、どのような影響が即座に現れますか。最初に被害を受けるのは誰ですか。(人類です。)それは人類です。神が定めたこれらの法則と制限の中で、何か異常な現象を見たことはありますか。たとえば、砂漠を歩く象を見たことはありますか。そのような光景を見たことはありますか。そのようなことが本当に起きたなら、それは極めて異常な現象です。なぜなら、象は森林で暮らしており、それが、神が象に用意した生存環境だからです。象には象の生存環境と決まった住みかがあるのに、なぜそこを離れて走り回るでしょうか。岸辺を歩くライオンや虎を見たことがある人はいますか。誰もいません。ライオンや虎の住みかは森と山です。大海の鯨や鮫が砂漠を泳いでいるのを見たことがある人はいますか。誰もいません。鯨や鮫は海を住みかにしています。人間の生活環境において、ヒグマと共に生活している人がいますか。家の中でも外でも、常にクジャクやその他の鳥に囲まれながら生活している人がいますか。鷹や雁が猿と戯れているのを見たことがある人はいますか。(いません。)これらはどれも異常な現象です。とても奇妙に聞こえるこれらの現象について話す理由は、それが一箇所に固定されているか、あるいは鼻から呼吸できるかどうかを問わず、神が造った万物にはそれぞれの生存法則があるということを、あなたがたに理解してもらうためです。これらの生物を造るはるか以前、神はそれらの住みかと生存環境をすでに用意していました。これらの生物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定された住みか、生存に適した一定の場所、生存に適した気温をもつ場所があったのです。こうして、それらの生物が方々を彷徨ったり、人類の生存を脅かしたり、人々の生活に影響を及ぼしたりすることはありませんでした。これが、神が万物を管理する方法であり、人類に最高の生存環境をもたらしているのです。万物のうち生物には、生き延びるための食料がそれぞれの生存環境の中にあります。その食料のために、生物は生来の生存環境に固定されているのです。そのような環境の中、生物は神が定めた法則に従い、引き続き生き延び、増殖し、前進します。この種の法則や神の予定があるため、万物は人類と調和して暮らし、人類は万物と相互依存の中で共生しているのです。

神は万物を造り、それらの境界を定め、その中であらゆる生物を養いましたが、一方で人類のための様々な生存手段も用意したので、人間が生き延びる方法は一つだけでなく、生存環境も一種類だけでないことがわかります。先ほど、神が人間のために様々な食料や水源を用意したことについて話しましたが、それらは人類が肉体的に生き続けるうえで不可欠なものです。しかし、人類の全員が穀物を食べて生存しているわけではありません。地理的環境や地形の相違のために、人間には様々な生存手段があります。これらの生存手段は、すべて神が用意したものです。したがって、すべての人間が主として農耕に従事しているとは限りません。つまり、すべての人が耕作によって食料を得ているわけではないのです。これが、本日お話しする三番目の部分です。境界が発生したのは、人類の生活様式が多様だからです。それでは、人間の生活様式として、他にどのような種類のものがありますか。様々な食料源という観点から見たとき、他にどのような種類の人々がいますか。そこには主なものが数種類あります。

一番目は狩猟の生活様式です。それが何かは誰もが知っています。狩猟で生きる人は何を食べますか。(獲物です。)こうした人々は森で獲った鳥や獣を食べます。「獲物」とは現代の言葉です。狩人はそれを獲物とは考えず、食料、日々の糧と考えます。たとえば、狩人は鹿を獲ります。狩人が鹿を獲るのは、農民が土から作物を得るのと同じです。農民は土から食料を得るので、その食料を見たとき、喜んで安堵します。家族は作物を食べることができるので、飢えることはありません。農民の心は不安から解放され、満足します。狩人も獲物を見て安堵し、満足します。これ以上食料の心配をせずに済むからです。次の食事で食べるものがあれば、飢える必要はありません。これが生活のために狩猟をする人です。狩猟を生業とする人々の大半は山の森で生活します。農耕はしません。そこで耕作に適した土地を見つけるのは困難なので、様々な生物、すなわち獲物を食べて生存します。これが普通の人々と異なる生活様式の一番目です。

二番目は牧畜民の生活様式です。牧畜で生活する人は土地を耕すこともしますか。(しません。)では、何をしますか。どのように生活しているのですか。(生活の大半を牛や羊の飼育に費やし、冬に家畜の屠殺を行ってそれを食べます。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲みます。牧畜民は四季を通じて多忙ですが、食事は豊かです。ミルク、乳製品、肉が豊富にあります。)牧畜で生計を立てる人はおもに牛肉と羊肉を食べ、羊の乳と牛乳を飲み、牛や馬に乗って風を髪に受け、顔に日光を浴びながら、野原で牧畜を行います。彼らが現代生活のストレスに晒されることはありません。広大な青空と草原を一日中眺めているのです。牧畜で生計を立てている人の大半は草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生き方を続けられてきました。草原での生活はいささか孤独ですが、とても幸福な生活でもあります。悪くない生き方です。

三番目は漁をして暮らす生き方です。人類の中には、沿岸部や小さな島に住む人々がごく一部存在します。彼らは水に囲まれ、海に面しています。これらの人々は漁を生業としています。漁を生業とする人々の食料源は何ですか。彼らの食料源には様々な魚や海産食物や海産物が含まれます。漁を生業とする人は大地を耕さず、その代わり毎日漁に出ます。主食は様々な魚や海産物で、時々それらを米や小麦粉や日用品と交換することがあります。これが沿岸部に住む人々の、他とは異なる生活様式です。海の近くに住む人々は食料を海に頼っており、漁は彼らに食料をもたらすだけでなく、彼らが生計を立てる手段でもあるのです。

農耕を行う以外に、人類の大部分は上記三種類の生き方にしたがって暮らしています。しかし、大半の人々は農耕を生業としており、牧畜や漁や狩猟によって暮らす人々の集団は少数しかありません。それでは、農耕を生業とする人々は何を必要としますか。彼らが必要とするものは土地です。彼らは何世代にもわたり、地中に作物を植えることで暮らしており、野菜を植えようと、果実を植えようと、あるいは穀物を植えようと、彼らが食料と日々の必需品を得るのは大地からなのです。

こうした様々な人間の生活様式を支える基本条件は何ですか。人々が生存できる環境を基本的な水準に維持することが絶対に必要ではありませんか。つまり、狩猟で暮らす人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、彼らの食料源はなくなってしまいます。この民族、およびこうした人々が向かうべき方向は不確実なものになり、彼らが消えてしまう恐れすらあるでしょうまた、牧畜を生業とする人々はどうですか。こうした人々は何に頼っていますか。彼らが頼っているのは家畜ではなく、家畜が生存できる環境、すなわち草原です。草原がなければ、牧畜民はどこで家畜を放牧すればよいでしょうか。牛や羊は何を食べればよいでしょうか。家畜がなかったとしたら、これら遊牧民には生活の糧がなくなるでしょう。生活の糧を得る源がないとしたら、これらの人々はどこへ行けばよいでしょうか。生き続けることが極めて難しくなり、未来はなくなるでしょう。水源がなくなり、河川や湖沼が干上がってしまったら、水に頼って暮らすすべての魚はそれでも存在するでしょうか。存在しないでしょう。水と魚に生活の糧を頼る人々は、引き続き生存できるでしょうか。こうした人々の食料や、生活の糧を得る源がなくなったとしたら、生存し続けることは不可能でしょう。つまり、ある民族が生活の糧や生存に関する問題に直面した場合、その民族は存続できず、地球上から消えて絶滅するでしょう。また、農業を生業とする者が土を失い、ありとあらゆる植物を植えてそこから食料を得られなくなったら、その結末はどうなるでしょうか。食料がなかったとしたら、人間は餓死するのではないでしょうか。人間が餓死しつつあるなら、その人種は消滅するのではないでしょうか。そうしたわけで、これが多種多様な環境を維持する神の目的なのです。神が様々な環境や生態系を維持し、そしてそこに住む様々な生物をすべて維持する目的は、ただひとつしかありません。その目的とは、様々な人々、様々な地理的環境の中で暮らす人々を養うことです。

すべての被造物がそれぞれの法則を失ったとしたら、それらは存在しなくなるでしょう。万物の法則が失われたとしたら、万物のうち、あらゆる生物が存続できないでしょう。人類もまた、生存のために頼っている環境を失うでしょう。人類がそのすべてを失うとしたら、これまでのような世代を超えた繁栄と繁殖は継続不可能になるはずです。人間が現在まで生存してきたのは、神が人間にすべての被造物を与え、様々な方法で人類を養ってきたからです。人類が現在まで、今日まで生存してきたのは、ひとえに神が様々な方法で人類を養っているからです。自然の法則が整然としている、固定された好ましい生存環境により、地球上のありとあらゆる人々、ありとあらゆる人種が、予め定めた領域の中で生存できるのです。これらの領域や境界を越えられる人はいません。なぜなら、それらを定めたのは神だからです。神がこのように境界を定めたのはなぜですか。このことは全人類にとって大いに重要な問題です。本当に重要な問題なのです。神はひとつひとつの生物に対して範囲を定め、各種の人間に対して生存の手段を定めました。また神は、地球上の様々な人や人種を分割し、それぞれの範囲を定めました。これが次に話す事項です。

四番目は、神が様々な人種の間に境界を引いたことです。地球上には白色人種、黒色人種、褐色人種、黄色人種が存在します。これらは異なる人種です。神はこれら異なる種類の人々についても範囲を定めました。そして神による管理のもと、人々は無意識のうちに適切な生存環境の中で暮らしています。そこから逸脱できる人はいません。たとえば、白人のことを考えてみましょう。白人の大半が暮らす地理的範囲はどこですか。大半はヨーロッパとアメリカで生活しています。黒人がおもに暮らす地理的範囲はアフリカです。褐色人種はタイ、インド、ミャンマー、ベトナム、ラオスなど、おもに東南アジアと南アジアで暮らしています。黄色人種は中国、日本、韓国など、おもにアジアで暮らしています。神はこうした様々な人種をすべて適切に分布させたので、これら異なる人種は世界各地に分布しています。これら世界各地において、神は遠い昔に各人種に適した生存環境を用意しました。これらの生存環境において、神は様々な色と成分を有する土壌を用意しました。言い換えると、白人の身体の構成要素は黒人の身体のそれと同じではなく、それ以外の人種のそれとも異なります。神は万物を創造した際、その人種の生存環境をすでに用意していたのです。神がそのようにした目的は、その人種が増殖し、人数が増加し始めたとき、そうした人々が一定の範囲に固定されるようにすることでした。神は人間を創る前に、そのすべてをすでに考え抜いていたのです。神はヨーロッパとアメリカを白人のためにとっておき、彼らが発展し、生存できるようにしました。つまり、神は地球を造っていたとき、その地域に何を置き、その地域で何を養うかについて、すでに目標と目的を定めていたのです。たとえば、その地にどのような山、どれほど多くの平野、どれほど多くの水源、どのような種類の鳥や獣、どのような魚、どのような植物を置くかについて、神ははるか以前にすべて定めていたのです。ある特定の種類の人間、すなわちある特定の人種の生存環境を用意するにあたり、神は地理的環境、土壌の構成、様々な種の鳥と獣、様々な魚の大きさ、魚の身体の構成要素、水質の違い、および様々な種類の植物など、数多くの問題についてありとあらゆる角度から検討する必要があったのです。神はそのすべてを遠い昔に用意していました。その種の環境は、神が白人のために造り、用意し、もとから白人のものである生存環境です。神は万物を創造したとき、そこに多くの考えを込め、計画的に業を行なったことを、あなたがたはわかっていましたか。(はい。様々な種類の人間に対する神の配慮が極めて周到だったことを、私たちはわかっていました。各種の人間のためにお造りになった生存環境に対し、どのような鳥や獣や魚、いくつの山、いくつの平野を用意するかについて、神はこのうえない周到さと正確さをもってそれらを考慮なさったのです。)白人を例にとりましょう。白人はおもに何を食べますか。白人が食べる食料は、アジア人が食べる食料と極めて異なっています。白人の主食はおもに肉、卵、ミルク、家禽から成っています。パンや米などの穀類は一般的に副食であり、皿の端に盛られます。野菜サラダを食べるときも、焼いた牛肉や鶏肉を何切れかそこに加えがちであり、小麦を原料とする食料を食べるときも、チーズや卵や肉を加えがちです。つまり、白人の主食は小麦を原料とする食料や米でなく、彼らは肉やチーズを大量に食べます。それに、極めて高カロリーな食料を食べるので、頻繁に氷水を飲みます。そうしたわけで、白人は並外れて丈夫なのです。これらが彼らの生活の糧であり、神が白人のために用意した生活環境です。その生活環境のおかげで、白人は他の人種の生活様式と違うこのような生き方ができるのです。こうした生き方が正しいか間違っているかは問題ではなく、それは神が予定し、神の指図と采配から生じた生来のものなのです。この人種にはこのような生活様式と、生活の糧を得るこれらの源がありますが、それは彼らの人種に起因するものであり、また神が彼らに用意した生存環境に起因するものです。神が白人のために用意した生存環境、および白人がその環境から得る日々の糧は豊富だと言えるでしょう。

神は他の人種についても生存に必要な環境を用意しました。黒人も存在しますが、どこに分布していますか。おもにアフリカの中央部と南部に分布しています。神は黒人のためにどのような生活環境を用意しましたか。熱帯雨林、ありとあらゆる鳥や獣、砂漠、そして人々と共に生きる様々な植物も用意しました。黒人には水源があり、生活の糧があり、食料があります。神は黒人に偏見をもちませんでした。彼らが何をしたとしても、その生存が問題になったことは一度もありません。黒人もまた、世界のなかで特定の場所と地域を占めているのです。

ここで、黄色人種について話しましょう。黄色人種は主として地球の東方に分布しています。環境と地理的位置に関して、東洋と西洋の違いは何ですか。東洋では土地の大部分が肥沃であり、資源や鉱床に恵まれています。つまり、地上においても地下においても、ありとあらゆる資源が豊富なのです。そしてこの人々の集団、つまりこの人種に対しても、神は彼らに適した土壌、気候、および様々な地理的環境を用意しました。そうした地理的環境と、西洋の地理的環境との間には大きな差異があるものの、人々に必要な食料、生活の糧、そして生存のための食料源もまた神によって用意されました。生活環境が西洋の白人の環境とは異なるというだけのことです。ともあれ、わたしがあなたがたに話さなければならないことは何ですか。東方人種の人口は比較的多いので、神は地球のその部分に、西洋とは異なる要素を数多く加えました。多様な地形とありとあらゆる豊富な資源をそこに加えたのです。東洋の自然資源は極めて豊富です。地形も種類に富んでおり、東方人種の莫大な人口を養うのに十分です。東洋と西洋の相違として、東洋は東西南北全域にわたって西洋より気候が良好である、という点があります。四季がはっきり異なり、気温は最適であり、自然資源は豊富であり、自然の景観や地形の種類は西洋に比べ格段に優れています。神がこのようにしたのはなぜですか。神は白人と黄色人種との間で、極めて合理的な釣り合いを取ったのです。それは何を意味していますか。白人の食料、使っているもの、および享楽のためにもたらされた物事のあらゆる側面が、黄色人種が享受している物事よりはるかに優れているということです。しかし、神はいかなる人種もひいきしません。神は黄色人種に対し、より美しく良好な生存環境を与えました。これが釣り合いです。

神はどの人種が世界のどの地域に住むかを予め定めましたが、人間はその範囲を超えてゆくことができますか。(いいえ、できません。)なんと不思議なことでしょう。様々な時代、あるいは特別な時期に戦乱や侵略があったとしても、神が各人種に対して予め定めた生存環境が、そうした戦乱や侵略によって破壊されることはありません。つまり神は、世界の特定の地域に特定の人種が住むように定めたので、人間はその範囲を超えてゆくことができないのです。自らの領域を変えたり拡大したりしようとする、ある種の野望が人間にあったとしても、神の許可がなければ、その野望を果たすのは極めて困難です。それを成功させるのはこのうえなく困難なことです。たとえば、白人は領域を拡大しようと、他国を植民地化しました。ドイツ人は数ヵ国を侵略し、イギリスはかつてインドを占領しました。結果はどうなりましたか。最終的に、そうした活動は失敗に終わりました。彼らの失敗から何がわかりますか。神が予め定めた物事を破壊することは許されない、ということです。ゆえに、イギリスの拡大の勢いがいかに強かったとしても、最終的にイギリスは撤退せざるを得ず、その地はいまだインドに属しています。その地に住む人々は依然としてインド人であり、イギリス人ではありません。神がそれを許さないからです。歴史や政治を研究する一部の人が、これに関する論考を発表してきました。これらの人たちは、イギリスが失敗したのは、特定の民族を征服することが不可能なためである、あるいはその他の人間的な原因が理由であるとしています。それらが真の理由ではありません。真の理由は神であり、神がそれを許さないのです。神は特定の民族を特定の場所に住まわせ、そこに定住させます。神がその民族に対し、あの場所から移動してくることを許さなければ、その民族は移動することができません。神が一定の地域を与えた場合、その民族はその地域の中で生活します。人類は、その一定の範囲を離れたり、そこから脱出したりすることができません。それは確かです。侵略者の勢力がどれほど強力であったとしても、あるいは侵略される側がどれほど脆弱であったとしても、侵略が成功するかどうかは最終的に神が決めることです。それは神によってすでに予定されたことであり、誰も変えることができません。

以上が、神が行った様々な人種の分布方法です。神はどのような働きを行って、様々な人種を分布させてきましたか。まず、神は大規模な地理的環境を用意し、人々に様々な場所を割り当てました。その後、人間はその場所で何世代にもわたり生存しました。これで、生存する場所の設定が済んだのです。そして人間の生活、彼らが何を食べるか、何を飲むか、その生活の糧など、神はこれらの事柄もすべて遠い昔に決定しました。また、神は万物を創造した際、様々な種類の人のためにそれぞれ異なる用意を行いました。そのため、土壌の構成要素、気候、植物、地理的環境には様々なものがあるのです。異なる場所には異なる鳥や獣がおり、異なる水域にはそれぞれに固有の魚や水産物があります。昆虫の種類でさえも神により決定されました。たとえば、アメリカ大陸で育つものはみなとても大きく、とても背が高く、極めて頑丈です。山中の森の木々は根が浅いものの、極めて高い木々に育ちます。高さ百メートル以上になることすらありますが、アジアの森のほとんどの木々はそこまで高くはありません。アロエを例に取りましょう。日本のアロエは極めて細身で薄いですが、アメリカのアロエはとても大きいものです。ここに違いがあります。同じ名前をもつ同じ種類の植物でありながら、アメリカ大陸では極めて大きく育つのです。これら様々な側面の相違点は、人間には見たり感じたりできないかもしれませんが、神は万物を造っている際にそれらを決め、異なる地理的環境、地形、生物、人種を用意しました。それは、神が様々な種類の人間を造り、それぞれの人種に必要とされる物事やその生活様式について知っているからです。

これらの物事についていくらか話をしましたが、いま話し合った内容の主題について何かを学んだように思いますか。理解しつつあると感じますか。わたしがより広範な主題の中からこれらの事項を選び、それについて話すことを選んだのはなぜか、あなたがたはいま大まかにわかったはずだと思います。そうではありませんか。自分がそれについてどれほど理解したか、少し話してください。(全人類は、神が万物に対して定められた法則によって養われてきました。神はこれらの法則を定められているとき、様々な環境、生活様式、食料、気候、気温を様々な人種にもたらされました。これは、人類全員が地球に住み、生存できるようにするためでした。このことから、人類の生存に関する神の計画は非常に精密であることがわかり、神の知恵、完璧さ、そして人類に対する神の愛を知ることができます。)(いかなる人や出来事や物事も、神が定められた法則と範囲を変えることはできません。それらはみな、神の支配下にあるのです。)神によって定められた、万物の成長に関する法則の観点から見ると、人類はその種類を問わず、すべて神から施され、養われているのではないでしょうか。これらの法則が破られたり、神がそれらの法則を人類に対して定めなかったとしたら、人類の見通しはどのようなものになるでしょうか。これらの基本的な生存環境を失ったあと、人類には食料源があるでしょうか。食料源が問題になることは考えられます。もし食料源を失ったら、つまり食べ物を何ひとつ得られなければ、人は何日持ちこたえられるでしょうか。おそらく一ヵ月と持ちこたえられず、人間の生存そのものが危機に晒されるでしょう。したがって、神が人間の生存、継続的な存在、繁殖、存続のために行う業のひとつひとつが極めて重要なのです。神が被造物に対して行う業のひとつひとつが、人類の生存と密接に関連しており、それと不可分なのです。人類の生存が問題となった場合、神の経営は続行可能でしょうか。神の経営はなおも存在するでしょうか。神の経営は、神が養う全人類と共にあるので、神が被造物にどんな用意をしようと、人間に何を行おうと、それはどれも神にとって必要であり、人類の生存に不可欠です。神が万物のために定めたこれらの法則が守られなかったり、それが破られたり、あるいは乱されたりしたとすれば、万物はもはや存在できず、人間の生存環境も日常の糧も、そして人類自体もすべて存続不可能になるでしょう。そのため、神による人類の救いの経営もまた消滅するでしょう。

ここで話したことはどれも、人間ひとりひとりの生存と密接に関連しています。あなたがたの中には「あなたの言うことは話が大きすぎ、私たちには理解できない」という意見があったり、あるいは「あなたの言うことは私に関係ない」という人がいたりするかもしれません。しかし、自分が万物のひとつとして生きていること、神の支配下にあるすべての被造物のひとつであることを忘れてはいけません。神の被造物は神の支配から切り離すことができないので、神の支配から自分を切り離せる人間は誰ひとりいません。神による支配と施しを失うと、人間のいのち、すなわち人間の肉体のいのちは消滅するでしょう。これが、神が人類の生存環境を定めたことの重要性です。自分がどの人種に属しているかを問わず、また東洋であろうと西洋であろうと、自分が生きている地域を問わず、神が人類のために用意した生存環境から自分を切り離すことはできず、神が人類のためにもうけた生存環境による養育と施しから自分を切り離すこともできません。あなたの生計の糧が何か、何に頼って暮らしているか、何に頼って肉のいのちを維持しているかにかかわらず、あなたは神による支配と管理から自分を切り離すことはできません。中には、「私は農民でないので、作物を栽培して生計を立てているわけではない。食料を天に依存していないので、神が定めた生存環境で生存しているわけでもない。そうした環境からは何も与えられていない」などと言う人がいます。それは正しいですか。自分は作物を栽培して生計を立てているわけではないと言いますが、穀類を食べないのですか。肉や卵を食べないのですか。それに野菜や果物を食べないのですか。あなたが食べるものや必要とするものはどれも、神が人間のために定めた生存環境と切り離すことができません。人間が必要とするものの源も、神が造った万物と切り離すことができず、それはあなたの生存環境を完全に構成しているのです。あなたが飲む水、着ている衣服、使っているあらゆるもののうち、神の創造物に由来しないものがありますか。中には、「神の創造物に由来しないものがいくつかある。プラスチックがその一つだ。プラスチックは人間が造った化学物質だ」と言う人がいるかもしれません。それは正しいですか。プラスチックは確かに人間が造った化学物質ですが、プラスチックの原材料は何ですか。原材料は神が造った物質から得られたものです。あなたが見るもの、享受するもの、使うものはどれも、神が造ったものから得られます。つまり、どの人種に属しているか、生活の糧は何か、どのような生存環境で暮らしているかにかかわらず、人は自分自身を、神が施してきた物事から切り離せません。では、本日話してきた事柄は「神が万物のいのちの源である」という主題に関連していますか。本日話してきた事柄は、このより大きな主題に含まれますか。(含まれます。)本日の話には多少抽象的なところがあり、話し合うのがいささか難しいかもしれません。しかし、それに関するあなたがたの理解は向上したことでしょう。

これまで数回の交わりで説明した事項は、比較的広範囲におよぶものであり、その対象もかなり幅広いものだったので、すべて理解するには多少の努力が必要です。と言うのも、これらの事項は、神に対する人々の信仰のなかでかつて取り扱われたことがないものだからです。これらの事柄を聞いて神秘と捉える人もいれば、物語として捉える人もいます。どちらの視点が正しいですか。あなたがたはこれらすべてをどのような視点から聞いていますか。(神がすべての創造物を整然と整えられたこと、万物に法則があることを理解しました。またこれらのお話を通じ、人類の救いを目的とした神の御業と、神による周到な采配について理解が深まりました。)数回にわたる交わりの中で、神による万物の支配がどれほど広範囲にわたるかを理解しましたか。(全人類、あらゆるものにわたっています。)神はあるひとつの人種の神ですか。ある一種類の人間の神ですか。少数の人間の神ですか。(違います。)違うということですが、神に関するあなたがたの認識にしたがえば、神が少数の人間の神でしかない、あるいは神があなたがただけの神であるなら、その見解は正しいでしょうか。神は万物を管理、支配しているので、神による万物の支配の中にあらわれる神の業、知恵、全能性を理解できるはずです。これは人々が理解すべき事柄です。神が万物と全人類を管理、支配していると言いながら、神による全人類の支配に関する認識も理解も皆無だとすれば、神が万物を支配していることを真に認められますか。あなたは心の中で「自分にはわかる。私の人生もひとえに神によって支配されていることがわかるからだ」と考えるかもしれません。しかし、神はそれほど小さな存在ですか。神はそのような存在ではありません。あなたは自分に対する神の救いと働きしか理解せず、それらのことからしか神による支配を見ていません。それでは範囲が狭すぎるので、あなたが神に関する真の認識をもつ見込みに悪影響を与えます。それはまた、神による万物の支配について、あなたの真の認識を制限します。神に関する自分の認識を、神があなたに与える物事と救いに限定するなら、神が万物と全人類を支配していることは決して理解できません。これらのすべてを理解できなかった場合、神があなたの運命を支配していることを、あなたは真に理解できますか。いいえ、できません。その側面を理解することも、そのような高い理解度に至ることも決してできないのです。わたしの言うことがわかりますね。事実、わたしが話している事項と内容について、あなたがたがどの程度理解できるかはわかっています。では、それについてわたしが話し続けているのはなぜですか。これらの事項は、神に付き従い、神に救われることを求める全員が理解すべき事柄だからです。これらの主題を理解するのは必要不可欠なことなのです。現時点で、あなたはそれらを理解していませんが、いつかあなたのいのち、真理の経験、そしていのちの性質の変化が一定の段階に達し、ある程度の霊的背丈を得て初めて、わたしがこの交わりで伝えている事項により、あなたは真に糧を得て、神に関する認識の追求を満足させられるでしょう。そうしたわけで、これらの話は、今後あなたがたが神による万物の支配を理解し、神自身を認識するうえで、その基礎を固め、あなたがたに準備させるためのものなのです。

人々が心の中で神を認識している度合いは、神がそれらの人の心を占めている度合いでもあります。心の中でどれほど神のことを知っているかは、その人の心の中で神がどれほど偉大か、ということでもあります。あなたの知る神が空虚で漠然としていれば、あなたが信じる神もまた空虚で漠然としています。あなたの知る神はあなたの個人的生活の範囲に限定されており、真の神自身と何の関係もありません。ゆえに、神の実際の業、神の現実、神の全能、神自身の真の身分、神が所有するものと神そのもの、神が万物においてあらわした業を知ることは、神の認識を追い求めるひとりひとりにとって極めて重要なことなのです。それらは、人が真理の現実に入れるかどうかに直接関係しています。神に関する認識が言葉だけに限られる場合、あるいは自分自身の数少ない経験や、あなたが神の恵みと考えるものや、あなたのささやかな神の証しだけに限られる場合、あなたが信じている神は絶対に真の神自身ではないと断言します。それだけでなく、あなたが信じる神は想像上の神であり、真の神ではないとも言えます。なぜなら、真の神は万物を支配し、万物の中で歩み、万物を管理する神だからです。その神こそが、人類全体と万物の運命をその手中に握っている神なのです。わたしが話している神の働きと業は、ごく一部の人々に限られるものではありません。つまりそれらは、現在神に付き従う人に限定されないのです。神の業は、万物の中に、万物の生存の中に、そして万物が変化する法則の中にあらわされています。

すべての被造物における神の業を見ることも、それを認識することもできないのであれば、あなたは神の業を何ひとつ証しできません。神の証しをすることができず、自分が知っている小さな「神」、自分自身の考えに限定され、自分の狭い心に閉じ込められた神について語り続けるなら、つまりそのような神について語り続けるなら、神があなたの信仰を讃えることは決してありません。神の証しをするとき、自分がいかに神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、また神の証しをする中でいかに神の祝福を享受しているかという観点からしかそうしないのであれば、それはまったく不十分であり、神に満足してもらうには程遠いものです。神の旨にかなう形で神の証しをしたい、真の神自身の証しをしたいのであれば、神が所有するものと神そのものを神の業から理解しなければなりません。神による万物の支配から神の権威を理解し、神が全人類に施すという真実を理解する必要があるのです。自分の日々の糧や生活必需品が神に由来することを認めるだけで、神はすべての被造物を用いて全人類に施すという真実、また万物を支配することで全人類を導いているという真実を理解できないのであれば、神の証しは決してできません。わたしがこのように言う目的は何ですか。あなたがたがそれを軽視しないようにすること、わたしの話したことは自分のいのちへの入りと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項は単なる知識や原理に過ぎないと思わないようにすることです。そうした態度でわたしの言うことを聞くならば、あなたがたは何ひとつ得られません。神を知るこの素晴らしい機会を失うのです。

わたしがこれらのことを話す目的は何ですか。人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解させることが目的です。神を認識し、神の業を知って初めて、神を知る機会と可能性が生じます。たとえば、ある人について理解したい場合、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解するようになるでしょうか。その人の外見を観察することによってでしょうか。その人の着衣や着こなし方を観察することによってでしょうか。その人の歩き方を観察することによってでしょうか。その人の知識の範囲を観察することによってでしょうか。(違います。)それでは、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解しますか。その人の言動、思考、およびその人があらわしたり晒したりする自分自身についての物事に基づいて判断します。これが、あなたがたがその人を知り、理解するようになる方法です。同様に、神を知り、神の実践的側面、神の真の側面について理解したいのであれば、神の業、そして神が行うひとつひとつの実践的な事柄を通じて神を知る必要があります。これが最善かつ唯一の方法です。

神は万物の関係の釣り合いを取り、人類に安定した生存環境を与える

神は万物に対して自らの業を示し、万物を支配し、万物の法則を司っています。ここまでは、神が万物の法則を支配する方法に加え、その法則のもと、神が全人類に施し、養う方法について話をしました。これがひとつの側面です。次にもうひとつの側面、つまり神が万物を支配するにあたって用いる、あるひとつの方法について話をします。わたしがこれから話すのは、神は万物を造ったあと、いかにして万物の関係の釣り合いを取ったのか、ということです。これもまたいささか大きな事項です。万物の関係の釣り合いを取るのは、人間に可能なことですか。いいえ、人間にそのような業は不可能です。人々は破壊することしかできません。人間には、万物の関係の釣り合いを取ることができないのです。人間にはそれを管理することができず、そうした強大な権威や力は人間の能力を超えるものです。そのようなことが可能な力は神自身にしかありません。しかし、神がそのようなことをする目的は何ですか。これもまた、人間の生存と密接に関係しています。神が行おうとしているひとつひとつのことは、どれも必要なことばかりです。つまり、行うかどうかわからないことなど、神にはないのです。神が人類の生存を保護し、人々に好ましい生存環境を与えるためには、神が行わなければならない、不可欠かつ極めて重要なことがあります。

「神が万物の釣り合いを取る」という言葉の文字通りの意味からすると、この事項は極めて広範なように見えます。まずその言葉は、「万物の釣り合いを取る」ことが神による万物の支配も指しているという概念を、人に対して与えます。この「釣り合いを取る」という語は、いったい何を意味していますか。まず、「釣り合いを取る」という語は、何かが釣り合いから外れた状態にならないようにすることを指しています。それは天秤を使って物の重さを量るようなものです。天秤の釣り合いを取るには、両側の重さを等しくする必要があります。神は多様なものを造りました。その場所に固定されたもの、移動するもの、生きているもの、呼吸しているもの、それに呼吸しないものも造りました。これら万物の間に、互いを強め合い、制限し合う相互依存の関係、相関関係が生まれるのは容易なことですか。そのすべてに原理があることは間違いありませんが、それらはとても複雑なものです。違いますか。神にとっては難しくありませんが、人間にとっては極めて複雑な研究対象です。「釣り合い」は極めて単純な単語です。しかし、人間が釣り合いを研究したり、あるいは自分自身で釣り合いを取る必要があったりして、人間生物学者、天文学者、物理学者、化学者、さらには歴史家など、ありとあらゆる学者がそれに取り組んだとしたら、その研究の最終結果はどのようなものになるでしょうか。その最終結果は無です。なぜなら、神による万物創造はあまりに驚異的であり、人類がその謎を解明することは決してないからです。神は万物を造った際、それらの間に原理を定め、相互の制限、補完、および養育を目的とする、様々な生存方法を定めました。こうした様々な方法は極めて複雑であり、単純なものでも一方的なものでも決してありません。人間が自分の頭脳、獲得した知識、そして観測した現象を使い、神による万物支配の根底にある原理を確認ないし研究しようとしても、これらの事柄は解明が極めて困難であり、何らかの結果を得ることも極めて困難です。人間が何らかの成果を挙げることはとても難しく、人間の思考と知識に頼って神によるすべての創造物を統治しようとしても、釣り合いを維持するのは極めて困難なのです。人間は万物の生存に関する原理を知らないので、この種の釣り合いを保つ方法を知らないからです。したがって、人間が万物を管理し、統治することになった場合、その釣り合いを壊す可能性が極めて高いでしょう。釣り合いが壊れるやいなや、人類の生存環境は破壊され、その後は人類の生存が危機に晒されるでしょう。それは災害をもたらすに違いありません。人類が災害の中で生きるとすれば、その将来はどうなるでしょうか。その結末は推測が極めて難しく、確信をもって予想するのは不可能です。

それでは、神はどのようにして万物の間の釣り合いを取っていますか。まず、世界には、年間を通じて氷雪に覆われている地域もあれば、四季を通じて春のような気候で、冬が訪れない地域もあります。そのような地域では、ひとかけらの氷も、一粒の雪も見当たりません。いまは広範囲にわたる気候について話しており、この例は神が万物の関係の釣り合いを保つ方法のひとつです。次に二つ目の方法を話します。連なる山々が青々とした植生に覆われ、様々な種類の植物が地面を覆い尽くし、広大な森が生い茂っていて、その中を歩くと陽の光さえも見えないほどです。しかし別の峰を見ると、そこには一本の草も生えておらず、荒れた不毛な山々が延々と続いています。外見は両者とも、基本的には土が大量に盛り上がってできた山ですが、片方は木が生い茂る森に覆われ、もう片方は草一本生えない不毛の山です。これが、神が万物の関係の釣り合いを取る二つ目の方法です。三つ目の方法を話しましょう。こちらを見ると、草が風に揺れる原野が見渡す限り続いています。しかしあちらを見ると、甲高い音をあげて吹きすさぶ砂の中、生物が一切おらず、ましてや水源などない、見渡す限りの砂漠が続いています。次いで四つ目の方法です。こちらを見ると、広大な水域である海の中にすべてが沈んでいますが、あちらを見ると、新鮮な湧き水の一滴を見つけるのも困難な場所があります。五つ目の方法はこれです。こちらの土地では霧雨が頻繁に降り、霧が多く湿った気候ですが、あちらの土地では太陽がしばしば空で燦々と輝き、一粒の雨が降ることさえ滅多にありません。六つ目の方法はこれです。空気が薄く、呼吸をするのも難しい高原がある一方、別の場所には沼地や低地があり、そこは様々な渡り鳥の生息地になっています。これらは様々な気候の種類、あるいは様々な地理的環境に対応する気候または環境です。つまり神は、ひとえに人間が生存する環境の空気、気温、湿度の釣り合いを取るため、気候から地理的環境に至るまで、そして様々な土壌の構成要素から水源の数に至るまで、大規模な環境という点から見た、人類が生存する基本的環境の釣り合いを取っているのです。こうした対照的な地理的環境のおかげで、人々には安定した空気があり、四季を通じて気温と湿度が安定しているのです。これにより、人々はいつものように、そうした生存環境で生活し続けることができます。まずは大規模な環境の釣り合いを取る必要があります。これは様々な地理的位置、地理的構成、および様々な気候の変化を活用することで行われ、それによって互いに制限し合い、神が望み人類が必要とする釣り合いが成し遂げられます。これは大規模な環境という観点からの話です。

次に植生など、より詳細なことについて話しましょう。それらの釣り合いはどのようにして取ることができますか。つまり、釣り合いの取れた生存環境の中、植生が生存し続けるにはどうすればよいですか。その答えは、様々な植物の寿命、成長速度、繁殖速度を管理し、その生存環境を保護することです。草を例にとりましょう。草には春の若芽、夏の花、秋の実があります。草の実は地に落ちます。翌年、その実の種が芽を出し、引き続き同じ法則にしたがいます。草の寿命は極めて短く、すべての種が地に落ち、根と芽が出て花が咲き、実をつけるという過程は、わずか三つの季節、つまり春と夏と秋で終わります。またありとあらゆる樹木にも、それぞれの寿命、芽をだす時期、実をつける時期があります。中にはわずか三十年から五十年で死ぬ樹木もあり、それがそうした樹木の寿命です。しかしその実が地に落ち、やがて実から根と芽が出て、花を咲かせ、実をつけ、三十年から五十年にわたって生きます。これがその樹木の反復周期です。高齢の樹木が死に、若い樹木が生長するのです。森で樹木が常に成長しているのを見られるのはこのためです。しかし、樹木にも通常の生死の周期と過程があります。樹木によっては千年以上生きるものもあり、中には三千年もの間生きる樹木もあります。植物の種類やその寿命の長さを問わず、一般的に言えば、神はその寿命、繁殖能力、繁殖速度、繁殖頻度、およびそれが生み出す子孫の数を管理することで、植物の釣り合いを取ります。それにより、草から樹木に至るまで、植物は釣り合いのとれた環境の中で継続して繁殖し、成長することが可能になります。そうしたわけで、地球上の森を見たとき、その中で生長するあらゆるもの、つまり草も樹木もそれぞれの法則に従って継続的に繁殖と生長を続けています。植物は追加の労力や人間の助けを必要としません。植物がそれぞれの生存環境を維持できるのは、ひとえにこうした釣り合いが取られているからです。世界中の森林や草原が地上で生存できるのは、ひとえにそうした植物に適した生存環境があるからです。植物の存在は、何世代にもわたる人間だけでなく、鳥、獣、昆虫、そしてありとあらゆる微生物など、森や草原を棲息地とするすべての生き物を育みます。

神はありとあらゆる動物の釣り合いも操っています。神はこの釣り合いをどのように操っていますか。動物も植物と同様であり、神は動物の繁殖能力、繁殖数とその頻度、そして動物界で果たす役割によって釣り合いを取り、個体数を決定しています。たとえば、ライオンはシマウマを食べますが、ライオンの数がシマウマの数を超える場合、シマウマの運命はどうなるでしょうか。シマウマは絶滅するでしょう。また、シマウマの産む子どもの数がライオンのそれよりはるかに少なければ、シマウマとライオンはどのような運命を辿るでしょうか。この場合、シマウマもライオンも絶滅するでしょう。したがって、シマウマの数はライオンの数よりはるかに多くなければなりません。なぜなら、シマウマは自分自身のためだけでなく、ライオンのためにも存在するからです。また、一頭一頭のシマウマはシマウマ全体の一部ですが、それはライオンの口に入る食料でもある、と表現することもできるでしょう。ライオンの繁殖速度がシマウマのそれを超えることはないので、ライオンの数がシマウマの数を上回ることはできません。このような形でのみ、ライオンの食料源は保証されます。それゆえ、ライオンはシマウマの天敵であるものの、この二つの種が同じ地域でのんびり休息しているのを、人は頻繁に見かけるのです。ライオンがシマウマを狩って食べるせいで、シマウマが数を減らしたり絶滅したりすることはなく、また「百獣の王」という地位のために、ライオンの個体数が増えることもありません。この釣り合いは、はるか昔に神が定めたものです。つまり、すべての動物がこのような釣り合いをとれるよう、神はそれらの釣り合いに関する法則を定めたのであって、それは人間がしばしば目にすることです。シマウマの天敵はライオンだけでしょうか。違います。ワニもまたシマウマを食べます。シマウマは極めて無力な動物のように見えます。シマウマにはライオンのような獰猛さがなく、ライオンという手強い敵と対峙しても逃げることしかできません。その無力さたるや、抵抗すらできないほどです。逃げ切れなかったシマウマは、ライオンに食べられるしかありません。これは動物界で頻繁に見られる光景です。そのような光景を見て、あなたはどのような感情や思いを抱きますか。シマウマを哀れむでしょうか。ライオンを嫌悪するでしょうか。シマウマはとても美しい容姿をしています。しかしライオンは、常に貪欲な目をシマウマに向けています。そして愚かにも、シマウマは遠くへ逃げません。ライオンが涼しい木陰で待ち伏せているのを、シマウマは目にします。いつやって来て自分を食べるかわかりません。シマウマは心の中でそれを知っていますが、その場を去ろうとしません。これは不思議なこと、神の予定と支配を示す不思議なことです。あなたはシマウマを哀れむものの救うことはできず、ライオンを嫌っても打ち負かすことができません。シマウマは神がライオンのために用意した食料ですが、ライオンがどれほど多く食べても、シマウマが消え去ることはありません。ライオンが産む子孫の数は極めて少なく、繁殖速度も遅いので、ライオンがどれほど多くのシマウマを食べようと、ライオンの数がシマウマの数を超えることはありません。そこには釣り合いがあるのです。

このような釣り合いを維持している神の目的は何ですか。それは人々の生存環境だけでなく、人類の生存とも関係しています。シマウマやそれに類似する鹿など、ライオンの獲物となる動物の繁殖速度があまりに遅く、ライオンの数が急増した場合、人間はどのような危険に直面するでしょうか。ライオンが獲物を食べるというのは普通の現象ですが、ライオンが人間を食べるのは悲劇です。こうした悲劇は神が予定したものではなく、神の支配下で起きるものでも、ましてや神が人類にもたらすものでもありません。むしろ、それは人間が自ら招くものです。そうしたわけで、神が考えるとおり、万物の釣り合いは人類の生存に不可欠なのです。植物であるか動物であるかを問わず、その適切な釣り合いを失えるものはありません。植物、動物、山、湖沼など、神は人類のために整然とした生態環境を用意してきました。このような生態環境、釣り合いの取れた生態環境があって初めて、人間の生存が保証されるのです。草木の繁殖能力が芳しくなかったり、繁殖速度が極端に遅かったりしたら、土は水分を喪失するのではないでしょうか。水分がなくなっても土はまだ健全でしょうか。土が植生と水分を喪失すると、浸食が急速に進み、それは砂に変わってしまいます。土壌が悪化すると、人間の生存環境も破壊されるに違いありません。この環境破壊には数多くの災害が伴うでしょう。こうした生態系の釣り合いや生態環境が存在しなければ、万物間の不均衡が原因となって、人間は頻繁に災害に見舞われるはずです。たとえば、カエルの生態系の破壊につながる環境の不均衡が生じたとき、すべてのカエルが集まり、その個体数が激増して、都市部で大量のカエルが道路を横断するのが目撃されることすらあります。大量のカエルが人間の生存環境を占領したとしたら、それは何と呼ばれるでしょうか。災害と呼ばれます。それが災害と呼ばれるのはなぜですか。人類に益をもたらすこれらの小動物は、それらに適した場所に留まっていれば、人々にとって有益です。それらは人間の生存環境の釣り合いを維持できるからです。しかし、それら小動物が災害になるとしたら、人間生活の秩序に影響を与えます。カエルの体に付随するあらゆる物事や要素が、人間の生活の質に影響を及ぼすのです。人間の器官が攻撃されることすらあります。これは災害の一種です。人間が頻繁に経験するそれとは別種の災害として、イナゴの大量発生があります。これは災害ではありませんか。そう、まさに恐るべき災害です。人間は飛行機や大砲、原子爆弾を造れますが、そうした人間の能力がどれほどのものかを問わず、イナゴが侵略した際、人類にはどのような対策があるでしょうか。イナゴに対して大砲を使えるでしょうか。イナゴを機関銃で撃つことはできますか。いいえ、できません。それでは、イナゴに殺虫剤を噴霧して駆除できるでしょうか。それも容易なことではありません。そうした小さなイナゴは何をするために来ますか。特に作物や穀物を食べるためです。イナゴの行くところ、穀物は跡形もなくなります。イナゴが襲来すると、農民が生活の糧とする一年分の食料を、イナゴが瞬く間に食べ尽くしてしまうのです。人間にとって、イナゴの襲来は不都合なだけでなく、災害です。ゆえに、多数のイナゴの出現は災害の一種であると私たちは知っていますが、ネズミはどうですか。ネズミを餌食とする鷹がいなければ、ネズミは想像をはるかに超えるほど急速に繁殖します。ネズミが妨げられることなく氾濫した場合、人間はよい生活を送ることができますか。人間はどのような状況に直面するでしょうか。(疫病が発生します。)しかし、疫病が唯一の結果だと思いますか。ネズミはあらゆる物をかじり、木でさえも噛みつきます。一軒の家にネズミが二匹しかいなくても、そこに暮らす全員にとって悩みの種になるでしょう。ネズミは油を盗んで飲んだり、パンや穀物を食べたりすることがあります。たとえ食べなくても、かじりついて完全に滅茶苦茶にします。ネズミは衣服や靴や家具など、何でもかじります。食器棚に上ることもありますが、ネズミが歩いたあと、それらの食器はまだ使い物になるでしょうか。消毒しても安心できないので、捨てるしかありません。これがネズミによって人間にもたらされる不都合です。ネズミはごく小さな動物ですが、人間には対処する方法がなく、その侵食を我慢するより他ありません。たった二匹のネズミでも、困惑を引き起こすのに十分なのです。大量のネズミについては言うまでもありません。ネズミの数が増加して災害になると、その被害は想像を絶するでしょう。蟻ほどの大きさしかない生物さえも災害になり得ます。その場合も、人間に及ぼす被害は無視できません。蟻は家屋が倒壊するほどの損害を引き起こすことができます。その力は無視できません。様々な鳥が災害をもたらした場合も、恐ろしいことになるのではないでしょうか。(なります。)言い換えると、どのような動物や生物であったとしても、その釣り合いが失われた場合、必ずや通常と異なる異常な範囲で増殖し、繁殖し、棲息することになります。そうした状況は、想像を絶する影響を人類に及ぼすでしょう。人々の生存や生活に影響を与えるだけでなく、人類に災害をもたらし、人々は完全な絶滅という運命を辿るまでになるはずです。

神は万物を造ったとき、ありとあらゆる手段と方法を用いて万物の釣り合いを取り、山や湖沼、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生存状態の釣り合いを取りました。神の目的は、自ら定めた法則のもと、様々な生物が生活し、繁殖できるようにすることでした。あらゆる被造物はこれらの法則から外れることができず、またこれらの法則は破ることができないものです。この種の基本的な環境の中でのみ、人間は何世代にもわたって安全に生存し、繁殖することができるのです。ある生き物が、神が定めた量や範囲を越えた場合、あるいは神が定める増加率、生殖頻度、数を超過した場合、人類の生存環境は様々な程度の被害を受けるでしょう。それと同時に、人類の生存が脅かされるでしょう。ある種の生物の個体数が多すぎる場合、その生物は人間の食料を奪い、人間の水源を壊し、その住みかを破壊するでしょう。そうすれば、人類の繁殖と生存状態は即座に影響を受けるはずです。たとえば、水は万物にとって極めて重要です。ネズミ、蟻、イナゴ、カエルなど、各種の動物の数が多すぎる場合、それらの動物はさらに多くの水を飲みます。動物が飲む水の量が増加すると、固定された飲み水の水源と水域において、人々の飲み水と水源は減少し、人間は水不足を経験します。ありとあらゆる動物が増加した結果、人間の飲み水が損なわれたり、汚染されたり、寸断されたりした場合、そうした過酷な生存環境のもと、人類の存続は深刻な危機に陥ります。適切な数を超える動物がわずか一種類、あるいは数種類しか存在しなくても、人間の生存空間の空気、気温、湿度、そして空気の構成成分ですら様々な程度で被害を受け、破壊されるでしょう。こうした状況のもと、人間の生存と運命もまた、それらの生態学的要素による脅威に晒されるはずです。したがって、これらの釣り合いが失われた場合、人間が呼吸する空気は損害を受け、飲み水は汚染され、必要とする気温も変化し、様々な程度の影響を受けるでしょう。こうした事態になった場合、もともと人類のものである生存環境に甚大な影響と問題が発生します。人間の基本的な生存環境が破壊されるというこの種のシナリオにおいて、人類の運命と見通しはどのようなものになるでしょうか。これは極めて深刻な問題です。被造物のひとつひとつが人間のために存在しているのはなぜか、各種の神の創造物の役割は何か、ひとつひとつのものが人間にどのような影響を及すか、それが人類にどの程度の益をもたらすかを神は知っており、そして神の心の中では、そのすべてに計画があり、また神は自ら造った万物のあらゆる側面を管理しているので、神が行う業はどれも人類にとって極めて重要であり、必要なものなのです。なのでこれからは、神の創造物の生態的な現象や、神の創造物の間で働く自然の法則を見るたび、神が造った物ひとつひとつの必要性に疑念を抱かなくなるはずです。神による万物の采配や、神が人類に施す様々な方法について、無知な言葉を使って勝手に判断することもなくなります。また、すべての被造物に対する神の法則についても、勝手な結論に至ることはありません。そうではありませんか。

ここまで話してきた事柄は何に関するものですか。しばらく考えてください。神の業のひとつひとつには、神自身の意図があります。神の意図は人間にとって不可解であるものの、常に人間の生存と密接かつ強力に関連しています。それは絶対に不可欠なのです。なぜなら、神は無益な業を一切行わないからです。神が行なうひとつひとつのことの裏にある原理原則には、神の計画と知恵が吹き込まれています。その計画の背後にある目的と意図は人間の保護すること、および災害や他の生物による侵害、そして神の創造物が引き起こす人間への危害を回避するにあたり、人類を助けることです。では、この主題の中で見てきた神の業は、神が人間に施すもうひとつの方法だと言えるでしょうか。神はこの方法を通じて人間に糧を与え、人間を牧養していると言えるでしょうか。(言えます。)この主題と「神は万物のいのちの源である」という表題の間には、強い関連性がありますか。(あります。)とても強い関連性があり、この主題はその一側面です。これらの主題について話をするまで、人々にあるのは神、神自身、そして神の業に関する漠然とした想像だけであり、真の認識はありませんでした。しかし、神の業と神がなした物事について伝えられると、人は神の業の原則を認識し、それを理解して手の届くところに達することができます。そうではありませんか。万物を創造したり、万物を支配したりするといったように、神が業を行うたび、その心中にはありとあらゆる複雑極まりない理論、原則、法則があります。たとえそうだとしても、交わりの中でその一部を学びさえすれば、神の業が存在すること、それらが極めて現実的であることを、心の中で理解できるのではないですか。(できます。)それでは、あなたがたの現時点における神の認識は、以前に比べてどれほど異なっていますか。それは本質的に異なっています。それまで、あなたがたの認識は極めて空虚であり、漠然としていましたが、いまやあなたがたの認識には、神の業と合致し、神が所有しているものと神そのものと合致する具体的な証拠が多数含まれています。したがって、わたしが話してきたことはどれも、あなたがたが神を理解するうえで素晴らしい教材なのです。

本日の集会はこれで終わりです。ごきげんよう。さようなら。(神様、さようなら。)

2014年2月9日

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