全能神教会App

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

終わりの日のキリストの語られる言葉

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

唯一の神自身5

速度

唯一の神自身5

神の聖さ(2)

兄弟姉妹の皆さん、きょうは讃美歌を歌いましょう。皆さんが好きで、前によく歌っていた歌を一つ選んでください。(神様の御言葉の歌「汚れなき純粋な愛」を歌いたいです。)

1.愛は汚れなき純粋な感情である。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。愛に条件や障壁や隔たりはない。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。もしあなたが愛するなら、あなたは欺かず、不平をこぼさず、背を向けることなく、何の見返りも求めない。もしあなたが愛するなら、あなたは喜んで犠牲を払い、困難を受け入れ、神と調和して一つになる。

2.愛には疑い、狡さや偽りなどない。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。愛に距離はなく、汚れたものは何もない。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。もしあなたが愛するなら、あなたは欺かず、不平をこぼさず、背を向けることなく、何の見返りも求めない。もしあなたが愛するなら、あなたは喜んで犠牲を払い、困難を受け入れ、神と調和して一つになる。

3.あなたは自らの家族や青春、将来の展望や結婚、そして自らの全てを神に捧げるだろう。そうでなければあなたの愛は愛ではなく、神への偽り、神への裏切りだ。愛は汚れなき純粋な感情である。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。愛に条件や障壁や隔たりはない。愛し、感じ、思いやるためには、あなたの心を使いなさい。

良い歌を選びました。皆さん、この歌を歌うのが好きですか。(はい。)この歌を歌った後、何を感じますか。このような愛を皆さん自身の中に感じることができますか。(いいえ、まだできません。)この歌のどの言葉に皆さんは一番深く感動しますか。(「愛に条件や障壁や隔たりはない。愛には疑い、狡さや偽りなどない。愛に距離はなく、汚れたものは何もない」です。けれど私の中にはまだ不純物がたくさんありますし、神様と取引をしようとする部分、不十分な部分があります。ですから、現在の私自身を考えると、純粋で汚れのない種類の愛は本当に達成していません。)純粋で汚れのない種類の愛を達成していないのならば、どのような愛をもっていますか。あなたの中にどの程度の愛がありますか。(私は求めたいと思い、切望している段階にあるに過ぎません。)あなた自身の霊的背丈にもとづいて、自分の経験から来る自分自身の言葉で言うと、あなたはどの程度を達成しましたか。あなたには騙しがありますか。不満がありますか。心の中に要求がありますか。神から欲しいと思い、望んでいるものが何かありますか。(はい。そのような不純なものがあります。)どのような状況でそれは出てきますか。(神様が私のために準備してくださった状況が、それはこうあるべきという私の考えに会わないときや、私の要求が満たされなかったときに、その種の堕落した性質を見せます。)皆さんは、この歌をよく歌いますか。皆さんが「汚れなき純粋な愛」をどのように理解しているか話し合ってください。そして、なぜ神は愛をこのように定義するのでしょうか。(私はこの歌が本当に好きです。この愛が完全な愛であることが本当にわかるからです。でも、私はその基準からはかけ離れていると感じます。現在私は物事を犠牲にし、真理の追究のために損失に耐えている段階にあるだけですが、何かが私の将来と運命に影響するとすぐ、内面に葛藤を覚えます。私は神様をほとんど信頼していないことがわかります。)(私は今、真の愛の達成にはまだ程遠いと感じています。これに向けて進歩することができた事柄が幾つかあり、その方法の一つが、神様の御言葉が下さる力を通してで、もう一つがそのような状況においては祈りを通して神様に協力することです。けれど、存在に関する私の視点が関わるときは、乗り越えられないことが時々あります。)そのように乗り越えられないときに、あなたを阻止しているかもしれない物事のことを考えたことはありますか。このような問題について内省してみましたか。(はい。内省してみました。大部分が私自身の自負や虚栄心、そして自分の将来と運命への期待が大きな妨害物です。)将来と運命があなたにとって大きな妨げとなるとき、なぜそうなるのか考えてみたことはありますか。あなたは自分の将来と運命から何が欲しいのですか。(そのことについては完全にはっきりとはわかりません。時々、自分には将来も運命もないと感じる環境に出くわしたり、神様に私自身が暴かれるとき、終着点がないと感じることさえ時々あります。そのようなときにはとても弱く感じ、これが私自身の大きな妨げになったと感じます。一時期の経験の後と祈りを通して、私のこの状態は変わり目に到達できますが、それでもよくこの問題で当惑します。)「将来と運命」と言うとき、あなたが本当に意味しているのは何ですか。これと指差せるものが何かありますか。それは図や想像した何か、実際に見ることのできる何かですか。それは本当のものですか。皆さん一人ひとりの心の中で考えてみるべきです。心の中にある将来と運命についての懸念とは何を指しているのだろうか、と。(それは救われて生き残ることと、本分を尽くす過程を通して、徐々に神様に使われるのに相応しくなることと基準どおりに本分を尽くすことへの希望です。けれど、これらの部分では私はよく神様に暴かれていて、まるで私には将来がないように、私は足りない、と感じるのです。)他の兄弟姉妹の皆さんも話し合いなさい。「汚れなき純粋な愛」をどのように理解していますか。(個人からの不純なものが何もなく、人は将来や運命に支配されず、神様がどのようにお取り扱いになろうと、神様の働きに完全に従うことができ、神様の采配に従い、最後の最後まで神様に付き従うことができる。神様へのこのような愛だけが汚れのない純愛です。それに私自身を対比させると、神様を信じてきたこの数年間に、表面的には何らかの犠牲を払い損失に耐えてきたかもしれませんが、私は心を神様に本当に捧げることができていないことがわかります。神様が私のことを明らかにされるとき、私は自分が救われることのない人と特徴づけられたように感じ、この否定的な状態に留まってしまいます。私は自分の本分を尽くしながらも、同時に神様と取引しようとして、心から神様を愛することができず、私の終着点、将来、運命が頭から離れないことがわかります。)

皆さんはこの歌をよく歌ってきたので、ある程度理解していて、また実際の経験との何らかの関連があるようです。けれど、ほとんど全員の「汚れなき純粋な愛」の歌詞の一つひとつの受け入れの程度が違います。やる気になっている人もいれば、将来を脇へやろうとしている人もいるし、家族を脇へやろうとしている人もいれば、何も受け取ることを求めていない人もいます。また他には、騙しや文句をもたないこと、神に反抗しないことを自分に要求している人がいます。なぜ神はこのような愛を提案し、人が神をこのように愛することを要求するのでしょうか。これは人が達成できるような愛ですか。つまり、人はこのように愛することができますか。人はこのような愛を全然もっていないので、自分にはできないと思うかもしれません。それをもっていないとき、根本的に愛について知らないとき、神が人がよく知らないこれらの言葉を語ります。人はこの世に生き、その堕落した性質において生きているので、もしこのような愛をもっていたなら、あるいはこのような愛をもつことが可能で、一切の願いも要求ももたず、自分を捧げる気があり、苦しみに耐え、所有するすべてをあきらめる気があるなら、このような愛をもつ人は他の人の目にはどのように映るでしょうか。それは完全な人でしょうか。(はい。)そのような完全な人がこの世に存在しますか。そんな人は存在しない。そうではありませんか。こんな人は、真空に生きていない限り、この世には絶対に存在しません。そうですね。それで、経験を通して、この歌詞が描写するもののようになろうと大変な努力をする人々もいます。彼らは自らを取り扱い、自らを抑制し、絶えず自らを見捨てさえします。苦しみに耐え、抱いていた観念を捨て去ります。神に対して反抗的であったやり方を捨て、自らの欲望や要求を捨てます。けれども最後には、やはり要求を満たすことはできません。なぜこうなるのでしょうか。神がこれらのことを言うのは、人が従うべき基準を提供するためで、それにより神が人々に求めている基準を彼らが知るようにです。けれど、そもそも神は人はそれを直ちに達成しなければならないと言いますか。そもそも神はどれほどの時間でそれを達成しなければならないと人に言いますか。(いいえ。)そもそも神は人は神をこのように愛さなければならないと言いますか。この文章はそう言っていますか。いいえ。言っていません。神はただ、神が言及していた愛について人に話しているだけです。人が神をこのように愛したり、このように扱ったりできることに関して、神の要求は何ですか。それらを瞬時に、ただちに達成する必要はありません。なぜなら人にはできないからです。皆さんは、このように愛するために人が満たさなければならない条件はどのようなものかを考えたことがありますか。これらの言葉をしょっちゅう読めば、人はそのような愛を徐々にもつようになるでしょうか。(いいえ。)では、条件は何ですか。まず初めに、人はどうしたら神に対する疑いから自由になることができますか。(誠実な人だけがそれを達成できます。)騙しから自由になることはどうですか。(やはり誠実でなければなりません。)神と取引しようと思わない人になるためには。これも誠実な人でなくてはなりません。狡猾さをもたないことはどうですか。愛において選択はないと言うとき、それは何を指していますか。それらはすべて誠実な人であることを指していますか。ここには多くの細目があります。神がこのような愛をもたらせること、あるいはこのように愛を定義できること、このように言えること、これは何を確証しますか。神はこのような愛をもっていると言うことができますか。(はい。)皆さんはこれをどこに見ますか。(神様の人間への愛に見ます。)神の人間への愛は条件付きですか。(いいえ。)神と人間のあいだには障壁や距離がありますか。(いいえ。)神は人間に対して疑いをもっていますか。(いいえ。)神は人間を観察し、人間を真に理解しています。神は人間を騙そうとしますか。(いいえ。)神がこの愛についてこれほど完璧に話すということは、神の心あるいは神の本質も完璧ということですか。(はい。)人が愛をこのように定義したことがありますか。どのような状況で人間は愛を定義してきましたか。人間は愛についてどのように話しますか。それは与えるか差し出すことではありませんか。(そうです。)この愛の定義は単純で、本質が欠けています。

神の愛の定義と神が愛について語る方法は、神の本質の一面と関連していますが、神の本質のどの面ですか。前回わたしたちはとても重要な主題について交流しました。それは人々が以前によく話し合い、取り上げたことのある主題で、神を信じる過程でよく出てくる言葉です。けれど、それは人々にとって親しみがあり、かつ馴染みのないように思える言葉ですが、なぜそうなのですか。それは人間の言語から来る言葉で、人間のあいだにおけるその定義は明瞭でありまた曖昧です。それは何という言葉ですか。(聖さです。)聖さ、それが最後にわたしたちが交流したときの題目でした。この題目について少し話し合いましたが、わたしたちの交流は中途半端でした。前回わたしたちが話し合った部分にもとづくと、神の聖なる本質について皆さん全員が新しい理解を得ましたか。(はい。)皆さんは何を新しい理解だと思いますか。つまり、その理解あるいはそれらの言葉の何ゆえに、皆さんの神の聖さについての理解がわたしが神の聖さについて話したこととは違う、あるいは変わっている、と感じましたか。それは何か印象を残しましたか。(神様は御心でお感じになったことを仰います。それは純粋です。それは聖さの一面です。)それはその一部です。他に追加することはありますか。(神様が人間に対して激怒なさっているときには聖さがあります。それには汚れがありません。)(私は神様の権威に神様の完璧さ、信実さ、知恵、万物の支配を見ます。そういうものを理解します。)「万物の支配」は神の権威に関することです。今、わたしたちは神の聖さについて話し合っています。(神様の聖さについては、神様の義なる性質には神様の激怒と憐れみがあると理解しています。これは私にとても強い印象を残しました。神様の義なる性質は唯一無二で、過去には私はそれについてこのような理解、あるいは定義をもっていませんでした。けれど、神様の交流において、神様の激怒は人間の怒りとは異なると神様はお話になりました。それは被造物はもっていないものです。神様の激怒は好ましいもので、それは原則にもとづいています。それは神様の元来の本質ゆえにもたらされます。それは、神様は何か好ましくないものをご覧になり、それで激怒されるからです。神様の憐れみもまた被造物がもっていないものです。人間には憐れみと似ているとみなされる善行や義なる行為がありますが、それらは不純でその背後には動機があります。ある種のいわゆる憐れみは、贋物で空虚でさえあります。けれど私は、神様が人間に憐れみをお見せになるときに神様の救いを見ましたし、その憐れみは人間を救われる道に直接に置いてくださいます。それは人が美しい終着点を受けられるように、人を神への信仰の正しい軌道に乗せてくださいます。ですから、神様の憐れみは神様の本質に備わっています。神様が激怒のあまり一つの都を破壊するようなことがあっても、神様には憐れみ深い本質があるため、いつでもどこでも憐れみをお見せになり、その都の住民をお守りになることができます。これが私の理解です。)神の義なる性質について、皆さんはある程度理解しています。

わたしたちのきょうの題目は神の聖さです。人はよく神の義なる性質を神の聖さと一緒にします。人は皆、神の義なる性質については何かを聞いたことがあったり、知っていたりします。さらに、多くの人はよく神の聖さを神の義なる性質と一緒に語って、神の義なる性質は聖なるものだと言います。誰もが「聖なる」という言葉には馴染みがあり、それは普通に使われる言葉ですが、その言葉の言外の意味については、神の聖さがどのように表れるのを人は見ることができますか。人が認識できる何を神は明らかにしましたか。これは誰も知らないことのようです。わたしたちは神の性質は義であると言いますが、それではもし人が神の義なる性質を取り上げて、それは聖なるものだと言うならば、それは少し曖昧で、少し混乱気味に思えます。なぜですか。神の性質は義であるとか、神の義なる性質は聖なるものであるとか人は言いますが、それでは皆さんの心の中ではどのように神の聖さを特徴づけ、どのように理解していますか。つまり、神は何を明らかにし、また神がもち神であることのすべてにおいて人が聖なるものとして認識できるものは何ですか。これについて以前に考えたことがありますか。わたしが見たのは、人はよく普通に使われる言葉を言ったり、何度も繰り返された文言を使ったりしますが、自分が何を言っているのかさえ知らないということです。それは誰もがそのように言うからであり、習慣的にそう言うのであり、そのために決まり文句になるのです。けれど、細目を調べ本当に研究するならば、本当の意味が何であるのか、あるいはそれが何を指しているのかを知らないことに気づくでしょう。ちょうど「聖なる」という言葉のように、人が語る神の聖さに関して、正確に神の本質のどの側面に言及しているのか誰も知らないのです。「聖なる」という言葉を神と一致させることに関しては、誰も知らず、そして人の心は混乱しており、そして神を聖なるものとして認識することにおいて人は大まかです。しかし、神はいかに聖なるものなのですか。この問題について、誰も明確ではありません。きょう、わたしたちは「聖なる」という言葉を神と一致させるためにこの題目について話し合います。それにより、人が神の聖なる本質の実際の中身を見ることができるようにです。またこれは、正しく正確であろうがなかろうが、自分が何を意味しているのかを知らないのに、何人かの人がこの言葉を習慣的に不注意に使ったり、でまかせに物事を言ったりすることの予防となります。人はいつもこのように言ってきました。あなたも言い、わたしも言ったので、これは一つの言い回しになり、このようにして人々はうかつにも「聖なる」という言葉を汚したのです。

「聖なる」という言葉については、表面上はとても理解しやすそうに見えます。そうではありませんか。少なくとも人は、「聖なる」という言葉は清く、汚れがなく、神聖で、純粋という意味であると信じ、あるいは「聖なる」を先ほどわたしたちが歌った讃美歌「汚れなき純粋な愛」での「愛」と関連付ける人もいますし、それは正しいです。それは一部です。神の愛は神の本質の部分ですが、全体ではありません。けれど、人の観念では、この言葉を見て、それを自分自身が純粋で清いとみなすもの、あるいは自分たちが個人的に穢れも汚れもないと思うものと関連付ける傾向があります。例えば、蓮の花は清いと言った人がいました。どうして人は蓮の花をこのように定義するに至ったのですか。(蓮の花は泥の中で育ちますが、汚れずに花を咲かせるからです。)汚れた水から汚れずに花を咲かせるから、人は「聖なる」という言葉を蓮の花に当てはめ始めました。他人が作った恋物語を聖なるものとみなした人がいますし、作り物の立派な劇中人物を聖なるものとした人もいます。さらに、聖書の人物、あるいは霊的書物に記された他の人々、つまり聖徒や使徒、過去に神がその働きを行なったときに神に従った人々などを、聖なる霊的経験をしたとみなした人もいます。これらはみな人が考え出したもので、人が抱く観念です。なぜ人はこのような観念を抱くのですか。理由が一つあり、それはとても単純です。つまり、人は堕落した性質の只中で生きており、邪悪と汚れの世界で生活しているからです。人が見るものすべて、触れるものすべて、経験するものすべてがサタンの邪悪であり、サタンの堕落であり、またサタンの影響下で人々のあいだで起こる陰謀、内紛、戦争です。ですから、神が人において働きを行なうときでさえ、神が人に語りかけ神の性質と本質を明らかにするときでさえ、人は何が神の聖さと本質であるかを見ることも知ることもできないのです。人はよく神は聖であると言いますが、真の理解はしていないのです。ただ、空っぽの言葉を述べているだけです。人は汚れと堕落にまみれて、サタンの領域で生きているため、光を見ることはなく、前向きな物事を何も知らず、さらに真理を知らないのです。ですから、何が聖なるものなのか誰も本当には知りません。そう言ったものの、この堕落した人類の中に聖なるものや聖なる人はいますか。(いません。)確実に言えます。いません。なぜなら神の本質のみが聖なるものだからです。

神の本質の聖さに関しては、前回わたしたちはそれについて少し交流し、それは神の聖さについて人が認識するための啓示となりましたが、十分ではありません。それは人が完全に神の聖さを知るための十分な助けとなることはできませんし、神の聖さが唯一無二であることを人が理解するための十分な助けとなることもできません。さらに、神において完全に具現化されている聖さの真の意味の側面を、人に十分理解させることもできません。したがって、わたしたちはこの主題での交流を続けることが必要です。前回の交流では題目を三つ話し合いましたから、今は四番目の題目を話し合うべきです。聖書を読んで始めます。

サタンの誘惑

マタイによる福音書第四章1-4節 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

これが悪魔が主イエスを初めて試みようとした言葉です。悪魔の言ったことの内容は何ですか。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔はこれら極めて単純な言葉を言いましたが、この言葉の実質的内容に問題はありますか。(あります。)何が問題ですか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いましたが、心の中では悪魔は主イエスが神の子であることを知っていましたか。キリストであることを知っていましたか。(はい。)それでは、なぜ悪魔は「もし……であるなら」と言ったのですか。(神様を試そうとしたのです。)もちろん、悪魔は神を試そうとしていたのですが、しかし、そうする悪魔の目的は何でしたか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いました。心の中では、悪魔は主イエス・キリストが神の子であることを知っていました。このことは悪魔の心の中ではとても明確でした。しかし、それにもかかわらず、悪魔は主イエスに服従、あるいは主イエスを礼拝しましたか。(いいえ。)悪魔は何がしたかったのですか。悪魔がこれを行い、この言葉を言いたかったのは、主イエスを怒らせ、主イエスが餌に喰いついて来るようにおびき寄せ、主イエスを騙して悪魔の考える通りのことをさせ、その釣針にかかるようにさせるためでした。これが意図されたことではありませんでしたか。サタンは心の中では、明らかにそれが主イエス・キリストであることを知っていましたが、それなのにこう言ったのです。これがサタンの本性ではありませんか。サタンの本性は何ですか。(ずるくて、邪悪で、神様への畏敬の念がありません。)神への畏敬の念がありません。悪魔がしていた否定的なことは何ですか。神を攻撃したかったのではありませんか。神を攻撃するのにこの方法を用いたかったのです。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と言いました。これはサタンの邪悪な意図ではありませんか。(そうです。)悪魔は本当は何をしようとしていたのですか。悪魔の目的は明らかです。この方法を用いて主イエス・キリストの地位と身分を反証しようとしたのです。悪魔は、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。もししないなら、あなたは神の子ではなく、あなたはこの働きを行なうな」と言いました。これがここで意図されたことではありませんか。悪魔はこの方法で神を攻撃したかったのです。神の働きを取り壊し、つぶしたかったのです。これはサタンの悪意です。サタンの憎悪はその本性の自然な表れです。サタンは主イエス・キリストは神の子であり、神の受肉そのものであると知っていたのに、このようなことをせずにはいられず、神の後ろをつけ、神を攻撃し続け、神の働きを妨げ破壊しようと骨を折ったのです。

さて、サタンが言った「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という台詞を分析しましょう。石をパンにする、これは何かを意味していますか。もし食べ物があるのなら、なぜそれを食べないのですか。なぜ石を食べ物に変える必要があるのですか。ここに意味はありますか。(ありません。)このとき主イエスは断食をしていましたが、食べ物をもっていたはずです。食べ物をもっていましたか。(はい。)それでは、ここにサタンがこの台詞を言ったことの馬鹿らしさがあります。サタンは幾つかのことをします。サタンの狡猾で悪意に満ちた本性が、サタンが神の働きを破壊するのが見えます。とても憎悪に満ちていて、苛立たせます。けれど、他方ではサタンの言動の背後に幼稚で愚かな本性も見えませんか。(見えます。)これはサタンの本性が露呈しているのです。サタンはこのような本性をもち、このようなことをします。この台詞はきょうの人々には馬鹿げていて笑えてきます。けれど、このような言葉は確かにサタンが言いそうなものです。サタンは無知だと言うことができますか。愚かですか。サタンの邪悪はそこらじゅうにあり、絶えず暴露されています。そして主イエスはどのように返答しますか。(『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』。)これらの言葉には力がありますか。(あります。)なぜ力があると言うのですか。(それが真理だからです。)そうです。これらの言葉は真理です。さて、人はパンだけで生きるものですか。主イエスは四十日四十夜断食しました。飢え死にしましたか。(いいえ。)飢え死にしませんでした。そこでサタンは主イエスに近づいて、「石を食べ物に変えれば、食べるものがあるではないか。それなら断食して、ひもじい思いをしなくてよいのではないか」のようなことを言って、主イエスに石を食べ物に変えるように促しました。けれど主イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく」と言いました。これは、人間は肉体に生きてはいるが、人間にいのちを与えるもの、人間の肉体を生かし、呼吸させるものは食べ物ではなく、神の口から出るすべての言葉である、という意味です。一方で、人間はこの言葉を真理ととらえます。この言葉は人間に信仰を与え、人間は神に頼ることができ、神は真理であると感じさせます。他方で、この言葉には実際的な面がありますか。(あります。)なぜですか。それは、主イエスは四十日四十夜断食し、それでも立ち、いまだに生きているからです。これは実例ではありませんか。主イエスは四十日四十夜のあいだ何も一切の食べ物を食べていません。それでもまだ生きています。これはこの聖句の裏にある強力な証拠です。この台詞は単純です。けれど、主イエスに関する限り、この台詞は誰かに教えられ主イエスの心から出たものですか。それとも、サタンが言ったことのためだけに主イエスが考えついたのでしょうか。考えてみなさい。別の言い方をするならば、神は真理であり、神はいのちですが、神の真理といのちは後に追加されたものですか。それは経験から生まれたものでしたか。(いいえ。)いいえ。それは神に元来備わっているものであり、それは真理といのちは神の本質であるという意味です。神に何が起ころうと、神が表すものは真理です。この真理、この台詞は、その内容の長短に関わらず、人間を生かし、人間にいのちを与えることができます。この台詞は、人間がその中に真理を見出し、人生の道について明らかにし、神への信仰をもつことを可能にします。言い換えるなら、神がこの台詞を用いたことの源泉は肯定的です。それではこの肯定的なことは聖なるものだと言うことができますか。(はい。)サタンの台詞はサタンの本性から来ます。サタンはその邪悪な本性、悪意にみちた本性をあちこちで常に明らかにします。さて、サタンはこのような明示を自然に行いますか。(はい。)誰かが促すのですか。誰かが助けるのですか。誰かが強要するのですか。(いいえ。)それはすべて自発的な暴露です。これがサタンの邪悪な本性です。神が何を、またどのように行なおうと、サタンは神のすぐ後に付いて来ます。サタンのこのような言動の本質と真の特徴が、サタンの本質、邪悪な本質、悪意に満ちた本質です。さて、読み続けると、サタンは他に何を言いますか。続けて先を読みましょう。

マタイによる福音書第四章5-7節 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

まず初めにサタンのこの台詞について話し合いましょう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言い、そして「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と聖書から引用しました。皆さんはサタンの言葉を聞いて、どう感じますか。とても幼稚ではありませんか。この言葉は幼稚で、馬鹿げていて、吐き気を催させます。なぜわたしはこう言うのですか。サタンはいつも何か愚かなことをしようとしていて、自分をとても頭が良いと思っています。またサタンはよく聖書を、神の言葉そのものさえ引用して、そのような言葉を神に反して用い、神を攻撃し試そうとします。これをするサタンの目的は、神の働きの計画を破壊することです。それはそうとして、サタンの言ったことで何か気づきますか。(そこには邪悪な意図があります。)サタンは常に試みる者です。サタンは直截な話し方をせず、誘惑や欺き、そそのかしを使って遠まわしな話し方をします。サタンは人間も神も同じように試します。神も人間も無知で愚かではっきりと物事をあるがままに区別できないと思っているのです。サタンは神と人間は同様にサタンの本質を見通さず、神も人間もサタンの騙しや腹黒い意図を見抜けないと思っています。これがサタンが愚かなところではないでしょうか。さらに、サタンは堂々と聖書を引用します。こうすることで、自らに信頼性が備わり、誰かが欠陥を見つけることも、騙されるのを避けることもできないと思っているのです。これがサタンが馬鹿げて幼稚なところではないでしょうか。(そうです。)これはちょうど誰かが福音を開いて神への証しを立てるときのようです。非信者はサタンが言ったことと同じようなことを言いませんか。皆さんは誰かが同じようなことを言うのを聞いたことがありませんか。(あります。)そのようなことを聞くと、どう感じますか。吐き気を催しますか。(はい。)吐き気を催すとき、皆さんは不快で憎悪も感じますか。(はい。)そのような感じを覚えるとき、サタンと、サタンが人間の中に入り込ませる堕落した性質が邪悪であることを認識することができますか。皆さんの心の中で、ともかく次のような気づきがありますか。「神は決してこのように話すことはない。サタンの言葉は攻撃と誘惑をもたらし、その言葉は馬鹿げていて、おかしく幼稚で、吐き気を催させる。けれど、神の言葉と行動においては、神は決してこのような方法を用いて話したり働きを行なうことはなく、神はこれまでにそんなことをしたことはない」。もちろん、この状況においては、人々は感情はわずかしかもたず、神の聖さには気づいていません。違いますか。皆さんの現在の霊的背丈をもってすると、皆さんは「神が言うことはすべて真理だ。それは私たちに有益で、受け入れなければならない」と感じているだけです。これを受け入れることができるか否かに関わらず、例外なく皆さんは神の言葉は真理で、神は真理だと言いますが、真理は聖さそのものであることと神は聖なるものであることを皆さんは知らないのです。

さて、主イエスのサタンの言葉への返答は何でしたか。(イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。)主イエスがいったこの台詞には真理がありますか。(はい。)そこには真理があります。表面的には、それは人が従うべき命令のようで、とても単純な台詞ですが、人間もサタンもこれをしょっちゅう犯してきました。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言いました。なぜならば、これはサタンがよく行なった、あらゆる努力をして行なったことであり、恥知らずにも行なったとさえ言うことができることだからです。神を畏れず心に神への畏敬の念をもたないのはサタンの根源的な本性です。ですから、サタンが神のそばにいて神を見ることができたときでさえ、神を試さずにはいられなかったのです。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言ったのです。これは神がサタンにしょっちゅう言ってきた台詞です。この台詞を今日でも使うことは適切ではありませんか。(適切です。)なぜですか。(私たちもよく神様を試すからです。)人はよく神を試しますが、なぜ人はよくそうするのですか。人が堕落したサタン的性質で満たされているからですか。(はい。)では先にサタンが言ったことは人がよく言うことですか。(はい。)どのような状況ですか。人はこのようなことを時間や場所に無関係に言ってきたと言うことができます。これは、人の性質はサタンの堕落した性質とまったく同じだということを証明しています。主イエスは単純な台詞、真理を表し、人が必要とする台詞を言いました。けれど、この状況において、主イエスはサタンと議論していたのですか。主イエスがサタンに言ったことに、何か対立的ものがありましたか。(いいえ。)主イエスは心の中でサタンの誘惑をどのようにみなしましたか。主イエスは吐き気を催し胸が悪くなるように感じましたか。(はい。)主イエスは吐き気を催し胸が悪くなるように感じましたが、サタンと議論はしませんでしたし、ましてや大いなる原則について話したりはしませんでした。そうではないですか。(その通りです。)それはなぜですか。(主イエスはサタンを認めたくなかったのです。)なぜ主イエスはサタンを認めたくなかったのですか。(サタンはいつも同じで、変わることがないからです。)サタンは筋が通っていないと言うことができますか。(はい、できます。)サタンには神は真理だということが認識できますか。サタンは神が真理であるということを決して認識しませんし、神が真理であるということも決して認めません。これはサタンの本性です。さらに、サタンの本性で胸が悪くなるようなことが他にあります。それは何ですか。主イエスを試そうとした際、サタンはもし神を試して成功しなかったとしても、とくかくやってみようと考えました。罰せられるとしても、とにかくするのです。そうすることで何ら良いことを得られないとしても、サタンはそれを行なって、最後まで執念深く神に立ち向かいます。これはどういう本性ですか。邪悪ではありませんか。(そうです。)神と言うと激昂する人は、神を見たことがありますか。神と言うと怒る人は、神を知っていますか。そんな人は神が誰か知りませんし、神を信じませんし、神はそんな人に語りかけたことはありません。神はそんな人に構ったことはありません。それなのに、なぜ怒るのでしょうか。そんな人は邪悪だと言うことができますか。それは邪悪な本性の人でしょうか。世の中でどのような流行が起きていようと、それが娯楽や食べ物、有名人、社交界の名士に関することであろうと、一切そのようなものに気をもむことがないのに、「神」という一言で取り乱します。これは邪悪な本性の一例ではないでしょうか。これは、人間の邪悪な本性の満足ゆく証拠となります。さて、皆さんに関しては、真理と言うと、あるいは神の人類に対する試練が話題になったり、あるいは神の人間への裁きの言葉と言うと、うんざりし、胸が悪くなるように感じ、そのことは聞きたくないと思う時がありますか。皆さんの心が、どうしてこれが真理なんだ、皆が神は真理だと言っていなかったか、これは真理ではない、これは明らかに神の人間への警告の言葉に過ぎない、と思うかもしれません。心の中で嫌悪を感じる人さえいるかもしれません。「これは毎日話題になる。神の我々への試練は、神の裁きと同様に、いつも言及される。これは全部いつ終わるのか。我々はいつ良い終着点に到達するのか」と思うのです。この不当な怒りがどこから来るのかは知られていません。これはどのような本性ですか。(邪悪な本性です。)これはサタンの邪悪な本性に促されています。サタンの邪悪な本性と人間の堕落した性質に対する神に関しては、神は決して人と議論したり言い争ったりせず、人が無知ゆえに行動したときも、騒ぎ立てません。神が物事に関して人と同様の見解を抱くのを皆さんが見ることはありませんし、さらに、神が人間の視点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理するのを皆さんが見ることもありません。その代わりに、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発したすべての言葉と、神が行なったすべての行為は真理に関係しているのです。この真理とそれらの言葉は、根拠のない空想ではなく、それどころか神の本質と神のいのちゆえに神により表されます。これらの言葉と神が行なったすべてのことの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらします。それにより、人は前向きな物事と、その前向きな物事の現実性を見ることができ、正しい道を歩くことができます。これらの物事は神の本質ゆえに決定され、これらは神の聖なる本質ゆえに決定されます。皆さんはこれを見ました。そうですね。続けて聖書を読みます。

マタイによる福音書第四章8-11節 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

サタン悪魔は前の二つのたくらみに失敗し、また別のたくらみを試します。主イエスにこの世のすべての国々とその栄華を見せ、悪魔を拝むように要求しました。皆さんはこの状況から、悪魔の真の特徴について何を見ますか。サタン悪魔はとてつもなく恥知らずではありませんか。(そうです。)どれほど恥知らずになれるのでしょうか。万物は神により創造されたのに、サタンはそれを逆さまにして、神に見せ「これらの国々の富と栄華を見なさい。わたしを拝むなら、これらを皆あなたにあげましょう」と言うのです。これは役割の逆転ではありませんか。サタンは恥知らずではありませんか。神は万物を創造しましたが、それは神の楽しみのためでしたか。神は人類に万物を与えましたが、サタンはそれをすべて奪いたくて、後で「わたしを拝め。わたしを拝めば、これをみなあなたに与える」と言いました。これはサタンの醜い顔です。とてつもなく恥知らずではありませんか。サタンは「恥」という単語の意味さえ知りません。これは邪悪のもう一つの例です。サタンは恥が何であるかさえ知りません。サタンは明らかに、神が万物を創造し、それを管理し支配していることを知っています。万物は神に属し、人間に属するのではなく、ましてやサタンに属するのでもありません。それなのにサタン悪魔はずうずうしくも自分が神に万物を与えようと言ったのです。サタンは再び愚かで恥知らずなことをしているのではありませんか。今や神はサタンをさらに憎悪しています。そうですね。しかし、サタンが何を行なおうとしようが、主イエスは騙されましたか。(いいえ。)主イエスは何と言いましたか。(「主なるあなたの神を拝せ」です。)この台詞には実際的な意味がありますか。(はい。)どのような実際的な意味ですか。サタンの言葉にはサタンの邪悪と恥知らずさが見えます。では、もし人間がサタンを拝んだら、結末はどうなるでしょうか。人は国々の富と栄華を受け取るでしょうか。(いいえ。)人は何を受け取りますか。人類もサタンと同じくらい恥知らずで笑いの的になるでしょうか。(はい。)人はサタンと変わりなくなるでしょう。ですから、主イエスは一人ひとりにとって重要なこの台詞を言ったのです。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」とは、主以外に、神以外に誰かを拝むならば、もしサタン悪魔を拝むならば、サタンと同じ汚れの中でもがくことになると述べています。そうなると、サタンの恥知らずさと邪悪を共有することになり、サタン同様に神を試し、神を攻撃します。そうなると人の終末はどうなるでしょうか。神に嫌悪され、神に打ち倒され、神に破壊されるのではありませんか。サタンが主イエスを成功することなく何度も試した後、サタンは再度試しましたか。サタンは再度試さず、去りました。これは何を証明しますか。これはサタンの邪悪な本性、その悪意、愚かさ、馬鹿らしさは神の前において語るに値しないことを証明します。主イエスはサタンを三つの文章だけで打ち負かしました。その後、サタンは尻尾を巻いて逃げ去り、恥ずかしさのあまり二度と顔を見せることもできず、主イエスを再び試すことはありませんでした。主イエスがサタンのこの誘惑を打ち負かしたので、主イエスは今やするべき働きを容易に継続することができ、目の前にある課業に取り組むことができました。この状況において主イエスが言い行なったことすべてに、もしそれが現在適用されたなら、すべての人にとって実際的な意味がありますか。(はい。)どのような実際的な意味ですか。サタンを打ち負かすのは簡単にできることですか。(いいえ。)ではそれはどのようなものですか。人はサタンの邪悪な本性について明確な認識をもつべきですか。人はサタンの誘惑について正確な理解をするべきですか。(はい。)もし生活においてサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見通すことができるならば、サタンを打ち負かすことができるでしょうか。もしサタンの愚かさ、馬鹿らしさを知っているならば、それでもサタン側につき、神を攻撃しますか。(いいえ。しません。)もしサタンの悪意と恥知らずさが、いかにあなたを通して明らかにされているかを理解し、もしこれらのことを明確に認識し知っているならば、それでもこのように神を攻撃し試しますか。(いいえ、しません。)何をしますか。(サタンに対抗し、サタンを捨て去ります。)それは簡単にできることですか。(いいえ。)これは簡単ではなく、実行するには、人は頻繁に祈り、頻繁に神の前に来て、常に自省しなければなりません。神の鍛錬と裁き、刑罰に自己をゆだねなければなりません。このようにしてのみ、人はサタンの惑わしと支配を自己から徐々に取り除けるのです。

サタンが言ったこれらのことから、サタンの本質を作り上げているものを要約することができます。まず第一に、サタンの本質は邪悪であると一般的に言うことができ、それは神の聖さと対照的です。なぜわたしはサタンの本質は邪悪であると言うのでしょうか。これを理解するには、サタンが人にすることのなりゆきを観察しなければなりません。サタンは人間を堕落させ支配し、人間はサタンの堕落した性質の下で行動し、サタンに堕落させられた世界に住み、堕落した人々のあいだで生活します。大衆は知らないうちにサタンにとりつかれ同化させられます。したがって、人間はサタンの本性である堕落した性質をもっています。サタンの言動のすべてに、その傲慢を見ましたか。その騙しと悪意を見ましたか。サタンの傲慢はおもにどのように示されますか。サタンはいつも神の地位を占めたがりますか。サタンはいつも神の働きと神の地位を破壊し、それを自分のものとしたがり、それにより人がサタンに従い、サタンを支持し拝めるようにしたいのです。これがサタンの傲慢な本性です。サタンが人を堕落させるとき、サタンは人が何をするべきか直接言いますか。サタンが神を試みるとき、サタンは出てきて「わたしは神を試し、神を攻撃している」と言いますか。絶対に言いません。サタンはどのような方法を用いますか。サタンはそそのかし、誘惑し、攻撃し、罠を仕掛け、聖書の引用さえします。サタンはその悪に満ちた動機を達成するために様々な方法で話し、行動します。サタンがこれを行なった後、人間に表れるものに何を見ることができますか。人は傲慢ではありませんか。何千年ものあいだサタンの堕落に苦しんだので、人間は傲慢で、欺瞞と悪意に満ちて、筋が通らなくなりました。これはすべて、サタンの本性のせいで起こりました。サタンの本性は邪悪なため、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、人間にこの邪悪で堕落した性質をもたらしました。したがって、人間は堕落したサタン的性質の下に生き、サタンのように人間も神を崇拝せず、心に神への畏敬の念をもたない程度にまで、神に逆らい、神を攻撃し、神を試すのです。

神の聖さについては、これは良く知った題目であるかもしれませんが、これについて話し合うには、人によってはやや抽象的になり、内容がやや深いものになるかもしれません。過去において、人はこの題目の実際的な側面にめったに対応しなかったからです。けれど、心配することはありません。わたしたちはゆっくり取り組み、皆さんが神の聖さが何であるか理解できるようにわたしが手助けします。初めに、こう言っておきましょう。もし誰かをよく知りたいのなら、ただその人がすることと、その人の行動の結果を観察すれば、その人の本質を見ることができます。まず最初に、神の聖さについてこの観点から話し合いましょう。言い換えれば、サタンの本質は邪悪なので、サタンの人間に対する行動は、無限に人間を堕落させることです。サタンは邪悪なので、サタンが堕落させた人々は確実に邪悪です。そうですね。「サタンは邪悪であるから、サタンが堕落させた人はおそらく聖なる人であろう」と誰か言うでしょうか。なんという冗談でしょう。そんなことが一体可能でしょうか。(いいえ。)それでは、そのように考えないで、この側面から話し合いましょう。サタンは邪悪であり、それには本質的で実際的な一面があり、これはただの空虚な話ではありません。わたしたちはサタンを中傷しようとしているのではありません。ただ、真実と現実について話し合っているのです。これは何人かの人、あるいはなんらかの部類の人を傷つけるかもしれませんが、それに悪意はありません。おそらく皆さんはきょうこれを聞いて、少し不愉快に感じるでしょうが、近いうちに、それを認識できるようになったとき、皆さんは自分を見下し、わたしたちがきょう話し合ったことは皆さんにとって、とても有益で価値があることだと感じます。サタンの本質は邪悪ですから、サタンの行動の結果は必然的に邪悪であるか、少なくともサタンの邪悪と関連しています。こう言うことができますか。(はい。)それではサタンはどのように人間を堕落させるのでしょうか。まず、この世と人類のあいだにサタンによってもたらされた邪悪で、目に見えるもの、人が感じることができるものに特に着目しなければなりません。皆さんは、これまでにこのことについて考えたことがありますか。あまり考えたことがないかもしれませんから、わたしが何点か挙げてみます。サタンが提案する進化論について誰でも知っていますね。それは人間が研究している知識の分野の一つではありませんか。(そうです。)サタンはまず知識を用いて人間を堕落させ、その独自の方法で人間に知識を授けます。そしてサタンは科学を用いて人間を堕落させ、人間の知識、科学、神秘的な物事、あるいは人々が探索してみたいと思う物事への関心を喚起します。次にサタンが人間を堕落させるのに用いるのは、伝統文化と迷信です。これに続いて、サタンは社会動向を用います。これらはすべて人々が日常生活において遭遇する物事で、これらは皆、人々の身近にあるもの、見るもの、聞くもの、触れるもの、経験するものに関連しています。これらは一人ひとりを取り囲んでいて、逃れることも抜け出ることもできないものだと言うことができます。これらのことに影響を受けたり、感化されたり、支配されたり、束縛されたりすることを避ける方法は人類にはありません。それらを押しのけるには人は無力なのです。

1.サタンはいかに知識を用いて人間を堕落させるか

最初に知識について話し合います。誰もが知識を好ましいものとみなすのではないでしょうか。あるいは、少なくとも人は「知識」という言葉の言外の意味は否定的というよりは肯定的だと考えます。それではなぜ、サタンは人間を堕落させるために知識を用いるとわたしたちはここで言っているのですか。進化論は知識の一側面ではありませんか。ニュートンの科学的法則は知識の一部ではありませんか。地球の引力は知識の一部ですね。(はい。)それではなぜ、人類を堕落させるためにサタンが用いるものの項目のうちに知識が挙げられるのですか。皆さんはこのことをどうとらえますか。知識はその中に少しでも真理を含んでいますか。(いません。)では、知識の本質は何ですか。(真理に背きます。)人間が学ぶ知識は何の基盤の上に習得されますか。それは進化論にもとづいていますか。人間が探索した知識、その総括は、無神論にもとづいていませんか。(もとづいています。)この知識のうちの何かに神とのつながりがありますか。それは神を崇拝することとつながっていますか。真理とつながっていますか。(いいえ。)では、サタンは人間を堕落させるためにどのように知識を用いるのでしょうか。わたしはたったいま、この知識のうちの何も神を崇拝することや真理につながっていないと言いました。このことについて、「真理とは関係ないかもしれないが、人を堕落させることはない」と考える人もいます。皆さんはこれをどうとらえますか。人の幸福は人が自らの手で作り出すものに左右されると、あなたは知識から習いましたか。人間の運命は自らの手にあるとあなたは知識から習いましたか。(はい。)これはどのような話ですか。(それは戯言です。)その通り。これは戯言です。知識は、話し合うには複雑なものです。知識のある部分は知識以上の何ものでもないと簡単に言うことができます。それは、神を崇拝しないことと、神が万物を創造したという認識の不在にもとづいて習得される知識の部分です。このような知識を学ぶとき、人は神が万物を支配しているものとして見ず、神が万物を監督、管理しているものとして見ません。代わりに人がすることは、その分野の知識をひたすら研究し、探索し、知識にもとづいた解答を求めるだけです。けれど、もし人が神を信じず、代わりにただ研究を行なうだけならば、決して真の解答を見つけ出すことはありません。そうですね。知識は、人がひもじい思いをしないように、生活の糧を与えるだけ、仕事を提供するだけ、収入をもたらすだけです。しかし、それは決して人に神を崇拝させることはなく、人を悪から遠ざけることはありません。知識を学べば学ぶほど、神に反抗し、神について調べ、神を試し、神に逆らいたくなります。それでは今、知識が人に教えているのは何であるとわかりますか。これはすべてサタンの哲学です。堕落した人類の中にあるサタンの哲学と生存の法則は、真理と何かのつながりがありますか。(ありません。)真理とはまったく無関係ですし、実のところ、真理の反対です。「生きていることは動いていることである」と人はよく言いますが、これはどのような話ですか(それは戯言です。)「人は鉄で、米は鋼である。食事を抜くと人は飢えたように感じる」とよく人は言いますが、これは何ですか。これはさらに酷い虚偽で、それを聞くと吐き気を催します。ですから、知識とはおそらく一人ひとりが知っておくべきことです。人のいわゆる知識に、サタンはその人生哲学と思想をかなり浸み込ませています。またサタンはそれをしつつ、人間にサタンの思想、哲学、視点を取り入れさせて、人間が神の存在を否定するように、神の万物の支配と人間の運命の支配を否定するようにしむけようとします。だから、人間の勉学が進むにつれ、人間はさらに知識を習得し、神の存在が曖昧になるのを感じ、神は存在しないとまで感じることもあります。サタンが人間の頭脳に視点、観念、思想を追加するにつれ、これらの思想を人間の頭脳に入れ、人間はこれにより堕落させられるのではありませんか。(そうです。)そのとき人間の生活の基盤は何ですか。人間はその知識に本当に依存していますか。いいえ。人間はその知識に隠されたサタンの思想、視点、哲学を自らの生活の基盤としています。ここがサタンによる人間の堕落の核心が起こるところであり、これがサタンの目的で、人間を堕落させる方法なのです。

初めに、この題目の最も表面的な部分について話し合います。語学の授業の文法や単語は人を堕落させることができますか。単語が人を堕落させられますか。(できません。)単語は人を堕落させません。単語は人が話せるようにする道具であり、人が神と意思疎通するのに用いる道具です。さらに、言語と言葉は、現在神が人と意思疎通する方法であり、それらは道具であり、必要なものです。1+1=2、これは知識ですね。2x2=4、これも知識ですね。でも、これが人を堕落させることができますか。これは常識であり規則ですから、人を堕落させることはできません。では、どのような知識が人を堕落させるのでしょうか。それは、サタンの視点と思想が混ざり込んだ知識です。サタンはこれらの視点や思想を、知識を通して人類に浸み込ませようとします。例えば、随筆において、そこに書かれた語句に何か問題がありますか。(ありません。)問題はどこにあるのでしょうか。著者が随筆を書いたときの視点と意図、そして著者の思想の内容、これらは霊的な物事ですが、これらは人を堕落させることができます。例えば、もしテレビ番組を観ていたとして、その中のどのようなことが人の意見を変えることができますか。出演者が言ったこと、その台詞そのものが人を堕落させることができますか。(できません。)どのようなことが人を堕落させられますか。番組の核心的な思想と内容で、製作責任者の意見を反映しているであろうもの、そしてそれらの意見に込められた情報が人々の心と頭脳を揺さぶることができるでしょう。そうですね。(はい。)サタンが知識を用いて人を堕落させる話において、皆さんはわたしが何を指しているか知っていますか。(はい、知っています。)皆さんは誤解しないでしょう。そうですね。ではまた小説か随筆を読むとき、そこに表現されている思想が人類を堕落させるか否か、人類に貢献するか否かを判断することができますか。(少しできます。)これはゆっくり学習し経験しなければならないことで、ただちに容易に理解するものではありません。例えば、ある知識の分野の研究や学習をするとき、その知識の肯定的な側面が、その分野についての常識と人が避けるべきことについて理解する助けになることがあります。例えば、「電気」を取り上げましょう。これは知識の一分野ですね。もし電気は人を感電させることがあることを知らなかったなら、あなたは無知ということになります。そうですね。けれど、一旦この部分の知識を理解すれば、不注意に電気に触れなくなり、電気の使い方を覚えます。これらはどちらも肯定的なことです。知識が人を堕落させることについて、わたしたちが何を話し合っているかはっきりしていますか。(はい、しています。)もし理解しているのなら、このことをこれ以上話し続けません。この世において学習される知識には多くの種類があり、それらを皆さんが自分で区別するには時間をかけなければならないからです。

2.サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させるか

科学とは何ですか。ほぼすべての人の考えにおいて、科学は威信のあるもので、深いものとみなされていませんか。(はい、そうです。)科学と言うと、「それは一般人には把握できなくて、科学研究者か専門家だけが触れることのできる話題だ。我々のような一般人とは何の関係もない」と人は感じませんか。しかし、関係はありますか。(あります。)サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させますか。わたしたちは、人々が生活においてしょっちゅう遭遇すること以外の物事については話しません。遺伝子について聞いたことがありますか。この用語は皆さん、よく知っていますね。遺伝子は科学を通して発見されましたか。(はい。)人にとって遺伝子とは正確に何を意味しますか。遺伝子は、人体とは神秘的なものだと人に感じさせませんか。この題目に導き入れられると、もっと知りたい、あるいはもっと詳細が欲しいと思う、特に好奇心の強い人がいないでしょうか。好奇心の強い人たちは、この主題に全力を注ぎ、忙しくないときに書籍やインターネットで情報を調べ、さらに詳しく学ぼうとします。科学とは何ですか。はっきりと言うと、科学とは人間が好奇心をもっている物事、未知で神から人間に向けて語られていない物事に関する思想と理論です。科学とは、人間が探索したいと思う奥義の思想と理論です。科学の範囲とは何ですか。それはすべての物事を含むと言えますが、人間はどのように科学の仕事を行ないますか。研究を通してですか。それには、物事の細目や法則を研究し、疑わしい理論を発表することが含まれます。その結果、「この科学者たちは本当にすばらしい!よく知っていて、これらの事柄を理解するだけ十分な知識をもっている!」と誰もが思うのです。人々は科学者に大いに感服します。そうですね。科学の研究を行なう人々は、どのような意見をもっていますか。彼らは宇宙を研究し、自分の関心のある分野における神秘的な物事を研究したいのではありませんか。(そうです。)その最終的な成果は何ですか。科学には人が推測により結論を導き出す分野や、人の経験に依存して結論を出す分野があります。さらに、人の経験あるいは歴史的観察や背景の考察により結論を導き出す分野もあります。そうですね。(はい。)それでは、科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は既に科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。そうではありませんか。人が科学を信じれば信じるほど、人は愚かになり、全てに科学的な解決策があり、研究によって何もかも解決できると信じるのです。人は神を求めず、神の存在を信じません。長年神に従って来た人でさえ、気まぐれに細菌の研究を始めたり、問題の答えを求めて情報を調べたりします。このような人は、問題を真理の視点から検討せず、ほとんどの場合、科学的な見解と知識か問題解決のための科学的解答に頼りますが、神に頼らず、神を求めません。このような人の心に神はいますか。(いません。)科学と同じ方法で神について研究したい人さえいます。例えば、大洪水の後に箱舟がたどり着いた場所に行った宗教専門家が多くいます。彼らは箱舟を見ましたが、箱舟の外観に神の存在を見ないのです。彼らはただ物語と歴史を信じ、それが彼らの物理的世界に関する科学的研究の結果です。物理的なものを研究すれば、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神は万物を支配するということを示す結果を見つけることは決してありません。そうですね。(はい。)では、科学は人に何をするのですか。それは人間を神から遠ざけるのではありませんか。科学は人が神について研究するようにしていませんか。科学は神の存在について人をますます疑い深くしているのではないのですか。(そうです。)では、サタンは人間を堕落させるためにどのように科学を用いたいのですか。サタンは科学的結論を用いて人を騙し麻痺させ、曖昧な解答を用いて人の心にしがみつき、人が神の存在を追及したり信じたりしないようにしたいのではありませんか。(その通りです。)ですから、これがサタンが人を堕落させる方法の一つであるとわたしたちは言うのです。

3.サタンはいかに伝統文化を用いて人間を堕落させるか

伝統文化の一部とみなされるものは多くありますか。(はい。)この伝統文化とは何を意味しますか。(それは祖先から伝えられました。)祖先から伝えられたというのは一側面です。当初から、家族、民族集団、また人類さえも、生活様式や習慣、言い伝え、規則を伝え、それは人に教え込まれて思想となってゆきました。このことを人はどのようにとらえていますか。人はそれを自分の生活から切り離せないものとみなしています。守るべき規則であり生命であるとみなし、祖先から伝えられたので、これらを変えたり捨てたりしたくないとさえ思っています。伝統文化には他の側面もあり、例えば、孔子や孟子から伝えられたものや、中国道教や儒教から伝えられたもので人の骨の髄まで入り込んでその人の一部となった物事などがあります。そうではありませんか。(そうです。)伝統文化は何を含みますか。人々が祝う祭日を含んでいますか。例えば、春節や元宵節、清明節、端午節、それに中元節や中秋節。老人がある年齢に達するのを祝ったり、子供が生まれてから一ヶ月あるいは百日経つと祝う家庭さえあります。これらは皆、伝統的祭日です。これらの祭日の背景は伝統文化から成っていませんか。伝統文化の核心は何ですか。それは神を礼拝することと何か関係がありますか。人に真理を実践するように言うことと何か関係がありますか。(ありません。)人が神に犠牲を捧げ、神の祭壇へ行き神の教えを受けるための祭日はありますか。そのような祭日はありますか。(ありません。)祭日に人々は何をしますか。(サタンを拝みます。食べたり、飲んだり、娯楽活動をします。)現代では、祭日は食べたり、飲んだり、楽しむための機会とみなされています。伝統文化の背後にある源泉は何ですか。伝統文化は誰から来ますか。(サタンです。)サタンから来ます。これらの伝統文化の背景において、サタンは人間に物事を教え込みますが、それは何ですか。人々が自分たちの祖先を忘れないようにすること、これはその一つですか。例えば、清明節のあいだ、人々は墓を掃除して祖先に供え物を捧げますが、それで人々は自分たちの祖先を忘れません。また、サタンは例えば端午節を用いて、人々が愛国的であるようにしむけます。中秋節はどうですか。(家族の集まりです。)家族の集まりの背景は何ですか。その理由は何ですか。(情緒です。)情緒的に意思疎通してつながるためです。もちろん、旧正月を祝うのであれ元宵節を祝うのであれ、背景理由の説明には何通りもの方法があります。これらの背後にある理由をどのように説明するにしろ、一つひとつがサタンがその哲学と思想を人間に教え込む方法であり、その結果、人々は神から離れたままで、神がいることを知らず、祖先かサタンに捧げ物をするようになるか、ただ肉の欲望のために飲み食いし楽しむ言い訳でしかないのです。これらの祭日の一つひとつが祝われるにつれ、サタンの思想と意見が人々の頭脳の内部に深く植え付けられますが、人々はそのことさえ知りません。人が中年に達するかそれより高齢になるときには、サタンのこれらの思想や意見は既に心に深く根付いています。さらに、人はこれらの思想を、正しかろうが間違っていようが、次世代へ見境なく、控えめにすることもなく伝えようと懸命になります。そうですね。(はい。)伝統文化とこれらの祭日は人をどのように堕落させますか。知っていますか。(人はそれら伝統の決まりに制約され束縛されるようになり、そのため神様を求める時間もエネルギーもなくなります。)それは一つの側面です。例えば、誰もが旧正月を祝います。もし祝わなかったなら、悲しく感じるのではないですか。人が執着する何か禁忌がありますか。「あぁ、旧正月を祝わなかった。旧正月のこの日は酷かった。今年全体が悪くなるのだろうか」と感じないでしょうか。落ち着かなく、少し怖くなりませんか。何年ものあいだ祖先に供え物を捧げなかったのに、ある日突然故人が金銭を要求する夢を見る人々さえいます。彼らは内心、何を感じるのでしょうか。「この故人が使うお金が必要だとは、何て悲しいことだ。この人のために紙のお札を何枚か焼いてあげよう。そうしないのは良くない。お金を焼かなかったら、生きている我々が何かトラブルに遭遇するかもしれない。悲劇がいつ起こるか、誰にわかるというんだ」。人々は、心の中に心配と恐れの小さな雲を常に抱えているのです。この心配を人々にもたらすのは誰ですか。(サタンです。)サタンがもたらします。これはサタンが人間を堕落させる方法の一つではありませんか。サタンは様々な方法と言い訳を用いて、人間が当惑して、折れて、サタンに従うまで、人間を支配、脅迫、束縛します。これがサタンが人間を堕落させる方法です。人が弱っているときや状況に完全に気づいていないとき、うかつにも何かを間抜けなやり方でする、つまり、知らないうちにサタンの支配下に落ち、無意識に何かをしてしまいながらも、自分が何をしているのかがわかっていないということがよくあります。これはサタンが人間を堕落させる方法です。現在、深く根ざした文化的伝統から離れるのを躊躇する人が多くいますが、彼らはどうしても捨てられないのです。これは特に人が弱く、受け身的になっているときに、このような各種祭日を祝い、サタンに出会い、サタンを再び満足させたがります。それを通して人は自らの内面を慰めることができます。このような文化的伝統の背景は何ですか。サタンの黒い手が背後で糸を引いているのですか。サタンの邪悪な本性が物事を操り、支配しているのですか。サタンはこのようなことをすべて支配しているのですか。(はい。)人が伝統文化の中で生活し、このような伝統的な祝祭日を祝う時、それは人がサタンに騙され、腐敗させられる環境であり、さらに、このような人はサタンに堕落させられるのがうれしいのだと言うことができるでしょうか。(はい。)これは、皆さん全員が認識し、知っていることです。

4.サタンはいかに迷信を用いて人間を堕落させるか

皆さんは「迷信」という言葉をよく知っていますね。迷信と伝統文化には重複する類似点が幾つかありますが、きょうはそれらについては話し合わずに、最も一般的に遭遇することについて話します。つまり、易断、運勢占い、焼香、仏陀の崇拝です。易断をする人や、仏陀を崇拝して焼香する人もいれば、易断してもらったり顔の作りにもとづいて自分の運勢を占ってもらったりする人がいます。皆さんの中に易断や人相占いを受けたことのある人は何人いますか。これはほとんどの人が関心のあることですね。(はい。)それはなぜですか。運勢占いや易断から人はどのような恩恵を受けますか。そこから人はどのような満足を得ますか。(好奇心です。)それは好奇心だけですか。それはありえません。易断の目的は何ですか。易断はなぜ行われてきたのですか。それは将来を知るためではないのですか。人相を読んでもらって将来を予見する人がいれば、幸運に恵まれるか否かを占う人もおり、自分の結婚がどのようなものになるかを見るためにする人もいますし、次の年がどのような運勢をもたらすかを知るために占いをする人もいます。人相を読んでもらって、自分や自分の息子や娘の展望がどうなるかや、そのような事柄のあらゆる側面を見るために行なう人もいます。どれくらい金銭を儲けるかを予見してもらい、何をすべきかの指導を受けるために占いをする実業家もいます。これはただ好奇心を満たすためですか。(いいえ。)人が人相を読んでもらったり、そのようなことをするとき、それは自分の将来の個人的恩恵のためで、人はこのようなことがすべて自分自身の運命と密接に関係していると信じています。このことのいずれかは有用ですか。(いいえ。)なぜ有用でないのですか。そのようなことについて少し知るのは良いことではありませんか。それでいつ災いが起きるのかを知ることができ、事前にわかっていれば、災いを避けられますね。運勢を占ってもらえば、それに合わせて導かれることができ、その結果、次の年は良い年となり、事業により裕福になれるかもしれません。これは有用ではないのですか。(有用ではありません。)それが有用であるかは、わたしたちとは無関係ですから、きょうはそれについては話し合いません。わたしたちの話し合いには、その内容や話題を含みません。サタンはいかに迷信を用いて人間を堕落させますか。易断や人相占い、運勢占いについて人が知っていることは、将来における自分の運勢がどうなるのか、この先の道がどうなるのかを知ることができるということですが、最終的には誰の手がこれらのことを既に支配しているのですか。(神様の手です。)これらのことは神の掌中にあります。これらの方法を用いて、サタンは人に何を知らせたいのですか。サタンは人相占いや運勢占いを用いて、サタンが人のこの先の運勢を知っているということ、サタンがそれを知っていて支配しているということを人に言いたいのです。サタンはこの機会をとらえ、それらの方法を用いて人を支配し、人がサタンを盲信しサタンのすべての言葉に従うようにしたいのです。例えば、もしあなたが人相占いをしてもらい、占い師が目を閉じて過去数十年間にあなたに起きたことをすべて明確に述べたら、内心どのように思いますか。「この占い師には本当に感心する。とても正確だ。私の過去についてこれまで誰にも話したことがないのに、どうして知っていたのだろう」と突然感じるでしょう。サタンにとって、あなたの過去を知るのは、それほど困難なことではありません。そうですね。神はきょうまであなたを導いてきました。そしてサタンもまた常に人を堕落させ、あなたをつけ回してきました。あなたの数十年の流れはサタンにとって何でもなく、サタンがそれらの物事を知るのは困難ではありません。サタンが行ったことが正確だと知ると、サタンに心を明け渡すのではありませんか。将来や運勢について、サタンの支配に依存しているのではありませんか。一瞬のうちに、あなたの心はサタンへの尊敬や畏敬を覚え、人によっては、既に魂をサタンに奪われてしまったかもしれません。そしてあなたは直ちに占い師に、「次は何をすべきですか。来年は何を避けるべきですか。してはならないことは何ですか」と尋ねるのです。すると占い師は、そこへ行ってはならない、それをしてはならない、何色の服を着るな、どこそこへ行くな、これこれをもっとすべきだと言うのです。占い師の言うことをすべて即座に心に刻みつけないでしょうか。それを神の言葉よりも早く記憶するでしょう。なぜそれほど早く記憶するのでしょうか。サタンに依存して幸運を得たいからです。このときにサタンがあなたの心を掴むのではないでしょうか。サタンの言うとおりにあなたが行動し、サタンの言葉が予想通りに実現すると、あなたは来年の運勢はどうなるのかを知るためにサタンのところにすぐに戻っていくのではないでしょうか。(その通りです。)あなたはサタンがせよと言うことは何でも行い、サタンが避けよと言うものを避けます。あなたはサタンの言うことすべてに従っているのではないのですか。あなたはすぐにサタンに抱かれ、惑わされ、支配されます。これは、サタンの言うことを真実であると信じるから、サタンがあなたの過去の人生、現在の人生、将来がどうなるかを知っていると信じるから起こるのです。これは人を支配するためにサタンが用いる方法です。けれど現実には、誰が本当に支配していますか。それは神自身であり、サタンではありません。サタンはこの場合ただ策略を用いて無知な人、物質世界しか見ない人を欺き、サタンを信じ、サタンに依存させようとしているのです。このようにして、人はサタンの掌中に陥り、その言葉すべてに従います。しかし、人が神を信じ、神に従いたいとき、サタンは手を休めるでしょうか。サタンは手を休めません。この状況において、人は本当にサタンの掌中に陥っていますか。(はい。)これに関するサタンの振る舞いは本当に恥知らずだと言うことができますか。(はい。)なぜそう言うのですか。(サタンは策略を用いるからです。)サタンの策略は不正で騙します。サタンは恥知らずで、人を惑わせてサタンが何もかも支配していると考えさせ、人を騙してサタンが人の運命を支配していると考えさせます。このため、無知な人は完全にサタンに従うようになり、サタンは一つか二つの台詞だけで人を騙し、人は当惑してサタンにひれ伏すのです。では、サタンはどのような方法を用い、人にサタンを信じさせるためにどのような言葉を言うのですか。例えば、あなたはサタンに自分が何人家族か言っていないかもしれませんが、サタンはあなたは三人家族で、そこには七歳の娘がいると言い、さらにあなたの両親の年齢まで言うかも知れません。当初は疑い不信を抱いてたなら、それを聞くとサタンは少し信用できると感じるのではありませんか。するとサタンは、「きょうはあなたの仕事は大変だった。上司はあなたが受けるべき評価を与えず、いつもあなたに対抗している」と言うかも知れません。これを聞くと、あなたは「まさにその通り。職場での状況は芳しくなくて」と思います。それで、サタンをさらに信じるようになります。するとサタンは別の事を言ってあなたを騙し、さらにサタンを信じさせます。少しずつ、あなたは自分がサタンに抵抗したり、疑ったりすることができないことに気づきます。サタンは些細な策略や、つまらないごまかしさを数回用いるだけで、あなたを惑わそうとします。惑わされるにつれて、あなたは態勢を保つことができず、何をするべきか途方に暮れて、サタンの言うことに従い始めます。これが人を堕落させるためにサタンが用いる「なんとも見事な」方法であり、それにより人は知らないうちにサタンの罠に陥り、誘惑されます。サタンは人が良いことと想像することをいくつか言い、次に何をすべきか、何を避けるべきかを人に言い、このようにして人は知らないうちにその道を辿り始めるのです。ひとたびこの道を辿りだすと、それは人にとっては問題ばかりです。サタンが言ったこと、サタンがせよと言ったことを常に考え、気付かないうちに、サタンに取りつかれます。これはなぜですか。それは人には真理が欠如しているためで、それゆえ人はサタンの誘惑に立ち向かうことができないからです。サタンの邪悪と狡猾さ、欺き、悪意に対して、人類はとても無知で、未熟で、弱いです。そうですね。これはサタンが人間を堕落させる方法の一つではありませんか。(そうです。)人間は知らないうちに、少しずつ、サタンの様々な方法により騙され、欺かれます。人間には肯定的なものと否定的なものを区別する能力が欠如しているからです。人間にはこの霊的背丈、サタンに打ち勝つ能力が欠如しているのです。

5.サタンはいかに社会動向を用いて人間を堕落させるか

社会動向はいつ始まりましたか。それは新しい現象ですか。(いいえ。)では、社会動向はサタンが人間を堕落させ始めたときに生まれたと言えますか。(はい。)社会動向は何を含んでいますか。(服装や化粧のスタイル。)これは人がよく接することです。服装のスタイル、ファッション、流行、それは小さな一側面です。他にも何かありますか。人がよく語る一般的な格言も数に入りますか。人が望む生活様式はどうですか。音楽のスター、有名人、雑誌、人々が好きな小説は数に入りますか。(はい。)皆さんの考えでは、これらの社会動向のどの側面が人間を堕落させることができると思いますか。これらの社会動向で、皆さんにとって最も魅惑的なのはどれですか。「我々はもうある程度の年齢で、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代なので、そのような社会動向には合わず、我々はそういうことには関心を寄せない」と言う人がいます。これは正しいですか。「我々は有名人には関心はない。それは十代、二十代の若者のすることだ。我々は流行の服を着ないし、それは外観を意識する人たちのすることだ」と言う人もいます。では、社会動向のうちで人を堕落させられるのは何ですか。(一般的な格言です。)格言は人を堕落させることができますか。一つ挙げます。それが人を堕落させられるか否かがわかります。「地獄の沙汰も金次第」。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。(そうです。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。おそらく人々はこの格言を同じ程度に理解しておらず、人々の周辺で起きたことや個人的な経験にもとづいて、一人ひとりがこの格言について程度のことなる解釈や認識をしています。そうですね。この格言について誰かがどれほどの経験があるかにかかわらず、これが誰かの心に及ぼすことのある否定的な効果は何ですか。(人は金銭を重んじます。)皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して、何かが明らかにされました。これはどのように解釈されますか。それは金銭崇拝です。それを誰かの心から排除するのは困難ですか。極めて困難です。サタンによる人間の堕落は相当に徹底的なようです。サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。この格言は、どの程度あなたに影響を与えましたか。あなたは真の道を知り、真理を知っているかもしれませんが、それを追求するには無力なのです。神の言葉を明確に知っているかも知れませんが、代償を払う覚悟がなく、代償を払うために苦しむ覚悟もありません。その代わり、あなたは自分の将来と運命を犠牲にして、最後の最後まで神に逆らう方がいいのです。神が何を言おうと、神が何をしようと、あなたへの神の愛が深く偉大であることにあなたがどれほど気づいていようと、あなたは頑なにこの格言のためにひたすら代償を払うのです。つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。これはあなたの心に根ざしているサタンの哲学と堕落した性質ではありませんか。もしあなたがそうすると、サタンはその目的を達成したことになりませんか。(なります。)サタンがこのように人間を堕落させてきたことが見えますか。(いいえ。)見なかったのです。それを感じることができますか。(いいえ。)感じなかったのです。ここにサタンの邪悪が見えますか。(はい。)サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。

サタンはこれらの方法を用いて人間を堕落させます。人間には知識といくらかの科学的理論があり、伝統文化の影響下に生き、一人ひとりが伝統文化の継承者です。人間はサタンから与えられた伝統文化を継承するように縛られており、またサタンが人類に提供する社会動向に合わせて行動します。人間はサタンから切り離すことができず、サタンのすることすべてに常に協力し、その狡猾さ、傲慢、悪意、邪悪を受け入れます。人間が一度サタンのこれらの性質を身に付けるようになった後、人間はこの人類のあいだで、この世で生きて、幸福ですか。それとも悲しいですか。(悲しいです。)なぜそう言うのですか。(人間はそれらのことに束縛され、人生は苦闘だからです。)ふむ。眼鏡をかけて聡明そうな外観をしている人がいます。その人は決して声を荒げず、常に雄弁で、筋が通っていて、さらに、年輩なので多くの物事を経てきて、とても経験豊かかもしれません。その人は大小様々な事柄について詳細に話すことができ、その人の言うことに確固とした基盤があるかもしれません。また、物事の信憑性や理由を評価するための理論を一式もっているかもしれません。人々はこの人の行動や外観を見て、またその人の振る舞いや、高潔さ、性格を見て、その人に一切欠点を見出さないかもしれません。このような人は現代の社会動向に特に応答し、古臭いとみなされることは決してありません。その人が歳をとっていても、決して時代に遅れることなく、学ぶのに歳をとりすぎていることもありません。表面的には誰もその人の欠点を見つけることができませんが、内面はサタンによってすっかり完全に堕落させられています。表面的には何も問題はなく、その人は柔和で洗練され、知識があり、ある程度の道徳性も備えています。高潔で、その人が知っていることは若者の知っていることと同程度です。けれど、本性と本質に関しては、この人はサタンの完全な生ける模型で、サタンの完全な生き写しです。これはサタンによる人間の堕落の「成果」です。わたしが言ったことは、皆さんにとっては辛いことかも知れませんが、これはすべて本当です。人間が学習する知識、理解する科学、社会動向に合うように選ぶ手段は、例外なくサタンによる堕落の道具なのです。これは絶対に正しいことです。したがって、人間はサタンにより完全に堕落させられた性質の中で生き、神の聖さとは何なのか、あるいは神の本質とは何なのかを知る術は人間にはありません。なぜなら、表面的にはサタンが人間を堕落させる方法に欠点を見つけることはできず、誰かの振る舞いから何かが誤っていることがわからないからです。人は一人ひとり、普通に働き普通の生活を送り、普通に書籍や新聞を読み、普通に学習し話します。表面的には道徳性を装うことを覚え、挨拶をし、礼儀正しく、丁寧であり、他人に対してものわかりがよく、親しみやすく、他人の役に立ち、寛大で、他人に対して気難しくなったり、他人を利用したりすることを避ける人もいます。けれど、その人のサタン的な堕落した性質は内面深くに根ざしています。その本質は外部的な努力に頼って変えることができません。この本質ゆえに、人間は神の聖さを知ることができず、また神の聖なる本質が人間にむけて公けにされているにもかかわらず、人間はそれを真剣にとらえません。これは、様々な手段を通してサタンが既に人間の思いや考え、視点、思想を完全に占有しているからです。この占有と堕落は一時的なものでも偶発的なものでもありません。それはいたるところに常にあります。したがって、神を三、四年、または五、六年でさえも、信仰してきた多くの人々が依然としてサタンが彼らに教え込んだ思想や観点に、まるで宝にしがみつくように固執します。人間はサタンの邪悪で傲慢で悪意に満ちたものをサタンの本性から受け入れたため、必然的に人間関係においてしばしば対立、論争、不和があり、それらはサタンの傲慢な本性の結果として作り出されるのです。もしサタンが人類に肯定的なものを与えていたなら、つまり、例えばもし人間が受け入れた伝統文化の儒教や道教が良いものとみなされたなら、それらを受け入れた後、同じ種類の人間同士は互いに仲良くやっていけるはずです。そうですね。ではなぜ同じ物事を受け入れた人々のあいだにそれほどの大きな分裂があるのですか。なぜですか。それは、それらの物事がサタンから来て、サタンが人々のあいだに分裂を生み出すからです。サタンが提供する物事は、それらがいかに表面的には立派で偉大に見えたとしても、人間にもたらし、人間の生活において生み出すのは傲慢とサタンの邪悪な本性による惑わしでしかありません。そうではありませんか。自分の外観を偽ることができる人、豊かな知識をもつ人、あるいは育ちの良い人は、自分の堕落したサタン的な性質を隠すのに苦労するでしょう。つまり、どれほど多くの方法でこのような人が自分をおおい隠しても、あるいはあなたがその人を聖人だと思ったり、完璧である、天使であると思っても、その人がどれほど純粋だと思ったとしても、その人の生活は陰ではどのようなものでしょうか。その人の性質が明らかにされると、どのような本質が見えるでしょうか。疑いなく、サタンの邪悪な本性を見るでしょう。そう言うことができますか。(はい。)例えば、誰か親しい人を知っていて、あなたはこの人のことを善人だと思っていたか、ことによると偶像化していたとします。現在のあなたの霊的背丈では、その人のことをどう思いますか。まず、あなたはそのような人に人間性があるか否か、誠実か、人々に対して真の愛があるか、その人の言動は他の人のためになり助けになるかを観察します。(その人にそういうことはありません。)ここで明らかにされているいわゆる親切、愛、あるいは善は、本当は何ですか。それはすべて偽物で、見せかけです。この陰の見かけには、隠された邪悪な目的があります。それは、その人が愛され、偶像化されることです。皆さんにはこのことがはっきり見えますか。(はい。)サタンが人を堕落させるために用いる方法は人類に何をもたらしますか。それに何か肯定的なものはありますか。(ありません。)まず、人間は善と悪を区別できますか。あなたも知っているとおり、この世界においては、それが偉人であれ何かの雑誌であれ、それがこれこれは良い、これこれは悪い、と言いますが、それは正確ですか。正しいですか。(いいえ。)このような出来事や人々に関する評価は公正ですか。そこに真理がありますか。(ありません。)この世あるいは人類は、真理の基準にもとづいて肯定的なものと否定的なものを評価しますか。(いいえ。)なぜ人にはその能力がないのですか。人は大量の知識を習得し、科学について多くを知っていますが、人の能力は十分に偉大ではないのですか。なぜ人は肯定的なものと否定的なものを区別できないのですか。これはなぜですか。(人には真理がないからです。科学や知識は真理ではありません。)サタンが人類にもたらすものはすべて邪悪で、堕落であり、それには真理、いのち、道が欠如しています。サタンが人間にもたらす邪悪と堕落をもってすると、サタンには愛があると言うことができますか。人間には愛があると言うことができますか。「あなたは間違っている。貧しい人やホームレスの人を助ける人が世界中に大勢いる。彼らは良い人ではないのか。また、良い取り組みを行なう慈善団体もあり、それらの団体がしていることは善行ではないのか」と言う人もいることでしょう。では、これについては何と言いますか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を堕落させます。この人間の堕落は曖昧な概念ですか。いいえ、曖昧ではありません。サタンは実際的なことも行い、この世界と社会において、何らかの観点や理論を提唱します。各王朝、各時代において、サタンは理論を提唱し、人間に思想を教え込みます。それらの思想や理論は、徐々に人間の心に根ざし、人はその理論や思想に基づいて生きるようになります。人は知らず知らずのうちにサタンになるのではありませんか。人はサタンと一体ではありませんか。人がサタンと一体になったとき、最後には人間の神への態度はどのようなものですか。それはサタンの神への態度と同じではありませんか。誰もこれをあえて認めようとしませんね。これはとても恐ろしいことです。なぜわたしはサタンの本性は邪悪だと言うのですか。それはサタンのしたこととサタンが明らかにした物事に基づいて判断され、分析されています。何の根拠もなく、サタンが邪悪だと言っているのではありません。もしわたしがただサタンは邪悪だと言ったなら、皆さんはどう思いますか。皆さんは、「サタンは明らかに邪悪だ」と思うでしょう。そこで、わたしは質問します。「サタンのどの側面が邪悪ですか」。もし「サタンが神に抵抗することが邪悪だ」と返答しても、まだ明確に話していることにはなりません。今、わたしたちはこのように詳細に触れました。皆さんはサタンの邪悪の本質の具体的な内容について理解しましたか。(はい。)サタンの邪悪な本性についてこの理解を得たのですから、皆さん自身についてはどれくらい理解していますか。これらの事柄はつながっていますか。(はい。)このつながりは皆さんを傷つけますか。(いいえ。)それは皆さんにとって助けとなりますか。(はい。)どれくらい助けとなりますか。(とても大きな助けです。)それでは具体的な内容に入りましょう。曖昧な言葉は聞きません。その「とても大きな」は、どれくらいを指していますか。(私たちは神様が嫌われること、どのようなことが神様に逆らうのかを知っています。私たちの心は、それらの事柄について少し明瞭です。)他に付け加えることはありますか。わたしが神の聖なる本質について交流するとき、わたしがサタンの邪悪な本質について話すことは必要ですか。皆さんの意見はどうですか。(はい、必要です。)なぜですか。(サタンの邪悪は、神様の聖さをはっきりと浮き彫りにするからです。)そうですか。サタンの邪悪なしには、人は神の聖さを知ることはないという意味において、それは部分的に正しいです。正しいですが、もし神の聖さはサタンの邪悪との対比においてのみ存在すると言うと、それは正しいですか。この主張は誤りです。神の聖さは神に内在する本質です。神はそれを神の業を通して明らかにしますが、それはやはり神の本質の自然な表現であり、神に内在する本質です。それは常に存在し、神固有のものですが、人間は見ることができません。それは人間はサタンの堕落した性質の只中とサタンの影響下に生き、聖さについては知らず、神の聖さの具体的な内容についてはなおさら知らないからです。それでは、わたしたちがまず最初にサタンの邪悪な本質について交流するのは必要ですか。(はい。)ご覧の通り、神の唯一性の幾つかの側面についてわたしたちは交流しましたが、サタンの本質については述べませんでした。そうですね。「神は神自身について交流しているのに、なぜいつもサタンがいかに人間を堕落させ、サタンの本性がいかに邪悪であるかについて話すのか」と、疑念を表明する人がいるかもしれません。このような疑念は払拭しましたか。(はい。)疑念をどのように払拭しましたか。(神様のお話を通して、私たちは邪悪なものを区別しました。)人が邪悪の識別があり、その正確な定義をもっているとき、邪悪の具体的な内容と表明、邪悪の源と本質を明確に理解しているとき、つまり今のように神の聖さが論じられているとき、人ははっきりと気づき、それを神の聖さとしてはっきりと認識します。もしわたしがサタンの邪悪について話さないなら、人々がこの社会や人々のあいだで行なうこと、或いはこの世の何かを、聖さと関係するものと誤解する人がいるでしょう。そのような見方は間違いではありませんか。(間違いです。)

このように、わたしはサタンの本質について話してきました。皆さんは、ここ数年の自分の経験を通して、神の言葉を見ることから、神の働きを経験することから、神の聖さについてどのような理解を得ましたか。それついて話してごらんなさい。聞こえの良い言葉を使う必要はないので、ただ自分自身の経験から話してください。神の聖さはただ神の愛ですか。わたしたちが聖さと形容するのは単に神の愛ですか。それではあまりに一面的です。そうですね。それは一面的ではないでしょうか。(はい。)神の愛の他に、皆さんが見た神の本質の他の側面がありますか。(あります。)何を見ましたか。(神様は祭礼や祭日、慣習、迷信を嫌悪されます。これは神様の聖さです。)あなたは神は特定の物事を嫌悪すると言っただけです。神は聖なるものなので、それらの物事を嫌悪する、というのが意味することですか。(はい。)その根底において神の聖さとは何ですか。神の聖さには実質的内容はなく、ただ神が物事を嫌悪するということですか。皆さんは頭の中で「神はこれらの邪悪な物事を嫌悪するので、したがって神は聖なるものと言うことができる」と考えているのですか。これは推測ではありませんか。それは推論と判断の一形態ではありませんか。神の本質を理解するにおいて、最大の禁忌は何ですか。(現実から離れることです。)現実を離れたり、教義を語ること、これが最大の禁忌行為です。他には。(憶測と想像です。)憶測と想像、これらもとても重要な禁忌です。なぜ憶測と想像は有用でないのですか。憶測したり想像したりする物事は、本当に見えるものですか。(いいえ。)それらは神の真の本質ですか。(いいえ。)他の禁忌は何ですか。神の本質を形容するのに、ただ響きの良い言葉をまとめて列挙するのは禁忌ですか。(はい。)それは自慢げで無意味ではありませんか。判断と憶測も、響きの良い言葉を並べることと同様に無意味です。空虚な称賛も無意味です。そうですね。(はい。)このような無意味なことを人が話すのを聞くのを神は愉快としますか。(いいえ。)何かを「愉快としない」の同義語は何ですか。(不愉快である、です。)神はそれを聞くと不愉快に感じます。神はある集団の人々を導き、救いますが、この集団の人々が神の言葉を聞いた後、彼らは神の意味することを理解していません。誰かが「神は善良か」と尋ね、別の誰かが「善良だ」と答え、「どれくらい善良か」、「とても、とっても善良だ」、「神は人間を愛しているか」、「愛している」、「どれくらい」、「とても、とっても」、「神の愛を形容できるか」、「海よりも深く、空よりも高い」とやりとりしたら、これは戯言ではありませんか。この戯言は、皆さんがたった今言ったこと、「神はサタンの堕落した性質を嫌悪するので、よって神は聖なるものだ」に似ていませんか。(似ています。)皆さんが言ったことは、戯言ではないでしょうか。語られる無意味な戯言の大部分はどこから来ますか。(サタンです。)サタンから来ます。語られる無意味な戯言はおもに人の無責任さと神への不敬から来ます。そう言うことができますか。(はい。)あなたは何も理解していなかったのに、それでも戯言を述べましたが、それは無責任であることになりませんか。それは神への不敬ではないのですか。少々の知識を習得し、少々の論法と少々の論理を理解し、それらをここで用い、さらに、それを神を知ることにおいて行ないました。神がそれを聞いて不愉快に感じると思いますか。どうしてそのような方法で神を知ろうとすることができるのですか。ぎこちなく聞こえませんか。したがって、神の認識については、とても注意深くなければなりません。神について知っているところ、それだけを話しなさい。正直に実際的に話し、決まりきった褒め言葉で話を飾り立てたり、媚びへつらうような言葉を使ったりしてはいけません。神にはそれは必要ではなく、そのようなことはサタンから来るのです。サタンの性質は傲慢で、サタンは誉めそやされたり、心地よい言葉を聞いたりするのが好きなのです。もし人が学習した響きの良い言葉を全部並べて、それらをサタンのために使うなら、サタンは喜び満足します。けれど、神にはそれは必要ではありません。神はへつらいやお世辞を必要とせず、人が戯言を言い、盲目的に神を讃美することを要求しません。神は、現実離れした讃美やお世辞を嫌悪し、聞くことさえしません。それで、誰かが神を盲目的に讃美し、その言葉が彼らの心と一致しないとき、盲目的に神に誓いを立て、いい加減に神に祈るとき、神は全然聞きません。あなたは自分の言うことに責任をもたなければなりません。もし何かを知らないのなら、ただそう言いなさい。もし何かを知っているのなら、それを実際的な方法で表現しなさい。さて、神の聖さの実際の内容について、皆さんは具体的に理解しましたか。(私が反抗的な面を見せたとき、過ちを犯したとき、神様の裁きと刑罰を受けましたが、そこに私は神様の聖さを見ました。そして、私の期待通りではない環境に遭遇したとき、私はそれらについて祈り、神様の意図を求めました。神様が御言葉とともに私を啓き、導いてくださるにつれて、私は神様の聖さを見ました。)それはあなた自身の経験からですね。(私は神様が仰ったことから、人間はこのようにサタンに堕落させられ、傷つけられているということを理解しました。けれど、神様は私たちを救うためにすべてを与えて下さり、そこに私は神様の聖さを見ます。)それは実際的な話し方で、真の認識です。これについて、違う見方はありますか。(私は自分の理解が正しいのか違うのかはわかりません。サタンが罪を犯すようにエバをそそのかすために言った言葉や主イエスの誘惑にサタンの邪悪が見えます。神様がアダムとエバに食べてよいものと、食べてはならないものを説明された御言葉では、神様の御言葉は直截で清く信頼できるものでした。ここに私は神様の聖さを見ます。)この人たちの言ったことを聞いた中で、誰の言葉に皆さんは一番アーメンと言いますか。誰の話、誰の説明が、きょうのわたしたちの交流の題目に一番近かったですか。誰の話が一番現実的でしたか。最後に話した姉妹の話はどうですか。(良かったです。)この姉妹の話にアーメンと言うなら、彼女の話したことで的を射ていたのは何でしたか。直截に話しなさい。言うべきことを言い、間違うことを心配してはいけません。(最後に話した姉妹の語った言葉に、神様の言葉は直截で明瞭で、サタンの回りくどい話とは全然違うということを聞きました。私はそのことに神の聖さを見ます。)それは一部です。皆さん全員、たった今述べられた意見を聞きましたか。(はい。)それは正しいですか。(はい。)この姉妹に拍手をしましょう。とてもよろしい。この最近二回の交流で、皆さんが何かを得たのがわたしにはわかりますが、皆さんは頑張り続けなければなりません。頑張り続けなければならない理由は、神の本質を理解することは、とても深い学びであり、一夜にして理解できるものでも、ほんの数語で明確に語れるものでもないからです。

人の堕落したサタン的な性質の一つひとつの側面、知識、哲学、人間の思想と視点、個人的側面が、人が神の本質を知るのを大いに妨げます。ですから、これらの題目を聞くときは、幾つかの題目は皆さんの手が届かないもので、幾つかの題目は理解できず、幾つかの題目は現実と一致させることが根本的にできないかもしれません。それにもかかわらず、神の聖さについての皆さんの理解について聞き、神の聖さについてわたしが言い、交流したことを皆さんが心の中で認識し始めていることを、わたしは知っています。皆さんの心の中で、神の聖なる本質を理解したいという願望が芽生えつつあることを、わたしは知っています。けれど、わたしをさらに幸せにすることは何でしょうか。それは、皆さんのうちの何人かが既に、神の聖さについての認識を最も簡潔な言葉を用いて描写できることです。これは言うのは単純なことで、以前にも言ったことですが、皆さんの大半の人の心の中では、これはまだ認められても、印象を残してもいません。それでもなお、何人かの人たちはこれらの言葉を心に深く刻み、それはとても良いことで、とても良い始まりです。皆さんが深いと思う題目、皆さんの手に届かない題目については、熟考を続け、さらに話し合うことを望みます。手が届かない問題については、誰かが皆さんにさらに指導を施すでしょう。現在皆さんの手に届く分野に関して、さらに交流に取り組めば、聖霊がその働きを行い、皆さんはさらなる理解に到達することでしょう。神の本質を理解すること、神の本質を知ることは、人の霊的成長に計り知れない支援を提供します。皆さんがこのことを無視したり、それを遊びとみなさないことを望みます。なぜなら神を知ることは、人間の神への信仰と人間の真理と救いの追求にとっての必要不可欠な基礎であり基盤であり、なくてはならないものだからです。もし人間が神を信仰していながら、いまだに神を知らず、文字や教義の只中で生きるなら、たとえ真理の表面的な意味に従って生きても、決して救いを得ることはありません。つまり、もし神への信仰が神を知っていることに基づいていないのなら、その信仰は何の意味もありません。わかりますか。(はい、わかります。)わたしたちの交流はきょうはここで終わります。(神様に感謝。)

2014年1月4日

前へ:唯一の神自身 4

次へ:唯一の神自身 6

他のお気に入り