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XIII 神の国の美しさと人の目的地、神の約束と祝福に関する神の預言についての言葉

わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。

『言葉は肉において現れる』の「二十番目の言葉」より

稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界がついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、動きがなく沈黙してはいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖とが宇宙全域に広まり、すべての人間が終わりなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものであった。そして、天と地とは、ひとつであった。人間は天と地とを結ぶ絆であり、その聖さのおかげで、その再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日々にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。

『言葉は肉において現れる』の「十八番目の言葉」より

すべてのものはわたしが心に描いたとおりに戻り、もはや逆らわない。やがて、地上のいたるところは笑い声に満ち、地上のあらゆるところからたたえが聞こえ、わたしの栄光の至らないところがなくなる。わたしの知恵は地上のあらゆるところにあり、全宇宙に満ちる。あらゆるものの中にわたしの知恵の果実がみのり、すべての人々の中にわたしの知恵の生み出したものが満ち満ちる。何もかもわたしの国にあるあらゆるもののようである。すべての人々はわたしの天の下、わたしの牧場の羊のように、穏やかに暮らす。わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見る。何一つ古びることがなく、誰一人、かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙の上で憩い、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々は、わたしの導きの下、穏やかで満ち足りて生きることができる。すべての人々は、わたしの手の中で、あらゆることを行う。すべての人はかつての知能と、本来の姿を取り戻す。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように純粋で、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に建設されたからである。

『言葉は肉において現れる』の「十六番目の言葉」より

人類がみな正しい軌道に乗った後、人は正常な人の生活を持つようになる。彼らは彼ら自身の本分を尽くすことができ、神だけに忠誠を尽くすことができる。彼らは不従順、堕落した性質も完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、また安息の生活である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

安息の中の生活とは、戦いも道徳的堕落も、持続する不義もない生活である。そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する諸力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその同類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが人類が安息に入った生活である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされてしまったこと、人類に関する神の仕事が全部終わってしまったことを意味する。神はもはや人類の間で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神は彼のもとの位置に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の全計画が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間では住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神は全人類を導く者であり、全人類は神の全計画が結実した結果である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、それは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、しかも正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダム、エバの生活に復する。これが、神と人が安息の中に入った後の、それぞれの生活と目的地である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。彼は地上から導くのではなくて、天から導くのである。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、彼は人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

人が永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを手にし、永遠に入れられるので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって捕えられるという心配もないだろう。この時、人は自分の立場を知り、本分を果たす。そして、彼らが罰せられたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分たちの本分を果たすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物である。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役目を務めるだけである。しかし、人は依然として人類の規律ある適切な終着点において生きており、造り主を礼拝するために本分を果たす。そして、このような人間は永遠の人間となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、つまり神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得する。人類は地上で普通の生活を送り、人類全体は正しい軌道に入ることになる。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人がその後よい領域の中に入ったら、人がきっとあると想像するような、夫婦関係、父と娘の関係あるいは、母と息子のようなものは全くないのである。その時、人はみな各々彼自身の種類に従い、家族はすでに打ち破られている。サタンは完全に失敗していて、もう人類をかき乱すことができず、人はもう堕落したサタン的性質がなくなっている。そのような不従順な人たちはすでに滅ぼされていて、従順な人だけが生き残っている。それゆえに、ほとんどの家族が元のまま生き残ることができない。どうして肉の関係が依然、存続することができるだろうか。人の過去の肉体の生活は完全に廃止される。人と人の間に肉の関係は、どのようにして存続することができるだろうか。堕落したサタン的性質がなければ、人の生活はもう以前の古い生活ではなくて、新しい生活である。父母は子供を失い、子供は父母を失う。夫は妻を失い、妻は夫を失うであろう。人々は今、お互いの間には肉の関係がある。彼らが完全に安息に入った時は、もう肉の関係がなくなる。このような人類こそが義と神聖さをもち、そのような人類だけが、神を礼拝する人類である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

征服の働きは人の将来を絶つことでなされるが、人は最終的に神が用意した適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは神が的確に人に働くからである。ここで言及されている適切な終着点とは、かつて清められた人の望みとか将来のことではない。この2つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは人のための終着点というより、肉の途方もない欲求への追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束で、それは神が世界を創造した後、人に用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによる汚れはない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。であれば、この終着点は人類に最適な終着点である。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠である。それは地上における人と神の生活の始まりである。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服され、造り主の前に服従しなければならない。そして、征服の働きは人が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人の未来の生活であり、地上で最も美しい生活で、人が待ち焦がれている生活で、世界史上人が決して達成したことのない生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果で、人類が最もあこがれる、神が人に約束したものでもある。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人類に対する最後の取り決めは、家族、民族、国境を打ち破ることによって人類を区分することである。それによって、家族の区別がなくなり、国境の区別もなくなる。なぜなら、人は、つまるところ、一人の祖先であり、人は神の創造物だからである。要するに、悪を行う被造物は滅ぼされ、神に従順な被造物は生き残る。このようにして、未来の安息の中には家族も、国も、特に民族もない。このような人類が、もっとも聖なる人類である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

この日より先、わたしは地上で再び受肉することはなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは決してない。わたしが地上で行うのはひとつのことだけである。わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この人類の三分の一を、多くの羊と家畜、そして土地のすべての実りにより育み、豊かにし繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまる。ただし、この人々は今日のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりである。この人類はサタンにより傷つけられ、混乱させられ、包囲されることはない。彼らはわたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。これは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人々である。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

神が人々を完全にする時、神は彼らを清め、人々は清くなればなるほど、神によってより完全にされる。汚れ、反抗、敵対心、あなたの中にある肉に属するものが取り除かれ、清められる時、あなたは神に愛されるであろう(言い換えれば、あなたは聖徒になるのだ)。あなたが神によって完全にされ、聖徒になった時、あなたは千年神の国に入るであろう。……千年神の国の時代では、人々は神の言葉に依存して生き、あらゆる国の民たちが神の名のもとに集い、神の言葉を読むために来る。その時、電話を使ったり、ファクスを送ったりする人たちもいるだろう…彼らは神の言葉に触れるためにあらゆる手段を用いるだろう。そして、あなたがたも神の言葉の下に集うだろう。

『言葉は肉において現れる』の「『千年神の国は訪れた』についての短い話」より

地上に千年神の国が到来したということは、地上に神の言葉が到来したということである。天国から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げる事実であり、千年神の国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より

いつか全宇宙が神に戻るとき、全宇宙における神の仕事の中心は神の声に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。これらすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこかよそで新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。……その時神の業は明らかにされ、神は栄光を受けるだろう。宇宙の至るところにいるすべての人々が、この目立つ訳でもない「人」を礼拝するだろう。これは神の栄光の日ではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より

神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよい知らせを受ける者は皆神によって祝福され、これらの国々とこれらの民は神によって祝福され、顧みられるだろう。将来の方向性は次のようになる。神の口から言葉を得る者は、地上で歩むべき道を知っており、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人には、一歩進むことさえ難しく、彼らは真理の道を求めることを余儀なくされるだろう。「真理とともに世界中を歩む。真理なくしては、どこへも至ることができない。」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり神の言葉全て)で全宇宙を支配し、人を治め征服する。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より

「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。神の国の中の克服者は、様々な役割と証に基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また苦難を克服した者は、全て神の国で祭司となるであろう。祭司の集団は、宇宙全体における福音の業が終わった時に結成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき物事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団には、長たる祭司と、祭司が居て、それ以外の者は神の子、神の人々となるであろう。こうしたことは、苦難の時における神に対する証により判断される。そうした地位は、気まぐれで与えられたものでは無い。人間の地位が確立した後、神の業は停止する。なぜなら、各人が分類され、元来の地位に戻されるが、それが神の業の成果のしるしであり、神の業と人間の実践の最終結果であり、神の業のビジョンと人間の協力の結晶だからである。結局、人間は神の国で平穏を得て、神もまた自らの生活場所に戻って休息を取るであろう。これが、神と人間の6000年におよぶ協力の最終結果である。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの祝福を享受するだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。

『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より

立ち上がって私に協力する必要がある。私は、私のために真剣に自らを費やす者を決して粗末に扱うことは無い。真剣に自らを私に献じる者には、私の恵みの全てを与える。あなたがたは、自らの全てを私に捧げる必要がある。あなたがたの食べる物、着る物、将来は、全て私の掌中にある。私はそれらの物事を全て適切に決め、何時までも尽きること無く受け取ることが出来るようにする。なぜなら、私は「私のために真剣に自らを費やす者には、私は確実に大いなる恵みを与える。」と述べたからである。私のために自らを真剣に献じる者は、全ての恵みを受ける。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

現在、自分の出来る限りを尽くして、受け取ることを求めるだけであってはならない。世の中の国民が全て団結するならば、あなたがたのものにならない物事があるだろうか。しかしながら、私はあなたがたを何かが不足している状態にすることや、苦難を受けるようにすることは無いであろう。私が全能の神であることを信じる必要がある。全てが実現し、向上し続ける。私の長子たちよ。全ての恵みが、あなたに与えられるであろう。そうした恵みは尽きること無く、豊富に、そして永遠に、必要なだけ、あなたがたに与えられるであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私があなたがたのために用意した物事、すなわち世界各地から集めた貴重な宝は、全てあなたがたに与えられるであろう。現在、あなたがたはそうした物事の全てを想像することが出来ない。また従前そうした物事を授かった者は居ない。こうした恵みがあなたがたに与えられた時、あなたがたは終わり無く恍惚とするであろうが、そうした物事が、すべて私の力、私の業、私の義であり、それ以上に私の威厳であることを忘れてはならない。(私は、私が慈悲深く接する対象として選んだ者に対して慈悲深く接し、私が憐れみを持って接する対象として選んだ者に対して憐れみを持って接する。)その時あなたがたには両親が居らず、血縁関係も無いであろう。あなたがたは、全員私が愛する者であり、私の愛しい子である。それ以降、敢えてあなたがたを迫害する者は居ないであろう。その時は、あなたがたが成人する時であり、鋼の笏で国民を統べる時となるであろう。誰が私の愛しい子を敢えて邪魔するであろうか。誰が私の愛しい子を敢えて攻撃するであろうか。皆、私の愛しい子を畏れる。なぜなら、その子の父が讃美されたからである。嘗て誰も得ることを夢見たことの無いあらゆる物事が、あなたがたの目の前に現れるであろう。そうした物事は無制限であり、無尽蔵であり、終わりがない。程なくして、あなたがたは太陽に焦がされることも、酷暑に耐えることも必要とされなくなるであろう。あなたがたは寒さや雨、雪に悩まされなくなり、あなたがたに風が吹き付けることも無くなるであろう。なぜなら、私があなたがたを愛しており、それは完全に私の愛の世界だからである。私はあなたがたが望む全てを与え、あなたがたに必要とされる全てを用意するであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

恵みとは、今後あなたがたが憎む物事があなたがたに起こらなくなり、すなわちそうした物事があなたがたの実生活から消えることを意味する。家族、仕事、妻、夫、子供、友人、親戚などの物事は、あなたがたの目の前で完全に除去されるであろう。あなたがたが嫌う一日三度の食事でさえも消え去るであろう。(これは、時間に制限されず、肉から完全に脱することを意味する。あなたがたの身体は、あなたがたが霊的に満たすのみで維持することが出来る。それはあなたがたの身体であるが肉ではない、ということが述べられている。あなたがたは完全に自由となり、超越した存在となるであろう。これは、神が天地創造以降現してきた奇跡のうち、最も大いなるものであり、最も明らかなものである。)あなたがたの身体の中の土の要素全てが除去され、あなたがたは、聖く汚れの無い、完全に霊的な実体となり、宇宙の果てまで旅をするであろう。それ以降は、洗ったり擦ったりする面倒も無くなり、ひたすら余すことなく楽しむであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私の言葉を信じる者は、確実に私の恵みを受けるであろう。私の恵みは、あなたがたが何を信じるか、あなたがたの中で何が満たされるかに従って、あなたがたに与えられるであろう。私の長子たちよ。私は今、あなたがたに私の恵みの全てを与え始める。あなたがたは、婚姻、家族、食事、着衣、睡眠、全ての天災(風、日照り、雨、刺すような突風、悲劇的な降雪その他あなたがたが憎む全ての物事)といった忌み嫌われる肉の繋がりの全てを捨て去り始めるであろう。あなたがたは、空間、時間、地理などに制限されずに海や大地、空を旅し、私の愛に抱かれて心から楽しみ、私の愛に溢れる慈しみの下で全てを担うであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

理解した後、人々は公式に国の生活への正しい道へと進むことが可能となり、私は公式に私の業を明示し始める(隠さず公然と明示される)。それ以降は、溜息や涙は無くなるであろう。(なぜなら、人々を傷つける可能性のある物事や、人々を泣かせたり苦しませたりする物事が無くなるからである。これは私の子と私の民にも該当する。しかし、ここで強調する必要のある点がひとつある。すなわち、私の息子と民は、永遠に肉であるということである。)全てが明るくなり、喜ばしい光景となるであろう。それは物理的なものではなく、物理的な目には見えないものとなるであろう。私の長子もまた、それを受けることが出来るであろう。それが私の奇しき業であり、私の力である。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探し求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。

『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より

神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や受け継いだものを受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものが彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に組み入れたものすべてを、所有している。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそれがあるがままに受け入れることができる。そうすることによって、真理を実現することができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人の姿である。そのような人だけが、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。すなわち、以下に示されるようなものである。

1.神の愛のすべてを受け取ること

2.あらゆる事柄において神の意志に違わず行動すること

3.神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること

4.地上で神によって愛された象徴のように生き抜くこと、すなわち、ペテロが行ったと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いとなるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄誉を受けること

5.地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること

6.死や死者の国の束縛のすべてを克服すること、サタンに機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと

7.人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること

8.神とともに栄光を受け取ること、神の最愛の聖人たちに似た表情をもてること

9.神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること

10.姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より

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