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終わりの日のキリストの証人

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I.神の受肉に関する真理の側面に証を立てなければならない

9.裁きの働きをするために受肉する神が漠然とした神とサタンの支配の暗い時代を人が信じることをどのように終わらせるか。

参照聖書箇所

終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。(イザヤ書2:2-5)

関連する神の言葉

終わりの日に受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、主として言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、光に照らし、啓発し、人間の心にある漠然の神のいるところを除くために来た。これはイエスが来た段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を示した。イエスは癒やし、悪魔を追い払い、十字架で贖いの業を行なった。その結果、人間は、これが神のあるべき姿だと考えた。イエスが来た時、主は漠然の神の姿を人間の心から除くことはしなかった。イエスが来た時、十字架につけられた。癒やし、悪魔を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働きとで、神はすべての地を歩く。人々の間でする働きはまことに真実で普通のもので、人々は神が実在することを知り、漠然の神は人間の心に居場所を失う。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えにあった「わたし」の場所を取り去り、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間は観念と好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、誰がほんとうに信じるだろう。まことに疑いの影もなく。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識は観念的なものに過ぎないのではないか。......

...人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念的思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、もはや自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に消される。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十一番目の言葉」より

神の国の建設では、わたしは直接神性のもとに行動し、すべての人々がわたしの持っているものおよびわたしであるものを知るようにし、わたしの言葉についての認識に基づいて、最終的には、肉の体の中にいるわたしについての認識を得られるようにした。そうして、全人類が漠然とした神を探し求めることを終わらせ、人間の心にある「天にまします神」を終わらせる。つまり、それによって人間は、肉におけるわたしの業を知ることができ、わたしの地上での時代は終わるのだ。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「八番目の言葉」より

肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。....霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

すべての人々がわたしの話しかけを受け入れてわたしに関する認識を深める時、その時こそ、わたしの民がわたしの生き方に従う時であり、人の姿となったわたしの働きが完了する時であり、人の姿となったわたしの神性が全うされる時である。この時点ですべての人々は人の姿をしたわたしを知ろうと努力し、神は人間の姿で現れたと言うことができる。これが結実である。......こうして、ついに、神の民は強いられたのではなく、本当に、心から神を褒め称えることができるだろう。これが神の六千年にわたる経営(救いの)計画の中心になるものである。すなわち、この六千年にわたる経営(救いの)計画の結晶化である。すべての人々に神の受肉の意味をわからせ――神が人の姿になったこと、すなわち人の姿をした神の行いを彼らに実際的にわからせる――その結果、彼らは曖昧な神を否定し、今日の神、昨日の神、それだけではなく、明日の神が本当に、実際に永遠に存在していることを理解するようになる。そうして初めて神は安息に入るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「三番目の言葉の解釈」より

受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

今、神は人間の思想や霊、そして人間の心の中に数千年にわたり存在する神の印象を変化させるために人間の元へ来る。神はこの機会を利用して、人間を完全にする。つまり、神は、神に関する人間の認識を白紙の状態に戻し、そこから再び始めて、そうすることにより人間の心が一新され、変化されるようにするため、人間の認識により、人間が神を知る方法と、神に対する人間の姿勢を変化させる。取り扱いと鍛錬は手段であり、目的は征服と革新である。神の意向は永遠に、漠然とした神に関して人間が抱いている迷信的思想を払拭することであり、それは最近になって神の喫緊の課題となった。全ての人間がこの問題について一層深く考えることを願う。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の手本、モデルとして行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

人は練られた後、罪のない性質になる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対する勢力の侵略はなく、敵対する勢力による人の肉への攻撃がなくなるからである。そして、人は自由になり、聖くなり――永遠へと入ったことになる。暗闇の敵対する勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗的行為や敵対する者たちもいなくなる。人が無事でいるために、サタンは縛られるより他ない。今日、サタンは地上のどこにおいても問題を引き起こしており、神の経営の働きはまだ全て終わってはいないので[a]人は無事ではない。一旦サタンが敗北すると、人が完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜けると、義の太陽を見ることになる。普通の人の生活が取り戻される。普通の人が持つべきもの全て――善悪を見分ける能力、衣食の方法の理解、普通に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。たとえエバが蛇に誘惑されなかったとしても、人は最初に創造された後、普通の生活を送ったはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、今日でさえ、人はそのようなものを敢えて想像することすらしない。だが、人が憧れるこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、彼の地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。もしそのような美しい生活がないなら、サタンの宿命やサタンが地上で支配する時代に結論は出ないだろう。人は暗闇の勢力によっては到達することができない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが敗北したことを証明するのである。このようにして、一旦サタンから邪魔が入らなくなると、神は自身で人間を管理し、人に命令を与えてその全人生を管理する。これによって初めてサタンが敗北したと見なされる。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十番目の言葉」より

人々が完全になり、地上のあらゆる国々がキリストの国になるとき、七つの雷鳴が轟く。現在はその段階への大きな一歩であり、来るべき時代について訓令が解き放たれる。これが神の計画であり、近い将来に現実となる。しかし、神は既に神が述べたすべての事柄を達成している。従って、地球上の国々は満潮になれば崩れてしまう砂の城に過ぎないことは明らかである。最後の日が近づいており、赤い大きな竜が神の言葉の下に倒れる。神の計画が滞りなく遂行されるために、天使たちが地上に舞い降り、神を満足させるために全力を尽くす。受肉した神は、敵に戦いを挑むために、戦場に陣を敷いている。受肉した神が現れると、敵は打ち倒されてその場所から消え失せる。神の手により最初に壊滅すべき、打ちのめすべきは中国で、神は中国に対して何ら慈悲心を持たない。赤い大きな竜の斬新的崩壊は、人々の継続的な成熟が証明している。これは誰の目にも明らかである。人々の成熟は敵が消滅することの兆候である。これは「戦い」の意味するところを少し説明している。

『言葉は肉において現れる』の「十番目の言葉の解釈」より

神が地上でさまざまな災害を起こすことで、この働きが実行されるはずである。しかし神は現れないだろう。現在のところ、赤い大きな竜の国は依然として汚辱の地だからである。神は現れず、しかし刑罰をとおして出てくるのみであろう。それは神の義なる性質であり、誰もそれを逃れることはできない。この間、赤い大きな竜の国に生きるすべての人々は惨禍を経験するだろう。当然そこには地上の神の国(教会)も含まれる。これは事実が現れるまさにその時であり、よってすべての人々が経験し、誰も逃げることはできない。これは神によって運命づけられている。「今こそ自分の才能を最大限に生かす時である」と神が言うのは、まさにこの段階の働きのためである。未来では地上に教会はなく、災いの到来のため人々はいかなることも考えられず、災いのただ中で神を享受することは難しく、そのため機会を逃さないように、この素晴らしい時に心を尽くして神を愛するよう人々は求められる。この事実が過ぎ去るころには神は赤い大きな竜を完全に打ち負かしており、神の人々による証の働きは終了している。その後、神は働きの次の段階を開始し、赤い大きな竜の国を荒廃させ、最終的には世界の隅々で人々を逆さまにして十字架に釘付けし、その後神は全人類を絶滅させるだろう。これは神の働きの将来の段階である。

『言葉は肉において現れる』の「四十二番目の言葉の解釈」より

わたしが正式に権力を握り、神の国の王として支配すると、わが民はみな、やがて、わたしによって完全にされる。世界のすべての国々が混乱すると、そのときこそ、わたしの国が確立され、形作られ、また、わたしは本来の姿を現して全宇宙に向き合う。その時、すべての人はわたしの栄光の顔、わたしの真の顔つきを見る。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十四番目の言葉」より

国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは「聖なる方が白い雲の上に乗って」降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の民族にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十六番目の言葉」より

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