真理が欠如している者は、他の者を導くことが出来ない

性情の変化について、あなたがたは真に理解しているであろうか。性情の変化とは何を意味するであろうか。性情の変化は確認できるであろうか。いのちの性情の変化とみなせるのは、どのような状況であり、単なる外面的な態度の変化は、どのような状況であろうか。外面的な態度の変化と内的ないのちの変化の相違点は何であろうか。あなたがたは、相違点を指摘できるであろうか。教会のために奔走することを熱望する者を見て、「あの人は変わった」と言ったり、ある者が家族や職を捨て去るのを見て、「あの人は変わった」と言う。これらの者達がそのような犠牲を払った場合、あなたがたはその者達が変わったに違いないと考える。これが、あなたがたの物の考え方である。それにも増して不合理な者も居り、そうした者は、誰かが家族や職を捨てるのを見て、「ああ、この人は本当に神を愛しているのだ」と言う。あなたがたは、ある時は誰かが神を愛している、またある時は別の誰かが神を愛していると言う。誰かが留めなく説教しているのを聞いて、あなたがたは「ああ、この人は神を知っているのだ。この人は真理を得ている。この人が神を知らなかったとしたら、どうしてこれほどまで説教する事があるだろうか。」と言う。これが、あなたがたの物の考え方ではなかろうか。まさにこれが、あなたがたのうち殆どの者の人や物に対する考え方である。あなたがたは、常に他人を褒め称える。あなたがたは、ある時は誰かが神を愛していると賞讃し、またある時は別の誰かが神を知り、神に対して誠実であると賞讃する。あなたがたは誰かを賞讃するのが得意である。あなたがたは、毎日他人を賞讃し、その結果はその他人を害するが、それでもなお、あなたがたは賞讃することを誇らしく感じてさえいる。あなたがたが賞讃する者は一日中大いに自惚れて、「ああ、自分は変わったのだ。自分は賞讃されるだろう。自分は成功すると確信している。」と、独り言を言う。あなたがたは、自分がそうした者のために落とし穴を掘っていることに気付かないであろうか。そうした者は、未だに神を信仰する正しい道へと歩み出していないものの、あたかも既に歩み出しているかのように感じる。あなたがたは、そのように賞讃することによって、そうした者に破滅をもたらしていないだろうか。あなたがたは、そうした酷い事を何度行ったであろうか。あなたがたは他人にいのちを与えることも、他人の問題を精査することも出来ず、他人を賞讃することしか知らない。その結果として、他人に破滅をもたらす。あなたがたは、腐敗した人々が他人の賞讃を継続出来ないことを知らないのであろうか。賞讃されることが無かったとしても、既に人々は高揚して強くなった気になり、得意になっている。あなたがたが他人を賞讃したならば、他人の破滅が早まるのではないだろうか。あなたがたは神を愛すること、神を知ること、心から神のために費やすことの意味を知らない。あなたがたは、そうした物事を全く理解していない。あなたがたは、外観で物事を認識し、軽率に判断し、他人を賞讃するだけである。あなたがたは極めて多くの者を害して来たのだ。あなたがたがこのように他人を賞讃すると、他人は失墜する。人々は自己満足し、あなたがたの賞讃に陶酔して傲慢なことを言うようになる。人々は、常に教会で他人に小言を言い、支配的にふるまう。あなたがたは、こうした業を行う時、他人を底なしの穴に陥れようとしている。あなたがたは、見えない刃を持つ刺客のようではなかろうか。誰かが神を愛するということは、何を意味するであろうか。神を愛する者は、ペトロのように、既に完全にされ、道の果てに到達している必要がある。誰が神を愛しているかを最終的に決めることが出来るのは神のみであられ、神は人間の心の中を見ることが出来る。人間にはそのような洞察力は無いが、それならば、どうして人間が他人のことを決めつけることが出来ようか。神を真に愛している者が誰かを知るのは、神のみである。誰かに神を愛する心があったとしても、その者が、敢えて自分は神を愛する者であると言うことは無い。神はペトロが神を愛していると言われたが、ペトロ自身は自分が神を愛する者であるとは決して言わなかった。それならば、あなたがたは、どうして他人をそれほど不用意に賞讃出来ようか。それは人間の本分ではない。そのような事をするのは、完全な不注意である。誰が神を愛しているかを知り、それを告げることが出来るのは神のみである。ある者がそのような主張をしたならば、その者の立場は誤っている。あなたがたが神の立場に立って他人を賞讃する時、あなたがたは、自分が何者であることを示しているであろうか。神は、決して他人を賞讃されない。ペトロを完全にされた後、この段階の御業を行われるまで、ペトロを模範とされることは無かった。この時、神は誰にもそうした御言葉を述べられなかった。この段階の御業を行われてはじめて、神はそのような御言葉を述べられた。神の御業は、すべて重要である。人間が、誰かが神を愛する者である、と不用意に述べることは、何とも不合理であり、滑稽である。第一に、そうした事を述べる者は、誤った立場にある。第二に、それは人間が決めることではない。人間を讃美する歌を歌うことは、何を意味するであろうか。それは、その人間を害し、混乱させ、欺すことを意味する。第三に、客観的に言えば、その効果として、他人を正しい道へと進ませることが無いだけでなく、他人が正常に真摯な取り組みを行うことを阻害し、他人に問題を与える。誰かが神を愛している、誰かは神に忠実である、誰かが犠牲を払った、などとふれて回った場合、皆その者の外観上の態度を真似ようとするのではなかろうか。あなたがたは、人々を正しい道へと進ませることが無いだけでなく、殆どの人々を外へと追いやってしまう。外観上の行動により賞讃を受けた者は、無意識のうちにパウロの道へと踏み出す。それが、その効果ではないだろうか。あなたがたがそのような事を述べる時、そうした問題を認識しているであろうか。あなたがたは誰の立場に立っているであろうか。あなたがたは、誰の役割を担っているであろうか。その客観的な効果は、何であろうか。そして、あなたがたは他人をどのような道へと導いたであろうか。あなたがたは他人をどの程度罠に陥れたであろうか。そのような業の被害は極めて深刻である。そのような業を行う者のうちには、そのような被害をもたらす者も居る。こうした者は、地にある者にいのちを与えることが出来ないだけでなく、その者の行為は破壊的かつ侵襲的であり、人々をパウロの道へと向かわせているが、自分のことを良き指導者であると考え、誇りに思っている。あなたがたの現在におけるやり方では、他人を正しい道へと導くことが出来るであろうか。あなたがたは、正確に言うと、どのような道に他人を導くことが出来るであろうか。あなたがたは他人を皆パウロの道へと導いているのではなかろうか。私は、まさにそうした状態であると考えているが、それは大袈裟ではない。あなたがたは皆パウロのような指導者であり、他人をパウロの道へと導いている、と言える。あなたがたは、それでも賞讃を受けたいであろうか。あなたがたが非難されなかったならば、あなたがたは幸運である。あなたがたは、そうした行動により神を拒んでいる。すなわち、あなたがたは神に仕えつつ、神を拒否し、神の御業を混乱させることに熟達している。そうした方法を続けるならば、あなたがたは最終的に偽の羊飼い、偽の業を行う者、偽の使徒のような存在となるであろう。現在は、御国の訓練の時代である。あなたがたは、真理への取り組みを行わず、自分の業だけに集中したならば、あなたがたは気付かぬウチ医パウロの道へと踏み出し、パウロのような者を数多く生み出すであろう。あなたがたは、そのようにして神を拒絶し、神の御業を阻害する者となるのではなかろうか。したがって、神に仕える者が人々を正しい道へと導き、神の承諾を得なかった場合、そうした者は神を拒絶しているのである。道は、その2つしか無い。成功する者は殆ど居らず、失敗する者が多数居る。大々的な物事を行う時、その結果は大成功か大失敗のいずれかである。あなたがたについては、振り返ること無く現在の道を進んだならば、その結果は大失敗となるであろう。あなたがたは神を拒絶して悪業を行う偽の業を行う者、偽の使徒、そして偽の羊飼いとなるであろう。今、あなたがたが正しい道へと踏み出し、ペテロの道を歩み出したならば、あなたがたは神を認める御業を行う者、使徒、良き指導者そして良き羊飼いとなるであろう。あなたがたが完全となることを求めず、神の御言葉の真理に対する真摯な取り組みを行うことを求めなかったならば、あなたがたは自分に危険が迫っているのに気付くであろう。あなたがたの無知さ、経験不足、未熟さのため、あなたがたに対して出来ることは、あなたがたが理解できるように、出来るだけ多くの真理に関して交流することが全てである。なぜなら、現在は、ペテロやパウロの時代とは大きく異なるからである。当時は、人間を裁き、人間を罰し、あるいは人間の性情を変化させる御業を、イエスは行われていなかった。現在において、受肉された神は、既に真理を極めて明瞭に述べられている。しかしあなたがたは依然としてパウロの道を進んでいるが、そのことは、あなたがたの総合的な能力が破壊されていること、またあなたがたもパウロと同様に邪悪が過ぎる者であり、自らの性情において傲慢過ぎる者である。当時は現在と異なり、前後関係も異なっていた。現在、神の御言葉は極めて明瞭であり、それはあたかも神が手を差し伸べられて、あなたがたを導いておられるかのようである。それでもあなたがたが誤った道へと進むのであれば、それはまったく正当化不可能である。その上、現在において、規範となる肯定的な者と警告となる否定的な者といった、2種類の典型的な人物像がある。あなたがたが誤った道を進んだならば、それは自分が選択を誤ったことを意味する。あなたがたが極めて邪悪であるならば、非難すべき者は自分自身以外に居ない。他人を導くことが出来るのは、真理を備えている者のみである。るのは、真理を備えていない者は他人を導くことが出来ない。