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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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VI 神の性質と神が何を持ち、神が何者であるかについての代表的な言葉

人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にあるようにする。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが支配者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であるのだから、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神はこの世を創造し、神がいのちを授けた生けるものである人を、この世にもたらした。次いで、人は両親や親族を持つようになり、もはやひとりぼっちではなくなった。人が最初にこの物質的な世界を見て以来ずっと、人は神の定めの範囲内で存在するように運命づけられた。生けるものひとりひとりを成人になるまでの成長を通じて支えるのは、神からのいのちの息である。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

この世に来る者はすべて、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生のサイクルを経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、生ける者それぞれのために神によって手配された人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルは、神が人に見てほしい事実、神によって人に授けられたいのちは無限で、肉、時間、空間の拘束を受けないという事実なのである。これは、神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来たことの証なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

神の業を認識できるかどうか、神の実在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が常にあらゆるものの支配権を持っていることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間が認め理解できるかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人間の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人間は近い将来、すべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現することだ。人間は神の目の下で生き、死ぬ。人間は神の経営のために生きているのであり、その目がついに閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去る。例外なく、すべては神が支配し、定めていることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画と切っても切れない関係にある。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

神は永遠に至高かつ高潔な方であり、人は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、自分の為にしか求めたり働いたりしない。神は人類の存在のために永遠に働いているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは弱く、ささいな不幸にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全ての継承者であり、表現者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいつでも義を裏切り、神から遠く離れてしまうことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

神には神であるすべてと自身が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の現れである。神であるすべてと自身が持っているものに加え、神の本質と身分は、人が取って代えることができるものではない。神の性質には、神の人類への愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含され、そしてそれ以上に人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無神経である。神の性質は、諸々の物の中でも生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。神の性質は誉れ、権力、崇高さ、偉大さ、そしてとりわけ至高性を表す。神の性質は権威、そして義であり、美しく、良いもの全ての象徴である。さらに、その性質は全ての暗闇と敵に抑圧または攻撃され得ないことの象徴であり、どのような被造物にも犯されない(そして勿論犯されることが許されない)ことの象徴である。神の性質はいと高き力の象徴なのである。何人たりとも、神の業と性質を妨げられず、妨げる可能性もない。しかし人の性格は、獣よりもわずかに優れた力の象徴でしかない。人、そして人自身には権威も自主性もなく、自らを乗り越える能力もなく、人、出来事、または物による小細工に対して臆病に屈服する本質しかない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

神の総体は永遠に無尽蔵であり、無限である、ということである。神は生命と万物の源である。神は、創造物が想像し得ないものである。

『言葉は肉において現れる』の「あとがき」より

人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた。そしてこの宇宙を経営し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きるのである。人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神によって支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の支配から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神は神に従い、神を崇拝する人々を繫栄させ、抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

世界で起こるすべてのことの中で、私が最終的な決定権を持たないものはない。私の手の中にない存在などあるだろうか。私の言うことはすべてその通りに進み、人々の中には私の心を変えられる者はない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·一番目の言葉」より

神の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·十九番目の言葉」より

私が居れば、全てが安定し、安全である。私が居れば、一切努めることなく全てが適切に行われる。私が言うと、それが実現し、それで完了する。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私は始まりであり、終わりである。私は復活した完全な唯一の真の神である。私はあなたがたに言葉を述べるので、あなたがたはそれを固く信じる必要がある。天地は滅びるかも知れないが、私の言葉は、いずれの語句も、消え去ることは無いであろう。それを覚えておくように。それを覚えておくように。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

この世界にあるすべてが、全能者の考えと共に、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が決して聞いたこともない事柄が、突然到来することがあり得る。なおかつ、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、さらに全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることはできない。人には知覚できない事を知覚できるところに神の超越性を見ることができる。人類によって捨てられたにもかかわらず人類を救うところに、神の偉大さを見ることができる。神は、生と死の意味を知っている。それだけでなく、神は自身が創造した人類の生きる上での規則を知っている。神は人類の存在の基礎であり、人類が再び復活するための贖い主である。神は幸せな心に苦痛という重荷を加え、悲しみの心を幸福で引き上げる。これら全てが彼の働きのためであり、彼の計画のためである。

『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より

あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。

『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より

人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、その働きはすべて人のためである。たとえば、天、地、そして神が人のために造ったすべてのもの――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――すべては人の存在のために造られたのである。それだから、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥ぎ取ったとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の存在のためである。人の終着点は造り主の手にあるのだから、人はどうして自分自身を管理できるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

この世の創造以来、私はそうした者の集団すなわち現在のあなたがたを予定すること、そして選ぶことを始めた。あなたがたの気質、能力、外観、器量、あなたがたが生まれる家族、あなたがたの職業、結婚、髪や肌の色、あなたがたが生まれる時代などに至るまで、すべては私の手で決められたものである。あなたがたの毎日の行動や、毎日あなたがたが会う者は、私の手で用意されたものであり、今日あなたがたを私の前に来させたのも私の采配であるのは、言うまでも無い。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

わたしの口からのことばなしに、誰が生き延びることができるのか。誰が、わたしの憤りの目の下に倒れ伏さないでいるのか。わたしが全地の上に新たな働きを行うとき、誰がそれから逃れることができただろう。山々は高いからといって、それを避ける事ができるのだろうか。水は膨大な広がりがあるからといって、それを避けることができるだろうか。わたしの計画では、けっして被造物を軽々しく手放しはしない。だから、一人の人間も、一つの被造物も、わたしの手を逃れたものはない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十三番目の言葉」より

わたしは赤い大きな竜のすみかに新たな始まりをもたらしたばかりではなく、全宇宙で新たな働きを始めた。間もなく、地上の国々がわたしの国となる。間もなく地上の国々はわたしの国故に永遠に存在しなくなる。わたしがすでに勝利を得たのだから。わたしが勝利のうちに戻ったのだから。赤い大きな竜は、地上でのわたしの働きを打ち消そうと、わたしの計画を妨げるために考え得るあらゆる手段を用いたが、わたしが竜の欺きに満ちた策略のせいでくじけるだろうか。わたしが竜の脅しに怯え、自信を失うだろうか。天にも地にも、わたしのたなごころの内にないものは一つもない。赤い大きな竜、わたしの引き立て役となっているものは、なおさらではないか。これもまた、わたしの手で操れるものではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·十二番目の言葉」より

神は時間に制約されることはない。自分の働きと栄光が優先される。ゆえにどれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関してはいかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。神はその働きを成し遂げるまで休むことはない。神が自分の二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きが終わりを迎える。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

神の性質は人の性格とは異なるため、これは極めて抽象的に思われ、簡単には受け入れられないテーマである。神もまた、喜び、怒り、悲しみおよび幸せといった感情を持つが、このような感情も人のそれとは異なる。……神の喜びは、義と光の存在と現れによるものであり、暗闇と邪悪の滅亡によるものである。神は、人類に光と良い生活をもたらしたことについて喜ぶのである。神の喜びは義であり、肯定的なもの全ての存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは不正義の存在と、それにより引き起こされた混乱が神のものである人類を害していることによるものである。それは邪悪と暗闇の存在のため、真理を駆逐するものの存在のため、そしてそれ以上に、良く美しいものに反する事柄の存在によるのである。神の怒りは、全ての悪い事柄が消滅したことの象徴であり、そして神の聖さの象徴である。神の悲しみは、神が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類によるもので、神が人のためにする働きは神の期待にかなわず、神が愛する人類の全てが光りの中で生活できるのではないからである。神は罪のない人類、正直で無知な人、そして良けれども曖昧な人に対して悲しみを感じている。神の悲しみは神の慈しみと憐みの象徴であり、美しさと優しさの象徴である。神の幸せは、もちろん神の敵を打ち倒すこと、そして人の良き信仰を得ることから生まれる。さらに、それは全ての敵の排除と崩壊、そして人類が良き平和な生活を得ることから生まれる。神の幸せは人の喜びとは異なり、良い果実を受け取る気持ちで、喜びにも勝る気持ちである。神の幸せは、人類が苦しみから解き放たれ、光の世に入ることの象徴である。その一方で、人類の感情は全て己の利益の目的のために存在し、義、光、または美しいもののために存在するのではなく、ましてや天の恵みのために存在するものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。これらは神の心のためのものではなく、ましてや神の計画のためのものではないため、人と神が同等に語ることは決してできない。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」より

創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

東から稲妻が走るとき──これはまた、わたしが話し始める、まさにその瞬間である──稲妻が光るその瞬間、天空全体が照らされ、すべての星々が変化し始める。……再び、わたしの日が人類の上に迫り、再び、人類を目覚めさせ、人間たちは新たな始まりを迎える。わたしの心臓が拍動し、その鼓動にしたがって、山々が喜びに飛び上がり、水が喜びに踊り、波が律動し、岩礁を叩く。わたしの心にあるものを言い表すのは困難だ。わたしは、わたしの視線ですべての穢れたものが燃えて灰となり、不従順の子らがみな、わたしの目の前から一掃され、もはや存在しなくなることを望む。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·十二番目の言葉」より

わたしは世界中でわたしの働きに着手した。世界の人々は突然目を覚まし、わたしの働きの核心の回りを動き、わたしが彼らの中を「旅する」時、すべての人はサタンの束縛を逃れ、サタンの苦痛の中で苦しむことがなくなる。わたしの日が到来するので、すべての人々は幸福感に満たされ、心の中の悲哀は消え失せ、空の悲しみの雲は空中で酸素に変わり、そこに浮かんでいる。この時、わたしは人間と共にいることの幸せを享受する。人の行動は趣を感じさせるから、わたしはもはや悲嘆に暮れない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·三十三番目の言葉」より

わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも見ている。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。天は変わり、地も変わる。人間は本来の形を現し、ゆっくりと、それぞれ同じ種類のものたちと共に、それと知らぬ間に家族のもとに戻っていく。そこで、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、だれもそれと知らないうちに、わたしの大いなる働きは完了し、だれもそれと知らないうちに、無数の被造物は変化する。……ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。今、あなたがたには主がいるのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。創造の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの約束をどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十六番目の言葉」より

じつに何度も、人類がわたしの敵により堕落させられるのを見てきたわたしは、人間に期待することを諦めた。じつに何度も、人間がわたしの前に涙ながらに赦しを乞い求めに来るのを見たが、人間の自尊心の欠如と度し難い頑固さに、たとえ本心からのもので心からそうしているとわかっていても、わたしは人間の行いに対する怒りのため、目を閉じてきたのだ。じつに何度も、わたしは人間がわたしに協力するだけの信仰をもち、わたしの前で、わたしに抱擁されて横たわり、わたしの抱擁のぬくもりを味わっているかのようであるのを見ている。じつに何度も、わたしの選んだ人々の無垢さ、活発さ、愛らしさを見て、そうした様子にいつも、心の中で喜んできた。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·十五番目の言葉」より

わたしは世界中で自らの手で働きを行い、サタンが再びわたしの民に危害を与えるのを禁止し、敵が再び好き放題に行うのを禁止する。わたしは地上の王になり、玉座を地上に移し、わたしの敵をすべて地面に倒し、わたしの前でその罪を自白させるだろう。わたしの悲しみの中に怒りが混じり合い、わたしは全宇宙を踏みにじって平らにし、誰も見逃さず、わたしの敵に恐怖心を起こさせるだろう。わたしは全世界を廃墟とし、敵をその廃墟に落とし入れるので、これ以降敵が人類を堕落することはもうなくなるだろう。わたしの計画はすでに決定しており、誰も、何者であろうとも、それを変えることはできない。わたしが全宇宙の上方を堂々と荘厳に歩き回る時、全人類は新しくなり、すべては復活するだろう。人はもはや嘆くことはなく、わたしに助けを求めて叫ぶこともなくなる。そのようになった時、わたしの心は大いに喜び、人々はわたしを祝うために戻って来るだろう。全宇宙は上から下まで喜びに湧きかえるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十七番目の言葉」より

わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分たちを否定する者たちに現わされている。そして、悪い者たちにもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。あらゆる種類の悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者たちは罪を免れることはできない。彼らも時代を超えて、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたしだけに忠誠を示して従って来た人たちは喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりを獲得することを熱望してきた。そして、わたしはわたしと同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、彼らに相応しい報いを与えて楽しむ機会を待ち望みながら、彼らを憎しみと共に心の中に持ち続けてきた。…

『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より

神は久しくこの暗黒社会を骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待する事の無いよう、そのへびを必死で踏みつけようとしている。神はそのへびの従前の行いを許さず、そのへびの人間に対する偽りを容赦せず、そのへびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復するであろう。神がその諸悪の首謀者に対して寛容となることは僅かばかりも無く、そのへびを完全に粉砕するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「業と成長(8)」より

私自身の経験から見ると、あなたがたが神に対して対抗的であればあるほど、神は神の威厳ある性情を一層多く示し、神があなたがたに「与える」罰も一層重くなる。あなたがたが神に従えば従うほど、神はあなたがたを一層愛し、守る。神の性情は拷問器具のようなものであり、従えばあなたがたは無事であるが、従わず常に目立ちたがって悪戯をしているならば、神の性情は曇りの日の太陽のように急変し、神はあなたがたから隠れて怒りを示すであろう。またそれは、晴天が何里となく続き青い小波が水面に広がっているところへ突如として大きな威力で高波が立つ六月の天気にも似ている。こうした神の性情を考慮した時、あなたがたは敢えて野放図に行動するであろうか。聖霊が業を行う日、殆どの兄弟姉妹は自信に満ちているが、神の霊は知らぬ間に兄弟姉妹を突然見捨て、不安で夜眠れずに神の霊が消えた方向を探し回るような状態へと陥れることは、殆どの兄弟姉妹が自らの経験の中で理解している。しかし、神の霊が何処へ行ったかは、どうしても突き止められない。そして神の霊は知らぬ間に再び兄弟姉妹の前に現れるが、それはちょうどペテロが突然主イエスに再開した時に有頂天となって大いなる歓喜の叫んだようである。あなたがたは、何度もそうした経験をした後も、それを忘れることが有り得るだろうか。受肉して十字架に架けられた後に復活されて天に上った主イエス・キリストは、常にあなたがたから隠れたり現れたりしている。主はあなたがたの義によってあなたがたの前に現れ、あなたがたの罪によって怒り、あなたがたから去るのだから、あなたがたは主を一層嘆願すべきである。

『言葉は肉において現れる』の「道(7)」より

全能者であるわたしの目には、あなたがたの言葉と行いは汚れている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を無限の刑罰とみなす。どうしてわたしの義なる刑罰と裁きがあなたがたから離れるだろうか。あなたがたがわたしにこれを行い、わたしを悲しませ怒らせるのに、わたしがあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰し、呪う日から離れさせることなどできようか。あなたがたのすべての悪しき言葉が、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義がすでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不服従がすでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを怒ったまま長いこと放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。既にあなたがたがわたしの肉体をぼろぼろに傷つけたことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、わたしはわたしの怒りを解放し、あなたがたに対してもはや寛大ではいない。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

あなたがたは自分の舌でわたしの霊をだませると思うのか。あなたがたの舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたはあなたがたの舌が望みのままに、わたしヤーウェの業をさばかれると思うのか。わたしは人がさばかれる神であろうか。どうして小さな蛆虫がわたしを冒涜するのを許せるだろうか。どうしてこのような不従順な者たちをわたしの永遠の恵みの中に置けるだろうか。あなたがたの言葉と行いはずっと前から白日の下にさらされており、あなたがたを罪に定めた。わたしが天を拡げ、万物を創造したとき、わたしはどの被造物にも彼らの望みのままに参加することを許せず、ましてやどの被造物にも、その望むままにわたしの働きとわたしの経営を妨げさせたりはしなかった。わたしは人間にも物にも我慢しなかった。どうしてわたしに対して残酷で無慈悲な者を見逃せるだろうか。どうしてわたしの言葉に逆らう者を見逃せるだろうか。どうしてわたしに対して不従順な者を見逃せるだろうか。人間の運命は全能者であるわたしの手の内にあるのではないか。どうしてあなたの不義と不服従を聖であると見なせるだろうか。どうしてあなたの罪がわたしの聖さを汚せるだろうか。わたしは不義の汚れ不純によって汚されることはなく、不正を行う者の捧げものを喜ぶこともない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを取って自分のものとすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できただろうか。このようにわたしの言葉に反逆できただろうか。わたしの栄光と聖なる名を悪い者であるサタンに仕える道具として使えるのだろうか。わたしのいのちは聖なる者たちの喜びのために与えられた。どうしてあなたの望むままにわたしのいのちをもてあそび、それをあなたがた同士の争いの道具として使うのを許せるだろうか。なぜわたしに対してそのように心無く不親切になれるのか。わたしがすでにこれらのいのちの言葉にあなたがたの悪行を書いたことを知らないのか。わたしがエジプトを罰するとき、あなたがたがどうして怒りの日から逃れることができようか。このように繰り返し、あなたがたに敵対され反逆されることがどうしてあるのだろうか。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰はエジプトのそれよりも耐えがたいものになるだろう。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より

天使たちがわたしを褒めたたえて音楽を奏でる時、わたしは人に対する同情をかき立てられずにはいられない。直ちに、わたしの心は悲しみで満たされ、わたしからこのつらい感情を取り除くことはできない。人から引き離され、その後再び結び合わされる喜びと悲しみの中で、わたしたちは感情を交わすことができない。上にある天と、下にある地とに分けられ、人とわたしは定期的に会うことができない。誰が過去の感情への懐古の情から抜け出すことができるだろう。誰が過去の思い出にふけるのをやめることができるだろう。過去の感慨が続くことを望まない者などいないだろう。わたしが戻ってくることを切望しない者はないだろう。わたしと人の再会を待ち焦がれない者がいるだろうか。わたしの心は深く悩み、人のいのちには深い憂いがある。霊においては似ていても、わたしたちはあまり一緒にはいられない。わたしたちは頻繁には会えない。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十七番目の言葉」より

私は、私達の集団が一層大いなる恵みを神から得られるように、神により好まれ、神により得られるようにと頻繁に祈っているが、それと同時に、私達の集団のために悲しみの涙に暮れ、神が私達を啓いて一層大いなる啓示を目の当たりにすることが出来るようにと願うことも、現在まで無数にあった。人々が常に神を欺こうとし、決意せず、肉のことを考え、富や名声を得て注目の的となるために奮闘努力しているのを私が目の当たりにした時、どうして私が心を深く痛めずに居られようか。人々は、どうしてそこで無情になれるのだろうか。私の業は全く結実しないのだろうか。あなたがたの子が全員反抗的で不孝行であって、無分別で自分の事だけを考え、あなたがたに全く共感せず、成長してあなたがたを家から追い出したとしたら、あなたがたはその時どう感じるであろうか。あなたがたは涙に暮れ、子育てのために払った大きな代償を惜しむのではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道(7)」より

中国本土の人々に見受けられるのは、腐敗したサタンのような性情だけである。それゆえに、そうした者の中における神の御業では、そうした者に何か好ましい部分を見出すことがほぼ不可能である。そうした部分は、すべて聖霊が御業を行われる部分であり、また聖霊は、人間を一層深く感激させて、人間の中で御業を行われるのみである。こうした人々を活用することは、ほぼ不可能である。つまり、聖霊が感激させる御業と、それに対する人間の協力の組み合わせを行うことは出来ない。聖霊は人間を感激させるよう、ひたすら努力するが、それでも人間は愚鈍で無情であり、神が行われている御業が何かを全く知らない。そうしたわけで、中国本土における神の御業は、天地創造の御業に匹敵する。神は人間を全て生まれ変わらせられ、人間のあらゆる部分を変えられている。なぜなら、そうした人々には好ましい部分が皆無だからである。これは、心が極めて痛む。私はそうした人々のために、頻繁に悲しい祈りを捧げる。「神よ、あなたの御霊がそうした人々を大いに感激させ、愚鈍で苦しんでいる者が眠りから覚めて、あなたの栄光の日を迎えるよう、あなたの大いなる御力が、そうした人々に現れますように」という悲しい祈りを捧げる。

『言葉は肉において現れる』の「道(6)」より

神が悲しむ時はいつでも、神は自身に全く気を留めない人間に向き合い、神に付き従い、自分は神を愛していると言いながら神の感情を完全に無視する人間に向き合う。これでどうして神の心が傷つかないことがあろうか。神の経営(救いの)の働きの中で、神は誠実に働きを実行し、ひとりひとりに語り、そして自分自身を惜しみなく現わす。それとは逆に、全ての神に付き従う人間は神に対し閉鎖的であり、積極的に神に近づいていったり、神の心を理解しようとしたり、神の感情に気を留めようとする者はいない。神と親友になりたいと思っている人々でさえも、神に近づこうとせず、神の心に配慮しようとせず、神を理解しようとしない。神が喜ぶ時、誰もその喜びを分かち合える人間はいない。神が人々に誤解されている時、神の傷ついた心を慰める者はいない。神の心が痛んでいる時、神が打ち明けることに耳を傾けようとする者は一人もいない。何千年に亘る神の経営(救い)の働きを通して、神の気持ちを知る者も、深く理解する者も感じる者もおらず、ましてや神に寄り添って神の喜びや悲しみを分かちあう者などひとりもいない。神は孤独だ。神は孤独なのだ。神が孤独なのは単に堕落した人間が敵対するからだけではない。霊的であろうとし、神を知ることを追い求め、神を理解しようとし、さらに神に人生の全てを捧げたいと思っている人々ですら、神の考えを知らず、神の性質と感情を理解しないからである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

人間がわたしに従うとき、わたしの心は安らかで、ただちに、天と地のあらゆる物事に大きな変化を感じる。人間がわたしを賛美するとき、わたしはそれをよろこばずにはいられない。人間がわたしを証しし、わたしが得るとき、どうしてわたしが栄光を受けないことがあろう。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·九番目の言葉」より

私の義、威厳、そして裁きは永遠に続くであろう。当初、私は愛と憐れみに満ちていたが、それは私の完全な神性の性情ではない。義、威厳、そして裁きが、完全なる神自身としての私の性情である。恵みの時代において、私は愛と憐れみに満ちていた。私が成し遂げるべき業のために、私には慈愛と恵みがあった。しかし、その後慈愛と恵みが不要となった (それ以来、慈愛と恵みは一切無い)。義と威厳と裁きが、私の正常な人間性と私の完全な神性の組み合わせの完全な性情のすべてである。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

ここで私の国の律法を発布する。すなわち、万物は私の裁きの中にあり、私の義の中にあり、私の威厳の中にあり、義はあらゆる物に対して行われる。私を信じると言うが、心の中で私に反対する者、私を見捨てた心を持つ者は、私の都合に合わせて丁度良い時期に排除されるであろう。私に関し、他人が気付かないように皮肉を言う者は、間も無く死ぬであろう (そうした者は、霊と身体と魂が死ぬであろう)。私が愛する者を迫害したり冷遇する者については、直ちに私の怒りにより裁かれるであろう。つまり、私が愛する者に嫉妬する者、そして私が不義であると考える者は、私が好んで裁く者へと引き渡されるであろう。態度が良く、素直で正直な者 (知恵が不足している者も含む) や、私に対して一心に誠実な者は、全員私の国に留まるであろう。訓練を受けていない者、すなわち知恵や識見が不足している正直な者は、私の国において権力を得るであろう。しかし、そうした者は、取り扱いと破壊も経験している。訓練を受けていないということは、絶対では無く、むしろ私はそうした物事により、全員に対して私の全能性と知恵を理解させるであろう。私は現在も私を疑っている者を排除する。私はそうした者を一切求めない (私は、現在もまだ私を疑っている者を忌み嫌う)。宇宙全体に対して私が行う業により、私は正直な者に私の業の奇しさを見せ、その時にそうした者の知恵や識見、分別を育み、また私の奇しい業のために狡猾な者一瞬にして滅びをもたらすであろう。私の名を最初に受け容れた長子 (つまり聖く汚れのない正直な人々) 全員が、国に入る最初の者達となり、私と共に、王としてあらゆる国民と人々 (つまり国に居る全ての長子のみ) を統べ治め、裁くであろう。あらゆる国民と人々のうち、裁かれて悔い改めた者は、全員私の国に入り、私の民となるであろう。また頑固で反省しない者は、底なしの淵へと投げ入れられ (永遠に滅びる) であろう。国における裁きは最後の裁きとなり、その裁きは、私が世界を浄化するものとなるであろう。その後は、不正義や悲しみ、涙、溜息などは無くなり、さらに世界が無くなるであろう。全てはキリストの顕現となり、全てがキリストの国となるであろう。なんという栄光であろうか。なんという栄光であろうか。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

義は聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがって不浄な物事や変化していない物事の全てが、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を備えて居らず、変化していない者全ての義なる罰であり、救いの余地は無い。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

私は、私から生まれたが私を知らない者すべてを罰して、私の怒りや大いなる力、全ての知恵を示す。私の中では全てが義であり、不義や欺きや不正は全く無い。不正や欺きを行う者は、地獄の子であり、陰府で生まれた者であることに相違無い。私の中では、全てが明白である。私が実現しようとして述べる言葉は、すべて実現され、確立しようとして述べる言葉は、すべて確立され、こうした物事を変えたり、それを真似したり出来る者は居ない。なぜなら、私が唯一の神自身だからである。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十六番目の言葉」より

私の義、威厳、裁きは、サタンを一切憐れまない。しかし、あなたがたにとって、そうした物事はあなたがたを救うものである。しかし、あなたがたは私の性情を全く理解できず、私の業の根底にある原則も知らない。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

わたしは聖なる国では姿を現し、汚れた地では姿を隠す。征服されわたしに従順となった者はみな、その目でわたしを見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、これがわたしの定めた恵みであり、これはどの人間にも変えることができないのだ。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十九番目の言葉」より

悪霊により堕落させられた者は皆、私により用いられることは無く、排除されるであろう。私に感情が無いと考えてはならない。そのことを知る必要がある。私は聖なる神であり、不浄の宮には住まない。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。けがれた人間は神の国に入ることを許されないし、またけがれた人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人が神の国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

私の中には感情は憐れみは無く、私の罰を犯す者全てを私は容赦なく確実に殺し、皆平等に扱う。私はあらゆる者に対して平等である。私には個人的な感情はなく、感情的になって行動することは一切無い。私が人間に私の義と威厳を理解させることが出来ないのは、一体何故だろうか。それは私の知恵であり性情であって、それを変えたり完全に知ることが出来る者は居ない。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

全能神よ、アーメン。あなたのなかでは、全てが解き放たれて自由になり、開かれ、明らかにされ、すべて明るく、包み隠すことは全くありません。あなたは肉にある全能神であられます。あなたは王として統べ治めてきました。あなたは公に現れ、もはや謎ではなく、完全に、そして永遠に現されました。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

すべてはわたしの言葉で成し遂げられる。誰一人手を出すことはできない。また、誰一人、わたしのしている働きをすることは、できない。わたしは全地の空気をきれいに拭い、地上にいる悪魔たちの痕跡を一掃しよう。わたしはすでに始めている。そして、わたしの刑罰の働きの第一段階を赤い大きな竜のすみかで始める。そうして、わたしの刑罰が全宇宙に及ぶと、赤い大きな竜とあらゆる不浄な霊が無力で、わたしの刑罰を免れないことがわかる。わたしは全地を調べるのだから。地上でのわたしの働きが完了すると、つまり、裁きの時代が終わると、わたしは正式に赤い大きな竜を刑罰する。わが民は、わたしが赤い大きな竜に与える義の刑罰を見る。人々は、わたしの義のゆえにたたえをささげ、わたしの義のゆえに、永遠にわたしの聖なる名を称える。そこで、あなたがたは、正式に本分を果たし、全地で正式にわたしをたたえる。永遠に絶えることなく。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十八番目の言葉」より

神の経営(救いの)計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されない。神が実行すると決めたことは、全て計画された時に完成され、成就し、神の働きは誰にも妨げられることはない。神は人間の愚かさや無知を気に留めず、人間の自分に対する拒絶や観念を無視することさえある。そして神は自分がすべき働きはためらわずに実行する。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

私は2つの側面で構成されている。すなわち、1つ目の側面は私の人性であり、もう1つの側面は私の完全なる神性である。これら2つの側面の組み合わせのみが、完全な神自身を構成する。私の完全な神性の存在には、多数の事柄が含まれて居る。すなわち、私はいかなる人間や物事の制限も受けず、あらゆる環境を超越し、時間、空間、地理の制限を超越しており、あらゆる人間や物事を、自分の手の甲のように知っているが、それと同時に私は肉と骨で造られた実体的な姿をしている。私は、人々の目には人間に見えるが、本質が変化し、肉ではなく身体である。こうした物事は、そのうちごく一部である。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私に備わっている物事とは、私の知恵、私の知識、私の機知が豊富であること、そして私の言葉を個別に指す。私の人性と神性の両方に、そうした物事が備わっている。すなわち、私の人性が行う業も、私の神性が行う業も、全て私に備わっている物事である。こうした物事を奪ったり取り除いたりすることが出来る者は居ない。そうした物事は私が所有している物事であり、それを変えることができる者は居ない。これが私の最も強力な律法である (なぜなら、人間の観念において、私の行う業の多くが人間の観念と一致するものではなく、理解することが出来ないからである。これはあらゆる者が最も違反しやすい律法であり、かつ最も強力な律法である。したがって、そのために人間のいのちが奪われる)。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神は最も義である故に、神は人間に対して公平であると言う。人間が最後まで神に付き従ったならば、神は人間を退けられるであろうか。わたしは全ての者に対して公平であり、全ての者を自分の義なる性質により裁くが、わたしは人間に対する要求に適切な条件を設けており、誰でも人間は、皆わたしの要求を満たす必要がある。わたしは、あなたの資格がどれほど多く立派であるかは気にせず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し、渇望しているかどうかだけを勘案する。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

神は誰も特別扱いされず、人々を常に公平に扱われるが、人々に与えられる際に専断的ではあられず、人々に無条件では与えられないからである。これは、神の義なるご性情の一側面である。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

義は決して、一つのものを二つに切り分け、働きの量に応じて保障したり、働きの量の分支払ったりすることによって偏りがなかったり合理的だったりするのではない。それは神の義ではない。あなたは、各人が自分の役割を果たし、なされた働きに応じて分配され、各人の成果に応じた分を受け取ること以外に義はないと考える。神が、ヨブが神を証ししたあとに彼を滅ぼしたとしよう。この場合でも神は義である。なぜ彼が義であるというのだろうか。…実際、人々が神によって滅ぼされるとして、その人々が堕落していたかどうかにかかわらず、神は人々に対して彼らを滅ぼす理由を説明する必要があるだろうか。神が人々を滅ぼす根拠を彼らに説明すべきだろうか。もちろん、そんな必要はない。そうではないか。滅ぼすにあたって、有益な人間を残し、役立たずの人間を滅ぼすといった原則に基づくべきだろうか。その必要はない。神の目から見れば、堕落した人間を神はどのようにでもすることができる。どのようになされたとしても適切であり、全ては神のご計画のうちにある。神の目にかなわなければ、あなたは証しした後でも役立たずであり、滅ぼされる―これは義であるのか。これは義である。…神の本質は義である。神のなさることを理解するのは簡単ではないが、神のなさることはすべて義なのである。単に人間には理解できないだけである。このことははっきりしている。神がペテロをサタンに与えたとき、ペテロがどう答えたかをあなたは知っている。「人はあなたがなさることを理解することはできませんが、あなたがなさるすべてのことに、あなたの善なる意志が含まれています。あなたのなさることすべては義です。あなたの賢明なわざをほめたたえずにいられるでしょうか」。

『キリストの言葉の記録』の「神の義なる性質を理解するには」より

神を知る認識は人間の物の見方にもとづいて神についてあれこれ言うことではない。人間が物を見る見方には真理はない。神の本質は何か、神の性質は何かを理解する必要がある。神が行ったこと、またはかかわったことの外的事象にもとづいて神の本質を見てはならない。人類はそれ自身、サタンによって堕落させられているのである。人間は基本的に、その本性が何であるか、または堕落した人類が神の前に何であるか、またはそれがどのように扱われるべきであるかが分からない。神に恵みを受けた義なる人であるヨブのことを考えてみよう。これが神の義である。ヨブは試みを受け、サタンはヤーウェと賭けをしてこう言う。「なぜヨブはあなたを敬うのでしょうか。それはあなたが彼にあのような報いを与えたからです。あなたが彼からそのすべてを取り上げたら、彼はそれでもあなたを敬うでしょうか。神ヤーウェは言った。「彼の命をとらない限り、お前の望む何をしてもよい」サタンはその後ヨブのところに行き、ヨブは試みにあった。彼の持っていたすべてははぎ取られ、彼の子どもたちは死んだ。ヨブの試みのうちに、神の義なる性質は含まれているだろうか。含まれている。どこに含まれているだろうか。あなたはそれを説明できない、そうではないか。あなたが義なる人であっても、神にはあなたを試み、あなたを神の証しとする権利がある。神の性質は義である。神は皆を平等に扱う。それは、義人は試みに耐えることができるから彼は試みを受ける必要がなく、守られる必要があることを意味するのではない。これはそういうことではない。神には人を試みる権利がある。これが神の義なる性質の説明である。結局、ヨブが試みを受け、ヤーウェを証ししたあと、神は彼を前にも増して祝福し、以前に倍するよりよい恵みをお与えになった。さらにヤーウェは、まるでヨブが神に直接会ったかのように、彼の前に現れ、風の中で彼に語った。これは彼に与えられた恵みではないか。これが神の義である。もしこれが逆であったらどうだろう。ヤーウェはヨブがそれらの試みを受け入れ、サタンの前で神を証しし、サタンを辱めるのを見た。しかしヤーウェは彼を無視し、背を向けて立ち去った。その後ヨブは恵みを得なかった。ここに神の義はあるだろうか。ヨブが試みの後で恵みを受けたかどうか、またヤーウェが彼の前に現れたかどうかにかかわらず、このすべてに神の善なる意志が含まれている。彼の前に現れるのも神の義なら、彼の前に現れないことも神の義なのである。創造の一部である人間が、何を根拠に神に要求するのか。人間には、神に要求する資格はない。神に要求するのはもっとも理不尽なことである。このように、神はご自身が望むことをし、またしない権利がある。神にはこれらのことをご自身のみで処理する権利がある。神ご自身の性質は義である。

『キリストの言葉の記録』の「神の義なる性質を理解するには」より

サタンはこれまで継続的に策略を実行し続けている。人間はサタンにより堕落させられ続けており、ヤーウェ神も自身の英知の働きを継続的に実行し続けている。神は一度も失敗したことがなく、世界の創造からこれまでにおいて、自身の働きを一度もやめたことがない。人間がサタンによって堕落させられた後、神は人間を堕落させる敵を打ち負かすために、人々の間で継続的に働きを行った。その戦闘は始まりから世界の終わりまで続くだろう。この働きを行うに際して、神は、サタンによって堕落させられた人間も自身の素晴らしい救いを受けられるようにしただけでなく、自身の英知、全能性、および権威を人々が知るようにもした。そして最後に神は、人が自身の義の性質を見るようにする。つまり、邪悪な者を罰し、正しい者を報いる。神は今日まで戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、神の英知はサタンの策略に基づいて行使されるからだ。そのため、神は天のあらゆるものを自身の権威に従わせるだけなく、この世のすべてのものを自身の足台の下に置き、更には人間を侵害し悩ませる、悪事を働く者が神の刑罰の中に落ちるようにする。その働きの結果のすべては、神の英知によりもたらされる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きにつれて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと共に働く。全宇宙に「歓呼の声」が響き、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、「わたしの支配に従う」しかなくなる。わたしの計画すべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしの「しもべ」である。したがって、わたしはけっして竜の「要求」を緩めたことがない。だから、受肉におけるわたしの働きの最終段階は、その「家」の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしはこれに打ち勝ち、計画を完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十九番目の言葉」より

この世のあらゆる国民が権力と利益を求めて競い、領地をめぐって戦うが、それに驚いてはならない。何故ならそれは全て、私役に立つからである。それが私に役立つと私が言うのは、何故だろうか。私は何も行動することなく物事を行う。サタンを裁くため、私はまずそうした者同士で争うようにさせ、最終的にそうした者を破滅させ、そうした者自身の狡猾な策謀にはまるようにさせる (そうした者は私と権力をめぐって競うことを望むが、最終的には私に役立つ)。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

現在、あなたがたは、創造以来、人類が嘗て見た事の無い唯一の真の神と対面しているが、私には特別なことは一切無い。私はあなたがたと共に食べ、生活し、話し、笑い、また私は常にあなたがたの中で生活すると同時に、あなたがたの中で業を行っている。信じない者、あるいは独自の悲観的観念のある者にとって、それは障害となる。それが私の知恵である。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

従前私が述べた事だが、私は英知ある神である。私は自らの正常な人間性によってあらゆる人間とサタンのような態度を暴き、誤った意図を持つ者、他人の前における行動と、他人の陰における行動が異なる者、私に不義な者、金銭に執着する者、私の重荷に配慮しない者、自分の兄弟姉妹達と共に欺き、不正を行う者、雄弁に語り人々を歓喜させる者、自分の兄弟姉妹と心と精神で一致団結できない者を暴く。極めて多くの人々が、私の正常な人間性を理由として、私の正常な人間性が知ることは無いと仮定して、密かに私に反抗し、欺いたり不正を行ったりする。それゆえに、私の正常な人間性に注目し、召使いのようになって私に上質の食べ物や飲み物を与え、心の内を私に話す一方で、私の知らない所ではそれと正反対の行動を取る。盲目な人間達よ。人間の心の奥を見る神である私のことを、あなたがたは全く知らない。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

私は堅実に業を行う。私は刃物や銃を使わず、何も行動せずに、私を裏切り、私の名を汚す者を完全に打ち破る。私は高潔であり、たとえサタンがそうした障害を引き起こしたとしても、安定した平和のなかで業を続ける。私はサタンを全く気にせず、私の統御計画の実現とともにサタンを打ち破る。それが私の力であり、知恵であり、そしてそれ以上に、それは私の終わることの無い栄光の僅かな一部である。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

今日、わたしは人間と共に刑罰の時代に進み、人間と並んで進む。わたしは、わたしの働きをしている。つまり、わたしの杖を人間の中で振るい、それは人間の中の反抗的なものを打つのだ。人間の目には、わたしの杖に特別な力があるように見える。それは、わたしの敵である者たちすべてを打ち、容易に彼らを逃さない。わたしに敵対する者たちの中で、杖はその本来の目的どおりの役目を果たす。わたしの手の中にあるものは、どれもわたしの元々の目的にしたがってするべきことをし、けっしてわたしの意にそむいたり、その本質を変えたりしない。その結果、水は轟き、山々は倒れ、大河はばらばらになり、人間は気まぐれになり、太陽は薄暗くなり、月は暗くなり、人間はもはや心安らかに生きられない。もはや地に穏やかな時はない。天はけっして再び穏やかで静かではなく、二度と再び耐えることをしない。すべてのものは新たになり、本来の姿を取り戻す。地のすべての家は引き裂かれ、地のすべての国々は散り散りになる。夫と妻が再会する日は去り、母と息子は二度と会うことがない。父と娘が再会することも二度とない。かつて地にあったものは、みなわたしが砕く。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十八番目の言葉」より

サタンに対する神の勝利は、避けられない流れなのである。サタンは実際に昔、敗北した。福音が大きな赤い竜の土地を通して広がり始めたとき、つまり、受肉した神が働きを始め、その働きが引き起こされたとき、サタンは完全に倒されることとなった。その受肉はサタンを倒すためのものだったからである。サタンは、神がもう一度肉となり、また神の働きを遂行し始めたのを見た。そして、どんな力もその働きを止められないことを理解した。そのため、その働きを見たときにサタンは愕然とし、サタンの働きをあえてそれ以上続けなかった。最初にサタンは、自らが多くの英知も持つものと思っていて、神の働きを中断させてその阻害を行った。けれどもサタンが予想していなかったのは、神がもう一度肉となり、神自らの働きにおいて、サタンの反抗性を用いて、人間のための啓示と裁きを行い、それにより人間を征服してサタンを打ち負かすということだった。神はサタンより賢明で、神の働きはサタンをはるかに凌ぐ。だから、わたしは以下を前に述べた。「わたしが行う働きはサタンの策略に対応して実行される。最後にわたしは、自らの全能性とサタンの無力さを示す。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

神の人間に対する愛は過保護や甘やかしではなく、人間に対する神の慈悲と寛容は、大目にみることでも無頓着でもない。むしろ、神の人間に対する愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことである。神の哀れみと寛容は、神の人間に対する期待を伝えるものであり、人類の存続に必要なものである。神は生きており、実在する。神の人間に対する姿勢には原則があり、一切独善的ではなく、また変化しうるものである。人類に対する神の心は、時間や状況、各人の姿勢に従って、徐々に変化している。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

人間の業のために神が眠れぬ夜を過ごした夜は、極めて多い。神は、遙かな高みから、人間が生活する深い底の生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、神自信が業を行う際に最大の屈辱を受けた。……天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や迫害を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも、嘗て無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉を精錬すること、注意を喚起すること、勧告すること、奨励すること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される業を、不平を言わずに行う。神の業の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った業の段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。神の業の段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。神の業の段階のうち、どれが夜のように黒い闇の軍勢がもたらす苦難や迫害から人間を解放するためでは無かったであろうか。神の業の段階のうち、どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の熱心な心を、誰が理解できるというのか。

『言葉は肉において現れる』の「業と成長(9)」より

創造主であり、全ての主、全ての支配者でありながら、神は地上に降りて来て、どうしようもなく堕落した人類からの抑圧と残酷さに耐えなければならなかった。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間により激しく咎められ、全ての人類の罪を背負わなければならなかった。イエスが通った苦しみがどれほどであったかは、普通の人間が想像できたり、理解できたりするものではない。この苦しみは何を意味するのか。それは、神の人間への愛情を表す。これは人類の救いのために、罪を贖うために、そしてこの段階での神の業を完了するために、イエスが被むった苦痛と払った代価の象徴である。神の十字架によって、人類は贖われただろうということの象徴でもある。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物が払うことが決してできないものである。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを備えている。そしてこの種の苦しみと業に耐えることができた。被造物である神以外の存在が代わってできる働きはないのである。これが恵みの時代においての神の働きであり、神の性質の現れである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。むしろそれは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

この「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。…あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の最高権威、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、明らかで、触れることができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、人間の恥をカバーするためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、愛らしさ、信実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

神が人間を創造した。彼らが堕落していようと神に付き従っていようと、神は人間を自分の愛する者として、あるいは人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接し、オモチャのようには扱わなかった。神は自分が創造主であり、人間は神が創造したものだと言っている。ということは、そこには少しの格の違いがあるように思われるが、実際には神が人間に対し行ってきたことというのは、この関係の性質をはるかに越えるものである。神は人間を愛し、思い、そして配慮してくれる。そして常に絶えることなく人間に与え続けてくれる。神はそれを心の中で余計な仕事とも、多くの賛辞に値することとも感じていない。また神は人間を救い、彼らに与え、全てを与えることを人間への大きな貢献とも思っていない。神はただ静かに、神自身のやり方で、神自身の本質を通して、自身の持っているものとその存在そのものを与えてくれるのである。どれだけ人間に与えてくれていても、どれだけ助けても、神はそれを手柄と考えたり、それによって手柄をたてようと考えたりしない。これは神の本質によるものであり、そしてまさしく神の性質の真なる表現なのである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

最も見落としやすい神の本質と性質の中に、神だけが持つことができるものがある。それは偉大だと思われている人々や良い人と思われている人々、また彼らの想像上の神も持つことができないものである。それは何か。それは、神の無私さだ。…この世の全ての人々、出来事、そして物の中にあって、神の無私さだけが真実で揺るぎないものであると。なぜなら神のあなたに対する愛だけが無条件で汚れのないものだからである。神以外の全ての者のいわゆる無私さは全て偽もので、表面的、そして魂胆があるものである。そこには目的、特定の意図、取引があり、試みに耐えることができない。それは汚れた卑しむべきものだとさえ言える。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

それは神の本質は偽物ではなく、神の愛らしさが偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや愛らしさは、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

人間が神に反逆したため、神は人間を忌み嫌った。しかし神の人間に対する思い、配慮、憐れみは変わることがなかった。人間を滅ぼした時でさえ、神の心は変わってはいなかった。人間が堕落と神への不従順に満ち、それが一定の程度に達したとき、神は自身の性質と本質、そして神の原則のゆえにこのような人間を滅ぼさなければならなかった。しかし、神の本質のゆえに、神はそれでも人間を憐れみ、様々な方法で人間を贖い、彼らを生かし続けたいとすら願った。しかしながら人間は神に反逆し、神への不従順を続け、神の救いを受け入れることを拒絶した――つまり神のよい意図を受け入れることを拒んだ。神がどのように人間に呼びかけ、思い出させ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解または感謝せず、あるいは注意を払うこともしなかった。痛みの中にあっても、神は人間が心を改めるのを待ち、最大限の寛容を人間に与えることを忘れなかった。そして神が自身の限界に達した後、神は自身が行わなければならなかったことを迷いなく行った。別の言い方をすれば、神が人間を滅ぼすことを計画し始めた時から、実際に人間を滅ぼす働きを正式に始めるまでの間には、一定の期間と過程があったということだ。この過程は人間が心を改める機会を与えるために存在した。そしてそれは神が人間に与えた最後のチャンスだった。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

では神が実際に人間を滅ぼすまでの期間、神は何をしていたのだろうか。神は人間に思い起こさせ、忠告するために多くの働きをしていたのである。神の心がどれほどの痛みと悲しみにあったかに関わらず、神は人間を配慮し、心配し、溢れるほどの憐れみを人間に注ぎ続けたのである。このことからわたしたちは何を見るだろうか。神の人間に対する愛が真実であって、お世辞のようなものだけでないことがはっきり見て取れる。その愛は実際に存在し、感じ知ることができ、偽物ではなく、汚れたり、欺いたり、あるいは偽装したりしていないものである。神は自分が愛すべき者であることを人々に見させるために、騙したり、イメージを繕ったりすることは決してしない。偽証によって自分の魅力を人々に見せようとすることも、自分の魅力や聖さを誇示することもない。このような神の性質は人間の愛を受けるに値するものではないか。礼拝されるに値するのではないだろうか。大切にされるに値するのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

創造の時から今日まで、この最後の集団ほどに神の恵みと憐れみを享受した集団は他になかったと言えるだろう。最後の段階では、神は裁きと懲罰の業を行い、威厳と怒りによって業を行っているが、ほとんどの場合神は業を成し遂げるために言葉のみを用いる―言葉により教え、育て、施し、養うのである。その間神の怒りはずっと隠されており、神の言葉の中に神の怒りの性質を体験する場合を除いては、神の怒りを実際に体験したことのある人はほとんどいない。つまり、神の裁きと懲罰の業が行われている間、神の言葉の中に現されている神の怒りによって人々が神の威厳と人間の悪に対する不寛容さを経験することはできるが、神の怒りはその言葉以上のものにはならないのである。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、責めることすらするのである。しかし神はまだ人間に深い怒りを持っておらず、そして言葉意外に人間に対する怒りを発したことはほとんどないのである。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛も、神の真の性質の現れである一方で、人間が経験した神の怒りは単に神の言ったことと口調の影響に過ぎないのである。多くの人がこの影響を神の怒りの真の経験と知識だと誤解している。その結果、ほとんどの人々が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして人間の罪に対する神の寛容を見たと信じており、ほとんどの人々が神の人間に対する憐れみと寛容を知ったとさえ思っている。しかし人間の行いがどれだけ悪かったとしても、どれだけ人間の性質が堕落していたとしても、神はいつでもそれに耐えてきた。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、神が注いだ労苦、神が払った代価が、神が勝ち取りたいと願っている人々の中に効果をもたらすことである。このような結果の達成には時間がかかる。また人間のために違う環境を用意する必要もある。人が生まれてすぐ大人になることがなく、成熟した本当の大人なるまでに18年から19年かかる人もいるのと同様に、である。神はこの過程の完了を待っており、そのような時が来るのを待っている。そしてその結果を見るのを待っているのである。そしてその待っている間、神はとても憐れみ深いのである。しかしながら神の業のこの期間に、極めて少ない人数の人々は滅ぼされ、また重大な反抗のゆえに罰を受けた人々もいる。そのような例は、神の悪に対する手厳しい性質のより確かな証明でもあり、そしてまた神が選んだ人々に対しての寛大さと忍耐強さの真性の証明である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

事実、この神の業の最終段階では、神は待ち続けていたその間ずっと耐え続けてきたのであり、神に従う者の救いのため、その忍耐と命を引き換えにしたのである。このことが理解できるだろうか。神は理由なく計画を覆さないのだ。神は怒りを爆発させることもできるし、憐れみ深くいることもできるのである。これが神の性質の現れにおける2つの主要な部分である。はっきりわかるだろうか、あるいははっきりしていないだろうか。別の言葉で言えば、神に関して言えば、善悪、正と不正、肯定的なものと否定的なものの全ては人間に対してはっきり示されているのである。神が行い、好み、また嫌うもの―これらのことは全て神の性質の直接的な反映となりえる。このようなことは神の業にわかりやすく明確に見ることができ、そして不明瞭であったり概要的であったりすることはない。むしろ、これらのことは全ての人々が神の性質と本質を、揺らぎない、真実性のある、具体的な形でしっかり見ることを可能にする。これが本当の神自身なのである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

これは、この時代に、神が自身の計画を全うし、救おうとしている人々を救うことが待ちきれないということではないのか。このような状況で神が最も問題とすることは何か。それは、神に全く付き従わない者たちやどちらにしても神に反対する者たちがどのように自身を扱い、拒否するかでも、人間がどのように神を中傷するかでもない。自身に従う者たち、すなわち神の経営(救いの)計画において救いの対象となる人々が、神によって全き者となったかどうか、彼らが自身が満足する者になったかどうかが、神にとっては問題なのである。神に付き従う者以外の人間に対しては、神は時々多少の罰をもってその怒りを示すだけである。例えば、津波、地震、火山噴火などである。それと同時に、神は神に従う者とまもなく救われる者を強固に保護し世話をする。神の性質とは次のようなものだ。神は自分が完全にしようとする人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、待てる限り待ち続ける一方で、神に付き従わずに敵対するサタンの輩を激しく忌み嫌う。神はこのサタンの輩が自分に従い礼拝するかは気にかけてはいないが、彼らに対する忍耐を持ちながらも彼らを忌み、神がこのサタンの輩の最後を決めると同時に、自身の経営計画が段階的に進んでいくのを待っている。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

サタンの思うように攻撃させないのは神の憐れみであった。神にとって、ヨブがサタンに誘惑されて好きなように虐げられたことでもうたくさんだったのだ。神は同じ事をサタンにはさせなかった。神に従う人々の人生とその人々の全ては神によって支配され作り上げられており、神の選民をサタンが操る権利はなかった。この点ははっきりと理解しなければいけない。神は人の弱さに心を砕き、人の愚かさや無知さを理解する。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければならないが、人がサタンの手によって玩具のように扱われるのを神は喜んで見ることはない。神は人が常に苦しむのを見たいとは思わない。人間は神によって造られ、人間の全てが神によって支配され管理されることは全く義なることである。そうすることは神の責任であり、神が全てを支配する権威によるものである。神はサタンが意のままに人間を虐げ虐待することを許さず、様々な手段で人間を進むべき道から踏み外させることを許さず、更に、人間に対する神の主権を犯すことを許さず、神が全てを支配する律法を踏みつぶして壊すことも許さず、人間を管理して救う神の偉大な働きを踏みつぶして壊すことを許さないのは言うまでもない。神が救いたいと望む人々、神の証しとなる人々は神の6千年の経営(救いの)計画の中心であり結晶であると同時に、神の6千年の働きの代価である。簡単にサタンに渡せるはずがない。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

ヨブは試練の中にあって神に対して証しとなっていたため、神に受け入れられた。一方ヨブの友人達は、ヨブが試練を通る中で明らかにされていった。つまり、かれらの愚行故に神に責められ、神の怒りを引き起こした。そのため彼らはヨブの前で全焼のいけにえをささげることで神に罰せられなければならないのである。その後、ヨブは彼らに対する神の罰と怒りを静めるために祈った。この出来事における神の目的は、彼らを恥じ入らせることであった。彼らが神を畏れ悪を避けることをせず、ヨブの高潔を非難したためである。ここで示されることのひとつは、神は彼らの行いを受け入れていないと言っていると同時に、ヨブを喜んでいるということである。そしてもうひとつは、神に受け入れらえることにより、人は神の前に引き上げられるということである。愚行により人は神に嫌われ、愚行は神の怒りを引き起こす。そのような者は神の目には低く卑しいものであるということである。これが神による2種類の人間の定義であり、この2種類の人間に対する神の姿勢であり、2種類の人々に対する神の明確な説明と姿勢である。…神のはっきりと異なったふたつの態度は、2種類の人々に対する態度である。すなわち、神を畏れ悪を避ける者は神に受け入れられ、尊いが、神を畏れず悪を避けることのできない愚か者は神の好意を得ることはできず、しばしば神に嫌われ、責められる。彼らは神の目に卑しい者たちである。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身10」より

それが霊的世界であるか、物質世界であるかを問わず、神が業を行う原則は変わらない。あなたが神の業を理解できるかどうかを問わず、その業の原則は変わることが無い。神の万物に対する姿勢と処遇には、一貫して同じ原則がある。これは変わることが無い。神は、信仰の無い者のうち、比較的真面目に生活している者に対しては親切であり、また様々な宗教の信者のうち、行いが正しく、悪業を行わない者から機会を奪われることは無く、こうした者は神が経営している全ての物事において役割を担うこと、なすべき事を行うことを許されている。同様にして、神に付き従う者、神の選民についても、神は差別すること無く、神の原則に従う。神は、心から神に従うことの出来る者全てに対して親切であり、またその者を愛する。ただし、信仰の無い者、様々な宗教の信者、そして神の選民といった様々な種類の人々について、神が与える物事は異なる。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身10」より

神の優位性、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛…これら全ての様々な神の性質と本質の側面は、神が業を行うたびに現れるものであり、神の人間に対する意志が具現化されたものであり、そして全ての人間に対し履行され、反映されるものである。あなたがこれまでにそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神は全ての人をあらゆる方法の限りを尽くして思いをはせ、一人一人の心を温めるため、そして一人一人の霊を呼び覚ますため、誠実な心、知恵、そして様々な方法を用いている。これは議論の余地のない事実だ。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身1」より

神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「唯一の神自身2」より

神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

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