終わりの日のキリストから発せられる言葉(選集)

目次

神の性質と神の業の結果を知る方法

それではまず讃美歌を歌おう。神の国の聖歌 (1) この世に下った神の国

伴奏:人々は喜んで神に歓声を上げ、神を称え、無数の声が唯一の真実の神のことを話し、神の国がこの世に下った。

1.人々は喜んで神に歓声を上げ、神を称え、無数の声が唯一の真実の神のことを話し、多くの者が神の業に目を見張っている。神の国がこの世に下り、神の者は富み、豊かだ、富み、豊かだ。これを喜ばない者があろうか (これを喜ばない者があろうか)。これに踊らない者があろうか (これに踊らない者があろうか)。シオン (シオン)、シオン (シオン)、勝利の旗を揚げて神を讃えよう。勝利の歌を歌い、神の聖なる名を広めよう。世界の果てまで、万物はすぐに自らを清めて神に捧げよ、神に捧げよ。天の星よ、元のところへ還って神の力を天に示せ。神は地の人々の言葉に耳をそばだて、地の人々は神への限りない愛と敬いを歌い上げる。万物が生まれ変わる日、神は自らこの世に来る、神は自らこの世に来る。そしてその時、花が咲き、鳥が歌い、万物が歓喜する。花が咲き、鳥が歌い、万物が歓喜する。この時、神の国への礼砲でサタンの帝国は崩壊し、神の国の国歌の響きに打ち砕かれ、二度と再興しない。

2.この世の者のうち、誰が敢えて立ち向かうだろうか。神は地に降りてきて、火をもたらし、怒りをもたらし、様々な災いをもたらした。全ての災いをもたらした。この世の王国は、神の国となった。そうなったのだ。空に浮かぶ雲はたなびき、天の下では (天の下では)、天の下では (天の下では)、湖と川の水が荒れ、美しい調べを奏でる。巣で寝ていた動物たちは巣を出て、神が眠る人々を目覚めさせ、皆が待っていた日がついに来た。ついに来た。彼らは最も美しい歌を、最も美しい歌を、神に捧げる、神に捧げる、神に捧げる。

この歌を歌うとき、あなた方は毎回何を考えるであろうか。(神の国の美しさがどれほど壮麗か、そして人間と神が永遠に共にあることを考えると、喜びで非常に興奮する。)神と共にあるために、人間がとらなければならない形について考えたことがある者はいるだろうか。あなた方の想像では、神と共にあり、神の国で栄光ある生活を送るためには、人間はどのようにあるべきであろうか。(人間には改められた性質がなければならない。)人間には改められた性質がなければならない、ということだが、どの程度改められている必要があるだろうか。改められた人間は、どのようになるであろうか。(聖なる人間になる。)聖さの基準は何であろうか。(全ての思想や考え方がキリストと一致していることである。)その一致とは、どのようにして表出されるであろうか。(人間は神を拒まず、裏切らず、神に絶対的に服従し、神を心から畏れる。)あなた方の答えには正しいものも幾つかある。皆心を開いて、あなた方の心の声を述べて欲しい。(神と共に神の国で暮らす人間は、真理を追究し、他の者や物事に少しも邪魔されること無く本分を尽くし、それを誠実にすることができる。そして闇の影響から抜けだし、神の心と調和して、神を畏れ、悪を避けられるようになる。)(自分の物事の見方を神と調和させ、闇の影響から抜け出すことが出来る。最低限の基準は、サタンに搾取されないこと、腐敗した性質を捨て去ること、神に対して従順になることである。闇の影響から抜け出すことが重要だと思う。ある者が闇の影響から抜け出せず、サタンの呪縛から抜け出せない場合、その者は神の救いを得ていない。)(神により全き存在とされる基準は、人間が神の心、神の思いとひとつになること、神を拒まなくなること、自分を知り、真理を実践し、神に関する認識を得て、神を愛し、神と協調することである。人間に必要とされる行動は、これらが全てである。)

人間の心の中における結末の重さ

あなた方の心には、自分が歩むべき道について何らかの考えがあり、それについてかなり把握し、理解しているようである。しかし、あなた方の言葉が空虚なものとなるか、事実となるかは、日々実践する事柄において、あなた方が何に注意しているかにより決まる。あなた方は真理の教義と内容の両方について、長年にわたり真理のあらゆる側面から収穫を得てきた。それにより証明されるのは、現在の人間は真理を求める事に重点を置いている、ということである。その結果、真理のあらゆる側面と事項が、一部の人々の心に、確実に根ざしている。しかし、わたしが最も恐れていることは何であろうか。それは、あなた方の心では、真理という事項とその理論が根ざしていても、実際の内容にそれほど重点が置かれていないことである。あなた方が問題や試練に遭遇したとき、選択に迫られた時、そうした真理の事実をどの程度活用できるであろうか。そうした事実は、あなた方が困難を乗り越える際や、神の趣意を満たして試練を乗り越える際に役立つであろうか。あなた方は試練に耐え、はっきりと大声で神の証しをするであろうか。あなたは、それらの問題に関心を持ったことがあるであろうか。あなた方に尋ねるが、あなた方の日々の考えや思いにおいて、自分にとって最も大事な物事は何であろうか。あなた方は、このことについて結論に達しているだろうか。あなた方は何が最も重要であると考えているであろうか。「真理を実践することが最も重要である」という者もいれば、「当然ながら、神の言葉を毎日読むことが最も重要である」という者や、「当然ながら、毎日神の前に出て、神に祈ることが最も重要である」という者、「当然ながら、毎日きちんと自分の本分を尽くすことが最も重要である」という者もいる。さらに、神に満足してもらう方法、あらゆる物事において神に従う方法、神の心に沿って行動する方法について、ひたすら考えているだけであると言う者もいる。そうであろうか。それが全てであろうか。たとえば、「常に神に服従したいが、何かあると神に服従出来ない。」という者がいる。「神に満足してほしいと常に思っている。神にただ一度だけでも満足してもらえればよいのだが、神に満足してもらうことは決して出来ない。」と言う者もいる。「神に服従したいと常に思っている。試練の時、何も不満を言わず要求もせずに、神の采配にゆだね、神の統治と計画に従いたいと常に思っている。しかしほぼ毎回、従うことができない。」と言う者もいる。「決断に迫られると、どうしても真理を実践することを選べない。私は常に肉の欲を満たしたい、自分の勝手な願望を満たしたいと思う。」と言う者もいる。その原因は何であろうか。あなた方は、神の試練が起こる前に、何度も自分自身に挑んだり、試したり、試練を課した事はないだろうか。本当に神に従い、神に満足してもらえるか、絶対に神を裏切らないようにすることが出来るか、試してみよ。自分自身や自分の勝手な願望を満足させずに、自分の個人的な選択をせずに、ただ神に満足してもらうように出来るか、試してみよ。このように出来る者はいるだろうか。実際には、あなた方の目の前にある真実はただひとつである。それはあなた方全員にとって関心が最も高く、最も知りたい事、つまり自分自身の結末と終着点に関する事柄である。あなた方は気付いていないかも知れないが、それは誰も否定出来ないことである。人間の結末、神の人間に対する約束、神が人間を進ませようとする終末に関する真理に関しては、それに関連する神の言葉を既に何度か研究している者がいることを、わたしは知っている。その一方で、自分の心の中で何度もそれを探し、考えるが、何の結果も得られなかったり、曖昧な結論に達したりする者もいる。結局、こうした者は自分を待ち受けている結末はどのようなものかについて確信していない。真理に関する交わりや教会の生活を受け入れ、自分の本分を尽くす時、常に殆どの者が、自分の結末はどうなるだろうか、最期までその道を歩き続けられるだろうか、人間に対する神の姿勢はどのようなものだろうか、といった疑問の答えを知りたいと思う。自分には、過去に神が喜ばない言動があった、自分は神に不従順だった、神を裏切る行為をした、神に満足してもらえないことをした、神の心を傷つけ、神を落胆させた、神に忌み嫌われることをした、だから、おそらく自分の結末は不明であろう、と懸念する者さえいる。大部分の人間が自分の結末に不安を感じていると言えるであろう。「自分は大丈夫だと100%確信している。自分は神の趣意を満足できると100%確信している。自分は神の心に叶う者であって、神の賞讃を受ける者である。」などと、敢えて言う者はいない。神の道に従うことはことさらに困難であり、真理を実践するのは何よりも難しいと考える者もいる。最終的に、こうした人々は、自分が救いようの無い者であると考え、敢えて良い結末に期待することは無い。あるいは、こうした人々は神の趣意を満たして救われることが出来ないと考えているので、自分に結末は無く、好ましい終着点に到達できないと言う。人々が正確にはどのように考えるかを問わず、皆自分の結末について何度も疑問を抱いている。自分の将来に関する疑問や、神が業を終えた時に自分が何を得るかに関する疑問について、こうした人々は常に計算し、計画を立てている。人一倍犠牲を払う人もいる。自分の家族や職業を捨てる者や、結婚生活を諦める者、辞職して神のために生活する者、本分を尽くすために自宅を去る者、困難な道を選び、最も過酷で骨の折れる務めに取り組む者、富や持っている物の全てを捧げる者、真理や神を知ることを求める者もいる。自分が何をするかを決める方法を問わず、行動時の作法は重要であろうか。(重要では無い。)それでは、それが重要でない理由は、どのようにして説明されるであろうか。作法が重要でないとしたら、何が重要であろうか。(表面上の良い行いは、真理を実践していることを表すものではない。)(皆が考えている物事は重要ではない。重要なのは、真理を実践しているかどうか、自分が神を愛しているかどうかである。)(反キリストと偽の長の没落から、表面上の行いが最も重要ではないことが分かる。彼らは表面的に多くの物事を捨て去り、代償を厭わないように思われるが、詳しく検討すると、彼らには神を畏れる心が無く、あらゆる面で神に反抗している。彼らは重要な時常にサタンと共にあり、神の業を阻害する。したがって、ここで主に検討すべきことは、終わりの時に自分がどちらの立場に立つか、そして自分の観点がどのようなものであるかである。)皆素晴らしい意見を持っている。また、既にあなた方は真理の実践や神の趣意、神の人間に対する要求に関する基本的認識を備え、その基準を満たしている。そのような意見を聞いて、極めて感心している。あなた方の意見は、不適切な言葉も所々にあるが、真理に相応しい説明内容に近い。それは、あなた方が、自分の周囲の人々や物事、神が定めた環境、自分が見るもの全てに関して、独自の真の認識を得ているということである。その認識は、真理に近い。あなた方の意見は完全に理解可能なものではなく、極めて妥当とは言えない言葉もいくつかあるが、あなた方の認識は、既に真理の現実に近い。そうした意見を聞いて、わたしは気持が良い。

人間が持つ信仰は真理の代替とはなり得ない

一部の人々は、苦難に耐え、代償を払い、表面上の行動も極めて良好であり、尊敬されて皆から賞讃されている。あなた方はどう思うだろうか。こうした表面上の行動は、真理を実践しているとみなせるだろうか。この者は神の趣意を満たしていると言えるであろうか。人々が、こうした者に対して何度も、神を満足させている、真理を実践する道を歩んでいる、神の道を歩んでいると考えるのは、何故だろうか。このように考える者がいるのは、何故だろうか。これを解釈する方法は、ひとつしかない。それは、どのような解釈であろうか。それは、多くの人々にとって、真理の実践とは何か、神に満足してもらうとはどのようなことか、真理の現実を知るとはどのようなことか、といった疑問が不明瞭だ、ということである。そうしたわけで、表面上霊的で高貴で高尚な印象を与える者に、しばしば騙される者がいる。文字上の事柄や教義上の事柄について語ることが出来て、言動や行動が賞讃に値する者について、その者を賞讃する人々は、その者の行動の本質や背後にある原則、目的について検討しない。また、こうした人々はその者が真に神に服従しているか、真に神を畏れ、悪を避ける者であるかを検討しない。こうした人々は、その者の本質的な人間性を見抜くことが出来ない。むしろ、こうした人々は、その者に最初に知り合ってから、徐々にその者を賞讃し、崇敬し、最終的にその者は、人々の崇拝対象となる。さらに、一部の人々の考えでは、自分が崇拝する対象となる者、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことが出来る崇拝対象が、真に神を満足させるものであり、好ましい結末と終着点を迎えることができる者であると信じている。こうした人々の心の中では、これらの崇拝対象が、神が賞讃する人々である。人々にこのように考えさせる原因は何であろうか。この問題の本質は何であろうか。この問題により、どのような結末が引き起こされるであろうか。まず、この問題の本質について話をする。

人々の観点や行動、人々がどのような原則を選択して実践するかという問題、そして人々が通常強調する物事に関するこうした問題は、基本的に全て神の人類に対する要求とは無関係である。人間が重要視する物事が浅薄であるか深遠であるか、文字や原則であるか、現実であるかを問わず、人間は、最も遵守すべき物事を遵守せず、最も知るべき事柄を知らない。その理由は、人間が全く真理を好まないということである。したがって、人間は神の言葉による原則を探して実践するために時間や労力を費やすことを望まない。むしろ、人間は近道をし、理解していること、知っていることをまとめて、優良な慣行や行動とすることを望む。ゆえに、こうした概要が人間の目標となり、実践すべき真理となる。このことによる直接的な結末は、人間が真理を実践する代替として、人間の優良慣行を用いることであり、それは神の機嫌を取りたいという人間の欲望も満たす。これにより、人間は真理に対抗し、神に釈明し、対立するようになる。それと同時に、人々は無節操に神を忘れ、自分の心の中の崇拝対象を神の代わりとする。人間にこうした無知な行動や見方、あるいは一方的な見方と行動を取らせる原因は、ただひとつである。本日はそのことについて述べる。その理由は、人間は、神に付き従い、日々神に祈りを捧げ、神の言葉を読んでいても、実際には神の趣意を理解していないということである。このことが問題の原因である。神の心を理解し、神が好む物事や嫌悪する物事、神が求める事柄や拒む事柄、神が愛する人間と嫌う人間、神の人間に対する要求において神が適用する基準、神が人間を全きものとする際に採る方法を理解している者がいたとすれば、その者は、それでもなお自分の個人的な考えを持つ事が出来るであろうか。その者は別の人間を崇拝できるであろうか。普通の人間は、そうした者の偶像となり得るであろうか。ある者が神の趣意を理解している場合、その者の観点は、もう少し理にかなっている。そうした者は、堕落した人間を自分の判断で崇拝対象とすることは無く、また真理を実践する道を進んでゆく際に、僅かな簡単な規則や原則を任意で遵守することが真理を実践することであるとは考えない。

神が人間の結末を決定する際の基準については、多数の意見がある

この主題に戻り、結末に関する事柄について話をする。

人間は皆自分の結末に懸念を抱いているが、あなた方は神が結末を決める方法を知っているであろうか。神はどのようにして人間の結末を決めるであろうか。また、神はどのような基準を適用して人間の結末を決めるであろうか。さらに、人間の結末が未決の時、神はどのような業によりその結果を示すであろうか。それを知っている者はいるだろうか。たった今述べた通り、神の言葉を既に長年にわたり研究している者たちがいる。そうした人々は人類の結末や、その結末が分類される種別、様々な人々の将来に待ち受ける様々な結末に関する手がかりを探している。またそうした人々は、神の言葉がどのように人間の結末を決めるのか、神はどのような基準を適用するのか、神はどのようなやり方で人間の結末を決めるのかも知りたいと考えている。しかし、そうした人々は、結局何も見出せない。事実、それについて述べた神の言葉は、稀少である。それは何故であろうか。人間の結末が示されていない限り、神は最期に起こる事柄を誰かに伝えることも、誰かにその者の終着点を事前に知らせることも望まない。その理由は、神がそのようなことをしても、人間にとって何ら利点が無いからである。ここでは、神がどのように人間の結末を決定するか、人間の結末を決定し、それを示す際に神が適用する原則、そしてある者が生き残れるか如何を決定する際に神が適用する基準に限定して話をしたいと考えている。あなた方が最も懸念しているのは、そうしたことでは無かろうか。どのようにすれば、人間は神が人間の結末を決定する方法を理解できるだろうか。これについては、つい先ほどあなた方の意見で少し述べられていた。あなた方の中に、それは自分の本分を誠実に尽くしているかどうか、神のために時間を費やしているかどうかの問題であると述べた者や、神に服従し、神に満足してもらう事であると述べた者、神の憐れみに服する事であると述べた者、そして慎ましく生活する事であると述べた者がいた。あなた方がそうした真理を実践する時、想像の原則を実践する時、神がどう思うかを、あなた方は知っているだろうか。そのようなことを続けることで、神の趣意が満足されるかどうか、それは神の基準に応じるかどうか、それは神の要求に応じるかどうかを、考えたことがあるだろうか。大部分の者がそのようなことを真剣に考えていないことと思う。大部分の者が、神の言葉の一部や、説教の一部、あるいは自分が敬愛する霊的人物の基準を機械的に適用し、こうしなければいけない、ああしなければいけないと、自分自身を強制するのみである。大部分の者が、それが正しいやり方であると考え、結局どうなるかを問わず、それを守ろうとし、実践している。「長年そのように信じてきた。常にそのように実践してきた。自分は神を本当に満足させたような気がする。また自分も得るところが多かったと感じる。そのようにしてきた期間、多くの真理や、それまで知らなかった多くの事を知った。特に、自分の考えや観点が変わり、人生の価値も大きく変わり、この世の中についてかなり理解できた」などと考える者がいる。そうした者は、それが収穫であり、それが人間に対する神の業の最終結果であると考える。あなた方は、そうした基準と自分の実践した事柄全てにより、神の趣意を満たしていると考えているであろうか。確信を持って「もちろんである。神の言葉に従って実践し、兄弟が説教で話し、わたしたちに伝えた通りに実践している。常に自分の本分を尽くし、神に付き従い、神から離れたことは一度も無い。だから、全く確信を持って、神に満足してもらっていると言える。神の趣意をどの程度理解しているか、神の言葉をどの程度理解しているかによらず、神と共にあることを求める道を常に歩んで来た。自分達が正しく行動し、正しく実践していれば、その結果は正しいものとなるであろう。」という者もいるであろう。こうした観点について、あなた方はどう思うであろうか。この観点は正しいであろうか。おそらく「そうした事は考えた事が無い。ひたすら自分の本分を尽くし、神の言葉が要求することに従って行動していれば、自分は生き残ることが出来るということだけを考えている。神の心を満足させられるかといった疑問や、神が要求する基準に達しているかどうかは、今まで考えたことが無い。神は私に述べられた事は無いし、明確な指示を与えられたことも無いのだから、私が生きている限り、神は満足され、神は私に対してそれ以上のことを求められないであろう」と言う者もいるであろう。こうした考えは正しいであろうか。わたしに関する限り、こうした実践方法や思考方法、観点は、すべて人間を空想的にしたり、多少盲目的にしたりするものである。わたしがこう述べると、多少落胆して「盲目的とは、どういうことか。それが『盲目的』であるとすれば、我々の救いや生存に対する望みは少なく、極めて不確実ではなかろうか。そのような言い方は、私達に冷水を浴びせるようなものではないだろうか」と述べる者もいるであろう。あなた方がどう考えたとしても、わたしは自分の言動であなた方に冷水を浴びせるような意図は無い。むしろ、それは神の趣意に関するあなた方の理解を向上させ、神の考えや神が実現したい事柄、神はどのような人間を好み、何を嫌悪し、何を蔑視し、どのような人間を自身のものとしたいと思うか、そしてどのような人間を拒否するかに関するあなた方の認識を向上させることを意図するものである。それは、あなた方各人の行動や考えが、神により要求される基準からどれほど離れてしまっているかを、あなた方が明瞭に理解するのを支援し、あなた方の心を明瞭にすることを意図するものである。こうした事柄について話す必要があるであろうか。なぜなら、あなた方は長年信者であり続け、多くの説教を聞いて来たが、最も不足しているのは、まさにこうした事柄であることをわたしは知っているからである。あなた方は、あらゆる真理をノートに書き記し、自分の頭と心の中で個人的に重要であると思ったことも記録してきたかも知れない。あなた方が実践する時にそれを使うよう計画して、神に満足してもらうように。自分に何か必要な時に、それを使うように。目の前の困難を乗り越えるために、それを使うように。あるいは単にそうした真理と共に人生を過ごすように。わたしに関しては、あなた方が実践するだけの場合、具体的に、どのように実践するかは重要ではない。それでは、極めて重要な事柄は何であろうか。それは、あなた方が実践している時、あなた方のしていること、あなた方の行動全てが、神の望むことであるかどうか、あなた方の行動や考え、心の中にある結果と到達点が、すべて神の趣意を満足させ、神の要求に応じ、神に認められるものであるかどうかに関して、あなた方が心に確信を持つことである。重要なのは、そうした事柄である。

神の道を歩む:神を畏れ、悪を避けよ

心に留めるべき格言がある。この格言は極めて重要だと思う。なぜなら、わたしはこの格言を毎日何度も思い出すからである。それは何故であろうか。それは、誰かと会う度、そして誰かの経験談や神への信仰の証しを聞く度、必ずわたしはこの格言を用いて、その者が、神が求め、好むような人間であるかを測るからである。それでは、その格言とは何であろうか。皆それを聞こうと気が早るであろう。わたしがこの格言を述べると、あなた方はおそらく落胆するであろう。なぜなら、今までこの格言を口先だけで言う者が多数いたからである。しかし、わたしは口先だけでこの格言を述べることは決して無い。この格言はわたしの心の中で生きている。その格言とは何であろうか。それは「神の道を歩みなさい。神を畏れ、悪を避けよ」である。これは極めて簡潔な言葉ではないだろうか。しかし、この格言は簡潔でありながら、この格言を深く理解する者は、この格言は非常に重みがあり、実践する際に価値が高く、真理の現実が含まれるいのちの言葉であり、神に満足してほしいと望む者にとって一生涯の努力目標であり、神の趣意を配慮する全ての者にとって一生涯の道である、と感じるであろう。あなた方はどう思うだろうか。この格言は真理であろうか。この格言にはそうした重要性があるであろうか。おそらく、この格言について、考えて理解しようとする者と、疑念を抱く者がいるであろう。この格言は極めて重要であろうか。これは極めて重要であろうか。この格言は、強調する必要と価値のあるものであろうか。おそらく、神の道をこのひと言の格言に集約するというのは簡略化しすぎであると考え、それが理由でこの格言がそれほど好きでは無い者もいるであろう。神の言葉全てをひと言に集約するというのは、神を軽視しすぎでは無かろうか。この格言は、そうしたものであろうか。あなた方のうち、殆どの者がこの言葉に隠された重大な意味を完全に理解していないかも知れない。あなた方はこの格言を書き留めたが、この格言を心に留めるつもりはなく、単に書き留め、後で時間があるときに、もう一度よく考える程度だ。この格言を覚えようともせず、ましてや活用しようと努力することなど無いという者もいる。しかし、わたしがこの格言について話をするのは、何故であろうか。あなた方の観点や、あなた方が何を考えるかを問わず、この格言について話をする必要がある。なぜなら、この格言は神が人間の結末を決定する方法に極めて密接に関係しているからである。あなた方が現在この格言をどのように理解し、取り扱っているかを問わず、あなた方に伝えることがある。ある者がこの格言を正しく実践して神を畏れ悪を避ける基準を満たすことが出来るとしたら、その者の生存と好ましい結末は保証される。この格言で定められた基準に達せなかった場合、あなた方の結末は不明であると言える。したがって、心の準備をするため、また神があなた方を評価する時に用いる基準を知ることが出来るようになるために、あなた方にこの格言を伝える。たった今述べた通り、この格言は神による人間の救いと人間の結末の決定方法に極めて関連性が深い。その関連性はどこにあるであろうか。あなた方は心から知りたいと思っているので、本日はそれについて伝える。

神は様々な試練により、人間が神を畏れ、悪を避けているか否かを試す

何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。それでは、神は、どのようにして業のなかで人間の結末を決めるのであろうか。人間の結末を決める際に神が採る方法は何であろうか。おそらくあなた方は、今この問題について明確に理解していないであろうが、 その過程をわたしが伝えた後は、明瞭に理解できるであろう。それは、多くの人々が既にそれを自ら経験しているからである。

最初の時から現在に至るまでの、神の業全体を通して、神は各人(神に付き従う者全てと言ってもよいだろう)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々である。自分の家族から拒否される試練を経験した者もいれば、逆境の試練を経験した者や、拉致されて拷問される試練を経験した者、選択に迫られる試練を経験した者、金銭や地位の試練を経験した者もいる。概して、あなた方は、それぞれこうした試練を受けたことがある。神がこのように業を行うのは、何故だろうか。神が各人をこのように扱うのは、何故だろうか。神はどのような結果を望んでいるのであろうか。わたしの話の要点はこのことである。すなわち、神は、その者が神を畏れ、悪を避けるような人間であるかを知ることを望んでいる。これは、神があなた方に試練を与え、ある一定の状況に直面させる時、神はあなた方が神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを試したいのだということを意味する。ある者が捧げ物を守る役割になり、神の捧げ物に接する事になった場合、あなた方は、それが神の采配であると思うだろうか。もちろんその通りである。あなた方が直面するあらゆる物事は神の采配である。あなた方がこのような物事に直面した時、神はあなた方を隠れて観察し、あなた方の選択や行動、思考がどのようなものであるかを見ている。神が最も高い関心を寄せるのは、その結果である。なぜなら、その結果により、神はあなた方がその試練で神の基準に達したかどうかを評価できるようになるからである。しかし、人々は、ある物事に直面した時、その物事に直面している理由や、神により求められている基準について考えないことが多い。こうした人々は、神が自分の何を評価したいのか、自分から何を得たいと思っているのかを考えない。この捧げものに関する問題に直面したとき、こうした人々は、「これが目下の問題か。不注意にならず、よく注意する必要がある。それが何であれ、それは神の捧げ物だから、触れてはならない。」と考えるだけである。こうした人々は、そうした安易な考えで自分の責任を果たせると考えている。神はその試練の結果に満足するであろうか。あるいは、満足しないであろうか。あなた方の意見を述べて欲しい。(ある者が神を心から畏れているとすれば、神の捧げ物に触れることの出来る任務に直面した場合、神の性質が如何に侵害されやすいかを考えるので、間違いなく注意して取り組むであろう。)その考え方は正しいが、正解に達していない。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではない。それは、ある物事に直面した時、まず、それを神の采配によるもの、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた物事であることを認識し、また直面したその物事に対し、それを神の試練であるとすら捉える必要がある、ということである。この問題に直面する時、あなたには一定の基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考える必要がある。自分の責任を果たし、神に忠誠を尽くすために、その問題をどう扱うかを考慮する必要がある。神の怒りを買ったり、神の性質を侵害したりせずにそれを実行する方法を考慮する必要がある。つい先ほど、捧げ物を守る事について話をした。この問題には、捧げ物のほかに、あなたの任務、責任が関係する。あなたは、その責任について任務が課せられている。しかし、あなたがこの問題に直面した時、何らかの誘惑はあるか、というと、誘惑がある。その誘惑は何に起因するであろうか。その誘惑はサタンと、人間の邪悪で腐敗した性質に起因する。誘惑があるので、証しに立つことが関与する。証しに立つこともまた、あなたの責任であり、任務である。一部の人々は、「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言うが、その必要は本当にある。神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。

人間がそれほど気にかけない事柄、通常は話題とならない事柄は、取るに足らない些細な事柄であり、真理を実行することとは無関係であると考える人々が往々にしている。そうした人々がこのような物事に直面した場合、そうした人々は、それほど考慮することなく放置する。しかし、事実としては、こうした事柄は、あなたが学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓である。さらに、それ以上に配慮すべきことは、その問題が発生して自分が直面した時、神は何をしているかを知る事である。神は、あなたのすぐ側で共にいて、あなたの言うことなすことを観察し、あなたの行動を観察し、心の動きを観察している。これが神の業である。一部の人々は、「それでは、私がそれを感じないのは何故だろうか」と言う。あなたがそれを感じないのは、神を畏れ、悪を避ける道が、守るべき道として、あなたにとって最も大切な道となっていないからである。したがって、あなたは、人間の様々な考え方や行動に従って示される、神の人間に対する微妙な業を感じることが出来ない。あなたは注意力散漫である。大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。何度試練に遭遇しても、あなた方の心は神を賛美せず、神があなたのために計画した状況を、神からの試練もしくは試験としてそのまま受け入れない。そして、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃す。それは人間の大いなる反抗ではないだろうか。(その通りである。)神はそれを悲しむであろうか。(悲しむ。)神は悲しまない。わたしがこう言うのを聞いて、あなた方は再び驚いたであろう。結局のところ、神はいつも悲しむと既に聞いているではないか。神は悲しまないであろうか。それでは神は何時悲しむであろうか。いずれにせよ、神はこの状況が原因で悲しむことはない。それでは、上記のような行動に対して、神はどのような姿勢を取るであろうか。神が人間に与えた試練、試験を人間が拒否した場合や、人間がそれらを回避した場合、神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。ここでは「拒否」という言葉の意味には2つの階層がある。それをどのようにして説明すればよいだろうか。この言葉の深層には、嫌がる、嫌悪する含意がある。それではもうひとつの階層についてはどうだろうか。もうひとつの階層は、何かを諦めるという含意である。「諦める」の意味は、皆知っているであろう。つまり、拒否されるとは、このような行動をとる人間に対する神の最終的な反応を意味する。それは、極端な憎しみと嫌悪であり、見捨てられるという決断である。これが、神の道を一切歩んだことの無い者や、神を畏れ、悪を避けた事の無い者に対する、神の最終的な判断である。これで、皆わたしが説明した格言の重要性が理解できたであろうか。

これで、人間の結末を決める際に神が採る方法を理解できたであろうか。(毎日、様々な状況を計画することである。)毎日、様々な状況を計画することであるというのは、人々が感じ取り、認識可能な事柄である。そうした神の業の動機は何であろうか。それは、神が各人にそれぞれ異なる時期に、異なる場所で、異なる試練を与えたいと考えているということである。この試練では、人間のどの側面が試されるのであろうか。それは、あなたが遭遇したり、聞いたり、見たり、個人的に経験したりする物事すべてにおいて神を畏れ、悪を避けるような者であるかどうか、である。あらゆる者が、こうした試練を経験する。なぜなら、神は万人に対して平等であるからである。一部の人々は、「私は長年にわたって神を信仰しているが、未だに試練に遭遇しないのは何故だろうか」と言う。あなたが試練に遭遇したことが無いというのは、あなたのために神がある状況を計画した時、あなたは常にそれを真剣に捉えたことが無く、神の道を歩むことを望まなかったからである。そうしたわけで、単にあなたが神の試練に気付かなかっただけである。一部の人々は、「数回の試練に遭遇したが、適切な実行方法が分からない。私は実行したが、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、未だに分からない。」と言う。こうした状況にある者は少なからずいる。それでは、神が人間を評価する際の基準は何であろうか。それは先ほど述べた通りである。すなわち、あなたのする事柄、考える事柄、表現する事柄は、全て、神を畏れ、悪を避けるようなものであるか、である。これが、あなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを判断する方法である。この概念は簡素であろうか。言葉で表現すると簡素であるが、実行するのは容易であろうか。(あまり容易ではない。)あまり容易でないのは何故であろうか。(人間は神や、神が人間を全きものにする方法を知らないので、物事に対処する時に、問題解決のために真理を求める方法を知らないからである。人間が現実として神を畏れるようになるには、様々な試練、洗練、刑罰、裁きを経験する必要がある。)あなた方はそう言うが、あなた方にとって、神を畏れ、悪を避けることは、今すぐ容易に出来るように思える。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、あなた方が何度も説教を聞き、真理の現実に関して沢山受け取っているからである。そのことにより、理論や概念に関しては、神を畏れ、悪を避ける方法を理解することが出来ている。あなた方が神を畏れ、悪を避けることを実行することに関しては、そうした理論や概念は極めて効果的であり、容易に実行出来るように感じさせる。それでは、実際には人々がそれを実行出来ないのは何故であろうか。それは、人間の本質は、神を畏れず、悪を好むからである。それが本当の理由である。

神を畏れず、邪悪を避けないことは、神への反逆である。

まず、「神を畏れ、悪を避ける」という格言の由来について話をする。(ヨブ記である。)ヨブと言った者がいるので、ヨブについて話をする。ヨブの時代に、神は人間の征服と救いの業を行っていたであろうか。神はその業を行っていなかったであろう。そうであれば、ヨブは当時、神に関してどの程度の認識があったであろうか。(認識はそれほど多くなかった。)それでは、神に関して、ヨブの認識と今のあなた方の認識と比較すると、どうであろうか。あなた方が答えるのをはばかるのは何故だろうか。ヨブの認識は、今のあなた方の認識より多かったであろうか、少なかったであろうか。(少なかった。)質問の答えは明白である。ヨブの認識は、少なかった。それは確かである。現在、あなた方は、神や神の言葉と面と向かっているような状態である。あなた方の神に関する認識は、ヨブの認識よりも遙かに多い。わたしがこのことを取り上げたのは何故だろうか。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなた方に、ある事実を説明したいと思うが、その前に質問することがある。ヨブは神に関する認識が少ししか無かったが、神を畏れ、悪を避けることができた。それでは、現在の人間にそれが出来ないのは何故であろうか。(酷く堕落しているからである。)酷く堕落している、というのは、表面的な回答であるが、わたしは決してそう思わない。あなた方は、「酷い堕落」「神への反逆」「神に対する不忠」「不従順」「真理と繋がっていない」など、一般に言われている原理や言葉を挙げて、全ての疑問を説明しようとする。そうした行動は誤っている。性質が異なる複数の質問の答えとして、同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いが生まれる。わたしは、そうした回答を聞きたくはない。それを考えて欲しい。あなた方のうち、この問題を考えたことのある者はいないが、わたしは毎日欠かさずにその問題を見て、それを感じている。あなた方はそうした行動をとり、わたしはそれを見ている。あなた方がそうした行動を取っている時、この問題の本質を感じることは出来ない。しかし、わたしがその問題を見ると、わたしにはその本質が見え、それを感じることが出来る。その本質とは何であろうか。現在の人々が、神を畏れることも、悪を避けることも出来ないのは、何故だろうか。あなた方の回答では、この質問の本質を説明することが全く出来ず、この問題の本質を解決出来ない。なぜなら、この問題には、あなた方が知らない根源があるからである。その根源とは何であろうか。あなた方はそれについて話を聞きたいと思うであろうから、この問題の根源について話をする。

神が最初に業を行った時、神は人間をどのように見なしたであろうか。神は人間を救済した。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の業の対象、征服の対象、救いの対象、神が全きものとすべき対象と見なした。神が業を始めた当時、神の人間に対する姿勢は、このようなものであった。しかし、この当時において、人間の神に対する態度は、どのようなものであっただろうか。神は人間と疎遠であり、人間は神を見知らぬものとみなした。人間の神に対する姿勢は誤っており、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言えるだろう。そこで、人間は神に対して、自分の好きなように接し、行動した。人間には、神に関する観点があったであろうか。当初、人間には神に関する観点が無かった。人間が観点と呼んでいたものは、単に神に関する概念であり、想像であった。人間が持っていた概念に該当するものを人間は認め、該当しないものについては、表面上は従ったが、人間は強く反発し、反感を抱いていた。これが当初における人間と神の関係であった。つまり、神は人間を家族とみなしていたが、人間は神を見知らぬ存在として扱った。しかし、一定期間にわたる神の業の後、人間は神が何を実現しようとしているかを理解するようになった。人間は、神が真の神であり、人間が神から与えられ得るものごとが分かるようになった。この当時において、人間は神をどのようにみなしていたであろうか。人間は、神を命綱とみなし、恵みと祝福、約束を得ることを願っていた。その一方、この時点において、神は人間をどのようにみなしていたであろうか。神は、人間を征服対象と見なしていた。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望んでいた。しかしこの時点において、人間にとって、神は自分自身の目標を達成するために利用できるものであった。人間は、神により示された真理は征服と救いをもたらす能力があること、そしてそこには神から求める物事、人間が求める終着点を得る機会があることを知った。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、神に付き従うことを望んだ。その後しばらくして、人間は神に関する表面的な教義上の認識を得た。人間は次第に神と「馴染んで」いった、と言えるであろう。神の言葉や説教、神が与えられた真理、業などのため、人間は徐々に神に「馴染んで」いった。したがって、人間は、神が見知らぬ存在ではなくなった、人間は既に神に従う道を歩んでいるものと誤解した。現在に至るまで、人間は真理に関する説教を数多く聞き、神の業を数多く体験してきた。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の者が真理を実践することも、神に満足してもらうことも出来ない。人間は益々怠惰で自信を喪失した状態になっている。人間は、益々自分の結末が不明であると感じるようになっている。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしない。人間は不本意ながら流され、一歩ずつ前進する。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度は、どのようなものであろうか。神の唯一の願望は、そうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意することである。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ、悪を避けることが出来るような結末をもたらすことである。わたしの知る大部分の人々は、神の言葉を、教義であり、文書であり、従うべき規則であるとみなしている。人間が何かに取り組み、話をし、試練に直面する時、人間は、神の道を、人間が遵守すべき道として認識しない。人間が大きな試練に直面した時には尚更そうである。そのような時に神を畏れ、悪を避けようと実践している者を、わたしは見た事が無い。そのため、神の人間に対する姿勢は、激しい嫌悪と反感に満ちている。神が人間に対し、時には数百回にわたって繰り返し試練を与えても、神を畏れ、悪を避けることを望むという決意を示す明らかな姿勢が人間には見られない。人間にはこの決意が欠けており、またそうしたことを表現しないので、現在における神の人間に対する姿勢は、神が憐れみや寛容を示し、忍耐や我慢を示していた、以前の姿勢と同じではなくなってしまった。むしろ、神は人間に極めて深く落胆している。こうした落胆の原因となるのは、誰であろうか。神の人間に対するこのような姿勢を左右するのは、誰であろうか。それは、神に付き従うひとりひとりである。神の長年におよぶ業のなかで、神は人間に対して数多くの要求を伝え、人間のために様々な状況を計画した。しかし、人間がどのように行動するか、神に対する人間の姿勢がどのようなものかによらず、人間は、神を畏れ、悪を避けるという目標に明白に従って実行することが出来ない。したがって、そうした事柄をひとつの格言にまとめ、その格言を用いて、先ほど話をした、神を畏れ、悪を避けるという神の道を歩むことが出来ない理由に関して全て説明する。それは、どのような格言であろうか。その格言とは、神は人間を神の救いの対象とみなし、神の業の対象とみなす。人間は神を自分の敵とみなし、正反対のものとみなしている。あなた方は、これについて明確に理解したであろうか。人間の姿勢、神の姿勢、人間と神の関係といった事柄は、極めて明瞭である。如何に数多くの説教を聞いたとしても、あなた方が自分でまとめた事柄、すなわち神に忠誠であること、神に従うこと、神に従う道を求めること、人生を神と共に過ごすことを望むこと、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むことつまり神を畏れ、悪を避けることでは無い。そうではなく、こうした事柄は、あなた方が特定の目的を達成するための道筋である。これらの目的を達成するため、あなた方は一部の規則に不本意ながら従う。さらに、神を畏れ、悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を再び人間に反対する立場に置くのは、まさにこうした規則である。

本日話をしている問題は、多少重い内容であるが、どのようなものであったとしても、今後の経験において、わたしが述べた事柄をあなた方が実行できることを願っている。神を無視したり、空気のようなものとみなしたりしてはならず、自分に都合の良い時だけ神が存在するような気がするが、それ以外の時は神が存在しないような気がするようであってはならない。あなたが、無意識のうちにそのように認識している場合、あなたは既に神を激怒させている。おそらく「神を空気のようなものとみなしたことは無いし、常に神に祈りを捧げ、神に満足してもらっている。自分の行動もすべて神の要求されている範囲や基準、原則に該当する。自分は独自の考えで物事を進めてなどいない。」と言う者がいるかも知れない。物事に取り組む姿勢は確かに正しい。しかし、何らかの問題に直面した時、あなた方はどう思うであろうか。何らかの問題に直面した時、あなた方はどう実行するであろうか。神に祈りを捧げ、願い事をしているときだけ、神の存在を感じる者もいるであろう。しかし、問題に直面した時、そうした者は自分で考えた事に固執したがる。こうした行動は、神を空気のような存在とみなすものである。こうした状況において、神は存在しないとみなされている。人間は、神は、自分に神が必要な時だけ存在すべきであり、不要な時は存在すべきでないと考えている。人間は、自分の考えに従って行動すれば、それで十分であると考える。人間は自分が満足する方法で行動できると考えている。人間は、神の道を求める必要は無いと考えている。現在こうした状態、こうした状況にある者には、危険が差し迫っているのではなかろうか。一部の人々は、「危険が差し迫っているか如何によらず、自分は長年にわたり信仰を続けて来たし、神は私を見捨てることに耐えられないので、私を見捨てられないだろうと思う。」と言う。「私は、自分が母親の胎内にいた時から現在まで、通算40年から50年の間、主を信じている。時間に関して言えば、神に救われる者として最も適格である。生き残る者として、自分は最も適格である。この40~50年間のうちに、自分は家族も職務も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていた物すべてを捨てた。あれこれと贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこち名所観光をしたわけでもない。普通の人間が耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神が私を救えないとしたら、私は不当に扱われていることになり、そうした神は信じられない」と言う者もいる。こうした考え方の者は多いであろうか。(多い。)それでは、本日、あなた方が事実を理解できるよう支援しよう。こうした考え方の者は、全員墓穴を掘っている。なぜなら、自分の想像で自分の目を覆っているからである。神が人間に対して要求する基準を置き換え、神の真の趣意を受け入れるのを阻害し、神の真の存在を感じられないようにし、神により全きものとされる機会を喪失させ、神の約束に関与しないようにさせているのはまさに自分の想像であり、自分の結論である。

神が人間の結末を決定する方法とその基準

あなたは、自分自身の意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたに対する姿勢と神の考えを理解し、その後に自分自身の考えが正しいかを判断するする必要がある。神は、ある者の結末を決定する際に、時間の単位を用いたり、その者が経験した苦難の量を用いたりしたことは無い。それでは、人間の結末を決める際に神は何を用いるであろうか。時間の単位を用いて、ある者の結末を決めるというのは、人間の概念に最も合うものであろう。また、あなた方が頻繁に見かける者として、ある時には大いに献身的であり、多くの時間を費やし、多くの代償を払い、多くの苦難を経験する者もいる。あなた方の見地では、こうした者は神に救われる可能性のある者である。神が人間の結末を決定する際に用いる基準に関する人間の概念は、まさにこうした人々が示す事柄や生き方である。あなたが何を信じるかを問わず、わたしはこうした例を全て挙げない。要するに、それが神自身の考え方による基準でない限り、それは人間の想像に由来し、またそれは全て人間の考えである。自分自身の考えや想像に、盲目的に固執すると、最終的にどのような結果となるであろうか。自明であるが、その結果は、あなたが神に拒まれること以外に有り得ない。その理由は、あなたが常に自分の能力を神に誇示し、神と競い、神と争うばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の趣意や人間に対する姿勢を真に理解しようとしないからである。このような事を続けるということは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重するということである。あなたは自分自身を信じ、神を信じていない。神は、そうした人間を望まず、神がそのような人間を救うことも無い。もしあなたがこうした観点を捨てることができ、そうした過去の誤った観点を改めることができたならば、そして神の要求に従って行動できたならば、神を畏れ、悪を避ける道の実行を開始し、神をあらゆる物事の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義する際に、自分の個人的想像や観点、考えを用いないこと。その代わりに、あらゆる面において神の趣意を探求し、神の人間に対する姿勢を認識し、また理解し、神の基準を用いて神に満足してもらえるならば、それは素晴らしいことである。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味する。

人間の結末を決定する際に、神は、人間がどのように考えるか、人間の考え方や観点をその基準として用いないとすれば、神はどのような基準を用いるであろうか。神は試練を使って人間の結末を決定する。試練の使用により人間の結末を決定する際の基準は、2つある。第1の基準は人間が経験する試練の数であり、第2の基準はその試練における人間の成果である。これら2つの基準が、人間の結末を決める指標である。ここでは、その2つの基準について詳述する。

まず、あなたが神の試練に直面するするとき (注:あなたの観点では、この試練が小規模であり、述べる価値が無いと思われることもある)、神はあなたに対し、それが神の手であること、そしてその状況をあなたのために計画したのが神であることを、明白に認識させる。あなたの背丈が未熟な場合、神はあなたを試すために試練を計画する。これらの試練は、あなたの背丈に応じたもので、あなたが理解可能であり、耐えられるものである。あなたのどの部分が試されるのであろうか。それは、神に対するあなたの姿勢である。この姿勢は極めて重要であるか、というと、当然ながら、重要である。極めて重要である。なぜなら、この人間の姿勢が、神の望む成果であり、神にとって最も重要なものである。さもなければ、神が人間に対する取り組みとして、こうした業を行わないであろう。神は、これらの試練により、神に対するあなたの姿勢、あなたが正しい道を歩んでいるか、あなたが神を畏れ、悪を避けているかを確認することを望んでいる。したがって、その時点においてあなたの真理に関する理解が深いか浅いかを問わず、あなたは神の試練に遭遇し、あなたの真理に関する理解が深まるのに合わせて、神はあなたのために、引き続きそれに応じた試練を計画する。あなたが再び試練に直面した時は、神はあなたの観点や考え、神に対する姿勢が一定期間後に向上しているかを確認することを望む。一部の人々は、「神が常に人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。人間が真理をどのように実行するかを、神は既に見たのではないのか。それでもなお、神が人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。」と言う。これは無思慮な戯言である。神がそのような手順を採るということは、その手順には神の趣意があるということである。神は常に人間を人間の立場から観察し、人間の言動、ひとつひとつの行動や動き、さらには考えや意図などのすべてを見ている。人間の善行や過ち、罪、反逆や裏切りなど、人間に発生する全ての物事を、人間の結末を決める時の証拠として、神は記録する。神の業が段階的に進められるにつれ、あなたは一層多くの真理を聞き、肯定的なものや情報、真理の現実を一層多く受け入れる。この手順の過程において、神の人間に対する要求もまた増加する。同時に、神はあなたのために、以前よりも大きな試練を計画する。神の目的は、あなたの神に対する姿勢が、その間に成熟したかどうかを調べることである。無論、この間に神があなたに要求する視点は、あなたの真理に関する現実の理解に準拠するものである。

あなたの背丈が徐々に増加するにつれ、神があなたに要求する基準も高くなる。あなたが未熟な時、神はあなたに極めて低い基準を与え、あなたの背丈がそれより多少大きい場合、神は少し高い基準を与える。しかし、あなたが全ての真理を理解した後、神はどうするであろうか。神はあなたを、さらに大規模な試練に直面させるであろう。これらの試練で神が得たい物事や見たい物事は、あなたの神に関する認識の深化と真の畏れである。この時、神のあなたに対する要求は、あなたの背丈が未熟だった時よりも高く、そして「厳しく」なる。(注:人間はそれを厳しいと捉えるが、神はそれを妥当であるとみなしている。)神が人間に試練を与える時、神が造りたい現実は、どのようなものであろうか。神は、人間に対して自分の心を神に渡すよう、常に求めている。一部の人々は「どのようにして心を渡すのだろうか。私は本分を尽くし、自宅や生活を捨て、神のため費やしている。そうしたことは、自分の心を神に渡す例ではないか。そのほかに、どのようにして自分の心を神に渡すことができるだろうか。そうしたことは、自分の心を神に渡す例に該当しないことがあるだろうか。神の具体的な要求は、どのようなものだろうか」と言う。その要求は至って簡潔である。事実、自分の試練の様々な段階において、様々な程度で、既に自分の心を神に渡した者もいる。しかし、大部分の人々は、神に自分の心を渡したことが無い。神があなたに試練を与える時、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを調べる。神があなたに試練を与える時、神はあなたが神に敵対する立場に立っているかどうか、神に味方する立場に立っているかどうか、あなたの心が神と同じ側にあるかどうかを調べる。あなたが未熟な状態で試練を受ける時、あなたの真理に関する認識は限られているため、あなたの自信は極めて少なく、神の趣意を満足させるために何をする必要があるかを、正確に把握できない。それでもなお、あなたは心から誠実に、神に対して祈り、率先して神に自分の心を渡し、神をあなたの君主とし、最も貴重だと思う物事を神に捧げることが可能である。既に自分の心を神に渡している、とは、このことを指す。あなたが一層多くの説教を聞き、一層多くの真理を理解するようになると、あなたの背丈は次第に成熟してゆく。この時に神があなたに要求する基準は、あなたが未熟だった時の基準とは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求する。人間の心が次第に神へと渡された時、その心は次第に神へと近づいて行く。人間が真に神のもとへ近付いた時、人間の心は神を益々畏れる。神は、このような心を求めている。

神がある者の心を得ることを望んだ時、神はその者に様々な試練を与える。こうした試練の最中に、神がこの者の心を得ず、神には、その者に何らかの姿勢、すなわち、その者が神を畏れつつ物事に取り組んだり、振る舞ったりすること、あるいは悪を避ける姿勢や決意が見られなかったとする。こうした場合、幾つもの試練の後、神がこの者に示した忍耐は無くなり、神はその者を容赦しなくなる。神はその者に試練を与えなくなり、その者に業を行わなくなる。その結果、この者の結末はどうなるであろうか。その者の結末は無い。この者は悪業を働いたことがないかもしれない。また、この者は妨害や破壊を働いたことがないかもしれない。また、この者は公然と神に反抗したことがないかもしれない。しかし、この者の心は、神に対して隠されている。こうした者は、神に対する明確な姿勢や観点を持ったことがないので、神はその者の心が神に渡されていることや、その者が神を畏れ悪を避けることを望んでいることが、明確に認識出来ない。神は、このような者に対して忍耐を示さなくなり、代償を払わなくなり、憐れみを与えなくなり、その者に業を行わなくなる。この者の神を信仰する生活は、既に終わっている。なぜなら、神がその者に与えた数々の試練で、神は望ましい結果を得なかったからである。このように、聖霊により照らされ、導き示されている事がわたしには確認できなかった者が、多数いる。このような状況が起こり得るのは、なぜだろうか。こうした者は、長年にわたって神を信仰してきており、表面的には極めて活発な場合もある。こうした者は多くの書物を読み、多くの事柄に対処し、多くのメモを書き記し、言葉や教義を大量に習得している。しかし、その者には全く成長が見られず、神に対する観点も、明確な姿勢も見られない。つまり、その者の心が見えない。その者の心は常に包み隠され、封じ込められている。つまり、心は神に対して封じ込められており、神はその者の真の心や、神に対する真の畏れ、さらには、その者がどのように神の道を歩んでいるかを見たことが無い。現在まで、神がそうした者を得られなかったとしたら、神は将来その者を得られるか、というと、決して得ることが出来ない。神は、得られない物事にひたすら努力するか、というと、そのようなことは無い。それでは、そうした者に対する、現在における神の姿勢は、どのようなものだろうか。(神はその者を拒否し、気に留めることが無い。)神はその者を気に留めることが無い。神はそのような者を気に留めず、拒否する。あなた方は、この言葉を迅速かつ正確に記憶した。あなた方は聞いた話を理解したようである。

神に付き従い始めた時に未熟で無知であり、神の趣意を理解しておらず、神を信仰するということが何かを知らず、神を信仰し、神に付き従う方法として、人間が考案した誤った方法を採っている者がいる。こうした者は、試練に遭遇した時、それに気付かず、神による導きと示しに鈍感である。こうした者は、自分の心を神に渡すことや、試練に耐えるということが、どのようなことであるかを知らない。神は、このような者に、限られた時間を与え、その間に、神の試練とは何か、また神の趣意とは何かを理解させる。その後、この者は自分の考え方を示す必要がある。この段階にある者に関しては、神は待つ。観点にためらいがあり不安定で、心を神に渡したいが十分納得していないために渡すことができず、基本的な真理を実行してきたものの、大きな試練に遭遇すると、それを避けて諦めたいと思うような者について、神はどのような姿勢を取るであろうか。神は、こうした者に依然として一抹の期待をかけている。結果は、その者の姿勢と行動により異なる。人間が精力的に進歩を求めていない場合、神はどのように応じるであろうか。神は諦める。なぜなら、神があなた方を諦めるまえに、既にあなた方が自分で諦めているからである。したがって、あなた方は、神が諦めるのを咎めることはできないであろう。それが公平ではなかろうか。(公平である。)

実践的質問は人々に様々な困惑をきたす

前述した種類のほか、別の種類の者として、最も悲惨な結末を迎える者がいる。こうした者について話をするのは、わたしにとって最も気が進まないことである。こうした者が悲惨なのは、その者が神の罰を受けているからでも、神のその者に対する要求が過酷だからでも、悲惨な結末を迎えるからでもない。むしろ、その者が悲惨なのは、その結末が、その者の自業自得であり、いわゆる墓穴を掘っているからである。これはどのような種類の者であろうか。この者は正しい道を歩まず、かつその結末は事前に明示されている。神はそうした人々を、嫌悪の対象として最も相応しい者とみなす。よく言われるように、こうした者は最も悲惨である。こうした者は、神に付き従い始めた時は極めて熱心であり、多くの代償を払い、神の業の見通しについて好ましい意見を持っており、自分の将来について想像に満ちあふれ、ことさらに神について確信し、神は人間を全き存在とする、人間を栄光の道へと導くことが出来ると信じている。しかし、何故か、こうした者は、神の業の最中に、逃げ出してしまう。その者が逃げ出すとは、どのような意味であろうか。それは、その者が別れの挨拶もせずに消え失せてしまうということである。その者は無言で立ち去る。こうした者は、自分が神を信仰していると主張するが、神の信仰の道が定着していることは決して無い。したがって、こうした者は、何年信仰しても、神から立ち去ることがある。事業を始めるために去る者もいれば、自分の人生を送るために去る者や、富を得るために去る者、結婚して子をもうけるために去る者もいる。こうした去った者の中には、良心の呵責で戻りたいと思う者と、上手くいかずに世界を何年も流浪する者がいる。こうした流浪者は多くの苦難を経験し、この世界に存在することが耐えがたい苦痛であり、神から離れることは不可能であると考えている。こうした流浪者は神の家に戻って安らぎと平和、喜びを得ることを願い、災いを避けるためまたは救われて美しい終着点を得るために、神を信仰し続けたいと願う。なぜなら、そうした人々は、神の愛が無制限であり、神の恵みは尽きること無く、使い果たすことが出来ないものだと考えているからである。そうした人々は、誰が何をしたとしても、神はその誰かを赦し、その者の過去に対して寛容であるはずだと考えている。そうした人々は、戻って本分を尽くしたいと言う。自分の所持品の一部を教会に寄付し、そうすることで教会に戻れることを願う者もいる。こうした人々に対する神の姿勢は、どのようなものであろうか。神は、こうした人々の結末をどのようにして決めるであろうか。自由に発言して欲しい。(神はこうした者が戻ることを認めると考えていたが、今の話を聞いて、戻ることを許さないかも知れないと思う。)その理由は何であろうか。(こうした者は、死の結末を避けるために神の前に来る。こうした者は心からの誠意で戻ったのでは無い。むしろ、こうした者は神の業が間もなく終わることを知り、祝福を与えられるという妄想を抱いて神の前に来た。)それは、こうした者が神を誠実に信仰していないので、神は戻ることを許さない、ということであろうか。そうであろうか。(その通りである。)(私は、こうした者が日和見主義者であり、神を誠実に信仰していないと考えている。)こうした者は神を信仰するために来たのではなく、日和見主義者である。素晴らしい発言である。日和見主義者は誰もが嫌う種類の者である。日和見主義者は周囲に流され、見返りが無ければ何もしようとしない。当然こうした者は見下すべき者である。その他の者は、意見があるだろうか。(神はそうした者が戻るのを認めないであろう。なぜなら、神の業は終わろうとしており、人々の結末が決定されるのは、今だからである。そうした者は、そのような状況になった今、戻りたいと思っている。戻りたい理由は、真理を追究したいと心から思っているからでは無く、そうした者が災いが降るのを見たから、あるいは外的要因に影響されたからである。こうした者に真理を本当に求める心があったとしたら、途中で逃げ出したりはしなかったはずである。)その他の意見はあるだろうか。(戻ることを許されないであろう。神はそうした者に何度も機会を与えたが、その者の神に対する姿勢は、常に神を無視することであった。その者の意図が何であるかを問わず、そうした者が本当に悔い改めたとしても、神はそうした者が戻るのを許さないであろう。なぜなら、神は既にそうした者に多くの機会を与えたにもかかわらず、その者は既に自分自身の姿勢を示すものとして、神を去りたいと思った。したがって、その者が今になって戻ってきても、神は戻ることを許さないであろう。)(私も、神はそうした者を受け入れないと思う。なぜなら、人間が真の道を理解し、それほどの長期間にわたって神の業を経験してなお、サタンを信奉する世界に戻ったならば、それは神に対する大いなる裏切りである。神の本質は憐れみや愛であるものの、そうした憐れみや愛の対象となる者がどのような者であるかによる。その者が安らぎと望みをかけられる何かを求めて神の前に来たのであれば、その者は神を誠実に信仰する者ではなく、その者に対する神の憐れみは、それに相応するものとなる。)神の本質は憐れみであるが、それでは何故、こうした者にもう少し憐れみを与えないのであろうか。少し憐れみが与えられれば、その者には機会が与えられるのではないだろうか。以前は、神はあらゆる者を救うことを望み、誰ひとりとして滅びることを望まない、と言われていた。百匹の羊のうち、1匹が迷い出た場合、神は99匹のひつじを残し、その迷い出ている羊を捜しに出かける。現在、こうした者について、真の神への信仰のため、神はそうした者を受け入れ、もう一度機会を与えるべきであろうか。これは難しい問題ではなく、極めて平易であり、簡明である。あなた方が神を真に理解し、神に関する真の認識があるならば、それほど多くの説明も、推量も不要であろう。あなた方の答えの考え方は正しいが、答えと神の姿勢には依然として差がある。

あなた方のなかに、神はそうした者が戻るのを許さないと確信している、と答えた者がいた。その他の者は、それほど確信が無く、神は許すかもしれず、また許さないかも知れないと考えている。この姿勢は、比較的穏健である。また、神がそうした者が戻るのを許すことを願う、という観点の者もいた。この姿勢は曖昧である。確信のある姿勢の者は、神が現在まで行ってきた業は完了しており、神はそうした流浪者に対して寛容である必要がなく、こうした流浪者は戻ることを許されない、と考えている。穏健な者は、この問題はその流浪者の状況にしたがって対処すべきであると考えている。すなわち、その流浪者の心が神から切り離すことが出来ないものであり、その流浪者が神を真に信仰し、真理を求めるものであるならば、神はその流浪者の過去や、従前の弱さ、過ちを覚えていないはずで、神はその流浪者を赦し、もう一度機会を与え、神の家に戻し、神の救いを与えるはずだと考えている。しかし、この流浪者が再び逃げ去った場合、神はこの者を求めなくなり、それはこの流浪者に対する不正であるとは考えられない、と考えている。それ以外に、神がその流浪者が戻るのを許すことを願う人々もいる。この人々は、神がその流浪者が戻るのを許すかどうかを明確に知らない。神がその流浪者が戻るのを許すべきであると考えているが、神がその流浪者が戻るのを許さなかった場合、この意見の人々は、神の観点に準拠していない部分が多少あると考えられる。こうした人々が、神がそうした流浪者が戻るのを許すべきで無いと考えていて、神が、人間への神の愛は無限であり、その者にもう一度機会を与えたいと述べたとしたら、それは人間の無知さが白日の下に晒された例ではなかろうか。いずれにせよ、あなた方には、それぞれ自分の意見がある。そうした観点は自分自身の意見の認識であり、真理や神の趣意に関する自分の理解の深さが反映されたものである。これが的確な言い方であろう。この件について、あなた方が自分の意見を持っているというのは、素晴らしい事である。しかし、あなた方の意見が正しいかどうかについては、疑問が残る。あなた方は、多少不安ではなかろうか。「それでは何が正しいのだろうか。明確に分からないし、神が正確にはどうお考えかを知らない。神は私に何も述べられていない。どうすれば、神が考えられている物事を知ることが出来るだろうか。人間に対する神の姿勢は、愛である。今までの神の姿勢によれば、神はこの流浪者が戻るのを許されるに違いない。しかし、現在の神の姿勢については、明確に知らない。神はその者が戻るのを許されるかもしれないし、許されないかもしれない、としか言えない。」これは不条理ではないか。あなた方は、この問題に極めて困惑している。この問題について、適切な意見が無いのであれば、あなた方の教会でこのような流浪者に対処する場合、あなた方はどうするであろうか。この問題に適切に対処しなければ、恐らく神の怒りを買うだろう。これは危険な問題ではないだろうか。

わたしが話をしている問題について、わたしは何故、あなた方の意見を聞きたいのだろうか。わたしは、あなた方の観点を試し、あなた方の神に関する認識がどれほどかを試し、神の趣意や神の姿勢に関する、あなた方の理解がどれほどかを試したいと考えているからである。その答えは何であろうか。その答えは、あなた方の観点にある。あなた方の中には、極めて保守的な者や、想像で推測している者がいる。「推測」とは、何であろうか。推測とは、神がどう考えるかに関して全く知らないので、神がこう考えているであろう、ああ考えているだろうといった事に関する根拠の無いことを思いつくことである。あなた方は、自分の推測が正しいか、誤りかを実際には知らないので、曖昧な意見を述べる。この事実から、何が分かるであろうか。神に付き従う時、人間は、神の趣意を配慮したり、神の考えや神の人間に対する姿勢に留意したりすることが、ほぼ無い。あなた方は神の考えを理解していないので、神の趣意や性質に関する質問をされると、混乱し、確信するのが極めて困難になり、推測したり予想したりする。その姿勢は何を意味するであろうか。その姿勢は、神を信仰する者の大部分は、神を空気のような不明瞭なものとみなしているという事実を証明するものである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、毎回あなた方が問題に遭遇する時、あなた方は神の趣意を知らないからである。あなた方がそれを知らないのは何故だろうか。あなた方がそれを知らないのは、現在に限らない。あなた方は、最初から最後まで、こうした問題に対する神の姿勢を知らない。あなたは、神の姿勢が見えず、分からない時、それについて考えたことがあるであろうか。それを模索したことがあるであろうか。それを伝えたことがあるであろうか。そのようなことは無い。これにより、あなたが信仰する神と、真の神とは、無関係であるという事実が裏付けられる。あなた方は神を信じているが、自分や、自分の主導者の意志、神の言葉の表面的かつ教義的な意味のみを考え、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることは全く無い。これが現状ではないだろうか。この問題の本質は酷いものである。わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。自分が神の性質を侵害しても、神は自分達を救うことが出来ると考えている者さえいる。これは、そうした人々が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていることが無い。人間の過失や侵害、不従順は、その者の性質の一時的な現れであるので、神は人々に対して機会を与え、寛容かつ辛抱強い。神は、そうした人々を今まで同様、愛するであろう。したがって、依然として救いの希望は大いにあると考えていることが原因である。事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。

神の姿勢を理解し、神に関する誤解を全て解消すること

あなた方が現在信仰している神について、その神がどのような存在であるかを考えたことがあるであろうか。神が邪悪な者が邪悪な事をしているのを見た場合、神はそれを嫌悪するであろうか。(嫌悪される。)無知な人々の過ちを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(悲しみである。)人々が捧げ物を盗むのを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(その人々を嫌悪される。)それは至って明白であろう。神への信仰において不注意であり、真理を全く追究していない者を神が見た場合、神の姿勢はどのようなものであろうか。あなた方は、これについて明確に理解していないであろう。不注意な姿勢は罪では無く、また神の怒りを買うものでもない。人間は、不注意が重大過失では無いものと考えている。それでは、神の姿勢はどのようなものだと思うであろうか。(神はそれに応じることを望まない。)神はそれに応じることを望まない、というのは、どのような姿勢であろうか。神はそうした人々を見下し、さげすむということである。神はそうした人々を冷遇する。神は、こうした人々を放置し、こうした人々に対して導き示すこと、照らすこと、懲らしめること、訓練することなど、一切の業を行わない。この種の人々は、神の業の対象から除外されている。神の性質を怒らせ、神の行政命令に反する者に対し、神はどのような姿勢をとるであろうか。その姿勢は、極度の嫌悪である。神は、神の性質を侵害する者に対し、極度に怒る。「怒り」は単なる感情ないし気持ちであるので、明白な姿勢となって現れない。しかし、この感情ないし気持ちにより、その者の結末が決定される。その結末は神を極度の嫌悪で満たす。こうした極度の嫌悪の結果はどのようなものとなるであろうか。それは、神はその者を見捨て、暫くその者に応じなくなるという結果となる。神は、懲罰の期間にその者が懲らしめを受けるのを待つ。それは何を暗示するであろうか。その者には、依然として結末があるであろうか。神には、そのような者に結末を与えるつもりはが無い。したがって、現在、神がそうした者に応じないのは、普通のことではなかろうか。(その通りである。)このような者は、その場合にどのような準備をする必要があるであろうか。こうした者は、自分の態度と、邪悪な行いに起因する望ましくない結果を受ける準備をする必要がある。それが、こうした人々に対する神の姿勢である。そうしたわけで、わたしはそのような者にはっきりと言っておくが、妄想を捨て、楽観視しないようにすること。神は、人間に対して無限に寛容ではなく、また人間の侵害や犯行を無限に堪え忍ぶことは無い。一部の人々は「自分もそうした人々を知っている。そうした人々は、祈りを捧げる時、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。通常、そうした人々は極めて機嫌が良く、そうした人々には神の存在や導きが与えられていると思われる」と言う。そのような戯言を言わないように。大いに涙を流しているのは、必ずしも神に感激することでも、神が存在することでも無く、ましてや神の導きでは無い。神に対して人間が怒りを買った場合、それでも神は人間を導くであろうか。要するに、ある者を神が排除し、見捨てることに決定した場合、その者には既に結末が無い。その者が祈りを捧げている時にどれほど自己満足しているか、その者の心にある神にどれほど確信があるかは、無関係であり、既に重要ではなくなっている。重要な事は、神にはそのような確信は無用で、神が既にその者を拒否したということである。その後に、その者をどのように取り扱うかも、重要では無い。重要な事は、この者が神の怒りを買った時、その者の結末は既に決定されている、ということである。神がそうした者を救わないと決定した場合、そうした者は置き去りにされ、罰せられる。それが神の姿勢である。

愛は神の本質の一部であり、また神は全ての人間に憐れみを与えるが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまう。神に愛があることは、人間が自由に神に反することが可能であり、神には感情も反応も無い、ということではない。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則が無い、ということではない。神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。そのようなことをするというのは、あなた方は神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の威厳を挑発しているに等しい。したがって、あなた方がこの問題の重要性を理解した後は、あなた方全員が自分の行動に注意し、用心することを勧める。自分の言葉に注意し、用心すること。あなた方が神をどのように取り扱うかについて、注意し、用心すればするほど良い。神の姿勢が分からない場合、不注意に発言したり、行動したり、レッテルを貼ったりしないこと。更に、みだりに結論を出さず、待つことと求めることが必要である。それもまた、神を畏れ、悪を避けることの現れである。あなたが、まずその点を実現し、そうした姿勢を取ることが出来れば、神はあなたの愚かさや無知さ、不合理さを咎めることは無いであろう。むしろ、神の怒りを買う事に対するあなたの畏れ、神の趣意に対するあなたの敬い、喜んで神に服従しようとするあなたの気持ちのおかげで、神はあなたに留意し、あなたを導き示し、あるいはあなたの未熟さと無知さに寛容になるであろう。それに対し、あなた方の神に対する姿勢が不適切である場合、すなわち勝手に神を裁いたり、神の意味を推測したり定義したりした場合、神はあなた方に有罪判決を下し、鍛錬、そして懲罰さえも与え、あるいは声明を与えるであろう。おそらく、この咎めには、あなたの結末が含まれているであろう。したがって、ここにいるあなた方全員に対して、この点をもう一度強調するが、神に由来する物事全てについて、注意し、用心するよう伝える。不注意な行動や言動は避けること。あなたは、発言する前に、この行動は神の怒りを買うであろうか、これは、神を畏れているであろうか、と考える必要がある。たとえ単純な事柄であっても、こうした疑問を検討し、考慮する必要がある。あなたが、全てのことにおいて常に、特に自分が知らない事柄に関し、あらゆる点でこうした原則に従って真に行動できるのであれば、神は常にあなたを導き、あなたに進むべき道を伝えるであろう。人間が何を表現しているかを問わず、神はそれらを全て明確にそのまま理解し、表現されたものを正確かつ適切に評価するであろう。最期の試練を経験した後、神はあなたの行動を検討し、それらを完全に概括し、あなたの結末を決定する。この結果は、あらゆる者にとって何の疑いもなく納得できるものであろう。わたしが述べたいのは、あなた方のあらゆる行動や考えが、あなた方の運命を決める、ということである。

人間の結末を決定するのは誰か

重要度が最も高い部類に入る事柄がもう一つある。それは、あなた方の神に対する姿勢である。この姿勢は極めて重要である。この姿勢により、あなた方が最終的に滅びへ向かうか、神があなた方のために計画した美しい終着点へ向かうかが決定される。神の国の時代においては、20年以上にわたり、既に神は業を行っている。その20年間において、おそらくあなた方は、自分の実績について、心中に疑問があるであろう。しかし、神の心の中では、あなた方各人について、実際に正確な記録を取っている。各人が神に付き従い、神の説教を聞き始めた時から始まり、更に真理を理解するようになり、自らの本分を果たす時まで、神はそうした各人の示した事柄全てを記録している。ある者が自分の本分を尽くした時、あるいは様々な難しい状況や試練に遭遇した時、その者の姿勢は、どのようなものであろうか。この者は、どう行動するであろうか。この者は、心の中で、神に対して、どう感じるであろうか。神は、そうしたすべてを考慮し、記録している。あなた方の立場から見ると、これらの問題は難解かも知れない。しかし、神の立場から見ると、それは全て明瞭であり、いいかげんな部分は少しも無い。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題である。さらに、この問題は、神が自らの献身的努力の全てが注がれる問題である。従って、神は少しも怠ることは無く、ほんの僅かな不注意も許さない。神はこの人類の調書を記録し、神に従う人間の最初の時から終わりの時に至る調書を記録している。この期間におけるあなた方の神に対する姿勢により、あなた方の運命が決定される。これは真実ではなかろうか。現在まで、あなた方は神が義であると信じているであろうか。神の業は適切であろうか。あなた方は、依然として別の姿の神を頭の中で考えているであろうか。(考えていない。) それならば、人間の結末を定めるのは、神であろうか、それとも人間自身であろうか。(神が定められるものである。)誰が結末を定めるであろうか。(神である。)あなた方は、そのことを確信しているであろうか。香港の教会の兄弟姉妹の意見を聞こう。それを定めるのは誰であろうか。(それは人間自身が定める。)それは人間自身が定めるというのか。それは、人間の結末が神と無関係だということではなかろうか。韓国の教会の方々の意見を聞こう。(人間の結末は、人間の行動全てと、歩んで来た道に基づいて神が定められる。)それは非常に客観的な答えである。ここで、あなた方全員に伝えなければならないことがある。それは、神の救いの業の過程において、神は人間に対して基準を設定する。この基準とは、人間が神の言葉に従い、神の道を歩むことである。人間の結末を計る基準は、この基準である。この神の基準に従って実行した場合、良い結末が得られ、そうでない場合は、良い結末は得られない。それでは、この結末を定めるのは誰であるとあなた方は言うだろうか。それは神が単独で定めるのではなく、神と人間が共に定めるものである。それは正しいだろうか。(その通りである。)それは何故であろうか。それは、人間の救済に着手し、美しい終着点を計画することを希望しているのは、神であり、人間は神の業の対象であり、その結末と終着点は神が人間のために計画するものだからである。神の業の対象が存在しなかったならば、神は業を行う必要が無かった。神が業を行わなかったとしたら、人間には救いの機会が無い。救いの対象は人間であり、人間はその過程で受動的立場にあるが、神による救いの業が成功するか如何を決定するのは、この人間の立場の姿勢である。神があなたに与える、神の導きが無ければ、あなたは神の基準を知る事が出来ず、したがってあなたは目標が無くなってしまう。あなたにこの基準と目的があり、しかしあなたが協力せず、実践せず、代償を払わなかった場合、依然としてその結末を得られないであろう。これが、この結末が神と不可分であり、人間とも不可分であると言う理由である。これで、あなた方は人間の結末は誰が決めるかを理解したであろう。

人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある

神を知ることに関する事項を伝えている時、気付いたことはあるだろうか。現在における神の姿勢に変化があったことに気付いたであろうか。神の人間に対する姿勢は変化しないものであろうか。神は常にそのように寛容で、神の愛と憐れみの全てを無制限に人間に与えるであろうか。この問題には、神の本質も関与する。以前にも話をした、放蕩息子と呼ばれる話の質問をもう一度検討する。この質問に対するあなた方の回答はそれほど明確では無かった。つまり、あなた方は、神の趣意を十分に理解していないということである。神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。こうした考えは正しいであろうか。神の本質や神の性質に関する事項を議論する時、あなた方は毎回混乱しているようである。あなた方がそのような状態であるのを見ると、少し腹が立つ。あなた方は、今までに神の本質に関して多の真理を聞き、神の性質に関しても、数多くの事項について話を聞いてきた。しかし、あなた方の心の中では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文書に基づく記憶でしかない。あなた方のうち、神の性質が何であるかを実生活で体験したり、神の性質が何かを理解したり出来るものはいない。したがって、あなた方は全員、その信仰において思考が混乱し、盲目に信仰した結果、神に対して不適切な姿勢を取るようになり、神を払いのけるようになった。あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。わたしはそう理解している。あなたは、引き続き「私は神を信じる」「私は真理を求めている」「私は自分の性質を変えたい」「私は闇の影響から解放されたい」「私は神に満足してほしい」「私は神に服従したい」「わたしは神に忠実であり、自分の本分をしっかり尽くしたい」などと言うかも知れない。しかし、あなたの言うことがどれほど好感の持てるものであったとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど印象深いものであったとしても、どれほど高潔であったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使い、神に関する結論を導き出して、何の違和感も無く神を自分に反対する存在としまっている。あなたは文書や教義を身に付けていたとしても、本当に真理の現実に入っていないので、神に近付き、知り、理解することは極めて困難である。これは極めて哀れである。

わたしは、ビデオで、ある場面を見たことがある。その場面では、数名の姉妹が『言葉が肉において現れる』の書籍を高く掲げていた。これらの姉妹は、この書籍を自分達の中央に、自分達の頭よりも高く掲げていた。これは単なる映像であるが、その映像により、わたしの中で喚起された事は、映像では無い。むしろ、その映像でわたしが考えたことは、人々が心の中で高く掲げているのは、神の言葉ではなく、神の言葉が記された書籍である、ということである。それは極めて憂鬱なことである。そのような実践のしかたは、神を高く掲げることでは無い。それは、あなた方が神を理解していないので、極めて明瞭な、些細な疑問に対して、自分自身で答えを考え出さなければならないことが原因である。わたしがあなた方に対し、何かを真剣に質問する時、あなた方は自分の予想や自分自身の想像で答え、疑念のある口調で、わたしに質問を返す者もいる。これにより、あなた方が信じる神が真の神ではないと、わたしは一層はっきりと確信する。神の言葉を長年にわたり読んで来たあなた方は、神の言葉や業、そして更に多くの教義を用いて、再び神に関する結論を出す。さらに、あなた方は神を理解しようとしたことはなく、神の趣意を理解しようとしたこともなく、神の人間に対する姿勢や、神がどのように考えるか、神が悲しむのは何故か、神が怒るのはなぜか、神が人間を拒否するのは何故かなどの疑問を理解しようとしたことが無い。また、それ以上に多くの者が、神は人類の行動を観察しているのみであり、神は人間に対していかなる姿勢を取ることも無く、神が神自身の考えを持つことも無く、したがって神は常に沈黙していると考えている。それとは別に、一層深刻な行動を取る部類の人々もいる。この部類の人々は、神は黙って従っているので何も発言しないと信じている。神は待っているために何も発言しない、神はこれといった姿勢がなく、神の姿勢は既に書物で説明されていて、人間に対して完全に示されていて、何度も繰り返し人間に伝えられる必要はないので、神は発言しないと信じている。神は黙しているものの、依然として神には姿勢があり、観点があり、人間に対して要求する基準を持っている。人間は神を理解し、神を求めようとしないものの、神の姿勢は極めて明瞭である。かつて熱狂的に神に付き従っていたが、ある時点で神を捨て去った者がいたとする。その者が、今神の許へ戻りたいと思った場合、驚いたことに、あなた方は神がどのような見方をするか、どのような姿勢を取るかを知らない。これは痛ましいことではなかろうか。実際には、これは極めて表面的な事である。あなた方が神の心を真に理解したならば、そうした者に対する神の姿勢を知り、あなた方が曖昧な回答をすることは無いであろう。あなた方はそれを知らないので、わたしがあなた方に知らせたい。

神の業の最中に逃げ出す者に対する神の姿勢

こうした者はいたる所で見受けられる。こうした者は、神の道について確信した後、諸事情により黙って挨拶もせずに立ち去り、自分の心が望むように行動する。この者が立ち去る理由については、今は話をしない。まず、こうした者に対する神の姿勢について話をする。それは極めて明瞭である。神の観点から見ると、この者が立ち去った時点で、その者の信仰は終わる。それを終わらせたのは、その者ではなく神である。この者が立ち去ったということは、その者が既に神を拒否し、神を求めていないことを意味する。それは、既にその者が神の救いを受け入れないということを意味する。その者が神を求めていないのであれば、神は依然としてその者を求めることができるであろうか。さらに、この者にそうした姿勢と観点があり、神から去ることを決心している場合、この者は既に神の性質を侵害している。たとえ、そうした者が神に対して怒りを爆発させることも神を罵ることも無く、下劣な行動や過度の行動を取ることも無く、またその者が、「外で十分楽しんで満足するか、神が何らかの理由で再び必要になったら、戻って来よう」、あるいは、「神に呼ばれたら、戻って来よう」などと考えていても、この者は既に神の性質を侵害している。あるいは、こうした者は、「外で傷付いて、外界の闇が暗過ぎて邪悪過ぎて、世の中に流されたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう」などと言う。この者は、いつになったら戻るかを自分の心で計算し、戻る可能性を残しているものの、自分でどのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことに気付かない。こうした者の最大の過ちは、自分が立ち去りたいと考えた時、神がどう感じるかが不明瞭なことである。その者が神のもとから立ち去ろうと決めた時から、神は完全にその者を見捨て、心の中でその者の結末を既に決めている。それはどのような結末であろうか。それは、その者がハムスターのような存在のひとつに過ぎず、ハムスターと共に滅びるということである。そして、こうした状況は頻繁に見受けられる。ある者が神を見捨てても、その者は罰を受けない。神は、神自身の原則に従って対処する。人間に見える物事もあるが、神の心の中だけで結論付けられるので、人間にはその結果が見えない。人間に見える物事が必ずしもその物事の真の側面であるとは限らず、人間には見えない側面こそが、神の心の本当の考えと結論である。

神の業の最中に立ち去る者は、真の道を捨てる者である

それでは、神がそうした者に深刻な罰を与えるのは何故だろうか。神がそうした者に対して激怒しているのは、何故だろうか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたし達全員が知っている。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではない。 神は人間の言いなりになる空気のような存在でもない。あなたが神の存在を本当に信じているならば、神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知る必要がある。この怒りを引き起こすものは、言葉かもしれないし、考えやあるいは下劣な行動かもしれない。あるいは穏やかな行動、人間の目と倫理から見て容認できる行動、教義、理論などに起因する場合がある。しかし、あなたがひとたび神の怒りに触れると、あなたの機会は失われ、あなたは終わりの時を迎える。それは極めて悲惨なことである。神に反することが許されないということを理解していなければ、あなた方は神を畏れず、常に神に反している可能性がある。どのようにして神を畏れるかを知らなければ、神を畏れることは出来ず、どのように神の道を歩み、神を畏れ、悪を避ければよいか分からない。それを知った後は、神に反してはならないことを意識し、神を畏れ、悪を避けるとは何かを知ることが出来るであろう。

神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしもどの程度真理を知り、どれほどの試練を経験し、どの程度鍛錬してきたか、ということではない。むしろ、それは、神に関して、あなたの心の真髄は何か、あなたの神に対する姿勢がどのようなものかによる。人間の本質と主体的姿勢が極めて重要な鍵である。神を捨て去った者に関し、そうした者の神に対する卑劣な姿勢と真理を軽視する心により、神の性質が侵害される。こうした者が神に赦されることは決して無いであろう。既にこうした者は神の存在を知り、神は既に来たという知らせを受け、神の新たな業を経験してさえいる。こうした者が立ち去ることは、迷いに起因する事例でも、その事に関する理解が不明瞭であった事例でもない。まして、そうした者は、強制的に立ち去らされたものでは決して無い。むしろ、それはそうした者が意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだものである。そうした者が立ち去ったのは、道を見失ったものでも、捨て去られたものでもない。したがって、神の目から見ると、そうした者は群れから迷い出た羊と同様の事例では無く、ましてや道を見失った放蕩息子と同様の事例でも無い。こうした者は罰を受けずに立ち去った者であり、そうした条件や状況により、神の性質が侵害され、その侵害に鑑みて、神はその者に絶望的な結末を与える。こうした結末は恐ろしいものではないだろうか。したがって、ある者が神を知らない場合、その者は神を侵害する恐れがある。それは決して些細なことでは無い。ある者が、神の姿勢を真剣に受け止めず、またその者は迷える子羊であり、神はその者が改心するのを待ち、その者が戻るのを心待ちにしていると考えているとしたら、その者は罰の日からそれほど離れていない。神はその者が戻るのを拒むだけではない。それは、その者が神の性質を侵害した2度目の事例であり、さらに酷い問題である。その者の不適切な姿勢により、神の行政命令が既に犯されている。神はその者が戻るのを許すであろうか。こうした問題に関する神の原則は、その者が既に真の道を確信しつつ、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神から離れた場合、神はその者の救いの道を遮断し、神の国の門は、それ以降その者に対して閉ざされる。その者が再び現れて門戸を叩いても、神はその者のために扉を二度と開かないであろう。その者は、永遠に閉め出される。あなた方のうちには、聖書のモーセに関する聖句を読んだことがある者がいるであろう。神がモーセに油を注いた後、250人の指導者たちは、モーセの行動などを理由として、それに不服であった。こうした指導者たちが従うことを拒んだのは、誰であろうか。それはモーセではない。この指導者たちは、神の計画に従うのを拒み、それに関する神の業に従うのを拒んだ。その指導者たちは「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、…」と言った。人間から見て、この言葉は極めて深刻であろうか。この言葉は全く深刻でない。少なくとも、この言葉の文字通りの意味は、深刻ではない。法的な意味では、これらの者は何ら違法ではない。なぜなら、これらの者の言葉は、表面的には敵対的な表現や語句は無く、ましてや冒涜的意義も無いからである。発言内容には、一般的な文しか含まれていない。それでは、こうした語句が神の怒りに触れる理由は何であろうか。なぜなら、これらの者は、人間でなく神に対して語っているからである。これらの者が示した姿勢と性質は、まさしく神の性質、特に侵害してはならない神の性質を侵害するものである。これらの者の結末は、皆知っている。神を捨てた人々に関し、その人々の観点はどのようなものであろうか。その人々の姿勢はどのようなものであろうか。さらに、その人々の観点と姿勢の結果として、神がその人々をそのように扱う結果になったのは何故であろうか。それは、その人々が、それが神であることを明確に認識しつつ、神を裏切ることを選んだからである。その人々が救いの機会を完全に剥奪されたのは、そのためである。それは聖句にある通りである。すなわち、「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」この問題について、明確に理解したであろうか。

人間の運命は、神に対する人間の姿勢で決定される

神は、生きている神であり、人間が様々な状況に対して様々な方法で対応するように、そうした行動に対する神の姿勢も異なる。なぜなら、神は操り人形でも、空気のような存在でもないからである。神の姿勢について知ることは、人間にとって追究の意義があることである。人間は、神の姿勢を知ることにより、神の性質を知り、神の心を少しずつ理解できることを知る必要がある。神の心を少しずつ理解する時、神を畏れ、悪を避けることは、実行するのが困難だとは感じなくなるであろう。さらに、あなたが神を理解した時、神に関して結論を出すことは、それにも増して困難である。神に関する結論を出すことを止めた時、あなたが神を侵害する可能性が低下し、無意識のうちに神はあなたを導いて神に関する認識を与え、よってあなたは、心から神を畏れるようになるであろう。あなたは、自分が習得した教義や文書、理論などで神を定義するのを止めるであろう。そのかわりに、万事において神の趣意を常に求めることにより、あなたは無意識のうちに神の心を求める人間となる。

神の業は、人間が目で見ることも触れることも出来ないものであるが、神に関しては、各人のあらゆる行動と、神に対する姿勢は、神にとって認識できるだけでなく、見ることが出来るものである。このことは、全ての人が認識し、明確に理解する必要のある事柄である。あなたは、常々自分に対して「神は、私がここで何をしているか知っているだろうか。神は、私が今何を考えているか分かるだろうか。知っているのだろうか、それとも知らないのだろうか。」などと問いかけるであろう。あなたがこのような観点で、神に付き従い、神を信仰しつつ、神の業や存在を疑っているのであれば、遅かれ早かれ神の怒りに触れる日が訪れるであろう。なぜなら、あなたは既に危険な崖の縁をよろめき歩いているからである。これまでに、長年にわたり神を信仰し続けてきたものの、真理の現実を未だに得ておらず、神の心を理解していない人々を大勢見てきた。こうした者のいのちの背丈は、極めて浅薄な教義に従うだけで、全く進歩していない。これは、そうした者が、神の言葉を自らのいのちとして捉えず、神の存在を直視して神の存在を認めたことが無いからである。あなたは、神がこうした者を見て、喜びに満たされると思うであろうか。こうした人々に神の心が安らぐであろうか。その場合、人間の運命は、人間が神を信仰する方法により決まる。問題となるのが、あなた方がどう神を求めるかであれ、どう神を扱うかであれ、最も重要なのは、あなた方の姿勢である。神を、あなた方の頭の後ろにある空気のようなものとして軽視しないこと。あなた方が信仰する神を、常に生きている神、実在する神と考えること。神は手持ち無沙汰で第三の天にいることは無く、神は常に人間それぞれの心や、それぞれ何をしているか、些細な発言や行動、神に対してどのような態度であるか、どのような姿勢であるかを、くまなく見ている。あなたが進んで自らを神に捧げるか如何を問わず、あなたのあらゆる態度、心の奥深くにある考えや思いのすべてが、神の前にあり、神に見られている。あなたに関する神の意見や姿勢は、あなたの態度、行動、神に対する姿勢に従って、継続的に変化している。あたかも神があなたを溺愛しなければならず、神があなたから離れることが出来ず、神のあなたに対する姿勢が永遠に変わらないかのように、神の手の中にいる乳児のような立場に自らを置く者に勧告するが、そのような空想は捨てること。神は、人間ひとりひとりの扱いにおいて、義である。神は、人間の征服と救いの業に、熱心に取り組んでいる。それが神による経営である。神は人間ひとりひとりを、愛玩動物のようにではなく、真剣に取り扱う。神の人間に対する愛は過保護や甘やかしではなく、人間に対する神の慈悲と寛容は、大目にみることでも無頓着でもない。むしろ、神の人間に対する愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことである。神の哀れみと寛容は、神の人間に対する期待を伝えるものであり、人類の存続に必要なものである。神は生きており、実在する。神の人間に対する姿勢には原則があり、一切独善的ではなく、また変化しうるものである。人類に対する神の心は、時間や状況、各人の姿勢に従って、徐々に変化している。したがって、あなたは、このことについて明確に理解し、また神の本質は変化し得ず、神の性質は様々な時期に様々な状況で表出することを理解すべきである。あなたはこれが深刻な問題であると考えず、自分自身の考え方を用いて、神がどのように業を行うべきかを想像するかも知れない。しかし、あなたの観点とは全く正反対の物事が真実である場合もあり、自分自身の考え方で神を試みて神を測ることにより、あなたは既に神の怒りを買っている。これは、神はあなたが考えるように物事を対処するのではなく、またこの問題に対する神の対処方法も、あなたが言うような方法では無いからである。ゆえに、身の回りの物事全てに対し、注意深く慎重に接し、全てのことにおいて、神を畏れ、悪を避けるという原則に従って神の道を歩むことを学ぶよう、あなたに伝えておく。あなたは、神の心と神の姿勢に関する諸問題を確実に理解する必要があるので、あなたに伝えることのできる目が開かれた人々を見つけて熱心に求めるように。自分が信じる神を、操り人形のようなものと捉えたり、任意に判断して勝手に結論を出したり、神に相応しい敬いの念をもって神を扱わないようなことの無いように。神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。それを覚えておくように。ここでは、あなた方の現在の状態と背丈に応じて、あなた方が知るべき真理をいくつか話したが、あなた方の情熱を奪わないよう、わたしはこれ以上の事を求めることは控える。そうしなければ、あなた方の心は過度に荒涼として、神に対して過度に落胆するおそれがあるからだ。あなた方が落ち込まずに、あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。本日の話をした内容から得た、あなた方の知識的な収穫は何であろうか。本日の話について、何か質問したいことはあるだろうか。

本日の話の主題は、多少新しい内容であり、あなた方の観点や、通常あなた方が追求し、留意する物事から離れたものであるが、暫く聞いているうちに、本日話した内容が全て皆一様に理解できるようになるであろう。これらの事項は、以前あなた方が考えたことの無かった新しい事項であるが、あなた方の負担とならないことを望んでいる。本日の話は、あなた方を怖がらせるためのものでも、あなた方を取り扱いしようとするものでも無く、事実の真相をあなた方が理解するのを支援することが目的である。結局、神と人間の間には距離がある。人間は神を信じているものの、人間は神を理解したことは無く、神の姿勢を知ったことは無い。神の姿勢に関する懸念をどう払しょくするかを熱心に解決しようとしたことはない。むしろ、人間は盲目的に信仰し、盲目的に生き続け、神に関する認識と理解について不注意であった。したがって、あなた方のそうした問題を解消し、あなた方が信仰する神が、どのような神であるか、何を考えているか、様々な人々を取り扱う際に、どのような姿勢であるか、あなた方は神の要求を完全に満たした状態からどれくらい離れているか、あなた方の行動と神が要求する基準の間に、どの程度差があるかを理解できるように支援する必要があると感じた。それをあなた方が知ることの目的は、それを用いてあなた方が歩んでいる道がどのような収穫に繋がっているか、その道であなたが得られなかった事柄、あなた方が関与していない領域には、どのようなものがあるかを計測し、理解する基準を、あなた方の心の中に与えることである。あなた方が互いに話し合う時、通常は一般的な事項について話をするが、その範囲は狭く、内容は浅薄である。神の趣意と、あなた方が話し合う事柄の間、あるいはあなた方の会話と、神の要求の範囲や基準の間には、隔たりがある。そのような状態が長期的に進行すると、あなた方は神の道から益々外れて行く。あなた方は既存の神の言葉を取り上げて、それを崇拝対象や儀式、規則に変える。それが全てである。事実、神はあなた方の心に全く存在せず、神はあなた方の心を得たことが無い。神を知る事は極めて困難だ、という者がいるが、それは事実である。神を知る事は確かに困難である。人々が自分の本分を尽くして外でやるべき事をやり遂げるように命じられるなら、勤勉であるようにと命じられるなら、人々は、神への信仰は至って容易であると考える。なぜなら、それらは全て人間の能力の範囲内だからである。しかし、神の趣意や人間に対する神の姿勢の話になると、誰にとっても問題は遙かに困難になる。そうした問題には、真理に関する人間の理解と、現実に入ることが関与するからである。ある程度困難なのは当然のことである。しかし、最初の扉を通過して中に入った後は、次第に容易になってゆく。

神を畏れることは、神を神として扱うことから始まる

ある者から質問があった。その質問は、現在人間は、ヨブよりも神に関する認識が多いにもかかわらず、人間が神を畏れられないのは何故か、ということである。この問題については、先般少しだけ触れたであろう。事実、この問題の本質、すなわちヨブは当時、神を知らなかったが、ヨブは神を神として取り扱い、神を天と地にある万物の主とみなした件についても以前に話をした。ヨブは神を敵とはみなさなかった。むしろ、ヨブは神を万物の創造主として崇めた。現在、人間が神をこれほどまでに拒否するのは、何故だろうか。現在の人間が、神を畏れられないのは、何故だろうか。その理由のひとつとして、現在の人間がサタンにより深く腐敗させられていることがある。そうした人々にはサタンのような本質が深く浸透しており、そうした人々は神の敵となる。したがって、そうした人々は神を信仰し、認めているものの、神を拒み、自らを神の敵としてしまうことがある。それは人間の本質により判断される。もうひとつの理由は、そうした人々が神を信じている一方で、神を神として取り扱わないことである。そうした人々は、神を人間に反対する存在と考え、敵と見なし、神と和解することが出来ない。それほど単純なことである。この問題については、前回話をしたであろう。考えて欲しいのだが、そのことが理由であろうか。あなたには神に関して多少の知識があるが、その知識とは一体何であろうか。それは皆が話題にしていることではないだろうか。それは神があなたに伝えた事ではないだろうか。あなたは、理論上、教義上の側面しか知らないが、神の実際の側面を体験したことがあるだろうか。あなたには、主体的な知識があるだろうか。あなたには、実践的な知識と経験があるだろうか。神が伝えなかったとしたら、その知識を得られたであろうか。あなたの理論上の知識は、本当の知識ではない。つまり、あなたにどれほど知識があるか、あなたがその知識をどのようにして得たかを問わず、神に関する真の知識を得る以前において、神はあなたの敵であり、あなたが神を神として取り扱うまで、神はあなたに敵対する立場に置かれている。なぜなら、あなたはサタンの化身だからである。

あなたがキリストと共にあるのであれば、あなたはキリストに毎日3回の食事を振る舞い、おそらくお茶も振る舞い、生活に必要な物事を手配し、外見上キリストを神として扱うだろう。何か起きると、人間の観点は、常に神の観点と相反するものになる。人間は神の観点を理解できず、受け入れられない。人間は表面上では神と折り合いが付くかも知れないが、それは神と一致することを意味するものではない。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認される。この敵対心は神が人間に敵対しているのでも、神が人間に敵対することを望んでいるのでも、神が人間を敵対する立場に置き、敵対するものとして扱っているのでもない。むしろ、それは人間の主体的意志と無意識の精神に潜む、神に敵対する本性の問題である。人間は神に由来するもの全てを研究対象とみなすので、神に由来する物事や神が関与する物事に対する人間の反応は、何よりも推測し、疑念を抱き、すぐに神と矛盾し神に反する姿勢を取ることである。その後、人間はそうした受動的な精神状態となり、神と対立し、神と争い、そうした神は人間が従うに値するかどうか疑念を抱くことさえある。人間の理性は、今後はそのようにあるべきでは無いと言うものの、人間はそうすることを選び、何も躊躇せずに、最期まで一貫してそのまま続行する。たとえば、神に関する噂や悪口を人間が聞いた時の最初の反応は、どのようなものであろうか。最初の反応は、その噂の真偽を知らないし、実在するかどうかも分からないので、様子を見よう、というようなものであろう。その後、人間は、それを確かめることは出来ないが、それは存在するのだろうか、その噂は本当だろうか、と考える。この者は、そのような思いを表に出さないが、その者の心には既に疑念が生じ、神を否定し始めている。こうした姿勢や観点の本質は、何であろうか。それは裏切りではなかろうか。人間がそうした問題に遭遇する以前は、その者の観点を知ることは出来ず、その者は神と敵対しておらず、神を敵とみなしていないように思われる。しかし、その者が、その問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対する。このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。どれ位の期間神に付き従っているか、どの程度の代償を支払うか、どの程度神を称えるか、どう神を拒否せずにいるか、それだけでなく自らに対して神を愛すよう促しているかを問わず、人間は決して神を神として扱うことができない。それは人間の本質により決定されることではなかろうか。あなたが神を神として扱い、神が神であることを心から信じている場合、あなたは依然として神に対して疑念を抱くであろうか。自分の心の中の神に対して疑問があり得るであろうか、というと、それは有り得ない。この世の傾向は極めて邪悪であり、人類も極めて邪悪である。こうした人間に関して、あなたが何も認識していないのは、何故だろうか。あなた自身、極めて邪悪である。あなたにはその認識が無いのは、何故だろうか。しかし、一部の噂や悪口には、神に関する極めて大きな概念を生み出し、極めて大量の考えを生み出すものもあり、それにより、あなたの背丈がどれほど未熟であるかが示されている。何匹かの蚊や煩わしい蝿の「羽音」だけで、あなたを欺くには十分であろうか。これはどのような種類の者であろうか。神がこのような者をどう思っているかを知っているだろうか。実際には、こうした者を神が取り扱う姿勢は、極めて明瞭である。こうした者に対する神の処遇は、単に冷遇されるだけである。神の姿勢は、そうした者に留意せず、そうした無知な人々を本気で相手にしないことである。それは何故であろうか。それは、神の心では、そうした意を決して最期まで神に反抗し、神と親和する方法を求める計画が一切無い人間を得る計画は、一切無いからである。わたしが述べた事により傷付く者が少なからずいるであろう。あなた方は、わたしの言葉で常に傷付くことを望むであろうか。あなた方がそう望むか如何を問わず、わたしの述べた事は全て真理である。わたしが常にあなた方を傷つけ、あなた方の傷を露わにするようであれば、それはあなた方の心の中にある高尚な神の姿に影響を与えるのではなかろうか。(そのようなことは無い。) わたしもそのような事が無いと思う。なぜなら、単にあなた方の心には、神が存在しないからである。あなた方の心の中にいる高尚な神、あなた方が守ろうとする神は、神ではない。それは、人間の想像の産物であり、その神は存在しない。したがって、この問題の答えをわたしが述べた方が、格段に良い。それが真実の全てではないだろうか。真の神は、人間の想像物ではない。あなた方全員がこの事実を認めることが出来ることを願っている。そうすることは、あなた方の神に関する認識に役立つ。

神に認められない人々

神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ反応することも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。「信者以外の者が神の言葉を読めるだろうか。その者が自分の本分を尽くせるだろうか。その者は『私は神のために生きる』と述べられるだろうか」と質問する者がいる。多くの場合、人間が見るのは、人々の表面的な物事であり、その本質ではない。しかし、神は表面的な物事を見ず、内面的な本質のみを見る。したがって神には、こうした人々に対してそのような姿勢であり、そのように定義されている。こうした人々が「神はなぜこのようなことをするのだろうか。神はなぜあのようなことをするのだろうか。それは私には理解できない、これは私が理解不可能なことだ、それは人間の考えと一致しない、あなたは私に説明する必要がある」など言うことについて、わたしの答えはこうだ。「わたしがこうした事柄について話す必要があるだろうか。この問題はあなたに関係があるだろうか。あなたは、自分が何者だと考えているだろうか。あなたはどこから来たであろうか。あなたは神に助言する資格があるだろうか。あなたは、神を信じているであろうか。神は、あなたの信仰を認めているだろうか。あなたの信仰は、神と無関係であるが、神の業は、あなたにどのような関係があるというのか。あなたは、自分が神の心の何処に位置するかを知らないが、それでもあなたは神と対話する資格があるだろうか。」

勧告

こうした話を聞いて、あなた方は不快であろうか。こうした話を聞きたくない、あるいは受け入れたくないと思うかも知れないが、これらは全て事実である。この段階の業は神が行うものであるので、あなた方が神の趣意や神の姿勢に無関心であり、神の本質と性質を理解しなかったとしたら、結局失うのはあなた方である。わたしの話を、聞くに堪えない、といって責めたり、わたしの話のせいで情熱が冷めた、といって責めたりしないように。わたしは真理を述べているのであり、あなた方を落胆させるつもりは無い。わたしがあなた方に何を求め、あなた方がそれを行うようにどう要求されているかを問わず、わたしはあなた方が正しい道を歩むこと、神の道に従い、そこから外れないことを願っている。神の言葉と神の道に従って進まなかった場合、あなた方が神に反抗し、正しい道から外れてしまっていることは、疑念の余地が無い。したがって、わたしがあなた方のために明確にし、あなた方にはっきりと明瞭に、一抹の疑念も無く信じさせなければならない事柄があると感じている。そうすることで、神の姿勢、神の趣意、神が人間を完全にする方法、神がどのようにして人間の結末を決定するかをはっきりと理解できるようになるためだ。あなた方がこの道に踏み出すことが出来ない日が来た時、わたしには一切の責任が無い。なぜなら、本日の話を、極めて明瞭にあなた方に伝えたからである。あなた方が自分の結末をどのように扱うかについては、完全にあなた方次第である。神は、様々な人々の結末に関し、様々な姿勢をとる。神には、人間を評価する独自の方法と必要条件の基準がある。神が人間を評価する基準は、万人に対して公平なものであることは確実である。そうしたわけで、一部の人々の恐れは不要である。これで安心しただろうか。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。

2014年4月29日