Ⅺ.真理の現実に入ることについての代表的な言葉

517. 神の働きに対する服従ははっきりと見て取れるものでなければならず、それを生きたものとして現わさなくてはならない。表面的な服従は神の承認を得ることができず、自らの性質の変化を求めずに神の言葉の表面的な部分だけに従うのであれば、神の心を喜ばせることはできない。神に対する従順と神の働きに対する服従はひとつであり、同じものである。神に服従するだけで神の働きには服従しない者は従順であるとは見なされない。心から従わずに表面的に媚びへつらう者は尚更である。心から神に従う者は皆、神の働きから得るものがあり、神の性質と働きを理解するようになる。そのような者だけが、本当に神に従順なのである。そのような者は新しい働きから新しい認識を得ることができ、新しい働きから新しい変化を経験する事ができるのである。そのような者だけが、神に認められる。そのような者だけが、完全にされる者であり、性質の変化を経験した者である。神の承認を得る者は、喜んで神に従う者で、神の言葉と働きにも従う者である。このような者だけが正しいのである。このような者だけが、心から神を求め、神を追求しているのである。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より引用

518. 人々が想像するのと違い、肉にある期間中、神が人々に求める従順さに、判断や抵抗を避けるといったことは含まれない。むしろ、自身が生きる上での原則、および自身の生存の基礎として神の言葉を用い、神の言葉の本質を絶対的に実践し、神の旨を絶対に満たすことを神は要求する。受肉した神に服従するよう人々に求めることについて、その一つの側面は神の言葉を実践することであり、もう一つの側面は神の普通性と実際性に従えることを指している。これらは両方とも絶対的でなければならない。これらの側面を両方とも成し遂げられる者はみな、心の中に神への真の愛を抱く者である。彼らはみな神によって得られた者であり、自分のいのちを愛するように神を愛する。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より引用

519. 神の働きは時代ごとに異なるのである。もしあなたが、ある局面では立派に従うが、次の局面になるとそれ程従わないか全く従わないというのであれば、神はあなたを見捨てるだろう。今の段階を神が上がっていくにつれ神に付いて行っているのであれば、次の段階でも神に付いて行かなければならない。そうして初めて、あなたは聖霊に従順な者となる。あなたは神を信じているのだから、絶えず従順でなければならない。従いたい時にだけ従い、従いたくない時は従わないということではいけない。そのような従い方は神に認められない。わたしが語る新しい働きに付いて来ることができず、昔聞いたことに固執するのであれば、どうしてあなたのいのちが進歩できるだろうか。神の働きというのは、神の言葉を通してあなたに施すことなのだ。あなたが神の言葉に従って受け入れるのであれば、聖霊があなたの中で間違いなく働くのである。聖霊はわたしが語る通りに働く。わたしの言う通りを行いなさい。そうすれば聖霊はすぐにあなたの中で働く。わたしはあなたがたのために新たな光を放ち、あなたがたがその光を見て現在の光へ来るようにする。あなたがこの光の中へ入っていく時、聖霊はあなたの中で直ちに働く。「わたしはあなたの言う通りにはしない」などと言う扱い難い人もいるかもしれない。そのような人に言う。あなたの道は先がない。あなたはもうこれまでで、あなたの命は終わる。それだから、自分の性質の変化を経験するときに最も重要なのは、今の光に付いて行くことなのである。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より引用

520. 神に従う秘訣は、新しい光を正しく認識し、それを受け入れて実践できることである。それだけが本当の従順である。神を切望する意志のない者は、進んで神に服従することができず、現状に満足する結果、神に反抗するだけである。人が神に従えないのは、以前来たものにとりつかれているからである。以前来たものは、神についてのありとあらゆる観念と想像を人々に与え、それらが人々の心における神のイメージになってしまったのである。ゆえに、人々が信じているものは彼ら自身の観念であり、彼ら自身の想像の中の標準である。あなたがもし、今日実際の働きを行なっている神を、あなた自身の想像上の神と比較して推し測るなら、あなたの信仰はサタンに由来するものであり、自分の好みに汚されている。神はこのような信仰を望まない。実績がどれだけ立派でも、どれだけ献身的でも、たとえ神の働きのために一生努力を捧げて殉教しようとも、神はこのような信仰をもつ者を誰も認めない。神は彼らにささやかな恵みを授けるだけで、ほんの束の間、彼らにそれを享受させるだけである。このような人は真理を実践することができない。聖霊は彼らの内では働かず、神は彼ら一人ひとりを順に排除する。老若を問わず、自身の信仰において神に従わず、間違った意図をもっている者は、神の働きに反抗してそれを邪魔する者であり、このような人は間違いなく神によって排除される。神への従順の片鱗さえ見られない者、ただ神の名を認め、神の優しさや愛らしさについて多少認識しているだけで、聖霊の歩みに歩調を合わせず、聖霊の現在の働きや言葉に従わない者は、神の恩恵のただ中で生きているにもかかわらず、神のものとはされないし、神によって完全にされることもない。神は人々を、その従順さを通して、神の言葉を飲み食いし、享受することを通して、そして生活における苦しみと精錬を通して完全にする。このような信仰を通してのみ、人々の性質は変化し、そうして初めて人々は神を本当に知ることができる。神の恩恵のただ中で生きることに満足せず、積極的に真理を切望して探求し、神のものにされるよう求めることが、意識して神に従うことの意味である。これがまさに神が望んでいる信仰である。神の恩恵を享受するだけの人は、完全にされることも変わることもなく、彼らの従順、敬虔、愛、そして忍耐はすべて表面的である。神の恩恵を享受するだけの人は本当に神を知ることができず、神を知ったとしてもその認識は表面的であり、「神は人を愛する」とか、「神は人に対して憐れみ深い」などと言う。これは人のいのちを表してなどいないし、人が本当に神を知っているとは言えない。神の言葉が人を精錬するとき、あるいは神の試練が人に降りかかるとき、神に従うことができず、それどころか疑い深くなってつまずくなら、その人はほんの少しも従順ではない。彼らには神への信仰に関するたくさんの規則や制限があり、長年にわたる信仰の結果である古い経験があり、聖書に基づくさまざまな教義がある。このような人が神に従うことなどできるだろうか。これらの人たちは人間的なもので一杯なのだから、どうして神に従えるだろうか。彼らの「服従」は個人の好みに従っている。神はこのような従順を望むだろうか。これは神への従順などではなく、教義の遵守であり、自分を満足させて慰めているのである。これが神への従順だとあなたが言うなら、それは神を冒涜しているのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神への信仰において、あなたは神に従うべきだ」より引用

521. もし人が宗教的な観念を手放すことができれば、その人は自分の考えを使って今日の神の言葉や働きを測ったりせず、直接従うだろう。今日の神の働きが過去のものと明らかに違っていても、あなたは過去の見方から離れて今日の神の働きに直接従うことができる。神が過去にどのように働いたかということに関係なく、今日の神の働きに最も重きをおくべきだということを知っていれば、あなたは自分の観念を捨て、神に従い、そして神の働きと言葉に従い神の足跡についていくことのできる人である。これにより、あなたは真に神に従う人になれるのである。あなたは神の働きを分析したり、調査したりしない。それはあたかも、神が過去に行なった働きを忘れ、同様にあなたも忘れたかのようである。現在は現在であり、過去は過去であり、神自身が過去に行なったことを忘れるのであるから、あなたがそれに浸っていてはならない。そうしてはじめて、あなたは神に完全に従う人になり、完全に宗教的な観念を手放したと言える。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えてもよい」より引用

522. あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことがないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。半分だけ従っている者でさえ最後まで歩き続けることはできないのに、従う気持ちが微塵もないこのような暴君が最後まで歩き続けられないのは尚更である。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より引用

523. 自分の信仰において神への従順を求めない者はみな神に反抗する。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲み食いし、それを実行に移し、それによって神への従順に達することを求めている。これがあなたの真意ならば、神は必ずやあなたを引き上げ、必ずやあなたに対して恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、変わることもない。あなたの意図が神に従うことではなく、何か他の目的があるならば、あなたのあらゆる言動、すなわち神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつでさえ、それらは神に反抗するものである。あなたは穏やかな話し方と温厚な振る舞いをし、あらゆる行動や表現が正しいものに思われ、神に従う者のように見えるかもしれないが、あなたの意図と神への信仰に関する見解について言えば、あなたが行なうことはどれも神に反しており、悪である。表面上は羊のように従順に見えるものの、心に邪悪な意図を抱いている人々は、羊の皮を被った狼である。このような人は直接神を犯し、神は彼らを一人として容赦しない。聖霊は彼らを一人残らず暴露し、あらゆる偽善者は必ずや聖霊に忌み嫌われ、拒絶されることを万人に示す。心配しなくてもよい。神はそのような人間を一人残らず処理し、一人ひとり処分する。

『言葉は肉において現れる』の「神への信仰において、あなたは神に従うべきだ」より引用

524. 人が神に従えるかどうかを決めるにあたり、目を向けるべき重要なことは、その人が神から贅沢な何かを欲しがるかどうか、隠された動機があるかどうかです。いつも神に要求をしているなら、それは神に従っていないことを証明します。自分に何が起きようと、それを神から受け取れず、真理を求めることができず、いつも主観的な推論で語り、いつも自分だけが正しいと思い、神を疑うことさえできるなら、必ずや問題に見舞われます。このような人は最も傲慢で、神に最も反抗的な人です。神に要求してばかりいる人は、決して本当に神に従えません。あなたが神に要求をしているなら、それは神と取引していること、自分の考えを選んでいること、そして自分の考えに従って行動していることを証明しています。あなたはその点で神を裏切っており、従順ではありません。神に要求するのは理知に欠けることです。神は神であると心から信じているなら、それが理性的であろうとなかろうと、あえて神に要求をすることはなく、またそうする資格もないはずです。あなたが真の信仰を持ち、神は神であると信じているなら、神を崇拝して神に従うしか選択肢はありません。現在の人には選択肢があるだけでなく、自分の考えに従って神が振る舞うことさえ要求します。彼らは自分の考えを選んだうえで、神がそれらに従って振る舞うことを求め、自分が神の考えに従って振る舞うことは必要としません。ゆえに、そのような人に真の信仰はなく、その信仰には実質が一切ありません。神への要求を少なくできれば真の信仰と従順さが膨らみ、あなたの理知も比較的正常になります。

『キリストの言葉の記録』の「人はあまりに多くを神に要求する」より引用

525. 現実の問題に対処する時、神の権威と神の統治をどのように知り、理解すべきでしょうか。あなたがたがこうした問題に直面した時、それらをどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、神の統治と采配に服従するという意向、願望、服従しているという事実を、あなたがたはどのような姿勢で示すべきでしょうか。あなたは、まず待つこと、次に追い求めること、その後に従うことを覚える必要があります。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の思いが徐々に明示されてゆくのを待つことです。「追い求める」とは、神が計画した人々、出来事、物事を通して、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事を通して真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、神は人間の中にどのような結果を実現させようとしているか、人間の中に何を達成させようとしているかを理解することです。当然ながら、「従う」とは、神が周到に準備した人々、出来事、物事を受け容れ、神の統治を受け容れることであり、それらを受け容れることを通して、創造主が人間の運命をどのように支配しているか、神はどのようにして人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることです。神の采配と統治の下にあるすべての物事は自然の法則に従っており、あなたが自らのすべてを神の采配と支配に委ねると決心したのであれば、あなたは待つこと、追い求めること、従うことを学ぶべきです。これこそが、神の権威に服従することを望むあらゆる人が取るべき姿勢であり、神の統治と采配を受け容れることを望むあらゆる人に備わっているべき基本的な資質です。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要です。そうした努力をして初めて、あなたがたは真の現実に入ることができるのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より引用

526. ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知りませんでした。神が何を成し遂げようとしているのかを知らなかったのです。神はただノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、ノアは大した説明も受けず、ただ言われたとおりに実行しました。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたりせず、神に抗ったり、不誠実になったりもしませんでした。ただ純粋で無垢な心で、神の指示に従ったのです。神がノアにするよう告げたことを、ノアはすべて行いました。神の言葉を聞きそれに従順に従うことは、ノアがその行いに信念を持っていることを証明していました。ノアはそのようにまっすぐにかつ単純に、神に委ねられたことを行いました。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、自分の個人的な利益や損得を考えることもありませんでした。そしてさらに、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつかと聞いたり、物事がどうなるのかと尋ねたりせず、もちろん神がどのように世界を滅ぼすのかも聞きませんでした。ノアはただ、神が命じたことをそのとおりに行ったのです。箱舟を何でどのように造るかについても、ただ神の指示通りにし、しかも即座にとりかかりました。ノアはただ神を満足させたい一心で、神の指示に従ったのです。自分が災害から逃れるためにそうしたのでしょうか? いいえ。あとどのくらいで世界が滅ぼされるのかと神に尋ねたでしょうか? いいえ、そんなこともしませんでした。箱舟を作るのにどれくらい時間がかかるかと神に尋ねたでしょうか、またはそれを知っていたでしょうか? ノアはそれも知りませんでした。彼はただ従い、耳を傾け、言われた通りにしたのです。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

527. ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではなかっただろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、神への純粋な愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従うことができず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすことがないばかりか、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることに無関心である。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して従うことも愛することもしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

528. 神のために鳴り響くような証しをすることは、おもに実際の神に関する認識があるか否か、そして普通であるだけでなく正常なこの人の前で服従し、死に至るまで従い続けられるかどうかと関連している。この従順さによって神のために真の証しをするならば、それはあなたが神によって得られたことを意味する。死に至るまで服従し、神の前で不満がなく、判断したり中傷したりせず、観念を抱かず、秘めたる意図を一切もたずにいられるなら、神はこのようにして栄光を得る。人から見下されている普通の人の前で従順になること、そして観念を抱かず死ぬまで従えることこそが、真の証しである。神が人々に入るよう要求する現実とは、あなたが神の言葉に従い、それらを実践し、実際の神の前にひれ伏し、自分の堕落を知り、神の前で自分の心を開き、最終的にこれらの神の言葉によって神に得られることができることである。それらの言葉があなたを征服し、神に対して完全に従順にするとき、神は栄光を得る。神はそれによってサタンを辱め、自身の働きを完了させる。受肉した神の実際性についてあなたが何の観念も抱かないのであれば、つまりこの試練において揺るぎなく立ってきたならば、あなたはその証しを立派にしたことになる。実際の神を完全に理解し、ペテロのように死に至るまで神に従える日が来るならば、あなたは神によって得られ、完全にされるだろう。神が行なうことのうち、あなたの観念に則していないものはすべてあなたにとっての試練である。神の働きがあなたの観念に則していれば、あなたはそのために苦しんだり精錬されたりする必要はないだろう。そうした観念を捨て去る必要があるのは、神の働きが極めて実践的であり、あなたの観念に則していないからである。それがあなたにとって試練であるのはそのためである。すべての人が試練の最中にあるのは、神の実際性のためである。神の働きは実践的であり、超自然的ではない。神の実践的な言葉と発言を、観念を抱かず完全に理解し、その働きがますます実践的になるにつれて神を真に愛せるようになることで、あなたは神によって得られるだろう。神が得る人の集団は、神を知る者たち、すなわち神の実際性を知る者たちである。さらに彼らは、神の実践的な働きに服従できる者たちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より引用

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