3. 神はいかにして自身の義なる性質を人類に明かすのか

関連する神の言葉:

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しをすることができる」より引用

神は最も遅れた不浄の地で肉となったが、そうすることでのみ、神はその聖く義なる性質のすべてをはっきり示すことができる。では、神の義なる性質は何を通じて示されるのか。それは神が人の罪を裁くとき、サタンを裁くとき、罪を忌み嫌うとき、神に反対、反抗する敵を憎むときに示される。わたしが今日語る言葉は、人の罪を裁き、人の不義を裁き、人の不従順を呪うためである。人の狡猾さや不実さ、人の言葉や行ないなど、神の旨にそぐわないものはどれも裁きの対象にされなければならず、人の不従順は罪として非難されなければならない。神の言葉は裁きの原則を中心としており、神は人の不義を裁き、人の反抗心を呪い、人の醜い顔を暴くことで神自身の義なる性質を明らかにする。聖さは神の義なる性質の表われの一つであり、神の聖さとは実のところ神の義なる性質なのである。あなたがたの堕落した性質が今日の言葉の背景であり、わたしはそれを用いて語り、裁き、征服の働きを実行する。それだけが実際的な働きであり、それだけが神の聖さを完全に光り輝かせる。あなたの中に堕落した性質の痕跡が一切なければ、神はあなたを裁かず、あなたに神の義なる性質を示すこともない。あなたには堕落した性質があるのだから、神はあなたを逃さず、これを通じて神の聖さが示される。もしも神が人の汚れと反抗心があまりに大きいことを知りながら、語ることもあなたを裁くこともせず、あなたの不義を罰することもないならば、それは神ではないことを証明する。罪に対する憎しみがなく、人と同じくらい汚れているからである。今日、わたしがあなたを裁くのはあなたの汚れのためであり、わたしがあなたを罰するのはあなたの堕落と反抗心のためである。わたしはあなたがたに力を見せびらかしているのでも、わざとあなたがたを抑圧しているのでもない。わたしがそうしたことを行なうのは、この不浄の地に生まれたあなたがたが、かくも深く汚れに染まっているからである。あなたがたは高潔さと人間性をすっかり失い、この世の最も不潔な場所で生まれた豚のようになってしまった。そのためあなたがたは裁かれ、わたしはあなたがたに怒りを解き放つのである。まさにこの裁きのために、神が義なる神であること、神が聖い神であることをあなたがたは理解できたのである。まさに神の聖さと義のために、神はあなたがたを裁き、あなたがたに怒りを解き放つのである。神は人の反抗心を見ると義なる性質を表わすことができ、人の汚れを見ると聖さを表わすことができるので、これは神が神自身であり、聖く汚れがない存在でありながら、不浄の地で暮らしていることを示すのに十分である。……人の堕落した性質が明かされるとき、神は人を裁くために語る。そのとき初めて、神が聖いことを人は目の当たりにする。神が人の罪を暴きつつ、その罪を裁き罰するとき、その裁きから逃れられる人や物はない。汚れているものはすべて神に裁かれるが、そうすることでのみ神の性質は義だと言えるのである。さもなければ、あなたがたが名実ともに引き立て役だとどうして言えるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」より引用

今日、あなたの認識はどの程度なのか。考え、思い、振る舞い、言動など、あなたが表わすことはどれも、神の義と聖さの引き立て役になっているのではないのか。あなたがたが表わすことは、神の言葉が明らかにする堕落した性質を示しているのではないのか。あなたの思いや考え、動機、あなたにおいて明らかになった堕落は、神の義なる性質と神の聖さを示している。神もまた不浄の地に生まれたが、汚れに染まってはいない。神はあなたと同じ汚れた世界で生きているが、理知と見識を有しており、汚れを嫌悪する。あなたは自分の言動に汚れたものを何も見つけることさえできないかもしれないが、神にはそれが可能であり、それをあなたに指摘する。あなたの以前からの古いもの、つまり教養や見識や理知の欠如と遅れた生活様式は、今や暴き出されて白日の下に晒された。神が地上に来てこのように働きを行なうことでのみ、人は神の聖さと義なる性質を目の当たりにする。神はあなたを裁いて罰し、あなたに認識を得させる。時にはあなたの悪魔的な本性が露わになり、神はそれを指摘する。神は人の本質をすっかり知りつくしている。神はあなたがたのあいだで暮らしており、同じものを食べ、同じ環境の中で生きている。だが、それでも、神は人より多くのことを知っており、あなたを暴いて人の堕落した本質を見抜くことができる。人の処世哲学、不実、欺瞞ほど神が忌み嫌うものはない。人の肉体的な交流を神はとりわけ嫌悪する。神は人の処世哲学をそれほどよく知らないかもしれないが、人が表わす堕落した性質をはっきり見て暴くことができる。神はこうしたことを通じて人に語りかけ教えるために働き、こうしたことを用いて人を裁き、神の義にして聖い性質を明らかにする。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」より引用

侮辱に対する神の不寛容は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの本質です。神の怒りの背後にある原則は、神の身分と地位の証明であり、それは神のみが持つものです。この原則もまた唯一無二の神自身を象徴するものであることは、言うまでもありません。神の性質は神自身の固有の本質で、時間の経過とともに変化することも、地理的位置によって変化することもありません。神の固有の性質は、神のみにある本質です。神が誰に働きを行なおうと、神の本質も、神の義なる性質も不変です。誰かが神を怒らせたときに、神が怒りを放つのは、神固有の性質です。このとき、神の怒りの背後にある原則や、神の唯一無二の身分や地位は不変です。神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりするために神は怒るのではなく、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が神の性質に反するからです。人間の神への目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦です。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争い、神の怒りを試しているということです。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを試し続けるのは、罪がはびこるときであり、神の怒りは自然と出現します。したがって、神が怒りを示すのは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということの象徴です。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性です。神の威厳と聖さが試されたとき、正義の力が阻害され、人間に見えないとき、神は怒りを放ちます。神の本質ゆえに、神と争い、戦い、神に敵対する地上の様々な勢力はすべて邪悪であり、堕落しており不義です。それらはすべてサタンに由来し、サタンに属します。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で堕落しサタンに属するものはすべて神の怒りが発せられると消滅します。

『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より引用

神の怒りは人間には隠され未知であるが、犯すことを決して容赦しない

愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。

ソドムの町を滅ぼすために神が火を用いることは、人類や他の物を徹底的に滅ぼす神の最迅速の方法です。ソドムの住民を焼き尽くしたことで、彼らの身体だけでなく、その霊と魂と身体全体を滅ぼし、それにより物質的世界と人間には見えない世界の両方において、町にいた人々の存在の消滅が確実なものとされました。それは、神が怒りを明示し表現する方法の一つです。このような明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもあります。神が怒りを伝えるとき、神は憐れみと慈愛を明らかにするのを停止し、寛容と忍耐も一切見せません。神に引き続き忍耐強くあり、今一度憐れみと寛容を与えるように説得できる人間、物、理由は一切存在しません。それどころか神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、望むことを行ないます。神は自らの望む通りに、これを迅速かつ円滑に行ないます。人間が犯してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質の一側面を表すものでもあります。神が人間への懸念と愛を示しているのを目撃すると、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を見ることも、反抗に対する神の不寛容を感じることもできません。そのため、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると人間は信じるようになりました。しかし、神が町を滅ぼし、人類を憎悪するのを目の当たりにし、人間を滅ぼす際の神の怒り、そして神の威厳を見ることで、人間は神の義なる性質の別の側面を見ることができるようになります。これが侮辱への神の不寛容です。反抗を一切甘受することのない神の性質は、あらゆる被造物の想像を超え、非被造物にもその性質を阻んだり干渉したりできるものは存在せず、その性質を模倣したり、偽ったりすることができないのは尚更です。したがって、神の性質のこの側面は、人類が一番よく知るべきものです。この種の性質は神自身のみが持ち、神自身のみがこのような性質を備えています。神がこのような義なる性質を持っている理由は、暗闇、反逆、人間を堕落させ、食いものにするサタンの悪意に満ちた行動を神が嫌悪しているからです。神に反逆するあらゆる罪の行ないを神が嫌悪しているからであり、神の聖なる清い本質のためです。それゆえ、被造物や非被造物が神に堂々と反対したり対抗したりすることを神は甘受しないのです。たとえ、神が一度憐れみを示した人や神が選んだ人でも、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を犯すだけで、いかなる反抗をも甘受しない義なる性質を神は一切の容赦なく、躊躇なく示すのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より引用

神のニネベの人々への怒りがどれほどであったかにかかわらず、彼らが断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は軟化し、変化し始めました。神が彼らにニネベを破壊すると宣言したとき、つまり彼らの罪の告白と悔い改めの前には、神は依然として怒っていました。ニネベの人々がひとたび一連の悔い改めの行動を取ると、神の彼らへの怒りは、憐れみと寛容へと次第に変化していきました。一件の出来事において、神の性質の二側面が同時に明らかになることには、何ら矛盾はありません。では、この矛盾の不在をどのように理解し、認識するべきですか。ニネベの人々が悔い改めるにつれ、神は極端に対照的な二つの本質を続けて表出、明示し、これにより神の本質の現実性と不可侵性を人は理解することができます。神はその姿勢を通して人に伝えていたことがあります。それは、神は人間に対して寛容でないのではなく、また人に憐れみを与えたくないのでもなく、人が神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることは極めて希だ、ということです。つまり、人間に対して怒っているとき、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、そうなれば、神は憐れみや寛容を人間に引き続き寛大に与えるということです。すなわち、人間の邪悪な行動が神の怒りを招くのに対し、神の憐れみと寛容は、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、強暴をその手から捨てることができる人に与えられるということです。ニネベの人々の扱い方には、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていました。つまり、神の憐れみと寛容を得ることはまったく困難ではなく、神は人に真の悔い改めを要求するということです。人々が悪の道を離れ、強暴をその手から捨てるかぎり、神は自身の心と人への態度を変えるのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より引用

確かに、神の憐れみと寛容は存在しています。しかし、神が怒りを解き放つ際の聖さと義は、一切の背きを許さない神の側面を人に見せます。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動するとき、神は人に対する憐れみで満ちています。しかし、人間が堕落で満ちていたり、神への憎悪と敵意で一杯だったりするとき、神は深く怒ります。では、神の怒りはどれほど深いのでしょうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、それらが神の目の前から消えてなくなるまで続きます。そのとき初めて、神の怒りは消えるのです。言い換えると、誰であれ心が神から遠くなり、離れ、神に立ち返ることがないならば、その人が外見上、あるいは主観的な願望において、いかに神を崇拝し、神に従っても、そして肉において、あるいは思考の中で神に服従しても、神の怒りは途切れることなく解き放たれます。そのため、人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、神がそれを撤回することはなく、二度とそのような人に憐れみや寛容を示しません。これが一切の背きを許さない神の性質の一側面です。……優しく、美しく、善いものに対し、神は寛大で憐れみに満ちています。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対して神は深く怒り、その怒りは止まることがないほどです。溢れんばかりの憐れみと深い怒りが、神の性質における主要かつ最も顕著な二つの側面であり、またそれ以上に、最初から最後まで神によって示されてきたものです。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より引用

人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかく私は神が義であると信じている。私は神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ず私のことを覚えているはずだ」。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、私はあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたは私に少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか」と言う人たちもいる。そこで、わたしはあなたに尋ねる。「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか」。あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとただ考えている。「最後までわたしに従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内なる意味がある。つまり、最後までわたしに従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件とは何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに従うことのみであるが、その他に何があるだろうか。あなたはわたしの言葉に従っただろうか。あなたは、五つあるわたしの要求のうち、一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりは全くない。あなたは、単に最も簡単で容易な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、悪を行う者全員への義なる罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで従ったとしても、みな必ず懲罰を受けるであろう。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の罰において表される時、人間は唖然とし、神に従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「その時、私は神に従いつつ少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。そこでどのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外選択はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよ私は最後まで従ったのだから、あなたが私に刑罰を与えられたとしても、それは厳しすぎる刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたは私を欲されるでしょう。私は、あなたが義であられ、私を永遠にそのようには扱われないことは知っています。結局、私は一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、私の刑罰はそれよりも軽いでしょう」。神の義なる性質は、あなたの言うようなものではない。自分の罪を告白することが上手な者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがってけがれたことや変化していないことはすべて、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を持っておらず、変化していない全ての者への義なる罰であり、そこには救いの余地はない。人間がひとりずつ種類ごとに分類される時、善良な者は報酬を受け、邪悪な者は罰を受ける。この時、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行なった者全てに報復がもたらされる。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

前へ: 2. 神の性質と本質を認識するには

次へ: 4. 神の全能性と知恵がおもに明かされる側面

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

2. 真理現実とは何か。聖書の知識と教義とは何か

聖書の言葉だけを大事にする人々、真理やわたしの足跡を求めることに関心のない人々、そうした人々はわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対して、この上ない冒瀆行為をするからである。

2. 神に使われる人の働きと宗教指導者の働きの違い

神がその人を用いる目的は、神に従う者全員が神の心をより良く理解し、神の要求をより多く達成できるようにするためである。人間は直接神の言葉や神の心を理解できないため、神はそうした働きを行うために用いる人を立てたのである。

5. 堕落した人類には受肉した神の救いがさらに必要だと言われるのはなぜか

関連する神の言葉:神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。…

2. キリストは神の子か、それとも神自身か

受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。

設定

  • 文章
  • テーマ

単色

テーマ

フォント

文字サイズ

行間

行間

ページ幅

目次

検索する

  • 表示テキスト内検索
  • 全文検索