第2節 神に祈り、神を崇拝することについて

425. (神の言葉の一篇より)

祈りの実践について

あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。私は本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。私はただ時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつも私の内で働き、絶えず私を照らし啓きますように。私にあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠が私たちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私たちの中であなたが栄光を受け、私たちからなるこの集団による証しをあなたが喜んでくださるように、私は自分の全存在をただあなたに捧げます。私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私の目標として追求することができるように、私たちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、私の心はあなたを真に愛することができません。私はあなたを愛したいのですが、私にはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心を動かしますように。私があなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、私の全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたが私をどのように試そうと、私は用意ができています。今私は自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、私の運命もあなたの手の中にあり、私の一生そのものもあなたの手の中にあります。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、私はあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

真の祈りにどのように入っていくのか。

祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

祈りの重要性とは何か。

祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

祈りが達成するべき成果とは何か。

人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

祈りの最も基礎的な知識

1)何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

2)祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

3)祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。あなたの祈りは神の現在の言葉に関するものでなければならず、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

4)集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

5)あらゆる人が取りなしの祈りを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのちの性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。

『言葉は肉において現れる』より

426. 神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信することが不可能であるように神が命じた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十七章」より引用

427. 祈りはある種の儀式ではありません。それは人と神との真の交わりであり、そこには深い意義があります。人々の祈りから、人が直接神に仕えていることが分かります。もしあなたが祈りを儀式として捉えるなら、あなたが神にしっかり仕えていないのは確実です。あなたの祈りが熱意や誠実さを伴わないなら、神の観点からは、あなたは人として存在していないと言えます。そうであれば、どうしてあなたが聖霊の働きを受けられるでしょうか。結果として、あなたはしばらく働いたあと、疲れ果ててしまいます。今からは、祈りなしでは働くことはできません。働きをもたらすのは祈りであり、奉仕をもたらすのは祈りなのです。もしあなたが指導者であり神に仕える者でありながら、祈りに専念することも、真剣に祈ることもなかったならば、あなたの仕え方はいずれはあなたを躓かせます。……頻繁に神の前に出て神に祈ることができるならば、それはあなたが神を神として扱っていることを証明します。しばしば祈りを怠り、一人で物事を行ないがちであり、神に隠れてあれこれするならば、あなたは神に仕えておらず、自分の営みに携わっているに過ぎません。それでは断罪されないでしょうか。表向きは何かを妨害したようにも、神を冒涜したようにも見えませんが、あなたは単に自分のことをしているだけです。そうすることで、あなたは邪魔をしていないでしょうか。たとえ表向きはそう見えなくても、本質的には神に抵抗しているのです。

『キリストの言葉の記録』の「祈りの意義と実践」より引用

428. 宗教儀式の祈りほど神が軽蔑するものはありません。神への祈りは、誠実であるときにのみ受け入れられます。言うべき誠実なことが何もないなら、黙っていることです。いつも偽りの言葉を語り神の前でむやみに誓いを立てて、神を欺こうとしたり、どんなに神を愛しているか、どんなに神に忠実でありたいかと語ったりしてはなりません。自分の願望を達成することができないなら、その決意と霊的背丈を持っていないのなら、いかなる状況下にあろうと、神の前でそのように祈ってはなりません。それは嘲りです。嘲りとは、誰かをからかったり軽くあしらったりすることです。そのような性質をもって神の前で祈るなら、それは控えめに言っても欺瞞です。そんなことを度々しているなら、最悪の場合、あなたの人格はまったく卑劣なものなのです。仮に神があなたを非難したとすれば、それは冒涜だと言われるでしょう。人々は神に対する畏敬の念を持っておらず、神を畏れる術も、愛し満足させる術も知りません。人が真理を明らかに理解していなくても、その性質が堕落していても、神は放っておくことでしょう。それでも彼らはそのような人格を神の前にさらし、未信者が他人を扱うように神を扱うのです。さらに、祈るときには厳かに神の前に跪き、甘い言葉で神を試みおだてて、祈り終えても自責の念にかられないだけでなく、自分の行為の深刻さを感じることもありません。そのような状態で、神が彼らと共にいるでしょうか。神の臨在をまったく得ていない人が、啓かれ照らされることがあるでしょうか。真理によって啓かれることができるでしょうか。(いいえ、できません。)では、そういう人は問題に陥ることになります。あなたはそのような祈りを何度もしていますか? よくそのような祈りをしますか? 外的世界で長く過ごしすぎると、人は社会の悪臭を放つようになり、下等な本性が増大し、サタン的な毒と生き方に満たされてしまいます。その口から出てくるのは偽りと欺瞞の言葉ばかりで、彼らは考えもせずに語るか、そうでなければ自分自身の動機や目的しか含まない言葉ばかりを語り、正しい動機を持つことはまずありません。これは深刻な問題です。このようなサタン的な考え方や生き方を神の前に持ち出したら、神の性質に背くことになるのではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「自分を知って初めて真理を追い求めることができる」より引用

429. 神の言葉を享受しているとき、あなたの霊が感動し、自分は神を愛さないわけにはいかない、あるいは自分の中に大きな力があり、自分に捨てられないものは何もないと感じることがある。このように感じるならば、あなたは神の霊によって感動し、心が神へと完全に立ち返ったのである。そしてあなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたによって予定され、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、自分が神の民の一人であることを光栄に感じさせます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げてあなたの御旨を行ない、私のすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」。このように祈るとき、あなたの心には神への果てしない愛と真の服従がある。あなたはこのような経験をしたことがあるか。神の霊によって頻繁に感動すると、人は祈りの中で特に進んで自分を神に捧げようとする。「神よ、私はあなたの栄光の日を見ること、あなたのために生きることを望みます。あなたのために生きること以上に価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという願望は少しもありません。今日あなたのために生きられるようにしてくださることで、あなたは私を引き上げてくださいます」。このように祈るとき、自分は神に心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ないまま死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのような祈りを唱えると、あなたの中には尽きせぬ力があり、あなたはその力がどこから来るのかわからない。あなたの心の中には無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があるという感覚をもつ。神によって感動するとこのようになる。こうした経験をした人はみな神によって感動したのである。神によって頻繁に感動する人には、いのちに変化が起こる。彼らは決意することができ、自ら進んで完全に神を得ようとする。心の中で神への愛がさらに強くなり、心は完全に神へと立ち返り、家族、世間、複雑な人間関係、そして自分の未来を顧みることがなくなり、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊によって感動した人はみな真理を追い求める人であり、神によって完全にされる希望をもつ人である。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より引用

430. 今、ペテロがどんな道を歩んだのか、あなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きを確信するようになり、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを切望したりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを体験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めることはなかった。彼は現世の利益、幸福、名声、富などを求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。それは神の愛に報い、彼にとって貴重この上ないものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば次のような言葉で祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを尊敬し、お慕いし、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした」。彼は常に決意するために祈り、絶えずイエスの言葉によって励まされ、それらの言葉をやる気へと変えたのである。しばらくの経験の後、イエスは、ペテロがイエスをもっと慕うように促して、あえてペテロを試した。ペテロは言った。「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛にお応えすることができません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私を必要とされるのでしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつあなたの御顔をもう一度拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。またこれ以上反抗することも望んではいません。私が持っている全ての物をできるだけ早くあなたに捧げる用意ができています。そして、あなたをこれ以上悲しませたくありません」。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、彼にはまだ分からなかった。ペテロが試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ、言った。「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとするわたしの働きの結晶として、あなたが一つの実となり、わたしの喜びとなるためである。あなたはまことにわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれども、わたしを生かし出したのか。わたしのために何をしたのか。あなたは自分がわたしの愛にふさわしくないことを認めたが、わたしのために何をしたのか」。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことを悟り、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わなくなり、その後の彼の祈りはさらに素晴らしくなった。ペテロはこう言って祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の誰よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、また私に託してくださったことなど、私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きでもって、私は最善を尽くしました。あなたは私ができることを御存知で、私が果たせる役割はもっとご存知です。私はあなたの指揮に服従することを望み、持っている全てのものをあなたに捧げます。私があなたにできることは、あなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗しましたが、あなたはこのような過ちを犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。私はあなたに私の全生涯を捧げたいのです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行なうことを望むだけです。私はあなたの苦い杯から飲み、あなたの命じられるとおりにします」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より引用

431. わたしは何度もペテロに試練を与え、そのため、もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることはなく、それまでと同じように、わたしを実際的なやり方で愛するために自分の信念を貫き続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後にはサタンの手中に投げ込む、と言った。そうした試練の只中、それは肉への試練ではなく、言葉による試練であったのだが、ペテロはそれでもわたしに祈った。「おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが私に憐れみをお示しになりたいとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は困難に苦しんでも、私の霊は慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知った後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、私に神のお姿を見させることを真に望んでおられないということではないでしょう。まことに、私は神の裁きを受けるのにふさわしくないということではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか」。このような試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正確に把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となった。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、わたしがなぜペテロのことをこれほど詳しく語っているのか、あなたがたはよくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動原則としなければならない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第六章」より引用

432. ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、私はあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。……晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もし私の余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたが私のために用意された時が来ました。私はあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、私にとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もし私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、私はあなたを愛するでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されます。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が私には一層明らかになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛することができ、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。私の人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、私はまだ満足していません。なぜなら、私はあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。私は人生において私のすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、私があなたに報いなかった全ての愛を償うために、私にはこの瞬間しかありません」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

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