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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

(Ⅰ)どのように神を信じるかについての代表的な言葉

「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神への真の信仰の主体をなすのは、救われるために神を信じることではなく、ましてや善人となることではない。また、それは人間像を得るために神を信じることでもない。事実、人間は、神に対する信仰を、単に神が存在し、それ以外のことは無いという考えとして見るべきではない。神に対する信仰は、単に神が真理であり、道であり、いのちであり、それ以外のものでは無いと信じることではない。さらに、神に対する信仰とは、単に神を認めることでもなく、単に神が万物の支配者であられ、神が全能者であられ、神が世界の万物を創られた、神が唯一の存在であられ、至高の存在であられると信じることでも無い。むしろ、それは自分、つまりあなたがたの存在全体と心が神に付き従い、自分が神により使われるようにし、神の勤めにおいて自分が神により使われるようにし、自分が神のためにあらゆる事をするためである。それは、神を信じる者を、神が予め運命付け、選ばれているということではない。事実、人間全員が神を崇拝し、神に留意して従うべきである。なぜなら、人間は神により造られたからである。…

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

人が神を信じるために最も基本的なことは、その人が誠実な心を持ち、完全に自分を捧げ、また本当に従うことである。人にとって最も困難なことは、真実なる信仰を得ることと引き換えに、自らの全人生を捧げることだが、それができれば、人は完全なる真理を得ることができ、被造物としての本分を尽くすことが出来るのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神を信じているのに、真理やいのち、神に関する認識を求めないのなら、そこに神への信仰はない。それでもまだ神の国に入って王になろうとするのは、現実的なことだろうか。いのちを求めることによって神への真の愛を達成することのみが現実である。真理を求め、実践することは、すべて現実である。神の言葉を読みながら神の言葉を経験する。そのようにして、まことの経験を通じて神に関する認識を得る。これが真の探求である。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

今日、神に対する真の信仰とは何だろうか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確にするために言うと以下のように言える。すなわちそれは、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神が造ったものによって為されるべき本分を遂行することに資するような神への信仰である。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、自身が造ったものの中で、神がいかに救済の働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉におけるいのちから神を愛するいのちへの転換、自然のままのいのちから神という存在の内部でのいのちへの転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の意志を遂行し、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンに先んじて神がいることに対し証しをすることができるようになる。神への信仰は、しるしや奇跡を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、神への信仰が主として達成すべき目的である。神の言葉を飲食することは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲食することは、あなたに神についてのより大きな認識を与える。そして、そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。あなたは神を知ってはじめて、神を愛することができ、そしてこの目的の達成は、人が神への信仰において持つべき唯一の目的である。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より

あなたがたは神への信仰とは苦難を受けたり神のために多くの事を行うことである、あるいは自分の肉の平穏や、自分の物事を全て成功させることを目的とすると思うかも知れないが、神への信仰において、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。このように考えているのであれば、それは誤った見方であり、あなたがたは完全にされ得ない。神の御業、義なるご性情、知恵、御言葉、そして奇しさ、計り知れなさは、全て人間が理解しようと努めるべき物事である。そうした理解により、個人的な要求や希望、心中の観念を払拭するように。こうした事柄を排除してはじめて、あなたがたは神の要求される条件を満たすことができる。そうしてはじめて、あなたがたはいのちを得て神にご満足いただける。神の信仰は、神にご満足いただき、神が求められている性情を態度で示し、無価値な人々をして神の御業と恵みを表出せしめることを目的とする。これが、神への信仰に対する正しい観点であり、あなたがたが追求すべき目標である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

あなたがたが神の御言葉を実践し、経験するならば、御言葉は自分にとって実践的なものになり、第三の天の逸話以上のものとなる。事実、神を信じる過程は、神の御言葉を経験する過程であるとともに、神により得られる過程でもあり、より明確に言うと、神を信じることは、神の御言葉に関する知識を得て、御言葉を経験し、行動で示すことである。これがあなたがたの神への信仰の現実である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を理解した後は、それを実践せよ」より

神を信じることは人が言うように簡単なことではない。神がそれを見られるように、もしあなたに認識しかなく、いのちとしての神の言葉をもっていないなら、また、もしあなたが自分自身の認識しかなく、真理を実践することも、神の言葉を生かし出すこともできないなら、これはまだあなたが神に対して愛の心を持っていないという証明で、またあなたの心は神に属していないことを示している。神を信じることで神を知るようになること、これこそ最終目標で、人が求めることである。神の言葉を実行できるよう、生かし出すことに全力を尽くさなければならない。もしあなたが教義上の認識しか持っていないなら、あなたの神への信仰は無意味なものになるだろう。もしあなたが神の言葉を実践し、言葉を生かし出すなら、あなたの信仰は完全であり、神の心と一致していると見なされる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

宗教的信念を持つ人々は、神を信仰しているものの、性情を変えることや、神に関する知識を求めず、自らの肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者には、宗教的信念として分類される信仰がある。それは神に対する真の信仰ではない。神を信じるためには、神のために苦しむ心と、自我を捨てる意志を備える必要がある。あなたがたがこの2つの条件を満たさない限り、その信仰は、神への信仰とはみなされず、あなたがたは性情を変えられないであろう。心から真理を求め、神を知ろうと努め、いのちを求める者のみが、神を真に信仰している者である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

人は、神への信仰は、しるしや奇跡を見ることを追求することであり天国や第三の天まで引き上げられることを追求することであると考えている。神への信仰は、真実との一体化の追求、いのちの追求、さらに神によって獲得されることの追求であると言う者は一人もいない。そのような追求はどんな意味をもつのだろうか。神についての認識や神の満足を追求しない者は神を信じない者である。彼らは神を冒涜する者である。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

あなたがたが神を信じ、かつ知っていることは、神に対するあなたがたの信仰が正真正銘のものであることを示す。あなたがたが最後まで経験を続けつつ、神を知ることが出来ないならば、あなたがたが神に背く者であることは確実である。イエス・キリストのみを信じ、現在における受肉した神を信じない者は皆、非難されるであろう。そうした者は皆現代のパリサイ人である。なぜなら、そうした者は現在の神を認めず、皆神に背くからである。そうした者のイエスに対する信仰がどれほど献身的であったとしても、それは全て無駄である。そうした者は神の称賛を受けないであろう。神を信じると言いつつ神に関する知識が心の中に皆無である者は、偽善者である。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるためには神の旨に配慮する必要がある」より

あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことに尽くすべきである。造られた者として自分を造った神に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

あなたが神を信仰すること、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の困難に耐え、ある程度の努力をすること無くして、それらを得ることは出来ない。あなたがたは多くの説教を聞いてきたが、それを聞くことは、その説教を身に付けたことを意味するものでは無い。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させ、それを消化して自分のいのちとし、自分自身の存在とし、こうした説教の言葉を自分の人生の指針とし、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものとしなければならず、そうした後に、この説教が聞くだけの価値があるものとなる。わたしの話により、あなたの人生に何も向上されたことが無く、あなたの存在にとって無価値であったとしたら、あなたにとって、わたしの話は聞く価値が無い。…神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。時間がある時だけ信仰し、自分の意識をすべて捧げることができず、常におざなりで混乱していたとしたら、あなたが得るものは無いであろう。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身10」より

あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

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