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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

(V)どのように聖霊の働きを理解し、悪霊の働きを特定するかについての代表的な言葉

聖霊の働きは3つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられる人々の働き、聖霊の流れの中ですべての人に作用する働きの3つに分けることができる。その中で、神自身の働きは時代全体を導くことであり、用いられる人々の働きは、神自身の働きの後に送りだされたり、命令を受けたりすることによって、神の信奉者全員を導くことであり、これらの人々は神の働きに協力する人々である。流れの中で人々に作用する聖霊の働きは自身の働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体を維持し、証を維持し、それと同時に完成させることのできる人々を完成することである。これら3つの働きは聖霊の完全な業であるが、神自身の働きがなければ、経営の働き全体は停滞してしまうだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊は、ただ、神によって用いられている特定の人の中で働いているだけでなく、教会の中でなお一層働いている。彼は、誰の中でも働くことができる。神は、今あなたの中で働いているかもしれない。あなたがそれを経験した後に、彼は次に他の誰かの中で働くかもしれない。しっかりとついていくことだ。あなたが今与えられている光についていけばいくほど、それだけあなたのいのちは成長していく。聖霊が作用を及ぼしている人たちについていくことだ、彼がどんな種類の人であっても。その人の経験をあなた自身のものとすることだ、そうすれば、あなたは、なお一層高いものを受け取るだろう。そのように行動することにより、あなたはより素早く成長をみることができるだろう。これが、人にとっての完全に至る道であり、霊的に成長するために通るべき道なのである。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。現在において、その流れの中にいる者が協力出来ず、神に要求された通りに真理を実践出来ないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

聖霊は、人々に本来備わっている本質に基づいてさまざまな人々に働きかけ、本来備わっている本質を越えた要求はしないし、実際の力量を越えた働きかけもしない。そこで、聖霊の人に対する働きによって人々はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人の実際の力量は限られている。聖霊が人々を用いようと、人々に対して働こうと、人々が働きから恩恵を受けられるように、その働きはつねに人々の力量の限界に応じている。用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊は多くの異なった方法で、多くの原則に従って働くにもかかわらず、どのように働きが行われようと、どのような人々に作用しようと、本質はつねに異なり、異なる人々に行う働きすべてには原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きがはっきり限定されており、非常に計画的だからである。人間の姿をした神の肉でなされる働きは人々を対象とする働きと同じではなく、その働きは人々の力量の違いによっても変化する。人間の姿をした肉でなされる働きは人々に対しては行われず、人間の姿をした肉では、人々に対する働きと同じ働きは行わない。一言で言えば、聖霊がどのように働こうとも、対象が異なれば働きは決して同じではなく、働きに用いる原則はさまざまな人々の状態や本性に応じて異なってくる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

聖霊が人間に対して進む道では、まず全ての人間の心を人間や出来事、物事から引き出して、神の御言葉には完全に疑念の余地が無く、真実であると人間が心で信じるようにするため、それを神の御言葉に引き込む。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

神は多くのことを話したのだから、あなたは、神の言葉を飲み食いするのに最善を努めるべきだ。それと知らない間に、あなたは理解できるようになり、聖霊が啓いてくれる。聖霊が人を啓く時には、その人はそれと気づいていないことが多い。人が渇いて追い求めるとき、神は啓き導いてくれる。聖霊が働く原則は、人が飲み食いする神の言葉を中心としている。神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、前後関係はない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より

全ての聖霊の働きは普通であり、現実である。あなたが神の言葉を読み、祈る時、あなたの内側は輝き、揺るぎないものとなり、外の世界に妨げられることはない。あなたは喜んで神を愛し、すすんで前向きなものに関わろうとし、邪悪な世界を嫌う―これは神の内に生きているということで、人が言うような、楽しくてたまらないという意味はあまりない。そのようなものは現実的ではない。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より

聖霊の働きはすべて、人々が利益を得るのを可能にすることである。すべて人々を啓発することである。人々の利益にならない働きは何もない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人々の力量がどうであろうと、聖霊がすることはなんであれすべて人々に有益である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

現在においては、状況が継続的に改善されている人々も居る。聖霊が御業を行うことが多ければ多いほど、こうした者の確信も大きくなり、経験が多ければ多いほど、こうした者が感じる神の御業の遠大な奥義も多くなる。こうした者が授かることが多ければ多いほど、理解も深くなる。こうした者は、神の愛が極めて大きく、内面的に安定し、啓かれていると感じる。こうした者には、神の御業に関する知識がある。聖霊は、こうした者に対して御業を行われる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

あなたが、神の言葉の中に生きることに心を配り、そして真理に関して一層の交わりを行って聖霊の啓き照らしを得ることに留意したならば、それらの宗教的観念や独善、自惚れは消え去り、神の為にどのように費やし、どのように神を愛し、どのように神を満足させればよいのかを知るであろう。神以外の物事は、その時無意識のうちに忘れられるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の前で心を静めることについて」より

聖霊は人々に感覚を与える。神の言葉を読んだ後、人々の心は揺るがず、安らかであり、一方で神の言葉を得ない人は虚しさを感じる。これは神の言葉の力である。人々はそれらを読まねばならない。読後には豊かになり、それなしにはいられなくなる。それはアヘンを摂取するようなものである。それは人々に力を与え、それなしではどうしようもなくなり、力を失う。これは今日の人々の傾向である。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より

聖霊は、各人に対して、歩むべき道を用意し、完全にされる機会を与える。あなたがたは、自らの否定性により自らの堕落を知らしめられ、その後否定性を払拭することにより実践の道を見いだすが、それがあなたがたの完全化である。さらに、あなたがたは、自らの中の肯定的な物事の一部による継続的な導きと照らしによって、積極的に自らの役割を果たし、識見を増やして分別を身に付ける。あなたがたは、自らの状態が良好な時、神の言葉を読むことや神に祈ることを殊更に望み、また聞いた説教を自らの状態と関連づけることができる。そうした時、神はあなたがたの中で啓き照らし、あなたがたに肯定的側面の物事の一部を理解させる。これが肯定的側面における、あなたがたの完全化である。あなたがたは、自らが否定的な状態で、自分に神が存在しないと感じる時であっても、神はあなたがたを照らし、あなたがたが実践の道を見いだすのを支援する。そうした状態からの脱却が、否定的側面における完全化の達成である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである」より

聖霊の存在を得ることは、人間の正常な存在を維持することしか出来ないが、聖霊は特定の時しか御業を行わない。たとえば、あなたがたが神のために業を行う者達のうちのひとりである場合、あなたがたが教会へ行くと、聖霊は御言葉によりあなたがたを啓くが、それは聖霊が御業を行われている時である。あなたがたが読書をしている時、時折あなたがたを聖霊が御言葉により啓き、殊更にその御言葉を自分の経験で裏付け、自分の状態に一層多くの知識を与えることが出来ることがあるが、それはあなたがたは啓かれたのであり、それもまた聖霊の御業である。時々、私が話すのを下に居るあなたがたが聞いて、私の言葉を自分の状態と比較することが出来る場合や、あなたがたが感激したりヒントを得たりすることがあるが、それは聖霊の御業である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

しかしながら、聖霊の内なる働きかけは決して超越的なものではない。むしろ非常に日常的なものなのである。人間の魂の内部はそれが正しいことであり、それが最善であることを知っている。そのような考えは非常にはっきりしたもので、発想によるものではなく、また人がなぜそのように行うかを完全に理解するものではない。このような場合、聖霊からの啓示に他ならない場合が多い。このような状況はほとんどの人に共通して起こるのである。聖霊は人々が最も適切な行動をとれるように導く。考えて結論を出すというよりは、心がそう感じ、直感的にそうしたら最善だと思うようになるのである。恐らくそれが聖霊から来るものなのだ。

『キリストの言葉の記録』の「働きを行うにあたっての主たる原則」より

神は、あなたがたに、自分の内面的な楽しみを失う、神の存在を失う、自分が居る場所が闇であるなど、ある種の感覚をあなたがたに与えられることがある。これは、一種の精錬である。何をしてもうまく行かなかったり、壁にぶち当たる。そうしたことは、神の鍛錬である。何かしらの行動をして、とりわけその行動について感じる事が無く、他人もその行動を知らないが、神はそれを知っておられる。神はあなたがたをお赦しにはならず、鍛錬される。聖霊の御業は極めてきめ細やかである。神は、人間のあらゆる言葉、一挙手一投足、考えについて、人間が内的認識を得ることが出来るよう、それらを精査される。あなたがたが何かしらの行動をして失敗し、再び同じ行動をしても失敗し、やがてあなたがたは聖霊の御業を理解する。あなたがたは何度も鍛錬を受けることにより、神の御旨に則してなすべき事や、神の御旨に則していない物事を知る。最終的に、あなたがたは聖霊の導きに対し、自分の中から正確に反応するようになるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

人間に対する聖霊の御業には、ひとつだけ条件がある。人間が追求を望み、気持ち半分でも神に疑念を抱いても居らず、自分の本分を常に支持することが出来る限りにおいて、人間が聖霊の御業を得ることが出来るのは、この方法のみである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

あなたがたの心を神に注ぎ、神の御前で静まっていることが可能であれば、あなたがたには、聖霊により用いられ、啓示と光を授かる可能性と資格があり、それ以上に、あなたがたには聖霊に自分の欠点を補っていただく機会があるであろう。自分の心を神に捧げると、良い側面として、一層真摯に取り組むことが出来るようになり、より高度な理解に達することが出来る一方、悪い側面として、自らの過ちや欠点が一層多く分かるようになり、神の御旨を満たしたいという希望が一層強まり、受動的にではなく、肯定的な状態で、真摯に取り組むようになるが、それは、あなたがたが正しい人間となることを意味する。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

聖霊はこの原則によって働く。人々の協調を通して、人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで成果が達成し、聖霊による啓発を受け、光に照らされる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠である。人々が聖霊と協力すればするほど、そして、神の要求する基準に達することを求めれば求めるほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴ってのみ、神の言葉の本当の経験と実質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全にされた人が最終的に生み出される。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より

神は、神の言葉を求め、貴ぶ者の中で業を行う。あなたがたが神の言葉を貴べば貴ぶほど、神の霊があなたがたの中で行う業も増えるであろう。ある者が神の言葉を貴べば貴ぶほど、その者が神により完全にされる確率も高くなる。神は神を真に愛する者を完全にする。神は、自らの心が神の前で安らかな者を完全にする。あなたがたが神の言葉全てと神の啓きを貴び、神の言葉がいかにして自らの現実性といのちの糧となる過程を貴ぶならば、それは神の心に最も追随している状態である。あなたがたが神の業を貴び、神が自分に対して施す業を貴ぶならば、神はあなたがたを祝福し、あなたがたの所有する物全てを倍増させるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に従う者を完全にされる」より

神を愛する者は、いのちを求める全ての者、すなわち真理を求め、真に神を求める者である。こうした者には、全員に聖霊の啓きがあり、神により感激させられている。そうした者は全員、神に導かれることが可能である。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

聖霊は常に自分の中で御業を行っている、自分は神により啓かれ、聖霊により常に感激させられ、常に新たな知識を得ている、とあなたがたが言う場合、それは正常ではない。それは極めて超自然的である。そうした人々が悪霊であることに何の疑いも無い。神の御霊が受肉した時でさえ、主が休む必要のある時、食べる必要のある時があり、あなたがたについては言うまでも無い。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さが無いように思われる。そうした者はあらゆる物事を捨て去ることが可能であり、冷淡であり、苦悩に耐えることが可能であり、肉体を超越したかのように、全く疲労を感じない。これは極めて超自然的ではないだろうか。悪霊の業は超自然的であり、人間には出来ない業である。区別がつけられない人々は、そうした者を見ると羨み、そうした者の神への信仰は極めて強く、優れており、そうした者は決して弱くないと言う。実のところ、これは悪霊の業の表れである。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

わたしの計画において、サタンは一歩ごとにかかとに噛み付いてきたのであり、わたしの知恵の引き立て役として、いつでもわたしの本来の計画を邪魔をする方法を探っている。

『言葉は肉において現れる』の「八番目の言葉」より

真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたがたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。いかなることがあっても、過去のように行動してはいけない。わたしの前で一つのことをし、わたしの後ろで別のことをする──そうすることで、その人は、すでに贖われなくなっている。……サタンが必要とするのは、まさに穢れた汚い場所だ。人間は、どうしようもなく、救いようなく放蕩におぼれていればいるほど、抑制することを拒む。すると、穢れた霊がますますあらゆる機会を利用して、その人に取りつこうとするのだ。ひとたびこの道に至ると、その人の忠誠は口先だけのいい加減な、空虚なものとなり、決意は穢れた霊に食べ尽くされ、不服従になり、あるいはサタンのそそのかしに乗って、わたしの働きを妨害するために利用される。わたしはその気になればいつでもどこでも即座にあなたを打ち殺す。

『言葉は肉において現れる』の「十番目の言葉」より

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