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終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

(IX)どのようにあなたの義務を献身的に果たすかについての代表的な言葉

人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねた任務を全うするために心と体を捧げるのは私たちすべての責任であり、義務である。何故なら、私たちの全存在は神から来たものであり、神の支配のおかげで存在しているからである。私たちの心と体が神の委ねた任務のためでも、人類の正義の目的のためでもないなら、私たちの魂は神が委ねた任務のために殉教した人々に値しなくなり、ましてや、私たちに全てを与えた神には値しなくなる。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の関係もない。本分は人間が全うすべきことだ。それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえるのだ。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、懲らしめと裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに使命を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。人間が徐々に変えられるのは、いつでも、その人が本分を尽くしている間だ。また、その過程で、その人の忠実さが明らかになる。だから、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け、あなたの表現はもっと本当のものになる。ただ形の上だけで本分を尽くしているふりをして、真理を求めない者は、最後には淘汰される。何故ならそのような者たちは真理を実践することによって自分の使命を果たすことをせず、その使命を果たす際に真理を実行しないからである。そうした人は変わらない人で、呪われるであろう。彼らの表すものは不純であるだけでなく、邪悪なものばかりである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

例として、献身的に本分を尽くすことについて検討する。あなたがたは、自分の本分を尽くし、神に忠実であることに関して、ある程度理解し、また真理も理解しているが、自分が完全に神に対して献身的になるのは、何時であろうか。あなたがたが名実ともに本分を尽くすのは、何時であろうか。それには、少し時間を要するであろう。この過程において、あなたがたは多くの苦難を受け、人々があなたがたを取り扱い、剪定し、制限し、強制する。皆の目が自分に注目し、ついにあなたがたは「これは自分の問題だ。献身的にならずに自分の本分を尽くしても大丈夫だろうか。不注意になったり、おざなりになったりしてはいけない。」と悟る。聖霊は、内面からあなたがたを啓かれ、過ちを犯すとあなたがたを咎められる。この過程において、あなたがたは自分自身について一定の物事を理解し、自分の本分を尽くす時に、自分が不浄すぎること、個人的意向が多すぎること、希望が多すぎることを知る。それを知った後、あなたがたは徐々に正しい道へと進み始め、自分の行動を変えることが出来るであろう。あなたがたは、自分の本分を尽くすことの本質について、実際にどの程度良好に自分の本分を尽くしているであろうか。あなたがたは、自分の性情が変化した後、どの程度良好に真理に従って自分の本分を尽くしているであろうか。このことを自省することにより、あなたがたは自分の性情が実際にどの程度変化したかを知ることができる。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

あなたがたが真に良心を備えているのであれば、重荷を負い、責任感があるはずである。あなたがたは「自分が征服されるか、完全にされるかは気にしないが、この証しの段階を正しく負担する必要がある。」と述べる必要がある。神の創造物として、人間は神によって完全に征服され、神を満足させ、自分の心の愛により、また自らを全て神に捧げることにより神の愛に報いることが出来る。これが人間の責任であり、それは人間が果たし、負担すべき責任であり、人間はこの託された責任を完遂する必要がある。そうしてはじめて、人間は神を真に信仰していることになる。

『言葉は肉において現れる』の「実践(3)」より

神の命令は、どう扱うべきであろうか。これは極めて深刻な問題である。人間が神から託された物事を、あなたがたが遂行出来なかった場合、あなたがたは神の御前で生きるには不適であり、罰を受ける必要がある。ある者が神から託された物事を遂行することは天の律法であり、地の原則である。それは人間にとって、自らのいのちと同様に重要な、最高の義務である。人間が神から託された物事を、あなたがたが真剣に受け止めなかった場合、あなたがたは最も重篤に神を裏切っていることになる。それはユダよりも重篤であり、呪われるに値する。したがって、神が人間に物事を託される、というのは、これは神からの賞讃であり、厚意であり、最も栄光あることである。それ以外の物事全てを捨て去るべきであり、自分の命を生け贄にするとしても、その者は神に託された物事を遂行する必要がある。…

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

現在、あなたがたが実現するよう要求されている事は、追加の要求では無く、人間の本分であり、人間全員が行うべき物事である。あなたがたが自分の本分を尽くすこと、それを十分に行うことさえも出来ないのであれば、自ら問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。あなたは、どうして依然として将来や展望を期待することが出来ようか。神の業は人間のためのものであり、人間の協力は、神の経営のためのものである。神が実行されるべき業を全て行われた後、人間は自分の実践を物惜しみせずに神と協力するよう要求されている。神の業において、人間は努力を惜しまず、忠義を全て捧げ、様々な観念に溺れたり、受動的となって無為にしていたり、死を待っていてはならない。神が自身を人間のために犠牲に出来るのであれば、どうして人間が自分の忠義を神に捧げられないことがあろうか。神が人間に対して心をひとつにしているのであれば、どうして人間が少し協力できないことがあろうか。神が人間のために業を行うのであれば、どうして人間が神の経営のために、自分の本分の一部を実行できないことがあろうか。神の業は現在まで長期にわたり続いているが、あなたがたは理解しているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。そうした者は陰府へ送られるのではなかろうか。神は既に自身の全てを人間のために捧げられているが、それならば、なぜ人間は現在、熱心に自分の本分を尽くせないのだろうか。神にとって、業は最優先事項であり、神による経営の業は最重要事項である。人間にとって、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことは、最優先事項である。あなたがたは、全員それを理解する必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より