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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

(XII)どのように神の愛を実践するかについての代表的な言葉

「愛」とは、そう呼ばれるように、純粋で汚れのない感情のことで、心を用いて愛し、感じ、そして思いやりを持つことを意味する。愛には条件も、障害も、距離もない。愛には、疑いも、欺きも、ずる賢さもない。愛には、距離もなく汚れた物は何もない。もしあなたが愛しているなら、あなたは欺くことも、不満を言うことも、裏切ることも、反抗することも、強要することも、何かを得るために求めることも、特定の量を得るために求めることもしない。もしあなたが愛しているなら、あなたは喜んで犠牲にし、困難に耐え、わたしに味方するだろう。わたしのためにあなたの家族や、将来や、青春や、結婚などすべてを放棄するだろう。そうでなければ、あなたの愛は全く愛ではなく、欺きで裏切りである。

『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より

神を心から愛し、真理に従っている人とは神に忠実な人のことで、それを誇示する人のことではない。真理に従っている人は、問題が起こると喜んで真理を実践し、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。問題が起きると知恵を用い、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ真に仕えている人である。

『キリストの言葉の記録』の「神の信仰は宗教的儀式にではなく現実に焦点を合わせるべきである」より

神への信仰の道は、神を愛する道である。あなたがたは、神を信じているのであれば、神を愛する必要がある。しかし、神を愛するとは、神の愛に報いることや、良心的感覚に基づいて神を愛することだけを指すのでは無く、神に対する純粋な愛である。…それは、人間の良心は、神の愛しさを感じることが出来ないからである。したがって、あなたがたは、そうした言葉により確信が持てないのであれば、自分の良心で神の愛を感じることが可能であり、その時に何らかの推進力を感じるが、それは後に消えるであろう。あなたがたが良心のみで神の愛しさを感じるのであれば、祈る時に推進力を感じるが、その後その推進力は消えて無くなる。それは何を意味するであろうか。あなたがたは、良心だけを用いるのであれば、神に対する自分の愛を目覚めさせることが出来ないであろう。あなたがたが心で神の愛しさを真に感じる時、あなたがたの霊は神により感激させられ、その時になって初めて、あなたがたの良心が元来の役割を担うことが出来るようになるであろう。つまり、神により人間の霊が感激させられ、人間の心が知識と励ましを得た時、すなわち、人間が経験を得て、初めて人間は実質的に良心で神を愛すことが出来るようになる。自分の良心で神を愛することは誤りでは無く、神を愛することの最低水準である。神の恵みに対して人間が単に正義を行うだけの、人間による愛し方では、人間を積極的で真摯な取り組みを推進することは絶対に出来ない。人間が聖霊の御業を多少得た時、すなわち自分の実経験のなかで神の愛を理解し、味わった時、神の知識を多少得て、神が人間の愛を受けるに値すること、そして如何に神が愛しいかを真に理解した時、その時人間は初めて神を真に愛することができるようになる。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

あなたが自分の内にある力を振り絞って神を愛することが出来なければ、どうしてあなたは祈ることが出来ようか。あなたはこう言うべきである。「神よ、私の心はあなたを真に愛することが出来ません。私はあなたを愛することを望んでいますが、私にはその力がありません。私はどうすれば良いでしょうか。私があなたの前に一切の消極的な態度を捨て去り、いかなる人や物事にも拘束されることがないように、あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心に触れますように。私は自分の心の全てをあなたの前に曝け出します。そうして私の全存在があなたの前に捧げられますように。また、あなたが私を思いのままに試すことができますように。今私は自分の将来性を考えることも、死に縛られることもありません。私は、あなたを愛する心で、いのちの道を求めることを望みます。あらゆる物事があなたの掌中にあり、また私の運命もあなたの手の中にあります。それどころか、私の一生はあなたの御手によって支配されています。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたがお許しになるかどうかを問わず、また、サタンがいかにして邪魔しようと、私は意を決してあなたを愛します。」あなたがそのようなことにぶつかった時は、このように祈るべきである。あなたが毎日そのようにして祈るならば、神を愛する強さは次第に向上するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

真に神を愛し、神に得られるための第一歩は、自分の心を完全に神に向けることである。自分のあらゆる行動において、自分を検証して「私がこうしているのは、神を愛する心に基づいているだろうか。この行動には何か個人的意図が無いだろうか。この行動の実際の目的は、何であろうか。」と自問する必要がある。自分の心を神に捧げたいのであれば、まず自分の心を抑制し、自分の意図を全て捨て、完全に神のために存在する状態に達する必要がある。これが、自分の心を神に捧げる行為を実践する方法である。自分の心を抑制するとは、何を指すであろうか。それは、自分の肉の途方も無い欲望を捨て去り、地位の祝福や快楽をむさぼらず、全ての行為を神を満足させるために行うことであり、また自分の心が、自分自身のためでなく、完全に神のためとすることが出来るようにすることを指す。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

神への真の愛は、心の深淵で生まれる。それは、人類が持つ神に関する知識に基づいてのみ存在する。ある者の心が完全に神へと向かっているのであれば、その者には神への愛があるが、その愛は必ずしも純粋であるとも、完全であるとも限らない。なぜなら、完全に神へと向かっている人間の心と、神に関する真の知識と、神に対する真の愛慕の情を持っている事には、一定の距離があるからである。ある者が神に対する真の愛を実現し、神のご性情を知る方法は、自分の心を神へと向かわせることである。そうした者は、自分の真心を神に捧げた後、人生の経験に対する真摯な取り組みを開始するであろう。そして、そうした者の性情が変化し始め、そうした者の神に対する愛が強くなり、神に関する知識もまた次第に増加してゆくであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神に対する本当の愛は自発的なものである」より

神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことができず、神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。…人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

人間は有意義な人生を示すことができるよう求める必要があり、現状に満足してはならない。ペテロの人間像を生きるためには、人間はペテロの認識と経験を備える必要がある。人間は、より高度な物事や、より深淵な物事を追求する必要がある。人間は、神に対する一層深く清い愛と、価値があり有意義な一生を追求する必要がある。そのようなもののみが人生であり、そうしてはじめて、その人間はペテロと同等となる。あなたは、肯定的側面への成長に対して積極的であることに重点を置く必要があり、また一時的快楽のために、一層深淵であり、具体的であり、実践的な真理を無視しつつ、追従的に後退することを許してはならない。あなたの愛は実践的である必要があり、あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出す必要がある。あなたは有意義な人生、価値のある人生を行動で示し、自分をごまかして、人生を玩具のように弄んではならない。神を愛す熱意のある全ての者にとって、得る事の出来ない真理は無く、揺るぎなく耐えることが出来ない正義は無い。あなたは、どのようにして生きるべきであろうか。あなたは、どのようにして神を愛し、その愛を用いて神の心を満たすべきであろうか。あなたの人生において、それより重要な問題は無い。あなたは、何よりもそうした熱意と根気を備えている必要があり、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験し、自分自身をそのようにぞんざいに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆくが、その後、あなたには、神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人間は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を備えている必要がある。あなたの人生は有意義である必要があり、自分をいい加減に扱ってはならない。人間として、そして神を求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うか、どのようにして自らを神に捧げるべきか、どのようにして一層有意義な信仰を持つべきか、そして、あなたは神を愛しているので、どのようにして一層清く、美しく、好ましく神を愛するべきかを熟慮できる必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

人私達全員が神の愛しさを認識し、心の深淵から神を愛し、神に対して抱いている愛を様々な立場から表現できるよう、神が私達を啓かれますように。神を真摯に愛する揺るぎない心を私達に授けられますように。それが私の望みの全てである。こう述べると、私と同様にこの不浄の地に住む兄弟姉妹に対して私は少し同情し、それゆえ赤い大きな竜に対する嫌悪を覚える。その竜は神に対する私達の愛を妨げ、私達の将来的な見通しに対する強欲さをそそのかす。その竜は私達をそそのかして好ましくない状態にし、神を拒否させる。私達が心から神の愛に報いることが出来なくなるまで私達を騙し、腐敗させ、略奪してきたのは、赤い大きな竜である。私達の心には推進力があるが、それに反して私達は無力である。私達は、全員その竜の犠牲である。私が心からその竜を嫌悪し、その竜を倒すのを待ちきれずにいるのは、そのためである。しかし、そのことを再考すると、それは不可能であり、そうすることが神を困惑させてしまうであろう。ゆえに、神の御旨を行い神を愛する決意をする、という言葉に回帰する。それが私の歩んでいる道であり、神に造られた者として歩むべき道である。それが、私が採るべき生き方である。

『言葉は肉において現れる』の「道(2)」より

私が神に対して約束した事においては、私はただ自分の心を神に捧げ、自分の言葉で神を騙さない。私はそのような事をしない。私はひたすらに、天にあられる神の御心が安心できるように、自分が心から愛する神にご安心いただくことを望んでいる。心は貴重かもしれないが、愛はそれ以上に貴い。神が受け取られる物事が、私が持っている物の中で最も美しい物であるようするため、また私が神に捧げる愛により、神にご満足いただけるように、私は自分の心の中で最も貴い愛を神に捧げることを望んでいる。あなたがたは、自分の愛を神に捧げ、神に受け取っていただくことを望んでいるであろうか。あなたがたは、そうすることを自分自身の生きる原則にすることを望んでいるであろうか。私が自分の経験から理解したことは、私が神に捧げる愛が多ければ多いほど、私は一層大きな喜びと共に生き、私は限りない強さがあると一層強く感じ、私は心身を犠牲として捧げる事を一層強く望み、神を十分に愛することは不可能であると感じる。しかるに、あなたがたの愛は、些細な愛であろうか、それとも無限で計り知れな愛であろうか。あなたがたは、真に神を愛したいのであれば、常に一層多くの愛で神に報いるであろう。その場合、何が神に対する自分の愛を阻めるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「道(3)」より

「父なる神のご意志を成就する」は神を愛するすべての人々の座右銘となるべきである。これらの言葉は人がいのちに入るための指針として、人の行動を指図する羅針盤として役立つべきである。これは人が持つべき決意である。地上で神の働きを余すところなく終わらせ、受肉した神の働きに協力すること、これは人の本分である。いつか、神の働きが完了する時、人は受肉した神に天の父のもとに早く戻るよう別れを告げるだろう。これは人が履行すべき責任ではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

今日、あなたが神を愛し、知ろうとする時、ある意味であなたは困難と純化に耐えなければならず、別の意味では、代償を払わなければならない。神を愛することから学ぶ教訓ほど意味の深い教訓はなく、人々が生涯抱き続けた信仰から学ぶ教訓は、いかに神を愛するかであると言える。つまり、神を信じるなら、神を愛さなければならない。神を信じるだけで、神を愛さず、神についての認識を獲得しておらず、心の底から湧き上がる本当の愛で神を愛したことがなければ、神に対するあなたの信仰は無益である。神を信じていても神を愛さなければ、あなたは無駄に生きていることになり、あなたの全人生はあらゆる人間の人生の中で最も低いものになる。…神を愛するには、あらゆる事において神の心を求めることが必要で、しかもあなたに何かが起きた時には心の中で深く探り、神の心を把握し、この件に関する神の心は何か、神はあなたに何を達成して欲しいのか、どのように神の心を覚えるべきかを知ろうとしなければならない。…あなたが本当に神を愛し、肉体を満足させたりしなければ、神の行いのすべては正しく、優れており、あなたの反抗に対する神の呪いやあなたの不正に対する神の裁きは正当であることがわかるだろう。神があなたを懲らしめたり罰したりする時や、あなたを鍛える環境を作りあげて、あなたを神の前に立たせる時があるだろう――そしてあなたはいつも神が行っていることは素晴らしいと感じるだろう。従って、あなたは、あまり苦痛はないかのように感じ、神はとても愛に満ちていると感じるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

従って、あなたが神を愛したいなら、痛みの代償を払い、困難に耐えなければならない。熱心さや困難を表立って示すことも、読書量を増やしたり、さらに走り回ったりする必要はなく、それどころか、あなたは自分の心の中にあるもの、つまり、途方もない考え、個人的利益、あなた自身の判断、概念、動機付けなどを脇にどけるべきである。これが神の心である。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

人が神を愛したいと願うなら、独善、自尊心、高慢、うぬぼれ、そしてサタンの性質に属するすべてのものを取り除かねばならない。さもなければ、人の愛は不純で、まさにサタンの愛そのものであり、そのままで神の承認を受けることなど断じてできない。もし人が聖霊によって直接完全にされ、扱われ、砕かれ、刈り込められ、訓練され、懲らしめられ、練られるのでなければ、誰も神を真に愛することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は神を体現することができない」より

神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難く、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬され、神を満足させることができないと感じるであろう。神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあると感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。誘惑を受けたら、「私の心は神のものであり、神は既に私を得た。私はあなたを満足させることはできない──私のすべてをもって神が満足されるようにしなければならない」と言うべきである。神を満足させるほど、神はあなたに祝福を与え、神へのあなたの愛は強くなる。そして、信仰と決意を持ち、神を愛して生きることほど価値や意義があるものはないと思うであろう。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。あなたには洞察力がないし、能力は乏しいが、神があなたを全き者とすることによって、あなたは神に満足してもらうことができ、神の心に留意することができる。他の人々は、最も能力の乏しい人々に神がとても偉大な働きを行ったことがわかるだろう。人々は神を知るようになり、サタンの前で克服者になり、ある程度神に忠実になる。この一群の人々ほど気骨を持っている人はいないだろう。これが最大の証しである。あなたは偉大な仕事をすることはできないが、神に満足してもらうことはできる。他の人々は自分の概念を脇にどけておくことができないが、あなたにはできる。他の人々は自分が実際に経験している間、神に証しをすることはできないが、あなたは実際の背丈と行動を使って神の愛に報い、神に対するはっきりとした証しをすることができる。これだけが実際に神を愛することとみなされる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

神を満足させることを追求するのは、神への愛をもって神の言葉を実践することである。いかなる時も──他者に力がない時でも──あなたの内にはまだ神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心がある。これが現実の霊的身丈である。霊的身丈は、神への愛がいかに強いか、試練を受けたときにいかに堅固に立ち続けられるか、ある状況に陥った時に弱いかどうか、兄弟姉妹に受け入れられない時にも自分の立場を守れるかどうかにより決まる。現れる事実により、あなたの神への愛が実際どういうものであるかがわかるであろう。神の働きの多くから、神が本当に人を愛していることが理解できるが、人の霊の目は未だ完全には開いておらず、神の働きの多く、神の旨、そして神についての多くの素晴らしい事が見えないのである。神に対する人の真の愛はあまりにも小さい。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

神が御業を行われる方法や、あなたがたが置かれた環境を問わず、あなたがたはいのちを求め、自分に対して行われる神の御業を求め、真理を追求出来るであろう。あなたがたは神の御業に関する知識を得て、真理に従って行動出来るようになるであろう。それがあなたがたの純粋な信仰であり、神への望みを失っていないことを示すものである。あなたがたは依然として精錬の中で真理を追求し、神を真に愛すことが可能であり、神に対する疑念を抱かないであろう。神の御業が何であろうと、あなたがたは真理を実践して神にご満足いただき、神の御旨を深く追求し、御旨に配慮することが出来るであろう。これのみが、神への真の信仰である。以前は、自分が王として支配するであろうと神が述べられた時に神を愛し、神が隠れることなくご自身を示されていた時に神を求めていたが、現在、神は隠されていて見えず、自分に多くの問題が発生している。この時、あなたがたは神への望みを失うだろうか。このように、あなたがたは、常にいのちを追求し、神の御旨を満たすことを追求する必要がある。これが真の信仰というものであり、最も純粋で美しい愛である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

苦難に直面した時、肉を考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来る必要がある。神があなたがたから隠れられている場合、あなたがたは神に付き従う信仰を持ち、従前の愛を、その愛が衰えたり消え去ることなく維持出来る必要がある。神が行われる御業が何かを問わず、神の計画を尊び、神に対して不平を言うよりも自らの肉を呪うことを望む必要がある。あなたがたは、試練を受ける時、自分が愛する物事と訣別する未練や深い悲しみをしてもなお、神にご満足いただく必要がある。真の愛、真の信仰と言えるのは、こうした行いのみである。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でいなさい。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造したことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

神が自分のいのちであること、神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

一方で、ペテロは、生活の中で神の望むことを叶えられなかったときは、それが何であろうが彼を不安にさせた。ペテロは、神の望みを叶えられない時には悔い、神の心を満たすために適切な方法を探そうと努力した。彼は、その生活のどんなにささいなことにおいても、神の望みを叶えるよう自分に要求した。自分の古い性質のことには特に厳しく、そしてより深い真理の探究を進めることに対してはさらに厳しく自分に要求した。…ペテロは、神が要求する程度まで十分神を愛した。このような人のみが、証しとなる人なのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

ペテロは、神を信じる中で、自分の行いの全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練―これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物としての資質があるということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

今、ペテロがどんな道を歩んだのかあなたは明確に見ることができるはずである。…あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来も祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけ求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを見上げ、敬愛し、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした。」とイエスに祈った。彼は常に決意をするために祈り、絶えずイエスの言葉によって励まされ、それらの言葉を動機へと変えたのである。いくつかの事を経験したのち、イエスはペテロがイエスをもっと慕うようにと、あえてペテロを試した。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛に答えるに相応しいものではありません。私を早く取ってくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私が必要でしょうか。あなたは私をいつ取ってくださるのでしょうか。私はいつもう一度あなたの御顔を拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。これ以上反抗することも望んではいません。できるだけ早く私が持っている全ての物をあなたに捧げる用意ができていますし、あなたをこれ以上悲しませたくありません。」とペテロは言った。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、まだ分からなかった。彼が試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとし、わたしの働きの結晶として、あなたが一つの実になり、わたしが喜ぶものとなるためである。あなたは本当にわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれど、わたしを生き抜いたのか。わたしのために何をしてくれたか。あなたはわたしの愛にふさわしくないと思っているのが、わたしのために何をしてくれたのか。」と言った。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことが分かり、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わず、その後の彼の祈りは更にもっと素晴らしくなった。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の誰よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、私をいつも信じてくださったことなど私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きで持って、私は最善を尽くします。あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」

『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにイエスを知るようになったか」より

ペテロは、磔刑にされる直前に、心の中で「神よ、あなたが私のために用意された時が、ついに来ました。私は、あなたのために十字架に架けられ、この証しに立たねばなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを望みます。今日、あなたのために死ねること、十字架に架けられることは、私にとって安らぎとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために磔刑にされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができる以上の喜びは無いからです。神よ、あなたは極めて愛しいお方です。もし、私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。私が生きている限り、私はあなたを愛すでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されました。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が一層明瞭に理解できるようになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛し、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を行動で示すことが出来るようになるからです。私の人生は一層有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは有意義だからです。しかし、私には未だに不満があります。なぜなら、私はあなたのことを殆ど知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたに殆ど報いなかったからです。私は人生において私自身のすべてをあなたに返すことが出来ずに居り、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに極めて大きな負債があり、自分の過ち全てを正し、私の愛であなたに報いるために、私にはこの瞬間しかありません。」と祈りを捧げた。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

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