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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

(XVI)性質を変えるためにどのように真理を追求し、神によって完成されるかについての代表的な言葉

聖霊の働きは、日々、変わり、段階ごとに高まっている。明日の啓示は、今日の啓示よりもなお一層高くなる、そして段階毎になお高いところへ上がっていく。神が人を完全にする働きも同様である。もし人が、ついていけなくなったら、人はいつでも見捨てられるだろう。もし人が従順な心を持っていないのなら、人は最期までついていくことができないだろう。古い時代は終わった。今や新しい時代である。そして、新しい時代には、新しい働きがなされなければならない。特に、人が完全にされる最期の時代において、神は新しい働きをなお一層素早く行うであろう。したがって、心から従順でないのなら、人は神の足跡を辿ることが難しくなるだろう。神は、規則によって生きるのではなく、自身の働きのあらゆる段階を不変なものとして取り扱っているのでもない。むしろ、神によってなされる働きは、常により新しく、また常により高いものである。神の働きは、各段階においてより実践的になり、人が実際に必要とするものとますます合致する。人はこのような働きを経験した後にだけ、自らの性質の最後の根本的な変革を達成することができる。人のいのちに関する認識も常により高くなり、したがって、神の働きも同様に、常により高くなる。この方法によってのみ、人は完全に達することができ、神の役に立つことができる。一方で、神は、人の考えに対抗し、それを反転させるためにこのように働き、また他方で、人をより高く、現実的な状況に導き、神への信仰の最も高い領域へ導くためにこのように働く。その結果最終的には、神の意志は実行される。…神の働きにおいて、彼は言葉を通してあなたに与える。あなたが彼の言葉に従い受けいれる時、聖霊は確実に、あなたの中で作用を及ぼすだろう。聖霊は、まさにわたしが話すように働くだろう。わたしが今言ったように行えば、聖霊はすぐにあなたの中で作用を及ぼすだろう。わたしは、あなたたちが見るように新しい光を放ち、あなたたちをこの光の中へ連れてくる。あなたがこの光へ入っていくなら、聖霊は直ちにあなたの中で作用を及ぼすだろう。一部の人は反抗して、言うかもしれない「私は単純にあなたの言う通りには、しないでしょう」と。それなら、わたしは今、ここで道は終わり、あなたは衰弱し、いのちは終わると告げるだろう。したがって、あなたの性質の根本的な変革を経験する際、今与えられた光についていくことが最も重要である。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

あなたがたは、いのちを追求する際に、①神の御言葉の中の真理を理解すること、そして②神の御言葉の中で自分自身を知ることという、2つの基本的な事項に注意する必要がある。この2つは、最も基本的な事項である。神の御言葉以外には、いのちも真理も無い。神の御言葉の中で真理を追求する場合、あなたがたは、それをどこで追求できるだろうか。この世の何処に真理があるだろうか。この世で出版された書籍は、全て悪魔サタンの理論ではなかろうか。語るべき真理は何処にあるだろうか。神の御言葉の中の真理を理解する際に最も重要な事としては、神の御言葉の中で神を理解すること、御言葉の中で人間のいのちを理解すること、真理の全側面を御言葉の中で理解することである。たとえば、自分自身の真の理解と、神の御世における人間の存在意義を見出すことについて、真理は、すべて神の御言葉の中にある。あなたがたは、神の御言葉によらなければ、真理に対する真摯な取り組みを行うことは出来ない。あなたがたが到達すべき結果は、神の御言葉の真の理解とは何かを知ることである。神の御言葉を真に理解することにより、真理を理解することが出来る。それが最も基本的な物事である。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

人間によるいのちの享受の追求は、神の御言葉に基づいている。以前に、全ては神の御言葉により実現したと言われていたが、事実を見た者は誰も居ない。あなたがたが、現段階で経験に対する真摯な取り組みを行ったならば、あなたがたは明瞭に理解するであろう。それは、将来の試練のための良い基礎であり、神が何を述べたかを問わず、あなたがたには、神の御言葉に対する真摯な取り組みを行うことだけが必要とされる。神は人間に罰を与え始めると神が述べた時、あなたがたは神の罰を受け容れる必要がある。神が人間に死ぬことを求めた時、あなたがたはその試練を受け容れる。あなたがたが常に神の最新の発言の中で生活したならば、神は最終的にあなたがたを完全にされるであろう。あなたがたが神の御言葉に真摯に取り組めば取り組むほど、あなたがたは一層速やかに完全にされるであろう。私が何度も交わりを繰り返し、あなたがたに神の御言葉を理解し、それに真摯に取り組むよう求めるのは、何故だろうか。聖霊があなたがたの中で御業を行う機会を得るのは、神の御言葉と、それを経験する事、そして御言葉の現実性に対する真摯な取り組みを行うことにあなたがたの追求の重点を置くことによるほか無い。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

真理を受け容れるとは、どのようなことか。それは、自分にどのような腐敗した性情があるかを問わず、また赤い大きな竜が自分の本性を毒している毒素の種類を問わず、それが神により啓示された時にそれを認め、完全な信念をもって神の御言葉に服従することを意味する。また、あなたがたは、神の御言葉にしたがって自分自身を知っている。神の御言葉を受け容れるという事は、これを意味する。神がどのような御言葉を言われるか、それがどれほど自分の心を傷つけるかを問わず、あなたがたは、それが真理である限り、それを受け容れ、またそれが現実に即している限り、それを認めることが出来る。あなたがたは、自分が神の御言葉をどの程度深く理解しているかを問わず、それに服従出来る。またあなたがたは、兄弟姉妹によって伝えられた聖霊による啓きの光を受け容れてそれに従う。そのような者の真理の追求が一定の段階まで到達すると、その者は真理を得て性情の変化を達成することが出来る。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

以前に性情の変化について述べられた時、それは主として自分を捨て去ること、肉が苦難を受けるようにすること、自分の身体を修練すること、そして肉の好む物事を自ら取り除くことに関するものであったが、これは性情の変化の一形態である。現在、性情の変化の真の表れは、神の実際の御言葉に至福中し、神の新たな御業に関して真に理解出来るようになることであった。そうすることで、人間は、自分の観念にある従前の神に関する知識を排除し、神に関する真の理解と、神に対する真の服従を実現できるようになるであろう。性情の変化の真の表れは、これしか無い。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

「性情の変化」とは何であろうか。あなたがたは、真理を愛する者であり、自分が神の御業、様々な苦難や精錬を経験する上で、神の裁きと罰を受け容れる必要があり、これらを受け容れることにより、あなたがたが持つサタンのような毒は純化される。これが性情の変化である。ある者の本性が極めて劣悪であり、その者が邪悪な者である場合、神はその者を救われず、聖霊はその者の中で御業を行うことが出来ないであろう。つまり、それは患者を治療する医師のようなものである。すなわち、肺炎患者は治療できるが、肺癌患者を救うことは出来ない。教会で議論されている性情の変化とは、ある者が真理を愛し、真理を受け容れることが出来るので、神に対する自分の反抗的で反発的な本性を最終的に知ることである。この者は、人間の腐敗が過度に深遠であること、また人間の不合理さと不正直さを理解している。この者は人間の貧しさと哀れさを知り、人間の本性の真髄を知るに至る。こうした事柄を全て知ると、その者は、自分を否定して捨て去り、神の御言葉に従って生活し、あらゆる物事で真理を実践することができる。こうした者は神を知り、自分の性情が変化している。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

性情の変化とは、おもに自分の本性の変化をさす。本性は、外面から理解できないものである。本性には、人間の存在する価値と重要性が関連する。本性には、人間のいのちの価値、霊の深遠にある物事、そして人間の本質が直接関連する。人々が真理を受け容れられない場合、その人々にはそうした側面における変化が無いであろう。神の御業を経験する者が、真理に対する真摯な取り組みを本格的に行い、かつ自分の価値と存在、いのちの見通しを変え、自分の見解が神と同じとなり、自らを神に完全に服従させ、捧げる場合のみ、その者の性情が変化したと言える。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる。それは、あなたがたが十分に理解する必要のある事柄である。真理を十分に理解しなければ、容易に過ちをおかして混迷するであろう。…あなたがたが人生の真理を本当に理解し、どのような人間となるべきか、公明正大かつ実直な人間となる方法、神の証しに立って神に仕える方法の真理を理解したならば、神を欺く邪悪な行いや、反キリストや偽の羊飼いの役割を担うことが二度と出来なくなる。あなたがたは、誰かにそそのかされたとしても、そのような事は出来なくなり、強制されても、そのような行動は出来ないであろう。なぜなら、あなたがたが内面に真理を備え、邪悪を忌み嫌い、好ましくない事柄を嫌悪することができるようになり、自分の性情が変わったため、そうした物事を行うのは困難であろう。自分の内面に、本当に真理がある場合、あなたがたが歩む道は自然と正しい道となる。真理が無ければ、邪悪な行いをし易くなり、そうせずには居られないであろう。…そうした人々の邪悪な行動を解消するためには、まずそうした人々の本性の問題を解決する必要がある。性情の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能である。あなたがたは、神を多少理解し、人間の腐敗を理解し、嫌悪すべき醜悪な傲慢さと自惚れを認識できた時、嫌悪感を覚え、辟易し、苦悶するであろう。あなたがたは神を満足する何らかの行動を意識的に取り、そうすることで満足感を覚えるであろう。あなたがたは意識的に神の証しに立ち、そうすることで喜びを覚えるであろう。あなたがたは、自分の仮面を捨てて自分の醜悪さを曝すことにより、自分の中で気分がよくなり、精神状態が向上されるであろう。したがって、性情の変化を求める第一段階は、神の御言葉を理解し、真理に対する真摯な取り組みを行うことである。真理を理解してはじめて分別を身に付けることが可能となり、分別があって初めて物事を十分に理解できるようになる。そして物事の十分な理解があってはじめて、肉を捨て去ることが可能となり、神への信仰の正しい道を一歩ずつ歩むことになる。このことは、真理を求める時に人間の決心がいかに固いかと関連する。本気で決心している者は、6か月から1年後に正しい道に真摯に取り組み始め、3年から5年でその成果が実現し、人生において進歩していると感じるであろう。神を信じているが真理を追求しないのであれば、10年信仰を続けても全く変化が無いこともあり、最終的に「神を信じるということは、無意味であり、従前の世界での生活とほぼ同じだ。生きる意義など無い。」と言うであろう。これは、真理無しの人生が空虚であることを真に示している。あなたがたは、何かしらの教義を話せるかも知れないが、依然として不快さと不確実さを感じるであろう。神に関する理解があり、有意義な人生をおくる方法を知り、何かしら神にご満足いただける行動が取れれば、それが真の人生であり、そのような生き方をして始めて、人生が有意義になる、人間は少し神にご満足いただき、喜ぶためには、そのような生き方をすべきである、と感じるであろう。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

真理の無い者は、絶対的に性情が変化していない。これは、自分の人間性を行使した経験が豊富な者には、必ず性情の変化があると言っているのではない。性情の変化は、その者の神に関する知識と真理の理解が原因となって、人間の本性にある悪魔のような毒の一部が変化した時に、最も起こりやすい。つまり、これらの毒が浄化され、神により表された真理がその者の中に根付き、その者のいのちとなり、存在の基礎となる。この者は、そうしてはじめて新たな人間となり、ゆえにその者の性情が変化する。これは、その者の外面的な性情が従前よりも柔和であるということでも、従前は傲慢だったが現在その者の言葉は合理的であるということでも、従前は一切聞く耳を持たなかったが現在は他人の言うことが聞けるということでも無い。そうした外面的変化は性情の変化であるとは言えない。無論、性情の変化にはそうした状況が含まれるが、最も重要なのは、そうした者の内面的ないのちが変化したことである。神により表された真理がまさにその者のいのちとなり、内面の悪魔のような毒が排除され、その者の観点が完全に変わり、その者の観点には世間の観点と同じものが一切無い。その者は赤い大きな竜の謀略と毒を明瞭に理解し、いのちの真髄を把握している。ゆえにその者の人生の価値が変化する。これが最も根本的な変化であり、性情の変化の本質である。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性情の変化の相違」より

態度のみの変化は継続不可能である。人間のいのちの性情に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるであろう。そうした者の態度の変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の御業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易である。信者以外の者が「善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである」と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ない。人間の態度はいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の態度となり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表す。虚偽の物事は続かない。神が人間を救うために御業を行われる時、それは人間に善行をさせて引き立てるのではない。神の御業は、人間の性情を変化させ、新しい人間として生まれ変わらせるためのものである。したがって、神の人間に対する裁き、罰、試練、精錬は、その者が神に対する完全な服従と忠誠、そして神に対する正常な信仰を実現するため、全てその者の性情を変化させるためのものである。これが神の御業のねらいである。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性情の変化の相違」より

人間は良い態度を取ることができるが、それは必ずしもその者に真理があるということでは無い。人々の熱意は、そうした人々自身に教義を尊重し、規則に従わせることが出来るのみである。真理の無い人々は実質的な問題を解決することが一切出来ず、教義は真理の代わりにすることは不可能である。自分の性情が変化した者は、これと異なる。そうした者の内には真理があり、あらゆる問題について判断力があり、神の御旨や真理の原則に従って、神にご満足いただけるように行動する方法を知っており、自分が示す腐敗した本性を理解している。自分自身の考えや観念が表された時、そうした者は判断力を発揮し、肉を捨て去ることが出来る。性情の変化は、このようにして表出される。性情の変化の主要事項は、人間に真理と明瞭さの両方があり、物事を実施する際に、相対的な正確さで真理を実践し、その者の腐敗が表出される頻度が低下することである。一般に、性情が変化した者は大いに合理的であり、分別があり、また真理の理解の結果として自分に対して義があり、傲慢さが表出される量が減少する。こうした者は万事明瞭に理解しており、そうした明瞭さを得た後は傲慢でなくなる。こうした者は、人間の立場とは何か、合理的に行動する方法、従順になる方法、言うべき事と言ってはならない事、人々に対して何を言い、何をすべきかに関して慎重に理解することが可能である。こうした人々が比較的合理的であると言われるのは、このためである。自らの性情を変化させた人々は、真の人間像を行動で示し、また真理を備え、他人の影響を受けない。性情に変化があった者は比較的落ち着いており、むら気がなく、自分が置かれた状況を問わず、自分の本分を適切に尽くす方法と、神にご満足いただくよう行動する方法をわきまえている。性情が変化した者は表面的に体裁を取り繕うにはどうすればよいか、といったことに重点を置かず、神にご満足いただくにはどうすればよいかについて、内面的な明瞭さがある。したがって、こうした者は外面的にはそれほど熱意があるようには見えず、また何か偉大なことをしたようにも見えない。しかし、こうした者の行動はすべて有意義であり、貴重であり、実践的な成果がある。性情が変化した者は多くの真理を備えていることを確信しており、それはそうした者のものの見方や行動原理により確認できる。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性情の変化の相違」より

あなたがたは神が要求されるとおり、根源を検討し、自分の性情が変化したかどうか、真理を実践しているかどうかを確かめる必要がある。そこで重要なのは、想像や人間の意見、個人的な好みに従うことでは無い。そうしたことではない。むしろ、あなたがたが神の御旨に則しているか、あなたがたの行動に真理があるか、行動が神の基準を満たしているかを判断するのは、神であられる。正しい方法は、自分自身を神の要求に対して評価すること以外に無い。…神が自分を賞讃しているかどうかは、どうすれば分かるだろうか。あなたがたは、最低限度として、自分の行動すべてにおいて、心がとりわけ確固としていると感じ、自分の本分を尽くす時や神の家族の中で業を行う時や通常時に聖霊が自分を導き、啓き、自分の中で御業を行われていると感じ、あなたがたの行動は神の御言葉に完全に適合し、さらに自分にある程度の経験がある場合、過去の自分の行動は比較的適切であったと感じる。一定期間にわたり経験を得た後、過去の自分の行動が不適であると感じ、それについて自分が不服であると感じ、そうした行動には本当に真理が不在であると感じるのであれば、それは過去の自分の行動が神に反抗するものであったことを示す。それは、あなたがたの務めが反抗と反逆、そして人間の態度で満ちていることを示す。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

性情の変化は、自分が真理を理解し、経験し、真理が自分のいのちとなったことを意味する。従前において、あなたがたはこの事項に関する真理を理解したが、それを実行出来なかった。真理は、留まることの無い教義のようなものであった。現在は、自分の性情が変化し、真理を理解しているだけでなく、真理に従って行動している。あなたがたは、従前好んでいた行動を辞めることや、自分のやりたいことを諦めること、自分の想像や観念を捨て去ることが出来るようになった。あなたがたは、従前捨て去れなかった物事を捨て去ることが出来るようになった。これが性情の変化であり、それは自分の性情を変化させる手続である。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

ある者のいのちの性情が変化することの主な原因は、内面に真理を備え、神に関する知識を備えることである。その者の人生の見通しが変化し、価値観は従前と異なる。この変化は内面といのちから始まる。それが外面的変化でないことは確実である。…人間は、聖霊の御業が原因で熱意に駆られ、ある程度の外面的変化が発生し、多少の良い行いをすることがある。しかし、これは性情の変化に相当するものではない。あなたがたには真理が無く、あなたがたの物の見方は変化しておらず、それは信者以外の物の見方とさえ変わらず、あなたがたの価値観と人生の見通しも変わっていない。あなたがたには、神を畏れる心すら無いが、それは最低限度として身に付けるべき事である。それは明らかに自分の性情の変化では無い。性情の変化を実現する上で最も重要なのは神に関する知識を追求し、神に関する真の知識を身に付けることである。ペテロの事を検討すると、神がペテロをサタンに引き渡す必要があった時、ペテロは「私をサタンに引き渡してください。あなたは神であられ、全能であられます。すべてはあなたの掌中にあります。どうしてあなたの御業を讃美せずに居られましょうか。しかし、私が死ぬ前にあなたを知ることが出来れば、さらに素晴らしいことでしょう。」という旨を述べた。ペテロは、人生において神を知ることが最も重要であり、神を知った後は、どのような死でもよい、神が死をどのように扱われてもよい、と感じた。ペテロは、神を知る事が最重要事項であり、自分が真理を得られないのであれば、決して満足しないが、しかし神に不満を述べることも無い、と感じた。こうしたペテロの霊、こうした神の知識の追求に対する願望により、ペテロの人生における見通しは確実に変化した。この発言から私達が理解できることは、ペテロの性情が変化したこと、ペテロは自分の性情が変化した者であったこと、そしてこの体験後に、ペテロは神を最もよく知る者であり、神を真に愛する者であったと神が述べられたことである。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性情の変化の相違」より

人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて──つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質には本当の変化が達成される。人の性質が堕落するのは、サタンによってむしばまれ、踏みにじられ、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知にひどい被害を与えることを根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しない。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えるべきである。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

性情の変化と真理の追求は深く関連している。あなたがたは、何故、人間は生きると考えるだろうか。あなたがたの人生観は、どのようなものだろうか。そうした事柄の中であなたがたが真理を理解するのであれば、人生観が変わるのではなかろうか。この事柄には、求めるべき真理が一層多い。神を愛することには、どのような真理があるであろうか。何故人間は神を愛す必要があるのだろうか。神を愛することの重要性は何であろうか。ある者が、神を愛することの真理に関して明瞭に理解し、自分の心で神を愛することが出来るならば、つまりその者の心が神を多少愛することが出来るならば、その者には真のいのちがあり、最も祝福された者である。万事において真理を求める者は、人生における進歩が最も早く、性情の変化を実現できる。万事において真理を求める者は、まさに神に愛されている者である。ある者が万事において観念や教義に依存したり、規則に従うとすれば、その者が進歩することは無く、真理を得る事も無く、遅かれ早かれ排除されるであろう。なぜなら、神はそうした者を最も忌み嫌われるからである。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

真摯に取り組もうとする過程においては、あらゆる事柄を調べて神の御言葉や真理と比較する必要があり、そうした者は、神の御旨に完全に準拠する方法でそうした事柄を行うには、どうすればよいか十分に考慮する必要がある。そうすれば、自分の意志から生まれる物事を捨て去ることが出来る。あなたがたは、神の御旨に従って行動する方法を知った上で、あたかも全てが自然に展開するかのように行動出来るようになり、その行動は極めて容易に感じるであろう。真理を備えた者は、このように行動する。その上で、自分の性情が本当に変化したことを他人に示せるようになり、他人はあなたがたが真に善い行いをしていること、原則に従って行動していること、全ての行動が正しいことを理解するであろう。他人は、それが真理を理解している者であり、確実に真の人間像があり、神の御言葉がそうした者に対して確実に成果を実現したと思うであろう。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

あなたがたは日常生活に対する真摯な取り組みを実践し、自らの欠点と反抗、無知、そして異常な人間性と弱さを知る必要がある。そうすることで、あなたがたの知識は、全て自分の実際の状況や困難と統合される。こうした知識のみが本物であり、あなたがたが自分の状態の把握や性情の変化を実現することを可能とし得るものである。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と日常生活を話し合うこと」より

神を信じる上で、人間が自らの性情の変化を望むならば、人間は自分を日常生活から切り離すべきではない。あなたがたは、日常生活において自分を知り、自分を捨て、真理を実践し、万事における自分の行動の原則や常識、規則を知った後、自らの漸進的な変化を実現することが出来る。あなたがたが理論の知識のみに重点を置き、現実を深く検証することや日常生活に真摯に取り組むことなく、宗教儀式の中で生活するならば、あなたがたが現実に対して真摯に取り組むことは決して無く、自分自身や真理、神を知ることは無く、常に盲目で無知なままとなるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と日常生活を話し合うこと」より

あなたがたは純朴で素直であり、自分を知ることを望み、真理を実践することを望む。神は、あなたがたが自分を知ること、真理を実践することを望んでいるのを知っているので、あなたがたが弱く否定的な時にあなたがたを2倍啓き、あなたがたが一層自分を知り、自らを悔い、自分が実践すべき物事を実践出来るようになろうとするのを支援する。あなたがたの心を落ち着かせて安心させるには、この方法によるほか無い。神を知ること、自らを知る事、自らの実践に注意する者は、神の業や神による導きや啓きを頻繁に授かることが出来るであろう。否定的な状態にあったとしても、良心の働きか、あるいは神の言葉による啓きにより、その者はすぐに立ち直ることが出来る。ある者の性情の変化は、その者が自らの実際の状態と、神の性情と業を知った時、常に実現される。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである」より

人間を変化させるためには、多少の実践性が存在する必要があり、人間が現実の問題や物事、環境で実践する必要がある。教会生活に依存するだけで、真の訓練を実現可能であろうか。人間は現実に対して真摯に取り組めるか、というと、それは不可能である。人間が日常生活に対して真摯に取り組めないならば、人間は旧来のやりかたや生活を変化させることが出来ない。それは、人間の怠慢さや高依存度だけに起因するものではなく、人間に生活能力が全く無いこと、またそれ以上に、神が人間に対して要求する正常な人間像の基準をまったく知らないことも、その原因となっている。従前、人々は常に語り、述べ、交流し、ついには「雄弁家」となるに至ったが、いのちの性情の変化を求める者は皆無であり、遠大な理論を追求することを主張するのみであった。故に、現在において、あなたがたはこうした神への信仰生活を変化させる必要がある。あなたがたは、ひとつの事柄、問題、人間に集中し、真摯な取り組みを行う必要がある。あなたがたは重点的に物事を行う必要がある。そうして初めて、あなたがたは成果を挙げることが出来る。人間を変化させることは、人間の本質から始める必要がある。業は、人間の本質、生活、怠慢さ、依存性、卑屈さに重点を置く必要があり、人間を変化させるには、この方法によるしかない。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と日常生活を話し合うこと」より

神には人間の性情を変える手続と人間を救う手続がある。人間が自分の性情を示す過程により、神は人間を変化させられ、人間が継続的に性情を示して変化させる過程により、神はご自身の救済の目的を達成される。「これが自分の本性だから、それを出来る限り露わにしよう。後でそれを認めて真理を実践しよう。」と考える者も居る。この過程は必要であろうか。あなたがたが本当に真理を実践する人間であり、自分にも他人と同じ問題があると知ったならば、あなたがたはそうした物事を行わないように出来る限り努めるであろう。これは間接的な変化ではなかろうか。あなたがたは、そうした行動を取ろうと思うが、実際に行動する前にそれに気付いて止めることが時折ある。それは救済の結果を得ていることではなかろうか。あらゆる真理には、それを実践する過程があり、あなたがたは完璧となることが不可能であり、実践を始めた時は汚れた考えを持つことも不可能である。完全に自分の考えに従っている物事があるが、取り扱いと剪定を受けた後、あなたがたは最終的に神の御旨と御言葉に完全に従って行動するようになるであろう。これが変化ないし変容である。

『キリストの言葉の記録』の「神の御旨は人間を最大限に救うことである」より

継続的に神にご満足いただき、真理を実践し、自分自身を意識的に捨て去り、自分の考えを捨て去り、神の御旨に対して従順となることが出来たならば、すなわちその全てを意識的に出来たならば、それは真理を正確に実践することであり、本当に真理を実践することであり、それは従前自分の想像に依存し、教義や規則を守っていたのとは違う。事実、真理を理解せずに行動すること、教義や規則を守こと、終着点が無いこと、盲目に行動することは、最も難儀なことである。あなたがたは、真理があって始めて自由になるというのは嘘では無く、真理があれば容易かつ満足に行動出来る。このような状態の者は、真理を得た者であり、性情が変化した者である。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

現在において、神は特定の人間の集団を得ることを望まれている。この集団の人間は、神に協力するよう努め、神の業に従うことが可能であり、神が述べる言葉が真実であると信じ、神の要求を実践出来る者である。そうした者は、自らの心の中に、真の理解を備えている者である。そうした者は、完全にされることが出来る者であり、必然的に完全化への道を歩む。神の業に関する明瞭な理解が無い者、神の言葉を食べ飲みしない者、神の言葉に全く留意しない者、自らの心に神への愛が全く無いような者は、完全にされ得ない。肉にある神を疑う者、依然として神に関して確信していない者、神の言葉に関して決して真剣にならない者、常に神を欺く者は、神に反抗する者であり、サタンのような者であり、そうした者を完全にする術は無い。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に従う者を完全にされる」より

神により完全にされることを求めるには、まず神により完全にされることの意味、完全にされるために満たすべき条件は何かを知る必要があり、そうした物事を把握した後に実践の道を追求する必要がある。神により完全にされるためには、人間は特定の能力を備えている必要がある。あなたがたのうち殆どの者が、その必要とされる能力を備えておらず、その能力は、あなたがたが特定の代償と主体的な努力が必要とされる。あなたがたの能力が乏しければ乏しいほど、あなたがたは一層主体的に努力しなければならない。神の言葉に関するあなたがたの知識が多ければ多いほど、あなたがたは神により完全にされる道を歩む時期も一層早まる。あなたがたは祈ることにより、祈りの最中に完全にされることが可能となる。神の言葉の食べ飲み、その本質の把握、その実際性を行動で示すことにより、あなたがたは完全にされることが可能となる。神の言葉を毎日経験することにより、あなたがたは自分に欠如している物事を知り、またそれ以上に、自分の急所となっている物事や弱点を知り、そして神に祈りを捧げることにより、あなたがたは漸進的に完全にされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるためには神の旨に配慮する必要がある」より

もしそう思っているなら、あなたの肉を投げ捨てる勇気を持ち、神が述べる通りに行動でき、受け身にも弱くもならないだろう。あなたは神から来る全てのものに従うことができるだろう、そして、神の前で行う、行わないに関係なく、あなたの行動全ては、神に見せることができるものとなるだろう。正直であれ、そして、全てのことにおいて真理を実践せよ、そうすれば、あなたは完全にされるだろう。神の前ではあるやり方で行動し、彼の見えないところでは別のやり方で行動するようなずる賢い人は、完全にするに忍びない。彼らは、完全に破滅と破壊の子である。彼らは神ではなくサタンに属する。彼らは、神に選ばれる種類の人間ではない。もしあなたの行動と振る舞いが、神の前で見せられるものではないあるいは神の霊により見物されるようなものでないなら、これはあなたにおけるある問題を露わにしている。あなたが神の裁きと刑罰を受け入れて、あなたの性質を根本的に変えることに重きをおく場合のみ、完全にされる道へあなたは置かれるであろう。あなたが本当に神により完全にされたいと思い、神の意志を実行したいと本当に思うのなら、神の仕事全てに従うべきで、文句を一言も言わず、神の働きを好き勝手に評価あるいは判断したりすべきでない。神によって完全にされるためのまさに基本的条件がある。神によって完全にされることを求める者に対する要求は以下である。すなわち、神への愛を基に全てのことをせよ。神への愛を基に行動することの意味とは何だろうか。これはあなたの全ての行動や振る舞いは、神の前に見せられるということを意味する。正しい意志を貫けば、あなたの行動が正しかろうと間違っていようと、神あるいは兄弟、姉妹にあなたの行動が露わにされることをあなたは恐れない。あなたは、神に進んで誓いができる。あなたのあらゆる意図、思想、考えは、審査されるために神の前に見せられることができる。もしあなたがこのように実践して、入っていくならば、あなたのいのちの成長は速くなるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

神は人々を、その従順さを通して、神の言葉を飲食し、享受することを通して、生活における苦しみや純化鍛錬を通して完全にする。このような信仰を通してのみ、人々の性質は変化し、そうして初めて人々は神を本当に知ることができる。神の恩恵に囲まれて生きることだけに満足せず、積極的に真理を渇望し、真理を探求し、神のものとされることを求めること――これこそが意識して神に従うことの意味である。これこそが正に神が望んでいる信仰である。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

もしあなたが、神の言葉の本質を実現することができないなら、あなたの食べ、飲み、祈ることがまさに、宗教に関わっている。そして、そのような人々は神に完全にしてもらうことはできないし、神のものとされることもできない。神のものとされる人とは真理を追求する人である。神のものとされるのは、人の肉でもなければ所有するものでもなく、彼の内にある、神に属する一部である。これが、神が完全にするのは人の肉ではなく心であり、そうすることによって、神は人の心を自分のものとする、とわたしが言う理由である。言い換えれば、神が人を完全にすると言うことの本質は、人の心が神に向きを変え神を愛するように、神は人の心を完全にする、ということである。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より

神により使われ、完全にされたいと望むのであれば、苦難を受ける意志、信仰、忍耐、服従を、全て備えている必要がある。神の御業を経験する際は、神の御旨を把握し、神の悲しみに配慮できる必要がある。人間を完全にすることは容易ではなく、自分が経験する精錬それぞれにおいて、あなたがたの信仰と愛が必要とされる。神により完全にされたいのであれば、道に従うだけでも、神のために費やすだけでも十分ではない。神により完全にされる者となり得るためには、多くの物事を備えている必要がある。…あなたがたは、自分の器量がどの程度であるかを問わず、まず苦難を受ける意志と信仰を備え、そして肉に背く意志を備えている必要がある。神の御旨を満たすために、個人的に苦難を受け、自分の個人的利益を失うことを望まなければならない。また、従前神にご満足いただけなかった事について、自分自身を悔いる心を持ち、ただちに自分のことを悔いる必要がある。こうした事柄はいずれも不可欠であり、神はこうした事柄によりあなたがたを完全にされる。これらの条件を満たしていない場合、あなたがたは完全にされ得ない。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

完全にされる道、すなわち祈りを捧げること、神の言葉を食べ飲みすること、神の言葉の本質を把握すること、神の言葉の経験に対して真摯に取り組むこと、自分に欠如している物事を知ること、神の業に従うこと、神の負担に配慮し、愛する心で肉を捨てること、兄弟姉妹と頻繁に交わることは、あなたがたの経験を豊かにする。社会生活であるか、個人生活であるかを問わず、また大規模な集会か、小規模な集会かを問わず、そうした物事は、すべてあなたがたが自分の心を神の前で静められ、神へと還ることが出来るようにするための経験と訓練を受けることを可能とする。こうした物事は、すべて完全にされることの過程である。語られている神の言葉を経験することは、あなたがたが神に対する一層大きな信仰と愛を備えられるように、神の言葉を実際に味わい、それをあなたがたが行動で示すことを可能とする。このようにして、あなたがたは次第にサタンのような堕落した性情を払拭し、不適切な動機から脱し、正常な人間像を行動で示すであろう。あなたがたに対する神の愛が大きければ大きいほど、つまりあなたがたの中で神により完全にされている部分が大きければ大きいほど、あなたがたがサタンにより腐敗させられる程度が低くなる。あなたがたの実戦経験により、あなたがたは次第に完全にされる道へと近付くであろう。ゆえに、あなたがたが完全にされることを願うならば、神の旨に配慮することと、神の言葉を経験することは、特に重要である。

『言葉は肉において現れる』の「完全とされるためには神の旨に配慮する必要がある」より

完全に至る道は、あなたの聖霊の働きへの従順さを通してたどり着く。あなたは、あなたを完全にするために、神がどんな種類の人を通して働くのかを知らないし、どのような人、どんな出来事、またはどんな事柄を通して、彼があなたに利益をもたらし、あなたが洞察力を得ることができるようにするのかも知らない。あなたが、この正しい道を歩けるのなら、このことは、あなたには、神により完全にされるすばらしい希望があることを示す。それができないのなら、このことは、あなたの未来はわびしく、暗闇の未来となることを示す。あなたが正しい道を歩けば、あらゆる事柄に啓示が与えられるだろう。聖霊が他の人にどんなに啓示を与えようとも、もしあなたが、彼らの認識にもとづいて自らの経験の中で続ければ、それはあなたのいのちとなるだろう、そして、この経験からあなたが他の人に与えることもできるだろう。他の人に単に言葉だけを与える者は経験がない者である。あなたは自身の実際の経験や認識を話す前に、他からの啓蒙や啓発を通じて、実践の方法を見出すことを学ばねばならない。これは、あなた自身のいのちにとってより大きな利益となるだろう。あなたは、神から来るすべてのことに従いながら、このようにして経験すべきだ。あなたは全てのものに神の心を求めるべきであり、全てのものに教訓を得るべきであり、そうしてあなたは霊的に成長すべきだ。そのような実践が成長をもっともはやく実現する。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

現在、あなたが主として追求すべきことは、すべての事柄において神によって完全にされることであり、そしてあなたが向かい合っているすべての人、事態、事柄を通して、神によって完全にされることである。そうすることによって、神という存在のより多くのものがあなたの中へ取り込まれる。あなたは神から、より多くより大きな祝福を受け継ぐ資格を得る前に、まず地上で、神からの授かりものを受け取らねばならない。今述べたことのすべてが、あなたが追求すべきことであり、最初に理解すべきことである。あなたが、すべての事柄において神によって完全にされることを追求すればするほど、あなたは、すべての事柄において神の導きを見ることができ、そしてそこから神の言葉の存在やその現実性を、異なる立場を通じさらに異なる事態において、積極的に考慮しようとするだろう。あなたは、単に罪を犯さない、あるいは何の考えも持たない、人生哲学を全く持たない、人間としての意思を持たないといった、否定的な状態に甘んじてはいけない。神は、いろいろなやり方で人を完全にする。あなたが結果的に完全にされることはあらゆる事態において可能である。あなたは、肯定的なことから完全にされることが可能であるだけでなく、否定的なことからも完全にされることができる。結果的にあなたは豊かになる。毎日、神によって完全にされる好機そして神のものとされる時が出現する。そのような経験をすると、あなたは大きく変わる。今のあなたは自然に、以前には理解できなかった多くの事柄に対し洞察力を獲得することができるだろう。すなわち、誰かがあなたに教える必要もなく、無意識のうちに、あなたは神によって導きと示しを与えられ、あなたの経験することの細部に至るまで全てが、与えられた示しと導きが活かされたものとなる。神は、あなたを、どちらの側にも曲がって進まないように、先導するだろう。そしてあなたは、完全にしてもらう道へと、神によって導かれるだろう。

神によって完全にされることは、神の言葉を食べたり飲んだりすることによって完全に達することに、限定されない。このような経験のあり方は、あまりにも一面的で、幅広く多くのものを包含していない。すなわち、人を非常に狭い範囲に閉じ込めるだけである。このような場合、大いに必要とされる心の成長機会が得られない。もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学ばねばならないし、直面するいかなる事柄においても、神の知識と示しを与えられなくてはならない。何かに向かい合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の立場から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における脱線である)。後者が、あなたの経験の仕方であるなら、あなたの心は霊的成長のための責任で一杯になるだろう。あなたが神の顔の光の下で生きるならあなたの経験における脱線は起こらないだろう。そのような人は、大きな展望を持つ。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より

完全にされた者は正常な人間性だけでなく、良心の判断を超え、良心的基準を超える真理を備えている。そうした者は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、それ以上に、神を知り、神が愛しいこと、人間が愛するに相応しいこと、神には愛すべき部分が多いので、人間は神を愛さずに居られないことを知っている。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的意欲を満たすためのものである。そうした者の愛は自発的な愛であり、見返りを求めない愛であり、取引では無い。そうした者が神を愛す理由は、神に関する自分の認識のほかに無い。そうした者は神が自分に恵みを与えるかどうかを気にすることは無く、神を満足させることのみで自分も満足する。…完全にされた者は、常に神が創造主であり、神が自分に対して業を行っていると考え、また自分には完全にされることが可能な機会と状況、そして資格があるのだから、有意義な生活を送ることを追求し、神を満足させるべきである、と考えている。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

人の経験がある点を越えると、その人の人生に対する見方、存在意義、また存在の基盤は全く変えられる。それはあなたが生まれ変わり、全く異なる人になることである。これは驚くべきことだ。それは大きな変容であり、すべてをくつがえすようなものである。名声、利益、地位、富、快楽、世の栄光が重要ではないと感じるようになり、あなたはそれらを苦も無く手放すことができるようになる。これは人間の似姿にある人だ。最終的に完全な者とされた人々は、このようなグループの一員となるだろう。彼らは真理のため、神のため、そして義のために生きる。これが人の似姿である。

『キリストの言葉の記録』の「人の本性における共通点と相違点を理解する」より

人間は、神を知り、真理を備えいる場合のみ、光の中で生きる。また人間は、自分の世界観と人生観が変わった場合のみ、その者は根本的に変化する。その者に人生の目標があり、真理に従って行動し、神に対して完全に服従して神の御言葉に従って生活し、確信し、照らされていることを霊の深遠で感じ、自分の心に闇が無く、神の御前で完全に自由に、かつ制限されること無く生きて初めて、その者は真の人間の生活を送り、真理を備えた者となる。また、あなたがたが備えている真理は、全て神の御言葉と神ご自身に由来する。全宇宙と万物の支配者たる至高の神が、真の人間の生活を送る真の人間であると、あなたがたを承認する。神の承認以上に有意義なことがあり得るだろうか。真理を備えた者とは、そのような者である。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

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