唯一無二の神自身 7 神の権威、神の義なる性質、および神の聖さの概論 その3

神は万物のいのちの源である(1)

それでは、次の物語へと進みましょう。次の物語は内容が多少異なり、要点も少しばかり違います。物語に登場する物事は、神の創造物のうち、人がその目で見られるものばかりです。さて、次の話を始めましょう。静かに耳を傾け、わたしの言わんとすることを理解できるかどうか確かめてください。物語のあと、あなたがたに質問して、あなたがたがどの程度学んだかを確認します。この物語の登場人物は大きな山、小川、強風、そして巨大な波です。

第2の物語:大きな山、小川、強風、そして巨大な波

曲がりくねった小川があり、その小川は大きな山の麓へと流れ込んでいました。この山は小川の流れを遮っていたので、小川は「私を通してください。あなたが立ちふさがっているので、先へ進むことができません」と、か弱い小声で山に頼みました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。小川は「自分の故郷を探しています」と答えました。山は「わかった。私を超えて流れてゆくがいい」と言いましたが、小川は弱く、幼かったので、そのような大きな山を越えて流れることなどできません。そうしたわけで、小川は引き続き大きな山の麓に流れ込むことしかできませんでした。

強風が吹き込み、砂や瓦礫を山がそびえる場所へと運んできました。強風は大声で「私を通せ」と怒鳴りました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。強風が「山の向こう側へ行きたいのだ」と怒鳴り返したところ、山は「わかった。私の胴体を割って通れるのであれば、通ってよろしい」と答えました。強風はあちこちから吹き込みましたが、どれほど強く吹き込んでも山の胴体を割ることはできませんでした。そのうちに疲れてしまい、吹くのを止めて休んだのですが、山の反対側でそよかぜが吹き始め、そこにいる人たちを喜ばせました。それは人々に対する山からの挨拶だったのです……

海辺では、小波が岩だらけの岸に優しく打ち寄せていました。すると突然、大波が現れ、山の方へと押し寄せていきました。大波が「そこをどけ」と叫んだところ、山は「どこへ行くのか」と尋ねました。大波は止まることができず、「領地を拡大しているところだ。両腕を伸ばしたいんだ」と答えました。山は「わかった。私の頂を越えて通れるのであれば、道を譲ろう」と言いました。すると大波は少し下がってから、再び山へ向かって押し寄せました。しかしどれほど頑張っても、山の頂を越えることができません。大波は徐々に海へと退くことしかできませんでした……

小川は何千年にもわたって山の麓を優しく流れ続けました。山が指し示す方向をたどり、故郷に戻って大河と合流し、やがて海へと流れ込んだのです。小川は山の慈しみを受け、決して迷うことがありませんでした。小川と山は互いに頼り合い、強め合い、交流し合い、共存していました。

強風は数千年経っても相変わらず山に吹きつけていました。そして大きな渦を巻く砂を巻き込みながら、しばしば山を「訪れ」ました。山を脅かしたものの、その胴体を割ることはできませんでした。風と大きな山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

大波もまた数千年にわたって休むことなく、激しい勢いで押し寄せ、絶えず領地を広げていました。何度も山へと押し寄せたものの、山はまったく不動のままでした。山は海を見守り、そのために海中の生物は増加し、繁栄しました。波と山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

さて、物語はこれで終わりです。まず、この物語は何に関するものでしたか。最初に大きな山があり、小川、強風、そして巨大な波が登場しました。最初の部分では、小川と大きな山の間で何がありましたか。わたしが小川と大きな山について話すことを選んだのはなぜですか。(大きな山による慈しみのもと、小川は道に迷うことがありませんでした。互いに頼り合っていたのです。)山は小川を守っていたと言えますか、それとも妨害していたと言えますか。(守っていました。)しかし、小川を妨害してはいませんでしたか。山と小川は互いに見守り合っていました。山は小川を守りながら、同時に妨げてもいたのです。山が小川を守っていたので、小川は大河へと流れ込むことができましたが、同時に山は小川の流れを遮り、それによって洪水を引き起こして人々に災害をもたらすのを防いだのです。これが、この一節が言わんとしていたことではありませんか。小川を保護し、同時にその流れを妨げることで、山は人々の家を守ったのです。やがて小川は山の麓で大河と合流し、海へと流れ込みました。それは小川の存在を律する法則ではありませんか。小川が大河へと流れ込み、そして海へと流れ込めたのは何のおかげですか。それは山のおかげではなかったですか。小川は山の保護と障壁に頼っていました。では、それが要点ではないのですか。その中に、山の小川に対する重要性を見て取れますか。大きかろうと小さかろうと、すべての山を造ったことについて、神には計画があったでしょうか。(ありました。)これは短い一節に過ぎず、小川と大きな山に過ぎませんが、そこからわたしたちは、神がこれら二つのものを造ったことの価値と意義を理解することができます。また、それらを支配することにおける、神の知恵と目的も示しています。そうではありませんか。

この物語の次の部分は何に関するものでしたか。(強風と大きな山です。)風はよいものですか。(よいものです。)そうとは限りません。風が強すぎて災害を引き起こすことがあります。強風の中に立たせられたらどう感じますか。それはその強さ次第ですね。風力3、4程度の微風であれば我慢できるでしょう。せいぜい目を開け続けるのが難しくなるだけです。しかし、風が強くなって暴風になったら、あなたは耐えられますか。耐えられないでしょう。したがって、風は常によいものである、あるいは常に悪いものである、と人々が言うのは間違っています。なぜなら、それは風の強さによるからです。さて、ここで大きな山はどのように機能していますか。風防として機能しているのではないですか。山は強風をどの程度まで弱めていますか。(そよ風にしています。)では、人間が暮らす環境の中で、大半の人が晒されているのは強風ですか、それともそよ風ですか。(そよ風です。)それは、神が山を造った目的の一つ、意図の一つではありませんか。風に吹かれた砂が激しく舞い上がり、それを防ぐものも、妨げるものもない環境の中で人間が生活したとすると、それはどのような生活ですか。砂や石が飛び交う土地など、人間には住めないのではありませんか。石が人に当たり、砂が人の目を見えなくするでしょう。人間が空に舞い上がったり、足元をすくわれたりすることもあるでしょう。家は破壊され、様々な災害が起こるに違いありません。それでもなお、強風の存在に価値はありますか。わたしが、風は悪いと言ったので、人はそれに何の価値もないと感じるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。そよ風に変われば価値があるのではないですか。湿度が高くむせかえるような天気のとき、人が一番必要とするのは何ですか。そよ風が優しく吹いて気分を爽快にし、頭をすっきりさせ、思考を研ぎ澄まし、精神状態を直して改善することが必要です。たとえば、あなたがたはいま、多くの人がいる風通しの悪い部屋に座っていますが、あなたがたに一番必要なものは何ですか。(そよ風です。)空気がよどんで汚れている場所に入ると、人間の思考は遅くなり、血行は悪くなり、頭脳の明晰度も落ちます。しかしながら、少しばかり空気を動かして循環させれば、空気が新鮮になって人の気分も変わります。小川や強風は災害を起こす可能性もありますが、山がそこにある限り、その危険を人間にとって有益な力に変えるはずです。そうではありませんか。

この物語の3番目の部分はどのような内容でしたか。(大きな山と大波の話でした。)そのとおり、大きな山と大波の話です。この一節の舞台は山の麓の海岸です。山、波しぶき、そして大波が登場します。この一節の中で、大きな山は大波にとってどのような存在ですか。(保護するものであり、障壁でもあります。)山は保護するものであり、かつ障壁です。大波を保護することで、海が消え去るのを防ぎ、その中の生物が増殖して繁栄できるようにします。障壁としての山は、海水が溢れて災害を引き起こし、人々の家を破損したり破壊したりするのを防いでいます。したがって、この大きな山は保護するものであり、障壁でもあると言えます。

このことは大きな山と小川、大きな山と強風、そして大きな山と大波の相互関係の意義を示しています。それらが互いに強め合い、妨げ合い、共存していることの意義です。神が造ったこれらのものは、規則と法則によってその存在を律せられています。では、あなたがたはこの物語の中で、神のどのような業を目の当たりにしましたか。神は万物を造って以来、それらを無視してきましたか。神は法則を設け、万物がどのように機能するかを計画したにもかかわらず、そのあとはそれらを無視しましたか。そのようなことがありましたか。(ありません。)それでは、どのようなことがあったのですか。神はいまだに支配しています。水、風、波を支配しているのです。神は、そうした物事が荒れ狂うことも、人々が暮らす家を破損したり破壊したりすることも許しません。そのおかげで、人は地上で生活し、増殖して繁栄することができるのです。つまり、神は万物を造ったとき、すでにその生存法則を計画していました。神は一つひとつの物事を造ったとき、それが人間に資することを確認し、またそれを支配することで、人間を悩ませたり、災害をもたらしたりすることがないようにしたのです。神による管理がなかったとしたら、水は何の制限も受けずに流れるのではないでしょうか。風も制限を受けずに吹くのではないでしょうか。水と風は法則に従いますか。神がそれらを管理せず、それらを律する法則もなければ、風は吹き荒れ、水は何の制限も受けずに洪水を引き起こすでしょう。波が山より高かったとしたら、海は存在できるでしょうか。できないはずです。大きな山が波ほど高くなければ、海は存在しないでしょうし、大きな山はその価値と意義を失うに違いありません。

これら二つの物語の中に、あなたがたは神の知恵を見て取れますか。神は存在する一切のものを造り、それを支配しています。神はそのすべてを管理し、それらに施しを与え、また万物のあらゆる言動を見て吟味しています。それゆえ、神は人間生活のあらゆる部分をも見て吟味しているのです。したがって、神は一つひとつの物事の機能、本質、およびその生存法則から、そのいのちの意義、そして生存の価値に至るまで、自ら造ったあらゆる物事を、掌を指すかのように詳しく知っており、それはどれも完全に神の知るところとなっています。神は万物を造りましたが、それらを律する法則について研究する必要が神にはあると思いますか。神は人間の知識や科学を研究し、それらについて学んで理解する必要がありますか。(必要ありません。)人間のうち、神のように万物を理解できるほど、知識と学識を備えた人はいるでしょうか。いませんね。万物が生きて成長するか、その法則を真に理解している天文学者や生物学者がいるでしょうか。そのような人たちに、一つひとつの物事の存在価値を真に理解することができますか。(できません。)それは、万物が神によって造られたからであり、人間がどれほど多く、どれほど深くこの知識を研究したとしても、あるいはどれほど時間をかけてそれを知ろうと努力したとしても、神による万物創造の奥義や目的を推測することは決してできません。違いますか。さて、ここまでの議論から、あなたがたは「神は万物のいのちの源である」という言葉の真意を部分的に理解したと感じていますか。(感じています。)「神は万物のいのちの源である」というこの主題について述べると、多くの人は「神は真理であり、言葉を使って私たちに施す」という別の言葉をすぐに思い浮かべ、この主題の意味についてそれ以上は何も考えないでしょう。中には、神が人間の生活に施し、日々の食べ物や飲み物、そして日常のあらゆる必需品を与えていることは、神が人間に施しているとはみなされないとすら感じる人もいるでしょう。一部の人はこのように感じているのではないですか。しかし、神の創造の意図は明らかではないですか。つまり、人が正しく存在して生きられるようにすることではないのですか。神は人が暮らす環境を維持し、人間が生き延びるのに必要なものを残らず与えます。さらに、神は万物を管理し、支配しています。こうしたことにより、人間は正しく生活し、繁栄して増殖することができるのです。神はこのようにして、すべての被造物と人間に施します。人間は、こうした物事を認識して理解する必要があるのではないでしょうか。「この主題は、真の神自身に関する私たちの認識からあまりにかけ離れているし、私たちはパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのだから、こうしたことなど知りたくもない」と言う人もいるかもしれません。そうした認識は正しいですか。(正しくありません。)なぜ正しくないのですか。神が言ったことに関する認識があるだけで、神を完全に理解することができますか。神の働き、裁き、そして刑罰を受け入れるだけで、神を完全に理解することができますか。神の性質や権威のごく一部を知っているだけで、神を理解するには十分だと考えられますか。(考えられません。)神の業は万物の創造に始まり、現在も続いています。神の業が不明瞭だったことは一瞬たりともありません。神が人々の一団を選んで彼らに働きを行ない、彼らを救ったというだけで、神は存在していると信じ、他の何も神とは関係なく、神の権威、身分、あるいは業とも関係ないと信じるなら、その人は神を真に知っていると見なせますか。このいわゆる「神に関する認識」をもつ人は、一方的な理解しかしておらず、それによって神の業を人の一団に限定します。それは、神に関する真の認識ですか。このような認識を持つ人々は、神による万物の創造と支配を否定しているのではないですか。中にはこの点に関わろうとせず、「万物に対する神の支配を、わたしは見たことがない。その考えはあまりに自分とかけ離れていて、わざわざ理解しようとは思わない。神は望むことを何でも行なうが、それはわたしに無関係である。わたしが関心をもつのは、神の導きと御言葉を受け入れ、神によって完全にされ、救ってもらうことだけだ。他の何もわたしには関係ない。神が万物を造ったときに定めた規則や、万物と人間に施すために行なうことは、わたしと何の関係もない」などと思い込む人がいます。何という話でしょうか。これは反抗ではないですか。あなたがたの中に、このように認識している人はいますか。たとえそう言わなくとも、ここにいるあなたがたの大半がこのように考えていることを、わたしは知っています。このような型通りの人間は、自分の「霊的」観点からすべてを見ます。彼らは、神が語った言葉によって神を聖書に限定し、文字どおりの言葉の意味に限定しようとするばかりです。この種の人は神をさらに知ることを望まず、神が他の業を行なうことに注意を割くのを望みません。こうした考え方は子供じみたもので、同時に極めて宗教的です。こうした見方をする人は神を知ることができますか。こうした人が神を知るのはとてつもなく難しいでしょう。今日、わたしは二つの物語を話し、あなたがたはいまこの件に関する二つの側面を聞いたわけですが、それらを耳にしただけでは、いずれも難解だったり、多少抽象的だったりして、理解するのが難しいと感じているかもしれません。それを神の業や神自身と関連づけるのは難しいでしょう。しかし、神の業、そして神が万物や人間の中で行なったことはどれも、すべての人、神を知ろうとするすべての人が、明瞭かつ正確に知らなければならないものです。この認識は、神の真の存在に対する信仰を確固たるものにします。また、神の知恵と力、そして神が万物に施す方法についても、正確な認識をあなたにもたらします。さらにこの認識は、あなたが神の真の存在をはっきり知覚し、神の存在が架空のものでも伝説でもなく、漠然としたものでもなく、学説でもなく、ましてや一種の精神的な慰めでもなく、現実の存在であることを理解できるようにします。そのうえ、神が常にすべての被造物と人間に施してきたことを、人々に知らしめます。神は自身の方法で、神自身の律動にしたがってこれを行ないます。ゆえに、神の予定のもと、万物が自分に割り当てられた任務を行ない、自分の責任を果たし、自分の役割を果たせるのは、神が万物を造り、それらに法則を与えたからなのです。神の予定のもと、一つひとつの物事は人間のため、人間が暮らす空間と環境のため、それぞれの役割を果たします。仮に神がそのようにせず、人間がこのような生活環境をもっていなければ、人間が神を信じたり神に従ったりすることは不可能でしょう。それは単なる無駄話にしかならないはずです。違いますか。

先に述べた大きな山と小川の物語に再び目を向けましょう。この山の役割は何ですか。山には生物が繁殖しているので、その存在には固有の価値があり、同時に小川を妨げて自由に流れるのを防ぎ、人々に災害をもたらさないようにしています。そうではありませんか。山は独自の形で存在し、そこに住む無数の生物、つまり木々や草やその他の動植物が繁栄できるようにしています。山はまた小川が流れる方向を導き、水を集めて山の麓を自然に流れさせ、そこで小川は大河へと流れ込み、最終的に海へと到達できます。これらの法則は自然に生じるものではなく、創造の際、神が特に定めたものです。大きな山と強風の部分について言えば、山は強風も必要としています。山は、そこに棲む生物に風が心地よく吹きつけることを必要とする一方で、風が無闇に吹かないよう、強風の力を押さえつけています。ある点において、この法則は大きな山の義務を体現しています。それでは、山の義務に関するこの法則は、自然と生じたものでしょうか。(違います。)それは神によって定められたものです。この大きな山には義務があり、強風にも義務があります。今度は大きな山と巨大な波に目を向けましょう。山の存在がなかったとしたら、大波は自分で流れる方向を探し当てていたでしょうか。(そのようなことはありません。)水は洪水になるでしょう。山には山としての存在価値があり、海には海としての存在価値があります。しかし、両者が正常に共存でき、相互に干渉しない状況において、両者は相互に制限もします。大きな山は、海が洪水を起こさないように制限し、それによって人々の家を守ります。また、海を制限することで、海中に棲む生物を養うことができます。この光景は自然に生まれたものでしょうか。(違います。)これもまた神によって造られたものです。この光景から、神は万物を造ったとき、山がそびえる場所、小川が流れる場所、強風が吹き出す方角と吹き込む方角、巨大な波の高さを予め決めていたことがわかります。これらのすべてに神の意図と計画が込められており、それは神の業なのです。さて、万物に神の業が存在することを理解できましたか。(理解できました。)

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