受肉した神の職分と人間の本分の違い ( 後半)

人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。すると、人間は自分の本分を尽くしたことになる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも影響することもない。奉仕の最中に露わになるであろう欠点を恐れて、奉仕をやめたり妥協したり退いたりする者たちは、すべての人々の中で最も臆病な者たちだ。もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、のらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのだ。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物としての尊厳に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った、堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を代表することができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。もし人間が人間として本来達成可能なことを失うなら、その人はもはや人間とはみなされない。その人は被造物として存在し、神の前に来て神に仕える資格はない。さらに、そんな者は神の恵みを受け、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格はない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした人々は、自分たちの悪行を恥ないどころか、ずうずうしくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定することさえする。どうしてそのような反抗的な人間が神の恵みを享受する特権をもてよう。自分の本分を果たすことのできない人間は、神に対して極めて反抗的で、多くを神に負っている。それにもかかわらず、彼らは反対に、神が間違っていると激しく非難する。そうした人間がどうして完全にされるに値するのか。これでは、神に取り除かれ、罰される一歩手前ではないのか。神の前で自らの本分を果たさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪には死さえも充分な罰ではない。しかし、人間はずうずうしくも神に反論し、自らを神に比べるのだ。そんな人間を完全にする値打ちがどこにあるだろうか。もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきだ。自らの弱さ、無用さ、反抗心、腐敗、を恥じ、神のために自らのいのちと血を犠牲にするべきではないのか。そうしてはじめて、真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格があるのだ。では、あなたたち大多数はどうなのだろう。あなたたちの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしているのか。あなたたちは、するように命じられたすべてのことを命がけで為し遂げたことがあるのか。あなたたちは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたたちは区別ができないのか。あなたたちは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたたちは、どれほどわたしに仕えたというのか。また、わたしがあなたたちに授け、あなたたちのためにしたことは、みな、どうなったのか。あなたたちは、その大きさを測ったことがあるのか。それをあなたたちのささやかな良心に照らして判断したのだろうか。あなたたちの言動をいったい誰に正当化するつもりなのか。そんなにもちっぽけなあなたたちの犠牲は、わたしがあなたたちに授けたものすべてにふさわしいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたたちに献身してきたが、あなたたちはわたしについて邪悪な疑念をもち、いい加減な気持ちでいる。あなたたちのいう本分とはこの程度で、それがあなたたちの唯一の役割だ。そうではないのか。あなたたちは被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたたちが被造物とみなされるのか。あなたたちは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのか、はっきりわかっているのだろうか。あなたたちは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得えることを求めている。このような恵みはあなたたちのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたたちのような人々、凡庸な、取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたたちの将来につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたたちの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに忠実でないのなら、あなたたちの分け前は罰だけである。どんな恵みも祝福も、神の国でのすばらしい生活も、その人には無縁である。これがあなたたちに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果なのだ。そうした愚かで傲慢な人々は最善を尽くしもせず、自分の本分を果たしもせず、そのかわりにただ恵みを求めて手を差し出す。まるで、自分たちにはそれを求める資格があるかのように。そして、もし求めるものが得られなければ、さらに不信仰になる。どうしてこんな者たちが理性的だとみなされようか。あなたたちは能力に乏しく、理知に欠け、救いの働きの間に成し遂げるべき使命を達成することがまったくできない。あなたたちの価値はすでに大幅に減じている。あなたたちが、わたしの示した好意への返礼の欠如は、すでに極度の反抗の行為であり、あなたたちを罪に定め、あなたたちの臆病さ、無能さ、卑しさ、下劣さを暴露するに充分だ。どうしてあなたたちに、まだ手を差し出し続ける資格があるのか。あなたたちはわたしの働きのほんの僅かな助けにもならなず、自分の信仰に献身することも、わたしのために証しすることもできない。これらは既にあなたたちの悪行と欠点であるが、あなたたちは、かえってわたしを非難し、わたしについて偽りを語り、わたしが不正だと不平を言う。これが、あなたたちの忠実というものか。これが、あなたたちの愛というものか。これ以外に、どんな働きができるのか。すでに行われたすべての働きに、あなたたちはどれほど貢献したのか。どれほどの労力を費やしたのか。わたしがあなたたちをまったく非難しないのは、すでに大いなる慈悲だ。しかし、あなたたちはまだ恥知らずにもわたしに言い訳し、わたしについて陰で不平を言っている。あなたたちには、ほんのわずかの人間性もないのか。人間の本分は人間の心とその観念に汚染されているが、あなたたちは本分を尽くし、信仰に身を捧げなければいけない。人間の働きの中に現れる不純物は、その人間の能力の問題だが、もし人間が本分を尽くさないのなら、それは反抗心の現れだ。人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の関係もない。本分は人間が全うすべきことだ。それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえるのだ。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。人間が徐々に変えられるのは、いつでも、その人が本分を尽くしている間だ。また、その過程で、その人の忠実さが明らかになる。だから、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け、あなたの表現はもっと本当のものになる。ただ形の上だけで本分を尽くしているふりをして、真理を求めない者は、最後には淘汰される。何故ならそのような者たちは真理を実践することによって自分の本分を果たすことをせず、その本分を果たす際に真理を実行しないからである。そうした人は変わらない人で、呪われるであろう。彼らの表すものは不純であるだけでなく、邪悪なものばかりである。

恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの業を為した。イエスはイザヤとはどう違っていたのだろうか。イエスはダニエルとどこが違っていたのか。イエスは預言者だったのだろうか?何故彼はキリストだと言われるのだろう。彼らの間の違いとは何であろう。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の表面的な深さ浅さを考察すべきではない。いつもまず、イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果を第一に考えなければいけない。当時イザヤによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、ダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。何故ならそれはただの人間には不可能なことだからだ。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからだ。第二に、イエスは人間の逸脱したところを正常に戻すことができた。第三に、イエスの業はヤーウェの業をひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。最後に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのだ。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点をみただけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェのために行った働きの要素の一つでしかなかったことがわかる。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけだ。イザヤは律法の時代以外では働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエスは受肉した神として働き、すべての人間を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行ったのだ。それが新たな時代を招き入れたということだ。もう一つのは、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の救いの働きの計画に属するもので、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人のために働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのか。こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことだった。これらの事実が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間にも具体的に理解できる神の言葉と働きにおいてのみ、判断できるのだ。これだけが現実的だ。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないのだ。イエスが神であるかどうかは、その働きによって確かめられるだけだ。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った働きは、主に新たな時代、新たな働きを開きし、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。イザヤ、ダニエル、そして他の預言者はみな、高度な教育を受けた教養ある人間だった。彼らはヤーウェの導きの下にあった非凡な人々であった。受肉の神の「肉」もまた、豊かな知識をもち、知性もすぐれていたが、イエスの人間性はごく普通の人間のそれだった。イエスは普通の人間で、人間の目には特に変わった点は見当たらず、その人間性に他人と異なる点は何もなかった。イエスはまったく超越的でも特異でもなく、また、高度な教養や知識、理論は備えていなかった。イエスの語ったいのちと、イエスの導いた道は理論や知識、人生経験、あるいは家庭内の教育に基づいたものではなかった。そうではなく、霊と受肉した神の肉とが直接働いていたものなのだ。それは、人間は神についていろいろな観念を持っているからだ。とりわけ、そうした観念はあまりに多くの漠然とした、超自然的な要素を含んでおり、人の目には、人間の弱さをもち、しるしや不思議を行うことのできない普通の神というのは、とうてい神とは思えないのだ。これらは人間の誤った考えではないのか。もし受肉の神の肉体が普通の人間のものでなければ、どうして人間になったと言えるだろうか。肉の体をもつということは、普通の正常な人間であるということだ。もしそれが超越的な存在なら、それは肉による存在ではなかったであろう。自分が肉による存在であることを証明するために、受肉した神は普通の人間の体をもつ必要があった。これは単に受肉の意味を完全なものにするためだった。しかしながら、これは預言者や人の子では違っていた。彼らは多くの賜物を与えられ、聖霊に用いられた人々であった。人の目には、彼らの人間性はとりわけ偉大で、彼らは普通の人間性を超えたことを多く行った。そのために、人は彼らを神とみなした。さて、あなたたちはみな、この点を明らかにしておかなければいけない。と言うのは、この問題は過去の時代のほとんどの人々によって、誤解され続けてきたことであるからだ。さらに言えば、受肉は最も神秘的な奥義であり、受肉した神は人間にとって最も受け入れ難いものだ。わたしの述べていることは、あなたたちが自分の役割を果たし、受肉の奥義を理解する助けとなる。これはみな、神の経営、ビジョンに関連している。あなたたちがこれを理解することは、ビジョン、つまり救いの働きについての認識を得るためにいっそう役に立つだろう。このようにして、あなたたちはまた、さまざまな人々が果たすべき本分について多くを理解するだろう。これらの言葉は、あなたたちに直接道を示さないが、それでもあなたたちの進歩の大きな助けとなる。というのは、あなたたちの現在の生活にはビジョンがひどく欠けており、これがあなたたちのいのちの道への大きな妨げとなるであろうからだ。もしあなたたちがこれらの事がらを理解できないままであれば、いのちの道へ入ることを促す動機は何もないだろう。また、そうした努力がどうしてあなたたちが本分を果たすための助けになるだろうか。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
連絡先
Line経由で連絡する