神の働きと人の働き(前半)

人の働きのうち聖霊の働きはどのくらいなのだろうか、また人の経験はどのくらいあるのだろうか。今でさえ、人々はこれらの質問を理解していないと言えるが、人々が聖霊の働きの原則を理解していないことがその理由のすべてである。わたしが意味する人の働きとは、もちろん、聖霊の働きを持っている人々の働き、あるいは聖霊によって用いられている人々の働きのことを指す。わたしが言っているのは人の意志から生じる働きのことではなく、聖霊の働きの範囲内にある使徒、働き手、あるいは普通の兄弟姉妹の働きのことである。ここで言う人の働きとは、肉となった神の働きではなく、人々に作用する聖霊の働きの範囲と原則のことである。これらの原則は聖霊の働きの原則と範囲であるが、肉となった神の働きの原則と範囲とは異なる。人の働きには人の本質と原則があり、神の働きには神の本質と原則がある。

聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されることはない。その働きは人によって変化し、伝える働きの本質も異なる。時代が異なれば働きも異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で、多くの原則に従って働くにもかかわらず、どのように働きが行われようと、どのような人々に作用しようと、本質はつねに異なり、異なる人々に行う働きすべてには原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きがはっきり限定されており、非常に計画的だからである。人間の姿をした神の肉でなされる働きは人々を対象とする働きと同じではなく、その働きは人々の力量の違いによっても変化する。人間の姿をした肉でなされる働きは人々に対しては行われず、人間の姿をした肉では、人々に対する働きと同じ働きは行わない。一言で言えば、聖霊がどのように働こうとも、対象が異なれば働きは決して同じではなく、働きに用いる原則はさまざまな人々の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は、人々に本来備わっている本質に基づいてさまざまな人々に働きかけ、本来備わっている本質を越えた要求はしないし、実際の力量を越えた働きかけもしない。そこで、聖霊の人に対する働きによって人々はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人の実際の力量は限られている。聖霊が人々を用いようと、人々に対して働こうと、人々が働きから恩恵を受けられるように、その働きはつねに人々の力量の限界に応じている。用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。聖霊の無数の働きはすべて、人に利益を与え、啓発することを目指している。しかし、完成される人もいれば、完成のための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完成されることはなく、ほぼ救いがたい人々で、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、結局は取り除かれる。すなわち、聖霊の働きは人々を啓発することだが、それは、聖霊の働きを持った人すべてが完全に完成されることを意味するのではない。なぜなら、多くの人が追求する道は完成への道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的で相互性のない働きを持っているだけで、主観的な人間の協力、あるいは正しい人間の追求はないからである。このようにして、これらの人々への聖霊の働きは完成される人々のための働きになる。人々は聖霊の働きを直接見ることはできないし、自分で直接触れることもできない。働く賜物を持った人々の助けを通して表現されるだけである。つまり、聖霊の働きはそうした人々が表現することによって信奉者に与えられる。

聖霊の働きはさまざまな種類の人々や多くの異なる条件によって遂行され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体の人々の成長を表すことができるが、人々の参加の詳細に作用する働きはやはり、肉となった神によってではなく、聖霊が用いる人々によってなされる必要がある。そこで、神の働き、つまり、神自身が働く部分は、人間の姿をした肉の神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なるタイプの人々を通して完成され、ただ一人の特定の人物が実行したり、一人の特定の人物が十分に明らかにしたりすることはできない。教会を導く人々も完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きをいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは3つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられる人々の働き、聖霊の流れの中ですべての人に作用する働きの3つに分けることができる。その中で、神自身の働きは時代全体を導くことであり、用いられる人々の働きは、神自身の働きの後に送りだされたり、命令を受けたりすることによって、神の信奉者全員を導くことであり、これらの人々は神の働きに協力する人々である。流れの中で人々に作用する聖霊の働きは自身の働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体を維持し、証を維持し、それと同時に完成させることのできる人々を完成することである。これら3つの働きは聖霊の完全な業であるが、神自身の働きがなければ、経営の働き全体は停滞してしまうだろう。神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。人々が受動的状態で経験していると、彼らの交わりのほとんどは消極的要素で構成される。彼らの経験が積極的で、彼らがとりわけ積極的側の道を持っていれば、彼らが分かち合うものは非常な励みになり、人々は彼らから積極的な供給を得られるだろう。働き手がこの時消極的になれば、彼の分かち合うものはいつも消極的要素を含んでいることになるだろう。この種の交わりは重苦しいもので、他の人たちは彼と交わった後は、無意識のうちに気が滅入ってしまう。信奉者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が本来どのような人物かはその人の表現するものでわかり、聖霊の働きは人の状態によってしばしば変化する。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、その人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは心が到達できないもの、すなわち、自分の心の中に持っていないものを分かち合うことはできない。人が表すものが自分の経験でなければ、それは想像、あるいは教義である。一言でいうと、その言葉には現実性がない。社会の状況と接触がなかったら、あなたは社会の複雑な関係を明確に話すことはできないだろう。家族がないのに、他の人々が家族問題について話していたら、あなたは彼らが話していたことの大半を理解できないだろう。そこで、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表す。だれかが罰や裁きの理解に関して話しているのにあなたにその経験がないならば、あなたは彼の認識をあえて否定しないし、ましてや100%それについての確信などない。それは、彼が交わるものはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らなかったもので、あなたの心では想像できないものだからである。あなたは彼の認識から罰や裁きに関連する将来の道筋が理解できるだけである。しかし、この道は教義に基づく理解として役に立つだけで、あなた自身の理解に取って代わることはできないし、ましてや経験と取って代わることはできない。おそらくあなたは彼の言うことはまったく正しいと思うだろうが、自分で経験すれば、多くの事柄においてそれが実行不可能であるとわかる。おそらくあなたは耳にする認識の一部は完全に実行不可能だと感じるだろう。あなたはその時点でそれについての見解を心に抱き、受け入れはするが、進んで受け入れるわけではない。しかし自分が経験すると、あなたに見解を与える認識はあなたが実行する方法になる。そして実行すればするほど、彼の言葉の本当の価値と意味を理解する。経験をした後、あなたは経験したことについて持ったはずの認識について話すことができる。さらに、本当で実際的な認識を持つ人々と、教義に基づき、価値がない認識を持つ人々を区別できるようにもなる。そこで、あなたが話している認識が真理と一致するかどうかは主にあなたが実際的経験を持っているかどうかによる。あなたの経験の中に真理がある場合、あなたの認識は実際的で価値がある。経験を通してあなたは優れた識別力や洞察力をも得て、認識を深め、行動する時知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人々が話す認識はどんなに高度でも教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば多分非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人々は霊的問題にまったく経験がないからである。これらの人々は霊的問題では啓発されておらず、人の魂を理解していない。認識のどのような側面を話題にしているのかにかかわらず、それがあなたの存在そのものからくるものである限り、あなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人々、つまり、真理または現実を所有していない人々が話すことも彼らの存在そのものからくるものということができる。なぜなら彼らの教義は深い熟考からようやくたどりついたもので、深く思考している彼らの精神の結果であるからだが、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。さまざまな種類の人々の経験は彼らの内部にあるものを表している。霊的経験のない人々はみな真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的事柄についての正しい認識を話すこともできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的なものや真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生命に関する常識について明確に話すことができなければ、霊的なものについて話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人々は実際の経験を持ち、霊的なものを正しく理解し、真理の正しい認識と経験を持っていなければならない。そのような人々だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うだけで、導き手となることはできず、ましてや人々にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の機能は走ったり、戦ったりすることではなく、いのちを与え、人の性質が変わるよう導くことだからである。それは重い責任を背負う権限を与えられている人々が行う機能であり、誰もができることではない。この種の働きは生命の本質を持つ人々、すなわち、真理の経験を持つ人々のみが請け負うことができる。諦められる人、走りまわれる人、喜んで費やす人が皆できるということではない。真理の経験のない人々、刈り込みを経験していなかったり、裁きを受けたりしたことのない人々はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人々、すなわち、現実性のない人々は現実をはっきり見ることができない。彼ら自身がこの側面の本質をもっていないからである。そこで、この種の人物は人を導く働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を持たなければ排除の対象になるだろう。あなたが語る見識は、あなたが人生で経験してきたさまざまな困難、どのようなことで罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかについて立証することができる。これは試練の時にもあてはまる。人が洗練される事柄、人が弱い事柄、これらは人が経験をする事柄、人が方法を持っている事柄である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は大体の場合、次のように言う、「神に感謝し、神を称えます。私は神の心の願望を満足させ、私の人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければなりません。私は進んで全人生を神に差し出します。」交わりを通して、人の心の中のすべて、その人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、経験に関係のない問題はその人の持つものやその人そのものを表すことはできず、その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、経験があるかかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは重点を置きたいものや内なるすべてのものに関して話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

聖霊の働きはすべて、人々が利益を得るのを可能にすることである。すべて人々を啓発することである。人々の利益にならない働きは何もない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人々の力量がどうであろうと、聖霊がすることはなんであれすべて人々に有益である。しかし、聖霊の働きは直接行うことはできず、協力をしてくれる人々を通して実行されなければならない。このようにしてのみ、聖霊の働きの成果が得られる。もちろん、それが聖霊の直接的働きであれば、混ぜ物は全く入っていない。しかし、人という媒体を使うと、かなり混ぜ合わされ、聖霊本来の働きではなくなる。このようにして、真理の程度は異なったものに変化する。信奉者は、聖霊の本来意味するものではなく、聖霊の働きと人の経験および認識の結合したものを受け取る。信奉者が受け取る聖霊の部分の働きは正しいが、彼らが受け取る人の経験と認識は、働き手たちが異なるので変化する。いったん聖霊から啓発と導きを受けると、働き手は引き続き、この啓発と指導に基づいて経験をする。これらの経験の中で、人間性の本質のみならず、人の精神と経験も結合され、その後、得るべき認識と見識を獲得する。このようにして、人は真理を経験した後に実践へと進む。だが、人の経験は同じではないし、人々が経験する事柄も同じではないので、この実践方法はいつも同じとは限らない。こうして、聖霊の啓発は同じでも認識や実践が異なる結果になるのは、啓発を受けとる人々が異なるからである。実践中にあまり間違いを犯さない人もいれば、大きな間違いを犯す人もいるし、なかには間違いしか犯さない人もいる。これは人々の理解力の差であり、実際の力量も異なるからである。メッセージを聞いた後こう理解する人もいれば、真理を聞いたあとああ理解する人もいる。少し逸れる人もいれば、真理の本当の意味をまったく理解しない人もいる。したがって、どのように理解しているかで、その人が他人をどのように導くかが決まる。これがまさしく本当であるのは、その人の働きがその存在を表しているからである。真理を正しく理解している人に導かれた人々は、やはり真理を正しく理解するだろう。誤った理解をする人もごくわずかいるが、すべての人が誤った理解をするわけではない。真理を誤って理解している人々に導かれると、明らかに間違えてしまい、これらの人々は言葉のあらゆる意味において間違える。信奉者の中で、真理を理解する程度は主に働き手によって決まる。もちろん、神からの真理は正しく、間違いはなく、完全に確かである。しかし、働き手は完全に正しいわけではなく、完全に信頼できるとは言えない。働き手が非常に実際的な真理の実践方法を持っていれば、信奉者も実践方法を持つだろう。働き手が真理の実践方法を持たず、教義しか持ち合わせていなければ、信奉者は現実性を全く持たないだろう。信奉者の力量と本性は生まれながらに決められていて、働き手との関連性はない。しかし、信奉者がどの程度真理を理解し、神を知るかは働き手次第である(これは一部の人々に限られる)。働き手がどのような人であるかによって、彼の導く信奉者がどのようになるかが決まる。働き手が表すことは彼自身の存在であり、留保条件はない。働き手が信奉者に出す要求は、彼自身が達成したいこと、達成できることである。働き手のほとんどは、人々がまったく達成できないことが多々あるにもかかわらず、自分がすることに基づいて信奉者に要求を出す。人々が達成できないことは彼らの成長の障害になる。

刈り込みや裁きを経験した人々の働きは間違いがずっと少ない。その働きの表現はずっと正確である。働きに対し、本来の自然さに依存している人々はかなり重大な間違いを犯す。不完全な人々の働きには本来の自然さが多すぎ、それが聖霊の働きの主な障害になっている。働きの条件が生まれつき備わっている人々でさえ、神の働きを実行するためには刈り込みと裁きを経験していなければならない。そのような裁きを受けていなかったら、彼らがどんなによくやっても、その働きは真理の原則と一致することはできず、完全に本来の自然さ、人間的善良さの段階に留まる。神の働きをするとき、刈り込みや裁きを受けた人々の働きは、裁きを受けなかった人々の働きよりも正確である。裁きを受けなかった人々は、人間の肉と考えしか表現せず、それらは人間的知力と生まれながらの才能がかなり混じりあっており、人が神の働きを正確に表現したものではない。彼らに従う人々は、生まれながらの力量によって彼らの前に連れてこられる。彼らは人の見識や経験をあまりにも出しすぎ、しかもそれらはほとんど神の本来の意味とは切り離されており、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、自分たちの前に連れてきてしまう。そこで、裁きや罰を受けなかった人々は神の働きを実行する資格はない。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。完成されていない人々の働きには自然のままのものが多すぎる。あまりにも多くの人間の意志がその中に混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものであり、取り扱いを経験した後のいのちではなく、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追及している人々を支えることができるだろうか。人の本来のいのちは彼の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に要求するものとはほど遠い。人がまだ完成されておらず、その堕落した性質が刈り込まれておらず、取り扱われていなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがあるだろう。それは彼の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っているだろう。そのうえ、彼がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的や、すべての人が成長するのに適した真理などはないと感じている。人々に出される要求の大半は、人々に力の及ばないことをするよう求めるが、それはアヒルを止まり木に追い立てるようなものだ。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや見解はその人の体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を持って生まれていないし、真理を直接理解する本能も持っていない。人の堕落した性質と統合すれば、この種の自然のままの人が働くと、障害にならないだろうか。しかし、完成されている人は、人々が理解するべき真理の経験があり、人々の堕落した性質を知っているので、彼の働きの中の曖昧で非現実的ことがらは次第に減少する。つまり、彼が表した真理はさらに正確で現実的なものになる。人の心の中の考えは特に聖霊の働きを妨害する。人は物事を取り扱う際、豊かな想像力と合理的論理、ならびに古い経験を持っている。これらは刈り込みと修正を受けなければ、すべて働きの障害であり、したがって、人の働き、特に未完成の人々の働きはもっとも正確なレベルに到達することはできない。

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