神の働きと人の働き (後半)

人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない―さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない―これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。一期間の働きが神の個人的完成を経験しておらず、裁きを受けていない人に導かれると、信奉者はみな宗教家、神に抵抗する専門家になるだろう。したがって、資格のある導き手ならば、その人物は裁きを経験しており、完全にされることを受け入れた人である。裁きを経験していない人々は、聖霊の働きを持っているとしても、曖昧で非現実的なことしか表すことはできない。時が経つにつれて、彼らは人々を曖昧で超自然的規則に導くだろう。神が行う働きは人の肉と一致しない。人の考えとも一致せず、人の見解に反論する。曖昧な宗教色とはまじりあわない。神の働きの結果は、神によって完成されていない人には達成不可能であり、人の考えの及ばないものである。

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。6000年に及ぶ神の働きで、あなたは何か規範を見つけ出すことができるだろうか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳は独善的すぎる。そこで、人が表すことは自分の経験すべてのなかの多少の知識と認識であり、これから離れては何も表すことができない。人の経験、あるいは認識は生まれながらの才能、または本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる器官を持っているだけで、神性が何であるかを直接表す器官は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき器官である。神の言葉を受ける器官を失い、人間の本能を失った人物はもっとも大切なものも失い、神に造られた人としての本分を失う。神の言葉、または神の働きについての認識、または経験を持たない人物は、その本分、つまり、神に造られた存在として行うべき本分を失い、神に造られた存在としての尊厳を失う。肉の形で表されようと、聖霊によって直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職務である。人は自分自身の経験、あるいは認識を神の働きの間に、またはその後に表す(すなわち、人は自分の人格を表現する)。これは人の本能と本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものにはたくさんの規則があるが、果たすべき本分は果たさなければならないし、しなければならないことはしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、ほん少しでも留保があってはならない。

何年も働いた後、人は働いた年月の経験、ならびに蓄積した知恵と規則の一部を総括する。長期間働く人は、聖霊の働きの動きを感じとることができ、聖霊がいつ働き、いつ働かないかを知っている。重荷を背負っている時の交わり方を知っており、聖霊の働きの通常の状態、および人々がいのちにおいて成長する通常の状態が分かっている。それが何年も働いてきて、聖霊の働きを知っている人である。長い間働いてきた人々は確信をもって、急がずに話す。何も言うことがない時でさえ、落ち着いている。彼らはそわそわしたり不安になったりせず、聖霊の働きを求めるために心の中で祈り続けることができる。彼らは働くことに熟練している。長い間働き、多くの教訓や経験を持っている人は、内心に聖霊の働きを妨害するものを多く持っている。これは長期間働いた人の欠点である。働き始めたばかりの人は人間的教訓や経験を持ち込んでいないし、とりわけ、聖霊がどのように働くかわからず当惑する。しかし、働いているうちに、次第に聖霊の働き方を感じるようになり、聖霊の働きを持つためには何をするべきか、他人の極めて重要な点に触れるためには何をするべきかについて気づくようになり、働き手が所有すべき一般的知識を知るようになる。時間が経つと、彼は働きに関するそのような知恵と一般的な知識をほとんど自分の手の甲のように熟知するようになり、働くとき簡単に使うようである。しかし、聖霊が働き方を変えるとき、彼はまだ古い知識と規則に固執し、新しい働きの動きについてはほとんど知らない。何年にもわたり働き、聖霊の存在と導きが十分であれば、働きに関する教訓と経験がますます増え、彼はうぬぼれではなく自信に満たされる。言い換えれば、彼は自分の働きがすっかり気に入り、聖霊の働きについて得た一般的知識に非常に満足する。特に、他の人々は獲得していない、あるいは認識していないものが彼にさらに自信を与える。彼の中の聖霊の働きは決して消し去ることはできず、一方、他の人々はこの特別な取り扱いを受ける資格がないように思われる。何年も働き、かなりの使用価値を持っている彼のような人々だけが享受する資格が与えられる。これらのことは彼が聖霊の新しい働きを受け入れる際にかなりの障害になる。新しい働きを受け入れることができても、それは一夜にしてできることではない。受け入れる前にはいくつかの紆余曲折を必ず経験する。この状況は彼の古い見解が扱われ、古い性質が裁きを受けた後ようやく徐々に好転していく。これらの段階を経由しなければ、彼が諦めて古い見解と調和しない新しい教えや働きを容易に受け入れることはない。これは人が取り扱われるべきもっとも困難なことで、変えるのは容易ではない。働き手として聖霊の働きを理解し、その動きを総括し、同時に自分の働いてきた経験にとらわれることなく、古い働きに照らして新しい働きを受け入れることができれば、その人は賢い人であり、働き手としての資格がある。人はしばしば自分の働いてきた経験を総括することができないまま数年間働く。あるいは仕事の経験や知恵を総括した後、新しい働きを受け入れるのを妨げられ、新旧の働きを適切に理解することも、正しく取り扱うこともできない。人は実に扱いづらい。あなた方のほとんどはこのようだ。聖霊の働きを何年にもわたり経験してきた人々は手放し難い見解を数多く抱えていて、新しい働きを受け入れにくいが、働き始めたばかりの人は働きに関する一般的知識に欠けており、もっとも単純なことの取扱い方でさえわからない。あなた方のような人々は本当に扱いづらい。多少の経験を経てきた人々はとても誇り高く、傲慢なので自分の出自を忘れてしまう。彼らはいつも若者を軽蔑しているが、新しい働きを受け入れることができず、自分が集めて、何年にもわたり保持してきた見解を手放すことができない。若い、無知な人々は聖霊の新しい働きを少し受け入れることができ、非常に情熱的であるが、問題に出くわしたとき、うろたえてしまい、何をしたらいいかわからなくなる。情熱的ではあるが、あまりにも無知である。聖霊の働きを少し知っているだけで、生活の中で使うことはできないので、それはまったく役に立たない教義にすぎない。あなた方のような人が多すぎる。何人の人が用いられるのに適しているだろうか。聖霊に適した働きのできる人が何人いるだろうか。あなた方はこれまで非常に従順であったように思われるが、実際には自分たちの見解を諦めておらず、いまだに聖書の中に探し求め、曖昧なまま信じ、見解のなかでさまよっている。今日の実際の働きを注意深く調べたり、奥深く探ろうとしたりする人は誰もいない。あなた方は自分の古い見解で今日の道を受け入れている。そのような信仰で何が得られるのか。あなた方の中には明らかにされていない見解が数多く隠されていると言えるだろう。あなた方はそれらを隠そうと最大の努力をしており、簡単には表そうとしないだけである。あなた方は新しい働きを誠実に受け入れず、古い見解を諦めるつもりはない。あなた方はあまりにも多くの、あまりにも嘆かわしい人生哲学を持っている。古い見解を諦めず、仕方なく新しい働きに取り組んでいる。あなた方の心はあまりにも邪悪で、新しい働きの手順をまったく心に留めない。あなた方のような放蕩者に福音を広める働きができるだろうか。あなた方は全宇宙に福音を広める働きを請け負うことができるだろうか。あなた方のこうした行為は、あなた方が性質を変え、神を知るようになることを妨げている。このままで進めば、あなた方は取り除かれる運命にある。

あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものはその人そのものである。神自身の働きも神そのものを表すが、神そのものは人そのものとは異なる。人そのものは人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。

神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯しがたいものと感じる。神の働きを数多く経験してきた人々でさえ、神を深く理解することはできない。本当に神をあがめているすべての人は、神の働きは人々の見解とは一致せず、いつも反していることを知っている。神は人々が神を完全に称賛したり、神に服従しているように見せたりすることを必要とせず、むしろ本当に畏敬の念を持ち、本当に服従することを必要とする。神の大半の働きにおいて、本当の経験を持つ人はだれでも神に対する畏敬の念を感じるが、それは称賛よりも高い。人々は神の刑罰と裁きの働きによって神の性質を見た。したがって心の中で神を畏れる。神があがめられ、従われるのは、神の存在と性質が被造物のものとは同じでなく、上回っているからである。神は創造された存在ではなく、神のみが畏敬の念と服従を受けるに値する。人にはその資格がない。そこで、神の働きを経験し、本当に神を知る人々はすべて、神に対して畏敬の念を感じる。しかし、神についての自分の見解を取り除かない人々、すなわち、断じて神を神とみなさない人々は、神に対して畏敬の念をまったく持たず、神につき従ったとしても征服されない。彼らは生まれつき不従順なのだ。神がこの働きをするのは、すべての被造物が創造主を畏れ、崇拝し、無条件に神の支配に服従するという結果を達成するためである。これが、神のすべての働きが達成を目指している最終的結果である。もしそのような働きを経験した人々が、たとえ少しでも、神を畏れなければ、もし彼らの過去の不服従がまったく変わらなければ、これらの人々は必ず取り除かれる。人の神に対する態度が遠くから称賛したり、尊敬の念を示したりするだけで、少しも愛さないならば、これは神を愛する心のない人の達することであり、そのような人は完全なものにされる条件に欠ける。多くの働きをしても人の本当の愛を得られなければ、それはその人が神を獲得しておらず、心から真理を追及していないことを意味する。神を愛さない人は真理を愛さず、したがって神を獲得することはできないし、ましてや神の承認を得ることはできない。そのような人々は、どのように聖霊の働きを経験しようとも、どのように裁きを経験しようとも、やはり神を畏れることはできない。これらの人々は本性を変えることができず、かなり邪悪な性質を持つ人々である。神をあがめない人々はすべて取り除かれ、懲罰の対象になり、悪事を働いた人々と同様に罰せられ、不正なことをした人々よりもずっとひどく苦しまなければならない。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
連絡先
Line経由で連絡する