「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2)

7.肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体に原理がある。イエスは普通の人間性を持っていたということを基準に、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、教師に聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。イエスはその働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うはずの働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それからは重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行したならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。

8.受肉した神の働きには多くの原則がある。人にはどうしても分からないことがたくさんあるが、それでも人は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量り、神に過度の要求をする。そして今日でさえ、自分の知識が自分の観念以上のものではないということに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働くために肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、人となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが人となることを申し分なく証明することができる。肉は平凡で普通の人を意味する。

9.なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となったことをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々の間で働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人の間に来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。神によって導かれたすべての時代で、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンに握られてしまうことになる。人が神によって案内された時代に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得するだろう。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたに何も求められていない、とわたしは言う。それこそ自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たしているという意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きを妨げないこと、これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人の間では働かない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神で、それ以上に、働きを成就するのは神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)に関連する全てのことは神の手で行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、神の計画すべてが成就するよう全時代を終わらせるであろう。

10.イエスはユダヤで働いたとき、公然と働いたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働き語る。不信者たちはこれに全く気付いていない。あなたがたのあいだでのわたしの働きは他の働きとは切り離されている。これらの言葉、刑罰や裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。不信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。この人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何も知らない。この働きはあまりにも隠されているからである。彼らにとって受肉した神は隠されたことだが、この流れにある人たちにとっては、神は明らかにされたと見做すことができる。神においてはすべてが公然とし、すべてが明らかで、すべてが解放されているが、これは神を信じている人たちにとってだけそうなのであり、不信者には何も知らされていない。今ここで行なわれている働きは彼らが知ることがないよう厳しく隔離されている。もし彼らが気付いたならば、罪の宣告と迫害だけが待っている。彼らは信じない。最も進歩の遅れた場所である赤い大きな竜の国で働くのは簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きはこの場所で進めることはどうしてもできない。もしこのような働きが公然と行なわれたなら、彼らがどうして黙認することができるだろうか。それはもっと大きな危険を伴うのではないだろうか。もしこの働きが隠されず、イエスが見事に病人を癒し悪霊を追い出したときのように続けられたなら、とうの昔に悪魔に「捕まえられ」ていたのではないだろうか。悪魔は神の存在に我慢することができるだろうか。もし今わたしが人に説教をし、教えるために会堂に入って行こうとしたなら、とっくに粉々に砕かれていたのではないだろうか。それではどうやってわたしの働きを続けることができるのだろうか。しるしや不思議が公然と行われない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは不信者によって見られることも、知られることも、発見されることもない。もしこの段階の働きが恵みの時代のイエスの働きのように行なわれたなら、それはあまり安定したものではなかったであろう。だから、働きがこのように隠されているのは、あなたがたにとっても、すべての働きにとっても有益である。地上での神の働きが終わると、すなわち、秘密にされているこの働きが終わると、この段階の働きは広く公にされる。すべての人たちは中国に勝利者のグループがいることを知るだろう。肉となった神が中国にいて、神の働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始めるのである。なぜ中国はまだ衰退や崩壊を見せていないのか。神が中国でその働きを自ら実行し、あるグループの人々を完全にして勝利者としたということが分かるのである。

11.人となった神は、その働きを遂行しつつ従ってくる人たちだけに自身を現わすのであり、すべての造られた者たちに顕すのではない。神は人に神の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は地上から去る。神はこれから来る働きの邪魔にならないように、人間のあいだでは長い間留まっていることはできない。神が大勢の人たちに顕すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度人となったときの肉体の姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、神が人として働くときに従って行く人たちだけに示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。それはイエスが働きを行なっていたときにユダヤ人にだけ自分自身を示し、決して公然と他の国々には示さなかったのと同じである。したがって、ひとたび神が働きを完成すると、人々からすばやく離れ留まらなかった。それ以降、神はその姿を人には顕さなかった。その代わり、働きは聖霊によって直接遂行されたのである。人となった神の働きが完全に終わると、神は人間の世界を離れ、肉となったときと同じ働きは二度としない。次に続く働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は神の肉の姿を見ることはほとんどできない。神は自身を人に全く見せず、永遠に隠れたままである。人となった神の働きのための時間は限られており、それは特定の時代、時、国、そして特定の人々のあいだで行なわれなければならない。そのような働きは神が人となった期間中の働きだけを表しており、その時代に特定されたものであり、ある特定の時代の神の霊の働きを表しており、神の働きの全体を代表しているわけではない。よって、人となった神の姿はすべての人々には見せられないであろう。大勢の人たちに見せられるのは、神が二度人となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神がすべき働きが完成すると、人となった神は絶対に地上から離れなければならない。というのは、神はしなければならない働きのためだけに来るのであり、姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度人となったことですでに果たされているが、かつて神を一度も見たことのない国の人々には神は公に自身の姿を見せることはない。

12.人となった神の働きは、時代を開くことであることをあなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神はその霊のすべての働きを達成することはできない。これはユダヤ人としてのイエスの姿が、ユダヤで働いたときの神の姿だけを現しており、そのときの神は十字架の働きだけをすることができたのと同じである。イエスが肉体をもっていた間、イエスは時代を終わらせ、人類を破滅させる働きはできなかった。よって、イエスが十字架にかけられ働きを終えてると、イエスは高く昇り、自身を人間から永遠に隠した。それ以降、異邦人の国々の忠実な信者たちは主イエスの顕示ではなく、壁に貼られたイエスの絵しか見ることかできなかった。この絵は人によって描かれたものであり、神自身が人に見せた姿ではない。神は二度人となったときの姿を大勢の人たちに公けには見せることはない。人類のあいだでなされる神の働きは、神の性質を人々に理解させることである。これは様々な時代の働きを通して人に見せることで全て達成される。イエスの顕示を通してというよりは、神が知らせた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉の姿を通して知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知られ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。

13.神が二度人となったときの働きがひとたび終わると、異邦人の国々に神はその義である性質を現し始め、大勢の人たちがその姿を見ることを許される。神は自身の性質を顕すことを願い、これを通して、あらゆる種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉体における神の働きは広範囲に及ぶものではない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしはあなたがたのあいだだけで働いている)。なぜなら、肉体における神の働きには境界線があり限界があるからである。神は受肉した肉体を通して永遠の働きをしたり、異邦人の国々のすべての人たちに現れる働きをするのではなく、ただ平凡な普通の肉の姿で短い期間の働きをするだけである。肉でのこの働きは範囲が限られたものでなくてはならず(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)、その後この限界内でなされた働きを通して拡張されなくてはならない。もちろん、そのような拡張の働きは聖霊によって直接行なわれ、神の受肉した肉体の働きではない。肉体の働きには限界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからである。肉の働きでは、それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行なう。だから、肉でなされた働きは限界内における始まりのひとつである。神の霊はその後この働きを続け、拡張する。

14.神は時代を先導する働きをし、新時代を開き、古い時代を終わらせるためだけに地上に来る。神は地上での人間の生涯を過ごし、人間のように実際に人生の喜びや悲しみを体験し、自身の手で誰かを完全にし、成熟するのを見守るために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新時代を開き、古い時代を終わらせることである。つまり、ある時代を開き、もう一つの時代を終わらせ、自身の働きを直接することでサタンを打ち負かすことである。神が直接働きをする時はいつも、戦場に足を踏み入れるようなものである。肉において神はまず世界を打ち負かし、そしてサタンに勝利する。神は地上のあらゆる人々が従う正しい道、平和で喜びのあるいのちを与え、すべての栄光を獲得し、二千年の働きの幕をあげる。しかし、神は地上で長い間人間と住むことはできない。なぜなら、神は神で、結局人間とは違うからである。神は普通の人の一生を生きることはできない。すなわち、神は全く普通の人として地上に住むことはできない。というのは、神はそのような人生を営むための平凡な人の普通の人間性をほんの少ししか持っていないからである。つまり、神がどのようにして地上で家族をもって子どもを育てられるというのか。これは不名誉なことではないだろうか。神は普通の方法で働きをするという目的のためだけに、普通の人間性をもつのであって、普通の人のように家族を持つためではない。神の普通の理知、普通の心、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族を持つ必要はない。全く不必要である。神が地上に来ること、それは言葉が肉となったということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで服従すること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行なうすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。よって、神は並はずれた人間性を持っていながらも、あえて布告をすることもなく自身がするべき働きに集中しているのである。あなたがたは、なぜ神が人となりながらも神の普通の人間性を自慢したり証したりせず、行ないたい働きをただ実行しているのか知らなければならない。これこそあなたがたが人となった神の中に神性だけを見る理由であり、それは神の人間性を人が見習うようにと神がその人間性を主張することはないからである。人が人を導く場合にのみ、人はその人間性を語る。そうすることで、他の人たちを感銘させたり確信させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(すなわち人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人を感銘させたり、すべての人類に神を崇拝させたりはしないが、ただ神への畏敬の念を人に植え付け、神の人間には図りがたい深遠さを人に気づかせたりするだけである。神は人を感銘させる必要はない。神がすることは、あなたがひとたび神の性質に触れたならば、神を畏れるようになることだけである。

15.受肉した神の働きは、聖霊によって用いられる者の働きとは異なる。神が地上で働くとき、神はその職分をまっとうすることしか関心がない。神の職分に関連していない他のあらゆることに関しては、見て見ぬふりをするほど何の関与もしない。神はただ行なうべき働きを実行し、人がするべき働きには全く関心を持たない。まるで他のあらゆることは全く神の責任ではないかのように、神の行なう働きは自身が存在する時代とまっとうしなければならない職分に関連していることだけである。神は人として生きる上でのもっと基本的な知識を備えることはせず、社交術や、人が理解できる他のことは何も学ばない。神は人が持ち合わせていなければならないあらゆることには全く関心を示さず、ただその本分である働きをするだけである。そして、人が見ると、受肉した神はあまりにも欠陥があり、人が持つべきものも無視するほどで、これらのことは理解していないように思われる。人生の一般的知識のような事柄や、行動の原則や他人との付き合いなどは神にとってなんら重要性はないようである。いずれにせよ、あなたがたは受肉した神から異常な行動などは少しも感ずることはできないであろう。すなわち、神の人間性は、その頭脳による普通の論理的思考を備えた普通の人としての自身の生活を維持するだけであり、善と悪を見分けることを可能にする。しかし、神には他の何も備わってはおらず、それらはすべて人(被造物)のためだけにある。神が肉となるのはその職分をまっとうするためだけである。神の働きは時代全体に向けられており、特別な人あるいは特別な場所に向けられているのではない。神の働きは全宇宙に向けられている。これが神の働きの方向性であり、神が働く原理である。これは誰によっても変えることはできず、人は何ら関与することはできない。

16.神はその働きを完成させるために地上に来たのであり、地上での神の働きは束の間である。神は霊がその肉体を教会の並はずれた指導者に養育することを目的として地上に来るのではない。神が地上に来るとき、それはことばが人となることである。しかし、人は神の働きを知らないので、そのような意図を神に押し付ける。しかし、あなたがたはみな、神は人となったことばであり、神の代役を一時的に果たすために霊により養われた肉ではないことを認識しなければならない。神自身は養われたものではなく、肉となったことばであり、今日、神はあなたがたすべてのあいだでその働きを正式に行なう。

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