「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート3)

17.神が肉となるのは、時代を導き新しい働きを軌道に乗せるためだけである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割とは大きく異なり、このふたつを同じ次元で話すことはできない。人が働きのために用いられるようになるまでには、長期にわたる教育と完全にされることが必要で、特別に偉大な人間性が必要とされている。人間は普通の人間としての理知を維持しなければならないだけでなく、他人の前での行動の原則や規則を多く理解でき、その上、人の知恵や道徳の多くを学ばなければならない。これが人が備えていなければならないものである。しかし、受肉した神に関してはそうではない。というのは、神の働きは人を表すのでもなければ、人の働きでもないからだ。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神が行なわなければならない働きの直接的遂行である。(当然、神の働きは行なわれるべき時に行なわれ、無作為に行なわれるのではない。むしろ、神の働きはその職分をまっとうするべき時に始まる)。神は人の人生や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、これは神の働きに影響しない)。神はその職分をまっとうするべき時に、するだけである。神の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きは影響されない。これはちょうどイエスがその働きをしたときのようである。誰もイエスが誰であるか知らなかったが、イエスはただ自身の働きを進めた。だがそれはイエスがしなければならない働きを行なう上で、何の影響も与えなかった。よって、イエスは最初自身の身分を告白することも、宣言することもなく、ただ人を従わせた。当然、これは神のへりくだりだけではなかった。それは神が肉体で働く方法であった。神はこの方法でのみ働くことができた。というのは、人は裸眼で神を認識できなかったからである。たとえ認識できたとしても、人は神の働きを助けることはできないであろう。さらに、神は人が神の肉体を知るために人となったのではなかった。それは働きを行い、職分を成就するためであった。この理由で、神は自身の身分を知らせることに重点を置かなかった。神がしなければならないすべての働きを完成させたとき、神の身分と地位はすべて自然に人に理解された。受肉した神はただ沈黙を守り、決して何も宣言しない。神は人のことや、人が神に従うことにどのように対処しているかなどに気を留めない。そしてただ職分の成就とすべき働きを進めていくだけである。誰も神の働きに立ちはだかることはできない。神の働きを終える時が来ると、それを終結し、終わらせることが必須である。だれもそれに反する指示を出すことはできない。神の働きが完成し、神が人から離れてはじめて、まだ完全には明確ではないにしても、神が行なう働きを人は理解するのである。そして、神が最初に働きを行なったときの神の意図を人が完全に理解するには長い間がかかるであろう。すなわち、神が肉となる時代の働きは二部に分かれる。一部は肉となった神の働きと言葉を通してである。ひとたび神の肉体の職分が完全に成就されると、働きの別の部分は聖霊によって用いられる人によって実行される。それが人が自分の役目を果たす時である。というのは、神はすでに道を開いており、今こそ人がそこを歩まなければならないからである。すなわち、神はその働きの一部を行なうために肉となり、働きは聖霊や聖霊によって用いられる人たちによって引き継がれるのである。それゆえ、この働きの段階で受肉する神によってなされる主要な働きを人は知らねばならない。人に求められていることを神に求めようとしないで、神が肉となる意義や神がなすべき働きを人は正確に理解しなければならない。神に求めることは人の過ちであり、観念であり、それ以上に不従順である。

18.神は人に神の肉体を知らしめたり、人に受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉するのではない。神は人の識別能力を鍛えるために受肉するのでもない。ましてや受肉した神を人が礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受ける意図を持って受肉するのでもない。これらのどれも神が肉となる本来の意図ではない。また、神は人を咎めるためや、意図的に人の本性を現すために、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。これらのうちどれも神の本来の意図ではない。神が肉となるときはいつも、それは不可避の働きなのである。それは神が行なうさらに偉大な働きと、さらに偉大な経営(救い)のためであり、人が想像するような理由のためではない。神はその働きに必要なときだけ地上に来るのであり、必ず必要なときである。神はさまようことを意図に地上に来るのではなく、神がすべき働きを実行するために来る。そうでなければどうして神がこの働きを行なうというそのような重荷を背負い、大きな危険を冒すのだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に特別な意義をもって肉となる。もしそれが人に神を見させ、彼らの目を開かせるためだけであったなら、神は絶対にそのように軽々しく人のもとには来ないであろう。神が地上に来るのは、その経営と偉大な働きのためであり、神がもっと人を得るためである。神は時代を代表し、サタンを打ち負かすために来るのであり、神がサタンを敗北させるのは肉においてなされる。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらのことはすべて神の経営に関係することで、全宇宙に関する働きである。もし神が人に神の肉体を知らしめ、目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神はすべての国々を旅しないのであろうか。そんなことはいともたやすいことではないであろうか。しかし神はそうしなかった。その代り、住みつき神のすべき働きを開始するのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。神はひとつの時代全体を代表し、ひとつの時代全体の働きを行なう。前の時代を終わらせ、新しい時代に導く。これらの事すべては、神の経営に関する重要な事柄で、地上に来た神によって実行される働きの一段階の意義である。

19.あらゆる時代の働きは神自身によって開始されるが、神の働きが何であれ、神はあなたがたのために運動を起こしたり、特別な会議を催したり、ある種の組織を設立するために来るのではないことを知るべきである。神は神がすべき働きを行なうめにだけ来るのである。神の働きは誰によっても制限されることはない。神は望むとおりにその働きを行い、人が何を思っても、どんなことを知っていても、神はその働きを実行することだけに集中する。世界の創造以来、すでに三段階の働きがあった。ヤーウェからイエスまで、律法の時代から恵みの時代まで、神は決して人のために特別会議を召集したり、神の働きを拡張するために特別な世界規模の作業会議などを全人類のために召集したりすることもない。神は適切な時に適切な場所で、ひとつの時代全体の最初の働きを行なうだけで、それを通して人間を生活において導くために時代を切り開く。特別会議は人の集会である。休日を祝うために人々を召集することは人の働きである。神は休日を祝うことはなく、それ以上に、休日を嫌う。神は特別会議を召集しないし、それ以上に特別会議を忌み嫌う。肉となった神の働きは何であるか今や正確に理解すべきである。

20.神の性質のすべては六千年の経営(救いの)計画を通して表わされた。それは恵みの時代もしくは律法の時代だけに現れたのではなく、もちろん終わりの日のこの時期だけに現れるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表す。終りの日になされる働きは、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、三段階は互いに繋がって一つの実体となり、それはひとつの神によってなされる働きのすべてである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分けられている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりであり、恵みの時代になされた働きは贖いである。この六千年の経営(救いの)計画全体の働きのビジョンに関しては、誰も識見を得ることも、理解することもできない。そのようなビジョンは常に神秘的であった。終わりの日に、言葉の働きだけが、神の国の時代へと導くためになされるが、それはすべての時代を現してはいない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもなく、恵みの時代や、律法の時代を現してはいない。終わりの日とは単に六千年の経営(救いの)計画のすべての働きがあなたがたに現されるときである。これは奥義の覆いを取り除くことである。奥義の覆いは、人が取り除くことはできない。人が聖書についてどんなに深い理解を持っていても、人は聖書の本質を理解していないので言葉以上の何物でもない。人が聖書を読むとき、何らかの真理を受け取り、言葉の幾つかを説明したり有名な聖句や引用を綿密に調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。というのは、人が見ているのは死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人はそのような働きの奥義を解明することはできないからである。よって、六千年の経営(救いの)計画の奥義はもっとも偉大な奥義であり、最も隠されていて、人には全く理解できないものである。もし神自身が説明し、明かすのでないなら、誰も神の心を直接理解することはできない。そしてそれらは永遠に人間には謎のままで、封印をされた奥義のままであり続けるであろう。宗教関係者たちのことは気にしないように。もし今日あなたがたに伝えなかったなら、あなたがたも理解することはできなかったであろう。

21.終わりの日の働きは三段階うち最後の段階である。それは新しい時代の働きで、経営(救い)の働きの全体を表していない。六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神は律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことは言えない。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを定義して、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と言うだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を犠牲にし人間のために十字架にかけられたことしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの段階は神の性質の一部だけを現すのである。律法の時代はある側面を表し、恵みの時代は別のある面を表し、今の時代もまた別の側面を表している。神の性質はこれら三段階を合わせて、完全に現されることができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に受け取ることができる。この三段階の一つも排除することはできない。これら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神が律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架は神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。この段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、人は奥義についての識見を得て心の中ではっきりと理解できるようになる。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わるからである。

22. 六千年の経営(救いの)計画を通して行われたすべての働きは、今になってやっと終わりを迎える。これら全ての働きが人に明らかにされ、人の中で実行されて初めて、人は神の性質、神の所有しているもの、神であるもののすべてを知るだろう。この段階の働きが完全に終わると、人に理解されていなかったすべての奥義は明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理がはっきりし、人類は未来の道と終着点を告げられるだろう。これこそこの段階でなされるべきすべての働きである。

23.この日、人に求められるのは、過去に求められたものとは異なり、律法の時代に人に求められたものとはさらに異なる。そして、働きがイスラエルでなされたとき、律法の下で人に求められたものは何だったろうか。彼らは安息日とヤーウェの律法を守ること以上には何も求められなかった。安息日には誰も働くことは許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日に人は働き、集まり、いつものように祈ることができるし、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けねばならなかった。それだけではなく、断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭に被り物をかぶり、足を洗うことを求められていた。今や、そのような規律は廃止され、人はもっと大きなことを要求されている。というのは、神の働きは深まり続け、人のいのちへの入りももっと高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、全てのことが伝えられた現在、按手に何の意味があるであろうか。言葉だけで結果を出すことができる。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、癒すためであった。当時はそのようにして聖霊が働いたが、今はそうではない。現在、聖霊はその働きにおいて言葉を使い結果を出す。神は自身の言葉をあなたがたに明らかにしたのであり、あなたがたはそれを実践しなければならない。神の言葉は神の心で、神がどのように働くかを示している。言葉を通して、神の心と神があなたに達成して欲しいものを理解できる。あなたは按手を受ける必要もなくただ神の言葉を直接実行に移すだけである。「わたしの上に手を置いてください」「神様の祝福を受け取り、神様を共有できるように、手を置いてください」と言う人もいるであろう。しかし時代は変わり、これらは現在は禁止されている時代遅れの慣習である。聖霊は時代と共に働くのであり、ただ思いのままや、一定の規律に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに新しい働きをもたらさねばならない。これは働きのどの段階においても言えることで、だから神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出されたり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりして多くの働きを行なった。しかし、現在ではそのようなことを続けても、何の目的も達成されない。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人は多くの恵みを示され喜びを得た。人はいかなる代価を支払うこともなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、そのような働きを行い、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるようにしなければならなかった。この段階は、刑罰、裁き、言葉による咎め、そして言葉による懲戒と顕示を通して、人の中の不義を明らかにするために行なわれ、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代には、人は恵みを十分楽しみ、すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、練られて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。働きのそれぞれの段階は人類全体の進歩と時代に一致してなされる。すべての働きは意味があり、最終的な救いのためであり、人類が将来良い終着点にたどり着くためであり、そして人が最終的に種類に応じて区分されるためである。

24.終わりの日の働きは言葉を語ることである。偉大な変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、これにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人は良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

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