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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

1.人々がいのちの正しい道を歩み始めて以来、不明瞭なままになっている事柄が多くある。人々は神の働きについて、また自分たちがなすべき多くの働きに関して依然として完全な混乱状態にある。それは、一方では人々の経験における逸脱と理解力の限界に起因し、他方では、神の働きがまだ人間をその段階に至らせていないからである。したがって、誰もが霊的な問題の大部分について曖昧なままである。あなたがたは自分が何に入るべきかについて不明瞭であるだけでなく、神の働きに関してはそれ以上に無知である。これは単にあなたがたの欠点の問題ではなく、宗教界の人間すべてに伴う大きな欠点である。ここに人間が神を知らない理由の鍵があり、したがってこの欠点は神を求める人全員に共通する欠点である。神を知るにいたった者や神の素顔を見た者は、今まで一人もいない。神の働きが山を動かしたり、海を干上がらせたりするのと同じくらいに困難になったのはこのためである。これまでに、神の働きのために自らの命を犠牲にした者は何人いるであろうか。神の働きのために世に捨てられた者は何人いるだろうか。神の働きのために死ぬまで苦しんだ者は何人いるだろうか。神への愛のために目に涙を溜めて、不当に非難されたまま死んだ者は何人いるだろうか。残酷で無慈悲な迫害を受けた者は何人いるだろうか……そのような悲劇が発生するのは、すべて神に関する認識が人間に欠如していることに起因するのではなかろうか。神を知らない者に、どうして神の前に来る面目があろうか。神を信じつつ、神を迫害する者に、どうして神の前に来る面目があろうか。こうした事柄は、宗教界に属する者だけの不備ではなく、むしろあなたがたと宗教界に属する者の共通点である。人々は神を知らないまま神を信じる。それだけが理由で、人々は心の中では神を崇めることがなく、心の中では神を畏れない。この流れの中でも、自らが想像する働きを仰々しく行い、自らの要求やあり余る願望に従って神の働きを行う者さえいる。多くの者が大胆に行動し、全く神を尊ばずに自らの意志に従っている。そうした状況は、人々の自分勝手な心の完壁な具現化ではなかろうか。そうした状況は、人々が有する過多なごまかしの要素を表しているのではなかろうか。

2.確かに、人間は最も聡明であるかも知れないが、その才能が神の働きに取って代わることがどうしてありえようか。人々は神の重荷に配慮するかも知れないが、人間は過度に身勝手に行動してはならない。人々の行動は、本当に神聖なものであろうか。はっきりと確信できる者が存在し得るであろうか。神を証しし、神の栄光を受け継ぐことは、神が例外を設けて人々を持ち上げているのである。人々にそんな価値があるであろうか。神の働きは開始されたばかりであり、神の言葉は述べられ始めたばかりである。現時点において、人々は自らについて自信をもっているが、それは単に、自ら恥辱を招いていることになるのではなかろうか。人間の知識は遥かに少ない。最も才能ある理論家でさえ、最も雄弁な演説者でさえも、神の豊かさを全て説明することは出来ないのであるから、あなたがたが説明出来るのは、それと比べてどの程度少ないであろうか。あなたがたは、自らの価値を天よりも高くせず、むしろ理性に優れ、神を愛することを求める人々よりも低い者とみなすべきである。これがあなたがたが入るべき道である。すなわち、自らを他の誰にも遥かに及ばないとみなすこと。あなたがたが自らをそれほど高い存在であるとみなすのはなぜだろうか。あなたがたが自らをそれほど高く評価するのはなぜだろうか。人生の長い道中において、あなたがたはまだ最初の数歩を進んだにすぎない。あなたがたに見えるのは、神の腕のみであり、神の全てではない。神の働きをさらに見て、自らが入るべきものをさらに発見することは、あなたがたの義務である。なぜなら、あなたがたは殆ど変化していないからである。

3.事実、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない堕落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。人々が神の働きに留意する気がないのであれば、その経験は永遠に断片的かつ不完全のままであるしかなく、人々の入ることは永遠に空虚である。

4.神が世に来てから数千年の間、高尚な理想を抱く人間が何人も、そして何年もの間、神がその働きを行うために神により用いられてきた。しかし、神の働きを知る者は極めて少なく、ほぼ皆無である。そのため、無数の人間が神に反抗する役割を担うと同時に、神の働きを担っている。なぜなら、人間は神に与えられた地位において、神の働きよりもむしろ人間の働きを行っているからである。これが働きと言えるであろうか。どうして人々はいのちに入ることができるのか。人間は、神の恵みを受け取り葬り去った。そのため、何世代にもわたり、神の働きを行う者は入っていかない。彼らは神の働きを知る事について全く語らない。なぜなら、神の知恵についてほとんど何も理解していないからである。神に仕える者は多数いるが、そうした者は、神が如何に高みにあるかを知ることが出来ない。このため、彼らは自らを神と仕立て、他人に礼拝させるようにしたのである。

5.神は長年にわたり万物の中に隠れたままで、霧に包まれて何度も春と秋を迎え、第三の天から見下ろしながら無数の昼夜を過ごし、無数の年月にわたって人間の中を歩んで来た。神は全ての人間の上に座して無数の冬の間、静かに待ち続けてきた。神が自らを隠すことなく誰かに表したことや、ひとつでも音を立てたことは今まで一度も無く、去る時も戻る時も何も痕跡を残さず、物音を立てなかった。誰が神の素顔を知ることが出来ようか。神は一度も人間に話しかけたことも姿を現したこともない。人間が神の働きを行うのは、どれほど容易であろうか。あらゆる物事のうち、神を知ることが最も困難であることを人々は知らない。現在、神は人間に対して語っているが、人間は神を知ったことが無い。なぜなら、人間のいのちへの入り方は過度に狭く浅いからである。神の目から見ると、人間は神の前に来るのに全く不適である。人間の神の関する理解は過度に乏しく、神から過度に疎遠になっている。さらに、人間が神を信じる心は過度に複雑であり、心の中の最も深い部分で神の像を抱くことが全く出来ない。その結果、神の大いなる努力や働きは、砂に埋もれた金のように、光を放つことが出来ない。神にとって、人間の能力や動機、考え方は極めて忌み嫌うべきものである。人間は、理解力が乏しくなり、無感覚となり、劣化し、退化し、極度に卑屈で、弱く、意志の力が無いので、牛や馬が導かれるのと同様に導かれる必要がある。霊に入っていくこと、あるいは神の働きに入っていくことについては、人間は全く留意することなく、真理のために苦難を受ける一抹の決意も無い。こうした人間が神により完全にされることは、極めて困難である。したがって、あなたがたがこの角度から入っていくことが、自らの働きといのちに入ることを通して神の働きを知ることが、不可欠なのである。

6.働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。多くの兄弟姉妹は、長年の経験を経た後になっても、神のために働くことについて考えたことがない。なぜなら、人間が考える働きとは、神が求める働きと矛盾するからである。したがって、働きの問題について人間は一切関心を持たない。そしてそれがまさに、人間がいのちに入ることが極めて偏っていることの理由でもある。あなたがたは皆、働きの全ての面をよりよく経験出来るように、神のために働くことによりいのちに入ることを目指すべきである。これが、あなたがたが入るべきことである。働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。

7.神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。長年にわたり神に仕え、人間を牧してきた者は、単に働きや説教をいのちに入ることとみなしてきた。また、誰も自らの霊的経験を重要ないのちの入りと考えてこなかった。むしろ、彼らは聖霊の働きによる啓きを利用して他の者に説教をする。説教をするとき、大きな負担を負い、聖霊の働きを授かり、それによって聖霊の声を伝える。この時、働きを行う者は、あたかも聖霊の働きが自らの霊的経験であるかのように悦に入り自己満足する。彼らはその時自分が述べた言葉が、自分そのものであると感じ、……このようにして説教を行った後、あなたは自分の実際の霊的背丈が自分が考えているほど小さくないと感じる。こうして聖霊があなたの中で何度か働いた後、あなたは自分には既に背丈があると判断し、聖霊の働きを自分自身がいのちに入ったこと、自分そのものであると誤って考えてしまう。あなたが絶えずこの経験をすると、自らがいのちに入ることについて不注意になる。そして気付かぬうちに怠惰になり、いのちに入ることを全く重視しなくなる。それゆえ、他人を牧する時は、自分の背丈と聖霊の働きを明確に区別する必要がある。そうすることで、あなたがいのちに入りやすくなり、あなたの経験にさらに役立つであろう。聖霊の働きを自らの経験であるとみなしている人間は、堕落しつつある。したがって、あなたがたが尽くす本分が何であるかを問わず、自分のいのちの入りを重要な学びと考えるべきである。

8.働くのは、神の心を満たし、神の心にかなう人々を神の前に来させ、人間を神の許へ導き、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものとするためである。そのため、働きの本質を把握することは必須である。神に用いられる者として、人間はすべて神のために働く価値がある。すなわち、人間にはすべて聖霊に用いられる機会がある。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、人間が神の働きを行う時、人間には神に用いられる機会があるが、人間が言うことや知っていることは、必ずしも全て人間の霊的背丈ではない、ということである。あなたがたは、自らの働きにおいてのみ自分の欠点を知り、聖霊から一層多くの啓きを授かり、それによって自らの働きへより良く入ることが出来る。神の導きを人間が自分自身で入っていることであり、人間が生来備えていることであるとみなすならば、人間の背丈が成長する可能性はない。聖霊は、正常な状態にある人間を啓く。そうした時に、人間は自らが授かる啓きを、自らの実際の背丈であると勘違いすることが往々にしてある。なぜなら、聖霊は至って普通の方法により、すなわち人間が生来備えていることを活用して啓くからである。人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。そうなって初めて人間は自らの背丈がそれほど大きくないことを知り、身勝手さや個人的な考え、人間の強欲さなどが全て現れる。こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、前後関係はない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。……したがって、あなたがたが聖霊の働きを授かる時は、神により一層完全にされて、聖霊の働きの本質があなたがたの中で作用するように、同時に自らのいのちへの入りにさらに専心し、聖霊の働きとは何か、いのちに入ることとは何かを正確に理解し、聖霊の働きを自分のいのちへの入りに採り入れる必要がある。聖霊の働きを経験する過程において、あなたがたは聖霊と自分自身を知るようになり、数多くの極度の苦難の中で、あなたがたは神との正常な関係を育み、あなたがたと神との関係は日々親しくなってゆく。無数の刈り込みと精錬を経た後、あなたがたには神への真の愛が生まれる。その困難や咎め、苦難は自分の気力をくじくものではないことを知る必要があるのは、このためである。恐れるべき事は、聖霊の働きを授かるのみで、いのちに入ることがないことである。神の働きが終わる日が来た時、あなたがたの取り組みは徒労となるであろう。あなたがたは神の働きを経験したにもかかわらず、聖霊を知ることも、自らがいのちに入ることもないであろう。人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を敬愛する心を育むためのものである。

9.神は人間に多くを託し、人間がいのちに入ることについて数え切れないほどの方法で取り上げてきた。しかし、人間の器量が極めて乏しいため、神の言葉の多くが根付かなかった。人間の器量の乏しさの理由は様々である。たとえば、人間の考えや道徳の堕落や適切な養育の欠如、封建的迷信が人間の心を強く支配していること、堕落し、退廃した生活様式が人間の心の最も深い所に多くの不徳を宿らせていること、また文化的教養の習得が表面的なことなどである。国民のほぼ98パーセントが文化的教養が欠如しており、さらに高度の文化的教養を受ける者が寡少であるため、人々は基本的に神や霊が何を意味するのかを全く知らず、封建的迷信から得た漠然とした曖昧な神の像しかもたない。また、数千年におよぶ「民族主義の高尚な精神」が人間の心の奥に残した悪影響、そして、自由も大志も根気も向上意欲も全くなく、消極的で衰退的なまま、奴隷的精神状態にとらわれた人々が束縛されている封建的な考え方もある。こうした客観的要素により、人類の観念的態度や理想、倫理、性質に消えることのない不浄で醜悪な色調が加えられてきた。人間は暗黒のテロリストの世界で生活しているように思われるが、それを超越することを求める者や、理想の世界に移ろうと考える者はいない。人間はむしろ自分の境遇に満足し、子供を産み育て、日常生活の諸事に奔走して励み、汗をかき、快適で幸せな家庭や、夫婦の愛情、親孝行な子供達、平和な人生を送って晩年を迎える喜びを夢見ている。現在まで数十年、数千年、数万年にわたり、人間はそのようにして時間を浪費し、誰も完全な生活を創造することなく、全員がこの暗黒の世界で互いに殺し合うこと、名声や富をめぐって競い合い、互いに謀をすることにのみ没頭している。今まで、誰が神の心を求めたであろうか。今まで、神の働きに注意した者がいるであろうか。人間のあらゆる部分が闇の影響により占められている状態が、人間の本性となって久しい。そのため、神の働きを行うのは極めて困難であり、現在、神が人間に託したことに人々はさらに配慮しなくなっている。いずれにせよ、わたしがこうした話をしても、人々は気にしないとわたしは考える。なぜなら、わたしがしている話は、数千年にわたる歴史だからである。歴史について語ることは、皆にとって明らかな事実、そしてそれ以上に不祥事を意味する。それならば、事実に反することを述べることに、どのような意味があるであろうか。

10.人間が行う迷信的な行為は、神が最も忌み嫌うものであるが、そうした行為が神により定められたものであると考え、それを捨て去ることが出来ない人が多く、そうした行為は現在も完全には捨て去られていない。若者が手配する婚礼や嫁入り道具、祝儀、披露宴や、それと同様に祝われる慶事、継承されてきた古代の風習、死者のために行われる無意味な迷信的行為や葬式などは、それにも増して神が忌み嫌うものである。日曜日(ユダヤ人が励行する安息日)でさえ、神にとって忌み嫌うべきものである。それにも増して、神は人間同士の社交関係や世俗的付き合いを嫌悪し拒絶する。皆が知っている春節やクリスマスは、神が定めたものではなく、ましてこうした祝祭日の玩具や飾り付け(二行連、新年の菓子類、爆竹、灯籠、クリスマス・プレゼント、パーティー、聖餐式)は神が定めたものなどでは全くない。これらは、人間の心にある偶像ではなかろうか。安息日にパンを分け合うことやぶどう酒、亜麻布の衣服などは、それにも増して偶像である。龍擡頭、龍舟節、中秋節、臘八節、新年など中国で一般的な伝統的祭日、そして復活祭、洗礼日、クリスマスなどの宗教的祭日は、どれも正当化しようのない祭日であり、昔に制定されてから多くの人々により現在まで受け継がれてきているが、神が造った人類と全く相容れないものである。これらの祭日は、人間の豊かな想像力と巧妙な観念により、現在まで受け継がれることが可能となったものである。そうした祭日は全く欠点が無いように思われるが、実際にはサタンの人間に向けた謀である。その地にサタンが多ければ多いほど、またその地が廃れて時代遅れであればあるほど、そこには封建的風習が一層深く根ざしている。そうした物事は人間を堅く拘束し、そのために全く身動きをとる余裕がない。宗教界の祭祀の多くが、高い独創性を示し、神の働きへの架け橋を築いているように思われるが、実はそうした祭祀はサタンが人間を拘束し、神を知ることを阻む目に見えない紐であり、それらは全てサタンの狡猾な策謀である。事実、神の働きのある段階が完了すると、神は既にその時代の手段や方法を跡形もなく破壊し終えている。しかし「敬虔な信者」は、そうした有形の物体を崇拝し続ける。その一方で、彼らは神のもつものを心の奥へしまい込み、それ以上学ばず、神への愛で満ち溢れているかのような素振りであるが、実際は神を遥か以前に追い出し、祭壇にサタンを据えている。人々はイエスの肖像、十字架、マリア、イエスの洗礼、最後の晩餐などを、天の主として尊びつつ、「父なる神よ」と繰り返し呼び続ける。これは全て冗談ではなかろうか。現在まで人類が受け継いで来た同様の文言や実践は、神にとって憎むべきものである。そうした物事は神の前途を阻み、さらに人間がいのちに入るのに大きな障害となる。サタンが人間を堕落させた範囲を除いても、人々の内面はウイットネス・リー(李常受)の掟やローレンスの経験、ウオッチマン・ニー(倪柝聲)の調査、そしてパウロの働きのような物事で満たされている。神が人間に対して働きを行うすべが全くない。なぜなら人々の内面には個人主義や掟、規則、規制、制度などが多過ぎるからである。人々の封建的迷信の傾向に加え、そうした物事は人間を捉えてむさぼって来た。それはあたかも人々の考えが想像上の生き物が雲に乗って旅をする寓話を極彩色で物語る興味深い映画のようであり、極めて独創的であるために人々は驚き、茫然として言葉を失う。

11.人間の性質を変化させる最善策は、人々の心の最も奥深い所にあり、酷く毒された部分を覆し、人々が考え方や倫理の変革を開始出来るようにすることである。まず人々はそうした宗教的儀礼や活動や年月、祭祀を神が憎んでいるということを明瞭に知る必要がある。人々はそうした封建的思考の束縛から解放され、自らに深く根ざした迷信的傾向を全て排除する必要がある。これらのことはすべて、人がいのちに入ることに含まれている。あなたがたは神が俗世から人間を導き出すのはなぜか、そして規則や規制から遠ざけるのはなぜかを理解する必要がある。これが、あなたがたが入る門である。それはあなたがたの霊的経験とは無関係でありながら、あなたがたがいのちに入り、神を知ることを阻む最大の障害である。そうした物事は、人間を捉える網になる。多くの者が聖書を読み過ぎており、聖句を数多く暗唱することさえ出来る。今日いのちに入るために、人々は無意識のうちに、あたかも神の働きの現段階の基礎が聖書であり、その根源が聖書であるかのように、聖書を用いて神の働きを判断しようとする。神の働きが聖書に則したものである場合、人々はその働きを強く支持し、神を従前にも増して尊ぶ。神が行う働きが聖書に則していない場合、人々は不安になって、必死で働きの根拠を聖書から探し出そうとする。神の働きについて聖書に記載がない場合、人々は神を無視する。現在における神の働きに関しては、殆どの者が極めて慎重に受け容れ、選択的に服従し、知ることに無関心であると言える。従来の物事については、その半分を固持し、もう半分を捨てる。これがいのちに入ることと言えるであろうか。他人の書物を宝とし、神の国への門の黄金の鍵として扱いながら、人々は現在において神が要求していることには全く無関心である。その上、多数の「見識ある専門家」が、神の言葉を左手に、他人の「名著」を右手に取り、それはまるで神の言葉の正しさを完全に証明するために、その根拠を名著に見出そうとしているかのようである。彼らはまた、仕事中のように、神の言葉を名著と統合させて聖句を他人に解説する。実のところ、現在における最先端の前例のない科学的業績(すなわち神の働き、神の言葉、いのちに入る道)のことを高く評価したことが一切ない「科学研究者」が人類には多数存在する。それで人々は皆「独立独歩」し、自らの雄弁さに頼って至るところで「説教」をして、「神の名声」を誇示している。その一方で、彼らがいのちに入る可能性は危うくなり、創世から現在までがかけ離れているのと同様、神の要求からかけ離れた所にいる。神の働きを行うのは、なんと容易なことであろうか。

12.人々はすでに自らの半分を過去に残し、残りの半分を現在に置くこと、半分をサタンに託し、現在に置かれている半分を神に託すこと決意したようであるが、それはあたかも、そうすることが人間の良心を癒やし、ある種の快適さを感じる術であるかのようである。人々の内面世界は極めて狡猾であり、明日を失うことだけでなく、昨日を失うことも恐れており、サタンと、存在するようであるがしないようにも考えられる現在の神の両方から怒りを買うことを強く恐れている。人々は自分自身の思考と倫理を適切に発達させることに失敗したので、特に分別がなく、現在の働きが神のものであるかどうかを全く見極めることが出来ない。それはおそらく人々の封建的で迷信的な思想が極めて深く、そのために迷信と真理、そして神と偶像を長い間同類として扱い、区別しようともしなかったことが原因であり、どれほど頭を悩ませても明確に区別出来ないようである。人間が道を歩むのを止め、前進しなくなったのはこのためである。こうした問題は、すべて人々に正しい観念教育が欠如していることに起因しており、これは人間がいのちに入るのに大きな困難となる。その結果、人々は真の神の働きに全く関心を示さない一方、人間(たとえば人間が偉人とみなす者など)の業には、あたかもそれに烙印が押されているかのように、固執する。これらは人間が取り組むべき最新の問題ではなかろうか。

終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神の現れによる新時代の到来 神は人のいのちの源である 神の裁きと刑罰に神の出現を見る キリストに味方しない者は確実に神の敵だ キリストと融和する道を探せ キリストは、真理を以て裁きの働きを行う 神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる あなたは誰に忠実か 三つの忠告 神の性質を理解することの並ならぬ重要性 信者はどんな見解を持つべきか 堕落した人間は神を体現することができない 宗教奉仕を取り締まるべきである 神を信じているなら神に従うべきだ 悪人は罰せられなければならない 現実をどのように知るか 神の心にかなう奉仕とは 今日の神の働きを知るということ 神の働きは人間が想像するほど簡単か 肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い 神の信仰は宗教的儀式でなく現実に焦点を合わせるべきである 今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる 神の国の時代は言葉の時代(前半) 神の国の時代は言葉の時代(後半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (前半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (後半) 「千年神の国は訪れた」についての短い話 神を知る者だけが、神の証人となることができる ペテロはどのようにイエスを知るようになったか 神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる あなたは生かされたか 性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである 二度の受肉が受肉の意義を完成させる ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート1) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート2) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート3) 本物の人とは何を意味するか あなたは信仰について何を知っているか 肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない 福音を広める働きは、人を救う働きでもある 律法の時代における働き 贖いの時代における働きについての真実 あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (前半) あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (後半) 呼び名と身分について(前半) 自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか 神とその働きを知る者だけが神の心にかなう 受肉した神の職分と人間の本分の違い( 前半) 受肉した神の職分と人間の本分の違い ( 後半) 神はすべての被造物の主である 神の働きと人の働き(前半) 神の働きと人の働き (後半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(前半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(後半) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート1) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート2) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている(パート3) 神の宿る肉の本質 (前半) 神の宿る肉の本質 (後半) 神の業と人間の実践(前半) 神の業と人間の実践(後半) キリストの本質は父なる神の心に従うことである 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (前半) 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (後半) 神と人は共に安息に入る(パート1) 神と人は共に安息に入る(パート2) 祈りの実践について 新時代の戒め 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋 (パート1) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート3) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート4) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋( パート1) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋 パート2 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート1) 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート4) 四番目の言葉 五番目の言葉 七番目の言葉 八番目の言葉 九番目の言葉 十番目の言葉 十二番目の言葉 十五番目の言葉 十八番目の言葉 十九番目の言葉 二十番目の言葉 二十一番目の言葉 二十二番目の言葉 二十六番目の言葉 二十九番目の言葉 将来の使命にどのように取り組むべきか 神について何を理解しているのか 神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目 あなたは本当に神を信じているのか すべてが神の言葉によって達成される(後半) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋( パート1) 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋( パート3) すべてが神の言葉によって達成される(前半) 三位一体は存在するのか(前半) 三位一体は存在するのか(後半) 六番目の言葉 十三番目の言葉 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 (パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋 (パート2) 呼び名と身分について(後半) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート3) 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 パート1 救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た 神と人は共に安息に入る(パート3) あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである

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