「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋 (パート2)

13.人が聖霊の働きに従って本当に真理に入ることができるなら、その人のいのちは春の雨後のタケノコのように急速に成長するだろう。ほとんどの人は、現在の霊的背丈から判断すると、誰もいのちを重要視していない。それどころか人々は取るに足らない表面的な事柄を重要視している。あるいは彼らはあちこちへ突進し、どの方向に行くべきか知らないまま、ましてや誰のためかもわからないまま、焦点を絞らず、目的もなく、やみくもに働いている。彼らはただ「謙遜して身を潜めている」のである。実は、あなたたちの中には終わりの日の神の心を知っている人はあまりいない。あなたたちのほとんど誰も神の足跡を知らないし、神の最終的偉業が何になるなのかを知る人はさらに少ない。しかし、誰もが、あたかもシフトアップしてやっと成すべきことをやり遂げてくつろげる日を待っているかのように、純然たる意志の力によって他人からの鍛錬と取り扱いを受け入れている。わたしは人々のあいだのこうした「不思議なこと」について何の説明も提供するつもりはないが、あなたたちのすべてが理解しなければならない点が一つある。現在、ほとんどの人は異常な状態に向かって進んでおり、彼らの入る歩みはすでに袋小路に向かって行進している。おそらく多くの人はそれが人の待ち焦がれる「理想郷」だと考え、「自由の場所」だと信じている。実際は、そうではない。あるいは、人々はすでに正道を踏み外していると言うこともできる。

14.神は、香港や台湾の同胞が内地と呼ぶ中国本土で人の姿となって現れている。神が天から地上に来た時、天でも地上でも誰もそのことを知らなかった。これが、隠れた形で神は戻るという本当の意味だからである。神は人の姿となって長い間働き、生活してきたが、誰もそのことを知らなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。多分、これは永久になぞのままだろう。神が今回肉となったことは、誰もが気づけることではない。聖霊の働きがどんなに大規模で強力であっても、神はいつも冷静で、決して内心をさらけださない。あたかもこの段階の神の働きは天国で行われているかのようだと言うことができる。すべての人にとって完全に明らかであるにもかかわらず、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、すべての人は長い夢から覚め、過去の態度を逆転させるだろう。わたしはかつて神が、「今回人の姿となったことは虎の穴に落ちるようなものだ」と言ったことを覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きでは神が人の姿となり、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回神の地上への到来は非常な危険を伴っているということだ。神が直面するのはナイフと銃とこん棒である。神が直面するのは誘惑である。神が直面するのは殺意のある顔つきをした群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は確かに怒りをもって来た。しかし、神は人間を全きものとする働きをするために来た、つまり、贖いの働きの後に続く神の働きの第二部を行うために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、誘惑の攻撃を避けるために考えつく限りのあらゆる手段を用いており、謙虚に身を潜め、決して正体を誇示しない。人間を磔から救うことに関しては、イエスはただ贖いの働きを完成していただけで、人間を全きものとする働きはしていなかった。従って神の働きの半分しか行われておらず、贖いの働きを終えることは神の計画全体の半分でしかなかった。まもなく新時代が始まり、古い時代は遠ざかろうとしていたので、父なる神は働きの第二部を検討し始め、そのための準備を開始した。これまで、この終わりの日の受肉は予言されなかったかもしれず、従って今回神が肉となったことについて隠匿性が増す土台となった。夜明けに、誰にも知られずに神は地上に来て、人の姿で生活を始めた。人々はこの瞬間に気づかなかった。彼らはみなぐっすり眠っていたかもしれない。注意深く目を覚ましていた多くの人は待っていたかもしれない。多くの人は静かに天の神に向かって祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人たちすべての中で、一人として神が地上にすでに到着していることを知らなかった。神はもっと円滑に働きを実行し、よりよい結果を達成するためにこのように働いたのであり、それはさらなる誘惑を避けるためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっているだろう。地上を歩き回り逗留する生活を終え、神は旅立つ。神の働きには神が自ら行動し、語ることが必要なので、また、人が手を貸すことなどできないので、神は地上に来て、自分で働きを行うために非常な苦しみに耐えた。人が神の働きの代役をつとめることはできない。従って、神は恵みの時代の危険より数千倍も大きな危険を冒し、自分の働きを行うために赤い大きな竜が住むところに降りてきて、この貧困に陥った人々の一団を救い出すために、この山のような汚物にまみれた人々を救い出すために、神の思考と気遣いのすべてを注ぎ込む。たとえ誰も神の存在について知らなくても、神が悩まないのは、知らないほうが働きのためになるからである。あらゆる人は残忍なほど邪悪なので、どうして神の存在を容認することができようか。そういうわけで神は地上ではいつも沈黙している。人がどんなにひどく残酷であっても、神はそれを苦にすることはなく、なすべき働きを行い続け、天の父に与えられたもっと大きな任務を履行する。あなたたちの誰が神の愛らしさに気づいているだろう。誰が父なる神の重荷に対して神の子以上の思いやりを示すだろう。誰が父なる神の心を理解することができるだろう。天の父なる神の霊はしばしば悩まされ、地上の神の子は心がずたずたになるほど心配して、父なる神の心のためにたびたび祈りを捧げる。父なる神のその子に対する愛を知っている者がいるだろうか。最愛の子が父なる神をどんなに恋しく思っているか知っている者がいるだろうか。天と地の間に引き裂かれて、二人は絶えず遠くからお互いの姿を注視し、霊において一緒にいる。ああ、人類よ。あなたたちはいつ神の心を思いやるのだろう。あなたたちはいつ神の心を理解するのだろう。父と子はつねに互いを頼りにしてきた。ではなぜ彼らは別れていて、一人は天に、一人は地上にいるのだろう。子が父を愛するように、父は子を愛している。ではなぜ父はそのように切望して待ち、そのように心配しながら切望しなければならないのだろう。彼らは長い間離れていたわけではなかったが、父がすでに何昼夜も不安げに切望し、愛しい子が早く戻ってくることを楽しみに待ち続けていることを誰か知っているだろうか。神は観察し、黙って座り、待つ。すべては愛しい子が早く戻ってくるためである。いつになったら彼は地上でさまよっている子と再び一緒になるのだろう。かつては一緒にいて、永遠に一緒にいるであろうにもかかわらず、どうして父と子は何千昼夜ものあいだ、一人は天に、一人は地上と別れていることに耐えることができるのだろう。何十年も地上にいることは何千年も天にいるようなものだ。父なる神はどうして心配しないでいられるのだろう。神が地上に来れば、人と同様に人間世界の多くの苦難を経験する。神自身は罪がないのに、なぜ神に人と同じ痛みで苦しませるのか。父なる神が子を熱心に切望するのは驚くに当たらない。神の心を誰が理解することができようか。神は人に多くを与えすぎる。どうしたら人は神の心に適切に報いることができるだろう。しかし人が神に与えるものは少なすぎる。したがって神はどうして心配しないでいられようか。

15.人々のうちほとんど一人も神の差し迫った心を理解していない。なぜなら人々の力量はあまりにも低く、彼らの霊的感受性は非常に鈍く、彼らはみな神が何をしているか気づかないし、注意を払ってもいないからである。そこで神はあたかも人の野蛮な性質が今にも突出しないかと人について心配し続ける。これはさらに、神が地上に来ることは大きな誘惑を伴っていることを示している。しかし、一団の人々を完成させるために、神は栄光に満ちて、人に何も隠さず、すべての意図を告げた。神はこの集団を完成しようと堅く決心していた。従って、困難や誘惑が来ようと、神は目をそらしてそのすべてを無視する。神は、いつか神が栄光を得た時、人は神を知ると堅く信じて、また、人が神によって完成されたとき、完全に神の心を理解するだろうと信じて、静かに自分の働きを行なう。現時点では神を誘惑したり、誤解したり、責めたりする人々がいるだろう。神はそうしたものを何も気にしない。神が栄光の中に降りていくと、人々は皆、神がすることはすべて人類の幸福のためであることを理解し、人々は皆、神がすることはすべて人類のよりよい生き残りのためであることを理解するだろう。神の到来には誘惑がつきものであり、神は威厳と怒りも伴って来る。人のもとを去るときまでには神はすでに栄光を獲得し、栄光と戻る喜びをたっぷり担って去っていくだろう。地上で働く神は人々がどんなに神を拒絶しても物事を重く受け止めない。神はただ自分の働きを行なっている。

16.神の天地創造は何千年も前にさかのぼり、神は計り知れないほどの量の働きを行うために地上に来て、人間世界の拒絶や中傷を十分経験した。誰も神の到着を歓迎しない。すべての人は神を冷たい視線を投げやるだけである。この数千年に値する苦難の過程で、人の行動はかなり前から神の心を打ち砕いていた。神はもはや人々の反逆には注意を払わず、その代わりに人を変革し、浄化する別の計画を立てている。愚弄、中傷、迫害、苦難、磔刑の苦しみ、人による排斥など、神が肉体で経験したこと――神はこれらを十分に味わった。肉体の神は人間世界の苦難に徹底的に苦しんだ。天の父なる神の霊はずっと以前にこのような光景は耐えがたいと思い、首を反らし、目を閉じ、愛する子が戻って来るのを待った。神が望むのは、すべての人々が耳を傾け、従い、人となった神の前で大いに恥を感じ、神に逆らわないようになることだけである。神が望むのはすべての人々が神の存在を信じることだけである。大きすぎる代償を支払ってきたので、神はかなり前から人に多大の要求をすることをやめたが、人は呑気に構えており、神の働きを全く心にとどめていない。

17.現在あなたがたは皆、人がそれぞれ自由な世界で生きていけるように、神が人間を人生の正しい道へと導いていること、新たな時代へと続く次の段階へ人間を導いていること、この暗い古い時代を超えるように人間を肉の外へ、闇の勢力の抑圧とサタンの影響から離れるように人間を導いていることを知っている。美しい明日のため、また明日人間が闊歩できるように、神の霊は人間のために全てを計画している。また、人間がさらなる喜びを得られるように、神は自らの肉における努力のすべてを人間の前にある道を準備することに費やし、人間が待ち望む日の訪れを早めようとしている。あなたがたが皆この美しい瞬間を大切にすることを。神と共にあるのは容易なことではない。あなたがたは神を知らないが、既に長いこと神と共にある。皆がこの美しく束の間の日々を永遠に覚えていられ、その日々を地上における大切な財産とすることが出来ることを願う。

18.数千年にわたり、中国人は奴隷生活を送ってきたため、考え方や観念、生活、言語、態度、行動が大いに制限され、少しも自由がなかった。数千年にわたる歴史により、霊と活気を備えていた人々は疲弊して霊のない屍のような状態になった。多くの人々がサタンの大形肉切り包丁の下に置かれ、獣の巣のような家に住み、牛や馬の餌同様の物を食べ、「冥界」で感覚を失い、混乱した状態で暮らしている。人々は外観上、原始人と変わらず、彼らの安らぐ場所は地獄のようであり、様々な汚れた悪魔や悪霊に囲まれている。外側からは、人間は高等「動物」のように見えるが、実際には汚れた悪魔と共生している。そうした人間を世話する者は居らず、サタンが常に待ち伏せする中で暮らし、罠にかかり、そこから逃げ出すことは出来ない。そうした者は、居心地のよい家で愛する者と共に幸福で満たされた生活を送っていると言うよりも、陰府に住み、悪魔と取引し、悪霊と付き合っていると言うべきであろう。事実、人々は依然としてサタンに拘束されており、不浄の悪魔が集うところで生活し、その汚れた悪魔に操られ、人々の寝床は屍が葬られる場所であり、こぢんまりした巣のようである。

19.人間は動物と共生し、動物と協調し、論争や口論になることはない。人間は動物の手入れや世話にうるさく、動物は人間の生存のため、まさに人間の利益のために、動物自身には一切利点無く、かつ人間に対する完全服従の中で存在する。人間と獣の関係は、あらゆる面から見て緊密であり協調的である。そして汚れた悪魔は、人間と獣の完璧な組み合わせであるかのように思える。したがって、地上にいる人間と汚れた悪魔はそれにも増して緊密であり引き離すことができない。人間は、汚れた悪魔から離れていても、この繋がりを維持する。その一方、汚れた悪魔は、一切惜しむこと無く、持てる全てを人間に「捧げる」。人々は日々「地獄の王の宮」ではしゃぎ、「地獄の王」(人間の祖先)と浮かれ騒ぎ、それに支配されているので、現在では垢を塗りたくられたようになり、陰府で長いこと過ごしたために、「生きる者の世界」へ戻ることを望まなくなって久しい。ゆえに、光や神の要求や神の特徴、神の働きを見たとたんに人々は取り乱して不安になり、冥界へ戻って幽霊と過ごすことを求め続ける。人々は遥か以前に神を忘れたので、それ以来常に墓場を彷徨っている。

20.働きと入ることはそもそも実際的で、神の働きと人がいのちに入ることを指している。人は神の本当の顔と神の働きをまったく理解していないので、いのちに入るには非常な困難が生じた。今日まで、多くの人々は、神が終わりの日に完成する働きのことをまだ知らない。あるいは、なぜ神が人の姿となり、禍福いずれのときも人を支えるために極度の屈辱に耐えるのかを知らない。人は神の働きの目標について何も知らないし、終わりの日の神の計画の目的も知らない。さまざまな理由で、人々は神が人に対していのちに入るようにと要求することに関していつも中途半端で曖昧であり、そのため、人の姿となった神の働きには多大の困難がもたらされた。人々は皆障害物になったようで、今日まで彼らはまだ明確に理解していない。従って、わたしは神が人に行う働きと神の緊急の意図について話し、あなたたちすべてが神の忠実なしもべになり、ヨブのように、神を拒絶するくらいならむしろ死を選び、あらゆる恥辱に耐え、ペテロのように存在のすべてを神に捧げ、終わりの日に神が得る者になることを目指す。すべての兄弟姉妹ができる限りのすべてを行い、全存在を神の天の旨に捧げ、神の家で敬虔なしもべになり、神によって与えられる無限の約束を享受することを願っている。そうすれば、父なる神の心はすぐに平和な休息を享受できるだろう。「父なる神のご意志を成就する」は神を愛するすべての人々の座右銘となるべきである。これらの言葉は人がいのちに入るための指針として、人の行動を指図する羅針盤として役立つべきである。これは人が持つべき決意である。地上で神の働きを余すところなく終わらせ、受肉した神の働きに協力すること、これは人の本分である。いつか、神の働きが完了する時、人は受肉した神に天の父のもとに早く戻るよう別れを告げるだろう。これは人が履行すべき責任ではないだろうか。

21.人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。

22.多くの場所で神は、スエネの地の勝利者の一団を得ると予言した。勝利者が得られるのは世界の東方なので、神の二回目の受肉が見られる場所は間違いなくスエネの地で、まさに赤い大きな竜がとぐろを巻いているところである。その地で神は赤い大きな竜の子孫を自分のものにするので、竜は完全に敗れ、辱められる。神はこれらの深く苦しんでいる人々を目覚めさせたがっている。彼らを完全に目覚めさせ、霧から外へ歩き出させ、赤い大きな竜を退けさせたがっている。神は彼らを夢から目覚めさせ、赤い大きな竜の本質を知らしめ、神に完全に心を捧げ、闇の力の抑圧から立ち上がり、世界の東方で立ち上がり、神の勝利の証明になることを望んでいる。そうなってようやく神は栄光を得るだろう。まさにこの理由のため、神はイスラエルで終わった働きを赤い大きな竜がとぐろを巻いている地にもたらし、地上を去ってからほぼ二千年後、恵みの時代の働きを続行するために再び受肉した。人の肉眼には、神は人の姿で新しい働きを開始している。しかし、神にとっては恵みの時代の働きの続行であり、ただ数千年時が離れただけ、働きの場所と計画が変化しただけである。今日の働きで神が取り入れた肉の姿はイエスとはまったく異なる人であるが、両者は同じ本質と根源を共有しており、同じ源から来ている。おそらく両者の外見には異なった点が多くあるだろうが、彼らの働きの内なる真実は完全に同一である。結局、時代の違いは昼と夜のようなものである。どうして神の働きが変化しないままでいられるのだろうか。あるいは、どうして働きがお互いを分断できるのだろう。

23.イエスはユダヤ人の外見で、ユダヤ人に即した衣服を身に着け、ユダヤの食べ物を食べて育った。これはイエスの普通の人間的側面である。しかし、今日受肉した体はアジア人の形をとり、赤い大きな竜の民族の食べ物で育つ。これらのことは神の受肉の目標と矛盾しない。むしろ、両者はお互いを補完し、神の受肉の真の意義をより徹底的に完了する。人の姿となった体は「人の子」あるいは「キリスト」と呼ばれるので、今日のキリストの外見はイエス・キリストと一致しない。結局、人の姿となった神は「人の子」と呼ばれ、人の姿である。神の働きの各段階にはかなり深い意味が含まれている。イエスが聖霊によって受胎された理由は、イエスが罪を贖うことになっていたからである。イエスは罪があってはならなかった。しかし、罪深い肉体と同じ姿にさせられ、罪人の罪を引き受けた最後にはじめて、イエスは神が人々を罰するために使った呪われた十字架によって罪人を救った。(十字架は神が人々を呪い、罰するための道具である。呪と罰への言及は特に罪人を呪い、罰することに関している。)目標はすべての罪人に悔い改めさせて、彼らに罪を認めさせるために磔刑を使うことであった。すなわち、すべての人類の罪を贖うために、神は聖霊によって受胎された人として受肉し、すべての人類の罪を引き受けた。これを説明する一般的方法は、すべての罪人の代わりに聖なる肉体が奉献されたことであり、イエスが、罪の捧げ者としてサタンの前に置かれ、サタンが踏みにじった罪のない全人類を神のもとに返すようサタンに「懇願」したのである。従って、この段階の贖いの働きを完成するために聖霊による受胎が要求された。これは必要な条件、父なる神とサタンの闘いのあいだの「協定」であった。そういうわけで、イエスがサタンに与えられ、そうしてようやくこの段階の働きは終了する。しかし、今日の神の贖いの働きはすでに先例のない壮大なものであり、サタンが要求する理由はまったくないので、神の受肉は聖霊による受胎を必要としない。神は本質的に聖で、罪がないからである。そこで、今回受肉した神はもはや恵みの時代のイエスではない。しかし、彼はまだ父なる神の心のため、父なる神の願望を満たすために存在する。どうしてこれを不合理な発言と考えることができるだろうか。神の受肉は一連の規則に従わなければならないのだろうか。

24.多くの人は聖書の中に証拠を求め、神の受肉の預言を見つけようとする。人の壊れた考えでは、神がずっと以前に聖書の中で「働く」のをやめて、聖書の外に「飛び出し」、長い間計画しながら人には決して話したことのない働きを嬉々として行うことをどうして知ることができようか。人々はあまりにも理知が欠けている。神の性質を味わっただけで、その後高い演台に気軽に登り、高級な車いすに座り、神の働きを調査し、仰々しい、とりとめのない話で神を教育し始めさえする。「老人」の多くは読書用眼鏡をかけ、あごひげを撫でながら、生涯読んでいる黄色くなった「古い年鑑」(聖書)を開く。言葉をぼそぼそつぶやき、一見したところ目を輝かせながら、老人はヨハネの黙示録を見たり、ダニエル書を見たり、世界的に知られているイザヤ書を見たりする。小さな言葉がいっぱい詰まった頁から黙読し始め、頭は絶え間なく回転している。突然ひげを撫でている手が止まり、髭をひっぱり始める。ときどきひげのちぎられる音が聞こえる。このようなまれな行動が人を面食らわせる。「なぜそのような力を使うのか。何にそんなに怒っているのか。」老人に目を戻すと、彼の眉は今や逆立っている。白髪になった眉は、老人の目がカビの生えたようなページにくぎ付けになっている時、あたかも偶然のようだが完壁に、ガチョウの羽のようにこの老人のまぶたからきっかり二センチのところに着地している。老人は同じ一連の行動を数回繰り返してから、どうしようもなくてさっと立ち上がると、視線は年鑑から離れていないが、あたかも誰かと世間話をするかのようにおしゃべりを始める。突然、今開いているページを覆い隠し、「別の世界」の方に向く。動きはとても慌ただしくて恐ろしいものなので、人々を唖然とさせそうなくらいである。やがて、穴から出てきて、老人の沈黙中「自由を感じ」始めていたネズミが老人のいつにない動きにびっくりして、穴に走って戻り、跡形もなく消える。今や老人の動きのない左手はひげを撫でる上下運動を再開する。彼は本を机の上に置いて席を離れる。少し開いている扉と開いている窓を通して風が吹いてきて、無造作に繰り返し本を閉じたり、開けたりする。この光景には言葉で表せない絶望感があり、本のページが風でガサガサいう音を除いて、すべては沈黙に陥ったように見える。老人は両手を背に回して握り締め、部屋をゆっくり歩き、立ち止まったかと思うと、歩き出し、時々頭を振って、見たところ「おお、神よ。あなたは本当にそれをなさるのですか」と繰り返している。また時々、頷いて「おお、神よ。誰があなたの働きを理解することができるのでしょう。あなたの足跡を捜すのは難しくありませんか。私はあなたが不合理なことはなさらないと信じています」と言う。やがて老人は眉根を寄せ、目をぎゅっとつぶり、あたかもゆっくり熟考したいかのように、当惑した顔つきになり、かなり苦しそうな表情も見せる。これは本当にこの「立派な老人」を挑発している。人生のこの最後の段階で、老人は「不運にも」この問題に出くわした。それについて何ができるだろう。わたしも当惑し、何かする力はない。だれが彼の古い年鑑を黄ばませたのだろう。誰が彼の顔のあちらこちらに無情にもあごひげと眉を白雪のように伸びさせたのだろう。まるであごひげが彼の経歴を表しているかのようである。しかし、人はこれ程まで愚かになって、古い年鑑の中に神の存在を捜すなどと誰が知っていただろうか。古い年鑑は一体何ページあるのだろうか。本当に神の行いのすべてが記録されているのだろうか。誰があえてそれを保証するのだろうか。人は実際、神の出現を探し求め、神の心をかなえようと過度に言葉を分析する。このようにしていのちに入ろうとするのは言うほど容易なことなのだろうか。これは不合理で、誤った推論ではないだろうか。あなたはこれを滑稽だと思わないのだろうか。

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