「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート4)

34.深く根付いた民族的伝統と精神的姿勢が、人間の純粋な子供のような心に影を落として久しい。あたかも感情や自我の意識が全く欠如しているかのように、人間性のかけらもなく人の魂を攻撃してきた。これら悪魔のそんなやり方は極めて残忍であり、それはあたかも「教育」と「育成」が、魔王が人間を殺す伝統的方法になったかのようである。魔王は自らの「深遠な教え」を用いて、その醜悪な魂を隠し、羊の皮を被って人間の信頼を得てから、人間が寝ている隙を利用して、人間を完全にむさぼり食う。人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。このように腐敗した国民は、神を知ることなど到底出来ない。神にとって、受肉してそんな人々の中に来て救いのすべての働きを行うのは、容易であろうか。既に陰府に陥った人間が、どうして神の要求を満たすことが出来ようか。

35.人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どうして神は地獄で生活できたのであろうか。しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来るために神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが「地獄」と「陰府」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。どうして神について再度不平を述べる理由が人間にあろうか。どうして人間は厚かましくも神を再び見上げられるであろうか。天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪や抑圧を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉の精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、冷酷な心と冷淡かつ無関心な眼差し、人間による非難と侮辱の繰り返し、辛辣な言葉と皮肉、蔑みの報いを受け、嘲笑、横暴と拒否、誤解と愚痴、拒絶と拒否、裏切りと攻撃、そして憤慨で応じられている。温かい言葉には、敵意の表情と冷淡な不満の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は、それを忍んで頭を下げ、命令されるままの牛のように人々に仕えるしか無い。神はいくつの陽と月、いくつの星を見上げたことであろうか。神は何度日の出と共に去り、父の元を去った時の苦しみの千倍におよぶ苦難と、人間の攻撃と破壊、取り扱いと刈り込みに堪え忍び、日の入りと共に戻って眠れぬ夜を過ごしたことであろうか。神の謙遜と慎ましさは、人間の偏見、不当な意見や処遇で応じられ、また神の匿名性と忍耐強さ、寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は遺恨無く神を踏みにじり、殺そうとする。神を扱う人間の姿勢は、「希な聡明さ」の類いのものであり、人間に虐待され侮蔑された神は、無数の人間の足で踏みつぶされ、その下で平らになっている一方で、人間は意気揚々として立ち、それはあたかも城に住む王のようであり、そして絶対的な権力の掌握を望むかのようであり、陰で宮廷を設け、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こすことを許されない裏方の主事にしようとしているようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由も無い操り人形にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神に対してあれこれと要求する資格が人間にあろうか。どうして神に対して提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情することを神に対して要求する資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいであろうか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいであろうか。人間の良心はどこにあるのか。人間は遥か昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、それが少しの温厚さしか伴わなくても、人間が神に優しく接することを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心が人間により安らげられるのに手間取っており、神が受けてきたのは、激化を続ける攻撃と苦悩のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることが無く、常に悪意を抱き、無鉄砲であり、神に対して言論の自由や権利を決して与えず、神に対して恥辱に屈服し、人間が神を好きなように操らせることを余儀無くしている。

36.創造時から現在に至るまで、神は極めて大きな痛みと無数の攻撃を受けて来た。しかし、現在も人間の神に対する要求は衰えることなく、神を研究し、神に対して容赦せず、神に対して勧告し、批判し、鍛錬するだけで、それはあたかも神が誤った道を歩み、地上にある神が残忍で不合理であったり、奔放に振る舞ったり、結局無意味になったりするのを深く恐れているかのようである。人間は、神に対して常にこうした姿勢であった。それが神を悲しませないことが、どうしてあろうか。神は、受肉することにより甚大な苦痛と恥辱を受けたが、その上に、神に人間の教えを受け容れさせることは、どれほど酷いことであろうか。神は、人間の元へ来たことが原因で、全ての自由を奪われたが、それはあたかも神が陰府に捕らわれ、人間による分析を全く抵抗せずに受け容れたかのようである。それは恥辱ではないだろうか。常人の家庭に来たことで、イエスは最大の不義を受けた。それにも増して恥辱的なこととして、イエスはこの汚れた世に来て、深みの底までへりくだり、至って普通の肉を受けた。至高の神は、劣った人間となるにあたり、苦難を受けるのではなかろうか。そしてそれは、全て人間のためではなかろうか。神が自らのことを考えたことがあっただろうか。彼はユダヤ人に拒否されて殺され、人々に愚弄され、嘲笑されても、天に不平を言ったり地に反抗したりすることは無かった。現在、こうした数千年前の悲劇が、ユダヤ人のような人々の間で再発している。そうした者は、かつてと同じ罪を犯しているのではなかろうか。神の約束を人間が授かる資格が、どうしてあろうか。人間は神に反抗して、その後に神の恵みを授かるのではなかろうか。人間が正義と向き合い、真理を探し求める事が決して無いのは、何故だろうか。人間は何故、神のすることに関心を抱かないのだろうか。人間の義はどこにあるのか。人間の公正さはどこにあるのか。人間は厚かましくも神を代表するつもりなのか。人間の正義感はどこにあるのか。人間が愛するもののうち、どの程度が神に愛されているであろうか。人間はチョークとチーズを見分けることが出来ず、常に白黒を混同し、義と真理を抑圧し、不公平と不義を空高く掲げる。人間は光を退け、闇の中で踊る。真理と正義を求める者は、それに反して光を退け、神を求める者は神を踏みつけて自らを空高く昇らせる。人間は盗賊同然である。人間の理知はどこにあるのか。誰が善悪を区別できようか。誰が正義を守ることが出来ようか。誰が真理のために苦しむことを望むというのか。人間は悪徳かつ邪悪である。人間は神を十字架に架けて喝采し歓声を上げ、その叫びは続く。人間は鶏と犬のように結託して共謀し、自分達の国を建て、人間の干渉が及ばない場所は無く、また人間は目を閉じてくるったように吠え続け、皆一緒に閉じ込められて仰々しい雰囲気が充満し、騒々しく活気がある。また他人を慕う者が絶えず、そうした者は皆祖先の「輝かしい」名声を掲げている。こうした犬と鶏は、遥か昔に神を心の奥へ押しやり、神の心境に対して配慮したことは一度も無い。人間は犬や鶏のようであり、他の百匹の犬も吠えさせる吠える犬のようである、と神が言ったのも不思議ではない。そのようにして、神の働きがどのようなものか、正義があるかどうか、神には足がかりとなる余地があるか、明日どうなるか、自分の卑しさや汚れを無視して、人間は仰々しい謳い文句で神の働きを現代にもたらした。人間は物事をそれほど深く考えたことも、明日のことを懸念したことも無く、有益で貴い物事を集めて自分のものとし、神には屑と残飯しか残さなかった。人間は何と残忍なことであろうか。人間は神に対して何も感じる事が無く、神のもつ全てを隠れてむさぼった後、神を自分の後ろに放り投げ、神の存在にそれ以上留意することは無い。人間は神を享受しつつ神に背き、神を踏みつける一方で口では神に感謝し、神を称える。人間は神に祈り、神をよりどころとしつつ、神を欺く。人間は神の名を「讃え」て神の顔を見上げるが、それと同時に厚かましく恥知らずに神の玉座に座り、神の「不義」を非難する。人間は口では神に負債があると言って神の言葉を眺めるが、心の中では神を罵る。人間は神に対して「寛容である」が、神を抑圧しつつ、口ではそれが神のためと言う。人間は神の物事を手に握り、口では神に与えられた食べ物を噛むが、人間の眼はあたかも神をむさぼり尽くすことを望んでいるかのように冷酷で無情な眼差しで神を見る。人間は真理を見るが、それがサタンの謀だと言うことにこだわる。人間は義を見るが、それを強制的に自制に変える。人間は人間の行いを見るが、それが神というものであると言い張る。人間は人間に与えられた天賦の才を見るが、それが真理であると言い張る。人間は神の業を見て、それが傲慢さであり、自惚れであり、虚勢であり、独善であると言い張る。人間が神を見る時、神を人間と呼ぶことを主張し、サタンと共謀する創造物の座に納めようと懸命になる。人間は、それらが神の発言であることを十分承知しているが、それは人間の書き記したもの以外の何物でもないと言う。人間は、神の霊が肉となって現れていること、神が受肉していることを十分承知しているが、単にその肉はサタンの末裔であると言う。神は慎ましく隠れていることを十分承知しているが、単にサタンが恥辱を与えられ、神が勝利したと言う。なんと役立たずな者達であろうか。人間は番犬として仕える価値さえ無い。人間は白黒を見分けることが出来ず、さらには黒を白だと故意に曲解している。人間の勢力と人間による包囲は、神の解放の日を持ち堪えることが出来るだろうか。人間は神に対して故意に反抗し、神への配慮はほとんどされず、さらには神が自らを現す隙さえ与えずに、神を死に追いやるほどである。義はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。人間は神の傍らにありつつ、神に対して跪いて許しを請い、人間の采配に全て従い、人間の策略に黙って従うよう迫り、神のすること全てにおいて人間の指示に従わせており、そうならなかったならば人間は激昂して怒り狂う。黒を白へとねじ曲げるような闇の影響下にあって、どうして神が悲しみにうちひしがれないでいられようか。どうして神が懸念せずにいられようか。神が最新の働きを始めた時、それが新時代の夜明けのようであると言われるのは何故だろうか。人間の行いは極めて「豊潤」であり、「枯れることのない生ける水の泉」が人間の心の土を間断なく「潤す」一方、人間の「生ける水の泉」はぬけぬけと神と競い合う。両者は折り合いが付かず、その泉は何のためらいも無く神に代わって人間に施す一方、人間はそれに伴う危険に対して何の懸念することなく、その泉に加担する。それにはどのような効果があるのであろうか。人間は、神が人間の注意を引くことを恐れ、また神の生ける水の泉が人間を呼び寄せ、得ることを深く懸念して、神を冷淡に隅へ追いやり、人間が神を全く気に留めない所まで遠ざける。こうして、この世の懸念を長年にわたり経験した後、人間は神に対する謀略を企て、さらには神を非難対象とする。それはあたかも神が人間の目の中の丸太となったかのようであり、人間は神を掴んで火にくべて精錬し、清めようと必死になっているかのようである。神の苦難を見て、人間は腹を抱えて笑い、喜んで踊り、神も精錬するに至ったと言い、またあたかもそれが天の公平かつ公正なやり方であるかのように、神の不浄さをすっかり燃やして浄化すると言う。人間のこうした暴力的行為は、意図的かつ無意識のようである。人間は自らの醜い顔を現し、また忌まわしく汚れた魂と卑しむべき乞食の姿を現す。人間は、遍く猛り狂った後、哀れを極めたパグのように絶望的な様相で天の赦しを乞う。人間は常に予想外の行動を執り、「虎の威を借りて他人を脅し」、暇があれば享楽に浸り、神の心に少しも配慮せず、自らの地位と比較することも無い。人間は黙って神に反抗し、それはあたかも神が人間を虐待しており、神は人間をそのように扱うべきではないかのようであり、また天が目を持たず、故意に人間にとって物事が困難となるようにしているかのようである。したがって、人間は悪徳な謀りを企て、神に対する要求を僅かでも譲ることが無く、物欲しげな眼差しで神の一挙一動を睨み、決して自らが神の敵であるとは考えず、神が霧を晴らして物事を明瞭にし、「虎の口」から人間を救い、人間のために報復する日が来ることを願っている。現在に至っても、人間は自らが依然として神の敵の役割を演じているとは考えて居ないが、時代を通して無数の人間がこの役割を演じてきている。人間は、自らの全ての業において久しく邪道を行き、かつて理解したことは海に飲み込まれていることを、どうして知ることが出来ようか。

今まで、誰が真理を受け容れたというのか。今まで、誰が神を両手を広げて歓迎したというのか。今まで、誰が神の出現を喜んで願ってきたというのか。人間の行動は長期にわたって腐敗し、人間の汚れのために神の宮が確認できない状態となって久しい。一方で、人間は自らの働きを依然として続け、神を蔑み続ける。それはあたかも、神に対する人間の反抗が石のように固まり、変える事が不可能であり、その結果、自分の言動を虐げるよりも呪われた方が良いと思っているかのようである。こうした人間が神を知る事がどうしで出来ようか。こうした人間が神と共に安らぎを見出すことがどうして出来ようか。また、こうした人間が神の前に来る資格が、どうして有り得ようか。

37.わたしは多くの日と夜を人間と共に過ごし、人間と共にこの世に住んで来たが、人間に対する要求を追加したことは一切無い。わたしはただ前進するよう人間を導くだけであり、人間を導く以外には何もせず、人間の運命のために采配の働きを間断なく行い続ける。これまでに誰が天の父の旨を理解したことがあるだろうか。誰が天と地をめぐって来たというのか。わたしは人間の「老後」を人間と共に過ごすことを、もはや望まない。なぜなら、人間は過度に旧式であり、何も理解せず、わたしが催した祝宴で他のすべてから離れて暴食する事しか知らず、それ以外のことを考え無いからである。人間は過度に貪欲であり、人間の叫びや陰鬱さ、危険は大きすぎるので、わたしは終わりの日に、勝利という貴い果実を分かち合うことを望まない。人間には、人間自らが作り出した豊かな恵みを享受させるがよい。なぜなら、人間はわたしを歓迎しないからである。何故わたしが人間を無理矢理微笑ませる必要があるというのか。世界各地で温もりが欠如し、世界各地の風景には春の兆しが全く無い。人間は水生生物のように全く温もりが無く、死体のようであり、血管を通う血でさえも氷のように凍てついていて、心を冷やすからである。温もりは、どこにあるのか。人間は故無く神を十字架に架け、その後全く懸念を感じることが無かった。後悔する者は居らず、こうした残忍な暴君は、依然として人の子を再び「生け捕りにする」こと、そして銃殺刑執行隊の前に立たせ、自らの心の憎しみに終止符を打とうと謀っている。わたしがこのような危険な地に居残ることが、何に役立つというのか。わたしが居残るとすれば、わたしが人間にもたらすのは、対立と暴力、そして終わりなき問題だけであろう。なぜなら、わたしが平和をもたらしたことは無く、わたしがもたらしたのは戦乱だけだからである。人間の終わりの日は戦乱に満ち、人間の終着点は暴力と対立の中で崩れ去るに違い無い。わたしは戦乱の「喜び」を「分かち合う」ことを望まず、人間の流血や犠牲に立ち会わない。なぜなら、人間による拒絶のためわたしは「落胆」させられ、わたしは人間の戦いを見守る気になら無いからである。人間は思う存分に戦えばよい。わたしは休み、眠ることを望む。人間の終わりの日は、悪魔に立ち会わせるのがよい。誰がわたしの旨を知るというのか。わたしが人間に歓迎されず、人間は決してわたしを待ち望んだことがないので、わたしは人間に別れを告げるしか無い。そしてわたしは人間の終着点を人間に与え、わたしの富を全て人間に与え、人間のあいだにわたしのいのちを蒔き、人間の心の畑にわたしのいのちの種を植え、人間に永遠の記憶とわたしの全ての愛を遺す。そしてわたしと人間がそれをもって互いを思い焦がれることが出来るような愛の贈り物として、わたしにあるもののうちで人間が大切にするものを全て人間に与える。わたしは、自分と人間が永遠に愛し合うこと、自分と人間の過去が、互いに与え合う素晴らしいものであることを望む。なぜなら、わたしは既に自らのすべてを人間に与えたからである。人間はどのような不平を言えるというのか。わたしは既に、自分のいのちの全てを人間に遺し、何も言わず努めて人間のために美しい愛の大地を耕した。わたしは人間に対してそれに相応する見返りを求めたことは決して無く、単に人間の采配に従い、人間のために一層美しい明日をつくるだけであった。

38.神の受肉は、あらゆる教派や宗派に衝撃波を及ぼし、それらの元来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望んでいた者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者はいるであろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神はかつて喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再び共にあり、昔の物語を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、今日神と既に再会し、再び神が人間と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを起想しないことが有り得ようか。今から二千年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と同じ食卓で食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを愛し、主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのかを全く知らなかった。ユダヤ人はイエスが自分達と同様であり、違うと考える者はいなかった。人々がこんな平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、主を当時のユダヤ人の息子のひとりと考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかった。そして人々は主に対して、富と豊かな恵み、平和と喜びを授けて欲しいなど、盲目に要求するだけであった。そうした者は、億万長者のように主には自分達が望むものの全てあることしか知らなかった。しかし、人間は主を愛されている存在として扱ったことは無かった。当時の人々は主を愛さず、主に反抗し、不合理な要求を神に突き付けるだけであった。また主は決して拒まず、人間は主を知らなかったにもかかわらず、人間に対して恵みを与え続けた。主は黙して人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の呪縛から解放したのであった。人間は主を愛さず、主を羨み、主の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救主イエスが人間のもとに来た時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。主の苦痛を考えた者も、父なる神に対する主の愛を知る者も、主の孤独を知り得る者もいなかった。マリアが主の産みの母親であったが、慈悲深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリアが知り得たであろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、主に要求を突き付けた後、冷酷にも主を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえに主は来る日も来る日も、毎年毎年、往来を長い年月彷徨いながら、苦難のうちに三十三年を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。主を求める時、人々は笑顔で主を自宅に招き、主に要求しようとした。そして主が施しをした後、彼らは直ちに主を家から追い出した。人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったであろうか。あなたがたは知っているであろうか。主は、自分に最も親しく、かつ主を食べ、主を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが取るに足らない教師に過ぎなかったことでは無かろうか。仮に、イエスが特別であり、天に由来する者であることを人々が本当に理解していたとすれば、どうして人々は主の身体が息をしなくなるまで、二十四時間にわたり十字架に架けることが出来たのであろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を授かるのみで、未だに神を知らない。人々は一寸を与えられて一里を奪い、イエスを自分の指令、命令に完全服従させる。これまでに誰が、枕する所も無いこの人の子に対して憐れみといえるものを示したというのか。これまでに誰が、主と力を合わせて父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。かつて誰が神のことを少しでも考えたというのか。かつて誰が、神の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は神を苦しめる。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。主は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の恵みを得ること無く、あなたがたに与えた。人間は主に対して極めてさもしく、主は決して地上の富を享受せず、主はその誠実で熱意ある心の全てを人間に捧げた。主はその全てを人類に捧げた。それで、主に対して温もりを与えた者がいるだろうか。誰が主に快適さを与えたというのか。人間は主にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を押し付け、あらゆる不義を主のせいにし、そして神はそれを無言で受け容れてきた。かつて主が誰かに反抗したであろうか。かつて主が誰かから少しの返報を求めたことがあるだろうか。神に同情を示した者がこれまでいるであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、空想的な幼時を過ごさなかった者がいるであろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるであろうか。愛する者の温もりを知らない者はいるであろうか。誰が親戚や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が腹心の友をもつ心地よさを知らないというのか。しかるに、そうした物事のうちどれかを神は享受したであろうか。誰が主に少しでも温もりを与えたというのか。誰が主に少しでも快適さを与えたというのか。誰が主に少しでも人間の倫理を示したというのか。かつて誰が、主に対して寛容であったというのか。かつて誰が、困難な時に主と共にあったというのか。かつて誰が、主と共に困難な生活を送ったというのか。人間は、主に対する要求を少しも和らげたことが無い。人間は何の良心の呵責も無く、主に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、主が人間の世界に来たのだから人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して主を許さず、主に対して寛容になる事は無く、主を神と呼ばず、主をそれほど尊重することは無いであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を苦しめて殺すことに注力しているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を緩め、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。そして、神の働きは人間がいのちに入ることを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の働きを人間がいのちに入ることと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を能力が及ぶ限り尽くすことを、わたしは望む。そうした後に、神の栄光の讃美をもって、神の働きは完了するであろう。

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