「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 (パート2)

7.イエスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスがその職分を始めたとき、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊がおもにイエスの名のもとに新しい働きを始めた。神を信じる人たちの証はイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためであった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、ヤーウェの名の下でおもに行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊がおもにイエスの名の下で働きを開始することになった。

8.イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでも依然としてイエスと呼ぶことができるか。神はイエスという名でしか知られていないのであろうか。新しい時代にイエスは新しい名前で呼ばれることはできないのであろうか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神全体を表すことができるのであろうか。それぞれの時代で、神は新しい働きを行い、新しい名前で呼ばれる。どうして神が異なった時代に同じ働きをすることができるのか。どうして神が古いものにしがみついていることがありえようか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき依然として同じ名前で呼ばれるであろうか。イエスはまだ贖いの働きをするのであろうか。なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表されている。恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのになぜ神はまだイエスと呼ばれることができるのであろうか。どうして神は人々のあいだでイエスの外観を取ることができるのであろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことを忘れたのか。イエスはただ人類の贖い主であったということを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを行なうことができるのであろうか。

9.神が地上に来るたびに、神はその名前、性別、姿、働きを変えることになる。神はその働きを繰り返すことはなく、常に新しく決して古くない。神が以前来た時、イエスと呼ばれた。神が今度再び来るとき、やはりイエスと呼ばれることがあるであろうか。以前イエスが来た時は、男性であった。今回も男性でありえるであろうか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架に釘づけにされることであった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖うのであろうか。やはり十字架につけられるのであろうか。それは働きの繰り返しにならないであろうか。神は常に新しく決して古くないことを知らないのか。

10.神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。神の働きは常に前進している。だから神の性質は人間に次第に現わされる。そして現わされるのは神の本来の性質である。初めには、神の性質は人には隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と現したことはなく、人は神について認識がなかった。だから神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に現わした。しかし、これは神の性質がそれぞれの時代に変化するという意味ではない。神の心が常に変わるので、神の性質が絶えず変わるということではない。むしろ、神の働きが異なった時代で実行されるため、神の本来の性質のすべてが徐々に人に現わされ、人は神を知ることができるのである。しかし、これは神がもともと特有の性質は持たず、時代と共に徐々に変わっていったという証明などではない――そのような理解は間違いである。時代の移り変わりに応じて、神は人にその本来の特有な性質、神であることを現わす。ひとつの時代の働きで神の性質の全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく決して古くない」という言葉は神の働きに関してであり、「神は不変である」という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。

11.神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きを行い、それぞれの時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見せる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないならば、人々は永遠に神を十字架に釘付けにするのではないであろうか。そうすることで神を定義するのではないであろうか。

12.神はそれぞれの時代で、その働きを繰りかえさない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日の働きを行い、終わりの日にその全ての性質を現わす。終わりの日は別の時代で、イエスがあなたがたは災害を被り、地震、飢饉、疫病などに遭遇しなければならないと言った時代である。それは新しい時代であり、そしてもはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。もし人々が言うように、神が永久に不変で、神の性質は常に憐れみ深くいつくしみに満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神は果たしてその働きを完成することができるであろうか。イエスが来た時、十字架につけられ、祭壇に自身を捧げることによってすべての罪人のために犠牲となった。神はすでに贖いの働きを完成し、すでに恵みの時代を終わらせた。それなら終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何か。同じことをするのはイエスの働きを否定することではないだろうか。もし神がこの段階に来て、十字架刑の働きをせず、いつくしみに満ち憐れみ深いままなら、神は時代を終わらせることができるであろうか。いつくしみに満ち憐れみ深い神はその時代を終わらせることができるであろうか。時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。

13.最後の日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、本性に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に戻り、善は善に戻り、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神はその性質を気まぐれに意味もなく顕すことはない。もし、人の終末が終わりの日に明らかにされるときに神が依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛情深く、人を義なる裁きにさらさずに寛容、忍耐、赦しを示すなら、人がどんなに深刻な罪を犯しても、義なる裁きなしに依然として人を赦すなら、神の経営のすべてに一体終わりはあるのだろうか。このような性質がいつ人類を正しい終着点に導くことができるのだろうか。たとえばいつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それでいつ正しい判決にたどり着くことができるのか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。

14.神の経営のすべてにおよぶ神の働きはきわめて明白である。恵みの時代は恵みの時代で、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代に神はその時代を表す働きをするため、時代には明確な違いがある。終わりの日の働きがなされるためには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を意味する。最後の時代に、神は時代を終わらせないのであろうか。時代を終わらせるためには、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は存在し続け、生き、そしてより良い方法で存在することであった。イエスは人が絶え間ない悪行をやめ、ハデスと地獄の中で生きることをやめるように人間を罪から救い、ハデスと地獄から救い出して、生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人を完全に滅ぼすであろう。つまり、神は人の不従順さを逆転させるという意味である。こういうことなので、かつての神の憐れみ深く愛に満ちた性質は時代を終わらせることはできず、神の六千年の経営計画を完成することも不可能である。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。だから、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きは時代とともに変わり、それらはすべて新しい。

15.律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によってなされた。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らの間で働くことであった。イスラエルの人々を導くことによって、神は地上での働きの拠点を築いた。この拠点から、神はその働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、イスラエルから開始して、神はその働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地とすべてのものを創造し、すべての被造物を造ったことを知るようになった。神はイスラエルの人々を通してその働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上における神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きであった。恵みの時代の働きでは、イエスが人を救う神であった。神がもつもの、神であるものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行った働きの多くは人の贖いであった。神の性質に関して言えば、それは憐れみと愛であった。そして神は憐れみ深くいつくしみ深かったので、人間のために十字架に釘づけにされなければならなかった。そうすることで神は自身の全てを犠牲にするほど人類を自身のように愛していることを示した。……恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、神は憐れみ深く、いつくしみ深いという意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人がイエスの名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、いくつもの大いなる恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架刑を通して、イエスに従うすべての人たちは救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きはおもにイエスの名の下でなされた。恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きを行い、イエスの働きは十字架刑で終わり、それがイエスの働きのすべてであった。したがって、律法の時代ではヤーウェが神の名であり、恵みの時代ではイエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

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