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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

次に、この聖句の最後の文「人の子は安息日の主である。」を検討する。この文には実際的な側面が存在するであろうか。この文の実際的な側面を理解できるだろうか。神の言葉は、それぞれすべて神の心から発せられたものであるが、それでは神がこう述べた理由は何であろうか。どのように解釈しているだろうか。現在では、この文の意味を理解できるかも知れないが、当時この文を理解できる者は少なかった。なぜなら、人間は律法の時代から移行したばかりだったからである。この時代の人々にとって、安息日を終えるのは極めて困難であり、ましてや真の安息日とは何であるかを理解することが極めて困難であったのは言うまでもない。

この「人の子は安息日の主である。」という文は、神に関するあらゆる物事が非物質的であると言っており、神はあなたがたの必要な物事をすべて授けることができるにもかかわらず、あなたがたの物質的な必要性がすべて満たされた後、はたしてこうした物事による満足感を、真理の追究に置き換えることは可能であろうか。それは明らかに不可能である。ここまで研究してきた神の性質、神の中にある物事や神の存在に関する知識は、すべて真理である。それらの事柄は、有形の物体の高額な価格で計測することが不可能なものであり、またその価値を金銭で数量化することも不可能である。なぜなら、それらの事柄は物質的なものではなく、各人の心の必要性を満たすものだからである。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが気に入っている、いかなる有形物の価値よりも高いものであるはずだろう。この命題については、暫く考察する必要がある。わたしが述べたことの要点は、神の中にある物事や神の存在、そして神に関する全ては、あらゆる者にとって最も重要な物事であり、それはいかなる有形物によっても置き換えることができない、ということである。ひとつ例を挙げる。空腹な時は、食べ物が必要である。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があるが、空腹を満たすことさえできれば、空腹の不快感は解消されてなくなる。落ち着いていられるようになり、身体も安らぐ。人間の空腹感は食べ物で解消するが、神に付き従ってきて、神を全く理解していなかったとしたら、その心の空虚感は、どのようにしたら満たすことができるであろうか。その空虚感を食べ物で満たすことができるであろうか。また、神に付き従っていて、神の旨を理解していなかったとしたら、そうした心の飢えは何を使えば満たすことができるだろうか。神による救いの経験過程において、自分自身の性質の変化を追求してゆくなかで、神の旨を理解していなかったり、真理とは何かを知らなかったり、神の性質を知らなかったりした場合、極めて不安にならないであろうか。心の飢えと渇きを強く感じないだろうか。そうした感覚により心の平静を阻害されないだろうか。それでは、どのようにすれば、こうした心の飢えを解消することができるだろうか。この飢えを解消方法は存在するだろうか。ある者はショッピングに出掛け、ある者は悩みを打ち明けられる友達を見つけ、ある者は眠り、ある者は神の言葉を読み、仕事に一層打ち込んで本分を尽くすために更に努力する。こうした物事で実際の問題を解決できるだろうか。こうした行動については、誰もが完全に理解している。無力感を覚えた時、真理や神の旨について知ることができるように神の啓示を得ることを渇望している時、一番必要なものは何であろうか。必要なものは、食事でも優しい言葉でもない。さらに言えば、必要とされるのは、一時的な慰めでも肉の欲を満たすことでもなく、神に、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、明瞭に直接伝えてもらうことである。たとえ少しであったとしても、こうした事柄を理解したら、良い食事を食べた時よりも心の満足感を感じないであろうか。心が満たされた時、心と人間全体が真の平安を得るのではないだろうか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である。」という聖句を取り上げた理由が理解できたであろうか。この聖句は、神から与えられるもの、神の中にある物事、神の存在、そして神に関するあらゆる物事は、自分が嘗て最も大切だと想っていた物や人物を含めた他の何よりも偉大である、ということである。つまり、たとえば誰かが神の言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりしたとすれば、その者は平安を得ることができない。今後の経験のなかで、わたしがあなたがたにこの聖句を考察して欲しいと望んだかを理解するであろう。これは非常に重要なことである。神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の平安をもたらすことができるのは、真理だけである。

真理についてのあなたがたの理解は、自分自身の状況と一体となっているであろうか。実生活においては、まずどの真理が、自分が遭遇した人間や物事に関連するものであるかを考察する必要がある。なぜなら、こうした真理のなかで、神の旨を見出し、自分が遭遇した物事と神の旨を関連づけることが出来るからである。自分が遭遇した物事に真理のどの側面が関連しているかを知ることなく神の旨を直接求めにいったところで、そのような盲目的なやり方で成果を得ることはできない。真理を追究し、神の旨を理解したい場合は、まず自分におとずれている物事は何か、そうした物事は、真理のどのような側面と関連しているかを検討してから、神の言葉のなかから自分の経験したことに関連する真理を探し出す必要がある。次に、その真理のなかで実践方法を探す。こうすることにより、神の旨に関する間接的な理解が得られる。真理を探し出して実践することは、機械的に教義を適用することでも、定式に従うことでもない。真理は定式的なものでも、律法でもない。真理は死んだものではなく、いのちであり、生きているものであり、被造物が地球上で生活する間に従うべき法則であり、人生に必要とされる法則である。真理は、経験によって一層深く理解する必要があるものである。自分の経験がどの程度に達しているかを問わず、あなたは神の言葉や真理と離別不可能であり、神の性質や神の中にある物事や神の存在に関して得た認識は、すべて神の言葉に明示されている。すなわち神の言葉と真理の間には、不可分な繋がりがある。神の性質と神の中にある物事や神の存在それ自体が真理であり、すなわち真理とは、神の性質や神の中にある物事、そして神の存在の真の顕現である。神の中にある物事や神の存在は真理により具体的なものとなり、明示的に述べられる。神が好む物事、神が好まない物事、神が望むあなたの行動、神が許さないあなたの行動、神が蔑む人々、神が喜ぶ人々が、真理により一層率直に述べられる。神が明示する真理の背景では、神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができる。これが神の性質の啓示である。神の言葉から神の中にある物事や神の存在を知り、神の性質を理解することのほか、最も重要なことは、実践における経験からこうした理解に達する必要性である。ある者が、神を知るために実生活から離れた場合、この者はその目的を達成できない。神の言葉から何らかの認識を得ることが出来る人々が存在したとしても、そうした認識は理論と言葉に限られたものであり、実際の神の存在との間には差がある。

ここで伝えていることは、すべて聖書に記録された物語の範囲内である。これらの物語と、発生した事柄の分析により、人間は神が啓示した神の性質と神の中にある物事や神の存在を理解可能となり、人々は神のあらゆる側面を一層広く深く、より包括的に、そして詳細に知ることができる。それでは、神のあらゆる側面を知る方法は、これらの物語を通してのみであるかというと、そうではない。神の国の時代における神の言葉や業は、神の性質を知り、さらに多くを知る上で、その方法以上に役立つ。しかし、人々が親しんでいる聖書に記録された例や物語により神の性質を知り、神の中にある物事や神の存在を理解することのほうが、やや容易であるのだろう。裁きと刑罰の言葉、および神が現在明示している真理を取り上げて、その言葉の一語一語によりあなたに神を理解させようとすると、あなたは退屈で面倒であると感じ、さらに神の言葉は定式的であると感じる人もいるであろう。しかし、こうした聖書の物語を例として取り上げ、神の性質の理解を支援しようとした場合、人々は退屈であるとは感じない。これらの例を説明する過程で言えることは、神の気分や感情、旨や考えといった、その時に神の心にあった事柄の詳細が、人間の言葉で語られており、それは、定式ではなく、神の所有している物事や神の存在を人々が認識し、感じ取ることが出来るようにすることを目的としたものであるということである。それは伝説でも、人々が見たり触ったり出来ないものでもない。人々が感じ取り、認識可能な、実在する事柄である。これが最終的な目標である。現代の人々は祝福されていると言えるであろう。現代の人々は、聖書の物語を引用し、神の従前の業に関する知識を広げ、神が行った業により神の性質を知ることができる。さらに、こうした性質により、神が啓示した神の人類に対する旨を理解し、また神の性質に関して、より詳細で深い認識を得るために、神の聖なる存在や神の人間に対する心遣いに関する具体的な顕現を理解することができる。これは、誰もが感じることの出来ることだと思う。

主イエスが恵みの時代に完遂した業では、神の中にある物事や神の存在に関して、もう一つの側面を見ることができる。それは、神の肉により示され、また神の人性により、人々が見て理解することが可能になった。人の子となった神の中に、人々は、肉にある神が、神の人性をどのようにして生きたかを知り、また肉により示された神の神性を理解した。この二種類の表現により、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関して異なる考えを形成することができた。しかしながら、世界の創造の時から律法の時代の終焉に至るまで、すなわち恵みの時代の前は、人々が見聞き、経験した事柄は、神の神性面のみであった。それは、神の無形の領域における業と言葉であり、見たり触れたりすることのできない神の真の実体から示されたものであった。こうした事柄により、神が極めて偉大であり、人々は近づけないという印象が人々に対して与えられることが往々にしてあった。神が人間に対して通常与える印象は、神は出現と消滅をくりかえすというものであり、神の旨や考えはすべて神秘的であり、把握が極めて困難であったため人々が到達する術は無く、理解したり認識したりすることなど到底無理であるとさえ感じた。人間にとって、神に関するあらゆる事柄が、人間には見ることも触れることもできないほど遙か遠くに離れていた。神は天高くあったようであり、また神は全く存在しなかったかのようでもあった。そうしたわけで、人間にとって、神の心や思い、考えは、すべて理解不可能であり、到達することさえ不可能なものであった。神は律法の時代にも、人間が神に関する真の認識を得ることができるように、具体的な業を行ない、具体的な言葉を授け、具体的な性質を示したにもかかわらず、つまるところ、そうした事柄は、無形の領域における神の中にある物事や神の存在に関する表現[a]であったので、人々が理解したこと、知った事柄は依然として、神の中にある物事や神の存在の神性の側面であった。人間は、こうした神の中にある物事や神の存在の表出から具体的な考えを得ることができず、人間が抱いた神の印象は、「出現と消滅を繰り返す、近づきがたい霊」という範疇から出ることはなかった。神は物質界において特定の物体や像を使用して人間の前に出現することはなかったので、人間は、人間の言葉で神を定義することが出来なかった。人間は、たとえば神の身長や体重、外観、神が特に好む事柄や神の特定の人格など、神の基準を人間の言葉で確証すること、神を有形化すること、人格化することを、心と考えの中で常に欲していた。事実、神の心において、神は人間がこのように考えていたことを承知していた。神は人々の必要について極めて明確に理解しており、当然ながら神は自らがどうすべきであるかも知っていたので、神は恵みの時代に別の方法で業を行った。その方法は、神性的かつ人性的なものであった。主イエスが業を行っている間、人々は、神が多くの人間的な表現を持っていることを知った。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話し、様々な事柄を話し合ったりすることが可能であった。さらに、主イエスは神の神性を示す多くの業を遂行し、当然ながらそうした業はすべて神の性質を表出し、啓示するものであった。この時期においては、神の神性が、人間が見たり触れたりできる通常の身体により具現化された時、人間は神が出現と消滅を繰り返されている存在、人間の近づくことが出来ない存在であるとは感じなくなった。これに対し、人間は、人の子のあらゆる動作や言葉、業により、神の旨や神の神性を理解しようと試みることが出来るようになった。受肉した人の子は、神の人性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の真髄と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。主イエスにより遂行された業や、イエスが業を行う方法、言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の姿とは異なるものであったが、それでもなお主に関する全てが、それまで人間が見たことのない神自身を真に示しており、またその事実は決して否定できない。すなわち、神がどのような姿であるかによらず、また神がどの観点から言葉を述べるかによらず、あるいは神の人間に対する像がどのようなものであるかによらず、神は他ならぬ神自身を示す。神が人間を示すこと、腐敗した人間を示すことは不可能である。神は神自身であり、それを否定することはできない。

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