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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。

希なのは、神の憐れみと寛容さでなく、人間の真の悔い改めである

神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神はニネベの人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

創造主の義なる性質は現実であり、生きている

神がニネベの人々に対して心を変えた時、神の憐れみと寛容さは見せかけであっただろうか。無論、見せかけではなかった。それでは、単一の問題において、神の性質の2つの側面の一方から他方へと推移したことから、何が分かるであろうか。神の性質は、一切分割されておらず、ただひとつである。人々に対して神が表出しているのが、怒りであるか、憐れみと寛容さであるかを問わず、それらはすべて、神の義なる性質の表出である。神の性質は、現実であり、生きている。神は、事態の展開に応じて、自身の心と姿勢を変える。ニネベの人々に対する神の姿勢の推移から、神には独自の心があることが分かる。神は機械でも粘土細工でもなく、生ある神自身である。神はニネベの人々に対して怒ることもあれば、ニネベの人々の態度に基づき、ニネベの人々の過去を赦すこともある。神はニネベに災いを起こすと決定することもあれば、ニネベの人々の悔い改めに基づき、その決定を変更することもある。人々は規則を機械的に適用することを好み、規則を用いて神を立証し、定義することや、神の性質を数式により知ることを好む。したがって、人間の考えの範囲内においては、神は思考することがなく、独自の考えを持っていない。現実では、神の心は、物事や環境の変化に伴い、継続的に変化している。神の心が推移している時、神の本質の様々な側面が現れる。この推移の過程において、神が心を変えた瞬間、神は、神のいのちが存在する真実と、神の義なる性質は真実であり生きているということを、人間に対して明示する。さらに、神は独自の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容さが存在する真実を人間に対して証明している。神の本質は、時間と場所を問わず、物事の展開にしたがって明示される。神は、獅子の怒りと母の憐れみと寛容さを持っている。人間が神の義の性質を疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることは、許されない。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。神の義なる性質は、時間や場所の制限が無い。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではない。むしろ、神の義なる性質は、いつでも、どこでも、自由に表現され、表出される。神が心を変えて怒りを表出するのを止め、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えるだろうか。神の怒りは内容を伴わない言葉であると感じるであろうか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを与えるのを止めた時、神は人間に対する真の愛を感じていなかったと言えるだろうか。神は、人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥は無い。神の心は人々の悔い改めにより動かされる。神の心を変化させるのは、この悔い改めである。神の感動、神の心の変化、神の人間に対する憐れみや寛容さには、全く欠陥が無い。これらは清く、純粋で汚れの無いものである。神の寛容さは、純粋に寛容さであり、神の憐れみは、純粋に憐れみである。神は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容さという性質を示す。神が示すものは、それが何かによらず、すべて純粋である。それらはすべて率直であり、その本質は創造物が示すいかなるものよりも傑出している。神が表現する行動の原理、神の心あるいは具体的な判断、あらゆる業には、全く欠点がない。神が判断をくだすと、神はその通り業を行う。そして神はこの要領で計画を全うする。その結果は正確かつ完璧である。なぜならその結果の元となるものが完璧だからである。神の怒りは、完璧である。同様に、いかなる創造物も持っていない神の憐れみや寛容さは聖なるものであり、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものである。

この聖句にあるニネベの町での出来事を理解した上で、あなたがたは、神の義なる性質の別の側面の本質を理解できたであろうか。神唯一の義なる性質の別の側面を理解できたであろうか。人間のうち、こうした性質を持つ者は居るだろうか。神の怒りのような怒りを持つ者は居るだろうか。神のような憐れみや寛容さを持つ者は居るだろうか。創造物のなかで、これほど大きな怒りを召喚し、人間を滅ぼし、人間に災いをもたらすことを決定出来る者は、居るだろうか。憐れみを与え、人間を寛大に扱い、赦し、よって人間を滅ぼす決断を覆す資格を持つのは、誰だろうか。創造主は、自身の固有の方法と原則に従って、自身の義なる性質を示し、他の人々、出来事、物事による支配や制限を受けない。神の固有の性質のため、神の考えや心をかえることが出来る者はおらず、また神を説得して神の決断を覆すことの出来る者も居ない。創造物の行動や考えは、全て神の義なる性質による判断に基づき存在する。神が怒るか、憐れみをかけるかを支配できるものは居ない。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみである。これが創造主の義なる性質に固有の特徴である。

ニネベの人々に対する神の姿勢の推移を分析して理解した後、神の義なる性質に含まれる憐れみを指して、それを「固有」であるとすることが出来るであろうか。神の怒りは、神のみが持つ義の性質の本質における一側面であると先述した。ここで、神の怒りと神の憐れみという2つの側面を、義の性質と定義する。神の義の性質は聖であり、侵害不可能なものであり、疑うことのできないものであり、創造物にもそれ以外の物にも、その性質を持つ物は存在しない。神の義の性質は、神に固有であり限定されたものである。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能なものであると同時に、神の義の性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可侵なものである。創造物やそれ以外の物で、神の業における神の代理となることができるものは皆無であり、ソドムの破壊やニネベの救済において神の代理となることができるものも皆無である。これが、神固有の義の性質の真の表出である。

人類に対する創造主の真摯な思い入れ

人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

次に挙げるのはヨナ書4:10~11に記された言葉である。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。』」これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉である。この会話は短いものの、創造主の人間に対する思いやりと、ニネベの人々を見捨てることに対する抵抗感に溢れている。この言葉では、神の心の中にある神の創造物に対する神の姿勢と思い入れが表現されており、こうした言葉を人間が聞くことは滅多に無いが、その明瞭な言葉により、神の人間に対する意向が述べられている。この対話は、神のニネベの人々に対する姿勢が示されているが、その姿勢とはどのようなものであろうか。その姿勢とは、ニネベの人々が悔い改める前と後の、ニネベの人々に対する神の姿勢である。神は、それと同じ姿勢で人類を扱う。この言葉から神の心と神の性質を見出すことができる。

この言葉には、神のどのような心が示されているであろうか。十分に注意して読めば、すぐに神が「惜しむ」という語を用いていることが分かる。この語を用いたことにより、人類に対する神の真の姿勢が示されている。

語義的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能である。第一に、愛して守ること、何かを貴く感じることの意味がある。第二に、深く愛慕することの意味がある。そして第三に、傷つけることができない、傷つけることに耐えられないという意味がある。つまり、この語は、愛慕の念と、人や物への愛着の含意がある。この語は、神の人間に対する憐れみと寛容さを意味する。神は人間が一般的に会話する語を用いたが、この語が用いられていることにより、神の心からの言葉と、神の人間に対する姿勢が明らかにされている。

ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。

人類に対する創造主の真の思い

この聖句のヤーウェ神とヨナの対話は、創造主の真の思い入れを表出するものであることに異論は無い。この対話は一方では、神の支配下にある創造物全体に対する創造主の認識を人々に伝えるものであり、それはヤーウェ神が、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベ…」とある通りである。つまり、ニネベに関する神の認識は、決して粗略なものではなかった。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることが出来ない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていた。これは、人間に関する神の卓越した知識を具体的に証明するものである。その一方で、この対話は、人間に対する創造主の姿勢、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えるものである。それは聖句にあるヤーウェ神の言葉の通りである。すなわち、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは…この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」これは、ヤーウェ神がヨナを非難して述べた言葉であるが、すべて真実である。

ヨナはニネベの人々に伝えるヤーウェ神の言葉を託されたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も理解していなかった。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであること、また人間のひとりひとりについて、神が甚大な努力をしたこと、神の望みを負っていること、神のいのちの恵みを享受していること、神が大きな代償を払っていることを、ヨナに対して述べていた。また、ヨナがこのとうごまを愛慕するのと同様に、神自身の手により造られた人間を神が愛慕していることが、この叱責によりヨナに伝えられた。神は、最後の最後まで、ニネベの人々を安易に見捨てるつもりは一切無かった。さらに、ニネベには子供や何も知らない家畜も多数居た。神の創造物のうち、右も左も分からない子供や無知な動物を取り扱うとき、神が早まって子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めることが出来なかったのは、なおさらである。神は、子供達の成長した姿を見ることを望んでいた。神は、子供達が将来大人達のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にする必要が無いこと、ニネベの歴史の証をすることを望んでいた。それにも増して、神は悔い改めた後のニネベとその将来の姿を見ること、そして何よりも、ニネベの人々が再び神の慈悲の許で生活するのを見ることを、望んでいた。したがって、神の見地からすると、神が造った物のうち、そうした右も左も分からない子供達が、ニネベの将来であった。こうした子供達は、ヤーウェ神の導きの許でニネベの過去と未来の証しとなる重要な任務を背負うことになるのと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのであった。このヤーウェ神の真の思い入れが述べられている部分において、ヤーウェ神は、創造主の人類全体に対する慈悲を提示した。この部分では、「創造主の慈悲」は虚言でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であった。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行わない。そしてこのように、神の慈悲は、あらゆる時代において、人間に対して無限に与えられる。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神が人類に対して慈悲をもって接する理由、神が人類に対して慈悲を示す方法、神が人類に対してどの程度寛容であるか、そして神の人間に対する真の思いに関する、神による、唯一の言葉である。ヤーウェ神の簡潔な対話では、自身の人間に対する完全な心が表出されている。この対話は人間に対する神の心の姿勢に関する真の表出であり、また人間に対するによる慈悲の豊かな付与に関する、具体的な証明でもある。神の慈悲は、従前において世代から世代へと続いて来たのと同様に、人間のうち比較的高い年齢層のみに与えられるものではなく、人間のうち比較的若い層にも与えられる。多くの場合、神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に対してくだされるのに対し、神の慈悲は決して止まることが無い。神は、自身の慈悲により導き、施し、与え、そしてそれを神の創造物の世代から世代へと連綿と続けられる。なぜなら、神の人間に対する真の思い入れは、変わることが無いからである。「惜しまないでいられようか」というヤーウェ神の言葉が示す通り、神は常にご自身の創造物を愛慕してきた。これが創造主の義の性質による慈悲であり、この慈悲もまた、創造主の純然たる特質である。

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