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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

(3) 人間の5つの種類

ここで、神の義なる性質に関するフェローシップを一旦終了する。次に、あなたがたがどの段階に属するか、あなたがたの熟成度がどの程度であるかを把握することが出来るようにするため、神に付き従う人間の神に関する理解と、神の義なる性質に関する認識と経験に基づいて数種類に分類する。神に関する信者の認識と、神の義なる性質に関する信者の認識や経験に関しては、一般に人々の段階と熟成度を5つに大別できる。この論題は、唯一の神と神の義なる性質を心得ていることに基づいて議論されている。したがって、以下の内容を読み進めるに当たっては、神の独自性と神の義なる性質について、自分には正確にどの程度の認識があるかを注意深く確認する必要がある。その後、確認した内容で、自分が実際にどの段階にあるか、自分が実際にどの程度成熟しているか、自分がどのような種類の人間であるかを判断すること。

最初に説明する類型は、「布でくるまれた赤子」の段階として知られる。

布でくるまれた赤子とは、どのようなものであろうか。布でくるまれた赤子とは、この世に生を受けたばかりの新生児である。布でくるまれた赤子は、人間が最も小さく未熟な時期である。

この段階の人間は、基本的に神の信仰に関する認識や意識が皆無である。この段階の人間は道に迷い、あらゆる物事について無知である。これらの人々は、長期間にわたり神を信じてきた場合と、そうではない場合があるが、道に迷い、無知な状態により、布にくるまれた赤子の段階に分類される。布にくるまれた赤子の段階の状態の正確な定義は、次の通りである:この段階の人間は、神を信仰してきた期間を問わず、常に考えが混乱し、低能である。この者は、自分が神を信仰する理由も、神が誰であるかも、神についても、何も知らない。この者は神に付き従うが、自分の心に神という存在の具体的な定義が無く、自分が付き従っているのが神であるかどうかを判断出来ず、したがって神を信仰し、神に付き従うべきかを知らないことは尚更である。これが、この種の人間の実情である。この種の人々の考えは不明瞭であり、端的に言えば、この種の人々の信仰は一種の混乱である。この種の人々は常に当惑と空虚の状態にある。すなわち、こうした人々は、概して混乱、誤解、低能さといった状況にある。こうした人々は神の存在を見たり感じたりしたことが無いので、こうした人々と神を知ることを議論することは、象形文字で書かれた書籍を読ませるに等しい。すなわち、こうした人々はそうした議論を理解することも、受け容れることもない。こうした人々にとって、神を知るということは、架空の神話を聞いているに等しい。こうした人々の思想には不明瞭な部分があるものの、実のところ、神を知ることは時間と労力の無駄であると固く信じている。これが、布でくるまれた赤子という種類の人間である。

次に議論する種類は、「乳飲み子」の段階にある人間である。

布でくるまれた赤子の段階にある人々と比較すると、乳飲み子の段階にある人々は、ある程度の進歩がある。しかし、残念ながら、この段階の人々は、神に関する認識が一切無い。こうした人々は、依然として神に関する明瞭な理解や洞察力が欠如し、神を信じるべき理由について、それほど確信していないが、自分の心には、独自の目的と明瞭な考えがある。こうした人々は、神を信じるのが正しいかどうかについては、懸念が無い。この種の人々が神への信仰により求める目的は、神の恵みに与り、喜びと平安を得て、快適な生活を送り、神の慈悲と保護を得て、神の祝福の下で生活することである。この種の人々は、神を知っている程度については懸念していない。この種の人々は神の認識を求める衝動が無く、神が何をしているか、神が何をしたいと望んでいるかに懸念が無い。この種の人々は、ただ盲目に神の恵みを享受し、神の祝福を多く得ることを求めている。この種の人々はこの時代に100倍の恵みと祝福を求め、将来的に永遠の命を求める。こうした人々の思想、消費、献身、そして苦難には、神の恵みと祝福を得るという、共通する目的がある。こうした人々は、それ以外のことに無関心である。この種の人々が確信しているのは、神が自分の安全を守り、恵みを与えるということのみである。こうした人々は神が人類を救いたいと望む理由や、神が言葉や業により達成することを望んでいる結果については興味が無く、それほどの確信も無い。こうした人々は、神の本質や義の性質を知るために努力したことが無く、知ることに関心を抱くことも無い。こうした人々はこれらの問題に関して意識しようとせず、知りたいとも思わない。こうした人々は神の業、神の人間に対する要求、神の心、その他神に関する事柄について問いかけることを望まず、また問いかけることも無い。なぜなら、こうした人々は、これらの問題が、自分達が神の恵みを享受することとは無関係だと考えているからである。こうした人々が関心を抱くのは、恵みを与えることが可能な、自分の個人的利益に関連する神に限られている。こうした人々には、それ以外のことに一切興味が無いので、神を何年信仰しても、現実の真理に入ることが出来ない。こうした人々に対して頻繁に神の言葉を注いだり授けたりする者が居なければ、こうした人々が神への信仰の道を継続することは、困難になる。こうした人々は、従前の喜びと平安、神の恵みを享受できない場合、信仰を辞める傾向が強い。これが、2番目の種類である乳飲み子の段階にある人々である。

3番目の種類の人間は、乳離れした子供、幼年期の段階である。

この種類の人々には、ある程度の明瞭な意識がある。これらの人々は、神の恵みを享受するということが、自分自身にその実体験があるということではない、ということを認識している。これらの人々は、喜びと平安、恵みを求めることに飽き足らないとしても、または神の恵みを享受した体験談を語ること、あるいは神が自分達に与えた恵みを讃えることにより証をすることが出来るとしても、そうした物事は、自分達にいのちや真理の現実があることを意味するものではない、ということを心得ている。こうした人々の意識からは、神から与えられるものは全てが恵みであるという野性的な希望はなくなっている。神からの恵みを愉しみながら神のために何かをしたいと考える。彼らは本分を尽くし、少しの試練と疲労に耐え、神とある程度協調することを願っている。しかし、こうした人々は、神への信仰の追求が極めて不純であり、心の中にある個人的な意図や望みが極めて強く、また性質が極めて傲慢であるため、こうした人々が神の望むことを満足させること、神に忠誠であることは、極めて困難である。したがって、こうした人々は、自分達の個人的な望みを実現することも、神との約束を守ることも出来ないことが、多々ある。多くの場合、こうした人々は自己矛盾に陥る。すなわち、こうした人々は出来る限り神を満足させたいと願う一方で、持てる力の全てで神に反対する。こうした人々は、神に忠誠を誓うが、すぐに誓いを撤回してしまう。さらにこうした人々は、もう一つ別の自己矛盾に陥ることも、ことさらに多い。すなわち、こうした人々は真摯に神を信じる一方で、神と神に由来するもの全てを否定する。こうした人々は、自分達が神により啓かれ、導かれ、施され、助けられることを切望する一方で、自分達の逃げ道を求める。こうした人々は神を知りたいと願う一方で、神に近づくことを避けようとする。こうした人々は、近づくのではなく、常に神を回避し、神に対して心を閉ざしている。こうした人々には、神の言葉や真理に関する表面的な認識と経験があり、神と真理に関する表面的な理論をわきまえている一方で、こうした人々は潜在的に、神が真理であることを確認することも、判断することも出来ない。こうした人々は、神が真に義であることを確認できず、また神の性質と本質が事実であると判断出来ない。ましてや神の真の存在を確認することも判断することも出来ないのは当然である。こうした人々の神の信仰には、常に疑念と誤解、想像や空想が伴う。こうした人々は、神の恵みを享受するとともに、自分の信仰を豊かにするため、また神への信仰における経験を積むため、神への信仰に関する理解を確認するため、そして自ら決めた人生を歩み、人間にとって義なる動機を達成させて虚栄心を満たすため、自分が実行可能な真理であると信じる物事をしぶしぶ行う。また、こうした人々は、祝福を得たいという自らの欲望を満たすため、人間の祝福を一層多く得ることに賭けるため、また神を得るまで生きながらえるという大きな志と一生涯の願望を叶えるため、自分が実行可能な真理であると信じる物事を行う。こうした人々が神の啓示を得ることは、殆ど無い。なぜなら、こうした人々の願望と、神の祝福を得るという目的が、自分達にとって極めて重要だからである。こうした人々は、その願望を諦めず、また諦めることに耐えられない。こうした人々は、恵みを得る願望や、神を得るまで生きながらえるという長年にわたり大事にしてきた願望が無ければ、神を信仰する動機を喪失すると考え、恐れている。従って、こうした人々は真理と対峙することを望まない。こうした人々は、神の言葉や業に対峙することを望まない。こうした人々は神の性質や本質を認めることを望まず、ましてや神を知るという問題に取り組もうとすることなどは一切ない。それは、自分の想像が神、神の本質、神の義なる性質に置き換えられた場合、自分達の望みが煙のように消えて無くなってしまうからである。またそれは、自分達が純粋な信仰と呼んでいるものや、何年もの努力の末に築き上げた「功績」が消滅し、無価値なものとなってしまうからである。またそれは、自分達が長年にわたる血と汗をもって勝ち得てきた「領域」が崩壊寸前のものとなってしまうからである。これは、こうした人々の長年にわたる重労働と努力が、何の役にも立たないこと、一から再出発する必要があることを意味するからである。こうした人々にとって、それが最も耐えがたい心の苦痛であり、それは自分達が最も恐れる結果である。したがって、こうした人々は常に膠着状態にあり、譲ることは無い。これが、3番目の種類である乳離れした子供の段階にある人々である。

ここまで述べてきた3種類の状態にある人間は、神の身分や地位、義なる性質に関して、いかなる真の信仰も無い。また、こうした人々は、これらの物事について、明確かつ絶対的な認識も確信も無い。したがって、こうした3種類の人々にとって、現実的に真理に入ることは極めて困難であり、神の憐れみ、啓き、光を得ることも、極めて困難である。なぜなら、こうした人々が神を信仰する方法と、神に対する誤解のある姿勢により、神がこうした人々の心の中で業を行うことは不可能だからである。こうした人々の神に関する疑念、誤解、想像は、こうした人々の神への信仰や認識を凌駕している。これら3種類の人々は、極めて危険な種類の人々であり、この3種類は、極めて危険な段階である。ある者が神、神の本質、神の身分、神は真理であるか、神の存在は現実であるかといったことに対して疑念ある態度を取り、これらの事柄について確信出来なかったとしたら、どうして神から出たものを全て受け容れることができようか。神が真理であり、道であり、いのちであるという事実を、どうして受け容れることが出来ようか。神の刑罰や裁きを、どうして受け容れることが出来ようか。神の救いを、どうして受け容れることが出来ようか。このような者は、どうして神の真の導きと施しを得ることが出来ようか。これら3種類の段階にある人間は、いつでも神に反抗し、神を裁き、冒涜し、裏切ることができる。こうした人間は、いつでも真理の道を離れ、神を捨てることができる。これら3つの段階にある人々は、危機的時期にあると言うことができるであろう。なぜなら、こうした人々は、神への信仰の正しい道へと入っていないからである。

4番目の種類の人間は、成熟中の子供、少年期の段階である。

ある者が離乳した後、つまり豊富な恵みを享受した後、その者は、神への信仰とは何かについての追求を始め、人間は何故生きているのか、人間はどのように生きるべきか、神が人間に対して業を行うのは何故か、など、様々な問題について理解したいと思うようになる。こうしたおぼろげで困惑した考えが浮かび、そのまま心に残った時でも、人間は引き続き神からの言葉を享受し、自分の本分を尽くすことができる。この時期になると、人間は神の存在の真実に関する疑念が無くなり、神への信仰が何を意味するかを正確に把握している。それを基礎として、人間は神に関する認識を漸進的に身に付け、神の性質と本質に関して抱いているおぼろげで困惑した考えの一部に対する回答を徐々に得てゆく。こうした人間の性質の変化と神に関する認識については、この段階の人々は正しい方向性に進み始め、過渡期に入る。人間のいのちが真に始まるのは、この時期である。神を知ることに関して、心の中にある様々な疑問、すなわち、神に関する誤解、想像、観念、不明瞭な定義が解決してゆくこと、すなわち神の存在の事実を心から信じ、知ることのみならず、神に関する明瞭な定義と方向性も心の中に存在し、おぼろげな信仰が、真に神に付き従うことに変化することが、いのちがあることの顕著な徴候である。この段階において、人間は神に対する自分の誤解や誤った追求と信仰のあり方を認識するようになる。こうした人々は、真理と神の裁き、懲らしめ、訓練を受けることや、自らの性質を変えることを欲するようになる。やがてこうした人々は、この段階において、神に関する観念と想像を徐々に捨てるようになる。それと同時に、こうした人々は神に関する自分の誤った認識を正し、神に関する正しい基本情報を得る。この段階の人々が持つ認識は、それほど詳細でも正確でも無いが、少なくとも神に関する自分の観念や誤った認識や誤解を徐々に捨てるようになり、神に関して自分の観念や想像を保持しなくなる。こうした人々は、捨てる術を覚える。すなわち、自らが持つ観念に含まれる事柄や、知識やサタンから得たものを捨てる方法を知る。こうした人々は正しく、肯定的な事柄、神の言葉に由来する物事にも従うこと、真理に適合することを望むようになる。また、こうした人々は神の言葉を体験して、神の言葉を知り、実行して、自らの行動の原則そして自らの性質を変更する際の基礎として神の言葉を受け容れようとするようになる。この時期に、こうした人々は無意識のうちに神の裁きと刑罰、そして神の言葉を自分のいのちとして受け容れる。こうした人々が神の裁き、刑罰、そして神の言葉を受け容れる時、こうした人々は、自分の心の中で信じる神が実在されることを認識し、感じることができるようになってゆく。神の言葉と自分自身の経験と生活の中で、こうした人々は、自分の運命の上には、神が常にあり、人間を導き、人間に必要なものを施していることを、次第に強く感じるようになる。自分と神との関係のなかで、こうした人々は次第に神の存在を確認するようになる。したがって、こうした人々は神の業と言葉を、自分で気付く前に、無意識のうちに既に受け容れている。人間がひとたび神の言葉と業を受け容れると、人間は自分自身や、自分の持つ観念、自分の知識、想像を、終わること無く否定し続けると同時に、真理とは何か、神の心とは何かを終わること無く求め続けるようになる。人間が持つ神に関する認識は、発達のこの時期では極めて表層的であり、その認識を明確に説明したり、具体的に説明したりできない。また、この時期の人間は、感覚的にしか理解していない。しかしながら、この段階と、その前の3段階を比較すると、この段階は未熟ではあるが、既に成長に必要な要素と神の言葉による施しを享受して芽が出始めている。この段階は、地中の種のようなもので、水分と栄養素を得ると、土を割って芽を出す。そしてこの萌芽が、新たないのちの誕生を意味する。新たないのちの誕生により、人間はいのちの徴候を感じることができるようになる。いのちを得た人間は、そのいのちにより成長する。したがって、こうした基礎の上で、人間は次第に神への信仰の然るべき道へと進み、自分の持つ観念を捨て、神の導きを得て、必然的に一歩ずつ成長を遂げてゆく。この成長は、何を基準として計測されるであろうか。この成長は、神の言葉に関する人間の経験と、神の義の性質の真の理解にしたがって計測される。この成長段階では、神と神の本質に関する自分の認識を自分自身の言葉で正確に説明するのが極めて困難であると感じるものの、こうした人々は神の恵みにより悦楽を追求しようとすることも、神への信仰の背後にある自分自身の目的、すなわち神の恵みの獲得を追求することも無くなる。その代わりに、こうした人々は、神の言葉に基づいて生活することを求め神の救いの対象となることを求める。さらに、こうした人々は自信を持って神の裁きと懲罰を受ける準備が出来ている。これが、この成長段階にある人々を示す徴候である。

この段階にある人々は、神の義なる性質に関する認識を一部持っているものの、その認識は極めて不明瞭である。こうした人々は、その認識を明瞭に説明することができない一方、自分自身の中に何かを得たと感じる。なぜなら、神の刑罰と裁きにより神の義なる性質に関して、ある程度の認識と理解を得たからである。しかしながら、その認識は極めて表面的であり、初歩段階のものに過ぎない。こうした人々には、神の恵みを取り扱う上での具体的な意見を持つ。この意見は、自分が追求する目的とその追求方法に表出される。こうした人々は、もし自分達が神の言葉を体験してなお、自分達が真理を追究せず、現実的に真理に入ることを追求せず、神を満足させ、知ろうとしないままで居たならば、神への信仰に莫大な損失が生まれるということを、神の言葉や業、人間に対する様々な必要条件や露呈により、理解している。これらの人々は、神の恵みを享受している量にかかわらず、自分の性質を変えること、神を満足させ、神を知ることは不可能であることを心得ており、自分達が引き続き神の恵みのなかで生活したならば、自分達が成長し、いのちを獲得し、救いを得ることが出来ないことを、心得ている。要するに、神の言葉を真に体験することが出来ず、神の言葉を通して神を知ることが出来ない場合、永遠に赤子の段階に留まり、いのちにおいて一歩も成長することが無い。あなたが永遠に赤子の段階に留まり、神の言葉の現実に入ることが出来ず、あなたのいのちとして神の言葉を持つことがなく、神に対する真の信仰と認識を持つことがない場合、あなたには、神により完全な者とされる可能性があるだろうか。したがって、神の言葉の現実に入る者、神の言葉を自分のいのちとして受け容れる者、神の刑罰と裁きを受け容れ始める者、腐敗した性質が変化を始めている者、真理を求める心があり、神を知りたい、神の救いを享受したいという望みがある者は、全て真のいのちを持つ人々である。これが、4番目の種類の成長する子供の段階、少年期にある人々である。

5番目の種類の人間は、成熟した、成年の段階である。

この成長段階では、まだよちよち歩きの前進と後退を繰り返す幼児期を終え、人々のいのちは安定し、停滞することなく前進し、前進を阻むことが出来るものは誰も居ない。前途には依然として険しい苦難が待ち受けているが、これらの人々はもはや弱くもなく、恐れることもなく、手探りで前進することも、方向を見失うことも無くなる。こうした人々の基礎は神の言葉の実経験に深く根ざしている。こうした人々の心は、神の威厳と偉大さに引かれ続けている。こうした人々は、神の後に続き、神の本質を知り、神の全てを知ることを切望する。

この段階の人々は、自分が信じている相手のこと、神を信じるべき理由、自分のいのちの意味を、既に明確に認識しており、また神が表出することがすべて真理であることも、明確に認識している。こうした人々は、長年の経験から、神の裁きと刑罰無しでは、神を満足させることも、神を知ることも、神の前に実際に出ることも決して出来ないことを理解している。こうした人々の心には、試されることにより神の義なる性質を知り、純粋な愛を得ると同時に、神を真に深く理解し知るために、神によって試されたいという強い願望がある。この段階の人々は、神の恵みを享受してパンを食べて満足する幼児の段階に、既に完全に別れを告げている。こうした人々は、もはや神に対して寛容さと憐れみを求めて法外な望みをかけるようなことはせず、むしろ自分達の腐敗した性質を離れ、神を満足させるために、終わることの無い刑罰と裁きを受けることを望むだけの自信を身に付けている。こうした人々の神に関する認識や追求、そして自分の最終目標の追求は、全て自分の心の中で完全に明瞭な状態にある。したがって、成人期段階の人々は、おぼろげな信仰の段階、その後の恵みにより救いを獲得する段階、試練に耐えられない未熟な段階、不明瞭な段階、手探りで進む段階、頻繁に進むべき方向を見失う段階、突然の高熱や低温が繰り返される不安定な段階、目隠しされたまま神に付き従う段階を、既に完了している。この種の人々は、神の啓示と光を頻繁に受け、神との真の関係と交わりを頻繁に行う。この段階で生活する人々は、神の心の一部を既に把握し、自分達の行動の中に、真理の原則を見出すことが可能であり、神の望みを満足させる方法を心得ている、と言えるであろう。それに加えて、既にこうした人々は神を知る道を見出し、自分が持つ神に関する認識について証をし始めている。段階的な成長過程のなかで、こうした人々は、人間を創造した神の心、人間を経営する神の心など、神の心に関する漸進的な理解と認識を身に付けて来た。さらに、こうした人々は、本質という意味での神の義なる性質に関する漸進的な理解と認識も身に付けてきた。この認識は、人間の観念や想像により代えることの出来ないものである。この段階では、ある者のいのちが完全に成熟している、またはその者を義である、完全であるとは言えないものの、こうした人々は、既にいのちの成熟段階に向けて歩み出している。こうした人々は、既に神の前に来て、神と、その言葉と向かい合うことが出来る。この種の人間は、従前に沢山の神の言葉や、多くの試練と鍛錬、裁きと刑罰を極めて多く経験しているため、この種の人間の神への服従は、相対的ではなく、絶対的である。こうした人々の神に関する認識は、無意識から明瞭かつ正確な認識へ、表面的なものから深層的なものへ、不明瞭から詳細かつ具体的なものへ、と変化している。また、困難な手探りによる前進と受動的な要求から、努力不要の認識と積極的に証をすることへと変化している。この段階の人々は、神の言葉の真理に関する真実を持ち、ペテロのような完全への道を歩み始めていると言えるであろう。これが、成熟した成人の段階、5番目の種類の人間である。

言葉は肉において現れる(続編)朗読

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