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終わりの日のキリストの証人

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4.宗教的な牧師と長老たちは本当にすべて神によって任命されるか。宗教的な牧師や長老を受け入れ服従することは神への服従と神に従うことを意味するか。

聖書の言葉

見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(出エジプト記 3:9-10 )

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。...イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」...イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 ( ヨハネによる福音書 21:15-16 )

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 ( マタイによる福音書 16:19)

人間に従うよりは、神に従うべきである。(使徒言行録 5:29 )

また、神に仕えることは、神学校で学んだ後礼拝堂で説教し、聖書の各章を読んで人々に教えることだと考えている宗教指導者が大勢いる。...

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

8. 神を信じる人々は神に従い、神を礼拝すべきである。どんな人物に対しても、あなたは崇めたり、仰ぎ見たりするべきではない。神を第1位と位置付け、仰ぎ見る人々を第2位とし、自分自身を第3位と位置付けることは、すべきではない。誰もあなたの心の中に場所を占めるべきではないし、あなたは人々を―とりわけあなたが崇拝する人々を―神と劣らないもの、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目」より

一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。

あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、あなたが強いられていたからに過ぎない。あなたの心の中ではどこまでも、多くの気高いイメージがそびえる。彼らの言葉や行いのひとつひとつが忘れられず、彼らの影響力ある言葉や手も忘れられない。あなたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に、取るに足らない存在であり、永遠に、畏敬に値しない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさ過ぎ、高遠さとははるかにかけ離れているからである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より

各教派、各分派の指導者を見ると、そうした指導者は全て傲慢で独善的であり、聖書を前後関係を無視して、自分の想像に従って解釈している。そうした指導者は、全員が才能と学識に依存して業を行う。そうした指導者が何も説教出来ないのであれば、人々はその指導者に従うであろうか。結局のところ、そうした指導者は、教義をある程度習得し、教義について多少の話をすることが出来るか、あるいは他人を説得する方法、策略の利用法を知っており、それによって人々を自分のところに集めて騙したのである。こうして集まった人々は、名目上は神を信じているが、実際にはその指導者に付き従っている。そうした人々が真の道を説教する者に出会うと、「私達の神への信仰について、指導者と相談する必要がある」と言う者も居る。このように、こうした人々には、神を信じるために誰かの同意が必要であるのが分かると思うが、それは問題ではなかろうか。それならば、そうした人々の指導者は、どのような存在ということになるであろうか。そうした指導者はパリサイ人や偽の羊飼い、反キリスト教主義者のような存在であり、人々が真の道を受け容れるのを阻害する存在となっているのではなかろうか。...

あなたがたは、従前他の誰かに付き従っていたかどうか、神の御旨を満たしていなかったかどうかを問わず、この段階では神の御前に来る必要がある。この段階の御業を経験することを理由として、この段階で依然として誰かに付き従い続けた場合、あなたがたは赦すことができない者とみなされ、最終的にはパウロのようになるであろう。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

そうしたわけで、表面上霊的で高貴で高尚な印象を与える者に、しばしば騙される者がいる。文字上の事柄や教義上の事柄について語ることが出来て、言動や行動が賞讃に値する者について、その者を賞讃する人々は、その者の行動の本質や背後にある原則、目的について検討しない。また、こうした人々はその者が真に神に服従しているか、真に神を畏れ、悪を避ける者であるかを検討しない。こうした人々は、その者の本質的な人間性を見抜くことが出来ない。むしろ、こうした人々は、その者に最初に知り合ってから、徐々にその者を賞讃し、崇敬し、最終的にその者は、人々の崇拝対象となる。さらに、一部の人々の考えでは、自分が崇拝する対象となる者、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことが出来る崇拝対象が、真に神を満足させるものであり、好ましい結末と終着点を迎えることができる者であると信じている。こうした人々の心の中では、これらの崇拝対象が、神が賞讃する人々である。

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

神に付き従っていると言う者にとって、自らの目を開き、自分が信じているのが誰かを良く見るのが最善であろう。あなたがたが信じているのは、本当に神であられるか、それともサタンであるか。あなたがたは、自分が信じているのが神ではなく、自分にとっての偶像であることを知っている場合、自分は信者であると述べずにいるのが最善であろう。あなたがたは、自分が誰を信じているのか知らないならば、同様に、自分は信者であるとは言わないのが最善であろう。そうであると言うのは、冒涜である。あなたがたに、神を信じることを無理強いしている者は居ない。私を信じている、という言葉は、とうの昔に聞き飽きており、二度と聞きたいとは思わないので、そうした言葉を言わないで欲しい。なぜなら、あなたがたが信じているのは、あなたがたの心の中の偶像であり、あなたがたの中にいる地域の下劣なへびだからである。真理を聞いた時に首を横に振り、死の言葉を聞いた時に満面の笑みを浮かべる者は、サタンの子孫であり、そうした者は全て排除対象となる。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

前へ:なぜ神の働きの新しい段階のおのおのは宗教界の激しい反抗と非難に遭遇するのか。根本原因は何か。

次へ:宗教で神を信じ、ファリサイ派と反キリスト者たちの混乱と支配に苦しむ人の帰結は何か。人々がこのように神を信じるなら、人は神によって救われ得るか。

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