第3節 真理を理解し、現実へと入ることについて

433. 今は神の国の時代である。あなたがこの新たな時代に入っているかどうかは、あなたが神の言葉の現実に入っているかどうか、そして神の言葉があなたのいのちの現実となっているかどうかによる。神の言葉がすべての人に知らされているのは、最終的にすべての人が神の言葉の世界に生きるようになり、神の言葉が一人一人を内から啓き、照らすようになるためである。もしこの期間にあなたが不注意に神の言葉を読み、神の言葉にまったく関心を持たなければ、それはあなたの状態が間違っていることを示している。あなたが言葉の時代に入れないなら、聖霊はあなたの中で働きを行わない。もしあなたがこの時代に入っているのなら、聖霊はその働きを行う。言葉の時代が始まる今、聖霊の働きを得るためには何ができるだろうか。この時代、神はあなたがたのもとで次のような事実を実現する。つまり、一人一人が神の言葉を生き、真理を実践できるようになり、誠実に神を愛するようになる。そしてすべての人々が、神の言葉を基盤かつ自身の現実として用い、神を敬い畏れる心を持つようになる。さらに神の言葉の実践をとおして、人間が神とともに王のような力を振るうようになるのである。これが、神によって達成される働きである。……神は言葉を用いて人間を統治する。あなたは神の言葉を飲み食いすれば気分が良くなり、それをしなければ、たどるべき道がなくなる。神の言葉は人間の食物となり、人間を動かす力となる。聖書には「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とある。今日、神はこの働きを完成させ、あなたがたの中でこの事実を成就させる。なぜ、過去の人々は神の言葉を何日間も読まなくても普通に食べて働くことができたが、今はそうではないのだろうか。この時代、神はおもに言葉を用いてすべてを統治する。神の言葉を通して人間は裁かれ、完全にされ、そして最終的には神の国へと導かれる。神の言葉だけが人間にいのちをもたらし、神の言葉だけが人間に光と実践の道を与えることができる。これはとりわけ神の国の時代における事実である。あなたが神の言葉の現実から離れず、毎日神の言葉を飲み食いしている限り、神はあなたを完全にすることができるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より引用

434. 人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にあり、それは人類にとって最も有益で役立つ真理である。それはあなたがたの体に必要な滋養と糧であり、人が正常な人間性を回復することを助ける。またそれは、人間が備えているべき真理である。神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちはより早く開花し、真理がますます明確になる。自分の霊的背丈が成長するにつれ、あなたがたは霊的世界の物事をより明瞭に理解し、さらに力を得てサタンに勝利するだろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解していない真理の多くも明らかになるだろう。ほとんどの人は神の言葉の文面を理解するだけで満足し、自分の経験を実践において深めることではなく、むしろ教義を身につけることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではないのか。ならば彼らにとって、「神の言葉はいのちである」という言葉がどうして真実であり得ようか。単に神の言葉を読むだけでは、人のいのちが成長することはできず、神の言葉が実践されて初めて成長できる。もしもあなたの信仰が、神の言葉を理解しさえすればいのちと霊的背丈を得ることができる、というものであれば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。そしてあなたは「実践して初めて真理を理解できる」ということがわかっていなければならない。今日あなたは、神の言葉を読んでも、自分は神の言葉を知っていると言えるだけで、それを理解しているとは言えない。真理を実践する唯一の方法はまず真理を理解することだ、と言う者たちもいるが、それは部分的に正しいだけで、すべて正しいということは決してない。一つの真理の認識を得るまでは、その真理を経験したことにはならない。説教で聞いたことを理解したと感じても、それは本当に理解したのではなく、真理の字句を身につけているだけであり、その中にある本当の意味を理解することと同じではない。真理に関してただ表面的な知識があっても、それは実際に真理を理解しているという意味でも、真理に関する認識があるという意味でもない。真理の本当の意味は、それを経験することから見出せる。それゆえ、真理を経験して初めて、あなたはそれを理解することができる。そしてその時初めて、あなたは真理の隠された部分を把握できるのである。自分の経験を深めることが言外の意味を把握し、真理の本質を理解する唯一の方法である。したがって、真理があればどこにでも行けるが、自分の中に真理がないのであれば、宗教的な人々はもちろんのこと、自分の家族さえも説得しようなどと思ってはならない。真理がなければ、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。いかに強力であっても、理論が真理に打ち勝つことはできない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かせるが、その一方で真理がなければ、強力な都市の防壁がうじ虫によって瓦礫と化すことにつながり得る。それは明白な事実である。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

435. 神の言葉の実際の意味を本当に理解することは、決して単純なことではありません。「自分は神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、その解釈はみんなにいいと言われて賛成してもらえる。だから、私は神の言葉を理解していることになる」と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神が発する言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意味を感じ取ったなら、また神の言葉の裏にある意図と、それらが最終的に成し遂げる効果を表現できるなら、そのすべてについてはっきり認識したところで、あなたは神の言葉についてある程度の理解を得たと見なされます。ゆえに、神の言葉を理解することはそこまで簡単ではないのです。神の言葉の文字通りの意味を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。それらの文字通りの意味をどれだけ説明できたとしても、あなたの説明はやはり人間の想像と考え方を基にしています。何の役にも立たないのです。どうすれば神の言葉を理解できるでしょうか。鍵となるのは、その中から真理を求めることです。そうすることでのみ、あなたは神が言うことを本当に理解できます。神は語るたび、大まかなことしか語らないということは決してありません。神が発する一つひとつの文章には、神の言葉の中で必ずやさらに明かされる詳細が含まれており、それらは異なる形で表現されるでしょう。神による真理の表現の仕方を人間が推し測ることはできません。神が発する言葉は極めて深遠であり、人間の考え方では推し測れません。人は努力さえすれば、真理の各側面の意味をすべて突き止められます。そのようにすれば、それらを経験する中で、聖霊があなたを啓くにつれて残りの詳細が完全に埋まり、それによってそうした具体的な状態を理解するようになります。その一部分は、神の言葉を認識すること、およびそれらを読んで具体的な内容を求めることです。別の一部分は、神の言葉を経験すること、そして聖霊の啓きを得ることを通じ、その言葉の意味を理解することです。神の言葉に関する真の理解は、おもにこれら二つの手段によって得られます。あなたが神の言葉を文字通りに理解するのであれば、あるいは自分の考えや想像というレンズを通じて理解するのであれば、どれほど雄弁に解釈できようとも、神の言葉に関するあなたの理解は現実ではありません。それらの意味を文脈から切り離し、誤って解釈することさえありますが、そうすることはさらに厄介です。ゆえに、真理というのはおもに、神の言葉を知ることを通じ、聖霊からの啓きを受け取ることで得られるのです。神の言葉の文字通りの意味を理解している、あるいはそれらを説明できるとしても、真理を得たとは見なせません。神の言葉の文字通りの意味を説明すればいいのであれば、聖霊による啓きの意味は何でしょうか。その場合、一定の教育を受けていればそれでいいのであり、教育を受けていない人はみなとても困ったことになるでしょう。神の働きは、人間の頭脳で理解できるものではありません。神の言葉を真に理解することは、おもに聖霊からの啓きを得ることに依存しています。それが真理を得る過程なのです。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

436. もし、神の言葉から神の旨やその言葉の裏にある意図を理解できないなら、神の言葉が達成しようとしている目的や結果を理解できないなら、神の言葉が人間の中で何を達成し完成しようとしているかを理解できないなら――こうしたことを理解できていないなら、それはあなたがまだ真理を掴めていない証拠です。神はなぜ、今語っているようなことを語るのでしょうか。なぜあのような口調で語るのでしょうか。なぜ神が語る言葉の一つ一つが、こんなにも熱心で誠実なのでしょうか。なぜ特定の言葉を選んで使うのでしょうか。こうした質問に答えられますか。もし自信をもって答えられないなら、それはあなたが神の旨や意図を理解しておらず、神の言葉の裏にある背景を理解していないことを意味します。それが理解できないなら、どうして真理を得ることができるでしょうか。真理を得るということは、神が語る一つ一つの言葉を通して神の旨を理解することであり、また理解したなら神の言葉を実践し、自分を通してその言葉を実現し、それが自分の現実となるようにすることです。神の言葉を完全に理解して初めて、真理を本当に把握することができるのです。あなたは多少の字句や教義を理解できるようになっただけで、真理を理解し現実を得たと思い込みます。そして、「神に正直であるよう求められているので、そう実践しています」などとも言いますが、なぜ人が正直であるよう求められているのかだけでなく、なぜ神を愛するよう求められているのかも理解できていません。実のところ、神が人々にそのような要求をする目的は、人々に救いと完成をもたらすことなのです。

神は真理に渇き、真理を求め、真理を愛する人のために真理を表します。字句や教義にこだわって、冗長で大層な話をしたがる人は、決して真理を得られないでしょう。そのような人は自分を欺いているのです。彼らは神の言葉の読み方を誤っており、首を曲げて真っ直ぐなものを読むため、視点がすべて間違っています。また中には神の言葉を研究することしか知らず、祝福を受けることや人の終着点について何が語られているかばかり調べている人もいます。そういう人は神の言葉が自分の見解と合わなければ、否定的になり追求を中断してしまいます。それはその人が真理には関心を持っていないことを意味します。その結果、真理を真剣に受け取らず、自分の観念や想像による真理しか受け取ることができません。そのような人たちは、神への信仰においては熱心で、あらゆる手を尽くしてちょっとした善行を行い人によく見られようと努めますが、それはただ自分が将来よい終着点を得たいがためなのです。彼らも教会生活を送り、他の皆と一緒に神の言葉を飲み食いしているにもかかわらず、そうした人々が真理の実体に入り真理を得るのは難しいことなのです。また他にも、神の言葉を飲み食いしてはいるものの、それをただ形だけ行なっており、字句や教義を多少理解できるようになっただけで真理を得たと思い込んでいる人もいます。なんと愚かな人たちでしょう。神の言葉は真理です。しかし神の言葉を読んだからといって、真理を理解しそれを得られるとは限りません。神の言葉を飲み食いしても真理を得られなければ、得られるものは字句や教義だけです。あなたは真理を得るということがどういうことかわかっていません。神の言葉を手にはするかもしれませんが、それを読んだ後もなお神の旨は理解できず、字句や教義を多少得られるだけです。まず、神の言葉はそんなに単純ではなく、実に深遠なのだということを認識する必要があります。長いこと経験を積まずして、どうして神の言葉を理解できるでしょうか。神の言葉のたった一文であろうと、十分に体験するには一生かかるでしょう。あなたは神の言葉を読んでも、神の旨を理解できず、神の言葉の意図、その起源、それが達成しようとしている効果や、何を成し遂げようとしているのかも理解できません。こうしたことを一つも理解できないなら、どうして真理を理解できるでしょうか。あなたは神の言葉を何度も読んでいるかもしれず、多くの節を暗唱さえできるかもしれませんが、それでも何も変わっておらず、何の進歩もしていません。あなたと神との関係は、相変わらず距離があり疎遠です。神との間には従来どおり壁があり、あなたは神に対して疑い深いままです。あなたは神を理解できないだけでなく、神に言い訳をし、神についての観念を抱いています。神に抗い、冒涜さえしているのです。それでどうして、真理を得たことになるでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理の実体を持つ者だけが指導者となれる」より引用

437. 真理に関するあなたがたの理解は、自分自身の状態と一体となっていますか。実生活では、どの真理が、自分が遭遇した人や出来事や物事に関連しているかをまず考えなければなりません。こうした真理の中に神の旨を見出し、自分が遭遇した物事と神の旨を関連づけることができるからです。自分が遭遇した物事について、真理のどの側面がそれと関連しているかを知ることなく、神の旨を直接求めにいったところで、そのような盲目的なやり方で成果を得ることはできません。真理を求めて神の旨を理解したければ、まずは自分にどのようなことが起きているのか、それが真理のどの側面と関連しているかを検討してから、神の言葉の中に、自分が経験したことに関連する特定の真理を探し出す必要があります。次に、その真理の中から自分にふさわしい実践の道を探します。そのようにすることで、神の旨に関する間接的な理解が得られます。真理を探して実践することは、機械的に教義を適用することでも、公式に従うことでもありません。真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。神の言葉から神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を理解することを除いて最も重要なのは、実践的な経験を通じてこの理解に達する必要性です。神を知るために自分を実生活から切り離せば、その人は神を知ることができません。神の言葉から何らかの理解を得られる人がいたとしても、その理解は教義や言葉に限られ、本当の神自身と差異が生じることになります。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より引用

438. 入りを求める際には、あらゆる物事を考察しなければなりません。すべての物事は神の御言葉と真理にしたがって徹底的に考える必要があり、そうすることで神の旨と完全に一致する形で物事を扱うにはどうすればよいかがわかります。すると、自分の意志から生まれる物事を捨て去ることができます。神の旨にしたがう形で物事を行なうにはどうすればよいかがわかり、実際にそのようにします。万事が自然に展開するかのように感じられ、極めて容易に見えるのです。これが真理を備える人による物事の行ない方です。その上で、自分の性質が本当に変化したことを他人に示せるようになり、他人はあなたが確かに善行をしていること、原則にしたがって物事を行なっていること、全ての行動が正しいことを理解します。それが真理を理解している人、実際に人間らしさをいくらか有する人です。確かに、神の言葉は人において成果を挙げたのです。ひとたび本当に真理を理解すると、その人は自分の状態を識別し、複雑な問題を底まで見通し、正しく実践方法を知ることができます。真理を理解していなければ、自分の状態を識別することはできません。自分自身に反抗しようとするものの、どうすればよいのかも、自分が何に反抗しているのかもわかりません。また自分の意志を捨て去ろうとしても、自分の意志が真理にかなっていると考えるなら、どうしてそれを捨て去れるでしょうか。あなたがたはそれを聖霊による啓きとすら考え、そのため何があっても捨て去ろうとしないかもしれません。したがって、自分に真理がない人は、人間の不純、善意、見当違いな愛、そして人間の実践など、自分の意志から生じるものはどれも正しく、真理にかなっていると考えがちなのです。そうであれば、あなたはそれらの物事にどう反抗できるでしょうか。真理を認識せず、真理の実践がどういう意味かも知らず、また目が曇っていて、自分がどちらを向いているかがわからないために、自分が正しいと思うことを基にしなければ物事を行なえないのであれば、あなたは道を踏み外した誤った行為、規則に従っている行為、熱意から生じる行為、そしてサタンに由来し、妨害を引き起こす行為を犯すでしょう。真理を自分のものにしていない人は次のように振る舞います。左へ行ったかと思えば右へ行き、一瞬正しいと思ったら次の瞬間には間違っており、正確さなどまったくありません。真理を自分のものにしていない人は、物事に対して馬鹿げた見方を抱きます。そうであれば、どうして物事を正しく扱えるでしょう。問題をどう解決できるでしょう。真理を理解するのは簡単なことではありません。神の言葉を把握できるかどうかは、真理を理解しているかどうか次第であり、人々が理解できる真理には限界があります。たとえ生涯にわたって神を信じていても、神の言葉に関する人々の理解はいまだに限られています。比較的経験を重ねた人でも、明らかに神に抵抗する物事を行なわず、明らかに悪いことを行なわず、誰の益にもならないことを行なわないようになるのが精一杯なのです。そのような人が、自分の意志を一切混じらせない状態に至るのは不可能です。なぜなら、人は普通のことを考えるからであり、その考え方の一部は神の言葉にかない、意志には分類され得ない理解というものに属しています。しかし重要なのは、自身の意志のうち、神の言葉、真理、そして聖霊からの啓きに反する部分を識別することです。したがって、あなたは神の言葉を認識するよう努力しなければならず、真理を理解することでのみ識別できるようになるのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より引用

439. たとえ神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の経験を通じた神の言葉に関する直接的な知識がなければ、神の言葉を知ることはないだろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字を見つめながら生きるだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の旨を理解することもないだろう。実体験の中で神の言葉を経験して初めて、神の言葉の霊的な意味があなたに明かされる。また経験を通じてでなければ、数多くの真理の霊的な意味を把握することはできず、神の言葉の奥義を解明することもできない。あなたがそれを実践しなければ、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握したのは空虚な字義や教義だけであり、それらがあなたの宗教的規則になってしまったのだ。それはパリサイ人たちが行なったことではないのか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、それはあなたがたにとって実践的なものになる。神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたにとって第三の天の伝説程度のものに過ぎない。実のところ、神を信じる過程は、神によって獲得される過程であるとともに、あなたがたが神の言葉を体験する過程でもある。より明確に言うと、神を信じるというのは、神の言葉に関する認識と理解を得ること、そして神の言葉を体験し、それを生きることである。そうしたことが、あなたがたの神への信仰の背後にある現実である。自分の中にあるものとして神の言葉を実践することを求めないまま、神を信じ、永遠のいのちを望むのであれば、あなたがたは愚かである。それはあたかも、宴に赴き食事を見て、それらの御馳走を暗記するだけで、実際には何一つ味わわないようなものだろう。そのような人は愚か者ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

440. あなたがたの目的の核心は、神の言葉が自分の中で効果を発揮するようにすることである。言い換えれば、自分が神の言葉を実践する中で、その言葉を真に理解することである。おそらく、あなたがたが神の言葉を理解する能力は乏しいだろうが、あなたがたが神の言葉を実践する時、神はこの欠点を直すことができる。そのため、あなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらを実践しなければならない。これが無視することのできない最大の重点である。イエスは三十三年半の生涯において数多くの恥辱と苦しみに耐えた。彼がかくも大いに苦しんだのは、ひとえに真理を実践し、あらゆることにおいて神の旨を行ない、神の旨しか大事にしなかったからである。この苦しみは、イエスが実践を経ずに真理を知っていたとすれば、決して受けたはずのないものである。イエスがユダヤ人の教訓に従い、パリサイ人に従っていたとすれば、彼は苦しまなかったことだろう。人間に対する神の働きの効果は人間の協力から生じるものであるということを、あなたはイエスの業から学ぶことができる。そしてそれは、あなたがたが認識しなければならないことである。イエスが真理を実践しなかったとしたら、彼はあのように十字架の上で苦しんだだろうか。イエスが神の旨に従って行動していなかったとしたら、あれほど悲痛な祈りを捧げていただろうか。それゆえ、あなたがたは真理を実践するために苦しむべきである。それが人間の受けるべき苦難である。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

441. 神を信じるようになって以来、人は多くの間違った意図を心に抱いてきた。真理を実践していない時、あなたは自分の意図はすべて正しいと感じているが、自分に何かが起こると、あなたは自分の中には間違った意図がたくさんあることがわかる。従って、神が人を完全にする時、神は神に関する人の認識を妨害する観念が人の中にはたくさんあることに気付かせる。自分の意図が間違っていることを認めた時、自分の観念や意図に従って実践するのをやめることができ、自分に起こるすべてのことにおいて神へ証しをすることができ、自己の立場を守ることができるなら、これはあなたが肉体に反抗したことの証明となる。肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンは人を肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする。しかし、神の言葉は人を啓き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の物事をおもに取り扱い、神の心に従っていない思いや観念を取り扱うためである。聖霊は人の心を感動させ、人を啓き、そして光を当てる。ゆえに、起こることすべての背後には戦いがある。人が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体にとってうまく行っているように見えるかもしれないが、実のところ、人の心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり、この激し戦いの後で初めて、膨大な熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人の中の意図の多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人の観念と食い違っているので、人が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、舞台裏で人は悲しみの涙を数えきれないほど流し、ついに神を満足させる決心をする。人が苦しみや精錬に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、本当に神の側に立つことができれば、あなたは神を満足させることができる。真理を実践する際、内なる苦しみを被ることは避けられない。真理を実践する時、人の心の中のすべてが正しかったら、人は神に完全にされる必要はなく、戦いもなく、人は苦しまない。人の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これが神が人に神と共に経験することを要求した苦しみである。あなたが困難に出会ったら、急いで神に次のように祈りなさい。「おお、神様。私はあなたに満足して頂きたいのです。私はあなたの心に満足していただくために最後の困難に耐えたいです。そして私が出会う挫折がどんなに大きくても、私はあなたに満足していただかなければなりません。たとえ私の全生涯を諦めなければならないとしても、私はあなたに満足していただかなければなりません」。この決意を持って、このように祈る時、あなたは固く証しに立つことができる。真理を実践するたびに、精錬を受けるたびに、試されるたびに、そして神の働きが人に及ぶたびに、人は激しい痛みに耐えなければならない。このすべては人への試練であり、そのためすべての人の心の中では戦いがある。これは人が支払う実際の代償である。神の言葉をさらに読み、さらに走り回ることはその代償の一部分である。それは人がしなければならないこと、本分、果たすべき責任であり、心の中にあって脇にどけておくべきものは、脇にどけなければならない。さもなければあなたの外面的苦しみがいかに大きくても、走り回ろうとも、すべては無駄になる。つまり、心の中を変えることだけがあなたの外面的困難に価値があるかどうかを決定することができる。あなたの内面的性質が変わり、あなたが真理を実践した時、あなたの外面的苦しみはすべて神の承認を得られる。内面的性質に変化がまったくなければ、いかに苦しみに耐えようとも、外面から見ていかに走り回ろうとも、神からの承認はない。そして神に認められない困難は無駄である。従って、払った代償が神に認められるかどうかは、あなたに変化があったかどうか、あなたが真理を実践して、神の旨の満足、神に関する認識、神への忠誠心を得るために自分の意図や観念に反抗するかどうかによって決定される。どんなに走り回ろうとも、自分自身の意図に反抗することをいまだ知らず、外面的行動や熱心さを追い求めるだけで、いのちに全く注意を払わなければ、あなたの困難は無駄なことになるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より引用

442. 人の考えることは真理を代替できない

苦難に耐え、代償を払い、表面上の行動も極めて良好であり、尊敬されて他人に賞讃されている人がいます。こうした表面上の行動は、真理の実践とみなせるとあなたがたは言うでしょうか。このような人は神の心意を満たしていると言えますか。このような人を見ると、神を満足させている、真理を実践する道を歩んでいる、神の道を歩んでいると人がいつも考えるのはなぜですか。このように考える人がいるのはなぜですか。これを説明する方法はひとつしかありません。それはどのような説明ですか。それは、多くの人にとって、真理の実践とは何か、神を満足させるとはどのようなことか、真理の現実性を真に自分のものにするとは何を意味するのか、といった疑問があまり明瞭でないということです。そうしたわけで、表面上は霊的で高貴で高尚で偉大に見える人によく惑わされる人がいるのです。惑わされる人は、字句や教義について雄弁に語ることができる人や言動が賞讃に値するように見える人の行動の本質や背後にある原則や、彼らの目的が何なのかを検討したことがありません。また、彼らが真に神に服従しているかを検討したことも、彼らが真に神を畏れ、悪を避けるかも不明なままです。惑わされる人は、彼らの人間性の本質を見極めていないのです。むしろ、最初の出会いから、徐々に彼らを賞讃、崇敬するようになり、最終的には、惑わされる人にとっての偶像になります。さらに、一部の人は、自分が崇拝する偶像は、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことができる人で、真に神を満足させており、好ましい結末と終着点に到達できる人であると信じているのです。こうした人の考えでは、これらの偶像こそが神が賞讃する人なのです。人がこのように考える原因は何ですか。この問題の本質は何ですか。この問題はどのような結末を引き起こす可能性がありますか。まず、この問題の本質について話し合いましょう。

基本的に、人の観点、実践の方法、人がどのような実践の原則を選択するかという問題、何を強調する傾向にあるかという問題は、神の人類への要求とは無関係です。人が重要視する問題が浅薄であるか深遠であるか、字句や教義であるか現実であるかにかかわらず、人は最も遵守すべきことを遵守せず、最も知るべきことを知りません。その理由は、人が真理をまったく好まないからです。したがって、神の言葉にある実践の原則を探して実践するために人は時間や労力を費やすことを望みません。むしろ、近道をし、理解し、知っていることをまとめて、良い実践やふるまいとすることを望みます。この「まとめ」が人の目標となり、実践すべき真理となります。このことの直接的な成り行きは、真理を実践する代替として良いふるまいを用いることであり、それは神の機嫌を取りたいという人の欲望も満たします。これにより、人は真理に対抗し、神を説得し神と競争するのに用いる資本を得ます。それと同時に、人は無節操に神を脇へやり、自分が崇拝する偶像を代わりに据え付けます。人がこうした無知な行動や見方を取り、一面的な意見と実践を採用する根本原因はひとつしかありません。今日は、あなたがたにこのことについて話します。その理由は、神に付き従い、日々神に祈り、神の言葉を読んでいても、実際には人は神の心意を理解していないからです。このことが問題の根源です。もし人が神の心を理解し、神が何を好み何を嫌悪するか、神が何を欲し何を拒むか、神がどのような人間を愛し嫌うか、人間への要求をするときに神がどのような基準を適用するか、神が人間を完全にするのにどのような方法を取るかを知っていたならば、それでもなお人は自分の個人的な考えを持つことができますか。ただ別の誰かを崇拝できますか。普通の人間が人の偶像となり得ますか。神の心意を理解している人は、それよりはもう少し理にかなった観点をもっています。堕落した人間を自分の判断で偶像化することはなく、また真理を実践する道を進みながら、僅かな簡単な規則や原則を盲目的に遵守することが真理を実践することであるとは考えません。

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」より引用

443. 肉のため、家族のため、あるいは自分の個人的な願望のためでなく、神の家の益のために、自分の心身と真の愛のすべてを神に捧げ、それらを神の前に置き、神に完全に従順であり、神の旨を絶対的に配慮し、万事において神の言葉を原則および基礎とすることができるなら、そのようにすることで、あなたの意図や観点はすべて正しい場所にあり、あなたは神の前で神の称賛を受ける人となる。神が好むのは、絶対的に神へと向かう人であり、そのような人はひたすら神に献身する者である。神が忌み嫌うのは、神に対して熱心でなく、神に反抗する者である。神を信じ、神を享受することを常に望むが、神のために自分を完全に費やせない者を、神は忌み嫌う。神を愛していると言いながら、心の中で神に反逆する者を、神は忌み嫌う。雄弁な美辞麗句を用いて欺く者を神は忌み嫌う。神に対して真に献身的でない者、神の前で真に服従したことがない者は、本性が背徳的で過度に傲慢である。正常な実際の神の前で真に従順になれない者は、それにも増して傲慢であり、特に大天使の忠実な子孫である。神のために自分自身を真に費やす人は、自身の全存在を神の前に並べる。そうした人は神が発するすべての言葉に心から従い、神の言葉を実践することができる。また神の言葉を自分の存在の基礎とし、どの部分を実践すべきなのか突き止めるべく、神の言葉の中を真剣に探し求めることができる。これが真に神の前で生きる人である。あなたの行なうことが自分のいのちに有益であり、またいのちの性質が変わるよう、神の言葉を飲み食いすることを通じて内面的な要求や不十分な点を満たすことができるなら、それは神の旨を満たすだろう。神の要求に応じて行動し、肉ではなく神の旨を満足させるなら、それは神の言葉の現実に入ったということである。神の言葉の現実へと入ることについてさらに現実的に語れば、それは自分の本分を尽くして神の要求を満たせることを意味する。この種の実践的な行動だけが、神の言葉の現実に入ることと呼べる。この現実に入れるなら、あなたは真理を自分のものにする。これが現実に入る端緒である。まずはその訓練を行ない、その後初めてさらに深い現実へと入ることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より引用

444. 現実に入るには、すべてを実生活に向けなければならない。神を信じていても、実生活への入りを通じて自分を知ることができず、実生活で正常な人間性を生きることができなければ、その人は落伍者となるだろう。神に従わない者はみな、実生活に入れない者たちである。そうした者はみな人間性について語りつつ、悪魔の本性を生きる者である。彼らはみな真理について語りつつ、教義を生きる者である。実生活で真理を生きられない者は、神を信じてはいるが、神に嫌悪され拒絶される者である。あなたは実生活で入りを実践し、自分の欠点と反抗心と無知を知り、自分の異常な人間性と弱さを知らねばならない。そうすることで、あなたの認識が自分の実際の状況や困難に組み入れられる。そのような認識だけが本物であり、それによってあなたは自分の状態を真に把握し、性質の変化を成し遂げることができるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と実生活についての議論」より引用

445. 神の国の精兵は、現実について話したり、自慢したりすることしかできない集団となるよう訓練されているのではない。むしろ、いかなる時も神の言葉を生き、いかなる挫折に直面しても屈せず、絶えず神の言葉にしたがって生き、この世に立ち返らないように訓練されているのである。これが、神が語るところの現実であり、神が人間に要求するものである。したがって、神が語る現実を簡単に考え過ぎてはならない。単なる聖霊からの啓きは、現実を自分のものにすることと等しくはない。そうしたものは人間の霊的背丈ではなく、神の恵みであり、それに対して人間は何一つ寄与しない。一人ひとりがペテロの苦難に耐えなければならず、またそれ以上に、ペテロの栄光を自分のものにしなければならない。神の働きを得た後、彼らはそれを生きるのである。これ以外に現実と呼べるものはない。現実について語ることができるからといって、自分に現実があると考えてはならない。それは間違った考えである。そうした考えは神の旨と一致しておらず、実際の意義が一切ない。今後そんなことを語ってはならない。そのような発言は消し去りなさい。神の言葉を誤って理解している者はみな未信者である。彼らは真の認識を少しも持ち合わせておらず、まして真の霊的背丈など備えてはいない。彼らは現実をもたない無知な人々である。言い換えると、神の言葉の本質から外れて生きる者はみな未信者である。人々から未信者とみなされた者たちは、神の目から見ると獣であり、神から未信者とみなされた者たちは、神の言葉を自分のいのちとしていない者である。したがって、神の言葉の現実を自分のものにしておらず、神の言葉を生きていない者は未信者である。神の旨は、誰もが神の言葉の現実を生きるようにすることであり、単に誰もが現実について語るようにすることでなく、それ以上に、誰もが神の言葉の現実を生きられるようにすることである。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」より引用

446. 神は実際的な神である。神の全ての働きは現実であり、神が話す全ての言葉は現実であり、神が示す全ての真理が現実である。神の言葉でないものは全て空虚で、存在しないも同然であり、確かでない。今日、聖霊は人々を神の言葉に導いている。もし人々が現実に入ることを追求しようとするならば、彼らは現実を求めて、現実を知らなくてはならない。そしてその後、現実を体験し、また現実を生きなければならない。人々が現実を知れば知るほど、ますます他者の言葉が現実であるかどうか見分けることができるようになる。人々が現実を知れば知るほど、ますます観念を持たなくなる。人々が現実の体験をすればするほど、ますます神の真実の業を知るようになり、ますます、堕落したサタンの性質から自由になるのが容易になる。人々が現実を積めば積むほど神を知るようになり、ますます肉を嫌悪し真理を愛するようになる。そして、人々が現実を積めば積むほど、ますます神の要求する基準に近づくようになる。神のものとされた人々は現実が備わり、現実を知り、現実の体験を通して神の現実的な業を知るようになった人である。実際に神と協力し自分自身を抑制すればするほど、ますます聖霊の働きを得るようになり、さらなる現実を得るようになり、神による示しと導きを得るようになる。こうして、あなたの神の真の業に関する認識がますます広がっていく。もしあなたが現在の聖霊の光の中に生きることができるならば、実践への現在の道はあなたにとってより明確になるだろうし、そして過去の宗教的観念と古い習慣からあなた自身がもっと切り離されることができるだろう。今日、現実に焦点を当てている。人々が現実を積めば積むほどますます人々の真理に関する認識が明確になり、神の心の理解が増し加わる。現実は全ての文字や教義に優り、全ての理論や専門知識に優る。人々が現実に焦点を当てれば当てるほど、心からさらに神を愛するようになり、神の言葉に対する飢え渇きが強くなる。あなたが常に現実に焦点を当てていれば、あなたの処世哲学、宗教的観念、そして生来の個性が、神の働きを受けて自然に消滅していくだろう。現実を追求しない人々、現実に関する認識を持っていない人々は、超自然的なものを追及しやすいがゆえに、彼らは簡単に騙されてしまうであろう。聖霊はこのような人々に働く術を持たず、ゆえに彼らは虚しさを感じ、自分の人生には何の意味もないと感じる。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より引用

447. 真理を実践すればするほど、より多くの真理が自分のものになる。真理を実践すればするほど、神の愛がますます自分のものになる。そして真理を実践すればするほど、神の祝福をさらに受ける。いつでもこのように実践するなら、ペテロが神を知るに至ったのと同じく、あなたに対する神の愛のおかげで、あなたは徐々に見えるようになる。ペテロは、神には天地と万物を創造する知恵があるだけでなく、それ以上に、人々の中で実際的な働きを行う知恵があると言った。神が人々の愛にふさわしいのは、天地と万物を創造したからだけではなく、それにもまして、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を授ける力があるからだと述べたのである。ゆえにペテロは、神には人間の愛にふさわしい点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスにこう言った。「あなたが人々の愛を受けるにふさわしいのは、天地と万物をお創りになったのが唯一の理由ですか。あなたには愛されるにふさわしい点がもっとあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊は私の内に触れ、私を懲らしめ、私を咎められます。こうしたことはずっと、人々の愛によりふさわしいのではありませんか」神の愛を見て経験したいと望むのであれば、それを現実の生活の中で探し求め、進んで自分の肉を捨てなければならない。あなたはこの決意をしなければならないのである。決意をもち、万事において神を満足させることができ、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きられる人にならなければならない。神の旨を満たせないときもあるだろう。それは神の旨を理解していないからである。次はもっと努力する必要があったとしても、あなたは神を満足させなければならないのであって、肉を満足させてはならない。このようにして経験していくと、あなたは神を知るようになる。神が天地と万物を創造できることを知り、また人々が実際に神を目の当たりにし、神と関われるよう、神が肉となったことを知るのである。そして、神が人々の間を歩けること、神の霊が現実の生活の中で人々を完全にし、人々が神のすばらしさを目の当たりにし、その鍛え、懲らしめ、祝福を経験できるようにすることがわかるのである。絶えずこのような経験をしていれば、現実の生活において神と離れ難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものでなくなっても、叱責を受けて後悔を覚えられるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ると言うことがあれば、あなたは恐れ、神と離れるくらいなら死んだほうがましだと言うだろう。そうした感情を抱くとすぐ、あなたは神から離れられないと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」より引用

448. 多くの人々が、実践について多少は話すことができるし、個人的な感想を述べることもできるが、その大部分は他人の言葉から得た明察である。そこには自分自身の個人的な実践からもたらされたものも、自分の体験から知ったことも一切含まれていない。わたしはこの問題を詳しく吟味したことがある。わたしが何も知らないなどと思わないことだ。あなたはただの張子の虎に過ぎないのに、サタンに打ち勝つこと、勝利の証しをすること、そして神の似姿を生きることを語るのか。まったく馬鹿げた話だ。今日神が語っている言葉がすべて、ただ聞いて感心するためだけのものだと思っているのか。あなたの口は古い自分を捨て去り真理を実践することを語っているが、あなたの手はそれと違うことをしており、あなたの心は他のことを企んでいる。あなたは一体どういう人間なのか。なぜあなたの心と手は一致していないのか。非常に多くの説教がただの空虚な言葉になってしまっているのは、何と心が痛むことか。あなたが神の言葉を実践に移せないなら、それはあなたがまだ聖霊の働き方に入っておらず、まだあなたの中で聖霊が働いておらず、またあなたが聖霊の導きを得ていない証拠である。神の言葉を理解することはできるが、それを実行に移すことはできないと言うなら、あなたは真理を愛さない人間なのだ。神はそのような人間を救うために来るのではない。イエスは途方もない苦痛を受けて十字架にかけられ、罪人を救い、貧しい者を救い、あらゆる卑しい者を救った。イエスの磔刑は罪のいけにえの役割を果たしたのだ。神の言葉を実践できないのなら、できるだけ早く立ち去りなさい。居候として神の家に長居してはならない。多くの人々は明らかに神に背くことだとわかっていることさえ、やめるのに困難を感じている。彼らは死を招いているのではないだろうか。どうして彼らが神の国に入ることを語れようか。ずうずうしくも神の顔を見る度胸があるのか。神が与えてくれる食物を食べながら神に背く曲がったことを行い、神が授けた祝福を享受させてもらっていながら、悪意を持ち、陰険になり、陰謀を企てている。そうした祝福を受けとるとき、自分の手が焼かれるように感じないのか。顔が赤くなるのを感じないのか。神に反することを行い、「自分勝手に物事を行う」という企みを成し遂げた今、あなたは恐れを感じていないのか。何も感じないのなら、どうして未来など語ることができようか。あなたにはもうずっと前から未来などなかったのに、これ以上どんな大きな期待を抱いていられるのか。恥知らずなことを言っても何の咎めも感じず、心に何の認識もないのなら、それはあなたがすでに神に見捨てられていることを意味するのではないか。気ままに何の自制心もなく話し行動することが本性となっているあなたが、どうして神に完全にされることができようか。あなたは世の中をやすやすと歩いて行けるだろうか。誰があなたに説得されるだろうか。あなたの本性を知る者は、あなたと距離を置くだろう。それは神の罰ではないか。いずれにせよ、話ばかりで行動が伴わないのなら、決して成長はない。あなたが話しているときは聖霊があなたの上に働いているかもしれないが、実践しないなら聖霊はその働きをやめるだろう。あなたがこれからもそのままなら、どうして未来のことや、自分の全存在を神の働きに捧げることなど語れようか。あなたは自分の全存在を捧げることを語れるだけで、神に真の愛を捧げていない。神があなたから受け取るものは言葉の献身だけであり、真理を実践しようという意図ではない。これがあなたの実際の霊的背丈なのだろうか。あなたがこれからもそのままなら、いつ神に完全にされるのか。あなたは自分の暗く陰鬱な未来に不安を感じないのか。神があなたへの望みを捨てたのを感じないのか。神がより多くの新たな人々を完全にしようとしていることを知らないのか。古いものがそのまま持ち堪えられるだろうか。あなたは今日、神の言葉に注意を払っていない。それで明日を待っているのか。

『言葉は肉において現れる』の「救いを得る人は真理を進んで実践する人である」より引用

449. 人間に対する神の要求は、それほど高度なものではない。多少の努力をすれば、「及第点」を取れるだろう。実際、真理を理解し、知り、把握することは、真理を実践することよりも複雑である。真理を知り把握することは、真理を実践した後に可能になる。それが聖霊の働く手順であり、方法なのだ。どうしてそれに従えないことがあろうか。自分のやり方で物事を行って、聖霊の働きを得られるのか。聖霊はあなたの都合で働くのか、それとも神の言葉に照らしたあなたの欠陥に基づいて働くのか。このことをはっきり理解できないなら意味がない。なぜほとんどの人は、多大な労力を費やして神の言葉を読んでいながら、その後にもただ認識を得るだけで、現実の道について何も言うことができないのだろうか。認識を得れば、そのまま真理を得ることになると思っているのか。それは混乱した見方ではないか。あなたは砂浜の砂粒ほど膨大な数の認識を語ることができるが、そのどれにも現実の道は含まれていない。あなたはその話で人々を欺こうとしているのではないか。ただ空虚な見栄を張っているだけで、その裏付けとなる実質は何もないのではないか。そのような行為はすべて人々に有害だ。理論が高尚で現実性が欠如していればいるほど、人々を現実に導くことはできなくなり、理論が高尚であればあるほど、あなたは神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱うのはやめなさい。そうした理論は悪質であり、何の役にも立たない。一部の人々は最も高尚な理論を語れるかもしれないが、そこには何の現実も含まれていない。彼らはそれを自分で経験しておらず、そのため実践の道を一切持っていないからだ。そのような人は他者を正しい道に導くことができず、道に迷わせるだけだ。それは人々にとって有害ではないか。あなたは最低限として、人々の現在の問題を解決し、彼らに入りを成し遂げさせることができなければならない。それだけが献身と見なされるのであり、そうして初めてあなたは神のために働く資格を得ることになる。尊大で非現実的な言葉ばかり語ったり、多くの不適切な実践で人々を縛って自分に従わせたりしてはならない。そのようにしても何の効果もなく、彼らをますます困惑させるだけだ。そのようにしていると、数多くの教義が生み出され、それが原因で人々はあなたを嫌悪するようになるだろう。これは人間の欠点であり、極めて恥ずかしいことだ。だから、もっと実際に存在する問題について語りなさい。他人の経験を自分自身の財産として扱ったり、それを他人に見せびらかしたりしてはならない。一人一人が自分自身の解決策を探し出さねばならないのだ。それが、各人が実践するべきことなのである。

『言葉は肉において現れる』の「もっと現実に集中しなさい」より引用

450. 神の信仰において、人の最大の欠点は、言葉でしか信じないことであり、日常生活に神が完全に不在であることである。実際、人はみな神の存在を信じるが、神は日常生活の一部になっていない。人は口で神に多くの祈りを捧げるが、心に神の居場所はほとんどないので、神は何度も人を試す。人は不純であるため、人がこうした試練の中で恥ずかしく思い、自己を知ることができるように、神は人を試すしかない。そうでなければ、人類は大天使の子孫に姿を変え、ますます堕落するであろう。神の信仰の過程では、神の絶え間ない浄化の下で、人はそれぞれの個人的な意図や目的の多くを捨て去る。そうでなければ、神は誰かを使うことも、神が為すべき働きを人において為すこともない。神はまず人を清め、この過程を通して、人は自身を知るようになり、神が人を変えることがある。そうしてはじめて、神はそのいのちを人に注ぎ入れ、そうすることでのみ、人の心は完全に神に向けられる。だから、神を信じることは人が言うほど単純ではないとわたしは言うのである。神の視点からは、あなたに認識はあっても神の言葉をいのちとしていなければ、そして自分の認識だけに制限され、真理を実践することも神の言葉を生きることもできないなら、それはやはりあなたに神を愛する心がないことの証明であり、あなたの心が神のものではないことを示している。人は神を信じることで神を知ることができる。これが最終的な目標であり、人が追求するべき目標である。あなたの実践において神の言葉が実を結ぶように、神の言葉を生きる努力をしなければならない。教義的な認識しかなければ、あなたの神の信仰は無駄になる。あなたが神の言葉を実践し、神の言葉を生きる場合にのみ、信仰は完全で、神の心意に一致するとみなされる。この道では、多くの認識を語ることができる人は多いが、彼らが死ぬ時、その目は涙で溢れ、人生を無駄にし、高齢まで無用に生きたことを恨む。彼らは単に教義を理解しているだけで、真理を実践することも、神に証しをすることもできない。代わりに、あちこちをハチのように忙しく駆け回るだけで、死の寸前でようやく真の証しがないこと、神を全く知らないことを悟る。これでは手遅れではないか。なぜ今を生き、愛する真理を追い求めないのか。なぜ明日まで待つのか。人生において真理を求めて苦しむことも、真理を手に入れようとすることもないなら、今際の際に後悔したいということではないのか。もしそうなら、なぜ神を信じるのか。実際、ほんのわずかな努力をすれば、真理を実践し、それによって神を満足させることができる事柄は多くある。人の心が悪魔に取りつかれているからこそ、神のために行動することはできず、肉のために絶えず駆け回り、最終的に達成するものは何もない。このため、人は常に苦しみや困難に悩まされる。これはサタンによる責め苦ではないのか。これは肉の堕落ではないのか。あなたは調子のよいことを言って神をだまそうとするべきではない。むしろ、具体的な行動を取らなければならない。自分を欺くな。それに何の意味があるのか。自分の肉のために生き、利益と名声を得るために奮闘することで何を得ることができるのか。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じるなら真理のために生きるべきである」より引用

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