本性の問題解消と真理の実践

1.人間性と真理実践能力との関係

真理の実践は極めて困難だと言われている。それならば、真理を実践出来る者が居るのは何故だろうか。その理由は、そうした者が聖霊の業をもって生まれ、そうした者の中でそれが作用しており、またそうした者が本来的に善良だからだと言う者も居る。こうした見解には、一定の論理性がある。生来善良な者が居て、そうした者は真理を実践出来る。人間性が弱い者も居り、そうした者はそれゆえに真理の実践が困難である。つまり、そうした者はある程度の困難に遭遇する。あなたがたは、真理を実践しない者は嘗て真理を追求したことが無いと言うであろうか。そうした者が真理を追求したことが無いことは、確実である。そうした者に「自分に都合が良いから、これでいい。」という独りよがりな考えが浮かぶ。結局、その者は自分の観念に従って行動する。そうした者は真理を追求しない。なぜなら、その者の心には誤った部分があり、不正だからである。そうした者は、神の御前で求めず、検討せず、祈らず、頑なに自分の願望に従って行動するだけである。こうした者は、全く真理を好まない。そうした者には真理への愛が無いが、一定の物事については原理に従い、それに反する事無く行うというが、原理に反することが無いというのは、その者が神を求める意志があるということではない。それは単なる偶然であるとしか言えない。追求することなく、困惑してやみくもに物事を行い、その後の結果を自分で検討する者も居る。そうした行動が真理と相容れないと知ると、そうした者は次回はその行動を避ける。そうした状況は、真理に対する愛がある程度あると考えられる。そうした者はある程度変化することが出来る。真理に対する愛の無い者は、そうした場合に真理を求めることも、その後自分を検証することもない。そうした者は、最終的に行動が正しかったか、誤っていたかを厳密に検証することが一切無いので、常に原則と真理に反する。原則に反しない行動を執った場合であっても、それは真理と相容れず、そうしたいわゆる原則違反の不在は、方法の問題でしかない。それでは、そうした者が自分の希望に従って行動した場合、その者はどのような状態にあるだろうか。そうした者は、漠然と困惑して行動してはいない。最終分析において、それは真理に則しているであろうか。そうした者は、自分が置かれた状況が真理に則していないことを知るであろう。むしろ、そうした者は頑なにそうした方法で行動し、そうした方法を採ると心に決め、真理を求める意向は全く無い。そうした者が真に神の旨を求め、しかし神の旨を事前に完全理解できなかったならば、そうした者は、まずある方法を採り、それが真理に則していれば、その方法を続けるが、それが真理に則していなければ、それを急いで正し、それ以後そのような行動を執らない、といった行動方針を検討する場合がある。このような方法で真理を求めることが出来る場合、そうした者は将来変化することが出来る。そうした意向が無いならば、そうした者は変化できないであろう。心ある者が行動方針に従う際に過ちを犯すのは、1回限り、多くても2回まで、つまり1回ないし2回であり、3回あるいは4回ではない。これが正常な理知である。そうした者が同じ過ちを3回ないし4回繰り返すならば、それはそうした者が真理に対する愛を全く備えておらず、真理を追求していないことを示している。そのような者が人間的な者でないことは確実である。1回ないし2回で心に反応が無く、良心が騒ぎ出さないならば、そうした者は3回、4回と同じことをする。そうした者が変化できないことは明らかであり、そうした者は、そうした完全に絶望的な人間であるというだけである。1回行動して、それは何かおかしいと感じ、大いに自己嫌悪して心に罪を感じた場合、そうした者は、次回その行動を執る時に、少し控えめとなり、その後そうした状況は次第に起こらなくなるであろう。そうした者は、心の中で望んだとしても、それを行動に移さないであろう。これが変化の一側面である。おそらく、あなたがたは「自分では状況を変えられない」と言うであろう。変えられないであろうか。それは、あなたがたが変化を望まないからである。あなたがたは、真理を実践することを望むならば、変化できないであろうか。そのような事を言う者は、意志が弱い。そうした者はすべて、卑しむべき恥知らずである。そうした者は苦難を受けることを望まない。そうした者は真理の実践を望まず、真理は自分を変化させられないと言う。そうした者は極めて不正直ではなかろうか。真理を実践出来ないのは、そうした者であり、そうした者の人間性には欠陥があるが、そうした者は自分の本性を決して知ることがない。しかし、そうした者は神の業が人間を完全に出来るかどうかをあらゆる面で疑っている。そうした者には、決して自分の心を神に捧げる意向は無く、苦難を受ける意図もない、と言える。そうした者が変化しないのは、自分が将来幸運に恵まれる、僅かな望みのためでしかない。そうした者は、人間性の欠如した者と呼ばれる。そうした者が人間的であるならば、聖霊がそうした者に対して強く作用しておらず、そうした者が真理を僅かしか理解していない時でも、誤った行動を執ることが出来るであろうか。人間的な者は、聖霊がその者に作用しているかどうかを問わず、誤った行動を執ることが出来ない。非人間的な者は聖霊がそうした者に作用している場合、一定の善行を行うことが出来る。そうした者に聖霊が作用していない場合は、そうした者の本性が暴露される。誰が常に聖霊が作用している状態にあることが出来ようか。信者以外の者で、人間性が善良な者も居るが、そうした者もまた聖霊が自分に作用していないが、特に邪な行動を執らない。あなたがたは、神を信じるならば、どうして邪な行動を執ることが出来ようか。それは、あなたがたの本性の問題を証明するものである。そうした者に聖霊が作用していない場合は、そうした者の本性が暴露される。そうした者に聖霊が業を行っている時、聖霊はそうした者を激励し、人間に啓きと光を授け、みなぎる力を与えるので、人間が善行を行って居る時、それは人間の良い本性の問題ではない。このように、人間の行動のなかで、誤った行為を行う者が多数居り、その時に人間の本性が現れる。

2.自分の本性の問題解決における数件の原則を定めること

自分の本性の問題を解決するには、どうすればよいだろうか。まず、自分の本性を知り、また神の言葉と旨を知る必要がある。そうした後に、誤った行動を最大限に回避し、真理に則した行動のみを執るようにするには、どうすればよいだろうか。変化させることを望むならば、このことを熟考する必要がある。あなたがたの欠陥のある本性に関しては、その本性がどのような堕落により構成されているか、その本性がどのような作用を及ぼし得るか、それを律するためには、どのような方策を適用し、実施できるか、といった問題が極めて重要である。そうした問題を精査し、またそれにも格段に増して、闇の時 (目上の者から交わりを受けた直後を除く。すなわちその後10日以上経過した後) に、どうすればこの問題を解決できるか、どうすれば自分の本分を適切に尽くせるか、どうすれば正しい道へ進むことができるかを精査し、自分で原則を定める必要がある。これは個人の意志と、そうした者が神を求めるか如何により異なる。林則徐は短気であった。林則徐は、自分の弱みに基づき、自室に「己の気性を律せよ。」と記した。これは人間による方法であるが、実に有効である。人間は、それぞれ独自の原則に従うので、あなたがたも自分の本性に関して原則を定める必要がある。こうした原則は必須であり、原則の不在は問題外である。その原則は、自分が神を信じる際の標語でもあり、行動規範でもある必要がある。

人間の本性の問題解決は、肉を捨て去ることから始まる。肉を捨て去る際にも、原則が必要となる。人間は困惑した状態で肉を捨て去ることが出来るだろうか。暫くすると、肉に負ける時が来るであろう。兄弟の中には、美女を見て行動を中断する者も居る。そうした場合、あなたがたは自分の標語を定める必要がある。美女が現れた時、あなたがたは何が出来るであろうか。立ち去るべきであろうか、そうでなければ何が出来るであろうか。美女があなたがたの手を握った時、どうすべきであろうか。原則がなければ、そうした状況において、あなたがたは躓くであろう。あなたがたは、金や富を見ると欲が出る場合、その問題にどう対処できるだろうか。この問題を具体的に探求し、解決するよう入念に実践すれば、徐々に肉を捨て去ることが出来るようになるであろう。極めて重要な原則もある。それは、行動する前に、よく考えること、神の前で検討することである。それに加えて、毎晩自分の状況を検討する必要がある。それはひとつの原則である。どの行動が真理に則していたか、度の行動が原則に反していたかなど、自分の行動を徹底的に検証する必要がある。この2点は最も重要である。ひとつは行動時に自分を検証することであり、もう一つは自分で事後検証することである。第3の原則は、真理を実践するとは何を指すか、原則に基づいて物事に対処するとは何を指すかを完全に理解することである。これらの物事について十分に理解した後、物事を正しく取り扱うことが出来るであろう。これら3つの原則を遵守することにより、あなたがたは自分を制することが出来るようになるであろう。あなたがたの本性は、自然と現れることも、再浮上することも不可能である。それもまた、人間の本性の取り扱いにおける基本原則である。そのような原則を遵守することにより、自分に対して聖霊が業を行っていない時や、目上の者から交わりを受けずに暫く経過した後であっても、向上するために相応に努力することにより、あなたがたが依然として自分を常態に保つことが出来るならば、あなたがたは真理を大切にする者であり、肉を捨てる者である。取り扱いや剪定、真理の交流において常に目上の者に頼る者は奴隷であり、決して前進することも成長することも出来ない。自らの取り扱いや剪定、あるいは交流する者無しで一定期間経過した後、原則無しで物事を行う者は意図的に行動し、自分を律することが出来なくなり、意のままに行動するであろう。そうした者は神を安心させることが出来るであろうか。ゆえに、自分の本性の問題を解決するためには、この3つの原則を遵守する必要がある。そうすれば、深刻な違反から自分の身を守ることが出来るようになるであろう。