質問 9:恵みの時代に神は受肉なさり、人類のための罪祭となり、人々の罪を贖ってくださいました。終わりの日に神は再び受肉し、真理を表し、人を完全に清め救うために裁きの働きを行っておられます。ではなぜ神は人類を救う働きを行うために二度受肉する必要があるのですか。そして二度の神の受肉の真の意義は何ですか。

回答

どうして神様は人類の救いの働きに二度も受肉されるのか?まず大事な点ですが、人類の救いについて、二度の受肉には深い意味があるんです。なぜなら人類の救いの働きは、それが贖いであろうと、終わりの日における人類の裁きや清めであろうと、人には行えないことだからです。神様ご自身が受肉して、行わなければなりません。恵みの時代に、神様は主イエスとして受肉され、聖霊が聖らかで罪のない肉体を身に纏い、人々の罪を贖うため、罪の捧げものとして、十字架に磔にされました。これは誰もが知っています。しかし、主イエスは終わりの日に、なぜ人の子として受肉して、再臨なさったんでしょうか?ここが分かりにくいんです。もし全能神が真理を説明されておらず、奥義を解き明かされなかったら、誰もこの真理を理解できないでしょう。では、全能神がどう言われたか見てみましょう。

全能神は言われます。「最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。律法の時代が終わりを迎えて恵みの時代に入った際、神は救いの働きを始めた。それは、神が人間の不従順を裁いて罰し、人類を完全に清める終わりの日まで続く。その時初めて、神は救いの働きを完結させ、安息に入る。よって、三段階の働きのうち、神が受肉して自ら人のあいだで働きを行なったのは二回だけである。それは、働きの三段階のうち一段階だけが人の生活を導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない。第二の受肉は人の罪を一掃し、人を完全に清めるのに十分である。よって、第二の受肉とともに、肉における神の働き全体が終わりを迎え、神の受肉の意義が完成される。その後、肉における神の働きは完全に終了する。第二の受肉の後、神は自身の働きのために三度肉となることはない。神の経営全体がすでに終わっているからである。終わりの日の受肉は、神の選ばれた人を完全に自身のものとし、終わりの日の人類は残らず種類に応じて分類されている。神はもはや救いの働きを行なわず、またいかなる働きであっても、それを実行すべく肉に戻ることもない」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)

イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)

全能神の御言葉を読めば分かるとおり。恵みの時代に受肉された神様は、贖いをなさっただけでした。十字架を罪への捧げものとすることで、人々を彼らの罪から贖われ、律法の呪いと非難から解放したにすぎません。私たちは罪を告白し、悔い改めれば赦されました。あとは、神様のすばらしい恵みと真理を享受すればよかったんです。これが主イエスの行われた贖いであり、信仰によって救われるということの意味です。主イエスに罪を赦されましたが、まだ罪の束縛から逃れてはいません。人間には、罪深いサタン的な性質がいまだにあるからです。私たちは犯した罪を主イエスに告白し、主から罪の赦しをいただきました。しかし、人は自らの罪深い性質を知りません。罪よりもっと深刻なことに、堕落の自覚すらありません。人間は律法に反する罪と自身の良心が咎める罪は認めることができますが。神様への反抗という重大な罪は見逃してしまっているんです。例えば、神様への反抗の根源は何か。サタン的な性質がどのように生まれたのか。それがどのように形を成していくのか。生まれつきの性質にどんなサタンの毒があるのか。サタン的な思想や理論や規則が、どこから出てくるのか。こうした邪悪なものの認識が、なぜ人にはないんでしょう?人類の犯した罪が主イエスによって赦されたのなら、なぜ罪の束縛から抜け出せないんでしょうか?なぜ罪を繰り返すんでしょう?一度罪を赦されたら、その人は清いままでしょうか?本当に尊いんでしょうか?これは恵みの時代に誰も理解しなかった問題です。信仰によって罪を赦されても、無意識に罪を犯し神様を拒み、裏切っていることがあります。これは誰にでも心当たりがあるはずです。例えば、主を信じるようになっても嘘をついたり、自惚れたり、真理を嫌ったり、悪に味方したり、傲慢で不誠実で、利己的で、貪欲なままです。サタンの堕落した性質に捕らわれているんです。多くの信者が主に尽くすのも、天国に入りたいからにすぎません。主の恵みを受ける時、人々は満足して、熱心に信仰します。しかし苦難に直面したり、家庭に不幸があったとたん、主を誤解したり、非難したり、否定したり、裏切ったりします。神様の働きが自分の観念に合わないと、あの偽善的なパリサイ人のように振る舞い、神様を拒み、非難します。皆さんにも、そんな経験はありませんか?これらは何を意味するんでしょうか。これはたとえ私たちが、主イエスの救いを受け入れて、罪を赦されたとしても、罪が取り除かれて今や清められたわけではないことを示しています。ましてや神様のものとされたわけではありません。ですから、終わりの日に主が再臨して裁きをされる時、宗教者たちの多くが、神様を裁き、非難して、冒涜し、公然と敵対して再び十字架にかけるでしょう。このように神様に反抗する人々が、罪が赦されたからといって天国に引き上げられるでしょうか?神様を拒む邪悪な勢力が天国に入れますか?真理を嫌う反キリストが天国に引き上げられるでしょうか?私たちは、たとえ信仰によって罪を赦されても、罪深さやサタンの影響を取り除けてはいないんです。ましてや神様のものとされてなどいません。ですから、もし人間が罪を取り除いて清められ、神様のものとされたいなら、神様の二度目の受肉の働きによってくまなく清められ、救われねばなりません。

私たちは救いの働きを単純に考えすぎなんです。罪が赦されたとたん問題がなくなるなんて。あとは天国に引き上げられるだけなんて、堕落した人間の何とも子供じみた考えです。人間のバカげた思い込みと想像にすぎません。堕落した人類には、罪だけが問題だったでしょうか?罪の根っこにある部分は何でしょう?そもそも罪とは何でしょう?神様が嫌うわけは?今日まで正しい理解を示した人はいません。サタンによる人の堕落とはどの程度のものなんでしょうか。誰も明言しません。主イエスが十字架にかけられた時、人間の堕落の深さが浮き彫りになりました。多くの真理を表された、憐れみ深い主イエスを磔にするとは、まさに人がサタンの末裔に成り下がってしまった証し。サタンと同類です。人間性そのものを失い、もはや良心や理知のかけらも残っていません。正常な人間性はどこでしょう?神様に対する、反抗と敵意は、人間が神様と和解できないところまで来た証拠ではないですか?罪を赦されることで解決するでしょうか?罪を赦されれば、神様にもう反抗や敵対をしないと、誰が保証できるでしょう?誰も保証はできません。罪は赦されたとしても、神様に抗う人の本性は赦されるでしょうか?神様はサタン的な性質を赦されるでしょうか?では、サタンに属するものを神様はどう解決されるか?言うまでもなく、裁きと刑罰によって解決されます。神様による裁きと刑罰がなくしては、人は神様に勝ち取ってもらえません。深い悔恨を感じることもないでしょう。これこそ神様が裁きの働きのため、受肉されねばならない理由です。終わりの日に、裁きの働きのために受肉された神様について、多くの人々が、疑問視したり、観念をもったりしています。それは人々が自らの完全な堕落に気づいていないからです。だから誰も、終わりの日の神様の裁きについて、理解してはいません。自分たちの思い込みに固執し、真の道を求めもしないんです。それでは、神様の働きにも従えません。

二度にわたる神様の受肉の意義深さは、とても推し量れません。なぜ神様が二度受肉されたのか、そこにどんな理由と意味があるのかについて、全能神の御言葉を数節読みましょう。全能神はこうおっしゃっています。「受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する」(「神の宿る肉の本質」『言葉は肉において現れる』)

受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。『神が肉となっても、神は完全に神であり、まったく人間ではない』と言うのは瀆神行為である。なぜなら、このような発言はまったく存在せず、受肉の原理に反しているからである」(「神の宿る肉の本質」『言葉は肉において現れる』)

神がどの時代にどこで受肉しようと、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することができず、ましてや肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことは不可能である。そうでなければ、神の受肉の意義は消えてなくなり、肉となったことばもまったく無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使いさえもそれを知らない。このように、神の肉における働きはますます普通のことであり、ことばがまさに肉となったことを申し分なく証明することができる。そして肉とは、平凡で普通の人を意味する」(「受肉の奥義(1)」『言葉は肉において現れる』)

受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、他の誰でもなく、受肉した神の肉だけが、つまりこの普通の人間性だけが、神の働きを示せるのだ。……キリストが普通の人間性をもっていることは、キリストが肉の体をもつ受肉した神であることを示している。キリストが普通の人間としての成長過程を過ごすことは、キリストが普通の人間であることをさらに証明するものだ。そのうえ、キリストの働きは、キリストが神の言葉であり、神の霊であり、それが肉となったことの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが『言葉は肉となる』、『言葉は肉において現れる』ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである」(「神の宿る肉の本質」『言葉は肉において現れる』)

なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする」(「神の宿る肉の本質」『言葉は肉において現れる』)

全能神は受肉の意義を明らかにし、奥義を解かれました。御言葉を読んでみると分かりますが、受肉とは神様の霊が肉体を身に纏い、神様の働きを行うために普通の人になることです。受肉した神様は普通の人間性を持ち、その中で働き、語らねばなりません。奇跡を行われる時でさえ、普通の人間としてなさいます。神様の受肉は見た目は普通で、普通の人間のように働かれます。もし、普通の人間性を持たず、普通の人間として働かないなら、神様の受肉ではありません。受肉とは神様の霊が肉体に宿ることです。普通の人間性を持って真理を説き、神様の働きで人を贖い救われます。これが受肉の意義なんです。二度の受肉の意義はもう分かりましたか?それは、おもに神様の二度の受肉が受肉の意義を完成させ、言葉が肉に表れるという働きをなし、人類を救う経営計画が成就したということです。これが神様の二度の受肉の意義です。もうお分かりですね。神様の最初の受肉は贖いの働きをするためでした。それは終わりの日の裁きの下準備だったんです。ですから、一度目の受肉だけでは、受肉の意義は完成しませんでした。二度目の受肉の目的は、終わりの日に裁きの働きを行い、人類をサタンの性質とその邪悪な影響から解放すること、サタンの魔の手から完全に救い出し、人類を神様の元に取り戻し、勝ち取ることです。終わりの日のキリスト・全能神は人類を清め救うために真理を表し、肉における神様の働きを完成させ、肉において現れるべきものはすべて、表されました。肉に現れる言葉をこうして完成されたんです。御言葉をもう少し読みましょうか。全能神は言われます。「神は言葉によって全宇宙を征服する。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事を為していないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げるだろう。地上への言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである」(「千年神の国は訪れた」『言葉は肉において現れる』)。「この段階の働きはまさに『言葉が受肉した』という表現の内なる意味を実現し、『言は神と共にあった。言は神であった』という表現に一層深い意味を添えたのであり、『初めに言があった』という言葉を堅く信じさせるものである。つまり、神は創造の時に言葉をもっており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分だった。そして最後の時代、神は自身の言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにする。すなわち、神のすべての言葉を聞けるようにするのだ。それが最後の時代の働きである。あなたはこうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知るという問題ではなく、肉と言葉をいかに理解するかという問題なのだ。これがあなたの行なわねばならない証しであり、すべての人が知らなければいけないことである。それは二度目の受肉の働きであり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、神の肉におけるすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ」(「実践(4)」『言葉は肉において現れる』)。神様の二度の受肉は受肉された神様の仕事を完了させ、人類の完全なる救いを成し遂げます。ですから、神様の受肉はこれが最後です。三度目、四度目の受肉は決してありません。神様の肉による働きが、完了しているからです。それゆえ二度の受肉は意義を完成させるというんです。

神様は二度の受肉で、その意義を完成されます。終わりの日の神様の働きを経験していない人々には理解しにくいでしょう。恵みの時代の贖いを経験した人々は、主イエスが神様の受肉だと知っています。ただ一握りの人しか、その働きが贖いだけだと理解していません。肉に現れる言葉の働きはしていないんです。主イエスは受肉された神様による人類の救いの真理を完全には表されなかったんです。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。主イエスは人の子として、肉となり戻られました。終わりの日のキリスト・全能神です。いま神の家から裁きを始められ、人類を救うための真理を表しておられます。それがこの本に書かれているんです。受肉された神様は全宇宙にその存在を知らしめ、御言葉を宣言されています。人類を救う経営計画を示し、神様の御心と、神様が人類に求めること、そして人類の終着点を表されるんです。

全能神がどう説明されているか読みましょう。「創世以来、神がすべての人類に話しかけたのはこれが初めてだと言っても過言ではない。神がかくも詳細に、またかくも系統立てて、被造物である人類に話したことはかつてなかった。もちろん、全人類にこれほど多くのことを、かくも長きにわたって話したのもこれが初めてである。それはまったく前例のないことなのである。そのうえ、これらの言葉は人類のあいだで神が発した初めての文章であり、神はその中で人々を暴き、導き、裁き、心を通わせて語っている。それはまた、神が人々に自身の足跡、横たわる場所、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の考え、そして人類に対する神の懸念を知らしめる最初の発言でもある。これらは、創世以来神が第三の天から人類に語りかけた最初の発言であり、神が本来の身分を使って言葉の中に現われ、心の声を人類に表現した最初の例だと言える」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「序論」)

それは、わたしがこの世に人類の最後をもたらし、その時から、わたしの性質をすべて人類の前にあらわにするからである。そうして、わたしを知る人みな、そしてわたしを知らない人もみな、その目を喜ばせ、確かにわたしが人間の世界に、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これがわたしの計画であり、人類の創造以来の唯一のわたしの告白である。あなたがたは、わたしの一挙一動を集中して見守るように。わたしの杖が再び人類に向けて、わたしに敵対する者すべてに向けて迫りつつあるからである」(「終着点のために十分な善行を積みなさい」『言葉は肉において現れる』)

神様の二度の受肉がその意義を完成させることについて、理解できない人もいます。経験がないので、聞いても分からないんです。では、二度の受肉でなされた働きを詳しく学びましょう。最初の受肉で神様が贖いの働きをされ、数々の奇跡を起こされたことは、皆さんご存じですね?5千人を養いました。嵐を鎮めました。ラザロの復活ね。荒野で40日間の断食もされました。水の上を歩かれたりもしました。また奇跡を行われたり、山上で変容されたりしたので、人から見れば、主イエスは受肉されていてもなお、超常的な要素があったわけです。普通の人とは違い、奇跡がついて回りました。また、主イエスが行われたのは贖いの段階だけ贖いの真理を説かれただけです。示されたのは神様の憐れみと愛でした。裁きと救いの真理はすべてを表されていません。神様の義にして聖なる犯しがたい性質は明かされませんでした。ですから、一度目の受肉によってその意義が果たされたとは言えません。全能神は言われています。「イエスが行なった働きの段階は、『言は神と共にあった』という言葉の内容を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である」(「実践(4)」『言葉は肉において現れる』)終わりの日の受肉は、一度目の受肉とはわけが違うんです。二度目の受肉の時は、神様は奇跡を行われず、超常的ではありません。外見では、普通の人と何ら変わりなく、実践的かつ現実的に人々に語られます。真理を表し、人を裁き、清め、完全にするためです。全能神は神様の経営計画を明かされ、神様の義であり、聖なる性質や神様の存在そのもの、その御心、そして人間への要求を示されているんです。同時に、神様を拒む人間のサタンの堕落した性質を裁いて暴かれます。それによって人々を選別し、勝ち取ったり完成させたり、排除したりするんです。終わりの日に神様が人に明かす真理はすべて、肉にある普通の人間性にて表されます。超常的ではありません。見た目は普通の人が御言葉を話し、働きを行います。しかし、キリストの御言葉はすべてが真理であり、権威と力を持ち、人間を清め、救えるんです。堕落した人間の性質を裁いて、暴く、キリストの御言葉からどのようにして、神様が人の心を見抜き、本質を理解されるかがうかがい知れます。また神様の義にして、聖なる犯しがたい性質も理解できます。人間に対するキリストの戒めと勧告からは、神様の憐れみと配慮を感じ取ることができます。キリストが語り、働きかける多くの方法から、神様の全能性、そして知恵が分かります。さらに心から人類を救おうするご意志と、人類に対する真の愛と救いが分かるはずです。またキリストが人や物事を扱う様子を見れば、神様の喜び、そして怒り、悲しみ、楽しみはすべて肯定的なものの現実であって、キリストの御言葉と働きから、神様がいかに偉大な権威をお持ちか、いかに謙虚かを知り。私たちは神様の性質と真の御顔をうかがい知ることができるでしょう。それによって私たちは真理を求め、神様を敬い、心から愛し、従うようになります。これが二度目の受肉における、神様の御言葉と働きがもたらす効果なんです。二度目の受肉の御言葉と働きは人間が神様の受肉を見られるだけでなく、御言葉が肉において現れることも示しています。その御言葉はすべてを成し遂げます。何の変哲もない肉こそが真理の霊の化身なんです。受肉した神様こそ、真理であり、道であり、命です。唯一の真の神の出現です。受肉の意義の完成は全能神の出現と働きがあってこそです。

では皆さん、もう少し御言葉を読んでみましょう。それで真理の理解がより明確になります。全能神は言われます。「この段階の働きはまさに『言葉が受肉した』という表現の内なる意味を実現し、『言は神と共にあった。言は神であった』という表現に一層深い意味を添えたのであり、『初めに言があった』という言葉を堅く信じさせるものである」(「実践(4)」『言葉は肉において現れる』)。「神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、『言葉が肉において現れる』ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。』このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである」(「すべては神の言葉が達成する」『言葉は肉において現れる』)

神様の二度の受肉がどのようにその意義を完成させるのか。理解していただけたはずです。皆さんももうお分かりですね。人類の救いは神様の受肉の働きによって成し遂げられるんです。主イエスは贖いの働きをされたのみ、表された真理は限られていました。ですから、それを体験しただけでは、私たちの認識も微々たるものです。全能神は終わりの日の裁きを行いに来られ、人間の堕落に対する神様の義なる裁きの真理を表されました。これにより人間は神様の性質を知り、その義にして聖なる本質に触れられます。すなわち、終わりの日の受肉によって肉の働きはすべて完了したということです。肉において表されるべき真理はすべて表されました。言葉は肉において現れました。こうして神様の二度の受肉によって、その意義は完成されたんです。神様の受肉は二度あってこそ完結するものです。ゆえに神様は一度しか受肉されないことも、三度四度と受肉を繰り返されることもありません。なぜなら、二度の受肉によって、神様の救いの働きが完成しているからです。人類を救う真理のすべては、神様の受肉によって、すでに表されました。ですから、二度の受肉によって、受肉の意義は完成されたと言えます。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

前へ: 質問 8:神はモーセを使って律法の時代の働きを行なわれました。ではなぜ神は終わりの日に人々を使って裁きの働きを行なわれないのですか。神自らそれを行うべく受肉する必要が本当にあるのですか。受肉した神と神が使う人々の本質的な違いは何ですか。

次へ: 質問 10:聖書には、主イエスがキリストであり、神の子であるとはっきり書いてあります。主を信じる者はすべて主イエスはキリストであり、神の子であることを信じています。けれど、あなたがたは受肉したキリストが神の顕現であり、キリストは神自身であると証を立てています。では、受肉したキリストは本当に神の子なのですか。それとも神自身なのですか。

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