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全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

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Ⅰ 人を救うための神の働きの3つの段階についての代表的な言葉

(Ⅲ) 神の国の時代の神の働きについての代表的な言葉-世の終わり

イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

終わりの日に受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、主として言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、光に照らし、啓発し、人間の心にある漠然の神のいるところを除くために来た。これはイエスが来た段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を示した。イエスは癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの業を行なった。その結果、人間は、これが神のあるべき姿だと考えた。イエスが来た時、主は漠然の神の姿を人間の心から除くことはしなかった。イエスが来た時、十字架につけられた。癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働き、地上のあらゆる場所での動き、そして人々の間でするまことに真実で普通の働きは、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然の神の居場所を取り除く。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、全ての人々を公に裁き、そして神を心から愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。…もし、人の終わりが終わりの日に明らかにされるとき、神は依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛しており、人を義なる裁きにさらさず、人に寛容、忍耐、赦しを示すのなら、もし人がどんなに深刻な罪を犯しても、神が義なる裁きをせず依然として人を赦すなら、一体神の経営の全てに終わりはあるだろうか。このような性質はいつ人類を正しい終着点に導くことができるだろうか。例えば、いつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それなら彼はいつ正しい判決にたどり着くことができるのだろうか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて来ることができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を開き、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、言葉が肉において現れた神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにしてきた。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間がいかにして入るべきなのかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがみな成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを知る。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神がこの時代に実行した働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の性質の実体と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的概念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことであった。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならなかった。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

「言葉」という語は単純でありふれたのものだが、肉となった神の口から出る言葉は、天と地とを揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして人間に語り、救ってくれる。これより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、与えられる。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、さらに言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間の救いのため、神の意志の実現、そして古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導かれ、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせるだろう。そのときはじめて、全体の経営(救いの)計画が完了する。神の国の時代を通じて神は言葉を用いて働き、仕事を成し遂げる。神は不思議を行ったり奇跡を演じたりはしない。神はただ言葉によって業を行う

神は主に言葉を話すために地上に来た。あなたが関りをもつのは神の言葉である。あなたが見るのは神の言葉である。あなたが聞くのは神の言葉である。あなたが従うのは神の言葉である。あなたが経験するのは神の言葉である。そしてこの肉となった神は、人を完全にするのに、主として言葉を用いる。神は、しるしや奇跡を示したりしない、そして特に、イエスが過去において行ったような働きは行わない。彼もイエスも神であるが、共に肉でもある。彼とイエスの役割は同一ではない。…今日、肉となった神は、どのような働きを成し遂げるだろうか。今日、神は主として、「肉に現われる言葉」の働きを完成するために、人を完全にすることに言葉を用いるために、そして人が言葉によって取り扱われさらに言葉によって洗練されるように、肉になった。神の言葉の中にあって、あなたは神によって、備えを獲得し、いのちを獲得する。神の言葉の中で、あなたは神の働きと行いを見る。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

したがって、終わりの日に、神が肉になるとき、神はすべてを成し遂げるために、すべてを明らかにするために、主として言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、彼が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。神は主な役割として、この働きをするために、神の力と優越性を人が自身の言葉の中に見られるように、なぜ神が身を低くして自身を隠すのかを人が自身の言葉の中に見られるように、そして神が完全であることを人が自身の言葉の中に知ることができるように、来たからである。神が持っているものや神であるものすべてが、神の言葉の中にあり、神の知恵や素晴らしさは神の言葉の中にある。この中にあなたは、神が言葉を話す多くの方法を見ることができるようになる。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

終わりの日の神は、人を完全にするのに、主として言葉を用いる。神は、人を厳しく支配したり人を確信させたりするのに、しるしや奇跡を用いない。これは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや奇跡を示すだけならば、神の真実性を明らかにすることは不可能だろう。したがって、人を完全にすることも不可能だろう。神は、しるしや奇跡によって人を完全にせず、人を潤し導くのに言葉を用いる。そしてその後で人は、完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや奇跡を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の備えであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

言葉の働きで最も需要なのは、人々が真実を理解した後、真実を実践し、自分自身および神の御働きについての知識を獲得するようにさせることである。話すことを通して働く手段のみが神と人の関係を明らかにすることができ、言葉のみが真実を説明することができる。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発することは別として、その他の手段では真実や神の御働きをより明確に人に理解させることはできない。そこで神は御働きの最終段階で人に話しかけ、人が理解しないすべての真実や神秘を人に隠さず話して、彼らが神から本当の方法と人生を得て、神の御心を満足させることができるようにする。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

この時代に、神はほんとうにあなたたちの間で、すべての人が言葉を生かし出すようにする。真理を実践することができるようにし、心から神を愛する。すべての人が言葉を基礎、事実として、神に対して敬虔な心を持つであること。そして、神の言葉を実践することによって、人間は神と共に統治できる。神が成し遂げるのは、この働きだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神は言葉を用いて人をコントロールする。神の言葉を飲み食いすると、よい心持ちになる。もしそうしなければ、従う道がない。神の言葉は人間の食物になり、人を突き動かす力となる。聖書には、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とある。これが、今日神が成し遂げるであろう神の行う業である。神はこの事実をあなたたちの内に実現してくれる。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの範囲内で行われた。異邦人の諸国ではどのようなものであれ、神は時代を開始する働きを行わなかった。神の働きの最終段階は異邦人の諸国の人々の間で行われるだけでなく、なおさら呪われた人々の間で行われる。この点はサタンに屈辱を確実に与え得る証拠である。こうして、神は全宇宙の万物の神に「なり」、すべてのものの主、命あるすべてのものにとって崇拝の対象になる。

『言葉は肉において現れる』の「神は万物の主である」より

わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

世の終わりの間、赤い大きな竜の国の異邦人の中で神は受肉している。神はすべての創造物の神としての神の働きを完了している。神は救いの働き全体を完成しており、赤い大きな竜の国での神の働きの中心部分を終了する。

『言葉は肉において現れる』の「神は万物の主である」より

終わりの日に、わたしの名は異邦人の間で広められ、わたしの業は異邦人によって知られることとなり、彼らはわたしを、全能の神と呼ぶであろう。その結果わたしの言葉が速やかに実現されるだろう。わたしは全ての人々に、わたしが、イスラエル人の神であるだけではなく、全ての異邦人の神でもあり、わたしが呪った民族の神でさえもあることを、知らしめる。わたしは、全ての人々に、わたしが全ての被造物の神であることを分からせる。これが、わたしにとって最大の仕事であり、終わりの日のためのわたしの行動計画の目的であり、終りの日に達成されるべき働きのすべてである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」より

その過程における業は勝利者たちを生み出す。神がその勝利者たちを創った後、彼らは神の業を証しできるようになり、現実をその通りに生きることができるようになり、本当に神を満足させ、死に至るまで神に忠実でいることができ、このようにして神は栄光を受ける。

『言葉は肉において現れる』の「「千年神の国は訪れた」についての短い話」より

悪を罰し、善を賞するという彼の最後の仕事は、ひたすら全人類を完全に浄化するために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息の中に導き入れることができる。彼のこの段階の仕事は彼の最も重要な仕事であり、彼の管理の仕事全体の最後の段階である。もし神が不道徳者たちを全部滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域中に導き入れることができない。このような仕事では完全に終わりにすることはできない。彼が彼の仕事を終える時、全人類は完全に神聖である。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神によって得られたこのような人々が最後の安息へと入るのである。懲らしめや裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉·二十六番目の言葉」より

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